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すぐやる課

暮れも押し詰まった2017年12月28日、
私は思いがけない電話をいただいた。

なんと、野田市役所文化財課の職員の方からでした。

「八幡神社の力石、現地で万治と確認できました」

「本当ですか!」

嬉しさがドバッと脳天を突き抜けた。

なによりも、
県外の見ず知らずの人間からのメールなのに、
その主旨を理解して、しっかり受け止めてくださったこと、

そのうえ、わざわざ現地まで足を運んで見てきてくださったこと、
その行動力、温かさに驚くやら感動するやら。

下は、土中に埋まっていたころの「万治石」です。

右上に「万」という文字が見えます。
400年もの時を経ていますので、
石のデコボコか刻字なのかを判断するのは難しいのです。

拡大万治石

野田市職員の迅速な対応。
そのときの感激を翌2018年1月3日のブログに書きましたので、
お読みいただけたら幸いです。

「朗報です\(^o^)/」

このとき私の脳裏に浮かんだのは、
50年前、千葉県松戸市の市役所で始めた「すぐやる課」でした。

この「すぐやる課」の創設は、ドラッグストアチェーンの「マツモトキヨシ」創業者で、
当時、市長になったばかりの松本清氏だったとか。

さて、
私が力石の情報や問い合わせで一番お世話になっているのは、
各地の教育委員会・文化財課です。

どこの役所の方も親切で、市民便りで公開した力石のDVDをお送りくださったり、
「ぜひ来てください」と誘われたり。市長の秘書の方から、
「うちの力石もよろしく」とのメールや画像を送っていただいたことも。

こちらは今まで千葉県最古の力石保有とされてきた
愛宕神社力石群です。

CIMG4881 (5)
千葉県野田市野田

ただ残念なこともありました。

今年7月、近代資本主義の父といわれた
渋沢栄一資料」を丹念に調べていたとき、
「栄一翁が青年時代に担いだ力石」資料を長野県内の某市で見つけました。

すぐ現地の市役所に問い合わせたら、
担当職員は「その情報は初めて知った」と驚いていたが、
その後、なぜか厳しい条件を提示してきたため調査はとん挫

「まず当市で要求した項目を書いた書類を提出。
それを見て、現地調査の許可を与えるかどうかはこちらで決める。

許可されても勝手な調査は禁止。
調査には自分が同行し、決められた日時と場所の調査のみ許可。

「渋沢石」の存在をブログへ書くことも、渋沢関係者に知らせることも、
ブログ記事を博物館へ収蔵することも禁止する」

驚愕しました。「来るな」「手を引け」というのに等しい要求です。
10数年、各地の役所の方々にお世話になりましたが、こんなことは初めてです。

私自身が見つけた情報なのに、
なんで市の一職員がブログにまで干渉して禁止だなんていえるの? 

師匠の高島先生へも同じような要求があったとかで、
「何十年もやってきたけど、こんなうるさいことをいう行政は初めてだ」と。

市の職員とはいえ、役所内外では一目置かれた歴史学者さんのようで、
市のHPでは固有名詞で検索できるほどのスター的存在。

だからこそ、
同じ歴史をやる者なら調査とはどういうものかは熟知しているはずなのに、
この対応は、

不可解としかいいようがない。

そんなわけで「渋沢石」は、
みなさまに資料発見のお知らせはできたものの、
現地調査ができず、ちゅうぶらりんの状態に。

今まで力石の報告が一つもなかった市で、その第一号となったのが、
今度の一万円札の顔になる人の力石というとびきりの発見だったのに。
 
むしろ市の誇りになるはずという考えは、私の思い上がりでしょうか。

力石調査は営利目的でも功名心からでもありません。
記録として残したい、
みなさんに知っていただきたい、その一念なんですが…。
 
  ※渋沢がこの村で若者たちと力石で競ったことは資料から事実ですが、
    現在残されている石がその力石かは未調査のため不明。

耳障りな話はこれくらいにして…。

下の写真は、
今まで千葉県最古の力石だった愛宕神社の「宝暦石」です。
宝暦六年(1756)とあります。

「万治石」発見で、千葉県最古から14番目の古い力石になりましたが、
ここに刻まれた「飯田氏」は野田の醤油の元祖。

この飯田氏が甲斐の武田氏と越後の上杉氏が信濃(長野県)で戦った
「川中島の合戦」(1553~)に、たまり醤油を届けたという伝承がありますから、
無銘の力石の中には万治より古い石があるかもしれません。

