fc2ブログ

力石絵引①

三重県総合博物館
08 /29 2019
「洛中洛外図屏風」というものがあります。

京の都の内外を描いて屏風に仕立てたものです。

「洛中洛外」を描いた屏風は、約100点現存。
描いた時期は室町時代から江戸中期まで。

源氏雲が湧き立つ合間に、寺院や公家の屋敷、
上流階級から庶民までの風俗が生き生きと描かれています。

すでに何度かお伝えしましたが、この中の一つ、
上杉本「洛中洛外図屏風」力石が出てきます。

この屏風は室町時代後期に、
織田信長が越後の上杉謙信に贈ったものだそうで、
今は国の重要文化財になっています。

下の写真は、上杉本「洛中洛外図屏風」の右隻です。

赤丸の中に、
「べんけい石」と力比べに興じる若者たちが描かれています。

700px-洛中洛外図右

ちょっとここで、屏風の数え方を披露します。
とはいっても、学者さんの本からの受け売りですが…。

屏風は何枚かのパネルが折り畳めるようになっている、
ということは、どなたもご存じだと思います。

このパネルのことを「扇(せん)といい、
「扇」(パネル)」が六枚あれば六曲、四枚なら四曲と呼ぶのだそうです。
とはうまくつけたものですね。扇(おうぎ)も折り畳めますものね。

この四曲とか六曲でつながった全体を「隻(せき)といい、
向かって右側を「右隻」、左側を「左隻}と呼び、
この二つを合わせて、「一双(そう)と数えます。

だから六曲で右隻、左隻を持つ上杉本「洛中洛外図屏風」は、
「六曲一双」仕立てということになります。
ちなみに、一枚なら「半双」。

赤丸の部分は右隻にあり、右から数えて四番目の「扇」だから、
「四扇」に描かれているということになります。

赤丸の部分を大きくしたのがこちらです。

img031 (3)

石の下に「べんけい石」と書かれています。

一見、ごくありふれた光景のように思われますが、
実はこの石をめぐって、さまざまな話が残っているのです。

この絵の中心には、一本の見事な松が描かれています。

神聖な三蓋(階)松(さんがいまつ)です。

次回はそこからお話を進めてまいります。


※参考文献・画像提供/「上杉本洛中洛外図屏風を見る」
               小澤弘,川嶋将生 河出書房新社 1994
スポンサーサイト



伝吉、本に載る

三重県総合博物館
08 /26 2019
仏現寺は和田の船だまりを見下ろせる小高い丘の上にありました。
そこへふだん見慣れないどこかの船が入ってきました。

伝吉が来るとよーっ、 大島伝吉がな」

昨年12月、静岡県伊東市の本屋さん・サガミヤさんが、
地元の民話を集めた「伊東むかし話」を出版。

その中に、力持ちの大島伝吉が登場します。
その名も、「大伝石ものがたり」

「大伝石」とは、伝吉が持ちあげた力石「大傳石」のことで、
今もこの仏現寺に残されています。

これが「大傳石」です。
CIMG0178_20190824160450d45.jpg
静岡県伊東市物見が丘・仏現寺。 77×63×36㎝

こちらが「大伝石ものがたり」に描かれた力石です。

img002 (5)

大島伝吉(島田伝吉)は、伊豆・大島出身で、
江戸末から明治時代に活躍した力持ちです。

生誕の地・大島の岡田港には、伝吉を讃える碑が建っています。

碑の揮毫(きごう)者は第2代総理大臣・黒田清隆

明治18年には現在の静岡市へ力持ち興行に来ています。
一座は、清水湊と旧静岡市の小川座で興行。

それを伝えた当時の新聞です。

「昨今の不景気に似もやらず、ずいぶん大入りを占しという」

img577 (1)

