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柳田、渋沢と力石

三重県総合博物館
07 /03 2019
前々回、ずっと気になっていたこととして、私はこんなことを書きました。

「日本民俗学の創始者、柳田国男と、
民族・民俗・歴史博物学に大きな足跡を残した渋沢敬三のお二人は、
力石力くらべについて何か書き残してくれていないだろうか」と。

まず、柳田国男から調べました。
さすがですね、ありました。

「定本 柳田国男集」の1、5、9、14、15巻の9ヵ所に書かれていました。

これがその一例です。
かいつまんでいうと、こんなことが書かれています。

(一人前の証しとして)広い区域で行われる風習としては、
力石またはさし石ということがある。
目方の知られた大小の力石が、村の御社の境内などに置いてあって、
男は少年の頃から暇があるとそれを差し上げたり肩に載せたりして
ー略ー
最小限度、米一俵を担がれるということが条件であり、それができない者は
僧になり商人などを志願したと同時に、一方、この関門を通った者は、
神を祭る団体に入ることを許され…

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「定本 柳田国男集 第15巻」

柳田はこのほか、力競べ、力自慢、力の信仰など、
力に関する記事を40か所ほど書いていました。

では渋沢敬三はどうか。

明治30年、敬三の祖父・栄一は、
深川福住町の大島川に面した自宅内に「澁澤倉庫」を設立します。

孫の敬三は大正15年にそこの取締役に就任。
昭和34年の「澁澤倉庫六十年史」には、こんな言葉を寄せています。

川岸の道から門を入ると両側に三三の倉が建ち並んでいて
ー略ー
物心がついてからはよくこれらの倉前や倉と倉との間を遊び場にしていました。
荷役方(当時は小揚げといった)が大島川に浮かぶ艀(はしけ)から
肩に米俵等を背負って巧みに踏み板を渡っては倉へ出し入れしていました

こちらがその「三三の倉」です。
 ※三間(さんげん)に三間(さんげん)の意。一間は1.82m。

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「澁澤敬三著作集 第3巻」よりお借りしました。

子供のころの渋沢の遊び場は倉で、そこで荷役の男たちを見てきている。
そして、昭和の時代には、
その倉庫で佐賀町の力持ちの根本正平が働いていた。

根本は「澁澤倉庫百年史」に元作業員取締として談話を寄せているし、
澁澤倉庫内の福住稲荷神社(東京都江東区永代)には、
根本たちの名を刻んだ力石が、今も10個も保存されている。

これは期待できそうだ。

だって柳田と違って、身近に力持ちたちと接してきたのだから、
その労働形態や風習に興味を持たないわけがない。

ところが、です。
著作をひっくり返しても「力石」の「ちの字」も出てこないのです。
思い余って、
神奈川大学日本常民文化研究所へ問い合わせました。

ここは渋沢敬三の業績を引き継いだ研究所です。
で、すぐにお返事をいただきましたが、そこにはこんな言葉が…。

「渋沢敬三が力石に言及した文献等は見当たりませんでした

涙……


  =古い映像をご覧ください=

神奈川大学・常民文化研究所をクリックすると、
簡易検索の画面が出てきますから、フリーワード欄に「映像」と入れてください。
渋沢敬三とチームが撮影した昭和の古きよき日本の姿が見られます。

山古志村の「牛の角突き」、東北地方の暮らしや祭りなど、
大人も子供もみんな、実にいい笑顔をしています。
テレビのない時代には誰もが主役だったということが実感できます。


※参考文献・画像提供/「定本 柳田国男集」15巻 筑摩書房 昭和44年
               /「澁澤敬三著作集 第3巻」平凡社 1992
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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