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チャッチャカ チャッチャカ

本因坊八世伯元は、現在の幸手市天神島生まれです。

その郷里にある天神神社力石をお見せします。
ここには戦国時代、一色氏の天神島城という砦があったそうです。

説明板です。
4天神社
埼玉県幸手市天神島279・天神島天神神社

全部で3個ありますが、保存がね~。トホホな状態なんですよ。

葉っぱの下にゴロッ。

台石に乗せてあるのがせめてもの救い。

こうしておけば知らない人が見ても、
「これは何か特別な石らしいぞ」と思っていただけるから。

1天神社

その後、斎藤氏がもう一つ発見。

軒下にチラッ

これはもう、風前の灯火ですね。

3天神社

「ワカイシュウオトキといって、飲食を共にしたり、力だめしといって、
天神神社の境内にある大きな石(力石)を持ち上げて、
誰が一番力があるか競争し合って遊んだりした」

という回顧談が「幸手市史」に載っていますが、
力石もだんだん、こうした記録の中にしか残せなくなってきたのかも。

でもまあ、嘆いていても楽しくないし。
というわけで、気分を変えてこんなものをご紹介します。

錦絵に描かれた相撲取りの切手です。

img20200828_07561191 (2)

白いところはすでに使用した跡。2枚使いました。

で、なんで切手なんか出したかというと、

この中に「特別な人」がいるからなんです。

img20200828_07561191 (3)

中央の相撲取りではなく、
右端の柱に背を預けた黒い羽織の男にご注目。

ちなみにこの絵は「横綱土俵入之図」で、中央は「秀ノ山雷五郎」。

幸手市郷土資料館によると
江戸時代後期に幸手市から、今の相撲協会の理事長にあたる「雷権太夫(いかづち ごんだゆう)」が二人も出たとか。

一人は惣新田村の秋間家から出た六代目、
もう一人は六代目の甥で、下吉羽村の金子家から出た本名・粂蔵の七代目。

この黒い羽織の男こそがその七代目雷権太夫で、この役職に13年も君臨した。

七代目が故郷で打った相撲興行がまた凄い。

興行場所は七代目ゆかりの権現堂村若宮権現社

神社修復費の捻出のためひと肌脱いだそうですが、
相撲力士400人、行司30人というド派手な勧進相撲だったとか。

これは幸手市にある「力くらべの絵馬」です。
img20200828_08231290 (2)
幸手市教育委員会所蔵

七代目雷権太夫も粂蔵青年だったころは、
こんなふうに、故郷の神社で力石や米俵を持ち上げていたはず。

でも残念ながら、そうした力石は発見されず、
この絵馬もこの人と関係があるのかさえわかりません。

七代目が大興行を打った権現堂村は、
渡良瀬川水系と古利根川分流が合流する地点で、
古くから河岸場があったところ。

人も物資も江戸との行き来が盛んだったそうですから、
二人の雷権太夫も、この河岸場から江戸へ向かったのかも。

この河岸場で女船頭をしていた女性の歌が残されています。

「権現堂川船唄」です。女船頭さん自身が歌っています。


こういう時代があったんですねぇ。

でも女船頭さんたち、

〽 ハアー アー エー 

と元気いっぱいだけど、私はというと、

雷権太夫と力石とが結びつかないし、
「間宮左門」銘の力石と「間宮察元」のつながりが見えてこないし。

おまけに、囲碁だの相撲だのと未知の世界に迷い込んで、

〽 フアー ハーハー ヘーロヘロですわ。

でも、自分で蒔いたタネですからね、ここはひとつ、女船頭になったつもりで

〽 ハー チャッチャカ チャッチャカ 
   ヤバセテ ノッテコイ
と。

その調子で、もひとつおまけに見せちゃいましょう。

七代目・雷権太夫ゆかりの権現堂村に残る力石です。

神社権現堂大日
埼玉県幸手市権現堂232・大日堂(大日神社)

乗りかかった舟ですものね、

元気を出して、キーコキーコと行きますか。


※参考文献/「埼玉の力石」高島愼助 岩田書院 2007
     /四日市大学論集第26巻第2号「埼玉県の力石(3)」
      高島愼助 斎藤保夫 2014
     /「幸手市史・民俗編」幸手市教育委員会 1997
     /「幸手町の絵馬」幸手町教育委員会 1983
※協力/幸手市郷土資料館

