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埼玉のオヤジたち

ここでちょっとティータイム

「力石ハンター」の斎藤氏の趣味はポタリング路上観察
路地裏、街角、田舎道で見つけた観察物件を
いつも楽しませていただいていますが、今回はこんな写真が届きました。

スカイツリー蓮田

埼玉県蓮田市井沼のSさん(68)宅に立つ「蓮田スカイツリー」です。

アルミ製で高さは本物の50分の1の約12・7m。
重さ約200Kg。
白と青のLEDを仕組んであるそうです。

農家のご主人のSさん、
「お土産についていたスカイツリーの設計図を見て作った」
というのだからすごい!

生まれも育ちも埼玉っ子の斎藤氏、
こういうオヤジが埼玉にいるのが何だか嬉しい」と、ちょっぴり誇らしげ。

でも、「こういうオヤジ」って埼玉に多くないですか?

以前、送っていただいた「墓地を覗く植木の坊やたち」
これも埼玉県草加市だし、

IMG_6649.jpg

新たにいただいた植木のオブジェ、
「生垣四兄弟」も埼玉県北葛飾郡杉戸町。

4兄弟生垣

ひところ、「ダサイタマ」なんて言葉が巷でささやかれたけど、
自分がトコトン楽しんで、周囲の人をも和ませる、
「ダサイタマ」どころか、
なんとも乙なオヤジたちじゃないですか。

無駄なようで無駄じゃない

人生にはそんな遊び心が必要ですもの。

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人柄

「幼稚園時代はよく風邪をひいた。そのため大磯や逗子へよく転地した。
母が来てくれると一緒に摘み草に歩くことが多かった。
母は鉄道線路の土手でよくツクシヨモギを摘んだ。

母がツクシをたくさん摘んできてつくだ煮にしようと思って、
書生(しょせい)に、ハカマを取っておくように言っておいて
書生部屋へ行ってみると、ツクシはふろしきに入ったまま、
書生たちははいていた袴(はかま)を脱いで勉強していた」(回想談)
 ※まるで笑い話。書生さんたち、つくしのハカマを知らなかったそうです。

書生=雑用などをして寄宿させてもらい、学校へ通っていた学生のこと。
img753.jpg

渋沢家には常時、10人ほどの書生が住んでいたそうです。
アチックミューゼアムの同人や柳田に破門された人なども出入りしていて、
そういう様々な人たちに物心両面で援助していた。

こんな話もあります。

柳田の弟子の一人が著作に序文を書いてほしいと頼んだら、
師から「どうしてもその本を出すのなら妨害してやる」と言われ、
先輩たちから「先生は気まぐれだから」と慰められたとか。

この人もその後、渋沢の援助で欧州へ留学しています。

で、渋沢の援助は、なんとその柳田自身へも。

渋沢家の食客だった宮本常一によると、
「渋沢は柳田夫人から家計などの相談を受け、10年ほど援助していた」
というのですから驚きました。

何があっても愚痴一つ言わず万事控えめな渋沢が、
「柳田さんはそういうことについては全く知らぬ顔をし、
ひと言の挨拶もなかった」とポツッともらしたという。

なんて奴なんだ!

農務官僚で民俗学という新しい学問を築いた偉いお方ともあろう人が…。
確か、世田谷区砧に豪邸を建てていたよなあ。

でも宮本は続けてこう記している。

「柳田が古希を迎えたとき、戦争の慌ただしい中で柳田のために
隅田川に船を浮かべてもてなした。柳田はそれを心から喜んだ」

そして宮本に、
「柳田とはいつも一歩間隔を置いて甘えないようにすることだ。
自分は柳田先生から特別目を掛けられているというような
うぬぼれを持ってはいけない」とアドバイスしたという。

渋沢敬三は柳田国男より21歳も年下なのに。

渋沢さん、人間が出来過ぎてます!

私怨のあまり(笑)、柳田と聞いただけでムカッとくる私ですが、
それはさておき、
私がずっと気になっていたことがあります。

力石や力比べについてです。

このお二人、力石について何か書き残してくれていないだろうか。


※参考文献/「宮本常一著作集50 渋沢敬三」未来社 2008
※画像提供/「渋沢敬三 小さき民へのまなざし」川島秀一編
         アーツアンドクラフツ 2018

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財政金融家

渋沢敬三の魅力は尽きませんので、今回は長~いです。

渋沢は子供のころ、水中の小さな生き物に魅せられて、
将来は生物学者になる決心をしていたそうです。
しかし実父の廃嫡で、祖父は孫の敬三を第一銀行の後継者に指名。
  ※祖父栄一は第一銀行創業者。

