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とうとう…

世間ばなし
02 /29 2020
とうとう静岡市にも出てしまいました。

クルーズ船の乗客だそうです。

県内にはクルーズ船からの下船者が28人もいるっていうし、
なんかもう、四方八方からジワジワって感じ。

江戸時代の「コロリ」騒動もかくや。

これ、春の芽吹き前のいちじく畑ですが、
不安におののいて縮こまっている今の日本の状況みたいに思えて…。

CIMG5124.jpg

実は、
10日ほど前に乗ったバスの運転手、マスクなしの状態で、
鼻水すすりながらゴホゴホ咳ばかりしていて、
バス停に止まるたびにペットボトルから水飲んで…。

健康な客の私がマスクして、
接客業の風邪引きの運転手がなんでマスク無しなんだよ!

この日に限って、私は運転手のまじかな席で30分も。

もしかしたら感染したか!とビクビクしているところへ、このニュース。

プライバシープライバシーとばかり言わないで、
せめて感染者の下船から今までの足取りと居住区など、
参考にできる情報が欲しいよなあ。

どこへ向けようもない怒りをため込んで、
私の心はこんなコブコブだらけにになっちゃって。

CIMG5130 (2)

安部首相が唐突に学校のいっせい休校を要請し、
学校はその通りに休校を決めたけど、
その学校と隣接する我が職場は、「通常通り開館」だと。

子育てグループは自主キャンセルするけれど、
中高齢者の趣味のサークルはなぜか勤勉にやってくる。

今までの嘔吐や救急車騒ぎはみんなこういう年齢なんだから、
体調がすぐれないときは自粛してくれればいいんだけど、

「なに、これくらい」とがんばるのか、来ちゃうんですよね。
一昨日は見るからに熱っぽい赤い顔の人がマスクして来ていたし。

本当は学校を休校するより、こうした不特定多数の大人が集まる
公共の生涯学習施設をまっさきに休館にするべきだと思うんですよ。

いちじくの木は春になると、このコブコブから新しい目を出して、
天に向かって枝を真っすぐ伸ばして、

やがて大きな葉をつけて、大きな実をつけるんだけど…。

今の私はこんな状態。

CIMG5127.jpg

それにしても何だよ、市長と保健所所長のあの会見は!

もうもう、怒りの爆発寸前だあー!


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乗り切らなくちゃ

お料理のページ
02 /26 2020
世界中がなんかすごいことになっちゃって。

お雛様もどこか表情が冴えません。

CIMG5153 (6)

「それ、手を洗え。しっかり洗えばウィルスが落ちる」っていうから、
ものぐさの私まで、強迫神経症みたいになって、今や完全なアライグマ状態。

で、一歩外へ出ればどこもかしこもマスクの群れ。

マスク嫌いな私も、もう体の一部になっちゃって…。
でもこれ、化粧はしなくて済むしシワ隠しになるし、意外な利点も。

「弥五郎」を書こうにもどうにも気合が入らないので、
本日はいただきものの甘夏で、ママレードを作ることにしました。

CIMG5160.jpg

せっせと皮を刻んで、実をほぐして、種も捨てずに取っといて。

その残骸がこちら。甘夏10個分です。

CIMG5159.jpg

大鍋で皮をグツグツ。

と、そこへピンポーン!

