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遺志を継ぐ

三重県総合博物館
05 /31 2019
この日、
高島愼助先生(元・四日市大学教授)とを出迎えてくださったのは、
同博物館のU氏です。

とびきりの笑顔で待っていてくれました。

早速、ご案内と相成りましたが、
力石の資料はまだ未整理で、「関係者以外立ち入り禁止」の収蔵庫の中。
かわりに別室へ案内されました。

私が事前に希望していた収蔵品で、見せられる状態のものを
別室に用意してくださっていたのです。

別室の件に入る前に、
立ち入り禁止場所の収蔵資料について少しお話していきます。

こちらは「高島先生力石関係資料一覧」の一部です。
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こういう用紙が13枚。
収蔵資料の総数は現時点で642点になります。

ぼう大な数です。
長い年月、コツコツと集めた資料です。

ここでちょっと高島先生のお話を…。
先生は、力石に取り組む決意をした動機を、    
ご著書「三重の力石」でこんなふうに述べています。

「三重県津市および四日市市の力石を調査したのが、
私が力石に触れる最初であった」

「そんな中、当時日本の力石研究の第一人者であった
伊東明・元上智大学名誉教授の知己を得、指導を受け始めた。
ところがそんな矢先の平成5年、先生ご逝去」

「私の力石研究にとって大きな痛手であった。
その後、ご遺族から膨大な資料を寄贈された。
それらの資料をひも解くと、
青森から沖縄までの先生の足跡がギッシリと詰まっていた」

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「三重の力石」高島愼助 岩田書院 2006 第2版

「伊東先生のこの業績を埋没させてしまうのはあまりにも惜しい」
そう思った高島先生は、師の遺志を継ぐ決心をします。

そこで、改めてご教示を仰いだのが、
力石の先学、岸井守一・神戸商船大学名誉教授と
神吉賢一・神戸大学名誉教授だったそうです。

下の写真は、静岡県へ調査に来られたときの高島先生です。

こんなふうに電信柱の根元に捨て置かれた石を、
撮影したり計測したりするわけですから、
「変な人がいる」と警戒されるのは当たり前ですよね。

無人のお堂などでは賽銭泥棒と思われて見張られたこともありました。
で、先生の調査スタイルは、というと、これがまた怪しさ全開で…。

古ぼけた軽ワゴン車に寝袋を積み、町中の温泉施設の駐車場で
野宿しながらの全国行脚
警察官に職質されたら、無事で済んだかどうか。

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静岡県伊東市宇佐美 2010年ごろ。

ここで、静岡での私の調査方法について少し述べてみます。
自分で見つけた力石や、
文献・人づてでの情報がある程度まとまったら先生へ報告。
時期をみて共に現地へ再調査に向かうという方法をとりました。

力石の所在地は不便な場所が多かったから車のない私は大助かりでした。
でも、
昼飯は走行中、コンビニのおにぎりを頬張り、トイレ以外は休憩なし。

ある時は伊豆半島一周、また別の日には西の天竜川上流部の山の中。
これを一日で終わらせるわけですから、ものすごい強行軍です。

案内役の私は、車に揺られ過ぎて船酔い状態。
家に帰っても、部屋全体がユラユラふわふわして困りました。

なにしろ伊豆半島の先端の下田でオシャカになったほどの車です。
座席のクッションは推して知るべしの状態。
でも力石発見の喜びの方が勝っていたから、苦とは全く思いませんでした。

ただ、訪問先のご老人の、
「せっかく来たに。お茶でも飲んでって」のご親切にも、
「時間がないから」と、早々に立ち去るしかなくて…。

それがいつも心に引っかかり、
後日、礼状に菓子折りを添えてお詫びと感謝を伝えておりました。
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博物館のシンボル・ミエゾウ

三重県総合博物館
05 /27 2019
オオサンショウウオの「さんちゃん」に別れを告げて3階へ。

3階は広い展示エリアを持つ博物館の中枢。
その展示エリアの前に巨大な姿を見せていたのが、
博物館のシンボル・ミエゾウです。

ミエゾウのお腹の下にいる人と比べるとその巨大さがわかります。

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三重県津市一身田上津部田・三重県総合博物館

学名/ステゴドン・ミエンシス
和名/ミエゾウ

つまりゾウさんです。
でもただのゾウではありません。

全長8m、体高4m
国内で発見された陸上の哺乳類では最大の化石ゾウだそうです。
レプリカの足跡ひとつが大きなバケツぐらいありました。

発見場所は津市の川床。
430万~300万年前に生息していたそうです。

私の写真ではチト迫力に欠けますので、
博物館パンフから拝借したミエゾウをご覧ください。

日本初の全身復元骨格だそうです。

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ここの博物館の理念は、
「だれか特別な人のための博物館ではなく、
だれにとっても「わたしの博物館」として利用できる
「みんなでつくる博物館」だそうです。