      
       ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(8・29)
「愛媛県今治市波方町・波方公民館」


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天才少年たち

本因坊九世察元の師は、同じ幸手市出身の八世伯元

その伯元が28歳という若さで没したため、門人の察元が家督を継いだ。

八世伯元の生家・尾崎家の墓所です。
1伯元
埼玉県幸手市天神島

こういう天才少年たちは、どんなきっかけで碁の世界に入ったのだろうか。

囲碁の四家のうちの一つ、林家十一世の林元美(げんび)は、
著書「爛柯堂棋話」2に、自身の入門についてこう記しています。

11歳にて(郷里水戸より父に伴われて)出府。
本因坊十世烈元の弟子となり…」 ※父親は水戸藩士。

烈元の弟子になる前の数え年9歳で、
近くの寺僧に碁を学んだというのですから早熟です。

今、世間の注目を浴びている将棋界の藤井聡太氏を彷彿させます。

藤井棋士も早くから将棋に目覚め、めきめき上達。
祖父はこの幼い孫に勝てなかったという。

2016年に14歳2か月でプロ入り。
タイトル獲得の最年少記録を次々更新中ですから、
これはもう、持って生まれた才能というほかはない。

前置きが長くなりました。

伯元は師の七世秀伯の早逝に伴い、わずか15歳で家督を相続。

10代で家元です。

しかし、その伯元も早逝。東京・本妙寺に葬られますが、
故郷の生家で墓石を建てたのは、なんと没後半世紀もたってから。

戒名は「妙法本因坊伯元日浄」

元3伯

伯元のあとを継いだ察元の、その後の快進撃がすさまじい。

将棋の大橋家からの
「本因坊ばかり筆頭にして特別扱いするのはおかしい」
という奉行所への訴えも政治力を駆使して難なく退け、

明和四年(1767)には名人、その3年後には碁所(ごどころ)に就いて、
幕府役人のますますの信頼を得た。

この碁所(ごどころ)について、
察元のあと本因坊家を継いだ十世烈元の時も、
将棋所(しょうぎどころ)になった大橋本家が、またも奉行所へ訴えます。

「碁家が碁所になったときは、時服二着・金二枚を拝領したのだから、
将棋家も将棋所になったら、同じような扱いをして欲しい」

でも、この願いは叶わなかった。

この碁所、将棋所というのは、
碁4家、将棋3家の上に立つ総取締役のことだそうですが、
この役職について、こんな記述があります。

「碁所、将棋所は仲間内で自称していたに過ぎず、
官職ではなかった」(増川宏一)

仲間内の役職とはいえ、その頂点に立つのだから名誉職に違いありません。

上から見た伯元の墓石。3人の戒名が刻まれています。
建立者は尾嵜(崎)兵藏。
2伯元

この「伯元墓石」の右肩に、「御碁所(おんごどころ)」と刻まれています。
でも、伯元は碁所になってはいないんです。

碁所にはなれなかったけれど、「墓石に刻んじゃえ」、
と思ったかどうか知りませんが、

「先祖に花を持たせてやりたい」

というご子孫の気持ち、わかるような気がします。

それにしても没後50年も経ってから墓を建立した子孫の兵蔵さん。

家の歴史を調べていて、「へえー、うちにこんな偉い人がいたんだ」と、
びっくりしたのかもしれませんね。

察元に戻ります。

3人もの本因坊が早逝して低迷していた本因坊家を、
一代で立て直した察元は、

その絶好調の時、
本因坊家恒例の京都・寂光寺へ、初代本因坊算砂の墓参に出かけます。

「贅をつくし、大名道中のようなことをやって莫大な浪費をしたが、
それは本因坊家の威勢を示し、格式を挙げることにつながった」とか。

思い切ったことをやりました。

初代算砂は京都・寂光寺の塔頭、「本因坊」に住んでいた日蓮宗の僧侶。

下の絵は、烏天狗と雷の対局図。江戸時代中期の戯画「邯鄲亦寝夢」

雷さん、碁に夢中で雷雨を降らせるのをすっかり忘れています。
「へそ」を賭けての勝負だったりして。

img20200824_17581168 (2)
「遊芸師の誕生」(増川宏一 平凡社 1987)よりお借りしました。

さて、その初代算砂、
家康にいたく気に入られたそうで、「爛柯堂棋話」にこんな記述があった。

「算砂は家康個人の伽を勤めるかたわら、
諸大名への隠し目付たる職分を果たすことになった」

あらま!

