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西行法師の登場

三重県総合博物館
09 /29 2019
文治二年三月、義経の愛妾・(しずか)が捕らえられて鎌倉へ。

このとき静さんは義経の子を身ごもっていた。
そんな身なのに、頼朝じきじきに「義経の居場所を言え」と尋問したり、
酒席にはべらせて酌をさせたり、を舞わせたり。

言い寄る武将もいて、もうセクハラ三昧

4か月後出産するものの男の子だったため、
赤ん坊は由比ガ浜で殺されてしまいます。

京都では、義経の主だった郎党たちが次々捕らえられて梟首(きょうしゅ)。
しかし、肝心の義経はいまだ行方知れず

そんなさ中の八月には、
北面の武士から世捨て人になった西行が、
戦乱で焼けた東大寺再建の勧進のため陸奥国(岩手県)へ旅立ちます。

こちらは東海道の難所「小夜(さや)の中山」を行く西行(赤丸の中)です。

静岡県の日坂宿(掛川市)と金谷宿(島田市)の間にある峠です。
眼下に「越すに越されぬ」と歌われた大井川が流れています。

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「西行法師行状絵巻」より

西行このとき69歳。ここを歩くのは二度目
そのときの歌がこれです。

   年たけてまた越ゆべしと思ひきや
               命なりけりさやの中山


「西行」の著者の白洲正子氏は、この歌についてこう書いています。

「40年以上も前にはじめて小夜の中山を越えた日のことを憶い出して、
激しく胸に迫るものがあったに違いない。

その長い年月の体験がつもりつもって、
「命なりけり」絶唱に凝結した」

「胸に迫るものがあって、絶唱」-。

いいなあ、この感じ。魂の叫び。

西行ファンの芭蕉もまたここで句を詠んだ。

   命なりわづかの笠の下涼み

しかし白洲氏は、
「言い得て妙とは思うものの、
西行の歌の大きさ深さには比すべくもない」と辛らつ

その白洲氏もまた、ここを訪れています。

「94歳になる茶店のおばあさんに会った」と書いています。

こちらは私が会ったときのおばあさんです。
おばあさんは子育て飴を売る「扇屋」のご主人のちとせさん。

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掛川市小夜鹿

私がお会いしたときは98歳でしたから、
白洲さんが訪れたのはその4年前になります。

さて、西行が焼けた東大寺の大仏に使う金(こがね)を求めた先は、
平泉の藤原氏です。

義経もまた、翌文治三年二月に同じ藤原氏を頼って落ちていきます。

一見、何のつながりもなさそうな二人ですが、同じ奥州へというのは、

偶然でしょうか?


※画像提供/「西行法師行状絵巻」小松茂美編 中央公論社 1995
※参考文献/「西行」白洲正子 新潮社 1988
        /現代語訳「吾妻鏡」五味文彦 本郷和人編
         吉川弘文館 2008
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文治二年という年