「交番でーす! 巡回でーす」と近くの交番のおまわりさん。
「今、ジャム作ってて手が離せませーん!」

「あっはは。ジャムかね。元気ならいいよ。あすこへまだ行ってるかね」

「あすこ」とは、私の職場のこと。
交番のおまわりさんたち、時々、会議かなにかで利用してるんですよ。

そのあいだも鍋はグツグツ。
CIMG5165.jpg

茹でては冷水につけてを繰り返して、ようやく皮を冷蔵庫へ。

冷蔵庫で寝かせている間に、お茶の時間です。

やれやれ。

CIMG5167.jpg

頭に浮かぶのはやっぱり新型コロナウィルスのこと。

クルーズ船の乗客を公共機関で帰しちゃったり、発熱した人の検査を拒んだり、
中国からの観光客を受け入れていたり、政府のやることは何だか変だよ。

「検査したら陽性の人が増えるから拒否している」
「オリンピックが中止になったら困るから」なんて声すら聞こえてくる。

ふと、3年前のノロウィルス騒ぎのときの役人の言葉が蘇ってきた。

「あなたはウィルスを見たんですか? 確認したんですか?」
「は?」
「はっきりしないうちは何もできません。わざわざそちらへは行きませんよ」

人が苦しんでるってのに…。

結局、やっかいなことは隠したい、なかったことにしたいだけなんだよね。

カナダ人になった亡き姉がよく言ってた。
「日本では沈黙は金だけど、こちらでは沈黙は禁なのよ」

誤魔化しでばかりいたら、いずれ辻褄が合わなくなって破綻する。

静岡県ではすでに相談窓口は24時間体制。
検査キットも3カ所の医療機関で実地。今後は20カ所に増やす。
疑わしい人はすべて検査をしているとか。

そうこなくちゃ。
だって物事、真正面から向き合わなければ何も解決しないもの。

静岡県は偉い!

静岡県庁の最上階から見た富士山です。富士山も偉い!
CIMG5138.jpg

さて、皮と実と種を入れて、今度はつきっきりで煮詰めます。

ここからが勝負。

出来上がったのがこちら。
CIMG5171.jpg

器を変えて大半は冷凍庫へ。

で、出来上がったママレードをさっそく試食。

ソフトせんべいの上にクリームチーズ、その上にママレードを乗せて。

パリッと噛んだ瞬間、せんべいの塩味と
クリームチーズのコクとママレードの甘酸っぱさが口中に広がって、

うーん、おいひ~。

CIMG5177 (3)


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もう一人いた稲毛の力持ち

斎藤ワールド
02 /22 2020
新型コロナウィルス、みなさまのところは大丈夫でしょうか。

当地ではまだ感染者はないものの、
大学の卒業式やイベントの中止が出始めました。

見えない敵だから、だれかが「コン」と咳をすればビクッ

過剰反応とわかっていてもやっぱり気になりますね。

でもここは落ち着いて、力石です。

武州橘樹郡には弥五郎のほかにもう一人、稲毛を名乗る力持ちがいました。

その名も「稲毛の平次郎」

こちらは「弥五郎」の足跡を示した地図です。

area_kanto (3)

ご覧のように、弥五郎の活動範囲は関東に集中しています。

一方、平次郎は反対に西へ向かっているんです。

稲毛平次郎=本名・新堀平次(治)郎(明治14年没)
         橘樹郡南加瀬字越路(川崎市幸区)出身。

下の写真は、
神奈川からはるか遠い九州・福岡県に残された平次郎の力石です。

有形民俗文化財になっています。
基台の石には世話人として、港関係者の屋号が20数名刻まれています。

福岡市中央区港・住吉神社
福岡県福岡市中央区港・住吉神社 41×82×37㎝

  「奉納 力石 江戸 稲毛平次郎 同 春吉
                加奈川權次郎 竹澤庄吉」


この石には、横浜出身の「神奈川權次郎」の名も出てきます。

神奈川(加奈川)權次郎=本名・内田(文政11年~大正4年)
 現在の横浜市都築区川向町出身。

權次郎は11個もの力石を残し、そのうち6個が文化財指定
慶応3年の「大阪力持番付」にも名を残した大物です。

平次郎はこの大物の一座に入って、興行に出かけたのでしょう。

各地には力持ちをひいきにする大店の旦那衆がいて、
江戸からの力持ちを招いて、
祭りを盛り上げることが盛んに行われていました。

同じ福岡市博多区の櫛田神社にも、この二人の力石があります。

こちらは「鬼熊」の名と共に刻まれた平次郎の「大亀石」です。
「嘉永五年」に持ち上げました。

鬼熊=熊治郎(明治18年没)
     神田鎌倉河岸の酒問屋「豊島屋本店」の奉公人。

幸区北加瀬・寿福寺1
神奈川県川崎市幸区北加瀬・寿福寺 110×80×20㎝

石の裏面には昭和49年当時のご住職の、
「力持平次郎」を讃える言葉が刻まれています。

また説明板には、

「石の材質は六ヵ村(ろっかそん)と言われ、
小松石、根府川石などの安山岩の総称。
江戸城築城のとき、相模国六ヵ村より採石したことに依る」

と書かれています。

矢向の弥五郎もこの「鬼熊」と併記した力石を残していて、
同郷の平次郎とは同じ時代に活躍していますが、
なぜかこの二人が交流した痕跡は見つかっておりません。

こちらは力石を使った平次郎の墓石です。
幸区北加瀬・寿福寺3
寿福寺

表に梵字で「楽誉明道信士」

楽しく明るく我が道を生きた誉れの人…。(我流の解釈です)

