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絵引と漢字遊び

  =嬉しいお知らせです=

渋沢敬三の祖父で、
2024年発行の1万円札の顔になる実業家・渋沢栄一翁が
青年時代に担いだ力石が見つかりました。

長野県上田市教育委員会の方のご尽力です。
詳細は今しばらくお待ちください。

          ーーーーー◇ーーーーー

「字引と似かよった意味で、絵引は作れぬものか」

渋沢敬三の著作を読んでいて、
発想の凄さ、おもしろさにハッとしたのがこの「絵引」です。

渋沢氏はいう。
「絵巻物の中から貴族文化、あるいは武家文化を取り去ると
残るものはその当時の常民生活記録であります」

その生活記録を資料として残すために、
絵巻物の中から資料となりうる画面をチェックして、
その部分のみを画家に模写してもらい、これに題名と部分名を加え、
解説をつけて、1000枚に及ぶ絵図に仕上げていったそうです。

こちらは「一遍聖絵」に出てくる女性の旅の様子です。

img016_2019072805232638c.jpg
「日本常民生活絵引」よりお借りしました。

女性は市女笠(いちめがさ)をかぶり、(うちぎ)を着ています。
この市女笠に布を垂らして顔を見せないように工夫したものもあります。

袿を腰のあたりでしぼった形が壺のようにみえるところから、
これを「壺装束」といいます。

足ごしらえは脛巾(はばき=脚絆)と草履で、ふところに赤ん坊を入れています。
女の旅だけでも大変なのに、赤ん坊連れとは驚きです。
曲げ物の桶を担いだ男は従者です。

言葉だけの資料ではなかなか残らない。
また残ってもよくわからないいろいろの動作が、絵で見るとよくわかる」
と渋沢氏が言った通り、子連れの旅の様子が一目瞭然です。

下の絵は運搬の様子です。

なぜわざわざ裸の肩で担いでいるのかについて、
参考文献として使わせていただいた「絵引」では不明としていましたが、
たぶん、こうだと思います。

「東海力石の会」大江誉志氏からお聞きしたのですが、
「力石を担ぐとき、服を着てやると布でずれて持ちにくい。
素肌でやると石がピッタリ肌に吸い付いて落ちにくくなる」と。

それと同じで、
素肌の方が棒が滑りにくいからだと思うのですが、どうでしょうか。

img015_201907280550274d5.jpg
「日本常民生活絵引」「天狗草子」よりお借りしました。

さて、運搬方法には、
担ぐ、背負う、引っぱる、頭に乗せる、牛馬を使うなど様々あります。

この絵の人は天秤棒を使っています。
この天秤棒のことを「(おうご)」といいます。

木偏に力と書いて「朸(おうご)」。
木製の棒に力を加えて担ぐわけですから、理にかなっています。

力石研究の第一人者の高島先生もこうした漢字に注目しました。
先生が興味を持ち、著書で紹介した漢字をここに書き出してみます。

を発揮するのが
ないと劣る
労働で支払うのが主税(ちから)
いものにが加わると動く

なるほどなあと感心しつつ、次のこれでつまづきました。

●重いを加えると勇ましい

鐘に力で勇ましいって、意味がわかりません。
そこで師匠に問い合わせました。

答えは以下の通りです。

勇の文字の力の上は(よう)。
つまりこの文字はでできています。
で、この甬って何かというと、
甬鐘(ようしょう)という柄のついたのこと。

これが甬鐘(ようしょう)です。
ようしょう

この重い鐘に力を加えるには非常な気力がいる。
その気力を出す様子が猛々しく勇ましい
なので、「重い鐘に力を加えると勇ましい」になるとのことでした。

ちなみに「力」という文字は「力強い腕」を意味するとか。

私はまた、「マ」「男」だからマオトコだ、なんて思っちゃって。
どこまでも不肖の弟子で、師匠、すみません。

で、ついでながら、
を表わすサンズイをつけると「湧・涌」(わく)になります。
勇ましく湧き出る水ってわけです。

私も真面目に考えてみました。
力をたくさん加えたらどうなるか。

●一つの仕事に2人以上の力を合わせると協力のになる
●しかし協と同じ3つの力でも、
 月(肉)を切るのは脅しになってしまいます。
 
力も使いようで良くも悪くもなるってことなんですね。
漢字って実に味わい深い!