三重県総合博物館
09 /26 2019
まずこの連歌からご覧ください。

    わくら葉やいなりの鳥居顕れて        其角
            文治二年のちから石もつ      才丸


私がこの連歌を初めて知ったのは、
力石の調査に入り始めた10余年ほど前でした。

そのときは単純に、
石の表面に「文治二年」と刻字されていたんだな、と。

でも、待てよ、と思い直したのはつい最近。

「弁慶石」に関わって、義経や弁慶の本を読み始めてからです。

で、この際、史実と推理をこき交ぜて、
「義経記」もどきのショータイムを始めようと思い立ったわけです。

歴史家だった網野義彦氏の「歴史に必要なのは想像力だ!
の言葉に力をいただいて語ってまいります。

この句が詠まれたのは、江戸初期の貞享二年(1685)六月二日。

出羽国(山形県)の紅花問屋の豪商・鈴木清風を迎えての
古式百韻興行の席上でした。
 ※「賦花何俳諧之連歌」とありますので、連句ではなく連歌としました。

場所は江戸・東武小石川。
出席者は客の清風ほか、俳聖・芭蕉を筆頭に、
嵐雪、其角、才丸、コ斎、素堂といったそうそうたるメンバーです。

このとき其角才丸という東西の鬼才が詠んだのが、
冒頭にあげた句です。

ただし、文治二年は1186年ですから、
才丸がこの句を詠んだ年までは、約500年もの開きがあります。

この間には応仁・平治の乱に続き、源平の合戦や南北朝期の混乱、
群雄割拠した戦国時代があって、都は焦土と化した。

刻字した力石があったとしても、無事だったとはとても思えません。

ただ力石なる石が存在していたことは、
平安時代後期の仏教説話集、
「打聞集・道場法師説話」によって確かめられます。

 ※「道場法師」は飛鳥時代の怪力の僧。
  奈良・元興寺の僧になったという伝説上の人物。
  平安時代初期の「日本霊異記」にも出てきます。

「道場法師」や元興寺とは何の関係もありませんが、
こんな「謎の仏像」を載せてみました。

「目のない仏像」大阪府・太平寺
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「芸術新潮」1991年1月号 新潮社

「目がない、異様に手が長い、極端にアンバランス、節だらけー
そういう、およそ「正統からはずれた仏像」が各地に存在する。
ずっと未完成の像かと思われてきたが、どうもそうではないらしい」(梅原猛)

こうした仏像には必ず行基伝説があるとのことですが、
この問題に光をあてたのが当時の奈良大学の井上正教授だそうです。

私の好きな世界とはいえ、話が逸れすぎました。

さて、この「打聞集」には、怪力の話だけでなく、
「十五歳になると、四,五尺の石を一人で担ぐ」という
成年戒の話も出てくるのです。

ですから、

「弁慶石」が京の三条河原に現れた室町時代より二つも前の時代に、
すでに力石は存在し、人々は若者たちが石を担ぐことを、
「大人への登竜門」と認識していたことになります。

「文治二年」と刻まれた石が現存していればいいのですが、
残念ながら、今はどこにもありません。

風化してなくなってしまったのかとも考えましたが、
そうではないのでは、と思い始めました。

この石は最初から存在しなかったのではないだろうか。

これが私の結論です。

では才丸は口から出まかせに
「文治二年のちから石」と詠んだのか?

それも違う。

俳句に特定の年号を詠みこむには、それだけの理由があるはずです。

例えば「昭和二十年の…」といえば、
「敗戦」「原爆投下」「マッカーサー」という情景が浮かぶように。

この「文治二年」は、
この俳句興行に参加していた誰もがピンとくる
特別な年号だったのではないでしょうか。

とまあ、愚にもつかないことを自問自答している私ですが、
次回は私の推理をご披露していきたいと思います。

果たして賽の目はどう出ますか!


※参考文献/「説話文学」「打聞集を発見して」山口光円
        「打聞集所収 道場法師説話考」黒部通善
        日本文学研究資料刊行会 有精堂 1976
参考文献・画像提供/「芸術新潮」1991年1月号
       「こんな仏像もあったのか」梅原猛 「霊木化現仏への道」井上正

※悪戦苦闘の末、アドレスを変えました。
  コメント、大丈夫だと思いますので、
  テストのつもりでいただけるとありがたいです。

能登はやさしや

三重県総合博物館
09 /22 2019
弁慶という無名の新人をスターダムにのし上げたのは誰か、

というお話です。

実在すら疑わしいのに、没後230年もたって書かれた
義経一代記の「義経記」には、弁慶の出自まで書かれています。

こんな具合に。

弁慶の父は紀伊の熊野別当で、母は京のやんごとなき姫。
長くお腹に入っていたため、誕生したときはすでに3歳。
髪は肩が隠れるほど伸び、歯も生え揃っていた。

「講釈師、見てきたようなウソを言い」の世界ですが、
でも、ウソには真実も隠されていますしね。

さて、「義経記」から始まった義経と弁慶の「物語」は、
御伽草子、読本、幸若舞、浄瑠璃、歌舞伎へとすそ野を広げ、
弁慶をさまざまに変えていきます。

荒法師なのにちょっと間抜けで、それでいて機転が利く忠義の人。
そうして次々とスリリングなショーを見せてくれます。

で、観客の要望に応えているうちに、とうとうこんな姿に。

まさかりだの熊手だのの七つ道具を背負わされた弁慶さんです。

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歌舞伎「源家八代恵剛者」の弁慶。豊国画。東京都立中央図書館蔵

