力石を担いだ栄一翁
三重県総合博物館
「瞬間の累積」という写真集があります。
これは渋沢敬三の父・篤二が明治後期に撮影した写真集です。
渋沢が「父の33回忌に何か記念になるものを…」と考え、
1万数千点ある写真から550枚選んで編んだものだそうです。
この写真集は私家本として、昭和38年10月6日に発行。
しかし渋沢敬三は、本が出たわずか19日後、
入院先の病院で逝去してしまいます。
享年67歳。
廃嫡となった父の代わりに実業界で働いてきた息子は、
自分の死の1ヵ月前、本のあとがきにこう書いた。
「父は趣味の豊かな人で、写真、狩猟、狂歌もよくしていて、
義太夫も上手だったし、愛犬家としてもひとかどの人でありました」
先日、この写真集を見ました。
大島川の荷船、多摩川の鵜飼、馬のふりわけに乗った旅人…。
不夜城どころか闇夜の野っ原だった東京新宿駅周辺。
子供のころの敬三さんが相撲を取っている写真もありました。
で私は、この貴重な、それこそ敬三氏が命がけで手がけた写真集を、
「もしや、力石や石担ぎのシーンが写っているのでは」
などという卑俗な野望を持って拝見したのですが、
トホホ、なかったんです。
こちらは父・篤二も息子の敬三も関わっていた澁澤倉庫内の力石群です。

東京都江東区永代・福住稲荷神社
ここにある力石10個すべてが、江東区有形民俗文化財です。
ああ、これもまた「兵(強者=つわもの)どもが夢の跡」になるのか、
と落胆しつつも、シツコク探しつづけまして、
とうとう見つけたんですよ、「力石」のこんな記述を…。
それは、敬三の祖父・栄一の
「渋沢栄一伝記資料 第一巻 第一章 幼少年時代」に収録された
「上田郷友会」会員による寄稿文の中にありました。
その寄稿文です。
「旧幕時代には村に若者連の集まる場所に、
力試しをする力石と称するものがあって、
今日なお処々に残されて居るものがある。
神畑の伝ふる所によれば、翁(栄一)、青年の際、お得意まわりに来られ、
村の若者連に参加し、此の力石を試みたが群を抜き、若者連一人として
翁に及ぶものがなかったという」
「栄一翁が青年のころ、お得意まわりに来られ…」というのは、
栄一の実家で家業にしていた染料の「藍玉」を、
信州上田神畑の得意先の紺屋(染物屋)に売りに来たということです。
栄一翁の出身は、今の埼玉県深谷市血洗島で、
実家では、藍葉の買い付けや製造した藍玉の販売をしていたそうです。
こちらは力石に刻まれた澁澤倉庫㈱の社章です。

この社章は渋沢家で使っていた藍玉の商標が起源だとか。
元は糸巻きを模したもので、
この糸巻きの形が、楽器の鼓を立てた形に似ているところから、
立鼓(りゅうご)と呼ばれているそうです。
現在も澁澤倉庫㈱の社章として使われています。
こちらは敬三の父の写真集にあった「立鼓」です。
綱町・渋沢邸落成式の時の写真で、
「立鼓」の社章の半てんを着た人が写っています。
こうした男たちに支えられた
鳶(とび)連による梯子乗りの写真もありました。

明治41年撮影。「瞬間の累積」より一部お借りしました。
7、8歳のころから祖父に連れられて、
藍葉の買い付けや藍玉の販売に信濃や群馬などを歩いた栄一少年。
14、5歳になると今度は、
従兄弟たちと商用の旅に出たそうですから、
信州での石担ぎの話は、そのころのものではないかと思います。
地元の若者が担げなかった石を軽々と担いでしまうなんて、
いきなり出来ることではありませんから、
日ごろから故郷の仲間たちと石担ぎを競い合っていたはずです。
栄一は15歳のころ、地元の若者組の若者頭(がしら)になっていますから、
知力、統率力に加えてかなりの力持ちだったと思います。
ちなみに、あの西郷ドンも青年のころは、
若者頭(鹿児島では二才=にせ)で、
以前、大河ドラマで西郷ドンが担いだ力石が紹介されたそうですね。
さて、
ここまで来るとさらに欲が出て、
栄一青年が担いだという力石を見つけたくなりましたが、
大海に針を探すが如し
でもまあ、
信州・上田の神畑で石を担いだ話がでてきて、
やっと渋沢家と力石がつながりました。
やれやれ。
※参考文献/「渋沢栄一伝記資料 第一巻 第一章 幼少年時代」
竜門社編 1956 の中の「渋沢翁と紺屋手塚の老婆」柴崎新一
上田郷友会月報 第六二〇号 第一五 117頁 昭和13年9月
※画像提供/「瞬間の累積ー渋沢二明治後期撮影写真集」渋沢敬三
昭和38年 私家本
/斎藤
これは渋沢敬三の父・篤二が明治後期に撮影した写真集です。
渋沢が「父の33回忌に何か記念になるものを…」と考え、
1万数千点ある写真から550枚選んで編んだものだそうです。
この写真集は私家本として、昭和38年10月6日に発行。
しかし渋沢敬三は、本が出たわずか19日後、
入院先の病院で逝去してしまいます。
享年67歳。
廃嫡となった父の代わりに実業界で働いてきた息子は、
自分の死の1ヵ月前、本のあとがきにこう書いた。
「父は趣味の豊かな人で、写真、狩猟、狂歌もよくしていて、
義太夫も上手だったし、愛犬家としてもひとかどの人でありました」
先日、この写真集を見ました。
大島川の荷船、多摩川の鵜飼、馬のふりわけに乗った旅人…。
不夜城どころか闇夜の野っ原だった東京新宿駅周辺。
子供のころの敬三さんが相撲を取っている写真もありました。
で私は、この貴重な、それこそ敬三氏が命がけで手がけた写真集を、
「もしや、力石や石担ぎのシーンが写っているのでは」
などという卑俗な野望を持って拝見したのですが、
トホホ、なかったんです。
こちらは父・篤二も息子の敬三も関わっていた澁澤倉庫内の力石群です。