ちなみに、鬼熊の戒名は「勇猛院熊力信士」

ご子孫によると、
「大亀石と墓石にした石は、安政3年に川崎大師前の若宮神社で持ち上げ、
その記念に持ち帰ったもの」だそうです。

で、
「興行のあと、馬の背にお金をドッサリ付けて帰ってきた」とか。

お金をドッサリ。

これじゃあ力持ち、やめられません。


<つづく>


※参考文献・画像提供/「九州・沖縄の力石」高島愼助 岩田書院 2009
              /「神奈川の力石」高島愼助 岩田書院 2004

    =追記=

安田和弘氏のブログ「山の彼方に」に、衝撃的な記事が載っています。

300年昔の、いわれのある地蔵さまが首を切られ破壊された。
粗末に扱われている力石どころではない。
お顔のあるお姿をどうして。

痛ましすぎる。

※この地蔵様の一件について、工事などの関係者の方が
  ここに至った経緯を安田さんのブログに寄せています。
  市にも関係各方面にも地蔵様のことを相談されたようですが、
  解決できなかったそうです。

  地蔵様の「魂抜きをしてから解体した」そうですが、
  痛ましく思ったことは関係者も同様だったことがわかりホッとしました。

  でも誰にも引き取られることを拒まれた地蔵様は哀れ。
  こういう場合はどうしたらいいんでしょうか。
  
  いろんな問題を提起した記事だったと思います。
  

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ちょっと言いたくなりました

世間ばなし
02 /18 2020
「弥五郎」の途中ですが、
ちょっと言わせていただいていいでしょうか。

新型コロナウィルスの感染者があちこちに出てきて、騒然としていますが、
でも、政府や役人の対応に、
現場を見ない、どこかズレているような違和感を感じて…。

私は今、小学校の空き校舎を再利用した市の生涯学習施設で、
一日4時間、週2~3回の有償ボランティアをしています。

市の職員の常駐はなく、ボランティアのみの一人勤務です。
多いときで80人ほどの利用者を一人で見ています。

3年前、老人大学受講生の一人が突然嘔吐。
噴水のような嘔吐で、近くの人にも吐しゃ物がかかった。

老人大学の担当の一人は退職した女性の元校長で、
ノロウィルスを疑い、私がいる管理人室へ駈け込んできた。

でも管理人室には消毒液はおろかゴム手袋もゴミ袋もない。
慌てて施設管理者の市の役人に電話をすると、

「検査してノロウィルスと判明しない限り役所は動きません」

今、目の前に「患者」がいるというのに。

らちが明かず元・校長が代わって説明するも同じ回答です。
怒った先生、コンビニへ飛んでいき、自費でハイターほか買いこんできた。

患者は音楽室、トイレ、洗面所で吐き続け、3時間ほど和室で休んだあと、
迎えに来た家族に引き取られていった。

誰もいなくなった夕方、
私は先生から教わったハイターと水で作った消毒液で、
残りの座布団、椅子の消毒に孤軍奮闘です。

先生は施設のずさんさに呆れながら、自費で買った品物を全部寄付。

この先生が、
「感染してはいけないから」と、嘔吐現場から私を遠ざけてくれたため、
感染はしなかったものの、ものすごい危機感と恐怖を覚えて、

翌日、吐しゃ物対応のキットや消毒液などの常備をお願いするも、
役人はまったく聞く耳を持たず。

後日、他の利用者から、
近くの住宅地でノロウィルスが流行っていると聞き、暗たん。

翌年、人事異動で新しく着任した役人に改めて事情を話したら、
キットを一つだけ送ってきた。

でもその後も体調不良者が出たり、突然倒れて救急車を呼んだり。

中には、洗面台に吐しゃ物を残したまま黙って帰ってしまう人もいて、
一人勤務のため応援も頼めず、不安は募るばかり。

で、今月、
今年初めての会議に役人さんがでてきたので、改めて要求したら、

「キットは一つで十分でしょう。困ったら学校の保健の先生に頼んでください。
ぼくらに言われてもここまで車で40分もかかりますから」と。

無責任というか、軽く考えているのか、逃げなのか。

防護服キットは汚物処理の人と患者の介護者と最低二組は必要だし、
汚染された部屋の対応だって考えておくべきだし、他の人の避難もあるし。

危機に直面したことがないのか、あっても知らん顔しているのか、
管理人の一人が、役人に媚びるように私をせせら笑った。