「伝吉ってさ、いってぇ、何者なんだ」

「どえらい力じまんの力士でな。あっちこっちでひっぱりだこさ」

船着き場は黒山の人だかり。

そこへあらわれたのは、足に八升樽をはき、
両手に米俵を3俵ずつ持ち、口にもうひとつくわえた男。

img856.jpg

まるで仁王様のようにふんばって立っていた。


※ 大島伝吉の現存力石は9個

東京・千葉の伝吉の石には、
内田金蔵、画家・河鍋暁斎の飲み友達だった本町東助
鬼熊、矢向弥五郎など、
そうそうたる力持ちの名も刻まれています。


※夏目さまのご要望に応えて、伝吉の肖像画を追加しました。

気は優しくて力持ちの伝吉さんです。

img574.jpg


※参考文献・画像提供/「伊東むかし話」再話・山本悟 挿絵・内田進
                サガミヤ㈱ 2018

ふう~

世間ばなし
08 /23 2019
♪ 秋よ来い 早く来い

  暑さでまいったきよちゃんが

  ザックにカメラをととのえて

  調査に出たいと待っている~




力くらべの折りに青年たちがはいた鉄の下駄です。
CIMG1166_20190823203735e52.jpg
静岡県富士宮市大中里青見丘路・丘路八幡宮


もうね、写真の編集がうまくいかなくて四苦八苦です。

ペイント3Dなるものでやってみましたが、
保存したはずの写真は行方不明になるし。

で、以前のペイントでやってみましたが、
これまた、以前のようにはいきません。

ブログ記事の書体も知らぬ間に変わっちゃうし、

ふう~

写真が重複!

できごと
08 /20 2019
ブログを更新しようと焦っております。

で、今晩、取り掛かろうと思い立ち、まずは「フォト」アプリを開いたら、
な、なんと、
写真がみんな2枚ずつになっていた。

慌てて「ピクチャ」を開いたら、こちらは正常です。

でも、月別の写真はその通りになっていてよかったのですが、
項目別にまとめた写真はひとまとめにごっちゃになっていて…。

これじゃあ写真が探せない!

とたんにパニック! 
パニックは少々オーバーですが、ストレス全開。
書く気力がしぼんでしまいました。

なぜ写真が重複してしまったのか、
また、「フォト」アプリ上の写真を全部削除したら、
連動して、「ピクチャ」上の写真も消えてしまうのでしょうか?

試しに、重複した写真の一枚だけを数か所、削除してみましたが、
ブログに掲載した写真は消えませんでした。

「フォト」アプリと「ピクチャ」の関係も理解できておりません。

ご存じの方、ぜひ、お教えください。

お知らせ

ごあいさつ
08 /17 2019
3週間前に注文しておいたパソコンが届きました。

なので本日からセットアップ等に取り掛かります。

とまあ偉そうにいいましたが、
文明の利器に程遠い所にいる私。パソコン関係にはさらに疎い。

それが大胆にもモデル版ではないのを注文。
設定はすべて自分でやろうと決意したのだから、大胆というか愚かというか。

現在のパソコンは大変な優れもので、8年目なのにトラブルは一度もなし。
今もサクサクよく動き、なんの支障もありません。

でもwin7から10へ移行ということで思い切って買い替えることにしたのです。

馴染んだ画面と別れるのはつらい。
新しい画面に馴染むまでのエネルギーが保てるかどうかも心配。

その前にうまく設定できるか不安いっぱい。
ギブアップして業者さんを呼ぶ羽目になるかもしれません。

でもなにごともチャレンジだと、老骨にムチ打って始めます。

一日で終わるか、はたまた果てしなく長い日々になるのかは神のみぞ知る。

というわけで、しばらくみなさまともお別れです。

すぐにブログをアップできたら、そのときは拍手喝さいで迎えてくださいね。

お知恵拝借

みなさまからの力石
08 /14 2019
力石に刻まれた文字が読めなくて困っています。

みなさまからお知恵をたまわりたいと思っております。

大阪市淀川区十三東の神津神社力石です。

淀川区十三東・神津神社2

文字の部分だけ大きくします。

淀川区十三東・神津神社2 (2)

