おシけぇなすって!
斎藤ワールド
本年はこの人で〆たいと思います。
埼玉の研究者、斎藤氏。
今年も全力で支えていただきました。
力石の新発見では抜きんでた才能の持ち主です。
そして、10月28日にまたまた新発見。
これです。

埼玉県北葛飾郡杉戸町・永福寺地蔵堂脇
下はそのときの記事です。
「ビビッとX波が…」
ところが、です。
次にいただいたメールで、潔く敗北宣言。
と同時に送られてきたのが、杉戸町の広報紙「Sugito」です。
これです。10、11月の両号でこの力石を取り上げていました。

つまりこの石は、斎藤氏が見つける1か月半も前に、
すでに地元の方によって発見されていたのです。
ありゃー。
広報紙に掲載された第一発見者(右)と協力者のみなさんです。
地元の方が見つけてみんなで保存に動いた、一番いい形ですね。

「Sugito」11令和元年(2019)NO.614よりお借りしました。
でもこれでめげる斎藤氏ではありません。
ならばと、
この石に刻まれていた「幸手久㐂町 紙屋 忠治郎」に注目。
ここから斎藤氏の新たな探求が始まりました。
この忠治郎、
江戸・文政期の大物「万屋金蔵」と共演していたことが判明。
渡辺崋山や蜀山人にもひいきにされた万屋金蔵との共演ですから、
この忠治郎もかなりの大物です。
ひょっとして忠治郎は江戸の力持ちかと思ったものの、
「久㐂町」とあるので、
久喜町の紙屋の経営者か従業員だったはずと推理。
で、こんなものを見つけました。

明治35年「埼玉県営業便覧」
このことから、
久喜町の「紙屋」は岩間姓とわかりました。
さらに、昭和6年(1931)の「幸手町勢要欄」(下の画像)で、
「岩間金物店」(黄色〇)、その下に「岩間忠一」店(青色〇)を発見。
この2軒は本家と分家で、
分家の「増之助」店は紙屋から金物屋になりのちに廃業。
本家の「忠一」店は生活雑貨の店として今も存在。
忠一の孫にあたる現・ご当主の話では、
万屋金蔵と紙屋忠治郎共演の力石がある雷電神社には、
曽祖父庄五郎の名を刻んだ手水鉢や記念碑があるという。
斎藤氏、色めき立ちますが、本家の過去帳は菩提寺の火災で焼けて、
たどれるのは慶応までと聞いてがっくり。
どうしたら忠治郎がいた文政時代の紙屋にたどり着けるのか、
斎藤氏の探求はまだまだ続きます。
昭和6年の「幸手町勢要覧」です。

さて、この「要覧」を見ていた私、
「福田屋旅館 久保田信一」(赤丸)にくぎ付けになりました。
「久保田信一」とは、私の義理の伯父にあたる人なんです。
つまり伯母の夫。こんなところに名前が…。
斎藤氏によると、この人の名は幸手駅東口の記念碑にも刻まれているとか。
なにしろ祖父は妻を3人娶り、総勢10数人の子をもうけた人なので、
そのしんがりの父の、そのまたしんがりに生まれた私には、
話に聞いただけの伯父伯母ばかり。
それにしても「紙屋忠治郎」探索の途中で、私の縁者が見つかるなんて。
で、斎藤氏、この年末に吠えましたよ。
「たかが力石、されど力石。
ガンガン歴史が広がっていくのがたまらない!」
絶好調の斎藤氏にブログへの顔出しをお願いしたら、
「これなら」とOKしてくれたのが、ニセ寅さんとのツーショットです。
顔出しは断固拒否の斎藤氏でしたが、大の寅さんファンですからね。
寅さんの力は偉大です。

東京・葛飾柴又帝釈天となりの「寅さんサミット」にて。2019年
たちまちいつもの陽気なおじさんに戻って、
「おシけぇなすって!
こちとら力石は、タイムカプセルでごザんす」
はぁ?

本年も石の話にお付き合いくださり、ありがとうございました。
どうぞ、よいお年を!