で、恐れながら、
わたくしメから三重県総合博物館さまへの提案です。

もしもいつか「力石の企画展」をやっていただけるなら、
ぜひ、力石にまつわる絵引と力の漢字遊びもその中へ入れてくださいね。

とまあ、
たとえ見果てぬ夢であっても、「いつでも夢を」の世代ですから。


力石に関する「絵引」は次回ご紹介いたします。


※参考文献・画像提供/「新版絵巻物による日本常民生活絵引」第一巻
               澁澤敬三・神奈川大学日本常民文化研究所編
               平凡社 1990
               /「新版絵巻物による日本常民生活絵引」第三巻
                編等同上
※参考文献/「澁澤敬三著作集 第3巻」平凡社 1992
        /「力石ちからいし」高島愼助 岩田書院 2011

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埼玉在住の力石研究者の斎藤氏が、
「浅草に出たついでに上野まで足を延ばして撮ってきた」写真を、
お送りくださった。

西郷隆盛像です。

向かいのパンダと見つめ合っています。
ちょっと翳りのある物言わぬ背中、なんともいい感じ。

1西郷像

で、足半(あしなか)を履いた足元も撮影。

「かかとまでは見えなかった」とのこと。

神社の注連縄と同じ呪術的要素があるそうですが、
鼻緒の結び目を見ると確かにそんな感じです。

この足半、織田信長時代に日本にいたイエズス会の宣教師、
ルイス・フロイスも見ていて、「日欧文化比較」に書いています。

「われわれの間では足は全部地につけて歩くが、
日本では足の半分の履物の上で、足の先だけで歩く」

2西郷像

ついでに現代の足半も探してきてくれました。
健康サンダルです。

斎藤氏は何事もトコトン追求の人なのです。

4西郷像

で、かつて路上観察の先輩から、
「西郷ドンが連れている犬はツンという名のメス犬」と聞いていた斎藤氏、
オスかメスかの決着をつけるべく、とうとう撮ってきてしまいました。

結果は立派な殿方でした。

でも斎藤氏からは、
「リアルすぎるからブログに載せるのはやめた方がいい」とのご忠告。

そうですよねえ、

ワンくんに悪気があるわけではないけど、
みなさまに不快な思いをさせかねないし、
非文字資料だの渋沢流だのと、高尚っぽいことを言っておきながら、
急に下ネタかよ、なんて幻滅されかねないし。

最近、こんなこともあったし…。

タイ在住のちい公さんのブログ「ちい公ドキュメントな日々」で、
ワンワンクイズというのをやっていたんです。

そこに、首から空のペットボトルをぶら下げたワンくんが出ていまして、
「なんでペットボトルを下げているのか」というのがクイズでした。

で、私は「通行人のお目障りにならないためのキ○隠し」と答えたら、
ちい公さんから、
「キ○だなんて、姫さまがそんなことを口にするなんて悲しい」と。

そっか、私にはキ○は禁句なんだ。
ああ、なんと窮屈な姫さま稼業。

口は慎まねば品位を落とす、でも真実は伝えねばと悩んだ末に、

3西郷像

「キ○」を「禁」で隠したのでございます。

でもかえっていやらしくなっちゃいました(笑)
ちい公さん、ごめんなさい。また悲しませてしまって。

一片たりとも

非文字資料はモノを集めてナンボのもの。
とにかく数を集めます。

民族学者の渋沢敬三約3万点の民具を集めた。
それを自宅のアチックミューゼアムに収蔵し、可能な限り図録として印刷した。

サンキュー氏流に言えば、図録は「民具グラビア」でしょうか。

力石研究者の高島愼助先生が調査した力石は、
1万4000個(2011年時点)。
笠やかんじき、漁具などの民具と違い、100㎏、200㎏もある石です。
そんなものを1万4000個も集めたら、岩山が一つ出来てしまいます。