半年ほど抵抗したもののついに承諾。理科を断念して、
祖父の希望通り、仙台二高文科へ進学した。

中学生時代から山岳会に加わり、
北アルプスや南アルプスを踏破していた敬三は、
仙台でも登山に励み、また東北の農村探訪生物観察も怠らなかった。

下の写真は、前穂高岳(前穂高三角点)登山の時のもの。

「明治45年7月18-31日 第1回附中(付属中学)山岳会。
上高地に10日ほど滞在中、穂高、焼岳登山、イワナ獲り、昆虫採集」
(旅譜と片影)

宿泊先の清水屋に嘉門次が訪れたそうです。
  ※嘉門次=猟師。ウエストン夫妻を北アルプスに案内した。

前列左端に捕虫網を持ち座っているのが渋沢
学帽を被り足にゲートルを巻いている登山姿が時代を感じさせます。

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「澁澤敬三著作集 第4巻」よりお借りしました。

二高時代の寄宿舎ではよくがんもどきが出たので、
「オリエンタル・メンチボール」と名付けるなど
寮生活を存分に楽しみ、仲間と青春を謳歌していたという。

同時期に、のちの豊田自動車創業者の豊田喜一郎がいたそうですが、
「彼は仙台の寒さや粗放な寄宿舎生活に辛抱できず、
早々に市内の家庭的な下宿に移転している」(由井常彦)

敬三は仙台二高から東大経済学部へ進み、横浜正金銀行へ入行。
銀行家としての激務をこなしながら、夜間は書斎で文献とにらめっこ、
休日は夜行列車で民俗探訪へ出かけるという生活を続けた。

「旅の人生、父渋沢敬三の思い出」の中で、ご子息が、
ふと見せた父の苦悩をこんなふうに語っています。

「父が学問にあまり傾倒することは、同僚や他の財界人から必ずしも
好意的にばかりは受け取られていなかった。
ゴルフもしないし碁将棋もやらず、それで浮いた時間を使って
勉強しているからいいじゃないか」と、
父には珍しく弁解じみた言い方をするのをよく聞いた覚えがある」

私は渋沢の随想や旅の話が好きで、「あ、こういう見方もあるんだ」と。
チョロッと読んだだけなのに生意気ですが、
的確な視座、学問の根源のようなものに気づかされます。

こんな記述もあります。

昭和7年(1932)、病気療養のため滞在した伊豆内浦の網元で、
400年にわたる古文書を発見。敬三この時36歳。
解読、整理して5年後、「豆州内浦漁民史料」として世に出します。

「この地は子供のころから馴染んでいた場所で、クジラの回遊するのを見た。
ところが漁師たちは鯨(クジラ)を捕獲しない。不思議だと思っていたが、
今回、クジラはまぐろやカツオなどの浮魚(鯨子)を連れてくることから、
漁師たちは一種の親しみと尊敬を持っていたのを知り、なるほどと思った」
(豆州内浦漁民史料序)

金桜神社(沼津市)奉納の「まぐろ建切網漁絵馬」部分。明治40年。
絵馬には金桜山山頂の神社も描かれていました。
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撮影・湊嘉秀

随想で私が教えられた一つが「日本魚名の研究」

「魚は自然現象として存在するが、魚名は人が勝手につけたもの。
だから、魚名は時と所と人により複雑な変化を示す。
場所によって魚名が違っていたり、異種なのに同じ名だったり、
実在しないのに魚名だけは使用したり、外来語や古い和名、方言もある。

しかし、文献に頼る水産史の研究者に、
魚名や魚の実体に関する知識を正確に持っているものは少ない」

つまり、文献上で魚名をたくさん知っている学者に本物の魚を見せると
魚名がわからない、それではダメだ。実証の学問でなければ…と。

最近、「歴史の立会人 昭和史の中の渋沢敬三」を読みました。

「敬三の経歴の中心はやはり財政金融家である」
この一行に、ハッとしました。

「歴史、民族学の渋沢」
そういう渋沢像しかなかったので、私ってずいぶん偏っていたなあ、と。

もう一人の渋沢敬三を知ることができる良書だと思います。
img512_20190619180754cd1.jpg

戦前は日銀総裁、戦後は大蔵大臣として激動の中枢にいた。
戦後は敗戦で荒廃した日本の再建に奔走していたのですから、
まさに「昭和史の中の歴史の立会人」です。

渋沢家は財閥ではなかったが、財閥解体に連座して屋敷を物納。

敬三自身、GHQ(アメリカ占領軍)からパージ(公職追放)を受けて、
「ニコボツ」の暮らしになった。
  ※ニコニコ笑って没落・ニコニコ笑ってボツボツ行こうの意。

宮本によると、この時期はむしろサバサバした感じで、
執事が住んでいた小さな家に移り、在任中は手つかずだった研究にいそしみ、
残った庭を畑にして、農家の若者たちと共に肥桶を担いでいたという。