CIMG4883 (2)

発見から8年目にしてようやく第三者の認知を得た「万治石」

この朗報はすぐ斎藤氏へ伝えました。

この日斎藤氏は、
「うれしくて一人で祝杯をあげて、したたかに酔った」そうです。

それから2年たった今年10月、
ついに斎藤氏と地元の方々の努力が実りました。

下の写真は、
「万治石保存奉祝祭」の式典が無事終了したあと、
これに関わった人たちの「万治石」の前での記念撮影です。

雨が降ってもみんなの心は青空。

地元の石造物研究者のI氏、斎藤氏、
保存にご尽力くださった自治会長で神社総代のS氏と。
今上
千葉県野田市今上・八幡神社 

野田市役所の職員さんは、あらゆる方面に根回しをしてくださり、
ご自分は一度も姿を見せることなく、着実に保存への橋渡しをしてくださった。

「貴重な情報をいただき感謝しています」

そう言った職員さんのあの日の声は、今もしっかり耳に残っています。


<つづく>

招待状がきた!

先月末、私は一枚のはがきを受け取りました。

差出人は千葉県野田市今上の八幡神社総代さんです。

江戸川の堤防から見た「八幡神社」です。
1野田市

「境内で千葉県最古の力石が発見されましたので
お披露目をしたく…」

うわっ、あの「万治石」がとうとう陽の目を見たんだ!

嬉しかったですね。
ここまでくるのに、紆余曲折がありましたから。

順を追って説明していきます。

2年前の2017年12月7日のブログに、
私は「歴史を塗りかえた発見!」 を書きました。

招待状の差出人さんが総代を務めるこの八幡神社に、
以前から半分土中に埋まった力石がありました。

これです。土留めに使われていました。(一番手前の石)
1万治年

当時地元ではこの石の刻字を「明治四年」としていたのですが、
これは誤読だったのです。

なぜわかったかというと、
今から10年前の2009年、埼玉の研究者の斎藤氏が再調査。
その結果、

「これは明治ではなく万治ですよ」と。

つまり誤読したまま、今日まで来てしまったというわけです。

万治四年と明治四年では210年もの開きがあります。

時は四代将軍家綱の世。まだ江戸初期。

あの長野県の有名な「万治の石仏」と同じ時代の力石です。

の石仏万治
長野在住のブログ「音・風・水」さん提供

これって大発見じゃないですか!

だってこの発見で、この「万治石」は、

千葉県最古、
日本で三番目に古い力石
になったのですから。

まさに「歴史が塗りかえられた瞬間」でした。

でもこの大発見は長い間、陽の目を見なかったのです。

私が斎藤氏からこの話をお聞きしたのは、
発見からすでに8年もたった2017年11月のこと。

発見当初斎藤氏は、このことを各方面に知らせたものの反応はなく、
忸怩たる思いでいたとのこと。

力石が粗末に扱われていると聞けば、すぐ憤慨する私。

ここでひと肌脱がなきゃ女がすたる
というわけで、

私、がんばりましたよ!

まずは野田市役所の文化財課へメールしました。
この師走の忙しい時期にです。

申し訳ないと思いつつも、いてもたってもいられず。

果たしてお役所は対応してくださるのか、一抹の不安を抱きながら。


<つづく>

※写真提供/斎藤

※つい4日前にいた千葉県で大雨だなんて。
 みなさま、どうぞご無事で。

私の宝物

「ちから石探し」の迷路にはまってさァ大変!

持病の逆流性食道炎はぶり返すし、頭痛もするし、おまけに足もつった。

ああ、年だなぁと落胆したとたん、救いの手が…。

遠方に暮らす5歳の孫からこんなプレゼントが届きました。

CIMG4871 (3)

途端に感激でウルウル。

「美人に描いてくれてありがとね」

さっそく電話したら、シャイな孫クン、なかなか声を出しません。
電話の向こうで、
「なんだお前、恥ずかしいのか」という息子夫婦の笑い声。

「ありがとね。宝物にします」と言ったら、
やっと声が…。

「またね」と言ったら、元気な声で「バイバイ!」

こんな手紙もくれました。
「ながいきしてね」と書いて、ハートマークまでつけてあります。

img20191019_06470979 (2)