隠し目付けとは、密かに諸藩の大名を調べる隠密。

「彼の隠し目付としての際立った行動は、大阪(豊臣方)滅亡後の
元和元年から3年にかけての2年間。

加賀の尾山(金沢)に碁の指導に赴き、
前田家もそれ(隠し目付)を心得て、本行寺という寺を寄進した事実がある」

ふうむ。

そういえば、察元と同姓の間宮林蔵さん、
カラフト探検を成し遂げ、「間宮海峡」の名で知られる有名人ですが、

この人も幕府隠密だったとか。


※参考文献/「爛柯堂棋話・1」および「2」 -昔の碁打ちの物語ー
        林元美、林裕校注 1985、1989 東洋文庫
        /「碁打ち・将棋指しの江戸」-大橋家文書が明かす新事実ー
         増川宏一 平凡社 1998 

        
       ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(8・26)

「岐阜県高鷲町切立・山川宅」

追加(8・28)
師匠が私の句を載せてくださっています

思い出しますねぇ。ここへ行った時のこと。
暑くて暑くて。
駅員から「遠いよ」と言われたけれど、歩いていきました。
この日はそんな中を何カ所も回りました。

「兵庫県姫路市広畑区才・天満神社」


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賭博だった

碁や将棋といえば、
才能豊かな棋士たちの頭脳ゲーム、ということくらいしか知らなかった私。

幸手市の共同墓地に置かれた力石から、
本因坊察元なる人物を知って、慌ててにわか勉強です。

まず驚いたのが、これ。

「中世には碁、将棋だけでなく、連歌、茶、香すべてが賭博であった。

そして天皇を始め貴族、僧侶たちはその「懸け物」として、
砂金や刀剣、花瓶や帯などを賭けて勝負していた。

彼らは銭を賭けて遊ぶのは当然であって、
「決して下品なこと」とは考えていなかった」(増川宏一)

というのだから驚いた。

先ごろ賭けマージャンで話題になった元・検事さん、
生まれる時代を間違えちゃったのかも。

ま、考えてみれば人生すべからく「ばくち」かも、
なんて思っちゃったりして。

開催が危ぶまれる「東京五輪」も、イチカバチカの状態だし、
出場選手は勝負師のごとしだし。

この先、日本国がスッテンテンにならないことを祈るのみ。

img20200819_11143544 (4)

さて、盤上遊戯の代表格の碁と将棋は、
京都の上流階級や寺院から富裕商人などの町衆へと広がり、
やがてその中から遊戯の「上手」が出現。

江戸時代になると、「上手」の碁4家、将棋3家は、
遊芸師として京都から江戸へ移住させられ、

幕府から扶持をいただく「公務員」(御用達町人)
として遇されるようになったそうです。

ただし身分は、遊芸師の最高位にある能楽師よりずっと下。

お城で、
能楽師に出される料理の「三汁十一菜に茶菓子四品と後菓子五品」に対し、
碁打ち・将棋指しは、「二汁五菜にミカンと柿に濃茶」といった具合。
  ※ただし、これでも大変豪華なごちそうだったとか。

で、碁打ちたちは始終格上げを狙い、
「足にタコができて痛いので、夏も足袋をはかせてください」
などという願書きを毎年、管轄の寺社奉行に提出していたという。

ちなみに江戸時代は「賭博禁止」。

でもわが郷土の清水次郎長さんは正真正銘の博奕打ちだったし、
田舎のお寺には賭場として貸した隠し部屋が今も残っているし、
「寺銭」なんて言葉もあったしね。

もちろん、察元さんは賭博とは無縁です。

察元は宝暦四年(1754)、21歳で家督を継いで本因坊になった。

それから9年後の、
城へ上がるお目見えのために書いた氏素性の明細書きが残っている。

住所は代々の本因坊の拝領屋敷で、
本所二ツ目相生町弐丁目(現・東京都墨田区両国3丁目5-7)。

察元、このとき30歳。すでに父親の間宮又左衛門は死去していた。

本因坊になった察元の権勢を誇る振る舞いが、また凄い。
これは次回に。

img20200819_11143544 (5)

「遊芸師の誕生」「碁打ち・将棋指しの江戸」の著者・増川氏の、
以下の言葉は重い。

「中世の夥しい芸能史、生活史の研究が発表されているが、
碁・将棋の研究は皆無といえる状況である。

資料が乏しいというのが最大の理由ではあるが、
碁・将棋は趣味であって学問の対象にはならないという
暗黙の了解があったのであろうか。

それとも博奕と密接な下賤の芸とみなされていたのであろうか。
アカデミズムの狭さといえるかもしれない」

力石研究と一脈通じるものがありますが、

しかし、同じ「石」でも、力石はすでに人の手を離れた「石」。

職業として成り立ち、ますます隆盛を極める碁・将棋に比べて、
力石は完全に過去の「遊芸」になってしまい、
この先、再び人々の手に戻ることは難しい。

まさに学芸員さんたちが言う「マイナーなもの」でしかないのだが、

それでも後世に伝えていく意義がどこかにあるはずと、
私は信じているのです。


※参考文献/「遊芸師の誕生ー碁打ち・将棋指しの中世史」
         増川宏一 平凡社 1987
        /「碁打ち・将棋指しの江戸」増川宏一 平凡社 1998
/「徳川時代の囲碁界を知る―本因坊家と碁所旧記を読み解く」 
         秋田昇一 誠文堂新光社 2019


      ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(8・22)
「東京都台東区浅草・浅草寺③」

突然、師匠のブログ、更新が途絶えて音信不通に。
さては畑仕事中、背後からクマに襲われたか!
と思っていたら、
「パソコンの故障です」って。

どうやら復活したようで、一安心です。

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早朝散歩

 追記ーーー新たな散歩のつづきも読んでくださいね(末尾)ーーー

→→


ブログ「わがまま勝手な呟き」の麿さん、
早朝墓参りに出かけたら、散歩の人がぞろぞろ歩いていたとか。

連日の猛暑でウォーキングは諦めていたけれど、
そうか、その手があったかと早速、早朝散歩へ出かけました。

出掛ける前にバナナでちょっと腹ごしらえ。

万一を考えて腕に防犯ベルを着け、夜が白々明け始めた中を出発。

誰もいない交差点で、信号機だけが点滅を繰り返している。
ピカくん、ごくろうさま。

外は意外な涼しさです。

最初に出会ったのがこちら。アオサギ? ゴイサギ?

CIMG5287 (3)

川沿いの道から田んぼ道へ。
ゲゲゲ、ギギギ、ゲコゲコとあっちこっちからカエルの大合唱です。

久しぶりに、植木鉢おじさんに会いました。
おじさんも暑いと見えて、麦わら帽子をかぶっています。

律儀にマスクもつけています。
おじさんもアベノマスクは敬遠?(笑)

でも全身真っ赤。ゴム手袋はつらいよね。熱中症に気を付けてね。

CIMG5288 (2)

行くほどに散歩の人が増えてきました。

誰もいなければ恐いけど、たくさんいてもまた「怖い」。
さすがにマスク姿は皆無。

おじさんたちのほとんどは半ズボン姿。

稲の生育は順調のようです。
緑の向こうの赤いカンナが目に染みます。

CIMG5289 (2)

田んぼ沿いの小川に、小さな白い花が咲いていました。

ミズオオバコ?

CIMG5291.jpg

町はすでに朝日に照らされていますが、
ここは手前の山に阻まれて、まだお日さまの手が伸びていません。

そうだ。あのイチジクはどうなったのか見てこようと、急きょ別方向へ。

冬にはコブだらけの姿で、今にも怒りが爆発しそうでしたが、
今は若い枝を勢いよく伸ばして、これこの通り。

CIMG5293.jpg

偶然、職場の同僚の女性に出会いました。

野良着スタイルで軽トラに乗っています。
町育ちの美女さんですが、農家に嫁いで生き生きと働いています。

これから山の果樹園に行くのかな?
笑顔で手を振って見送りました。

CIMG5295.jpg

東の山際が明るくなってきました。

家路を急ぎます。

草むらにベンチが一つ。
いつもここに座っていた女性はもういない。

野良猫にこっそりエサをやって、それが増えて苦情が殺到。
今は天国で心置きなく猫たちと遊んでいるかも。

CIMG5298 (4)

久しぶりの散歩。1時間も。
でもいい汗かいて、気分爽快。

おまけにお腹ペコペコ。

朝食はもちろん大好物のうなぎです。
朝からうなぎで、スイマセン!

CIMG5301 (2)

ちょっと焦がしてしまいましたが、

シャワーを浴びつつ洗濯をして、エアコンの効いた部屋でうなぎ。

外を見れば、気温はうなぎのぼり!
この日、静岡県浜松市では39.2℃。聞いただけで卒倒しそうな気温です。

ふえ~。

早朝の涼風がまだ肌に残る中、
私は満腹とほどよい疲労感で、トロトロと夢の世界へ入っていきました。

ちなみにこの翌日の浜松市は40.9℃、その翌日の17日は41.1℃。
同じ日の静岡市は34℃。

この日私は、よんどころない用事があってお町へ。
街中を30分ほど歩いただけで心臓バクバク。

帰りのバスに乗ってヤレヤレと思ったら、
これがなんとエアコンが壊れていて、大きく開けた窓から熱風。

ふえ~!

ーーーーー散歩のつづき

早朝散歩、病みつきになりました。今朝も出かけました。

虫が鳴いています。
秋が近いのかな? 

