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□□□月日

待ちに待った許可書が届きました。

県外からのお願いに加え、
世間の片隅に転がっているだけの「石ころ」ブログへの掲載許可。

感謝しかありません。ありがとうございました。



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さて、本題です。

立派な式典を挙げ、新聞や広報誌にも掲載された「万治石」

このおめでたい出来事に水を差すようで心苦しいですが、
まだ刻字の解読が残っております。

「明治」が「万治」になったんだから、それでヨシとしようじゃないか、
という声ももっともです。

ですがやっぱりね、けじめですから、どうぞお許しください。

  「  万治四年
   奉納力石五十六メ目ョ」

これはどなたも異存がない。

問題は左の刻字です。

拓本です。
IMG_1006-1.jpg

2017年の段階で関係者はそれぞれこう読みました。

① 「丑ノ五月日」

② 「吉三月日」

 「辛丑月日」

詳しくは当時のブログ記事をご覧ください。

万治石・最終回です」

これに対して、
当地の古文書会の先生お二人にご意見を伺いました。

T先生  「「吉」「丑」とするのはやや苦しい
      また「辛」と読むには、下部の十が見えない
      月日には「〇月日」のように数字が入ると思う」

N先生  「三案の解読では「辛丑月日」がもっとも無難だと思いますが、
       ただ「辛」の字、写真でも拓本でもです。

     「丑ノ五月日」については、なるほど「ノ」とある如く見えますが、
       しかし、こういう書き方は文書にはよくありますが、
       碑文に「ノ」字を書くのはやや不審

というわけで結論は出ませんでした。

※ 斎藤氏の調べでは、カタカナの「ノ」は、力石の場合、 手持ちの全国の
   「〇〇の力石」には皆無」だったこともお伝えしておきます。
  
決め手となる解読はできませんでしたが、  
でも、がっかりすることはありません。
もともとの刻字に誤りがあることもママあるからです。

こちらは同じ「万治四年」の誤記とおぼしき例です。

img20191119_19135021 (2)

これは平成元年、福岡県久留米市の三本松町遺跡から出土した
「色絵鳳凰文器台」です。

右側の余白部分に赤色で文字が書かれています。

これです。
img20191119_19135021 (4)


「万治四年己丑八月吉日」

あきらかに、干支の「己丑」「八月」は間違っています。

なぜなら、万治四年の干支は「己丑」ではなく「辛丑」ですし、
この年の4月に寛文に改元されていますから、「八月」はあり得ないからです。

このことについて、
久留米市教育委員会・文化財保護課ではこのように解説しています。

「万治四年の四月には寛文に改元されていますので、
改元以前に特別に注文された贈答品と推測されます。

また万治四年の干支は「辛丑(かのとうし)」なので、
「己丑(つちのとうし)は誤って記されているようです」

こうしたことから、今上八幡神社の「万治石」も、
改元以前に注文を受けて「五月日」と刻んでしまったと推測できるし、
または誤記ということも考えられます。

今回、地元では「丑ノ五月日」を採用しましたが、
私はこんなふうに思いました。

「万治石」の、
「万治四年」ゆるぎない事実ですから、
左の刻字は解読不能として、

「□□□月日」と記録するのも選択肢の一つではなかったか、と。


※参考文献・写真提供/「歴史散歩・年号のある遺物とその遺跡」№6
               久留米市教育委員会・文化財保護課・
               市埋蔵文化財センター・久留米文化財収蔵館
※拓本提供/石田年子(野田市文化財保護審議会委員・金石文研究者)
        /今上中組自治会


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万治石さん、寂しかろ

某役所からの写真使用の許可書、まだなんです。

♪ 待ちぼうけ 待ちぼうけ
    きょうは きょうはで 待ちぼうけ
    明日は 明日はで

なーんてのんびり待ってたら、ブログはたちまち草ぼうぼう。

なので、こんな「万治石」余話をー。

土の中から掘り出されたころの万治石です。
遠くからパンダくんが、心配そうに見ています。

「万治石さん、一人ぼっちじゃ寂しかろ」

IMG_6462.jpg
千葉県野田市今上・八幡神社

そこで、氏子さんたちは考えました。

「こんな石も出てきたから、両脇に置いてあげよう

IMG_6462 (2)

でもこの両脇の石、ただの石ではなかったのです。

よく見ると、石の表面になにやら文字が刻んであります。

ほら!