ありがとね。
これは鶴は千年、亀は万年のカメさんね。

なんか絵の才能があるんじゃない?
なんて、さっそくバァバばか。

どんな高校生になるのかなあ、どんな青年になるのかなあ。
どんな恋をするのかなあ。

絵のカメさんにあやかって、万年生きなくちゃ。


        ーーーーー◇ーーーーー

       =お知らせ=

※このブログが三重県総合博物館へ収蔵されたことが
  FC2総合インフォメーションで紹介されました。

※新天皇即位の22日、千葉県野田市へ行ってきました。
  この日、今上八幡神社で即位のお祝い
  400年ぶりに地中から掘り出された
  「万治石」保存の式典が執り行われ、二重の喜びとなりました。

  この様子は次回よりお伝えします。

写真とスケッチ

本日は「文治二年のちから石」を離れて、こんなお話を…。

    ーーー◇ーーー

世間から忘れられた「力石」

でも捨てたもんじゃありません。
みなさまの目に止まり、このブログへお知らせくださる方も増えました。

ありがたいなあと思っております。

そのお一人がブログ「へいへいのスタジオ2010」の管理人さんです。
丹念に歩かれて細部にまで目を止めていらっしゃいます。

なによりも写真が素晴らしい。

そのブログ主さんから「姫にプレゼントいたします」と贈られたのが
この「姫石」(左)です。

さいたま市在住の酒井正さんのスケッチ(右)と並べてみました。

姫石へいへい (2) img20191019_08151760 (3)
さいたま市見沼区中川・中山神社

下の写真に柵のある場所が写っていますが、姫石はこの中にあります。

気づく人はほとんどいないと思います。

「へいへい」さんはそれを見つけて、
「姫石」まで確認したのですから凄いです。

力石をよくご存じの方なんですね。

11DSC_4040.jpg

中をのぞくとこんな感じ。この四隅に力石が置かれています。

へいへい2

同じ場所を酒井さんも描いています。
そのころはまだ柵はなかったんですね。

真ん中の石柱には「御火塚」と刻まれています。

ここで火渡りをするそうですが、
石は火にあたると割れやすいので、ちょっと心配です。
※「火渡り(鎮火祭)」は別の場所で執り行うとのことで安心しました。
   よく考えたら石柱が建っていますから、ここではできませんよね。

石には、幕末から明治にここ中川村に住んでいた村の力持ち、
「小熊權治郎」「松澤為吉」「小熊菊次郎」の名が刻まれています。

右側は天保四年の「ご上覧力持ち番付」です。

岩槻の卯之助文八、越ケ谷の安五郎の名も見えます。

酒井正さんが描いた中山神社の力石です。
img20191019_08131528 (3)

今度は酒井さんのスケッチからお見せします。

「旧坂東家住宅見沼くらっしっく館」の力石です。

窓の下に力石が2個、置かれています。

img20191019_08161601 (3)

「へいへい」さんが撮影したのがこちらです。

1へいへい
さいたま市見沼区片柳

写真とスケッチのコラボ、いかがでしたか?

描く人、撮影する人それぞれの感性が反映されていますね。

また、
誰も担がなくなった力石は、思わぬところに使われていたりします。
下の絵はそんなものの一つで、手水鉢の台座になっていました。

img20191019_08305003 (2)
さいたま市浦和区高砂・若王子稲荷神社

みなさまも神社などへ行かれたとき、
「力石はないかなあ」と探してみてください。

車止めになっていたり、草むらに転がっていたりします。

刻字があったらしめたもの。
新発見になるかもしれません。

力石をたくさん載せてくださっている「へいへい」さんの記事を
ぜひお読みください。

「行ってみたい!」と思わせる楽しさ満載です。

「へいへいのスタジオ2010」


       ーーーーー◇ーーーーー

  =追記=

「へいへいのスタジオ2010」さんの10月20日の記事をご覧ください。

ここまで無残な扱われ方をしている力石は今までみたことがありません。
師匠の高島先生が以前、寺の奥様に、
「力石ですから大切にしてください」とお願いしたそうですが、全然変わりなし。

これを奉納した若者たちを踏みにじるも同然。
どうか寺の一角に集めて「パワーストーン」として、
ご活用くださるようお願いいたします。


※画像提供/ブログ「へいへいのスタジオ2010」
※参考資料・画像提供/「さいたま市の力石」高島愼助 酒井正
                岩田書院 2005

小鍛冶と小ぎつね

「文治二年」「ちから石」「稲荷の鳥居」

私はコレで迷路に迷い込みました。

壁にぶち当たったら原点に帰る、それしかない!
というわけで、発端の屏風絵に戻ります。

上杉本「洛中洛外図屏風」の「べんけい石」の場面です。
img068_20191016101931c2f.jpg

そして重要なのがこの絵の上部に描かれていた「粟田口」

弁慶石もここから入洛したという洛中・洛外の出入り口です。

文治三年、東大寺院主の勧修坊得業という高僧が、
義経に通じたとして鎌倉の頼朝の元へ連行されます。

その時の経路もこの粟田口から始まります。

粟田口ー松坂、山科を通って逢坂の関。
そして、
園城寺ー瀬田の唐橋を通って伊吹山…、東海道を下って鎌倉へ。

その粟田口です。
img032 (4)