しかし、
国内外の交友の広さや豊富な知識、コンダクターとしての力量、
その人柄のよさを経済界は放っておかなかった。

追放解除後はKDD(国際電信電話株式会社)の社長や
金融制度調査会会長などに就任。

1957年には移動大使に任命されて、4か月かけて中南米各地を訪問。
これをまとめたのが「南米通信」です。
随所に歴史、民族、美術などの造詣の深さがにじみ出ています。

この頃よく思うことがあります。

昔の郷土史を見ると、
郷土史家としての市町村の首長や議員の名をよく見かけます。
今の政治家に最も不足しているのは、
郷土の歴史の勉強ではないのかなあ、と。

         ーーーーーー◇ーーーーー

※以前、ブログの記事に美術館館長さんの本にあった
「宮本常一は故郷・周防大島を出るとき父親から、
人の見残したものを見よと言われた」を孫引きしましたが、
この言葉は渋沢敬三に言われたと宮本自身が書いています。

「父親云々」はまだ確認に至っておりません。


※参考文献/「歴史の立会人・昭和史の中の渋沢敬三」
          由井常彦 武田晴人編 日本経済評論社 2015
        /「澁澤敬三著作集 第1巻」平凡社 1992 「第4巻」平凡社 1993
        /「民俗学のこれまでとこれから」福田アジオ 岩田書院 
          2014
         /「宮本常一著作集50 渋沢敬三」未来社 2008 

まなざし

民俗学者の宮本常一は昭和10年(1935)から約25年間、
東京の渋沢敬三邸に暮らした。

宮本はその渋沢のことを著作のはしがきにこう書いている。

「夜半渋沢先生からよく書斎に呼ばれることがあった。
先生は必ず書斎わきの出入り口まで出てスリッパを揃えて待っていたし、
話し終わって出てくるとき、私を出入り口まで送った」

近代日本の実業界をけん引した渋沢栄一祖父に持ち、
自身も銀行頭取を経て日銀総裁に。戦後は大蔵大臣にもなった。

そんな実業界のサラブレッドみたいな人が、
「居候」のためにそこまでやるとは!

今の日銀総裁や大会社の社長が秘書や運転手のために
スリッパを用意するなんて、本人はもちろん誰もが思いもしないことです。

でも、この渋沢という人の「その態度はごく自然であった」そうです。

実業家としての仕事をこなし、さらに、
民俗民族の世界に身を投じて自らも研究に没頭しつつ、
多くの若者を物心両面で支え続けた。

本当に凄い人がいたものです。

実際、渋沢関連のどの本も、交友があった人々から寄せられた
渋沢の温いまなざしと懐の深さへの感謝であふれています。

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「ちいさき民へのまなざし」川島秀一編 アーツアンドクラフツ 2018

実は、祖父の渋沢栄一は、この静岡市にも縁がありました。

徳川慶喜の弟・昭武に随行して、ヨーロッパの近代産業を見てきた栄一は、
明治2年、静岡藩が明治新政府から借りた50万両をもとに、
「組合商法会」をつくります。

この商法会は茶、塗り物、しいたけ、紙などの特産品を扱い、
商品の生産、委託、専売、資金の貸付、官民による勧業運営資金の
出資などを主な業務にしていたという。

弱冠29歳
新進気鋭の栄一は、難しい駿府の町方衆にこう説明したそうです。

「かの地には官尊民卑はない。
私はせめて実業界だけでも我が国のこの弊害を直したい。
そのためには民業の発展が必要であり、一人だけが金持ちになることは
許されない。みなさんが資本を出し合って参加する、合本組織がよい」

29歳のころの渋沢栄一です。
この人は、2024年発行の一万円札の顔に予定されています。
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「静岡の史跡めぐり」より拝借しました。