だから先生の力石の収集は写真のみの持ち帰り。

もっとも、大勢の村人に愛された力石は、
その地域の歴史の証人ですから、現地での保管が最も好ましい姿でもあります。

渋沢は先輩の学者から、
足半(あしなか)なんてくだらぬものを集めて、何の役に立つのか」といわれ、
書生からも「あんな汚い田舎くさいものをどうして集めるのか」と問われた。

たまにですが、力石の調査でも似たようなことがあります。

「あんな石っころ」「たかが見世物」「底辺の男たちの遺物」、
「そんなものに何の価値があるの?」という厳しい声や視線。

しょうがないですよね。
いわれるように「あんな石っころ」だし、上流階級の男はやらなかったし、
世間的に見たら、やっぱり「ヘンなこと」だから。

ま、とにかく渋沢氏が本の中で語っていた
「好きだからやる」
「理屈はあとからいくらでもつけられる」ー、
これで押し通すしかないんです。

でも知らないことをいろいろ調べるのって楽しいじゃないですか。
このブログにご訪問くださる方々も、みなさん、それぞれの
「好きだからやる」をされていて、熱い人生をまっしぐらですものね。

高島先生の著書です。全国の力石が網羅されています。
埼玉の研究者の斎藤氏や私との共著もあります。

CIMG4850.jpg

さて、渋沢氏は「足半」について、こんなことも書き残しています。

「下級武士が戦(いくさ)にも履いた足半の本来の意義は足の保護ではなく、
滑るのを防ぐスパイクとして用いた」

足半は用途によって編み方が違うことに気づき、その内部を見るために、
昭和10年、ガン研の協力でレントゲン撮影をしたというのだから驚きます。

これはのちに仏像の内部を調べることに応用されていきました。

歴史学者の網野善彦渋沢敬三柳田国男の、
史料・資料に対する考え方の違いについて、
中村吉治の論文「民俗学隻語」から、中村のこんな言葉を紹介しています。

中村吉治が論文で取り上げたのは、
柳田国男と家永三郎との対談「日本歴史閑談」です。

この対談で柳田は、
渋沢が自身で手掛けた「豆州内浦漁民史料」の序文に、
「(伊豆の網元に残っていた)文書の、
何が一番価値があり、何が屑であるかは予想しえない。
だから大部分を可能な限り出版したい」と書いたことに触れ、

「こんなものをいちいち集めたり見ているより、
これは大切だから持ってきてもいい、あとは襖の下張りやりんごの袋に
してもいいという基準を立てた方がいい」と言った。

この発言に対して、著者の中村は異を唱えた。

「それは危険だと思う。私は渋沢流に(くみ)したい

網野もこう断言する。
「文書の断片、屑のような一片たりともおろそかにはしない
という渋沢の、そういう
過去の人間生活の営みに対する謙虚な態度」こそが正当で、
柳田のような処理が行われたとすれば、
最も民俗の世界に近接する部分を切り落とし、抹殺する結果になるだろう」と。

思えば高島先生もそうだった。

「刻字のある石のみに文化的価値があるのではない」
として、無銘の石や割れた石をも見捨てず、
「力石とあらば残らず調査する」という先生の口ぐせ通り、
所在不明になった石や伝説上の石まで、丁寧に調査・記録して、
渋沢流を貫いていました。

そんな力石の一つがこれ。
若者たちが担いで力を競い、どんど焼きの火に投じた道祖神(16貫)です。
でも今は、割れて道端の草むらに放置という状態です。

北山角木沢上・道祖神1
静岡県富士宮市北山角木沢上 

網野はこうもいう。

「渋沢は自分のためにではなく、
はるか先の未来に来たるべき本格的な学問の発展のために、
史料・資料を用意すること、つまり一次資料の整備に全力を注いだ」

        ーーーーー◇ーーーーー

「なぜ、たくさん集めるのか」について。

絵画や書などの美術作品はその一つ一つが完成品。
でも民具や力石などは、
たくさん集めて初めて何かが見えてくるものだからです。

中村吉治/歴史学者。長野県辰野町出身。
        
        中村は東京帝国大学在学中、卒論を書くにあたり指導教官に
        「卒論には百姓の歴史をやりますと伝えたら、
        豚に歴史はありますか?と侮蔑された」という。