平安時代、この粟田口に、
名工・三条小鍛冶宗近という人が住んでいたそうです。

時の一条帝の求めで剣を打つことになったが、
相槌(あいづち)がいなくて困っていたら、
どこからともなく一人の童子が現れて相槌となった。

相槌(あいづち)=剣を打つ職人の相方。
    金鎚を持った職人と木槌を持った職人が気持ちを一つにして
    「丁々、しっていころり」と打合せること。
    転じて相手の話にうなづくこと。
            
右側が小鍛冶宗近、左側が小きつねの童子。
img20191016_10265161 (2)

めでたく剣は出来上がり、童子は稲荷山へ消えた。
この童子、稲荷山に住む小キツネだったそうな。

そこで宗近、剣の表に「小鍛冶宗近」、裏に「小狐」と名を入れ、
「小狐丸」と名付けて帝へ捧げ奉った。

でもねえ、初期のころのものには狐は出てこないんですよ。
女房が相槌になって、美しい夫婦愛になっているんです。

キツネが出てくるのも一匹だったり三匹だったり。

下は柳森神社の「おたぬきさん」です。

「キツネばかりじゃないよ。おいらたちもこうしてがんばってるんだよ。
他(た)を抜(ぬき)たい、出世したい人は参拝に来てね!」

CIMG3864 (2)
東京都千代田区神田須田町。
ここには力持ちの神田川徳蔵一門が持った力石群があります。

ま、それはさておき、
宗近の氏神は「稲荷の明神」

そして相槌となった小狐は、剣が完成するや、

「これまでなりと言い捨てて群雲(むらぐも)に飛び乗りて、
東山稲荷の峰にぞ帰りける」

この稲荷社ってどこだ、と探したら二社あった。

知る人ぞ知る「伏見稲荷大社」
そしてもう一社は「花山稲荷神社」

小ぎつねがやってきたのは、どっち?


※参考文献・画像提供/「謡曲三百五十番集」江戸文藝之部 
               日本名著全集刊行会 昭和三年
※画像提供/「上杉本洛中洛外図屏風を見る」小澤弘 川嶋将生 
        河出書房新社 1994

義経と韓信

「文治二年」の解明に決定打がなく、スッキリしませんが、
参考までに、才丸の句、

     文治二年のちから石もつ   

これを受けて詠んだ次のコ斎の句もあげておきます。

     乱れ髪俣(股)くゞりしと偽らん   コ斎

「芭蕉全集」の校注者によると、句の意味はこのようです。

「力石の持ち競べで乱れた髪を、韓信の故事のごとく、
股くぐりをしたためと偽った」

韓信(かんしん)とは、

古代中国の戦国時代、
劉邦(りゅうほう)につかえ、合戦にあけくれ、
ついに劉邦に天下をとらせた武将。

劉邦=前漢王朝の初代皇帝

劉邦です。
劉邦 (2)