東京都江東区永代・福住稲荷神社
ここにある力石10個すべてが、江東区有形民俗文化財です。
ああ、これもまた「兵(強者=つわもの)どもが夢の跡」になるのか、
と落胆しつつも、シツコク探しつづけまして、
とうとう見つけたんですよ、「力石」のこんな記述を…。
それは、敬三の祖父・栄一の
「渋沢栄一伝記資料 第一巻 第一章 幼少年時代」に収録された
「上田郷友会」会員による寄稿文の中にありました。
その寄稿文です。
「旧幕時代には村に若者連の集まる場所に、
力試しをする力石と称するものがあって、
今日なお処々に残されて居るものがある。
神畑の伝ふる所によれば、翁(栄一)、青年の際、お得意まわりに来られ、
村の若者連に参加し、此の力石を試みたが群を抜き、若者連一人として
翁に及ぶものがなかったという」
「栄一翁が青年のころ、お得意まわりに来られ…」というのは、
栄一の実家で家業にしていた染料の「藍玉」を、
信州上田神畑の得意先の紺屋(染物屋)に売りに来たということです。
栄一翁の出身は、今の埼玉県深谷市血洗島で、
実家では、藍葉の買い付けや製造した藍玉の販売をしていたそうです。
こちらは力石に刻まれた澁澤倉庫㈱の社章です。

この社章は渋沢家で使っていた藍玉の商標が起源だとか。
元は糸巻きを模したもので、
この糸巻きの形が、楽器の鼓を立てた形に似ているところから、
立鼓(りゅうご)と呼ばれているそうです。
現在も澁澤倉庫㈱の社章として使われています。
こちらは敬三の父の写真集にあった「立鼓」です。
綱町・渋沢邸落成式の時の写真で、
「立鼓」の社章の半てんを着た人が写っています。
こうした男たちに支えられた
鳶(とび)連による梯子乗りの写真もありました。

明治41年撮影。「瞬間の累積」より一部お借りしました。
7、8歳のころから祖父に連れられて、
藍葉の買い付けや藍玉の販売に信濃や群馬などを歩いた栄一少年。
14、5歳になると今度は、
従兄弟たちと商用の旅に出たそうですから、
信州での石担ぎの話は、そのころのものではないかと思います。
地元の若者が担げなかった石を軽々と担いでしまうなんて、
いきなり出来ることではありませんから、
日ごろから故郷の仲間たちと石担ぎを競い合っていたはずです。
栄一は15歳のころ、地元の若者組の若者頭(がしら)になっていますから、
知力、統率力に加えてかなりの力持ちだったと思います。
ちなみに、あの西郷ドンも青年のころは、
若者頭(鹿児島では二才=にせ)で、
以前、大河ドラマで西郷ドンが担いだ力石が紹介されたそうですね。
さて、
ここまで来るとさらに欲が出て、
栄一青年が担いだという力石を見つけたくなりましたが、
大海に針を探すが如し
でもまあ、
信州・上田の神畑で石を担いだ話がでてきて、
やっと渋沢家と力石がつながりました。
やれやれ。
※参考文献/「渋沢栄一伝記資料 第一巻 第一章 幼少年時代」
竜門社編 1956 の中の「渋沢翁と紺屋手塚の老婆」柴崎新一
上田郷友会月報 第六二〇号 第一五 117頁 昭和13年9月
※画像提供/「瞬間の累積ー渋沢二明治後期撮影写真集」渋沢敬三
昭和38年 私家本
/斎藤
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