頼朝から逆臣とされて逃げる義経、
「ここと思えばまたあちら」と追手をかわしますが、

いよいよ切羽詰まって、
山伏姿に変装して奥州(岩手県)平泉へと落ちていきます。

一行は大津(滋賀県)から琵琶湖を渡り、愛発(あらち)を超えて、
越前国(福井県)へ向かいます。

そこから加賀国(石川県)富樫(とがし)へと入るわけですが、
このあたりのシーンが、「義経記」と、
「安宅」や歌舞伎「勧進帳」とでは違ってきます。

「義経記」では、関の名は安宅ではなく「三の口の関」
その関を超えて、弁慶が富樫氏の館へ行き勧進と称して金をせしめます。

「勧進」=民衆に仏への徳を積ませること。
  具体的には、寺社再建などのための喜捨(寄付)を求めた。
  力石もこうした勧進興行をやっています。

能「安宅」や歌舞伎「勧進帳」では、関は「安宅関」に変わります。
そこに関役人の富樫がいて、山伏一行を義経主従だと見破ります。

ここが見せ場

弁慶が主人・義経を助けたいがために心を鬼にして、
「この役立たずの下っ端が」といい、義経を杖で叩くという名場面です。

下の絵は、頼朝に追われて落ちていく義経主従です。

先頭にいるのが弁慶です。

最初の絵の荒々しい弁慶とはずいぶん違いますね。
弁慶の後ろに義経、義経の北の方(妻)、家来が続きます。

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「義経奥州下り」 国立国会図書館蔵

少し昔のものですが、「義経北国落ち伝説考」という論文があります。
昭和50年当時、金沢工業大学助教授だった藤島秀隆氏の論文です。

藤島氏は、
加賀・能登には義経・弁慶に関する伝説地が約70か所ある。
熊野信仰あるいは白山信仰を唱導宣撫する人々による
所産と考えられる」と書いています。

かつては、全国を歩いて
信仰や物語を広めていった人たちが大勢いました。

例えば、盲目の琵琶法師たちが「平家物語」を伝え、
箱根権現の巫女たちが「曽我物語」を伝え歩いたように。

無関係な場所に思わぬ伝説が残っているのはそのためです。

こちらの絵は、勧進聖が台に乗って説法しているところです。
弟子が柄杓をさしだして、喜捨を受けています。

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「上杉本洛中洛外図屏風」より

藤島氏の論文を続けます。

「加賀は白山信仰、能登は熊野信仰が盛んな地。
だから、
加賀入国のみを書く「義経記」では、白山は語るが熊野信仰には触れず、
逆に、舞曲・絵巻では「熊野」が現れ、能登が物語の舞台になっていく。

熊野信仰の能登半島には海や陸地からの漂着神が多い。
能登人がマレビト(来訪神・人)を歓迎したあらわれであろう」

下の写真は、能登半島の先端、珠洲市に残る力石(矢印)です。
中央の碑は、作家・村上元三氏の句碑(昭和41年)。

   「義経は雪に消えたり須々の笛」

珠洲市三崎町・須須神社1 (2)
石川県珠洲市三崎町寺塚・須須神社。伝義経「蝉折れの笛」があります。

観光客も行政でも句碑は紹介するのに、
その両端に置かれた力石は紹介もせず、写真からも切り捨てますが、
ぜひ注目してくださいね。

で、藤島先生ですが、
「富樫氏や三の口の関所役人・井上氏などの加賀武士団は、
きわめて義経主従に同情的立場にあった」と評価するものの、
よほど能登への思いが強かったのか、
こんなふうに語っています。

「「義経記」には義経主従の能登入国は書かれていないが、
義経伝説地は40か所ほどある。
その地名をつないでゆくと、幸若舞曲の記述とほぼ一致する。

熊野信仰の語り部放浪の芸能者は、
流氓(りゅうぼう=流民)と悲劇の英雄を語り歩き、種を播き、
さらに都へも運搬したのである。

厳しい風土のもとに忍従を余儀なくされながら、
質朴な能登人はマレビト義経を、

「能登はやさしや土までも」

の精神で暖かく受け入れたのである」

「能登はやさしや…」

いい言葉ですね。感じ入りました。だから私も、

女嫌いなのに、たった一度女性と接しだけで子供ができちゃった
おっちょこちょいでハッタリ屋の弁慶をおちょくるのは、

これでおしまい

でも弁慶石の話はまだ続きます。


※参考文献/「臼田甚五郎博士還暦記念 口承文芸の展開・下」
         「義経北国落ち伝説考」藤島秀隆 桜楓社 昭和50年
※参考文献・画像提供/「石川の力石」高島愼助 岩田書院 2014

京へ帰りたーい!