その韓信の故事とは、

貧乏だった若いころ、村の不良に、
「お前は臆病者に違いない。もしそうでないならその剣で俺を刺してみろ。
できないなら俺の股をくぐれ

と言われて、韓信は黙って股をくぐった。
周りのみんなは笑ったが、韓信の気持ちはこうであった。

「ここで相手を斬り殺しても何の得にもならない。
仇持ちになるだけだ。
恥はいっとき。自分には大きな志があるのだから」

その後、めきめき頭角を現わし、
主と仰いだ劉邦に天下をとらせた韓信。

その韓信と、兄・頼朝のために合戦にあけくれ、
兄を将軍へと導いた義経とがどことなく似ているような…。

コ斎が急に「韓信」の名をあげたのも、
「文治二年」からの連想かも、なんて思ったりしたんですけど、

こじつけすぎかなぁ。

ま、それはともかく、コ斎は、

「力石を持ち上げたとき髪が乱れたのを、
韓信みたいに股くぐりしたせいだとカッコつけた」と詠んだ。

重い力石を歯を食いしばって持ち上げたら、
髪を束ねていた元結(もっとい)がゆるんでザンバラ髪になった。

img320_201910130901540f7.jpg
「力石ちからいし」より

それを見た仲間たちが、
「オイオイ、それじゃいい男が台無しじゃないか」と笑った。

そこで若者は照れながらもこう言い放った。
「韓信の股くぐりよ」

そんな情景が浮かんできます。

この韓信、最期は、
謀反を企んだとして一族もろとも殺されてしまいますが、
それも義経の最期とダブリます。

才丸の句にこんなのもあります。

    梅が香に更(ふ)けゆく笛や御曹司

御曹司とは牛若丸、つまり義経のことです。


     ーーーーー◇ーーーーー

      =三国志=

ブログ「平成の世捨て人」さんに、
三国志の人形展の記事が出ています。
韓信や劉邦は出てきませんが、とても興味深く楽しい記事です。

ここにうまく貼り付けられなかったので、リンク欄からお願いします。
9月11,16,24,27日、10月1,6日に掲載されています。


※参考文献/「校本・芭蕉全集」第三巻 連句篇上 富士見書房 平成元年
※画像提供/「力石ちからいし」高島愼助 岩田書院 2011

なんで「文治二年」なんだろう

小石川の連句の席で、嵐雪が「麻布の寝覚め…」と詠んだ。

それを受けて其角が、「いなりの鳥居…」と続けた。

そこで麻布にある稲荷神社をさがしてみたら、三社見つかった。
前回、ご紹介したのがその神社です。

三番目の霞山稲荷大明神かも、と色めき立ちましたが、
どこをつついても力石は霞みに隠れて出てこない。

朝もやの向こうでおキツネさんに笑われてしまいましたが、
手を突っ込んだ手前、今さら引けません。

難関突入です。ちょっとオーバー(笑)

其角ゆかりの三囲(みめぐり)神社の柔和なおキツネさん。
CIMG0916_20191011150550595.jpg  CIMG0917_20191011145757c00.jpg
東京都墨田区向島

其角の「いなりの鳥居」を受けて、次の才丸はこう詠んだ。

   「文治二年のちから石もつ」

それらを「芭蕉全集」の校注者はこう解釈した。

「麻布あたりの朝の景。
ちから石は持ち上げて力試しをする石。社頭に多い。
(だから才丸は、其角が詠んだ)鳥居を古い稲荷社のものとした」

句の場所が「麻布の古い稲荷社」というのは、
句を詠んでいけば素人の私でもわかります。

私がアレッ?と思ったのは、その年号なんです。

文治元年でも三年でもなく、はたまた、
義経の自刃や奥州の藤原氏滅亡があった文治五年でもない。

本の校注者は「文治二年」は「頼朝時代の年号」とだけ記していたけれど、
句や歌は想像でも詠むとはいえ、
「だから詳しい解釈はいらない」では困るんです。

芭蕉門下の俳人たち。
左から二人目は芭蕉と共に「奥の細道」を歩いた曽良(そら)

