すぐやる課
歴史を塗りかえた発見!
暮れも押し詰まった2017年12月28日、
私は思いがけない電話をいただいた。
なんと、野田市役所文化財課の職員の方からでした。
「八幡神社の力石、現地で万治と確認できました」
「本当ですか!」
嬉しさがドバッと脳天を突き抜けた。
なによりも、
県外の見ず知らずの人間からのメールなのに、
その主旨を理解して、しっかり受け止めてくださったこと、
そのうえ、わざわざ現地まで足を運んで見てきてくださったこと、
その行動力、温かさに驚くやら感動するやら。
下は、土中に埋まっていたころの「万治石」です。
右上に「万」という文字が見えます。
400年もの時を経ていますので、
石のデコボコか刻字なのかを判断するのは難しいのです。

野田市職員の迅速な対応。
そのときの感激を翌2018年1月3日のブログに書きましたので、
お読みいただけたら幸いです。
「朗報です\(^o^)/」
このとき私の脳裏に浮かんだのは、
50年前、千葉県松戸市の市役所で始めた「すぐやる課」でした。
この「すぐやる課」の創設は、ドラッグストアチェーンの「マツモトキヨシ」創業者で、
当時、市長になったばかりの松本清氏だったとか。
さて、
私が力石の情報や問い合わせで一番お世話になっているのは、
各地の教育委員会・文化財課です。
どこの役所の方も親切で、市民便りで公開した力石のDVDをお送りくださったり、
「ぜひ来てください」と誘われたり。市長の秘書の方から、
「うちの力石もよろしく」とのメールや画像を送っていただいたことも。
こちらは今まで千葉県最古の力石保有とされてきた
愛宕神社と力石群です。

千葉県野田市野田
ただ残念なこともありました。
今年7月、近代資本主義の父といわれた
「渋沢栄一資料」を丹念に調べていたとき、
「栄一翁が青年時代に担いだ力石」資料を長野県内の某市で見つけました。
すぐ現地の市役所に問い合わせたら、
担当職員は「その情報は初めて知った」と驚いていたが、
その後、なぜか厳しい条件を提示してきたため調査はとん挫。
「まず当市で要求した項目を書いた書類を提出。
それを見て、現地調査の許可を与えるかどうかはこちらで決める。
許可されても勝手な調査は禁止。
調査には自分が同行し、決められた日時と場所の調査のみ許可。
「渋沢石」の存在をブログへ書くことも、渋沢関係者に知らせることも、
ブログ記事を博物館へ収蔵することも禁止する」
驚愕しました。「来るな」「手を引け」というのに等しい要求です。
10数年、各地の役所の方々にお世話になりましたが、こんなことは初めてです。
私自身が見つけた情報なのに、
なんで市の一職員がブログにまで干渉して禁止だなんていえるの?
師匠の高島先生へも同じような要求があったとかで、
「何十年もやってきたけど、こんなうるさいことをいう行政は初めてだ」と。
市の職員とはいえ、役所内外では一目置かれた歴史学者さんのようで、
市のHPでは固有名詞で検索できるほどのスター的存在。
だからこそ、
同じ歴史をやる者なら調査とはどういうものかは熟知しているはずなのに、
この対応は、
不可解としかいいようがない。
そんなわけで「渋沢石」は、
みなさまに資料発見のお知らせはできたものの、
現地調査ができず、ちゅうぶらりんの状態に。
今まで力石の報告が一つもなかった市で、その第一号となったのが、
今度の一万円札の顔になる人の力石というとびきりの発見だったのに。
むしろ市の誇りになるはずという考えは、私の思い上がりでしょうか。
力石調査は営利目的でも功名心からでもありません。
記録として残したい、
みなさんに知っていただきたい、その一念なんですが…。
※渋沢がこの村で若者たちと力石で競ったことは資料から事実ですが、
現在残されている石がその力石かは未調査のため不明。
耳障りな話はこれくらいにして…。
下の写真は、
今まで千葉県最古の力石だった愛宕神社の「宝暦石」です。
宝暦六年(1756)とあります。
「万治石」発見で、千葉県最古から14番目の古い力石になりましたが、
ここに刻まれた「飯田氏」は野田の醤油の元祖。
この飯田氏が甲斐の武田氏と越後の上杉氏が信濃(長野県)で戦った
「川中島の合戦」(1553~)に、たまり醤油を届けたという伝承がありますから、
無銘の力石の中には万治より古い石があるかもしれません。

発見から8年目にしてようやく第三者の認知を得た「万治石」
この朗報はすぐ斎藤氏へ伝えました。
この日斎藤氏は、
「うれしくて一人で祝杯をあげて、したたかに酔った」そうです。
それから2年たった今年10月、
ついに斎藤氏と地元の方々の努力が実りました。
下の写真は、
「万治石保存奉祝祭」の式典が無事終了したあと、
これに関わった人たちの「万治石」の前での記念撮影です。
雨が降ってもみんなの心は青空。
地元の石造物研究者のI氏、斎藤氏、
保存にご尽力くださった自治会長で神社総代のS氏と。