今、わが静岡市では歴史博物館を建設中です。

政令都市なのに、今まで静岡市には博物館がありませんでした。
で、やっとできることになったら、その理念が「世界に輝く静岡」
以前、日本平中腹に舞台芸術センターを作った時も、
「静岡から世界へ発信」だった。

「世界、世界」って、言葉だけが浮いてません?
わたしは、
「なんで地元のみんなが楽しむ博物館ではいけないの?」って思いましたよ。

さらに市のもくろみが、
徳川家康に特化して観光客を呼び込み、
それを経済の活性化につないでいく歴史博物館」と聞いてがっくり。

観光客が大型バスを連ねて博物館へ来るとはとても思えません。

さて、最初の写真をもう一度ご覧ください。

円形のテーブルが置かれたこのコーナーは、
学習交流スペースとして、どなたにも無料で開放している場所です。

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ここには三重に関する本や図鑑、専門書など約1000冊が並んでいます。
学芸員さんや担当スタッフが常駐して対応しているそうです。

特に体験に重点を置いた子供への取り組みが秀逸でした。

私の子供のころの博物館のイメージは、
「暗くてほこりっぽくてカビ臭くて、小難しくておもしろくない」でしたから、
ここみたいに、子供自身が発掘調査をしたり発表展示したりと、
本物の学芸員さんと同じことができるのはすごく魅力的。

で、その1000冊の本の中に力石の本もありました。

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まだ博物館が構想段階だったころ、静岡市へお願いしたことがあるんです。

「ぜひ、博物館の庭へ力石を置いてくれませんか」と。
でも、「あんな石っころを?」と笑われてオシマイでした。

石造物の悉皆調査を一度もしたことがない静岡市ですから、
想定はしていたとはいえ、あれ以来、心に秋風が吹きっぱなし。

確かに、名もない庶民の文化などお金にはなりません。
でも、社会はその庶民が9割を占めているんですよね。

力石の資料を収蔵してくださった「みんなでつくる博物館」と、
観光客誘致の世界に輝く博物館」

経験豊かなベテランと意気込み過ぎた新参者の違いでしょうか。

私はこう思っているのです。

「地元の人たちが魅了されれば、外から人はおのずとやって来る」って。

「さんちゃん」

三重県総合博物館
05 /23 2019
三重県総合博物館へ行ってきました。

往きの新幹線が豊橋付近で緊急停車。駅のホームから人が落ちたとか。
幸いケガもなく救助されたそうですが、20分の遅れ。

名古屋駅での乗り換え時間は充分取っていたものの、
階段を駆けあがってすべり込みセーフ。
その伊勢線みえ快速、なんと車両はたったの2両

私の下車駅まで停車駅は4つ。
焼きハマグリの桑名、昔、公害で大騒ぎした四日市
次はレースで有名な鈴鹿です。

目的地の駅で師匠の高島先生のお出迎えを受けました。
出発前、「レッドカーペット敷いて待ってます」とおっしゃっていたけど、

ない!

ともあれ、5年振りの再会です。
「お互い年をとりましたねぇ」なんて、口に出しては言いません。

三重県総合博物館です。ふつつかながら、わたくしメがご案内いたします。
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博物館の前身は昭和28年(1953)に開館した三重県立博物館。
東海地域で初めての総合博物館だったそうです。
第二次大戦の焼け跡から、わずか8年目に出来たんですね。
新時代への意気込みを感じます。

5年前の平成26年(2014)、名称を総合博物館に変えて現在地へ移転。
ここは美術館、図書館が建ち並ぶ総合文化センターになっていました。

市名は「津」と一文字ですが、
ここの住所は、一身田上津部田(いっしんでんこうづべた)

「じゅげむじゅげむごこうのすりきれ」かと思うほど長いけど、
リズミカルで、一度聞いたら忘れられない地名です。

2階が正面受付です。
この階にオオサンショウウオの「さんちゃん」がいました。

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博物館パンフからお借りしました。

平成4年(1992)、伊賀盆地の川で発見。
しかし住みにくい場所と判断されて博物館へ保護したそうです。
この日は117㎝の全身を見せていました。

とにかくでかい!