IMG_8997.jpg
27余×34×19㎝

もう少し見やすくしましょうか。

IMG_8997 (2)

斎藤氏、苦労して読みました。

   「奉納 二十□□」

なんと、これも力石だったのです。

ならばこちらもひょっとしてと、左側の石も見てみたら、

傷のような、へのへのもへじのような判読不能な切り付けがあった。

IMG_8991.jpg

斎藤氏が、
「もしかしたら、
境内にはまだまだ埋まっているかもしれませんね」と言ったら、

総代さん、
「もう、もう、そっとしておいて」と、笑いながら肩をすくめた。

そうよねえ。

私たちはよそから来て簡単に保存、保存と言うけれど、
やっぱりこれは無責任な押し付けでしかないものね。

だって保存する側にとっては、
経済的負担も大きいし、石よりほかに大事なことだってあるし。

この上、万治よりもっと古い石が出てきた日にゃあ、
これはもう、えらいこってす

というわけで、地下にあるかもしれない力石さんには、
あと二百年ぐらい眠っていただくことにしました。

IMG_6464.jpg

江戸川の土手下の小さな小さな八幡さま。

でもここには、どこにも負けない

豊かな歴史
あったかい人情が息づいておりました。


※写真・情報提供/斎藤氏


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モデルはオレだよ

某役所へ写真借用許可を申請中。

許可書が届くあいだ、「万治石」はちょっとお休みです。

そこで、
毎年すすきで干支を作っているおじさん宅へ。

そろそろ始めているかなとのぞいてみたら、

ありゃァー!

埴輪のような、中世の兵士のような、変な「人」が立ってましたよ。

CIMG4962 (3)

奥で農作業中のおじさんに、
「こりゃまた、すごいものを…」と声をかけたら、

「うわっはっは」

おじさん、
農協マークの帽子の下からいたずら小僧みたいな笑顔を見せて、

「近所でたくさん植木鉢を捨ててあってな。
これ、どうするだネって聞いたら、捨てるっていうからもらってきた」

植木鉢で「植木鉢像」ですか。

凄い発想!

「ところで、このモデルは何ですか?」って聞いたら、

「モデルはオレだよ」

「えっ!」
「身長はオレとぴったり同じに作った」

うーむむむ…。

CIMG4963 (3) CIMG4965 (2)

おらが村の芸術家さん。

なにも芸大出て、個展をやる人だけが芸術家じゃないんだよね。

地下足袋はいたおじさんの創造力は、のびやかで健康的だ。

「来年の干支の制作もそろそろですね」って聞いたら、
「それがな、むずかしいんだよ、ネズミってのは」

でも、植木鉢のおじさんのほうは、やる気まんまん。

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大きな植木鉢をかぶったまま、もう楽しくてたまらないという顔で、
ニンマリしておりました。
    

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新聞に載りました!

即位の礼に合わせてお披露目された「万治石」

新聞2社とネットニュース、
野田市の広報誌とタウン誌に掲載されました。

一挙、公開です!

朝日新聞です。
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朝日新聞・千葉首都圏版・令和元年10月23日朝刊。

日本全国どこでも注目度の低い力石が、
これほどまでに取り上げていただけたのは、

ひとえに、
八幡神社の氏子さんたちの熱意と努力のたまものです。

産経新聞です。
img20191117_18552660 (2)
産経新聞・千葉県版・令和元年10月23日朝刊。

記事はこんなふうに結んでいました。

<地域の人たちは「ふるさとの宝」としてよみがえった力石に
笑顔を見せていた>

でも「写真はモノクロだったなァ」とちょっぴり残念と思ったものの、
ネットニュースでも取り上げてくださった。

ここではきれいなカラー写真です。しかも当日、載せてくださった。



img20191117_18581512 (2)