千葉県野田市今上・八幡神社
野田市役所の職員さんは、あらゆる方面に根回しをしてくださり、
ご自分は一度も姿を見せることなく、着実に保存への橋渡しをしてくださった。
「貴重な情報をいただき感謝しています」
そう言った職員さんのあの日の声は、今もしっかり耳に残っています。
<つづく>
私は思いがけない電話をいただいた。
なんと、野田市役所文化財課の職員の方からでした。
「八幡神社の力石、現地で万治と確認できました」
「本当ですか!」
嬉しさがドバッと脳天を突き抜けた。
なによりも、
県外の見ず知らずの人間からのメールなのに、
その主旨を理解して、しっかり受け止めてくださったこと、
そのうえ、わざわざ現地まで足を運んで見てきてくださったこと、
その行動力、温かさに驚くやら感動するやら。
下は、土中に埋まっていたころの「万治石」です。
右上に「万」という文字が見えます。
400年もの時を経ていますので、
石のデコボコか刻字なのかを判断するのは難しいのです。

野田市職員の迅速な対応。
そのときの感激を翌2018年1月3日のブログに書きましたので、
お読みいただけたら幸いです。
「朗報です\(^o^)/」
このとき私の脳裏に浮かんだのは、
50年前、千葉県松戸市の市役所で始めた「すぐやる課」でした。
この「すぐやる課」の創設は、ドラッグストアチェーンの「マツモトキヨシ」創業者で、
当時、市長になったばかりの松本清氏だったとか。
さて、
私が力石の情報や問い合わせで一番お世話になっているのは、
各地の教育委員会・文化財課です。
どこの役所の方も親切で、市民便りで公開した力石のDVDをお送りくださったり、
「ぜひ来てください」と誘われたり。市長の秘書の方から、
「うちの力石もよろしく」とのメールや画像を送っていただいたことも。
こちらは今まで千葉県最古の力石保有とされてきた
愛宕神社と力石群です。

千葉県野田市野田
ただ残念なこともありました。
今年7月、近代資本主義の父といわれた
「渋沢栄一資料」を丹念に調べていたとき、
「栄一翁が青年時代に担いだ力石」資料を長野県内の某市で見つけました。
すぐ現地の市役所に問い合わせたら、
担当職員は「その情報は初めて知った」と驚いていたが、
その後、なぜか厳しい条件を提示してきたため調査はとん挫。
「まず当市で要求した項目を書いた書類を提出。
それを見て、現地調査の許可を与えるかどうかはこちらで決める。
許可されても勝手な調査は禁止。
調査には自分が同行し、決められた日時と場所の調査のみ許可。
「渋沢石」の存在をブログへ書くことも、渋沢関係者に知らせることも、
ブログ記事を博物館へ収蔵することも禁止する」
驚愕しました。「来るな」「手を引け」というのに等しい要求です。
10数年、各地の役所の方々にお世話になりましたが、こんなことは初めてです。
私自身が見つけた情報なのに、
なんで市の一職員がブログにまで干渉して禁止だなんていえるの?
師匠の高島先生へも同じような要求があったとかで、
「何十年もやってきたけど、こんなうるさいことをいう行政は初めてだ」と。
市の職員とはいえ、役所内外では一目置かれた歴史学者さんのようで、
市のHPでは固有名詞で検索できるほどのスター的存在。
だからこそ、
同じ歴史をやる者なら調査とはどういうものかは熟知しているはずなのに、
この対応は、
不可解としかいいようがない。
そんなわけで「渋沢石」は、
みなさまに資料発見のお知らせはできたものの、
現地調査ができず、ちゅうぶらりんの状態に。
今まで力石の報告が一つもなかった市で、その第一号となったのが、
今度の一万円札の顔になる人の力石というとびきりの発見だったのに。
むしろ市の誇りになるはずという考えは、私の思い上がりでしょうか。
力石調査は営利目的でも功名心からでもありません。
記録として残したい、
みなさんに知っていただきたい、その一念なんですが…。
※渋沢がこの村で若者たちと力石で競ったことは資料から事実ですが、
現在残されている石がその力石かは未調査のため不明。
耳障りな話はこれくらいにして…。
下の写真は、
今まで千葉県最古の力石だった愛宕神社の「宝暦石」です。
宝暦六年(1756)とあります。
「万治石」発見で、千葉県最古から14番目の古い力石になりましたが、
ここに刻まれた「飯田氏」は野田の醤油の元祖。
この飯田氏が甲斐の武田氏と越後の上杉氏が信濃(長野県)で戦った
「川中島の合戦」(1553~)に、たまり醤油を届けたという伝承がありますから、
無銘の力石の中には万治より古い石があるかもしれません。

発見から8年目にしてようやく第三者の認知を得た「万治石」
この朗報はすぐ斎藤氏へ伝えました。
この日斎藤氏は、
「うれしくて一人で祝杯をあげて、したたかに酔った」そうです。
それから2年たった今年10月、
ついに斎藤氏と地元の方々の努力が実りました。
下の写真は、
「万治石保存奉祝祭」の式典が無事終了したあと、
これに関わった人たちの「万治石」の前での記念撮影です。
雨が降ってもみんなの心は青空。
地元の石造物研究者のI氏、斎藤氏、
保存にご尽力くださった自治会長で神社総代のS氏と。

千葉県野田市今上・八幡神社
野田市役所の職員さんは、あらゆる方面に根回しをしてくださり、
ご自分は一度も姿を見せることなく、着実に保存への橋渡しをしてくださった。
「貴重な情報をいただき感謝しています」
そう言った職員さんのあの日の声は、今もしっかり耳に残っています。
<つづく>
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