ある場所に来ると思い出すのは、そこに住み着いていたヘビくんのこと。

某日、通りがかったおじさんが、「気味悪いものが、いやだねえ」と言うのへ、
「気味悪いけど、毎年姿を見ると今年も無事だったかとホッとします」
と言ったら、おじさん、「変な人」という顔で立ち去っていったっけ。

それから間もなく、ヘビは2度と姿を見せなくなった。

そんなこんなを思い出しながら帰宅。早速、朝食の準備です。

これは昨夜、漬け込んだイベリコ豚。醤油漬けのえごまを入れて。
CIMG5305 (2)

醤油漬けに使ったニンニクは、「浜松のうなぎニンニク」です。
大きいでしょう。これでひとかけらです。
国産うなぎの残滓を肥料にして育った低臭ニンニクです。

豚肉をフライパンで焼いたあと、万願寺とうがらしとエノキをいためて、
と思ったけれど、急きょ取りやめて、牛どんにした。

イベリコ豚も静岡産の駿河牛も切り落としで、
日没後の買い物だから3割引きで安かったのですよ。

CIMG5311 (2)
      
卵をかけてちょっと蒸し焼きにしました。

この卵は、富士山の麓で作った日本の伝統種「ごとうさくら」です。

ほんのり桜色の卵です。

CIMG5306 (2)

 
 「早朝の「お遍路」終えて牛どんを食う」  食うかい

ついでにちょっと甘いものを…。

バームクーヘンで有名な「治一郎」のロールケーキです。
昨日、お町へ出たついでに買ってきました。

これも本社は静岡県浜松市。

私はなるべく地元産を買っています。郷土愛にあふれておりますです。

「治一郎」は、
バームクーヘンはもちろん、焦がしバームも林檎パイも絶品ですが、
この日はロールケーキにしました。

ふんわり上品で、うーんもう、おいしくて言葉が出ない!

ネットの不正転売、気をつけて! 本物の「治一郎」HPを見てね。
CIMG5314 (3)

「餓鬼道に落ちた?」

なんて言わないでね。

食べれるうちが花ですもの。


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本因坊が三人も

市民ボランティアによる石造物調査で、本因坊察元の墓石が発見され、
続いて察元の師・伯元の墓も見つかりました。

この二人の墓石が発見されたのが平成15年。

その2年後、さらにもう一人の本因坊の墓も見つかって、
幸手市から八世,九世、十世と3人もの本因坊が出ていたという、
驚くべき事実が判明した。

徳川時代の本因坊は14人
そのうち3人が埼玉県の幸手という限られた地域から出たのですから、

凄い!としか言いようがない。

ちなみに我が静岡県では現在の伊豆市から1人。
この人は徳川時代最後の本因坊です。

下は、ボランティア団体のメンバーの方がまとめた調査報告書の冒頭です。

無題 (2)

この報告書から伯元と烈元を簡単にご紹介します。

本因坊八世伯元 享保十一年(1726)~宝暦四年(1754)

幸手宿天神島村(幸手市天神島)出身。尾崎家。父は元右衛門。27歳で没。

本因坊十世烈元 寛延三年(1750)~文化五年(1808)

幕府数寄屋組方組頭・山本氏の子で江戸生まれ

あれ? 幸手の生まれではないの?と思いましたが、
調査者によると、これにはこんなエピソードが…。

「察元と伯元の墓石発見を知った幸手市上吉羽の澤村家から、
当家に本人坊(本因坊)と刻まれた墓石があるとの連絡が入った。

寺の過去帳や古文書を調べたところ、 
烈元の出自は澤村家で、幸手市出身であることが証明されて、
十世烈元の墓石であることがわかった」

そこで市では、
この郷土の偉人たちを広く知っていただこうと新しく説明板を設置。

説明察元墓
埼玉県幸手市平須賀3018・共同墓地

マップも制作しました。

市の担当者とボランティア団体のこの連携は素晴らしいですね。
墓石は市の文化財になっています。

「幸手市・本因坊三代の墓石マップ」
 ※幸手市HPよりお借りしました。
  なお、郷土資料館の学芸員さんから、以下の伝言をいただきました。

 「この地図は、首都圏中央連絡自動車道の開通以前のものです。
 現在、察元の墓石付近はこの圏央道が通過し、
 道が変わっていますのでご注意ください」

IMG_7004.jpg
赤矢印が「圏央道」です。

で、この3人のほかにもう一人、
本因坊になるはずだった棋士がいたそうですから、
幸手の文化的水準の高さが偲ばれます。

さて、察元さんへ戻ります。

出発点となった「力石」と「本因坊上人之墓」のある共同墓地です。

墓地2察元

私の関心事はあくまでも「力石」ですから、
なんとかして間宮家とあの力石の関係にたどり着きたいのですが、

前途多難。

ですが、なんとか糸口を見つけたいがために、
察元さんの周囲を「嗅ぎまわって」おります。お許しあれ。

お墓ばかりお見せしていますが、お盆だから「よし」としてくださいね。

せめてこの写真で、少しでもなごんでいただけたら…。

2マスク


※参考文献・協力
  「幸手の偉人(本因坊三代)」
  ボランティア団体「幸手宿ガイドの会」メンバーの書上謹次氏による報告書。
  幸手市教育委員会。幸手市郷土資料館


   ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(8・14)
「東京都台東区浅草・浅草寺②」

    ーーー☆☆☆彡ーーー

ペルセウス座流星群、
駐車場の明かりが消えた13日午前3時、ようやく一つだけ見ました!