こんなのが川底にいたら、岩と間違えて踏んでしまいそうです。

さんちゃんのエサはニジマス。
ひと月に一度の「お食事会」は子供たちに大人気だそうです。

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博物館パンフより

「さんちゃん」の旧住所は名張市美幡・小波田川(おばたがわ)。
現住所は津市一身田上津部田・博物館。

今年で27年博物館暮らしです。


※参考文献・画像提供/「南北の共存・東西の交流」「MieMuみえむ」
                三重県総合博物館

孫が来た!

世間ばなし
05 /19 2019
沖縄から孫が来ました。
3歳と5歳のやんちゃな男の子。

大井川鉄道のトーマスくんかSLに乗せてあげたいと思って、
静岡のおばあちゃんは張り切りました。

でも運行時期や時間が孫たちの時間とあいません。
それで小さなトロッコ電車に乗ることにしました。
昔の森林鉄道です。

登山をやっていたころはこれに乗って、南アの入口・井川まで入りました。
そのころは屋根だけしかない吹きさらしでした。

今はミニ列車というそうです。途中、日本一の急勾配を登ります。
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大井川鉄道=静岡県榛原郡川根本町千頭

小さなトンネルをいくつも通ります。
ダム湖で大勢の人がカヌーをやっていました。

木々も川も緑一色です。

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茶畑も美しい。

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私たちは途中の「接阻峡温泉駅」で下車。
ここから上り電車で元の千頭駅まで戻ります。

ここにはおじいちゃんの駅員さんがいました。
「ふるさと資料館があるけど、ぼくたちにはまだ無理だなあ」

駅員さんが言っていた「ふるさと資料館やまびこ」です。
遠くから大学の先生や研究者、学生さんたちがやってくるそうです。

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静岡県榛原郡川根本町犬間

駅近くのトンネルです。
線路の一番奥の暗がりがそうです。
小さな小さな山のトンネルです。

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往復約2時間。幼い孫たちにはやはりきつかった。
孫たちをSLやトーマスくんに乗せてあげたい、
お嫁さんが気兼ねしないよう山の温泉宿でゆっくりしてもらいたい、
そういう私の意見を息子たちは優先させてくれたのだが…。

千頭駅に着いたら、運よく到着したばかりのSLが…。
海外からの団体さんが降りてきました。

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機関士さんの席に乗せてもらいました。
釜の蓋も開けて見せてくれました。

昔はもくもくと黒い煙を吐き、
吐きだした火の粉が茅葺の屋根について火事になったとか。
今は燃料も改善されて、そんなことはなくなったそうです。

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若い機関士さん、汗だくです。
でもニコニコとみんなを迎え入れていました。

千頭駅から山越えで今度は静岡の我が家へ。
峠越えの猛烈なクネクネ道で、孫二人はゲーゲー。

それでも家に入ると元気いっぱいになって、お菓子をパクパク。
一休みのあと、今度は東京のおばあちゃんの家へ。
孫も大変ですね。

キーボードを送る約束をして、
ハグを二回もして見送りました。

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最初息子は我が家にゆっくり泊まることを望んでいました。

豪華な旅より、
自分が育ったふるさとを自分の子供たちに見せたかったのだと
あとから気づきました。

「また行きます」の息子からのメールに、
「今度は家へ」と返事をしたことは言うまでもありません。

※5歳の長男、SLを見て喜ぶと思ったら、「イヤダ!」と近づきません。
 どうやら思い描いていたのはトーマスくんだったようで…。

 号トーマス

確かにこちらのSLおじさん、コワモテですものね。

CIMG4833 (2)

「おばあちゃんも機関室に乗れたよ」と写真を見せたら、「じゃあ乗る」と。

トーマスくんは構内にいたのですが、しっかり隠されていて見えません。
トーマスの権利元の承認を経て実施されているそうで、
来月6月と7月には運行されるようです。

海外からも申し込みが殺到するほどの人気で、
チケットはなかなか取れないとのことでした。

長男坊は事前に送ってあった大井川鉄道の絵本で学習してきたそうです。
期待通りにいかなかったけど、この次のお楽しみとなりました。

ブログが博物館に収蔵されました

三重県総合博物館
05 /13 2019
追記

ブログ「ちい公のドキュメントな日々@タイランド」
ちい公さまがご自身のブログ上で、この博物館収蔵を記事にしてくれました。
もう過分にお褒めいただき、なんだか恥ずかし~い。