扌(手)編に電(でん)という文字に見えますが、そういう文字はないんです。

扌(手)編に雷(らい)ならあります。「擂」(らい。する)。

「擂」には、直接手でその物に触れなくても特別な力で動かせる、
みたいな意味もあるようです。

(らい)はいかづち、雷鳴のことで、(ゴロゴロ)を意味し、
(でん)はいなづま、電光のことで、(ピカッ)を意味します。

まあ、どちらも神鳴(成)り(かみなり)さまなんですが…。

ここで知ったかぶりを一つご披露します。

雷が鳴ると雨が降って稲がよく育つ。
だから神鳴り稲成りで、それが稲荷になった。

神社のしめ縄、
これは(蛇)の雌雄が絡み合っている姿。
沖縄などの綱引きでは、雄綱、雌綱で引き合いますしね。

で、
龍(蛇)は水の神さまだから、昔の人は日照りが続くと、
龍神さまが住むという池や滝つぼへ雨乞いに行きました。

最初は若い娘が踊って龍神さまを楽しませ、それでも効き目がなかったら、
龍が怒ってゴロピカ暴れ出すのを期待して、牛の生首を池へ投げ込んだ。

だから「牛首」という地名のほとんどは、かつての雨乞いの場所なんです。

そのしめ縄から下がっている白い紙、紙垂(しで)といいますが、
これは稲妻・稲光りを現わしています。

稲妻があたると稲がよく育ち、おいいしいお米がたくさんできる、
そういう民俗を今に生かしたお米が群馬県で作られました。

コシヒカリと月の光を交配させてできたお米で、
そのものずばり、「ゴロピカリ」と命名したそうです。

さすが雷で有名な群馬!

江戸時代、そのカミナリの音と光を四股名にした史上最強の相撲取り
「雷電為右衛門」という人がいました。

下の写真は雷電が運んだと伝えられている「雷電の力石」です。
しめ縄がかけられた平たい大きな石の方です。

雷電の生誕地は信濃の大石村というんですから、これまた嬉しい。

img035_20190813191437e5c.jpg
長野県長野市東町・武井神社

「ゴロピカリ」は、品不足になるほど大人気のお米だそうですから、
まさにお米界の雷電

映画「眠狂四郎」を演じた市川雷蔵という俳優もいました。
「らいさま」なんて呼ばれていたけれど、思えば凄い名前ですね。

石の刻字に戻ります。

よく見るとこの文字、扌編ではなく、禾(ノギ編)のようにも見えます。
それですと、ぴったりくるのが、「穐」(あき、しゅう)という文字です。

「穐」「秋」の本字です。実りの秋を意味します。

「龍」のくずし字にもなんとなく似ています。

こちらは大阪市住吉区墨江1丁目の子安地蔵寺の力石「龍虎」です。

img034_2019081119335347d.jpg

どうでしょう。

神津神社の力石の文字に似ていませんか?
でも、専門家から「龍ではありません」とバッサリ。

それじゃあ何?となると、
学芸員さんも古文書の研究者もお手上げなんです。

「こうではないかなあ」「こうかもしれない」ー、
なんでも結構です。

どしどしお寄せ下さい。お待ちしています!

超常現象!?

世間ばなし
08 /10 2019
夏ですから、たまにはこんなお話もいかがでしょう。

20年ほど前の古い写真です。
写り込んでいるんです、変わったものが…。

この日私は山仲間と、大分県の九重(くじゅう)連山をめざして、
夜の名古屋港からフェリーに乗りました。

途中、神戸に入港。
港の観覧車が夜空にキラキラ光ってきれいでした。
船のお風呂に入ったのはこのときが初めて。
船が傾くと湯船のお湯もグラリ。斜めの水平線に浮かんでいるって感じ。

船室の窓から外を見たら、波の間に間に島影が黒々と。
あ、今、瀬戸内海を航行中だってわかりました。

早朝、大分港着岸。
そのとき撮った写真がこれです。

img030 (3)

右側に、船と重なって変なモノが写っています。
人の指のようなモノ。わかりますか?