下弦の月の下を斜めにスーッ。
なんだか幸せな気分になりました。単純だけど、これでいいのだ!


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姿を現した本因坊察元

本因坊九世察元(さつげん)を輩出した間宮家は、
いつのころか絶えてしまったという。

菩提寺だった宝聖寺の墓石群も今は無縁仏になっていた。

増川宏一氏の著書「碁打ち・将棋指しの江戸」は、
碁家とともに幕府から扶持や拝領屋敷を与えられていた
将棋家の大橋家文書から、その実態を紹介・解説したものですが、

その中にこんなくだりがありました。

「幕府崩壊により家禄の支給がなくなった将棋三家は次第に衰退した。
明治14年に大橋分家が絶え、伊藤家は明治26年に、大橋本家は
明治43年に12代目が没して三家はすべて消滅した」

しかし、将棋家のように血縁に頼らなかった本因坊家は消滅しなかった。

「碁道中興の祖」といわれた察元の時代は隆盛を極め、
江戸・明治・大正・昭和とその権威は受け継がれ、
昭和13年にその名跡を日本棋院に譲渡。現在に至っているという。

しかし、本因坊家は存続したものの、生家の間宮家は消滅。
故郷ではすっかり忘れられた存在になっていた。

ところがその察元が、再び姿を現したというのですから、
面白いことになりました。

こちらは幸手市の石造物調査書・第6集です。
UNADJUSTEDNONRAW_thumb_1482c.jpg

平成15年、
この調査に携わっていた市民ボランティアが
平須賀の共同墓地で察元の墓石を発見

これです。

3察元
埼玉県幸手市平須賀3018・共同墓地。57×31×30㎝

「本因坊上人之墓」

墓石の両側面と裏面に刻まれた墓誌の内容です。

調査書察元墓
「幸手の石造物Ⅵ」より

この墓誌から、こんなことがわかりました。

「察元のは間宮又左衛門、は染谷氏。察元は二男で幼名は多四郎。
幸八という息子がいる。

察元は天明八年(1788)正月に没し、江戸巣鴨の本妙寺に葬られた。
しかし兄の又左衛門の願いから、
その7か月後にこの墓を建立した。撰文は川碕整儀」

察元が葬られた本妙寺には、
力石を墓石にしたおもちゃ博士・清水晴風も眠っています。

そしてこの共同墓地には、察元7回忌の年にあたる
寛政七年に奉納した「間宮左門」銘の力石があります。

「幸手の石造物」にも、ちゃんと載っています。
UNADJUSTEDNONRAW_thumb_1482a.jpg

「力石命」の私からすると、何かの因縁を感じます。

ともあれ、
埋もれた郷土の偉人を見出した石造物調査のボランティアさんたち、
あっぱれです。

しかし、
ボランティアさんたちの発見、実はこれだけではなかったのです。


※参考文献/「碁打ち・将棋指しの江戸」増川宏一 平凡社 1998
     /「幸手市文化遺産調査報告書第6集・幸手の石造物Ⅵ」
       ー八代地区・上高野地区・補遺資料ー
     幸手市教育委員会生涯学習課 平成22年
※協力/幸手市郷土資料館
   /ボランティア団体「幸手宿観光ガイドの会」
    