        「百姓」「豚」といい、豚に歴史なんてないじゃないかと蔑む。
        そんな風潮の明治~昭和初期に渋沢敬三は、
        山、川、海、浜、田に生きる人々の民具を集めていた。
        「民衆はちゃんとした歴史を持っている」と主張して。
        
今回はちょっと熱くなりすぎました。お笑いください。


※参考文献/「澁澤敬三著作集 第3巻」解説「渋沢敬三の学問と生き方」
         網野善彦 平凡社 1992
        /「石に挑んだ男達」高島愼助 岩田書院 2009
※画像提供/「静岡の力石」高島愼助・雨宮清子 岩田書院 2011

非文字資料

※末尾に追記を加えました。見てください。

    ーーーーー◇ーーーーー

三重県総合博物館の訪問記が、
なんだか「ヘン」な方向へ行ってしまいました。

でもね、私はこれ、意図してやっておりました。

私は2019年6月4日のブログに「ヘンな論文」という記事を書きました。
これは大学の先生とお笑い芸人の2足のわらじをお履きになっている
サンキュー・タツオ氏の著書のタイトルです。

この本に我が師匠の高島愼助先生が取り上げられていました。
こんなふうに。

「画像がヘンな論文。真面目だけれどヘンなことになっている」
「石ばかり並べた石グラビア

これに対して私は、
「サンキューさん、読みが浅くありません?」と噛みついた。

もちろんサンキュー氏は、
「ヘンな論文」の研究者たちを愚弄しているわけではありません。
それは重々わかっております。
またこうした地味な「力石」を取り上げてくださったことにも
感謝しております。

ただ、ほんのさわりだけを面白おかしく取り上げてオシマイというのは、
なんだかなあ、いやだよなあと思ったのです。

だってそういう書き方って誤解を招くし、また一番肝心な
これを自著に取り上げた著者熱意意義が全く感じられなかったから。

というわけで、渋沢敬三氏の力をお借りして、
ちっとも「ヘンではない」を証明するために回り道をしたわけです。

こちらは昭和6年、津軽の旅で大草鞋を手にした36歳の渋沢敬三氏です。
この年、祖父の死去に伴い子爵を受け継いだ。

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「宮本常一著作集50 渋沢敬三」よりお借りしました。

「自分は人の見落したことし残したことをやっていきたい」

これは渋沢が弟子の宮本常一に常々語っていたことです。

文献至上主義の世界で、
渋沢は文字や言葉ではなく物=非文字資料にこだわり、
民具「足半」に注目して、それらをできるだけ収集した。
 ※足半(あしなか)」=土踏まずのあたりまでしかない草履。

足半(あしなか)です。下級武士や庶民が履きました。
img012_20190716062452156.jpg
「澁澤敬三著作集 第3巻」よりお借りしました。

足半の研究に取り組んだころ、先輩の学者が、
「足半のようなくだらぬものを集めて、何の役に立つのか
と眉をしかめたという。

また、渋沢は民具収集にも力をそそいだ。

当時は農家で使っている道具を土俗品と呼んでいた。
渋沢は「いかにも卑下したような感じだ」としてそれを嫌い、
代わりに「民具」という言葉を作った。

足半や民具を集める渋沢は書生の一人から、
「先生はなぜそんな汚らしい田舎くさいものばかりやるのですか」
と言われたとき、ただ「好きだからだよ」と受け流していたという。

しかし本心はこうであった。

「民具は誰が作り、その技術はどこからもたらされたのか。
材料は何か。使用のされ方はどうなのか。
そんなことから常民生活の構造も探り当てられる」と。

上野の西郷隆盛像の足元です。西郷ドンも足半を履いています。
img013_20190716064155de0.jpg

ついでにこんな写真(下の写真)もお見せします。
撮影者の斎藤氏によると、腰に挟んでいるのは兎獲りの罠
この像は、愛犬を連れて兎獲りに行く姿だそうです。

西郷さんが一番かわいがっていたのはメス犬の「ツン」。
そのため長らく、上野の犬はツンだと言われてきたそうですが、
銅像の犬はオス犬だったようで、だからツン説は消えたとか。