右上の赤い光と左上の白い光ってのもなんだか変。
早朝とはいえ、妙に重苦しい靄(もや)だなァって思いました。
で、続いてもう一枚撮ったのがこちら。

曇り空ですが、すっきり撮れています。
先の写真と時間の差はほとんどないのに、この違いは何?

img030 (2)

お山です。
全山、ミヤマキリシマのピンク一色。

晴れていたかと思うと小雨という目まぐるしい天候で、
合羽を着たり脱いだり。

20年前の紙焼きなので色が褪せたかも。
本当はもっと鮮やかなピンクです。

img030 (4)

この日は山荘に泊まりました。
口をついで出てきたのが「坊がつる讃歌」

♪ ミヤマキリシマ咲き誇り 山くれないに大船(たいせん)の
  峰を仰ぎて山男 花の情けを知る者ぞ

怪現象はお山でも出ました。

img030_20190808205736c17.jpg

といっても気が付いたのは帰宅後、写真を見たときです。
どうみても指ですよね、これ。

大分港での指とほぼ同じ。

カメラを持つ自分の指が霧に反映してこうなったのかと思いました。
でもよく見ると、小指のような指の爪が半分しかない。
それに私の指は長いし、こんなふうにぷくっとしていないし。

なんでしょうね、これ。

自慢にはならないけど、子供のころから不思議なモノとよく遭遇してきました。
本当にゾッとしたのは数えるほど。
ほとんどは恐怖を感じなかったし、この写真も同じ。

こちらは船のデッキでの私です。
写真を通して、久しぶりに20年前の自分と対面。
この頃はまだ若かったなァ。歳月は人を待たずって本当ですね。

ご一緒した山の先輩の何人かはもうこの世にいないし。

img033_20190808212417187.jpg

で、この写真よく見ると、
私の後方に名探偵エルキュール・ポワロ氏に似た人が…。

ここは一つ、
この超常現象の謎の解明をポワロ氏にお願したほうがよさそうですね。
それとも謎は謎のままにしておいた方が?

はきもの絵引

三重県総合博物館
08 /06 2019
急にドカンと夏がきました。

暑くて活字が頭に入りません。なので絵で遊びました。

参考文献は「石山寺縁起」

石山寺は滋賀県大津市にある日本最古の霊場だそうです。
奈良時代、聖武天皇の勅願により良弁(ろうべん)僧正が開創。

なんとここには、あの紫式部が、
「源氏物語」を書くために籠っていた部屋があるそうです。
巻き紙に筆でサラサラと書いていたんでしょうか。

全部で7巻あるこの縁起絵巻、
鎌倉時代から江戸時代までのいろんな画家が補写したとか。

こんな少年も登場します。鞍(くら)は藁(ワラ)製。
img025_20190805093947cb7.jpg

疾走する馬に乗る少年の髪は「放ち髪」
背中で風に舞っているのは「綾藺笠(あやいがさ)=イグサで編んだ笠。
短袖の着物の柄はでしょうか。なかなかおしゃれです。

さて、本日は足元に注目してみました。

深沓(ふかぐつ)です。
img020_20190805110052e88.jpg

牛皮製。
皮製は女性は履かなかったと書いた本もありましたが、
この絵巻には皮の深沓姿の女性も登場します。

下の絵をご覧ください。

右の女性の赤い履物は(しとうず)、今でいう靴下です。
下靴(したぐつ)ともいい、この上にワラジを履いたようです。

真ん中の男二人は浅沓(あさぐつ)を履いています。木製です。

子供は裸足(はだし)。
この時代は大人も子供も裸足が多い。なんだか痛そう。

img022_20190805110721cdd.jpg

鼻緒のところがモジャモジャした草鞋(わらじ)は「舌地沓(したじぐつ)」
モジャモジャは「六葉の舌」というのだそうです。
舌に似た藁製の輪が6枚ついていたということでしょうか。