    
      ーーーーー◇ーーーーー
高島先生ブログ(8・12)
「東京都豊島区雑司ヶ谷・法明寺・鬼子母神」

「江戸名所図会」が出てきます。
その絵図をよく見ると、力石が描かれています。

それに最初に気づいたのは、高島先生なんです。
無言で、目を皿のようにして探しまくっていた姿を想像すると、
鬼気迫るようでもあり、可笑しくもあり…。


猛暑、お見舞い申し上げます。

私はへたばっておりますが、みなさまから元気をいただいて乗り切ります。


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力石、哀れ

酷暑のこの日、
斎藤氏は埼玉県幸手市の共同墓地で、衝撃的な光景を目にします。

これです。

1左門

なんと、墓地の焼却炉の脇に力石があるではありませんか。

よりによってこんなところに…

斎藤氏、焼却炉の狭い空間へ入り込んで、石の刻字に目を凝らしました。

左門3

「奉納 三十五貫目」の刻字がくっきり。

立派な力石です。ほかに置く場所はなかったのでしょうか。

ここは田んぼの一画にある共同墓地。

こんな感じ。

墓地察元
埼玉県幸手市平須賀3018

で、さらに力石に迫ると、こんな文字が…。

「奉納 三十五貫目 
寛政七乙卯年六月吉日 外郷内 間宮左門


今から225年も前の力石です。

「間宮左門」

名前もきちんと刻まれています。

石は「間宮左門」が持ち上げて自ら奉納したものか、
それとも世話人として奉納したものか、刻字からは判断できません。

「吉日」とあるからには、墓地へ奉納とは考えにくい。

菩提寺で力比べがあって奉納したのち、
お寺さんで邪魔くさくなって、ここへ運んだのか。

なんであれ、「左門」さんは特別の思いを込めて奉納したはずです。
それが225年たったら、焼却炉の隅で火炎に焼かれるはめになるとは、

ひどすぎません?

左門間宮

で、ここで気になったのは、石に刻まれた「間宮」という姓です。

なぜ気になったかというと、この共同墓地には、
囲碁の本因坊九世察元(さつげん)の墓といわれる墓石があって、
その人の姓が「間宮」だからなんです。

そして察元は、ここ「平須賀 外郷内」の生まれでもあるのです。

この察元と力石が繋がったら、凄ーい!ことになります。

私は囲碁の世界のことは全く知りません。
頼りの斎藤氏もサッパリだという。

でも「間宮石」の解明のために、走り出さずにはいられません。

この「間宮左門」なる力石は、本因坊察元と関係があるのだろうか。

この謎解きはまだ緒についたばかり。

わかっているのは、
間宮姓の力石と同じ間宮姓の察元の墓石が、
出生地の同じ場所にあるということだけ。

このをみなさまと一緒に追いかけていきたいと思っています。

情報をいただけたら、

また、ご子孫や縁者の方からご連絡いただけたらなお嬉しいです。

どうぞ、よろしくお願いいたします。


    ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(8・8)
「さいたま市岩槻区馬込・第六天神社」


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「チョウゲンボウ」第53号

金沢大学の一般社団法人「e教育サロン」から、

機関誌「チョウゲンボウ・第53号」(8・1)が送られてきました。

この機関誌は毎月一回発行で、
執筆者のほとんどは、医学・工学・理学の学者さんたちです。

そこへ名もない私の、これまた「石っころ」の記事ですから、
先生方は、さぞかし面食らったことと思います。

これは同大を卒業されて、現在高校で教鞭をとられている友人の
舟田節子先生が声をかけてくださって実現したものです。

主宰者の鈴木健之先生からのご厚意もあって、
ドキドキしながらも気持ちよく書かせていただきました。

3回もの掲載で、今回の53号は最終回。
内容はみなさまにはおなじみの「神田川徳蔵」です。

「チョウゲンボウ・第53号」

なお、この号でもコロナに関した興味深い記事が載っています。

金沢大学総合メディア基盤センターの森祥寛先生の、
「遠隔配信授業などの実施について」と題した現状レポート。

また、
「新型コロナウィルス(CoV)はどんなウィルスか! 生化学的見解」と題して、
京都学園大学(現・京都先端科学大学)名誉教授の
中村正彦先生が解説しています。

時代の最先端を行く、こうした先生方の論文の中に、
時代に置き去りにされた「力石」の記事ですから、そりゃもう嬉しさ全開

思いもしなかったことが起きるものですね。

下の写真は、「東海力石の会」のユニホーム姿の私です。
同会の主宰者・大江誉志氏からのプレゼントです。

このか弱い背中で「力石」を背負ってまいりました。なんちゃって!

CIMG3923_202008030342378c6.jpg

力石探索にはたくさんの困難があったけれど、

よき師・高島愼助先生、よき先輩・斎藤氏、
そして多くのよき情報提供者に恵まれて、

ただおもしろくて楽しくて、夢中で走ってきました。

そしたら、いつの間にか年を取って、資料もたまった。
でも、どんなことにも無駄はないことを実感。

若い方はもちろん、人間いくつになっても、

可能性は無限大だよ~!

と、声をかぎりに叫びたい。

この「チョウゲンボウ」掲載に際して、
流通経済大学の学長・野尻俊明先生から、嬉しい言葉を頂戴しました。

3個の力石を新校舎のエントランスに設置したあの大学です。

力石を介して、またブログを通じていろんな方とご縁ができました。

みなさまに感謝申し上げます。

      ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(8・4) 
「大阪府豊能郡豊能町高山・高札場」

キリシタン大名・高山右近の出生地にある力石です。

高槻城の城主・右近は、家康のキリシタン追放令で
フィリピンのマニラへ脱出するも、翌年その地で没してしまいます。

追放令などのお触れを出した高札場に力石とは、
なにか理由があるのか、それとも偶然?