三重県総合博物館
09 /19 2019
武蔵坊弁慶といえば、
黒革威(おどし)の鎧(よろい)をまとった黒ずくめの大男。
主人の義経のためとあらば長刀を振り回して捨て身の大活躍、

のはずが、
初期の軍記物に出てくる弁慶は、ほかの従者の末尾にいて、
戦う気配さえ見せないヤワな山法師

大石を軽々持ち上げた剛の者だなんてとても思えません。

ではなぜ、ここに「弁慶石」と称する巨石があるのでしょうか?
京都市中京区・弁慶石2 (4)
京都市中京区弁慶石町

「洛中洛外の群像」の著者・瀬田勝哉氏は、
弁慶石町は江戸初期の文献にその名があることから、
石は中世のある時期、ここにあったことは明らか」

としつつも、

「でも弁慶石そのものの由来となると、そう簡単にはいかなくなる」として、
石がこの町に運ばれてきた由来を丹念に追及しています。

瀬田氏によると、その経路は二説あるという。

一つは、「弁慶腰掛石伝説」
元は鞍馬口にあって、弁慶がいつも腰かけていた石だったが、
鴨川の洪水でここへ流れ着いたというもの。

もう一つは、こんな説。

奥州へ逃げた義経主従は、藤原泰衡に裏切られて攻められた。
その主人をかばって敵の前面に立ちはだかった弁慶は、
全身に無数の矢を受け、衣川の真ん中で立往生したまま死んだ。

そのとき踏んでいた石に弁慶の魂が乗り移り、
三条京極に帰りたーい。
帰してくれなければ疫病を流行らせるぞ!」

などと声を発したため、驚いた人々の手で、
陸奥国から京都まで村送りで送られてきたという説です。

どんな方法であれ、弁慶石が入洛(京都到着)を果たしたのは、
享徳元年(1452)ごろのようで、
弁慶の死後、263年もたってからというのですから、気の長い話です。

時代はすでに室町中期。
頼朝はとっくの昔にいなくなり、はや足利氏の時代です。

石が入洛したと思われる「粟田口」(赤丸)です。
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上杉本「洛中洛外図屏風」

ここは洛中三条通りの東の端で、この先が鴨川です。
「粟田口」は、洛中洛外の一つでもあります。

こうした村や町の境は、
さまざまな悪霊が入り込む危険な場所と信じられていました。
だから人々は、
こういう場所に悪霊邪霊を防ぐ境の神を置いたのです。

境の神とは、道祖神や塞(さい)の神、巨大な男根などです。

こちらは境の神の一つ、
悪霊に仲の良いところを見せつけて退散させる「双体道祖神」と、
力石(左)です。

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静岡県富士宮市淀川町・路傍

粟田口の下方に「松の木」「弁慶石」が描かれていますが、
二つとも、ただなんとなく描いたわけではなく、
明らかに「境の神」として描いています。

ことに、超人的な力を持つ弁慶の力石ですから、
人々の期待は大きかったと思います。

そして屏風にも描かれるほど有名になりました。

本当はヤワだったかもしれない弁慶が、
なぜこんな変貌を遂げたのか、

その謎解きは次回へ持ち越しです。


※参考文献/「増補・洛中洛外の群像」瀬田勝哉 平凡社 2009
※画像提供/「上杉本・洛中洛外図屏風を見る」
         小澤弘 川嶋将生河出書房新社 1994
        /高島愼助

兄さんに褒められたくて

三重県総合博物館
09 /16 2019
弁慶は「いたんだかどうだかわからない」あいまいな存在ですが、
主人の義経はれっきとした歴史上の人物です。

ただその生涯は実に儚(はかな)い。

治承四年(1180)十月、
異母兄の頼朝が伊豆で平家打倒の旗揚げをした。

それを伝え聞いた義経は、
奥州(岩手県)平泉から黄瀬川宿(静岡県沼津市)へ駆けつけます。

ときに義経22歳。初対面の兄は11歳上の33歳

黄瀬川宿は今の沼津市大岡あたりにあった中世の宿駅です。

宿の名になった黄瀬川は富士山に源を発し、
御殿場市、裾野市などを下り沼津市で狩野川と合流する河川です。

こちらは上流の「五竜の滝」(裾野市)です。
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弟はこのときから、兄・頼朝の片腕となって大変な働きをします。