私は狛犬の股間はよく見て回りますが、残念ながら、ここのはまだ。
あらぬところを覗きこまれて、ワンくん、恥かしかったかもネ。

2西郷ドン
西郷銅像は高村光雲作、愛犬は後藤貞行

宮本はいう。

「足半にしても先生は、日本人が藁(わら)をどのように利用し、
また履物が日本人の生活の中でどういう位置を占め、
どういう役割を果たしているかを見ようとせしめた。

多くの民具を集めたのも同じ心からで、目先の変わったもの
希少なものを集めるのではなく、
日常使用しているもの、また使用に耐えなくなったものまで集めた。
そこから、真の常民生活を探ろうとしたのである」

民具足半も、そして力石非文字資料なんです。


 ※「常民」という言葉も渋沢の造語
   国民や庶民とう言い方は上から目線のようで嫌ったという。
   渋沢の造語の民具や常民をのちに柳田国男も使い始めます。

=追記=

ブログ「わがまま勝手な呟き」の麿さんが
力石の写真を載せてくださっています。
ブログの力石は木にのめり込んでいますが、以前はこんなふうでした。
 ※掲載の写真は2002年発行の「大阪の力石」初版本のものです。

img014_201907200815234fc.jpg
大阪市住之江区北島 高砂神社
「大阪の力石」第2版 高島愼助 岩田書院 2013

神戸商船大学の岸井守一先生の調査時(1971)にはもう一つ
「高砂」と刻字された石があったそうですが、現在は所在不明。

麿さんのブログ、高島先生に知らせますね。
ありがとうございました。


※参考文献・画像提供/「宮本常一著作集50 渋沢敬一」未来社 2008
              /「澁澤敬三長作集 第3巻」平凡社 1992
              /斎藤

力石を担いだ栄一翁

「瞬間の累積」という写真集があります。
これは渋沢敬三の父・篤二が明治後期に撮影した写真集です。

渋沢が「父の33回忌に何か記念になるものを…」と考え、
1万数千点ある写真から550枚選んで編んだものだそうです。

この写真集は私家本として、昭和38年10月6日に発行。
しかし渋沢敬三は、本が出たわずか19日後、
入院先の病院で逝去してしまいます。

享年67歳

廃嫡となった父の代わりに実業界で働いてきた息子は、
自分の死の1ヵ月前、本のあとがきにこう書いた。

は趣味の豊かな人で、写真、狩猟、狂歌もよくしていて、
義太夫も上手だったし、愛犬家としてもひとかどの人でありました」

先日、この写真集を見ました。

大島川の荷船、多摩川の鵜飼、馬のふりわけに乗った旅人…。
不夜城どころか闇夜の野っ原だった東京新宿駅周辺。

子供のころの敬三さんが相撲を取っている写真もありました。

で私は、この貴重な、それこそ敬三氏が命がけで手がけた写真集を、
もしや力石石担ぎのシーンが写っているのでは」
などという卑俗な野望を持って拝見したのですが、

トホホ、なかったんです。

こちらは父・篤二も息子の敬三も関わっていた澁澤倉庫内の力石群です。

1福住稲荷
東京都江東区永代・福住稲荷神社

ここにある力石10個すべてが、江東区有形民俗文化財です。

ああ、これもまた「兵(強者=つわもの)どもが夢の跡」になるのか、
と落胆しつつも、シツコク探しつづけまして、

とうとう見つけたんですよ、「力石」のこんな記述を…。

それは、敬三の祖父・栄一の
渋沢栄一伝記資料 第一巻 第一章 幼少年時代」に収録された
「上田郷友会」会員による寄稿文の中にありました。

その寄稿文です。

「旧幕時代には村に若者連の集まる場所に、
力試しをする力石と称するものがあって、
今日なお処々に残されて居るものがある。

神畑の伝ふる所によれば、翁(栄一)、青年の際、お得意まわりに来られ、
村の若者連に参加し、此の力石を試みたが群を抜き、若者連一人として
翁に及ぶものがなかったという」

「栄一翁が青年のころ、お得意まわりに来られ…」というのは、
栄一の実家で家業にしていた染料の「藍玉」を、
信州上田神畑の得意先の紺屋(染物屋)に売りに来たということです。