img20191011_14144956 (2)img20191011_14134693 (2)
「芭蕉全集」より

だって不思議じゃないですか。
「文治二年」と言い切っているのですから。

「明治は遠くなりにけり」というのと、
「明治二年は〇〇」というのとでは意味が違ってきますもの。

私は以前、ブログにこう書いた。

「文治二年」と刻字された力石は最初から存在しなかった。
ただこの年号はみんなの共通認識になっていた特別の年号のはず、と。

才丸はその年号を稲荷の古社の力石に仮託して詠んだ。

兄・頼朝に討たれた義経は、
悲劇の英雄として浄瑠璃や御伽草子で世間に広まり、
時代を越えて人気者になっていった。

だから江戸時代の武士や町人たちは、
こぞって、「義経記」や「太平記」を買い求め、読んだという。

下は「奥の細道」と奥付です。

芭蕉は500年前の義経自刃や藤原氏滅亡の地を見て一句詠んだ。

   夏草や兵(つわもの)どもが夢のあと

奥付には、「寛政元年酉年中秋再板」とあります。

img20191011_14163149 (3)img20191011_15234649 (2)
「芭蕉全集」より

その義経を思って「文治」を思い浮かべたのなら、
奥州で無念の最期を遂げた文治五年の方がわかりやすいのに、
才丸はわざわざ「文治二年」と詠みこんだ。

となると、才丸さんの脳裏に浮かんだのは、
この年、奥州への途中で頼朝に会ったあの「西行」だったんだろうか。

ほかに目を転じると、
この年にはこんなこともありました。

後白河法皇による高野山での平氏一類の怨霊しずめの大供養。
東大寺衆徒による伊勢神宮・神宮寺での平氏追善供養。

なにしろ、平家の怨霊だらけだったのですから。

そして政局が武士へと移り鎌倉時代が幕を開けた、

仏教界でも浄土宗、日蓮宗、禅宗などの新仏教が次々興り、
国家・貴族を守る仏教から民衆を救う仏教へと変わっていった。

そういう大変革の時代の幕開けが、この「文治二年」だった。

才丸はそこを言いたかったのかと。

考えすぎでしょうか。

      
     ーーーーー◇ーーーー

   
     =「弁慶鏡ケ井戸」=

  ブログ「路傍学会」会長さんの記事に、
  義経一行が奥州落ちの途次、弁慶が見つけたという井戸が出てきます。
  ぜひ、お読みください。
 
  「路傍学会」


※参考文献・画像提供/日本名著全集・江戸文藝之部第三巻「芭蕉全集」
               日本名著全集刊行会 昭和四年

麻布の稲荷ってどこ?

頼朝、義経、西行が慌ただしく動いたのが文治二年(1186)。

それから約500年たった江戸初期、この年号が連歌の会で出てきました。

先日ブログで示したその連歌です。

     わくら葉やいなりの鳥居顕れて            其角
               文治二年のちから石もつ       才丸

わくら葉=病葉。老葉。
       夏、青く茂っている葉の中に、一枚だけ色づいた葉のこと。

黄色や褐色に変色した「わくら葉」は老いを現わし、
鮮やかな赤は季節を先取りした先駆者、抜きんでた優れ者。

「たまたま、偶然」という意味もあるとか。

で、其角は続けて「いなりの鳥居」と言っていますから、
ここでの「わくら葉」は鳥居同様、周囲の葉とはまったく違う
鮮やかなだったと思うのです。

その赤い「わくら葉」と鳥居が朝もやの中に忽然と現われた。

CIMG0914.jpg
静岡市清水区・美濃輪稲荷神社

「芭蕉全集」の注釈では、この稲荷神社は「麻布」と書いています。

なぜ麻布かというと、前句の嵐雪がこう詠んでいるからです。

     麻布の寝覚ほととぎす啼け

「寝覚め」ですから。それも早朝。

そこで麻布の稲荷神社を当たってみました。

三社見つかりました。

一つ目は「麻布十番稲荷神社」(港区麻布十番)。

この神社は昭和25年の再建という新しいものですが、
元は、
江戸初期の慶長年間創建の末広神社(青柳稲荷神社)と、
10世紀初頭創建の竹長稲荷神社で、

米軍の空襲で焼失したため合祀し、
名称も「十番稲荷神社」と改称して現在地に遷座したそうです。

麻布で稲荷ですから、コレかなと思いましたが、
でもですね、力石は影も形も話すらない。

そこで二つ目の
元麻布に鎮座する「麻布氷川神社」をあたってみました。

創建は頼朝や義経の先祖・源経基というのですから、
うん、これかもと期待がふくらみます。

松の木をご神体にしていたとかで、
「麻布一本松神社」ともいわれていたそうです。

江戸名所図会に描かれた「麻布一本松」
img20191006_14594052 (2)

松がご神体とは、
あの京都三条河原の「弁慶石」の松をほうふつとさせるではないですか。

ただ、ここにもお稲荷さんはいらっしゃるんですが、
近くの松平陸奥守(仙台藩)の屋敷跡にあったものを
昭和の初めに移したそうですから、新しいんですね。

がっかり。

思わず期待がしぼみかけましたが、
でもなんと、境内に力石らしき石があるんですよ。

さっそく神社へお聞きしたら、
「昔からポツンと置かれているのですが、力石かどうかはわかりません」

写真を見る限り、力石なんですけどねぇ。

下に「麻布氷川神社」のホーページを置きました。
「麻布氷川神社について」のページの3番目あたりの右下に
力石らしき石が出ています。

麻布氷川神社

で、今度は三番目の神社、桜田神社(西麻布)へ。

桜田神社=元・霞山稲荷大明神
   
中世には霞が関にあって、
頼朝が美田五百七十石を寄進したそうです。

寛永元年(1624)、麻布に遷座。

江戸名所図会の「霞山稲荷社」です。ちょっとピンボケ。
img20191006_14565436 (2)