使われなくなった力石は散逸を恐れて、
境内に埋めてしまったり、木の根元や地面に並べて置いたりします。

地面に置いた石は、長い年月の間に、
なぜか自ら地面にもぐってしまうんです。

ですから、この八幡神社の力石も土留めに転用したというより、
並べて置いたのが土にめり込んでいったとも考えられます。

タウン誌「月刊とも」へも載りました。

千葉県、埼玉県の11の市で配布。
今年で創刊41年という長い歴史を持つタウン誌です。

img20191117_19104231 (2)img20191117_19083627 (2)
「月刊とも」484号。令和元年11月1日発行。有限会社ふるさと工房。

そして地元野田市の広報誌です。

2年前、野田市民でもない私メがヤイノヤイノと騒ぎ立てたにも関わらず、
根気よく丁寧に対応してくださり、ついにお披露目へと導いてくださった。

その職員さんがいらっしゃるところです。

広報誌「のだ」です。

「野田・ふるさとめぐり」として紹介されていました。

img20191117_19015729 (2)img20191117_19035949 (2)

どの記事にも踊る言葉は、

「千葉県最古」
「全国で3番目に古い力石」


新聞には、
神主さんが力石になにやら振りかけている姿が写っています。

これは「切幣(きりぬさ)による清めの儀式。

「切幣」とは、五色の和紙、塩、麻の繊維などです。

「斎竹(いみだけ)」を巡らせた聖域で、
力石に新たな魂を吹き込んでいるのです。

みなさまへの提言です。

力石は文化財になろうとも、触ってこそ価値があるものです。

落ち込んだときやいじめにあったとき、
勉学やスポーツなどの勝負に挑むとき、
健康や家内安全、平穏を願うときなどに、

ぜひ、この石を撫でて活力をもらってください。

特にこの「万治石」は、
400年前の元気な若者たちの特別パワーを秘めていますから。

 
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浦安の舞、おごそかに

八幡さまの神前では準備も整い、いよいよ式典が始まります。

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斎藤氏と石田氏と私は最前列へ招じ入れられました。

「ひと言ずつご挨拶を…」とのことで、慌てました。
蚊の鳴くような声?で、保存してくださったことへの感謝を述べて、

ホッ!

本殿の中に150人ほどが人が着席。
入りきれない人々がカメラ片手に外から見守っています。

私たちが奉納したお酒がちょこんと見えました。
なんとなく嬉しさジワリ。

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神主さんの祝詞(のりと)奏上です。(この場面だけは撮影禁止です)

ここでなんと、私たち3人の名前が読み上げられたんですよ。
祝詞で名前を言われたのは結婚式以来です。

玉ぐしも奉納しました。

厳粛な気持ちになりました。

私の先祖は、祖父の代まで長く神主をやっていた家だったから、
やっぱり血が騒ぐんですね。

巫女さんの浦安の舞が始まりました。

CIMG4914.jpg

初々しいお嬢さんです。

CIMG4918 (2)

清らかな花びらがひらりひらりと舞っているようです。

CIMG4924.jpg

舞を見ているうちに、お正月、緋の袴をはいた幼い日と重なって…。
同級生たちから、「先生みたい」とからかわれたっけ。

あの袴は母の手作りだったと、成人してから知った。

静寂の中、鈴の音だけが響きます。

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   即位の日万治の石に陽のさして
                     門出を祝う浦安の舞     雨宮清子