栄一翁の出身は、今の埼玉県深谷市血洗島で、
実家では、藍葉の買い付けや製造した藍玉の販売をしていたそうです。

こちらは力石に刻まれた澁澤倉庫㈱の社章です。

3福住稲荷

この社章は渋沢家で使っていた藍玉の商標が起源だとか。

元は糸巻きを模したもので、
この糸巻きの形が、楽器の鼓を立てた形に似ているところから、
立鼓(りゅうご)と呼ばれているそうです。

現在も澁澤倉庫㈱の社章として使われています。

こちらは敬三の父の写真集にあった「立鼓」です。
綱町・渋沢邸落成式の時の写真で、
「立鼓」の社章の半てんを着た人が写っています。

こうした男たちに支えられた
鳶(とび)連による梯子乗りの写真もありました。

img010_20190712173001dbf.jpg
明治41年撮影。「瞬間の累積」より一部お借りしました。

7、8歳のころから祖父に連れられて、
藍葉の買い付けや藍玉の販売に信濃や群馬などを歩いた栄一少年。

14、5歳になると今度は、
従兄弟たちと商用の旅に出たそうですから、
信州での石担ぎの話は、そのころのものではないかと思います。

地元の若者が担げなかった石を軽々と担いでしまうなんて、
いきなり出来ることではありませんから、
日ごろから故郷の仲間たちと石担ぎを競い合っていたはずです。

栄一は15歳のころ、地元の若者組の若者頭(がしら)になっていますから、
知力、統率力に加えてかなりの力持ちだったと思います。

ちなみに、あの西郷ドンも青年のころは、
若者頭(鹿児島では二才=にせ)で、
以前、大河ドラマで西郷ドンが担いだ力石が紹介されたそうですね。

さて、
ここまで来るとさらに欲が出て、
栄一青年が担いだという力石を見つけたくなりましたが、

大海に針を探すが如し

でもまあ、
信州・上田の神畑で石を担いだ話がでてきて、
やっと渋沢家力石がつながりました。

やれやれ。


※参考文献/「渋沢栄一伝記資料 第一巻 第一章 幼少年時代」
        竜門社編 1956 の中の「渋沢翁と紺屋手塚の老婆」柴崎新一 
        上田郷友会月報 第六二〇号 第一五 117頁 昭和13年9月
※画像提供/「瞬間の累積ー渋沢二明治後期撮影写真集」渋沢敬三
         昭和38年 私家本
        /斎藤

力持ち、社史に載る

昭和32年の「澁澤倉庫六十周年」記念式典で、
力持ちの妙技を披露した「深川力持睦会」

出演したのは、
澁澤倉庫従業員の3人と三倉荷役、帝国・大成倉庫の従業員たちを含む
男性10人とお囃子の女性5人。

この晴れ舞台に立った澁澤倉庫従業員の根本正平が、
その20年後、「東京澁澤同友会会報」にこんな談話を残している。

力持ちは無形民俗文化財に指定され、今では木場の角のりと並んで、
テレビでも時々お目にとまっていると思います。

澁澤倉庫六十周年記念に曖依(あいい)村荘で、また日本倉庫協会の
椿山荘の総会でも披露しましたから、実物をご覧の方も多いでしょう。
曲技のコツはと聞かれますが、やはり練習。それに我慢でしょう」

こちらは社史に掲載された「力持ち」の演技の様子です。
img009_201907082003403bd.jpg
      
主な種目は「江戸の花五人持」「酒樽の差し上げ」「力石の差し分け」など。
仰向けに寝た人の上に舟や人や俵を乗せた「宝の入船」は、
下の人に780Kgもの重量がかかるというのだから命がけです。

根本たちは沖縄海洋博へも行ったという。
 
※「沖縄国際海洋博覧会」
  沖縄返還と日本本土復帰を記念して昭和50年に開催。
  現在跡地は「沖縄美ら海水族館」などになっています。

この海洋博からすでに半世紀。
当時10歳で博覧会に行った子なら還暦ですよ。

平成なんてちょっと前だと思っていたのに、元年生まれはもう31歳。
そして令和と変わり…。

時の立つのが早いこと!