 「梅雨去ってやれやかましや蝉しぐれ」  雨宮清子


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石探しのつれづれに

ーーーーー追記ーーーーー

コメントの「春日部市の東陽寺にも芭蕉と曽良の絵があります」に応えて、
斎藤氏が以前撮影した写真を提供してくれました。

東陽寺です。
1東陽寺

「曽良旅日記」の一節、「一、廿七日夜、カスカヘニ泊ル 江戸ヨリ九里余」と、
芭蕉の門人・森川許六が描いた芭蕉と曽良の道中姿の石碑です。

2東陽寺

「曽良旅日記」が発見され、昭和18年に出版されて、
芭蕉の「おくのほそ道」の記述から出た「草加第一泊説」は崩れた。

許六の絵です。「永文商店」の壁画と同じです。

3東陽寺

楽しんでいただけたでしょうか。

関連するコメントをいただいたお陰で、素敵な写真をお見せすることができました。

         
           ーーーーー◇ーーーーー

斎藤氏の登場、第2弾と行きますか。

今回の発見は力石ではありません。

懐かしさいっぱいの、ずっと残しておきたい、
そんな「酒屋」さんを見つけたお話です。

埼玉県幸手市の日光街道沿いを、
いつものポタリングで走っていた斎藤氏。

一軒のひなびた酒屋さんを見つけて、そのたたずまいに惹かれました。

酒屋さんの名は「永文商店」。

1イラスト酒屋

建物の側面に、「奥の細道」の芭蕉と曽良の道中姿が描かれています。

いつごろ描かれたものでしょうか。
大胆な発想ですね。

※ 先の「この壁画は美大出身の息子さんが描いた」
   というのは間違いでした。訂正します」と、
   親戚の方から緊急の連絡がありました。

   「風聞を信じてお知らせしたものの、もしやと思い調べ直したところ、
   この壁画はシャッターの絵とセットで、春日部市の
   「ビッグアート」という会社が手掛けたものとわかりました。
   申し訳ない」

   「この絵には芭蕉と曽良の句も書かれています。
   奥州旅行の4年後、深川芭蕉庵での連句の会で詠まれたものです」
   
  「幸手を行けば栗橋の奥」  蕉(芭蕉)
 
  「松杉をはさみ揃ゆる寺の門」  良(曽良)

  「句の寺の門とはこの先にある聖福寺の門を指すと言われており、
  同寺に句碑が建立されています」

とのことでした。訂正のお知らせ、ありがとうございました。
また、「ビッグアート」さま、お許しくださいね。

いずれにしても、 
酒屋さんの街道に寄せた熱い思いがひしひしと伝わってまいります。

自転車から降りて、思わず中へ。

いきなり目に入ったのは、レールのようなもの。

2酒屋

カメラを向けていたら、お店からおばさんが出てきた。
話が弾んで、幸手の力石に刻まれた「岩間商店」にも話が及んだ。

許可を得て、さらに奥へ進むと、なんとトロッコが…。

かつては造り酒屋さんだったのでしょうか。
 ※造り酒屋ではなかったそうです。これも親戚からの情報です。
   私の推測が外れました.

当時はたくさんの使用人を抱えていて、
酒の原料や酒樽の運搬に、トロッコは大活躍していたはず。

前垂れをかけた丁稚どんの元気な声が、建物の奥から聞こえてきそうです。

3トロッコ酒屋

そのかたわらにあったのが、カルピスの大きな琺瑯(ほうろう)看板。

「滋強 飲料」とあります。

4看板酒屋

芭蕉と曽良のイラストといい、トロッコに巨大な琺瑯看板といい、

斎藤氏、たちまち懐かしい遠い日々へタイムスリップ。

お店のおばさんの温かい心遣いに接した斎藤氏。
吸い込まれるように、そのまま店内へ。

5酒屋

店の奥には美しいガラス障子があって、その上に神棚と大きな柱時計。

使わなくなったミシンの上に並べた洋酒が、なんともほほえましい。

「5%還元」などというチラシも見えます。

斎藤氏、感激のあまり、

「奮発して、獺祭(だっさい)を買ってしまいました」

その晩は、今も生きていた古き良き時代との遭遇と上等のお酒に、
したたか酔いしれて、桃源郷をさまよったことでしょう。

下戸の私には決して味わえない世界でございます。グスン。


「永文商店」のトロッコは今も現役で、「横丁鉄道」というのだそうです。
  
「永文商店」

「獺祭 旭酒造」


      ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(8・1) 「愛媛県伊予市中山町⑤」

時代の波が去って、力石は人々から忘れられてしまいました。
伊予市中山町の力石も、今や互いに肩を寄せ合い風化を待つばかり。

 「力石春夏秋冬出番なく」  雨宮清子


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プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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