この人は以前、「いやなら辞めれば」と暴言を吐いた。
こういう論点はずしが一番始末が悪いが、役人の受けはいい。

それから数日後、会議に同席していた女性の役人さんが、
申し訳なさそうに電話でこう言ってきた。

「キットはもう一つ、メール便で送ります。ただ、
あのとき保健の先生へ頼めと言いましたが、学校から断られました」

お役人は車で「40分もかかる」(本当は20~30分)の安全地帯にいて、
危険な処理は全部、身分保障のないボランティアにやらせる構図。

それにしてもここ数年、急に体調不良者が増えたのはなぜだろう。

先々週は腹痛をおこした利用者がトイレにこもった後、和室で寝込み、
4日前にはゲーゲー吐いている仲間の背中を、
同じサークルの人たちが心配そうにさすっていた。

壁には役人の手になる「嘔吐をしたら、管理人に申し出るように」の張り紙。

申し出られても何もできないよ。

「検査してノロウィルスと判明しない限り役所は動きません」

判明したときはもう、感染が拡大しているのになぁ。

今、新型コロナウィルスのニュースで聞く国のかじ取りたちの発言と、
市の役人の、他人事のような実のない対応が微妙に重なって、

私の中でモヤモヤしております。

長いグチになりました。お許しください。


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「稲毛」解決篇

斎藤ワールド
02 /15 2020
埼玉で見つかった弥五郎の「稲毛」刻字の力石。

その「稲毛探し」に捜査の鬼と化した?斎藤氏、
さまざまな資料を繰るうちに、
最願寺という寺の梵鐘に「稲毛」銘があるとの資料を見つけます。

しかもその最願寺は、
弥五郎の「豊遊石」がある日枝神社と同じ横浜市鶴見区矢向にあった。

記録によると、梵鐘は寶(宝)永七年(1710)銘で、
「橘樹(たちばな)郡稲毛庄矢向郷」と刻されているとのこと。

念には念を入れて、
文化文政期に編まれた地誌、「新編武蔵風土記稿」で再確認。

ここでめでたく、稲毛と矢向が結びつき、
「稲毛弥五郎」「矢向弥五郎」同一人物であることが判明した。

こちらは2010年に斎藤氏が新発見した「矢向」が入った「弥五郎」石です。

   「三光石 □蔵□し 杜氏 勇助 矢向弥五良 
                     □□□□ 同 市太良 小川清八」

中央区院内・千葉神社5
千葉市中央区院内1‐16‐1 千葉神社 79×51×39余㎝

そんなわけで、「稲毛問題」は無事解決の運びとなりました。

横浜近辺にお住いの方にしてみれば、
「稲毛も矢向も神奈川県だってのはアッタリメエじゃねぇか」
と笑われそうですが、

他県の人間には「アッタリメエ」ではないんですよね、これが。

この武蔵国橘樹郡には、
稲毛、川崎、神奈川、小机の4つの領があったとか。

稲毛領は多摩川と鶴見川の支流・矢上川にはさまれた地域で、
56ヵ村所属という橘樹郡内最大の行政区。

現在の川崎市多摩区、宮前区ほか、横浜市港北区、保土ヶ谷区、
鶴見区などがそれだそうです。

弥五郎の石には、「稲毛」「矢向」のほかに、「川崎」地名も出てきます。

なぜかというと、
もともと「稲毛領」だった「矢向村」、治水の関係で「川崎領になった」から。

下は今回の「武州稲毛」銘の石を描いた酒井正氏のスケッチです。

同じ場所を撮影した前々回の、
「へいへいさんの写真」とともにお楽しみください。

img20200126_20080838 (2)
埼玉県春日部市粕壁東・東八幡神社

   力石(いし)の背を色なき風の撫でゆけり   酒井一止


酒井氏は本名の「正」を「一」と「止」に分解して、それを俳号にしています。

同じ風でも師匠の高島先生のはこんな「風」。還暦の頃の句です。

   六十歳(むそとせ)に力石追う秋の風   三重之助


三重県在住なので、三重之助です。

年がら年中、
「トンボつり、今日はどこまで行ったやら」でしたから、

家庭はほったらかし

でも退官された今は苦労をかけた奥さまと二人で、
畑を耕し、果樹の手入れをするファーマーに変身。

昨年はお二人自慢の甘夏を送ってくださったんです。

CIMG4837 (2)


   甘夏を食べつつ力石(いし)のブログ書く   ちから姫


<つづく>


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稲毛ってどこよ?