さて、こちらは澁澤倉庫内の
福住稲荷神社に保存されている根本正平の力石です。
この稲荷神社については、
渋沢敬三も「福住の屋敷にあった」と著書に記しています。

でも力石や力持ちに言及していないのがなんとも残念。

2福住稲荷
東京都江東区永代・福住稲荷神社

こちらは「富岳」石。
横に「澁澤倉庫内」と刻字されています。(赤矢印)

これは昭和8年(1933)に奉納された石で、
根本は立会人として名を刻んでいます。

4福住稲荷

「富岳」が奉納されたこの年、渋沢敬三、37歳。

第一銀行常務、澁澤倉庫参与という実業家と、
「豆州内浦漁民史料」に着手するという学者の両輪で多忙を極めていた。

しかし、私生活では昭和6年の祖父・栄一の死、
翌7年には、敬三自身の発病と父・篤二の死という不幸に見舞われた。

そうした試練を乗り越えて迎えたのが、この昭和8年だった。


※参考文献・画像提供/「澁澤倉庫百年史」澁澤倉庫㈱社史編纂委員会
                平成11年
※画像提供/斎藤氏

「親和」の精神

渋沢敬三の祖父、栄一が設立した澁澤倉庫(株)は、
昭和32年(1957)に創業60周年を迎えています。

このときの社長は敬三の中学時代以来の親友・中山正則
敬三の弟子の宮本常一は、その中山について著書にこう記している。

「家庭的には不幸であった中山を渋沢の母は実に大事にした。
だから中山は渋沢の母を本当の母のように慕い、仕えていた」
  ※敬三の母は公卿・橋本実梁の妹。

渋沢が戦後公職追放になり、経済的にも家庭的にも苦しくなったとき、
中山は、「こういうときこそ、そばにいてやってくれ」と宮本に頼んだ。
  ※岩崎財閥出の妻は、このとき渋沢の元から去っていったという。

下の写真は、昭和14年ごろの渋沢家の自家菜園です。
公職追放になった敬三はここで鍬を持ち、肥桶を担いで働いた。

その「にわか百姓」の敬三を見て、
多くの篤農家が援助の手を差し伸べたという。

そんな中、関東系と関西系では鍬の刃先が違うことに気づき、
その原因を土質であることをつきとめたりしています。

どこまでも研究者ですね。

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宮本の話を続けます。

「それで私は用事がなくてもたびたび上京して、中山の言葉を含めて、
私のようなものでもお役に立てればと伝えたら、渋沢は号泣した。
私は生まれてはじめて、そして一度だけ、渋沢のそういう姿に接した」

「平静を装いつつ、いかに張りつめた気持ちで日々を生きてきていたことか。
そうした渋沢をもっともよく知っていたのが中山であった」

敬三の子息・雅英も、
戦後すべてを失った父の姿をこんなふうに回顧している。

「その頃から父が居間で、
一人でトランプをしている姿を見かけることが多くなった。
カードが擦り切れて汚くなっても意に介さず、
同じ遊びを何百回、何千回と繰り返すのである」

出口の見えないそんな状況も5年目の昭和26年、ようやく解除。
このとき渋沢、55歳

しかし、有能な弟子たちを戦争で失い、残った者たちも故郷へ帰るなどして、
築きあげた常民文化研究所はガタガタ。
しばらくは宮本常一と二人だけの研究所が続いたという。

敬三は「澁澤倉庫六十年史」(昭和34年発行)にこんな祝辞を寄せている。

「終戦後、私が最も敬愛する中山さんが社長になられ、
ー略ー
戦後澁澤という名はよしたらと申したこともありましたが、
社員諸君のご希望でそのままになりました。
ー略ー
ここに澁澤倉庫ありというふうになって喜んでおります」

