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「親和」の精神

三重県総合博物館
07 /07 2019
渋沢敬三の祖父、栄一が設立した澁澤倉庫(株)は、
昭和32年(1957)に創業60周年を迎えています。

このときの社長は敬三の中学時代以来の親友・中山正則
敬三の弟子の宮本常一は、その中山について著書にこう記している。

「家庭的には不幸であった中山を渋沢の母は実に大事にした。
だから中山は渋沢の母を本当の母のように慕い、仕えていた」
  ※敬三の母は公卿・橋本実梁の妹。

渋沢が戦後公職追放になり、経済的にも家庭的にも苦しくなったとき、
中山は、「こういうときこそ、そばにいてやってくれ」と宮本に頼んだ。
  ※岩崎財閥出の妻は、このとき渋沢の元から去っていったという。

下の写真は、昭和14年ごろの渋沢家の自家菜園です。
公職追放になった敬三はここで鍬を持ち、肥桶を担いで働いた。

その「にわか百姓」の敬三を見て、
多くの篤農家が援助の手を差し伸べたという。

そんな中、関東系と関西系では鍬の刃先が違うことに気づき、
その原因を土質であることをつきとめたりしています。

どこまでも研究者ですね。

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宮本の話を続けます。

「それで私は用事がなくてもたびたび上京して、中山の言葉を含めて、
私のようなものでもお役に立てればと伝えたら、渋沢は号泣した。
私は生まれてはじめて、そして一度だけ、渋沢のそういう姿に接した」

「平静を装いつつ、いかに張りつめた気持ちで日々を生きてきていたことか。
そうした渋沢をもっともよく知っていたのが中山であった」

敬三の子息・雅英も、
戦後すべてを失った父の姿をこんなふうに回顧している。

「その頃から父が居間で、
一人でトランプをしている姿を見かけることが多くなった。
カードが擦り切れて汚くなっても意に介さず、
同じ遊びを何百回、何千回と繰り返すのである」

出口の見えないそんな状況も5年目の昭和26年、ようやく解除。
このとき渋沢、55歳

しかし、有能な弟子たちを戦争で失い、残った者たちも故郷へ帰るなどして、
築きあげた常民文化研究所はガタガタ。
しばらくは宮本常一と二人だけの研究所が続いたという。

敬三は「澁澤倉庫六十年史」(昭和34年発行)にこんな祝辞を寄せている。

「終戦後、私が最も敬愛する中山さんが社長になられ、
ー略ー
戦後澁澤という名はよしたらと申したこともありましたが、
社員諸君のご希望でそのままになりました。
ー略ー
ここに澁澤倉庫ありというふうになって喜んでおります」

その中山正則の記念式典での挨拶が残されています。

「わが社の伝統の中心をなすものは「親和」の精神であります。
創業以来、この精神が一貫して流れてきているのであります。

もし、我々の間にこの精神が伝わらなくなったとするならば、
名は澁澤倉庫であっても、実質は澁澤倉庫でなくなったと極言されましょう」

この日、従業員やその家族による多彩な演芸が行われた。
そしてこの日の呼び物として登場したのが、
東京都無形民俗文化財に指定されたばかりの「力持」の演技だった。


※参考文献・画像提供/「宮本常一著作集50 渋沢敬三」
               未来社 2008
※参考文献/「澁澤敬三著作集 第3巻」「犬歩当棒録」平凡社 1992
        /「澁澤敬三著作集 第4巻」「旅の人生 父渋沢敬三の思い出」
         渋沢雅英 平凡社 1993
        /「澁澤倉庫百年史」澁澤倉庫株式会社 平成11年
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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