別名「乱緒の沓」

これは警護などをする衛府の役人の履物です。

img021_20190805112248f18.jpg

建久のころ(1190-99)、
山城国に謀反の輩が立てこもったため、
源頼朝の命を受けた中原親能が石山寺に戦勝祈願をした。

下の絵はその合戦に加わった兵士の足ごしらえです。

左の兵士は草鞋(わらじ)ですが、
右の二人は足半(あしなか)を履いています。

img023_2019080511422540c.jpg

下の絵の履物は今のサンダルにそっくりです。
私の子供のころは「突っかけ」と呼んでいました。

この時代にすでにあったとは驚きです。

渋沢敬三氏は著書「絵引」に、
「サンダルを思わせるものが描かれているが鼻緒を省略したとは思えないし、
この時代にサンダルに似たモノがあったかどうかも証明できない」
として、「よくわからない」と書いています。

でも、ちゃんとありました。

img027_2019080511492030c.jpg

ルイス・フロイスの「日欧文化比較」を訳した岡田章雄氏によれば、
これはげげ(下下、芥子)というものだそうです。

つまり下々(しもじも)の者が履くもの。
でも縁起絵巻には、「げげ」を履いた高僧もいました。

ゲゲとくれば、ゲゲゲの鬼太郎ですが、
鬼太郎のゲゲゲのゲは、この「下下」と関係あるのでしょうか。
ただ、鬼太郎の履物は普通の鼻緒の下駄ですが…。

絵巻には足駄(あしだ)も出てきます。
歯の高い足駄はトイレ用に好まれたとか。

、なんだかわからなかったのがこれ。

石山寺の深覚大僧正は、
病気の親王の加持祈祷のため内裏へおもむきます。

この不思議な履物は、大僧正が乗った輦車(れんしゃ)を護衛する
官人たちが履いていたものです。

img028_20190805122152586.jpg

敬三氏の「絵引」では、糸鞋(しかい、いとぐつ)としていますが、
うーん?

「いとぐつ」は下の写真のような、貴族や能の楽人・舞人が履く絹製履物です。
上の絵の履物とはあきらかに違いますよね。

くつ糸

「石山寺縁起」の解説には藁沓(わらぐつ)とあります。

で、他の文献をあたってみました。

下の絵でみると、一目瞭然、
やはり、(わら)製の深沓(ふかぐつ)が正しいみたいです。

img029_201908051241045fc.jpg

もし「渋沢敬三の絵引」の解説が間違っていたのなら、
「敬三先生の勘違いを見つけちゃった!」わけで…。

なんだかウフフの夏のひとときとなりました。


※参考文献・画像提供/「石山寺縁起」日本の絵巻16 小松茂美編 
               中央公論社 昭和63年
              ./「新版絵巻物による日本常民生活絵引」第三巻
               澁澤敬三・神奈川大学日本常民文化研究所編
               平凡社 1984
               /「新修国語総覧」江午務ほか編 京都書房
                1987

山を乗り越えました

三重県総合博物館
08 /03 2019
前回のブログにて、泣き言を書き連ねましたが、
このたび上田市の担当者さまより、協力の申し出をいただきました。

担当者さまが一番心配されていたことは、
一万円札の顔になる渋沢栄一の力石が見つかったことで注目され、
大勢の人が訪ねてきたら所有者の方に迷惑がかかる、というものでした。

市民の安全を第一に考えるという責任感から「お断わり」となったようですが、
力石は超マイナーな文化遺産ですから、
ポケモン現象はまず起きないと思います。

これを機にぜひ、渋沢栄一ゆかりのこの力石を、
町の誇りにしていただきたいと願っております。

私がこの力石の存在を探し出したのは、以下の資料からです。

もしご興味がありましたなら、以下のURLで検索してみてください。
手順を記します。

①URLをクリック

「デジタル版渋沢栄一伝記資料」

②第一章 幼少年時代をクリック

③画面項目の中から、「嘉永六年(1853年) 第一巻 92-163頁」の
 右の「資料リスト」をクリック

④画面に綱文、その下に「資料リスト」が出てきますから、
 その中から「第一巻 121-123頁」を探す。
 その項目に「上田郷友会月報 第620号 渋沢翁と紺屋手塚の老婆」が
 出てきますから、そこをクリック