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埼玉の研究者、斎藤氏。
今年も全力で支えていただきました。
力石の新発見では抜きんでた才能の持ち主です。
そして、10月28日にまたまた新発見。
これです。

埼玉県北葛飾郡杉戸町・永福寺地蔵堂脇
下はそのときの記事です。
「ビビッとX波が…」
ところが、です。
次にいただいたメールで、潔く敗北宣言。
と同時に送られてきたのが、杉戸町の広報紙「Sugito」です。
これです。10、11月の両号でこの力石を取り上げていました。


つまりこの石は、斎藤氏が見つける1か月半も前に、
すでに地元の方によって発見されていたのです。
ありゃー。
広報紙に掲載された第一発見者(右)と協力者のみなさんです。
地元の方が見つけてみんなで保存に動いた、一番いい形ですね。

「Sugito」11令和元年(2019)NO.614よりお借りしました。
でもこれでめげる斎藤氏ではありません。
ならばと、
この石に刻まれていた「幸手久㐂町 紙屋 忠治郎」に注目。
ここから斎藤氏の新たな探求が始まりました。
この忠治郎、
江戸・文政期の大物「万屋金蔵」と共演していたことが判明。
渡辺崋山や蜀山人にもひいきにされた万屋金蔵との共演ですから、
この忠治郎もかなりの大物です。
ひょっとして忠治郎は江戸の力持ちかと思ったものの、
「久㐂町」とあるので、
久喜町の紙屋の経営者か従業員だったはずと推理。
で、こんなものを見つけました。

明治35年「埼玉県営業便覧」
このことから、
久喜町の「紙屋」は岩間姓とわかりました。
さらに、昭和6年(1931)の「幸手町勢要欄」(下の画像)で、
「岩間金物店」(黄色〇)、その下に「岩間忠一」店(青色〇)を発見。
この2軒は本家と分家で、
分家の「増之助」店は紙屋から金物屋になりのちに廃業。
本家の「忠一」店は生活雑貨の店として今も存在。
忠一の孫にあたる現・ご当主の話では、
万屋金蔵と紙屋忠治郎共演の力石がある雷電神社には、
曽祖父庄五郎の名を刻んだ手水鉢や記念碑があるという。
斎藤氏、色めき立ちますが、本家の過去帳は菩提寺の火災で焼けて、
たどれるのは慶応までと聞いてがっくり。
どうしたら忠治郎がいた文政時代の紙屋にたどり着けるのか、
斎藤氏の探求はまだまだ続きます。
昭和6年の「幸手町勢要覧」です。

さて、この「要覧」を見ていた私、
「福田屋旅館 久保田信一」(赤丸)にくぎ付けになりました。
「久保田信一」とは、私の義理の伯父にあたる人なんです。
つまり伯母の夫。こんなところに名前が…。
斎藤氏によると、この人の名は幸手駅東口の記念碑にも刻まれているとか。
なにしろ祖父は妻を3人娶り、総勢10数人の子をもうけた人なので、
そのしんがりの父の、そのまたしんがりに生まれた私には、
話に聞いただけの伯父伯母ばかり。
それにしても「紙屋忠治郎」探索の途中で、私の縁者が見つかるなんて。
で、斎藤氏、この年末に吠えましたよ。
「たかが力石、されど力石。
ガンガン歴史が広がっていくのがたまらない!」
絶好調の斎藤氏にブログへの顔出しをお願いしたら、
「これなら」とOKしてくれたのが、ニセ寅さんとのツーショットです。
顔出しは断固拒否の斎藤氏でしたが、大の寅さんファンですからね。
寅さんの力は偉大です。

東京・葛飾柴又帝釈天となりの「寅さんサミット」にて。2019年
たちまちいつもの陽気なおじさんに戻って、
「おシけぇなすって!
こちとら力石は、タイムカプセルでごザんす」
はぁ?

本年も石の話にお付き合いくださり、ありがとうございました。
どうぞ、よいお年を!

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