でもぜひぜひ、お読みください。

       ーーーーー◇ーーーーー

私のブログ「力石に魅せられて 姫は今日も石探し」が、
三重県総合博物館に収蔵されました。

三重県総合博物館MieMu(みえむ)です。
MieMu_gaikan.jpg
三重県津市一身田上津部田(いっしんでんこうづべた)3060 
☎059-228-2283

息子から、
「ブログが博物館へなんて、そんなことがあるんだね。
ブログ書くのを勧めてよかった」と、驚きと祝福のメールがきました。

そうですよね。私自身が一番びっくりしましたから。

ブログを始めたころ、そのころよく会っていた女友達に、
「よかったら読んでね」と言ったら、即座に、
「どうせただの日記でしょ。興味ない」

グサッときたけど、めげずに書き続けました。

「力石のことを多くの人に知ってもらいたい」
その一念で。
夢中になって書いてきて、気がついたらまる5年が経っていた。

そして届いた思いもよらなかったビッグニュース。
「嬉しいーッ!」って、地球のテッペンで叫びたかったですよ。

その夜は興奮のあまり眠れませんでした。

近々、お礼を兼ねて博物館へ行ってきます。
報告、待っていてくださいね。

苔のじいさん

内房の力石
05 /09 2019
内房・巡り沢の祥禅寺をあとに、今度は仲集落へ。

目的地は山王宮

ここです。
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静岡県富士宮市(旧芝川町)内房仲

ここには5年前来ていますから、再訪ということになります。

このときご案内くださったA子さん、
「ここにあると聞いたのですが、ハテ、どれなんでしょう?」

そこで師匠の高島先生と探し出したのが草に埋もれていたこれ(手前の石)。
おやおや、力石が蓑を着た亀になってるよ、というわけで、

   草生やし蓑亀(みのがめ)になった力石   雨宮清子

赤丸の中の石は、今回発見された力石です。
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2014年3月17日撮影

「見つけたぞ! やれやれ」と思っていたのに、実はまだあった。
5年後の新たな発見者は郷土史家の増田氏です。

やっぱり凄い!

仲集落の住人だった故・望月満久氏が、
平成19年に「仲ものがたり」という小冊子を発行。
その中にこんな記述があったという。

宝鏡庵の境内に力石を置き、
住民が集まるごとにこの石を上げ、力自慢を競った。
石の重量は12貫、16貫、20貫と記してありました」

これを読んだ増田氏。さっそく、探索に乗り出します。

そこで新たに見つけたのが、こちら(赤矢印)。
5年前は力石だと知らなかったので、石は単に写り込んだだけ(上の写真)
でも今度は全体を写せました(下の写真)

ちなみに「宝鏡庵」とは「山王宮」と地続きのお堂のこと。
以前発見した力石も今回のも、このお堂の前にあります。

   春陰ひそと堂に埋もるる力石   雨宮清子

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2019年3月28日撮影

でもですねえ、
この石、先っぽがちょっと欠けてしまっていて、おまけにだらけ。
私、思わず、「なんだよ、すっかり苔のじいさんになっちゃって!」
と毒づいたけど、歳月は石も待たず、なんですねぇ。

   春深し草をめくれば力石
            苔の翁に成り果てており    
雨宮清子

余計なことですけど、ブログ「日々是輪日」の「三島の苔丸」さん、
なんで「苔」なんだろう? お若いのに。

新たに発見された力石「苔のじいさん」です。
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ともあれ、
望月氏が書き残してくれた力石3個のうち、2個が見つかりました。

でもここで疑問が…。

増田氏は「今回発見の石は12貫、手前の石が16貫で20貫は行方不明」
とされていますが、石質は抜きにして大きさだけから考えると、
手前の蓑亀状態の石(62×33×28㎝)は20貫を越えているはず

石の貫目は「正」=正味=と刻まれている石以外は、
刻字の貫目に八掛けするとその石の本当の重さが出るといわれています。
 ※八掛け=刻字の貫目に0・8を掛けた数字のこと。

昔の若者は力を誇示するため少々、サバを読んだのです。

ですから、力石の実際の重さは刻字貫目より少ないことが多いのですが、
ここの石は逆で、伝えられている貫目より見た目の方が重そうです。

下の絵は、静岡市清水区由比東山寺・薬師堂での力比べです。
2010年にこの場所から6個、掘り出されました。松永宝蔵画

仲集落の若者たちもこんなふうに石担ぎを楽しんだのではないでしょうか。

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「静岡の力石」高島愼助、雨宮清子 岩田書院 2011の表紙を飾りました。