木曽義仲を滅ぼし、一ノ谷、屋島合戦で平家を破り、
最後の一門を壇ノ浦に追い詰めて、ついに平家を壊滅させた。

兄さんに褒められたくて、一生懸命だったのでしょう。
このとき義経27歳

合戦に明け暮れた5年間でしたが、
平家を滅ぼしたとたん、頼朝の手のひら返しが始まります。

兄・頼朝は義経を逆臣とし、所領をことごとく没収。
行く先々へ刺客を差し向けてきたのです。

わずか5年前、黄瀬川宿で初めて会ったとき、
「互いに懐旧の涙をもよおした」(吾妻鏡)二人だったのに。

逃亡生活2年。
ついに義経は、16歳から世話になっていた藤原秀衡を頼り、
奥州・平泉へと落ちていきます。

その2年後、秀衡の息子の泰衡に攻められ、衣川の館で自刃

激しく短い31歳の生涯を閉じました。

当時の合戦は重い鎧をつけた騎馬戦でした。
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「春日権現験記絵巻」(国立国会図書館蔵)より

で、肝心の弁慶はどうしていたかというと、
藤原成一氏は著書「弁慶」(法蔵館 2002)にこう書いています。

「平家物語や吾妻鏡には武蔵坊弁慶の名は出てくるものの
わずかに義経従者の末尾に出てくるだけ。

義経に従ったほかの勇者や剛の者の戦いぶりは書かれているが、
弁慶の働きぶりは、平氏滅亡まで一度たりとも出てこない。

同時代の公家の日記や史料にも
義経の名は出てきても弁慶は一切出てこない」

あれま! どうしましょ。
見事な弁慶石は存在するのに、生身の弁慶はこのていたらく。

この弁慶の虚像・実像の謎解きは次回に追いかけます。

下の写真は、伝・義経の「薄墨の笛」です。

この笛は最初、久能山の久能寺にありました。
久能寺は中世、京の貴族たちに尊崇された大寺院でしたが、
戦国時代、武田信玄の駿河侵攻で山下に強制移転。

明治維新後、荒れ果てたこの寺を山岡鉄舟と地元商人が再興。
名も鉄舟寺と改めた。笛は現在、ここにあります。

10年ほど前、私はこの寺で、
横笛奏者の赤尾三千子さんのこの笛による演奏を聞きました。
ド素人の私でしたが、感慨深いものがありました。

現在、久能山には国宝・久能山東照宮があります。
眼下は三保の松原に続く「有度浜」(うどはま)です。

中世、東下りをする旅人たちは、山上から流れる
1千500余人の僧たちの読経を聞きながら、この浜を歩いたそうです。

「薄墨(うすずみ)の笛」
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静岡市清水区・鉄舟寺

さて、弁慶を追いかけている中で、ちょっと面白いなと思ったことがあります。

それは、この義経と頼朝の対立に一枚噛んでいた人がいたことです。

やんごとなき、後白河院(法皇)がその人です。

院とは天皇の地位を息子などに譲って引退した人のことですが、
この時代は引退どころか、院になってより強い権力を握りました。

ちなみに、天皇が出す命令書は綸旨(りんじ)といい、
院なら院宣といいますが、効力は院宣の方が上なんだそうです。

で、後白河院さんは、
義経に「頼朝追討」の院宣を出しておきながら、
今度はすかさず頼朝に「義経追討」の院宣を出すなどして、
この院宣を巧みに使ったそうです。

これがために頼朝と義経の仲はどんどん悪くなっていった。

これを、
歴史学者の中村直勝氏は「後白河法皇の意地悪」といい、
作家の村上元三氏は「後白河さんの策略」といっています。
  ※「歴史対談 平家物語」講談社 1971

で、お二人ともこう結論付けています。

「後白河さんは自分で頼朝の兵を左右に振り回したつもりだったが、
頼朝はそんなこと知っていたと思いますから、
狐と狸の化かし合いをやっていたようなものですな」


※参考文献/現代語訳「吾妻鏡」2,3,4 五味文彦・本郷和人編
        吉川弘文館 2008
        /「臼田甚五郎博士還暦記念・口承文芸の展開・下」
         桜楓社 昭和50年
        

