チャッチャカ チャッチャカ
消えた間宮一族
本因坊八世伯元は、現在の幸手市天神島生まれです。
その郷里にある天神神社の力石をお見せします。
ここには戦国時代、一色氏の天神島城という砦があったそうです。
説明板です。

埼玉県幸手市天神島279・天神島天神神社
全部で3個ありますが、保存がね~。トホホな状態なんですよ。
葉っぱの下にゴロッ。
台石に乗せてあるのがせめてもの救い。
こうしておけば知らない人が見ても、
「これは何か特別な石らしいぞ」と思っていただけるから。

その後、斎藤氏がもう一つ発見。
軒下にチラッ。
これはもう、風前の灯火ですね。

「ワカイシュウオトキといって、飲食を共にしたり、力だめしといって、
天神神社の境内にある大きな石(力石)を持ち上げて、
誰が一番力があるか競争し合って遊んだりした」
という回顧談が「幸手市史」に載っていますが、
力石もだんだん、こうした記録の中にしか残せなくなってきたのかも。
でもまあ、嘆いていても楽しくないし。
というわけで、気分を変えてこんなものをご紹介します。
錦絵に描かれた相撲取りの切手です。

白いところはすでに使用した跡。2枚使いました。
で、なんで切手なんか出したかというと、
この中に「特別な人」がいるからなんです。

中央の相撲取りではなく、
右端の柱に背を預けた黒い羽織の男にご注目。
ちなみにこの絵は「横綱土俵入之図」で、中央は「秀ノ山雷五郎」。
幸手市郷土資料館によると
江戸時代後期に幸手市から、今の相撲協会の理事長にあたる「雷権太夫(いかづち ごんだゆう)」が二人も出たとか。
一人は惣新田村の秋間家から出た六代目、
もう一人は六代目の甥で、下吉羽村の金子家から出た本名・粂蔵の七代目。
この黒い羽織の男こそがその七代目雷権太夫で、この役職に13年も君臨した。
七代目が故郷で打った相撲興行がまた凄い。
興行場所は七代目ゆかりの権現堂村の若宮権現社。
神社修復費の捻出のためひと肌脱いだそうですが、
相撲力士400人、行司30人というド派手な勧進相撲だったとか。
これは幸手市にある「力くらべの絵馬」です。

幸手市教育委員会所蔵
七代目雷権太夫も粂蔵青年だったころは、
こんなふうに、故郷の神社で力石や米俵を持ち上げていたはず。
でも残念ながら、そうした力石は発見されず、
この絵馬もこの人と関係があるのかさえわかりません。
七代目が大興行を打った権現堂村は、
渡良瀬川水系と古利根川分流が合流する地点で、
古くから河岸場があったところ。
人も物資も江戸との行き来が盛んだったそうですから、
二人の雷権太夫も、この河岸場から江戸へ向かったのかも。
この河岸場で女船頭をしていた女性の歌が残されています。
「権現堂川船唄」です。女船頭さん自身が歌っています。
こういう時代があったんですねぇ。
でも女船頭さんたち、
〽 ハアー アー エー
と元気いっぱいだけど、私はというと、
雷権太夫と力石とが結びつかないし、
「間宮左門」銘の力石と「間宮察元」のつながりが見えてこないし。
おまけに、囲碁だの相撲だのと未知の世界に迷い込んで、
〽 フアー ハーハー ヘーロヘロですわ。
でも、自分で蒔いたタネですからね、ここはひとつ、女船頭になったつもりで
〽 ハー チャッチャカ チャッチャカ
ヤバセテ ノッテコイと。
その調子で、もひとつおまけに見せちゃいましょう。
七代目・雷権太夫ゆかりの権現堂村に残る力石です。

埼玉県幸手市権現堂232・大日堂(大日神社)
乗りかかった舟ですものね、
元気を出して、キーコキーコと行きますか。
※参考文献/「埼玉の力石」高島愼助 岩田書院 2007
/四日市大学論集第26巻第2号「埼玉県の力石(3)」
高島愼助 斎藤保夫 2014
/「幸手市史・民俗編」幸手市教育委員会 1997
/「幸手町の絵馬」幸手町教育委員会 1983
※協力/幸手市郷土資料館
ーーーーー◇ーーーーー
高島先生ブログ(8・29)
「愛媛県今治市波方町・波方公民館」