しかし、その年の10月、中央政府から大蔵省入りを要請されたため、
この「商法会」は短命に終わってしまいます。

その栄一の孫の敬三について、宮本はこんなふうに語っています。

「渋沢の周囲にはきわめて多くの多種多様な人がとりまいていた。
しかし渋沢は親分ではなかった。親分にもならなかった。

多くの人に示唆を与え、また援助もしたけれど、
それを自らの功に帰することをしなかった。
また自らそれを語ることをしなかった」

その精神は、
「棒ほど願って柱ほど働いて、叶ったのは針ほど」であっても、
「惜しみなく徳は与う」という祖父、栄一から受け継いだもののようでした。

92歳でこの世を去った祖父の一周忌記念号に、敬三はこう記している。

「祖父の後ろ姿には、自分などには想像し得ない、永い年月の閲歴を経、
経験を深く蔵した、しっかりした偉人というよりは、むしろ侘しい一個の
郷里・血洗島(現・埼玉県深谷市)の農夫の姿を見るような気がした」


※参考文献/「宮本常一著作集 50 渋沢敬三」未来社 2008
        /「澁澤敬三著作集 第1巻」「祖父の後ろ姿」平凡社 1992
        /「渋沢敬三 小さき民へのまなざし」川島秀一編
         アーツアンドクラウツ 2018
※参考文献・画像提供/「静岡史跡めぐり」安本博 静岡県地方史研究会 
               昭和50年

人を傷つける学問

幼いころから身近な風習や古いモノたちに魅かれていた私。
それが「民俗学」というものらしいと知ったのは、ずっと後になってからでした。

その「民俗」を学問として確立させた柳田国男に憧れて、
昭和43年、
私は出たばかりの「定本 柳田国男全集」36巻をせっせと買った。

で、あるとき、本の中に先祖の神社のことが出ているのに気付き、
喜々として読んでいたら、それが侮辱的で、思わず血の気が引いた。

以来、全集は陽に焼かれ紙魚の餌食になるに任せてきた。

ブログの「先祖の話」にも書きましたが、
柳田国男は私の先祖たちが数百年、守り続けてきた神社のことを、
歩き巫女が定着した小祠に過ぎない。宝物もない」
「古くたどればずいぶん疑わしい。
それなのに浩々歌客の父君角田虎雄氏が撰文を書いて…」と。

※歩き巫女とは、春をひさぎつつ各地を放浪する民間宗教者のこと。

それを受けて地元郷土史家までが、
「神主はご開帳で儲けるために、河津家から宝物を横領したか?
自分はこの神社のウソを暴いてやる」と自著で息巻いた。

江戸の川柳に「貧乏神の社」と詠まれたささやかな神社だったけれど、
先祖たちは真面目に勤めていたと私は信じてきた。

その後、
幕末の町役人が書いた日記が翻刻されたので読んでみたら、
河津家の若殿(のちの最後の外国奉行)が、
神社を訪ねる場面が出て来た。

沼津の水野の殿様に元服の支度をしてもらったという曽祖父だったが、
若くして父を失い当主になったものの、家のかじ取りがうまくいかず、
家は没落寸前
そんな家へ河津の若殿を迎えるのが恥かしくて、
沼津の叔母宅へトンズラしていたことまで書かれていた。

しかし、
連れ戻されて帰ってきた曽祖父を、若殿は2度も訪ねてくださったとのこと。

その河津氏の、
「先祖が浪人中、この家に一年間居候させてもらったと聞いている」
という話などから、柳田や郷土史家の説は成り立たなくなった。

しかし、「この人はうちに恨みでもあるのだろうか」と思い悩んだ父は、
それが判明したずっと以前にこの世を去ってしまっていた。

その柳田国男と対比される人に渋沢敬三がいた。

人を傷つける学問って何なんだろうと疑問が湧き、
怒り、失望、悲しさでもうコリゴリだと思っていたから、
改めて渋沢敬三なる人の著作を読む気も起らなかった。

だから、
アチック・ミューゼァム(屋根裏の博物館)の主で、
あの宮本常一を育てた人。

その程度しか知らなかった。


※参考文献/「定本柳田国男第五巻」「同第九巻」筑摩書房 昭和43年
        「駿州富士郡大宮町・角田桜岳日記」(一)~(五)
        富士宮市教育委員会 2004~2009

論文って何だろう?