斎藤ワールド
02 /12 2020
前回、卯之助研究の第一人者・高崎氏が、
一か所だけ読み間違えた

ということをお伝えしました

古文書でも、
どんなベテランも迷ったり間違えたりします。

それは決して恥ずべきことでないことを先輩たちから教わりました。

で、紙の文字でそうですから、
雨風や炎天で傷だらけの石の判読はさらに難しい。

それを次なる研究者が再調査して正す。
それが調査の醍醐味になっているのもまた事実です。

さて、読み間違えた一か所はどこかというと、

ここです。赤丸の中。
八幡ヘイヘイさん東 (2)

黄丸の中は武州武蔵国
今の埼玉県、東京都、神奈川県の一部です。

これをちょっと頭の片隅に置いといてください。

赤丸の中の二文字の最初を高崎氏は「福」と判読。

たぶん、確固とした信念で。

確かに最初の一文字は「福」に見えます。
その下の文字はどうみても「毛」に見えます。

これは私の想像ですが、高崎氏も「毛」と判読したのではないか、と。

ただ武州に「福毛」などという地名はあったかな?と疑問に思い、
それで二文字目は判読不能の「□」とし、「福□」と記録したのでは、

と私は想像したわけです。

これを論集「三ノ宮卯之助(2)」で読み、疑問を感じた斎藤氏、
再調査に出向き、
これを「福」ではなく「稲」と読み、この二文字を「稲毛」と断定。

ところがここで斎藤氏にも迷いが生じた。

稲毛といえば、上総国(千葉県)です。

でも弥五郎の出身地は武蔵国(神奈川県)川崎矢向(やこう)。

弥五郎が川崎の出身なのは、
先にご紹介した木売集会所の石でも明らかです。

こちらの石にも「川嵜(川崎)庄」とあります。
上花輪太子堂・神明神社2
千葉県野田市上花輪・神明神社

千葉県山武郡九十九里町の面足神社にも、
弥五郎が持った「河崎」銘の力石があります。

「稲毛」地名は千葉県にあって、
その刻字石も千葉県にあるけれど、肝心の弥五郎は神奈川の産。

だから、ややこしい。

一体、この「稲毛」ってどこよ?

その謎解きは次回のお楽しみってことで。

えっ、全然、楽しみにしてないって?

ショボン…。


     =おまけの写真=

上記の野田市上花輪・神明神社の力石、
以前はどんなだったかというと、

こんなんでした。2005年ごろの写真です。
img20200213_10311482 (2)

その4年後、立派な説明版をつけて上の写真のように保存されました。

でもそれから11年、今、どうなっていますか、ちょっと心配。


<つづく>

※写真提供/ブログ「へいへいのスタジオ2010」
        高島愼助
※参考文献/四日市大学論集大17巻1号「三ノ宮卯之助(2)」
        高島愼助 高崎 力 2004年9月

