遺志を継ぐ
三重県総合博物館
この日、
高島愼助先生(元・四日市大学教授)と私を出迎えてくださったのは、
同博物館のU氏です。
とびきりの笑顔で待っていてくれました。
早速、ご案内と相成りましたが、
力石の資料はまだ未整理で、「関係者以外立ち入り禁止」の収蔵庫の中。
かわりに別室へ案内されました。
私が事前に希望していた収蔵品で、見せられる状態のものを
別室に用意してくださっていたのです。
別室の件に入る前に、
立ち入り禁止場所の収蔵資料について少しお話していきます。
こちらは「高島先生力石関係資料一覧」の一部です。

こういう用紙が13枚。
収蔵資料の総数は現時点で642点になります。
ぼう大な数です。
長い年月、コツコツと集めた資料です。
ここでちょっと高島先生のお話を…。
先生は、力石に取り組む決意をした動機を、
ご著書「三重の力石」でこんなふうに述べています。
「三重県津市および四日市市の力石を調査したのが、
私が力石に触れる最初であった」
「そんな中、当時日本の力石研究の第一人者であった
故伊東明・元上智大学名誉教授の知己を得、指導を受け始めた。
ところがそんな矢先の平成5年、先生ご逝去」
「私の力石研究にとって大きな痛手であった。
その後、ご遺族から膨大な資料を寄贈された。
それらの資料をひも解くと、
青森から沖縄までの先生の足跡がギッシリと詰まっていた」

「三重の力石」高島愼助 岩田書院 2006 第2版
「伊東先生のこの業績を埋没させてしまうのはあまりにも惜しい」
そう思った高島先生は、師の遺志を継ぐ決心をします。
そこで、改めてご教示を仰いだのが、
力石の先学、岸井守一・神戸商船大学名誉教授と
神吉賢一・神戸大学名誉教授だったそうです。
下の写真は、静岡県へ調査に来られたときの高島先生です。
こんなふうに電信柱の根元に捨て置かれた石を、
撮影したり計測したりするわけですから、
「変な人がいる」と警戒されるのは当たり前ですよね。
無人のお堂などでは賽銭泥棒と思われて見張られたこともありました。
で、先生の調査スタイルは、というと、これがまた怪しさ全開で…。
古ぼけた軽ワゴン車に寝袋を積み、町中の温泉施設の駐車場で
野宿しながらの全国行脚。
警察官に職質されたら、無事で済んだかどうか。

静岡県伊東市宇佐美 2010年ごろ。
ここで、静岡での私の調査方法について少し述べてみます。
自分で見つけた力石や、
文献・人づてでの情報がある程度まとまったら先生へ報告。
時期をみて共に現地へ再調査に向かうという方法をとりました。
力石の所在地は不便な場所が多かったから車のない私は大助かりでした。
でも、
昼飯は走行中、コンビニのおにぎりを頬張り、トイレ以外は休憩なし。
ある時は伊豆半島一周、また別の日には西の天竜川上流部の山の中。
これを一日で終わらせるわけですから、ものすごい強行軍です。
案内役の私は、車に揺られ過ぎて船酔い状態。
家に帰っても、部屋全体がユラユラふわふわして困りました。
なにしろ伊豆半島の先端の下田でオシャカになったほどの車です。
座席のクッションは推して知るべしの状態。
でも力石発見の喜びの方が勝っていたから、苦とは全く思いませんでした。
ただ、訪問先のご老人の、
「せっかく来たに。お茶でも飲んでって」のご親切にも、
「時間がないから」と、早々に立ち去るしかなくて…。
それがいつも心に引っかかり、
後日、礼状に菓子折りを添えてお詫びと感謝を伝えておりました。
高島愼助先生(元・四日市大学教授)と私を出迎えてくださったのは、
同博物館のU氏です。
とびきりの笑顔で待っていてくれました。
早速、ご案内と相成りましたが、
力石の資料はまだ未整理で、「関係者以外立ち入り禁止」の収蔵庫の中。
かわりに別室へ案内されました。
私が事前に希望していた収蔵品で、見せられる状態のものを
別室に用意してくださっていたのです。
別室の件に入る前に、
立ち入り禁止場所の収蔵資料について少しお話していきます。
こちらは「高島先生力石関係資料一覧」の一部です。

こういう用紙が13枚。
収蔵資料の総数は現時点で642点になります。
ぼう大な数です。
長い年月、コツコツと集めた資料です。
ここでちょっと高島先生のお話を…。
先生は、力石に取り組む決意をした動機を、
ご著書「三重の力石」でこんなふうに述べています。
「三重県津市および四日市市の力石を調査したのが、
私が力石に触れる最初であった」
「そんな中、当時日本の力石研究の第一人者であった
故伊東明・元上智大学名誉教授の知己を得、指導を受け始めた。
ところがそんな矢先の平成5年、先生ご逝去」
「私の力石研究にとって大きな痛手であった。
その後、ご遺族から膨大な資料を寄贈された。
それらの資料をひも解くと、
青森から沖縄までの先生の足跡がギッシリと詰まっていた」

「三重の力石」高島愼助 岩田書院 2006 第2版
「伊東先生のこの業績を埋没させてしまうのはあまりにも惜しい」
そう思った高島先生は、師の遺志を継ぐ決心をします。
そこで、改めてご教示を仰いだのが、
力石の先学、岸井守一・神戸商船大学名誉教授と
神吉賢一・神戸大学名誉教授だったそうです。
下の写真は、静岡県へ調査に来られたときの高島先生です。
こんなふうに電信柱の根元に捨て置かれた石を、
撮影したり計測したりするわけですから、
「変な人がいる」と警戒されるのは当たり前ですよね。
無人のお堂などでは賽銭泥棒と思われて見張られたこともありました。
で、先生の調査スタイルは、というと、これがまた怪しさ全開で…。
古ぼけた軽ワゴン車に寝袋を積み、町中の温泉施設の駐車場で
野宿しながらの全国行脚。
警察官に職質されたら、無事で済んだかどうか。

静岡県伊東市宇佐美 2010年ごろ。
ここで、静岡での私の調査方法について少し述べてみます。
自分で見つけた力石や、
文献・人づてでの情報がある程度まとまったら先生へ報告。
時期をみて共に現地へ再調査に向かうという方法をとりました。
力石の所在地は不便な場所が多かったから車のない私は大助かりでした。
でも、
昼飯は走行中、コンビニのおにぎりを頬張り、トイレ以外は休憩なし。
ある時は伊豆半島一周、また別の日には西の天竜川上流部の山の中。
これを一日で終わらせるわけですから、ものすごい強行軍です。
案内役の私は、車に揺られ過ぎて船酔い状態。
家に帰っても、部屋全体がユラユラふわふわして困りました。
なにしろ伊豆半島の先端の下田でオシャカになったほどの車です。
座席のクッションは推して知るべしの状態。
でも力石発見の喜びの方が勝っていたから、苦とは全く思いませんでした。
ただ、訪問先のご老人の、
「せっかく来たに。お茶でも飲んでって」のご親切にも、
「時間がないから」と、早々に立ち去るしかなくて…。
それがいつも心に引っかかり、
後日、礼状に菓子折りを添えてお詫びと感謝を伝えておりました。
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