大学の偉い先生が、
捏造や他人の論文を盗用した、なんてニュースが時々あります。

何十年も研鑽してきたのに、ちょっとした慢心と焦りで、
それを棒に振るなんて、もったいないなぁと私は思う。

「論文を書いてナンボの世界だから」なんてことも耳にした。
食うための手段になった論文というのもまたつらすぎます。

論文って、一体、何なんだろう?
で、論文として認められるには、こんな条件があるらしいのです。

●問題提起し、●仮説を提示し、●論証する ●必ず参考文献を明示する。

反対に、論文とは言えないものは何かというと、

●情緒的、趣味的なもの ●エッセー ●私情を挟んだもの だそうです。

私情を挟み放題のこのブログは、まさに「論(文)外」
「ヘンな論文」にもなれないキッチュなしろものです。
で、あえていえば、「力石の広報紙」という立場でしょうか。

なにはともあれ、書いててやたら楽しいのです。
力石を通して、昔の若者たちや当時の社会が映像のように見えてきます。
既成の枠にはまらない探求、謎解き。

「やはり野に置け、ちから姫」が一番気楽です。

かつて、民族学の渋沢敬三さんという方がおりました。
還暦祝賀記念の会で、こんなことを言っています。

「民族学なりその他の事になりますと、私は学者じゃありませんし、
ほんとうに勉強を正確にやったりしたことは全然ないのであります。
ですから植物でいいますと、完全な薬草ではない、(せり)みたいなもので、
ときどきとってきてうまく利用しているという程度の存在でございます」

「民族学研究所のモットーとしましたのは、
いわゆる論文は出さん、全部資料でということを通してまいりました。
論文や何かはその次の段階で学者にまかすとして、
資料主義で通してまいりました」

そうおっしゃった渋沢さんですが、
実は、「日本魚名の研究」「豆州内浦漁民史料」など、
優れた論文を残されたれっきとした民族学者さんです。

芹は清流に生きる。

本でしか知らない人ですが、
そんな渋沢先生への私の密かな思慕を次回より吐露して参ります。


※参考文献/「澁澤敬三著作集 第三巻」「犬歩当棒録ー祭魚洞雑録第三」
        「還暦祝賀記念論文執筆者招待会 席上座談話集」
         平凡社 1992

「ヘンな論文」

三重県総合博物館に収めた高島先生の資料一覧の中に、
変わった名前の資料を見つけました。

これです。

img039_20190602161012546.jpg

タイトルは「ヘンな論文」。著者はサンキュータツオ氏。
タイトルもヘンだけど、著者名もかなりヘン。

早速、読みました。
これです。

img111_201906021614258b4.jpg
株式会社KADOKAWA 2015

ヘンな名前だと思ったら、著者のサンキュー氏は、
「米粒写経」という漫才のお笑い芸人なんですって。
私、お笑いの世界には疎いので全然、知りませんでした。

経歴を見たら、これがなんともご立派。

早稲田大学大学院博士後期課程修了の文学修士さん!
一橋大学などの非常勤講師を勤めつつ、漫才もやるという
日本初の学者芸人ってんだから、なんだかわからないけど凄い!

で、「珍論文コレクター」としても勇名を馳せているとか。

この本の中に高島先生も取り上げられているということは、
先生の論文は「珍論文」とのお墨付きを与えられたことになる。

ありゃー!

この本で、サンキュー氏の俎上にあげられた論文は、
「湯たんぽの研究」「コーヒーカップの音の科学」
「おっぱいの揺れとブラの関係」などなどで、確かにかなりの珍論文揃い。

でも携わっているのは、みんなれっきとした大学の先生たちです。

こちらが高島先生の紹介ページです。

img192_201906021654005fc.jpg

高島先生につけられたタイトルは、「画像がヘンな論文」
その理由をサンキュー氏はこう解説しています。

「研究者はいたって真面目である。
真面目なんだけど、どう見てもヘンなことになっていて、
それを顕著に示すのが、資料として画像を抱負(ママ)に扱っている論文だ」

  ※「抱負」じゃなくて「豊富」でしょ! サンキュー先生さん! 

「日本全国の力石を研究しまくっているのが高島先生。
一生かけてこの人は力石を追いかけ続けるのだ」

弟子としては、かなりムカッとくる言い方だよなあ。

さらに、
「この先生の論文は当然、石グラビアである」と書き、
四日市大学論集「山梨の力石」から転載した写真を紹介している。

img180_201906021707409d4.jpg

その写真を示しつつ、

「画像ページが延々と続く。
興奮して写真に納めている先生の姿が想像できよう。

あらゆる角度から観察して、何か刻まれている文字はないか
チェックしているのだろう。

幸か不幸か力石に国宝や重文指定されているものはない。
触り放題である」と。

なんだよ、その知ったかぶった言い方は!
本に取り上げてくれたからって、
こちとらサンキューならぬノーサンキューだよ。

と、声を荒げる私に当の高島先生、いたって穏やかに、

「あ、その本ね。サンキュー氏が送ってきたんだ。
ブログに自由に使っていいですよ」

学者芸人さんのセンセは末尾に、
「珍論文には役得がないかわりに純度の高い情熱が詰まっている」
なぁんて、ありきたりなことを書いていたけど、

なんか読みが浅くありません?

プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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