その中山正則の記念式典での挨拶が残されています。

「わが社の伝統の中心をなすものは「親和」の精神であります。
創業以来、この精神が一貫して流れてきているのであります。

もし、我々の間にこの精神が伝わらなくなったとするならば、
名は澁澤倉庫であっても、実質は澁澤倉庫でなくなったと極言されましょう」

この日、従業員やその家族による多彩な演芸が行われた。
そしてこの日の呼び物として登場したのが、
東京都無形民俗文化財に指定されたばかりの「力持」の演技だった。


※参考文献・画像提供/「宮本常一著作集50 渋沢敬三」
               未来社 2008
※参考文献/「澁澤敬三著作集 第3巻」「犬歩当棒録」平凡社 1992
        /「澁澤敬三著作集 第4巻」「旅の人生 父渋沢敬三の思い出」
         渋沢雅英 平凡社 1993
        /「澁澤倉庫百年史」澁澤倉庫株式会社 平成11年

柳田、渋沢と力石

前々回、ずっと気になっていたこととして、私はこんなことを書きました。

「日本民俗学の創始者、柳田国男と、
民族・民俗・歴史博物学に大きな足跡を残した渋沢敬三のお二人は、
力石力くらべについて何か書き残してくれていないだろうか」と。

まず、柳田国男から調べました。
さすがですね、ありました。

「定本 柳田国男集」の1、5、9、14、15巻の9ヵ所に書かれていました。

これがその一例です。
かいつまんでいうと、こんなことが書かれています。

(一人前の証しとして)広い区域で行われる風習としては、
力石またはさし石ということがある。
目方の知られた大小の力石が、村の御社の境内などに置いてあって、
男は少年の頃から暇があるとそれを差し上げたり肩に載せたりして
ー略ー
最小限度、米一俵を担がれるということが条件であり、それができない者は
僧になり商人などを志願したと同時に、一方、この関門を通った者は、
神を祭る団体に入ることを許され…

img005_20190701193949c68.jpg
「定本 柳田国男集 第15巻」

柳田はこのほか、力競べ、力自慢、力の信仰など、
力に関する記事を40か所ほど書いていました。

では渋沢敬三はどうか。

明治30年、敬三の祖父・栄一は、
深川福住町の大島川に面した自宅内に「澁澤倉庫」を設立します。

孫の敬三は大正15年にそこの取締役に就任。
昭和34年の「澁澤倉庫六十年史」には、こんな言葉を寄せています。

川岸の道から門を入ると両側に三三の倉が建ち並んでいて
ー略ー
物心がついてからはよくこれらの倉前や倉と倉との間を遊び場にしていました。
荷役方(当時は小揚げといった)が大島川に浮かぶ艀(はしけ)から
肩に米俵等を背負って巧みに踏み板を渡っては倉へ出し入れしていました

こちらがその「三三の倉」です。
 ※三間(さんげん)に三間(さんげん)の意。一間は1.82m。

img006_20190701201650143.jpg
「澁澤敬三著作集 第3巻」よりお借りしました。

子供のころの渋沢の遊び場は倉で、そこで荷役の男たちを見てきている。
そして、昭和の時代には、
その倉庫で佐賀町の力持ちの根本正平が働いていた。

根本は「澁澤倉庫百年史」に元作業員取締として談話を寄せているし、
澁澤倉庫内の福住稲荷神社(東京都江東区永代)には、
根本たちの名を刻んだ力石が、今も10個も保存されている。

これは期待できそうだ。

だって柳田と違って、身近に力持ちたちと接してきたのだから、
その労働形態や風習に興味を持たないわけがない。

ところが、です。
著作をひっくり返しても「力石」の「ちの字」も出てこないのです。
思い余って、
神奈川大学日本常民文化研究所へ問い合わせました。

ここは渋沢敬三の業績を引き継いだ研究所です。
で、すぐにお返事をいただきましたが、そこにはこんな言葉が…。

「渋沢敬三が力石に言及した文献等は見当たりませんでした

涙……


  =古い映像をご覧ください=

神奈川大学・常民文化研究所をクリックすると、
簡易検索の画面が出てきますから、フリーワード欄に「映像」と入れてください。
渋沢敬三とチームが撮影した昭和の古きよき日本の姿が見られます。

山古志村の「牛の角突き」、東北地方の暮らしや祭りなど、
大人も子供もみんな、実にいい笑顔をしています。
テレビのない時代には誰もが主役だったということが実感できます。


※参考文献・画像提供/「定本 柳田国男集」15巻 筑摩書房 昭和44年
               /「澁澤敬三著作集 第3巻」平凡社 1992
プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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