牛若丸と弁慶

三重県総合博物館
09 /12 2019
図書館の蔵書検索で「弁慶」と入力すると、
ずらっと出てくるのは絵本やおとぎ話ばかり。

大人向けの本になると、義経がらみで少々、といった程度。

♪ 京の五条の橋の上 大の男の弁慶が
  長いナギナタ振り上げて 牛若めがけて斬りかかる

太刀をあと一本強奪すれば千本になる弁慶と、
あと一人斬れば千人斬りが達成できる牛若丸が出会ったのが
鴨川にかかる五条橋(清水橋)。

おとぎ話なのに、なんとも身勝手な悪事の世界です。

下の絵は、上杉本「洛中洛外図屏風」の五条橋です。
この橋は観音信仰の清水寺への参詣路だったそうです。

橋の上や手前には清水寺へ向かう女性の集団がいます。

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「上杉本洛中洛外図屏風を見る」からお借りしました。

牛若丸が弁慶のナギナタをかわして飛び乗ったという欄干はないですね。

さて、弁慶を語るには牛若丸、のちの源義経を知らなければ、
というわけで、
先人の著作をちょっと覗いてみました。

この二人が登場するのは平安末期、平家全盛のころ。

源氏の棟梁の父・義朝を平氏の清盛に討たれたとき、
牛若丸はまだ赤ん坊。

母の常磐(ときわ)は、
牛若を懐に抱き、幼い今若、乙若を連れて都落ち。

私が子供のころ、家にこの常磐親子の人形があって、
ひな祭りには御殿飾りと一緒にひな壇に飾られていました。
美しさの中に悲しさを秘めた常磐の白い顔は今も脳裏に浮かびます。

悲劇の母・常磐はその後、清盛の前に引き出され、なんと清盛の妾に。
その清盛との間に女の子をもうけるものの、
すぐに一条長成に再嫁させられ、ここでも男の子を産みます。

連れ子たちはそれぞれ寺へ預けられます。
牛若丸は鞍馬寺へ。11歳のときだそうです。

こちらは鞍馬寺で勉学に励む牛若丸です。
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「保元・平治物語絵巻をよむ」よりお借りしました。

五年後、16歳になった牛若丸(義経)は鞍馬寺を出奔。
陸奥国(岩手県)の藤原秀衡を頼って、奥州へと旅立ちます。

このことから、五条橋での弁慶、牛若の出会いは、
この5年間のどこかということになりますが、
作家の村上元三氏と歴史学者の中村直勝氏の歴史対談では、

「この牛若丸っていうのは、五条橋の弁慶との出会いは面白いのですが、
史実ではどうでしょうかなあ。

ぼくら作家の場合ですと五条橋を書かないと読者が承知しません。
あの話のもとは「義経記」ですから。あとはなんにもありませんから。

それに弁慶という人間がこれまた曖昧模糊。
いたんだかいないんだかわからないのが本当じゃないかと」

この村上元三氏には一度お目にかかったことがあります。

ペーペーの新米編集者だったころ、お宅に原稿取りにうかがったら、
「あんたのような子供を寄越すとはけしからん」と一喝された。

懐かしい思い出です。


※参考文献/「弁慶・英雄づくりの心性史」藤原一成 法蔵館 2002
        /「義経の登場・王権論の視座から」保立道久 
         NHKブックス 2004
        /「歴史対談・平家物語」中村直勝 村上元三 講談社 1971
※画像提供/「上杉本・洛中洛外図屏風を見る」小澤弘 川嶋将生
         河出書房新社 1994
        /海の見える杜美術館蔵「保元・平治物語絵巻をよむ」
         石川透 星瑞穂編 三弥井書店 平成24年


  台風の大変な被害が出ていますが、
  みなさま、ご無事でしょうか。
  一日も早く平穏な日々を取り戻せますよう、祈っております。
 

べんけい石

三重県総合博物館
09 /09 2019
の話はひとまずおいといて、へ移ります。

上杉本「洛中洛外図屏風」に描かれた「べんけい石」の話です。

とはいうものの、これが難しいのです。

どこから手をつけてよいのやら、ここ数日、悩んでおりました。

なぜ悩んでいたかというと、
この石を持ったとされる「武蔵坊弁慶」なる人物は、
はたして実在していたのか不明なんです。

人は存在しなかったのに力石だけは存在するって、どうよ?