其角が「わくら葉や」と詠んだ句会は、
遷座から60年余もたっていますから、
この稲荷社の名は世間に充分知れ渡っていたはず。

これは有力です。

余談ですが、
この元・霞山稲荷大明神(桜田神社)は、
「新選(撰)組」の沖田総司や乃木将軍ゆかりの神社で、
今も「新選(撰)組」ファンの参拝が絶えないそうです。

しぼんだ期待が再び膨らんできました。


※参考文献・画像提供/「日本名所図会全集/江戸名所図会巻二」  
               復刻版 長谷章久監修 名所普及会 昭和50年
※参考文献/「校本 芭蕉全集 第三巻 連句篇」大谷篤蔵ほか校注
         富士見書房 平成元年

富士見西行

69歳で2度目の「小夜(さや)の中山」を歩いた西行。
何を思ってか、
東海道をはずれて頼朝のいる鎌倉・鶴岡八幡宮に姿を現します。

時は文治二年八月十五日。

同じ日の同時刻に、なぜか頼朝も八幡宮を参詣。

下の写真は、鶴岡八幡宮前の駐車場にある力石です。

2個ありますが、どちらも
610㎏の力石を持った稀有の力持ち・三ノ宮卯之助の力石です。

1鎌倉三栄稲荷
神奈川県鎌倉市雪ノ下 三栄稲荷神社

三ノ宮卯之助といえば、力持界のスター。
出身地の埼玉県では文化財に指定され、お菓子にもなっていますが、
ここのは、

石垣にめり込んじゃって…。

トコトン冷遇されています(涙)

2鎌倉三栄稲荷

ま、泣き言はそれくらいにして、

「吾妻鏡」によると、
「老僧が一人、八幡宮の鳥居の辺を徘徊していたので名字を聞いたら、
佐藤左衛門尉義清(のりきよ)法師と名乗った」

西行さん、
わざと頼朝の目につくようにウロウロしたり、
43年も前に捨てた武士時代の名を告げたり、

頼朝から、歌道や弓馬のことを尋ねられると、
「歌道の奥深いことは全く知らない
弓馬のことは罪業の原因になるので、すべて忘れた」なんて言う。

さらに、
翌朝、頼朝が引き留めるのにも従わず、贈り物の銀(しろがね」の猫も
門前の子供に与えて立ち去ったという。

頼朝さん、とことんコケにされています。

交野(大阪府枚方市)の天の河のほとりにたたずむ西行です。
img20191001_11044895 (2)

西行がいつ奥州へ着いたか、いつ戻ったかは不明だそうですが、
目的の金はその年の10月、砂金450両が京へ到着したとのこと。

奥州の藤原氏は西行の先祖とはいえ、
それだけの砂金を出させた西行の手腕はたいしたもの。

それをわずか2か月足らずで京へ送り届けた藤原氏はもっと凄い。

その西行さん、奥州へ旅立つ前、どうも伊勢で義経と会っていたような…。
その数か月後、西行は太平洋側の東海道を下って奥州へ。
義経は日本海側の北陸道を回って同じ奥州へ向かっている。

「吾妻鏡」にはそんなことも書かれています。

で、「吾妻鏡」を読んでいると、
頼朝さん、義経をわざと「泳がせていた」みたいな感じ。
いづれ奥州へ行くだろうと…。

学者さんたちも、
「頼朝の本当の目的は義経ではなく、奥州・藤原氏討伐にあった」
なんて言ってますし。

そして文治5年、
義経は最大の庇護者の秀衡死後、息子の泰衡に攻められて自刃。
このとき義経31歳。

間髪を入れず頼朝はその泰衡を攻めたため、
奥州藤原氏は滅亡してしまいます。

願成就院の願いは見事に成就したわけです。

義経自刃の翌年、西行もまた河内の弘川寺で73歳で示寂。

こちらは「富士見西行」像です。
CIMG4289.jpg
静岡市清水区東山寺・林香寺。鎌倉時代創建。

西行はこの旅で富士山の歌を詠んでいます。

   風になびく富士のけぶりの空に消えて
              ゆくへも知らぬわが思ひかな


西行といえば、
  
   ねがわくは花の下にて春死なん
               そのきさらぎの望月のころ


が辞世の句として世間に流布されていますが、

実は西行自身は「風になびく」の歌を
「これぞわが第一の自嘆歌(辞世の歌)」と弟子に伝えていたそうです。

「命なりけり」と絶唱した小夜の中山をようよう越えたとき、
忽然と姿を現した霊峰富士を見て、
もはや思い残すことはないと感じたのであろう」(白洲正子)