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弥五郎、巨人に挑む

斎藤ワールド
02 /09 2020
有名力持ちが持ち上げた力石に、別の力持ちが挑んだ。

そんな例が埼玉県春日部市にも残されています。

有名力持ちとはあの三ノ宮卯之助、挑んだのは矢向弥五郎です。

右から二つ目のひときわ大きな石がそれです。
1卯之助・弥五郎
埼玉県春日部市粕壁東2‐16‐57 東八幡神社  80×47×25余㎝

この石の刻字は長いんです。

「奉納 力石百貫余 天保三辰二月吉日 伊勢講中 
三ノ宮 卯之助 持之」

刻字の途中ですが解説です。

天保三年(1834)=幕末。日本の沿岸に異国船が現れ始めたころです。
そんな時代背景の中、
卯之助はここで百貫目余(375㎏)もの石を見事、持ち上げます。

刻字のつづきです。

「嘉永元年 申十月十六日 武州稲毛 弥五郎 持之」

卯之助がこの石を奉納した14年後、今度は弥五郎が挑み見事担いだ。

嬉しかったでしょうね。
さっそく、大先輩の横に自分の名を刻みました。

これを追刻といいます。

こんな具合です。
八幡ヘイヘイさん東

   
    力自慢競ひし後に奉納の
            力石なれ名前刻める 
   天野 翔


天野 翔氏 神奈川県在住の歌人。

ブログ「天野 翔のうた日記」を書かれています。

本格的な歌詠みの方が、力石の歌を詠んでくださっています。
誇りに思います。

    今日もまた無駄足になるをおそれつつ
            「ちからいし」とふバス停に下車



天野さん、しっかり「力石病」にもなっています。うれしいな。

こんな歌も詠んでいます。場所は鎌倉市の下関青少年広場。

静寂、孤高。
力のかたちは違えど、
昔と今の若者が見えない糸でつながっているような光景です。

    ただ独りサッカーボール蹴つてゐる
               広場の隅に力石二個



卯之助石に追刻した弥五郎の話に戻ります。

卯之助研究者の高崎 力氏によると、

「卯之助は嘉永元年六月に江戸力持番付の東の大関になった。
その名声を慕って4か月後に、弥五郎が挑んだものと思われる」

その番付の一部です。
右端に「大関 江戸 三ノ宮 卯之助」の名が見えます。

img20200208_19474764 (2)
山梨県立図書館蔵

「この春日部市(旧粕壁町)は、東武蔵のほぼ中心地で、
南北に日光街道、東西に岩槻街道が交差し、
古利根川の河岸場を持つ町。

この八幡さまでの卯之助力持ち興行は、
伊勢講中の全面支援で盛大に催すことができた」(高崎 力氏)

ここで水を差すようで気が引けますが、

実は卯之助研究の第一人者の高崎氏、
刻字の解読を一か所間違えました。

こんな偉い方でも、とヒヨッコの私は妙にホッとしたりして…。

で、どんな読み違いをしたかというと…。


<つづく>

※写真提供/ブログ「へいへいのスタジオ2010」
※参考文献/四日市大学論集・第17巻1号 抜刷「三ノ宮卯之助(2)」
         高島愼助 高崎力 2004年9月
        /「力石を詠む」(一)~(十)高島愼助 岩田書院 
         2006~2017(既刊)、2020(近日中刊行予定)


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「石狂い」

斎藤ワールド
02 /05 2020
埼玉県吉川市の民家の石捨て場で、
矢向弥五郎の石を発見して、「狂喜雀躍」した斎藤氏、

その3年後の2018年7月3日、弥五郎石をまた発見します。

場所は同じ吉川市内の集会所。

右の碑は、この集会所建設の寄付者名を刻んだ記念碑です。
2個の力石は、
記念碑建立の平成元年に一緒に保存されたのかもしれません。

売1木
埼玉県吉川市木売2‐8‐4 木売集会所
89×45×34㎝ 60×36×27㎝

  「百貫目余 東海道 川崎領 矢向弥五郎」

  「八斗 木」

大きな石が「弥五郎」石、ちょっと小ぶりな石は「八斗」石です。

寄り添うように仲良く並んだ石を見て、斎藤氏、こんな歌を…。

   睦まじく午睡してるや力石(いし)二つ  
                「弥五郎」ついに「八斗」娶るか

弥五郎さん、長い独身生活に別れを告げて、とうとう、
麗しくも控えめな「八斗石」嬢を女房にしましたか。

売3木

時代が人力から機械化へと変わり、
同時に、若者たちに力をつけた力石も忘れられ消えていった。

そういう置き去りにされた力石を探すのは容易ではありません。

   足棒にして力石(いし)尋ぬ秋の暮れ

やっと見つけて駆け寄ってみたら、

   稲刈りの匂いや藪の力石

   差し石や終の住処が路傍とは

人はもちろん力石だって、ホームレスになるのはつらいよね。

そんな石たちに、
「差し石だって目鼻をつければ石仏だよ」
「隣の石碑より小さいけれど、お前、胸張っていろよ」

と、自分を励ますように声をかける。

売4木

同じ神社境内でも、立派に保存された力石もあれば、
無刻ゆえに石捨て場に捨てられてしまった石もある。

   一つだけ蚊帳の外かよ無刻力石(いし)