⑤121-123頁の記事が出てきますから、123頁を見てください。
 そこに力石の記述があります。

孔子の弟子で大力だった子路(しろ)です。
渋沢栄一は、孔子の言行を弟子たちが書いた
「論語」を座右の書にしていました。

img018_201908030705533ed.jpg
「延命養談数」より

この「渋沢栄一伝記資料」にはほかに興味深い事柄がたくさん出てきます。

村の青年たちと下肥かつぎの競争をした話。
10貫の藍玉を入れた俵3俵を担いで信州の山地を歩いた話など。

渋沢栄一はかなりの力持ちだったことがわかります。

暑さが和らいだころ、
上田市の担当者さまのお世話で師匠と共に調査にまいります。

山を一つ乗り越えての調査です。

このご好意のありがたさを噛みしめつつ、
みなさまによいご報告ができますよう努めたいと思っております。
 

お詫び

三重県総合博物館
08 /02 2019
渋沢栄一翁が青年時代に持った力石をご紹介するつもりでしたが、
上田市から、「現段階では、
この力石のブログ掲載も、渋沢関連の施設へ伝えることも禁止します」

との要請があり、掲載できなくなりました。

これは決して上田市が冷たいのではなく、
あくまでも、石の所有者や直接の情報提供者への配慮を考えてのことで、
私は、行政として当然のことと受け止めております。

実際、
担当者さまの熱心な働きかけがなければ、石の発見は難しかったのです。

ちなみに所有者さんなどのお名前や住所等、私は全く聞いておりません。
お聞きしても無断で使用したことは今までありませんし、これからもありません。

私が力石に関わる理由は、後学の研究者のために、
放置された力石の記録を一つでも多く残したい、そんな思いからです。

今後は、そういう活動であることをご理解いただくよう努力を重ね、
すでに計画していた現地調査を改めて慎重に練り直し、
師匠の高島先生と共に、
上田市のご理解を得ながら進めて行きたいと思っております。

「栄一」石の掲載を心待ちにしてくださっていたみなさま、
また、「上田市の報告がブログにUPされるのを楽しみにしています」
と言ってくださった栄一翁の生誕地・深谷市の
「渋沢栄一記念館」の学芸員さんをもがっかりさせてしまったことを
お詫びいたします。

10年余の力石調査では、現地でお会いした方はどの方も温かく迎えてくださり、
泥まみれの力石を前に笑顔で昔話を聞かせてくれました。
今度のような事態は初めてで、正直なところいささか戸惑っております。

せめて、栄一翁の力石がどんなものであったか想像していただきたく、
担当者さまが知らせてくださった現地の方の声を記します。

「渋沢栄一、ものすごき怪力なり」
「力石は"たすき掛け"であやつった」

近いうちにより充実した報告が出来ますよう、がんばってまいります。

栄一翁の力石の代わりに、楽しいお話を一つ。
題は「大石」

img017_20190802024126ee1.jpg

「裏長屋へ引っ越してきた貧乏浪人のもとへ客が訪ねてきた。
貧乏なので世帯道具は手桶と煮炊きをする焙烙(ほうろく)しかない。
浪人、客に向かって、質素なのは心身鍛錬のためと大見得を切った。

そこで客は土間に置かれた大石をさして、
踏み石とは見えないが、これは何だと聞くと、
浪人がいうには、寒さしのぎに持ち上げる火鉢代わりの石だと答えた」

力石をストーブ(火鉢)代わりにするという利用法は初耳です。

やせ我慢の貧乏さむらいの
ちょっぴり哀れで笑うに笑えない笑い話でした。


※参考文献・画像提供/「江戸風俗絵入り小咄を読む」武藤禎夫 
               東京堂出版 1994
               「道づれ噺」安永4年刊 鳥居清経画 
               都立中央図書館蔵

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