写真の「富士見西行」像は、
元は、静岡市由比倉沢の富士が見える見晴らし所にあったが、
明治元年の天皇御東幸の際、
「沿道の石像・石仏は撤去せよ」との通達で、お寺で引き取ったとのこと。

「現在の場所から富士山は見えません」(望月久代)

ああ、これぞ

「ゆくへも知らぬわがおもひ」かな。


※画像提供/斎藤
        /「西行法師行状絵巻」小松茂美編 中央公論社 1995
※参考文献/「西行」白洲正子 新潮社 1998
        /「東山寺の歴史」望月良英監修 望月久代編著
         私家本 平成27年

寺とか神社とか

願成就院(がんじょうじゅいん)という古刹があります。

場所は静岡県伊豆の国市。

建立は文治五年(1189)。
建てたのは頼朝の妻・政子の父で、このあたりを支配していた北条時政

平氏なんですけど、なぜか娘は源氏の棟梁に嫁ぎました。

で、この寺院、奥州平泉の
藤原氏滅亡を祈願して建てたというのですから凄まじい。
でも伽藍構成は平泉の毛越寺を模して建てたというんですからややこしい。

以前はちょっと寂れた感じでしたが、
平成25年にここの仏像5体が国宝に指定されて、
にわかに脚光を浴び、参拝者が押し寄せるようになりました。

なにしろ仏像はすべて、あの超有名な仏師の運慶作。
胎内から文治二年の銘札がでてきたそうです。

文治二年は、義経が兄・頼朝に追われて逃げ始めた年です。
そういう時代に運慶さん、一生懸命彫っていたんですね。

願成就院のパンフです。
img20190930_15404145 (2)

さっそく私も拝観にいきましたが、受付のおばあさんの怖かったこと。
中においでの不動明王と脇侍の「せいたか童子」からも
眉間にしわを寄せてハッタと睨まれて固まりましたが、

阿弥陀様の穏やかさに緊張も溶けました。

でも、手を合わせつつも、私はなんだか複雑な気持ちになって…。
だって相手を滅亡させるという願いが成就するために建てたんですもんね。

ついでにいうと、平家が建てたあの広島県の厳島神社

一説には、平清盛の父忠盛が表向きは平家の氏神とし、
中国・宋との密貿易の隠れ蓑として使ったというのですから、

なんだかなぁ。

確かに入り江があって神域であれば、密かに船を入れられるし。
それで私腹を肥やしたというのですから、やっぱり興ざめしてしまいます。

ついでのついでに言うと、
清盛西行は同じ年に生まれて、
青年時代は北面の武士として一緒に働いていたとか。

同期生ですが、片や政権の長、片や世捨て人

僧形の清盛像(六波羅蜜寺)です。
「清盛の肖像画を見ると、
この人は乱視やないかと思うてるんです」(歴史家の中村直勝)

まあ、世の中が乱れていたのは確かですけどね。

img20190930_16261920 (3)

戦勝祈願隠れ蓑のほかに、
ライバルを陥れて殺し、その怨霊鎮めに建てた寺社もあります。

寺社のそうした創建の目的を考えると、
一体、私は何に手を合わせているのかと思ってしまいます。

とまあ、いつになく複雑な心境になりました。

荘厳で美しい寺社も好きですが、
でもやっぱり私は、巨石に神(精霊)を降ろして祈っていた原初の、
そんな自然と一体になった素朴さの方がいい。

そんな原初の姿を今に残す
「神と一体になって遊ぶ」シーンをお見せします。

姫路市大津区天満の「力持ち」です。
秋祭りに神明神社と蛭子神社で行われます。

拝殿前の地面に土俵を描くことで、ここが神の降臨する場だと示します。
たった一本の線なのに、その瞬間から、
その線を挟んで円の外側は、内側はになります。

その聖なる場で、若者たちが力技を見せます。

力比べが終わると神はお帰りになり、土俵はたちまち元の境内に戻ります。

CIMG2580.jpg
姫路市無形文化財

力持ちは明治のころまで「力士」と呼ばれていました。
力士は神仏を守る守護神「金剛力士」。

この日若者たちは、みんな金剛力士になりました。


※カテゴリーを三重県総合博物館にしっぱなしで、
 博物館と義経や願成就院とどう繋がるんだとお叱りを受けそうですが、
 博物館さま、もう少し目をつぶっていてくださいね。
プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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