さて、故・望月氏のいう「貫目を記してあった」は、
何に記してあったかは不明ですが、
現時点では石の刻字は確認できておりません。

で、埼玉の研究者・斎藤氏も私と同意見で、

「例えば、埼玉にある同じ大きさの石「米八斗目」(63×34×28㎝)は、
32貫120Kg
八掛けしても25、6貫になるから、そこの石も20貫はゆうに超えているはず」と。
 ※米1俵(60Kg)は4斗。

また全国的に、力石は16貫(60㎏)担げて一人前とされていたことから、
力比べには16貫以上の石を持ち上げていました。
なので12貫の力石というのはどうなのか。

これらのことを踏まえて再考する必要がありそうです。
増田さま、疑問を呈しましてごめんなさい。

下の写真、左の建物が宝鏡庵です。
力石は写真中央の、
左の石仏群と右の腰の曲がった老夫婦みたいな2本のの間にあります。

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今はただ静寂だけが広がっています。

でも、耳を澄ませば
力比べの若者たちの笑い声が、地の底から聞こえてくるような…。


※参考文献/「内房の力石」増田文夫 私家本 平成31年
        /「仲ものがたり」望月満久 私家本 平成19年

2個目の新発見・後篇

内房の力石
05 /05 2019
塩出(しょで)の枝垂桜を堪能して、再び元の道を引き返す。
行き先は巡り沢集落の祥禅寺です。

祥禅寺の入り口です。

創建不明。
この寺は戦国時代、甲斐の武田信玄の駿河侵攻に伴い、
武田の重臣・穴山梅雪の庇護をうけた。臨済宗妙心寺派。

石柱が傾いているわけではありません。私の撮り方が悪いのです。
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静岡県富士宮市(旧芝川町)内房巡り沢

増田文夫氏は著書「内房の力石」にこう書いています。

「以前、望月衛さん(当時93歳)にお聞きしたら、
巡り沢にもかつては力石があったと言った。
衛さんが小学生のころ、今の集会所のところに公園があって、
力石はそこにあった。子供たちが数人で転がすのがやっとだったという」

子供だった衛おじいちゃんが見たときから、すでに約90年
力石は公園から姿を消して、行方知れずになっていた。

一体どこへ?と探し歩く増田氏。
そんなある日、
この祥禅寺の入り口で、一個だけ石垣からはみ出ている石を発見。
衛さんに確認すると「これのようだ」と。

静岡県内での267個目の力石です。

寺の入り口です。
みなさま、どこに力石があるかわかりますか?

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答えは、
「2基ある庚申塔のうちの右側の庚申塔をごらんください。
その庚申塔の下部に刻まれた三猿の右横にあります」

言われなければ絶対わかりません。
増田さんの執念眼力に脱帽です!

で、この力石、石垣に頭の先っぽだけを突っ込むような形で、
コンクリートで固定されていました。

「ぼくもみんなと同じ仲間に入れてよー」って叫んでいるみたいに…。

   石垣の仲間はずれか力石   雨宮清子

さらに近づいて見ると、こんな感じ。
力石を見下ろしている石垣の石(赤矢印)、
なんだか人の顔に見えません?

しかも不気味に笑っている。

上の写真にも、「不気味に笑う石」の顔が半分写っています。

CIMG4723.jpg

  
  石垣仲間はずれの力石を笑う   雨宮清子

この人面石?を見て、私、ゾーッとしたんですよ。

角度をかえてみてもやっぱり不気味に意地悪っぽく笑っている。

その笑う石の右下には、
眉間にシワを寄せた武士みたいな怖いオッサンまでいる。

  石垣力石の孤独を笑う   雨宮清子


CIMG4724.jpg

 
ああ、哀れなり、力石!

と、少々暗い気持ちになったけど、落ち着いてよくよく見直したら、
さっきまでの不気味さや意地悪っぽさは消えて、

「一人ぼっちの力石さん、私たちがいつまでも見守っていてあげますよ」

なぁ~んて言っているような、
そんな慈母のごときお顔に見えてきた。

でも、家に帰って改めて写真を見たら、やっぱりゾッとした。


※夏目さんから投句をいただきました。

  重てえなぁ力石(おめぇ)代われよこの俺と   夏目

な~るほど。そういう見方もありましたか。 
石垣で居続けるのも大変なんだ! 