それはともかく、歴史学者の川嶋将生氏は、
この屏風に描かれた景物について、こう言っています。

「(屏風の絵は)
そこにそれを描いて当然であるとする当時の人々の共通認識と、
一定の了解のもとで描かれている。

そこにそれを描くのはおかしいというものはまず描いていない。
事実のかなりを反映しているのではないか。
弁慶石もそうしたものの一つである」

ということは、

弁慶の存在の有無はさておき、
この屏風ができた織田信長の時代には、石はすでにここにあって、
それが「弁慶ゆかりの石」であることは誰もが知っていた、

ということになります。

img068_20190907114812a42.jpg

石担ぎの場にいる人たちは刀を差していますから武士でしょう。
右下に槍を持っている人がいます。

後日ご紹介しますが、ここでは相撲を取っています。
足軽などの下級武士が力比べや相撲をやっているのだと思います。

場所は、京都・鴨川の三条河原。

今の「弁慶石町」です。

日本中世史がご専門の瀬田勝哉氏によると、

「この地は、
江戸時代の初めから弁慶石町と呼ばれていた
このことは、寛政14年作成の「洛中絵図(宮内庁書陵部蔵)」により明らか」

そして、
この町と屏風の絵の場所は、ほぼ同じなんだそうです。

「べんけい石」があったことで生まれた町名なんでしょうか。

で、さらにびっくりするのは、
この弁慶石町には実物の石が今もあるということです。

「弁慶石」です。
京都市中京区・弁慶石2 (4)
京都市中京区三条通麩屋町東入ル弁慶石町

石の高さは推定120~130㎝。かなりの大きさです。
屏風の「べんけい石」とは、大きさや形が違うのが気になります。

こちらは説明板です。

京都市中京区・弁慶石3

物語の創造上の人物かもしれない弁慶ですが、
室町時代から令和の今に至るまで、
人々はその実在を疑わず、これを弁慶が持った力石だと信じてきた。

なぜなのか?


※参考文献/「図説・上杉本洛中洛外図屏風を見る」小澤弘 川嶋将生
        河出書房新社 1994
       /増補「洛中洛外の群像・失われた中世京都へ」瀬田勝哉
         平凡社 2009  

日本一の影向の松

三重県総合博物館
09 /05 2019
埼玉の研究者、斎藤氏から「影向の松」の写真をいただきました。

場所は東京都江戸川区の善養寺

1善養寺
東京都江戸川区東小岩2-24-2・善養寺

斎藤氏が「もの凄いです」とおっしゃっていましたが、
本当にすごい!

これを見ると、神さまでなくても人が立って踊れますよね。

樹齢600年といいますから、室町時代初期の松でしょうか。

松の根元に四角い石が置かれていますが、
これ、「影向の石」といって仏像ドロボーを捕まえた石だとか。

「影向の石」です。
影向の石

ドロボーと聞くと、子供のころ聞いたこんな話が浮かんできます。

「ある貧しい母親がせめて子供にだけは食べさせたいと、
夜、畑へ忍び込んだ。

幸い誰も見ていない。一つだけ許してと思いつつ作物に手を伸ばしたら、
おんぶしていた幼子が、
「母ちゃん、お月さまが見ているよ」と。
ハッとした母親は、負うた子に教えられたと深く反省した」

神さまは必ずどこかでみている、だから悪いことはできないんだよ
という戒めの例え話でしたが、でも私は子供心に思ったものです。

「お月さまは見ているだけなの? なんで助けてあげないの?」って。

3善養寺

またまた、とんだ横道にそれました。

善養寺の松に戻ります。

枝ぶり 東西31m 南北28m

国指定天然記念物。江戸川区登録天然記念物。

香川県さぬき市の真覚寺にあった岡野松と日本一を争っていたとか。

でも真覚寺の松は1993年に枯死。
いつまでも元気に競い合ってほしかったですが、残念。

この善養寺には力石もあるんですよ。

全部で11個あります。

2善養寺

木花仙蔵、本町東助、代地万蔵、鹿島屋芳蔵など、
江戸から明治時代に活躍した力持ちの名が刻まれています。

霊験あらたかな「影向の松」のそばでの力比べ。
松の木の上で、神さま・仏さまもご覧になっていたのかもしれません。

それにしてもすごい!

4善養寺

これみーんな、
たった一本の松の木だなんて!