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ここには戦国時代、一色氏の天神島城という砦があったそうです。
説明板です。

埼玉県幸手市天神島279・天神島天神神社
全部で3個ありますが、保存がね~。トホホな状態なんですよ。
葉っぱの下にゴロッ。
台石に乗せてあるのがせめてもの救い。
こうしておけば知らない人が見ても、
「これは何か特別な石らしいぞ」と思っていただけるから。

その後、斎藤氏がもう一つ発見。
軒下にチラッ。
これはもう、風前の灯火ですね。

「ワカイシュウオトキといって、飲食を共にしたり、力だめしといって、
天神神社の境内にある大きな石(力石)を持ち上げて、
誰が一番力があるか競争し合って遊んだりした」
という回顧談が「幸手市史」に載っていますが、
力石もだんだん、こうした記録の中にしか残せなくなってきたのかも。
でもまあ、嘆いていても楽しくないし。
というわけで、気分を変えてこんなものをご紹介します。
錦絵に描かれた相撲取りの切手です。

白いところはすでに使用した跡。2枚使いました。
で、なんで切手なんか出したかというと、
この中に「特別な人」がいるからなんです。

中央の相撲取りではなく、
右端の柱に背を預けた黒い羽織の男にご注目。
ちなみにこの絵は「横綱土俵入之図」で、中央は「秀ノ山雷五郎」。
幸手市郷土資料館によると
江戸時代後期に幸手市から、今の相撲協会の理事長にあたる「雷権太夫(いかづち ごんだゆう)」が二人も出たとか。
一人は惣新田村の秋間家から出た六代目、
もう一人は六代目の甥で、下吉羽村の金子家から出た本名・粂蔵の七代目。
この黒い羽織の男こそがその七代目雷権太夫で、この役職に13年も君臨した。
七代目が故郷で打った相撲興行がまた凄い。
興行場所は七代目ゆかりの権現堂村の若宮権現社。
神社修復費の捻出のためひと肌脱いだそうですが、
相撲力士400人、行司30人というド派手な勧進相撲だったとか。
これは幸手市にある「力くらべの絵馬」です。

幸手市教育委員会所蔵
七代目雷権太夫も粂蔵青年だったころは、
こんなふうに、故郷の神社で力石や米俵を持ち上げていたはず。
でも残念ながら、そうした力石は発見されず、
この絵馬もこの人と関係があるのかさえわかりません。
七代目が大興行を打った権現堂村は、
渡良瀬川水系と古利根川分流が合流する地点で、
古くから河岸場があったところ。
人も物資も江戸との行き来が盛んだったそうですから、
二人の雷権太夫も、この河岸場から江戸へ向かったのかも。
この河岸場で女船頭をしていた女性の歌が残されています。
「権現堂川船唄」です。女船頭さん自身が歌っています。
こういう時代があったんですねぇ。
でも女船頭さんたち、
〽 ハアー アー エー
と元気いっぱいだけど、私はというと、
雷権太夫と力石とが結びつかないし、
「間宮左門」銘の力石と「間宮察元」のつながりが見えてこないし。
おまけに、囲碁だの相撲だのと未知の世界に迷い込んで、
〽 フアー ハーハー ヘーロヘロですわ。
でも、自分で蒔いたタネですからね、ここはひとつ、女船頭になったつもりで
〽 ハー チャッチャカ チャッチャカ
ヤバセテ ノッテコイと。
その調子で、もひとつおまけに見せちゃいましょう。
七代目・雷権太夫ゆかりの権現堂村に残る力石です。

埼玉県幸手市権現堂232・大日堂(大日神社)
乗りかかった舟ですものね、
元気を出して、キーコキーコと行きますか。
※参考文献/「埼玉の力石」高島愼助 岩田書院 2007
/四日市大学論集第26巻第2号「埼玉県の力石(3)」
高島愼助 斎藤保夫 2014
/「幸手市史・民俗編」幸手市教育委員会 1997
/「幸手町の絵馬」幸手町教育委員会 1983
※協力/幸手市郷土資料館
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