ついでにおまけ。
この石垣はこんなふうに本堂へと延びております。
石垣の石、あっち向いたり、うつむいたり、そっぽ向いたり…。

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※参考文献/「内房の力石」増田文夫 私家本 2019

2個目の新発見・前篇

内房の力石
05 /01 2019
富士浅間神社の小野田徳蔵墓碑を見た後、誘われて桜見物へ。
道の両側に、湧き立つ雲のような大きな枝垂桜が現われました。
花びらがくるくると風に舞っています。

ここは「塩出(しょで)」というところで、その名の通り、
駿河の塩が甲斐へ出て行く時の塩の関所があったところ。

ここに、江戸時代、油問屋だったE家があります。
手広く商って財を成したため、
♪塩出の源兵衛さんは大金持ちよ
と歌にまで歌われたそうです。

下の写真は、今も残るE家の石垣です。
道はこのすぐ先で山梨県への道、国道52号線にぶつかります。
昔の旅人もこの桜の花に目を奪われつつ通って行ったことでしょうね。

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で、この源兵衛さんの家に、なんとあの「やじきた」を生んだ
十返舎一九の屏風が残されているのです。
この屏風、私も静岡市内で開催された展示会で見たことがあります。

「芝川町誌」によると、
「一九が甲州への旅の道すがら、ここへ立ち寄り画いた狂歌と戯画」

一九はいつごろここを通ったのだろうか。
駿府生まれで母親は甲州出身。たびたび駿府に舞い戻り、
「身延山道中記」(文政2年=1819刊行)も書いている。

内房・塩出のE家に立ち寄ったのは、
東海道の由比から内房ー甲斐の万沢ー南部ー身延山のコースを
歩いたときかもしれません。

こちらは一九の
方言修行 金草鞋(むだしゅぎょう かねのわらじ)」、
「東海道之記」の模写復刻版です。

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桜畔亭版・藤枝戯作文庫の会(静岡県藤枝市) 平成5年。模写/鈴木朋泉

「方言修行 金草鞋」は木曽街道や西国、奥州、善光寺参詣などの道中記で、
文化10年(1813)から没後まで刊行された25編余に及ぶ合巻。
その模写復刻に、
桜畔亭主人の宮本末次氏と鈴木朋泉氏(模写)が挑んだわけです。

もう20年ほど前のことになります。
知人から「藤枝へ行くならぜひ宮本さんを訪ねて」と言われて、
どういう人か知らないまま、土手の桜トンネルを通ってお訪ねしました。

突然の、全くもって無礼な訪問でしたが、宮本さんは満面笑み。
すぐに展示室へ案内してくださった。

その室内には、
宮本さんが収集した浮世絵、戯作文庫、江戸細密工芸品がびっしり。
たちまち江戸へタイムスリップ。

立て板に水、シャレッ気たっぷりに説明してくださる宮本さんが、
だんだん一九に見えてきて…。

そのとき頂戴したのが、この復刻版でした。

この「金草鞋」の登場人物は弥次喜多ではありません。
奥州産の「鼻毛の延高(はなげののびたか)」と、
千久羅坊(ちくらぼう)」という、「ふざけた」名前の二人。

ちなみに、「鼻毛が延びた」は「女にデレデレする」、「ちくら」はニセモノという意。
つまり女にだらしがない男とニセ坊主の二人連れというわけです。

その二人がこちら。
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桜畔亭版・藤枝戯作文庫の会 平成5年 模写/鈴木朋泉

で、この本の中に「桜版亭かわら板」というのがはさんであって、
そこにこんな記述が…。

ミスをしてしまった。表紙の江戸文字風に書いた
「歌川月麿戯画」の「歌川」は間違いで「喜多川」が正しい。

そこで編集子、一九を真似て、狂歌、

   喜多川を歌川姓に間違ひし
         これは正(まさ)しく月とすっぽん」


さて、このブログ記事、力石の紹介まで行くはずでしたが、
またしても横道にそれました。この続きは次回に持ち越し。

   石探し今日は一九で蹴躓(けつまず)   清姫

夏目さんより返句をいただきました。

   清姫は一九に躓(つまず)き一句詠む   夏目

返句の返句

   (まろ)びてもにこやかに立つ令和の日  清姫


※参考文献・画像提供/「方言修行金草鞋」模写復刻板
               桜畔亭・藤枝戯作文庫の会 平成5年

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