   万治より令和の今もここに在る
       力石(いし)よ永遠(とわ)なれ今上の里に    斎藤呆人



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よいさよいさ

「この八幡神社の創建は寛文二年(1662)なんですよねぇ」

野田市の文化財保護審議会の委員で、
金石文の研究者・石田氏が、ふとつぶやいたこの言葉。

そういわれれば、万治石の刻字は1661年だから、
石が奉納されたとき、八幡さまはまだなかったはず。

確かにだ。

「変ですか?」と八幡さまのパンダくんとラッコさん。
CIMG4912 (2)
千葉県野田市今上・八幡神社

同じ今上にある稲荷神社は万治三年となっているから、
ここなら計算があう。

この稲荷社は田中吉右衛門なる人物の氏神だったそうですから、
ひょっとして、
八幡神社も最初はだれかの屋敷神だったかもしれません。

もう一つ考えられることは、
以前,境内社の一つだった「大杉神社」の存在です。

大杉神社の総本山は常陸内湾の茨城県稲敷市阿波にあって、
大きな杉の木が立っていたため、海上交通の目印になっていたとか。

古名「あんばさま・大杉大明神」

大杉神社のHPによると、創建は奈良時代。
あの万葉集ができたちょっとあとですから古いです。

こんな伝説があるそうです。

勝道上人という人が疫病に苦しむ人々の救済をこの大杉に祈願したら、
奈良の三輪明神が飛んできて大杉に宿り、たちまち病魔を退散させたー。

「飛び神明」というものですが、日本の神さまは元祖「すぐやる課」かも。

「ぼくは重くて飛べません」と万治石。
CIMG4905 (2)

大杉神社といえば、滋賀県彦根市にもあるそうで、
いつも渾身の取材をされている下記のブログに詳しく掲載されています。

茨城県の大杉神社と関わりがあるかはわかりませんが、
大変興味深い記事なので、ぜひお読みください。

「神秘と感動の絶景を探し歩いて」

江戸の中期、八代将軍吉宗の享保十二年(1727)三月、
この大杉大明神の神輿が「ハヤリ神」となって江戸へなだれ込み、
江戸庶民を熱狂させます。

   「安葉(あんば)大杉大明神 
    悪魔払ふてよいさ 世がよいさ よいさ、よいさ」

そう囃子ながら踊り狂う民衆を見て、幕府は弾圧に動きます。

大杉大明神の信仰圏は栃木、茨城、千葉の主に利根川流域で、
船運業に携わっていた人々が信仰していたそうですから、
今上に分祀されたことは当然と言えば当然ですよね。

今上の船頭さんたちの船の守り神・フナダマサマは、
もちろんこの「あんばさま」です。

ひょっとして最初に創建されたのはこの「あんばさま」か?

とも思いましたが、確証はない。

よいさよいさ。
400年もここにおったんだしな。これからもずっといてくれよ
CIMG4940.jpg

   「撫でられて力みなぎる万治石」   雨宮清子

枯れかかった頭であれこれ推測、邪推、奇想天外の空想に浸りつつ、
こんなことも考えました。

ひょっとして、あの「弁慶石」が鴨川の洪水で流されて、
京都三条に鎮座したみたいに、
万治石も江戸川の洪水と共にこの地にやってきたのかも。

そうと思えば、

また別のおとぎ話が生まれます。


※参考文献/野田市民俗調査書1「今上・山崎の民俗」
        野田市市史編さん委員会 平成7年
       /「民俗神道論」宮田登 春秋社 1996


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「今上」ってどんなとこ?

「万治石」の式典に出かける直前、次々と大型台風が…。

千葉県は大変な被害と報じていたので、
これでは式典どころではないだろうなと思いつつ、お天気地図を見たら、
なんと「野田市」の上だけ雨雲がなかった。

千葉県と言えばすぐ思い浮かぶのは房総半島です。
でも、改めて地図を見ると、
野田市はそこからずっと遠い位置にありました。

一番上の白丸の中が野田市。江戸川と利根川にはさまれています。
江戸川の対岸は埼玉県、利根川の向こうは茨城県という立地です。

上部に利根川と江戸川が枝分かれした三角地帯があります。
ここが有名な関宿城があったところです。

今は博物館になっていました。地元の研究者・Iさんに連れて行っていただきました。
「オビシャ」「川の歴史」…。見ごたえ満載!

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「オビシャはつづくよ400年」よりお借りしました。

遠くへ行くという感覚でしたが、
静岡駅から柏駅経由でもよりの野田市駅まで、
乗車時間はなんと約2時間

信じられない近さです。

ここでは、「野田市民俗調査書」をお借りして、
野田市今上についてお話していきます。

「今上」(いまがみ)の旧村名は「今神」
古来には「馬神村」と称していたという伝承があるとか。

江戸川に面した今上は、
昔から河川の氾濫に悩まされてきたそうですが、
何度もの築堤や掘削、改修で今の姿になったとか。

近世にはその河川を最大限生かした船の河岸として活用。
「船頭のムラ」として隆盛を極めます。

周囲の村に比べて裕福で、食べ物なども贅沢だったようです。

これは今上河岸「桝田廻漕陸送店の支店」(三ッ堀)開業広告です。
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「今上・山崎の民俗」よりお借りしました。