とまあ、興奮しましたが、ふと、こんな疑問が…。

あのドロボーを捕まえた石ですが、
空を飛んでドロボーに体当たりでもしたんでしょうかねぇ。

神さまが宿る木

三重県総合博物館
09 /02 2019
「松」=「がその木に天降ることをマツ(待つ)意とする」

と広辞苑にあります。

今どき、広辞苑? なんて言われそうですが、
私は、昔の人をより信用していますので。

昔、「松の木小唄」なんていう歌謡曲がありました。

♪ 松の木ばかりがマツじゃない -略ー
   今か今かと気をもんで、
   あなた待つのも松のうち

松の木に、つれない浮気男が降臨するのをウジウジ歌っていたけど。
演歌って、耐えるのが美徳って女ばかりだったよなぁ。

それはさておき、
ここでは気高い松の木のお話です。

「影向の松」という松が、今も寺社にあります。

「影向(ようごう・えごう)」とは、神仏が仮の姿で現れることをいい、
松の木はその神さまが天降った場所をさします。

ネットでは「ようごう・えいごう」となっていますが、
ここでは広辞苑の説明をとって、「ようごう・えごう」としました。
 ※「誠に来迎引摂の悲願もこの所にえごうを垂れ」(平家物語)

こちらは「春日権現験記絵」に出てくる影向の松です。

img20190831_22241878 (2)

右端に座しているのは、比叡山の天台座主・教円
その教円が僧房で「唯識論」を転読していると、
松の老木の頂きに、衣冠束帯姿の老翁が出現。

それは春日社の神・春日大明神の化身で、
教円の経を聞いて喜びのあまり出現して、万歳楽を舞い始めた、

という場面です。

この神さま,貴女や翁になっていろんなところに現れます。
まさに神出鬼没。

この絵巻に春日社草創の由来が書かれています。

神代の昔、武甕槌(たけみかづち)命という神さまが、
陸奥の塩竈(しおがま)に降臨。

その後、常陸国の鹿島に移り、
奈良時代の終わりごろ、今度は大和の御笠山に移ったとあります。

東北・宮城から茨城、奈良と神さまも忙しい。

で、この春日社にも影向の松があって、
今の能舞台鏡板に描かれているのがその松なんだそうです。

それ以前の能舞台は吹き抜けで、
下の絵のように本物の松を背景にしていた。

img20190831_21180715 (3)
町田本「洛中洛外図屏風」の「観世能」

当地では静岡浅間神社の舞殿での能がこの吹き抜け舞台。
薪能は天女の羽衣の松がある三保の松原で演じられます。

能舞台に鏡板が使われ出したのは、室町時代後期からだそうですが、
なぜ「鏡板」と呼ぶのかというと、

舞いはもともと神さまを楽しませるためのもの。
なので鏡板の松には降臨した神さまがいて、能を見物しているわけです。

しかし神さまのほうを向いて演じると、観客にお尻を向けることになります。
でも観客のほうを向くと、今度は神さまにお尻を向けることになってしまいます。

そこで、
舞台正面の松はあくまでも「鏡に写った松」、つまり「鏡板」にした。

そうするとすべて丸く収まります、と、モノの本に書いてありました。

上杉本「洛中洛外図屏風」にも「影向の松」が出てきます。

こちらはあの菅原道真公の北野社です。

img20190830_21034871 (2)
上杉本「洛中洛外図屏風」

松は一年中青い。
だから千年の齢(よわい)を保つといわれて人々に尊ばれた。

産着に松の柄を縫い込んだり、土に埋めた胞衣の上に
松の苗木を植えて子の健やかな成長を祈った。
 ※胞衣(えな)=お産のとき出る胎児を包んでいた胎盤や膜など。

門松を立てるのも、神さまの降臨を願ってのこと。
松竹梅の最上位にいる松の木は神さまが宿る依り代で、
災難や疫病から守ってくれるありがたいご神木だったわけです。

こういうことを踏まえて、

べんけい石と力比べに興じる若者たちのそばに立つ
「三蓋(階)松」を見てみると、

これは、
ただの松の木ではない、

ということが、お分かりいただけるかと思います。

三蓋(階)松(さんがいまつ)=枝が三層になった松のこと。


※参考文献・画像提供/「春日権現験記絵」上 小松茂美編
               中央公論社 1991
              /町田本「楽裕洛外図屏風」国立歴史民俗博物館蔵
              /「図説上杉本洛中洛外図屏風を見る」
               小澤弘、川嶋将生 河出書房新社 1994
※参考文献/「的と胞衣」横井清 平凡社 1988

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