それでも見つければ喜び勇んで、

   雷鳴やそれ測れ撮れ力石

雷が鳴ろうが指を蚊が刺そうが、寸法測定と撮影と刻字解読に余念がない。

ちょっと落ち込むのは、「不審者」に見られること。

怪しんでそっと見ていたのだろうか。
石の寸法を測っている背後で窓の閉まる音がする。

自分の傍らで興味津々で見ていた幼子を、
険しい顔で呼び戻すお母さん。

売2木

でも力石をご存じの方がまだまだいた。

ヤブ蚊を払いつつ和尚さんは寺の自慢の力石を語り、
稲刈りの手を休めて、力石の体験談を語ってくれたご老人。

老婦人は戦時中の若者と力石の話を聞かせてくれた。

いつの間にか日は暮れて、
どこからか秋刀魚を焼くにおいがただよってきた。

    石探索終えて夜寒の帰り道
              遥か地平にぬっと満月


体は冷え切り、自転車のハンドルを握る手が凍る。
急にお酒が恋しくなった。

そんな斎藤氏を悪友たちはからかいつつも励まし続ける。

    悪友の投げた渾名や「石狂い」


<つづく>

※参考文献/「力石を詠む」(一)~(九) 高島愼助 岩田書院
         2006~2017
         「力石を詠む(十)」は近日中刊行予定。
※短歌・俳句はすべて斎藤氏(俳号・呆人)の作品です。


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遊びをせんとや

斎藤ワールド
02 /02 2020
矢向弥五郎
またの名を稲毛の弥五郎

弥五郎の現存力石は10個。
千葉、埼玉、東京、神奈川にその足跡を残しています。

生まれ故郷の日枝神社に残した「豊遊石」は、
百二十貫(450㎏)の大石です。

斎藤氏によると、
こうした百貫以上の石を担いだ力持ち力士は、
鬼熊や肥田文八などいますが、いずれも1個で、

名を刻んだ百貫目石が2個も現存するのは、
三ノ宮卯之助と、この弥五郎二人しかいないそうです。

下の写真は日枝神社に並ぶ力石群です。このほかに3個、境内に散在。

ひときわ大きな石は「豊遊石記念碑」で、
石の由来と弥五郎への賛辞などが刻まれています。

鶴見区矢向・日枝神社2
神奈川県横浜市鶴見区矢向(やこう)4-16-2 日枝神社

「豊遊石」です。

流れるような美しい刻字です。

鶴見区矢向・日枝神社9
76余×57×35㎝

   「豊遊石 十月□ 當□」

土に埋もれた部分もあって、弥五郎の名前は確認できませんが、
記念碑にはこう書かれています。=原文を現代文にして要約。

=追記=

横浜市によると、石面に、
「矢向村 當所 弥五郎」と刻まれているとのことです。

碑の要約です。

「嘉永四年(1851)十月、
この神社境内で東西の力士たちが力比べをした折、
弥五郎がこれを肩にかついで歩いた。

その弥五郎の怪力を目撃した同村の鴨志田与右衛門が、
30年後の明治25年、
弥五郎が記念に奉納していったこの石を今度は自分で担ぎ上げた。

一つの集落からこのような稀有な人物が二人も出たことを
末永く伝えるため、有志たちが明治29年に碑を建て名を刻んだ」

「豊遊石」を担ぐ弥五郎です。
img20200126_19565946 (2)
横浜市民局「庁内報」

「弥五郎が歩いた跡を見たら、石の重みで地面がへこんでいた」
というのだから凄い!

絵にもちゃんと、足のへこみが描かれています。

それにしても「豊かに遊ぶ石」という命名は素敵ですね。

「遊び」をつけた石銘にはほかに、
「玉遊」「亀遊」「荒遊」「演遊」「互遊」「素遊」なんてのがあります。

「玩戯」なんてのもあるんです。

    
    遊びをせんとや生まれけん 
  
   戯(たわぶ)れせんとや生まれけん


とはいうものの、
450㎏もの大石を担ぐこの「遊び」、現代人にはもう不可能です。


<つづく>

※参考文献/「石に挑んだ男達」高島愼助 岩田書院 2009
        /「神奈川の力石」高島愼助 岩田書院 2004、2014
※参考文献・画像提供/横浜市民局「庁内報」「矢向の豊遊石」
               第245号 1980

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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