河岸は上下に二つあった。

河岸問屋「桝田回漕店」には直属の高瀬船が約60艘あり、
住民たちの持ち船の
六斎船や高瀬船、蒸気船などが200艘ほど停泊していたという。

船荷は主に醤油葉タバコで、
昼夜かまわず今上河岸から東京を目指した。

東京まで早くて一日、普通は二日で着いたそうです。

江戸川→新川口→小松川→中川→荒川→小名木川→隅田川→
浜町→蛎殻町ときて、小網町で着岸。

もうね、ここにでてきた土地すべて、力持ちと力石の宝庫ですから、
今上の船乗りたちが影響を受けなかったはずはありません。

そういえば、
「神田川徳蔵物語」でご紹介した深川の力持ち・根本正平の父親は、
利根川の高瀬船の船頭でした。

左端が根本正平氏。その隣は「物流の父」といわれた平原直氏。
「深川力持睦会」の文化財指定に尽力した人です。

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「深川力持睦会」のイベントで。撮影年不明。

ちなみに、平原氏ゆかりの流通経済大学の新校舎エントランスには、
立派な力石3個が飾られています。

力持ちの話になると興奮しておしゃべりが止まらなくなりますから、
この話はこのへんで。

次回は今上の八幡さまと「万治石」の謎に迫ります。


※参考文献・画像提供/図録「オビシャはつづくよ400年」
               千葉県立関宿博物館 2019
               /野田市民俗調査報告書1「今上・山崎の民俗」
                野田市史編さん委員会 平成7年
※画像提供/「平原直アルバム」流通経済大学所蔵 物流博物館保管


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ヨ!

昨年1月12日、この日斎藤氏が八幡神社を訪れたら、
なんと「万治石」は、土中から掘り起こされていました。

これです。

3野田市
千葉県野田市今上・八幡神社。斎藤氏撮影

前年の暮れ、私は市の職員の方からこう言われていました。

「力石は氏子さんたちの所有物なので、
保存するかしないかは氏子さんたちが決めることなんです。
なので役所からあれこれ指図はできないのです」

言われてみればもっともなことです。

だから半ばあきらめていたのですが、
氏子さんたち、決断してくださったんですね。

感謝でいっぱいになりました。

初めて全容を現わした「万治石」は、
これまで公表されてきた寸法を20㎝も上回るかなりの大きさでした。

2野田市
62×43×28余㎝ 斎藤氏撮影

詳しくは下記のブログ記事をご覧ください。

「万治石に動きが…」

「こんな石っころになんで夢中になるのか」と笑われそうですが、
いえ、笑われてきましたが(笑)、

この石一つに400年も昔の若者たちの熱気がこもっている。
そう思ったら、
それだけで私はタイムマシーンで江戸時代の八幡神社へ戻り、
彼らと一緒にいるような気分になっちゃうんです。

困ったもんです。

下の写真は今年10月の「奉祝祭」の様子です。

本殿には紅白の幕が張られ、
神主さんと巫女さん、神社役員さんがテキパキと準備中。

CIMG4903.jpg

八幡神社は江戸川の土手下の、ほんとに小さな神社です。
それがこんな立派な式典を、しかもそれに私も呼んでくださった。

ブログでワーワー騒いでいただけの私なのに。

こちらは「斎竹(いみだけ)」をめぐらせた力石の設置場所です。

 ※「斎竹・忌竹」=神の降臨する清浄な場所であることを示すため、
            四方を囲むときの竹のこと。
            家を建てる時行う地鎮祭でも見ることができます。

立派な説明板も立ててありました。

CIMG4908.jpg

  
    四百年の眠りから覚めし万治石
             令和の御代に生きて輝く 
    雨宮清子

再び、昨年1月の神社に戻ります。

掘り起こされた万治石を見て、
斎藤氏、またまた新たな発見をいたします。

なんと、もう一つ文字が現れたのです。

赤丸の中に「ヨ」が見えます。

「ヨ」、つまり「余」のことです。このことから正確にはこうなります。

   「奉納力石五十六メ目

野田市5
斎藤氏撮影

これを担いだ若者は石工さんにこんなことを言ったはずです。

「オレが担いだのは五十六メ目より、もうちっと重てぇ石なんだぞ!」

210㎏「余」ですからね、誇らしかったことでしょう。

はいはい、八幡さまの若い衆、
400年後もしっかり確認しましたヨ!


<つづく>


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刻字の検証

野田市文化財課の職員さんから、
「万治四年が確認できた」との朗報が届いたのが2017年暮れのこと。

今までの苦労がようやく報われた斎藤氏、
翌2018年の正月早々から、再び八幡神社通いが始まりました。

斎藤氏の次なる課題は、左側の干支月日です。

「確認」され、それが千葉県最古の力石とわかっても、
これと保存とは別問題です。

保存にはお金もかかりますし、氏子さんたちの同意も大切ですし。

そんなわけで「万治石」はまだ土の中。

顔だけ出している「万治石」に、斎藤さん、
水をかけたり光を当てたりして判読を試みたそうです。

下の写真は、2年後の今年10月の「奉祝祭」で、
地域のみなさんにお披露目され祝福を受けている「万治石」です。

力石も「まさか、こんな日が来るとは」と驚いたことでしょう。

CIMG4898.jpg
千葉県野田市今上・八幡神社

    万治石のうれし涙か雨の降る    雨宮清子

さて、ここから次に問題とされた干支と月日を検証していきます。

まず、誤読されたときの刻字です。

          明治四年
   奉納力石五十六メ目
          辛未年五月日

これを斎藤氏はこのように読み解きました。

          万治四年
   奉納力石五十六メ目
          吉三月日

「この三月日を見て頭に浮かんだのは、
日本で2番目に古い久喜市「万治石」「九月日」でした。
またと読んだのは、これが吉の異体字だと思ったからです」と斎藤氏。

こちらは式典が始まる前のまだ誰もいない境内です。
鳥居の右端に「万治石」

その向こうに遊具のパンダとラッコが人待ち顔に並んでいます。

CIMG4894 (3)

2018年当時の様子を下記に書いていますので、お読みいただけたら幸いです。

「検証します」

私から少し解説いたします。

「辛未年 五月日」がなぜ間違いかというと、

最初これを解読した方は、「明治四年」と初動ミスをしてしまったため、
反射的に明治四年の干支「辛未」(かのとひつじ)と思い込んでしまった。

しかし、万治四年の干支は「辛丑」(かのとうし)なので、
明らかに間違いなんですね。

また「五月日」の解読にも疑問があります。
というのは、

万治という年号は「万治四年四月二十五日」をもって改元され、
それ以降は「寛文元年」になった。

だから通常は「万治四年五月」あり得ないのです。

下の写真は、雨の中を来てくださった人たちです。
時間を追うごとに境内は人でいっぱいに。

本殿の中では神官さんと巫女さんが奉斎の準備中。

新聞記者さんも取材にきてくれましたよ。

CIMG4906 (2)


この刻字の検証は次回へつづきます。

当日の式典の様子もお伝えしていきます。

ビビッとX波が…

=斎藤氏から新たな情報=

今回新発見の力石に名を刻んだ「紙屋 忠治郎」についてです。
末尾に載せましたので、あわせてお読みください。

      -----◇ーーーーー


「臨時ニュースです!」

なぁんて、少々大げさですが…。

ここで「万治石」を一度お休みして、
力石の新発見というほやほやのニュースをお伝えします。

「万治石」発見の功労者・斎藤氏は、今までに数多くの力石を発見。

発見した数をお聞きしたあとすぐ発見するので、
私は正確な数を覚えきれません。

確か900個ぐらいになるかと思います。

そして10月28日、またまた新発見!

「ポタリングに出かけたら、ビビッとX波が…」

力石から発信されるX波なる電波をたどって行ったら、

ありました!

これです。
IMG_9075.jpg
埼玉県杉戸町下高野396・永福寺

永福寺のご住職が言うには、

「2か月ほど前、隣家を解体したらこれが床下から出てきた」

な、なんと!

「それで、刻字のある立派な力石だったので寺で引き受けて、
地蔵堂の真裏に立札を立てて保存処置した」とのこと。

切り付けも深くしっかりしていて、状態は良好です。

  「文政八酉年 幸手久㐂町  紙屋  忠治郎
       六拾貫目
                江戸□ 庄兵衛」


今から194年も前の力石です。

「万治石」の約200年後の力石なので文字も鮮明ですが、
それだけではなく、
こちらは床下、万治石は野ざらしで人々に踏まれてきた、
その違いが出ていますね。(でも、こうした石の来し方も歴史です)。

なにはともあれ、幸せな力石
忠治郎さんに庄兵衛さん、いい方に拾われてよかったね!
 
IMG_9082.jpg
70×48×26余㎝

斎藤氏の話はここで終わらなかった。

ご住職の話と斎藤氏の調べた話を合わせると意外なことが明らかになった。

「解体した隣家は大橋家といい、それ以前は東大寺という修験の寺だった。
その大橋家のご先祖も東大寺の関係者だったという。

文治二年、あの西行が東大寺の大仏再建の勧進に
奥州・藤原氏を訪ねる旅の途中で、ここを通った。

しかし旅の疲れか西行さん、この地で病に倒れ、しばらく小庵で療養。
やがて村人たちの手厚い看護のおかげで全快。

そして旅立ちの時、

西行が村人たちとの別れを惜しむように、
小庵の庭先の松の木を見て振り返ったことから、
この松は「西行見返りの松」と呼ばれるようになった。

その後西行が療養していた小庵は奈良の東大寺にちなみ、
東大寺と名付けられた」ー。

こちらは「西行見返りの松」の標石です。
達筆です。

IMG_9088.jpg

「東大寺は今はなく、大橋宅もなく、松の木もなくなって、
草の生い茂る更地が広がるばかり。

そしてこの標石は少し離れた墓地の片隅に横たわり、
はるか昔を懐かしむように空をあおいでいました。

「六拾貫目」石はそのすべてを見渡せる場所に今、います」と斎藤氏。

その斎藤氏、感慨深げに…、

「偶然とはいえ、
雨宮さんが取り上げた「文治二年」から西行絡みで、
この力石につながるとは…」

ふふふ。
何を隠そう、実は西行さんに託してあの力石に、
X波を送っていたのはこの私メでございます。

     
          ーーーーー◇ーーーーー

       
         =「紙屋 忠治郎」=


大橋家の床下から出てきた「六拾貫目」石には二人の名前がありました。
その中の「忠治郎」には意外な事実が…。

江戸に「飯田町 万屋金蔵」という超有名な力持ちがいました。
有名ですから渡辺崋山にも描かれました。

20150319061301022_201911012230349e4.jpg

東京都江東区の亀戸天神社には、
狂歌師の大田蜀山人が揮毫した力石もあります。

2014年のブログに書きましたので、お読みいただけたら幸いです。

渡辺崋山が描いた「飯田町万屋金蔵」

大田蜀山人が書いた「臥龍石」

この金蔵さん、埼玉県にも力石を2個残していますが、
その中の一つに、「忠治郎」も名を刻んでいたのです。

万屋金蔵と共演していたことを知り、
改めて彼の膂力の凄さがわかりました。

でも彼の力石はこれを含めて2個しかない。
田舎の紙屋の使用人だからか?」と斎藤氏。

こちらがその力石です。右が忠治郎と金蔵共演の力石です。
左の石には願主として「久喜町 吉右エ門」とあります。
紙屋の主人なのでしょうか?

IMG_9162.jpg
80×58×26㎝(左) 73×50×21センチ(右)。共に文政五年正月。
埼玉県幸手市中・雷電神社

ひょっとして、
この「紙屋」さんのことや忠治郎のご子孫がわかるかも。


※情報・画像提供/斎藤

  =悲しすぎる=

沖縄の首里城炎上、悲しすぎます。なぜ?なぜ?と思うばかりです。
本当に無念。5,6年前に行きました。
炎上する画面、見ていられませんでした。
原因はなんであれ、文化遺産が消えてしまうのは本当に悔しい。
プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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