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軍神

内房の力石
04 /27 2019
内房の力石探訪のはずが、つい横道にそれました。
いつものことですが、「何でも見てやろう」精神がちょいと出まして。

だってだと思いませんか?

西南戦争で亡くなった小野田徳蔵さんの墓碑が、
なんで神社の前の道路沿いにあるのか。

そんな私に、内房の郷土史家、増田文夫氏が、
郷土誌「かわのり」の記事を紹介してくれました。

「かわのり」は旧芝川町の郷土史研究会の会誌。
会誌はいう。

「この墓碑は最初、別の街道沿いの、
ドンドン下という字名の大岩の上に建っていた。
ところが明治36年、新しい県道が開通してここは廃道になった」

「そこで前年の明治35年、地元や近隣の在郷軍人等が主体になり、
村長が協力。村を挙げての事業として現在地に移転・完成させた」

CIMG4711.jpg
静岡県富士宮市内房

でも普通、お墓は墓地でしょ?

これに対して増田氏は「あくまでも僕の想像ですが」としつつ、
こんな風に語ってくれた。

軍神として祀られたのだと思います。
最初の場所はその先が内房小学校で、たぶん当時の小学生たちは
登下校の折り、大岩の上の軍神に敬礼して通っていたのではないでしょうか」

「移転後の神社は村社で、戦争へ行く若者たちがお参りしたところです。
ですからそこに英霊を祀って士気を鼓舞するという…。
まあ、そういう時代だったと思います」

この墓碑を移転した2年後、日露戦争が始まります。

「軍神が建っていたその先の小学校には、
明治から昭和までの戦没者の名前を刻んだ慰霊碑が今も建っています」
と増田氏。

「今は火の見やぐらもなくなり、川筋や道筋も変わってしまって、
ここの墓碑のことさえ関心を持って見る人も少なくなりました」

その増田氏、
地元小学校の子どもたちに石造物についての
授業やフィールドワークを始めて3年になるという。

「ふるさとの歴史を調べて子どもたちに教え、伝え、記録に残していきたい」

生まれ育った「内房」への愛情は深く、大きく、温かい。


※参考文献/「かわのり第5号」芝川郷土史研究会 鈴木太一 昭和53年
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田原坂(たばるざか)の戦い

内房の力石
04 /22 2019
富士浅間神社の石段を降り切った道路際に、
ひときわ大きな供養塔が建っていた。

「これは田原坂で戦死した人の墓です」と郷土史家の増田氏。

田原坂? 
♪雨は降る降る 人馬は濡れるの、あの九州・熊本の田原坂?

そんな遠いところの戦争に、静岡の人が行ったとは…。

その墓石を見上げつつ増田氏が、
「この人はこの村唯一の西南戦争の戦死者なんです。
今はもう、すっかり忘れられてしまいましたが…」

無理もない。今から142年も前の戦争ですものね。

この西南戦争の一般的な解釈は、
「政変に破れて下野した西郷隆盛が明治10年、政府軍と戦い敗北した戦争」
「日本国内での最大最後の内戦」となっています。

隆盛の実弟の従道(つぐみち)は政府軍。兄弟が敵味方に分かれたんですね。

供養塔です。碑の主は政府軍の兵士として出征。

CIMG4710.jpg
静岡県富士宮市(旧芝川町)内房

墓碑銘は「小野田徳蔵墓」とあります。

「芝川町誌」にはもう一人、小野田幾太郎の名もあった。
共に戦死場所は最大の激戦地だった「田原坂」。

徳蔵氏は「遺族不明」、幾太郎氏の遺族名は「小野田浜吉」となっている。

町誌の記載はごく簡単だったため、
熊本市の「田原坂西南戦争資料館」へ問い合わせてみました。

前夜遅くメールしたのに、翌日には丁寧なお返事。有難かったです。

同資料館の運営担当者で、
熊本市文化振興課のM氏の回答から少し記していきます。

「田原坂西南戦争資料館」です。
資料館田原坂
熊本市北区植木町豊岡858-1 ☎096-272-4982

以下はM氏がご教示くださった資料です。

①「西南の役 植木地区における官薩両軍戦死者名簿
 =植木町教育委員会 平成2年刊行=

この中に徳蔵幾太郎の両名が記載されていた。

②「玉名市史 資料編6 文書(近・現代)」
 =玉名市 平成6年刊行=

この中の「西南の役 高瀬官軍墓地陸軍墓銘碑全写」に徳蔵の名。
ただし、この墓地は現存せず。地下部分は残存。

③「歴史への招待 西南の役と玉東町」
 =熊本県玉名郡玉東町長 平井俊雄 昭和56年刊行=

この中の「明治十一年 官軍墓地碑石全写」の
木葉町字高月墓地に、喇叭卒(ラッパ手)「小野田幾太郎之墓」があった。

ラッパ手は戦闘の勝敗を左右するほどの重要な任務。
「陸軍らっぱ譜」という譜面があって、ラッパ手は戦場においては、
抜刀、突撃、退却などの曲を吹いて兵隊たちを指揮していたそうです。

こちらは「日清戦争忠勇美鑑」掲載の喇叭卒です。
小野田幾太郎もこんなふうにラッパを吹いていたのかもしれません。

手らっぱ
明治28年(1895)、米作画

先に挙げたM氏の資料から、さらにこんなことがわかりました。

小野田徳蔵 
  静岡県庵原郡内房村出身(現・富士宮市)。第一旅団東京鎮台兵卒(歩兵) 
  明治10年3月14日二俣で負傷、16日高瀬陸軍病院で没。

静岡県旧内房村にある供養塔には、
塔の建立は明治17年3月14日と刻まれていますが、M氏の資料から、
供養塔は没後7年目に建立、日付は負傷した日ということが判明。

「徳蔵さんが所属する第一旅団第一中隊は、
このとき初めて投入された警視抜刀隊とともに二俣口で戦った。
この戦いで政府軍兵士は10名(11名とも)負傷。その一人が徳蔵さんで、
彼のケガは繃帯所(治療所)では治療できず、高瀬の陸軍病院へ移送され
そこで亡くなったと考えられます」とM氏。

小野田幾太郎 
  静岡県富士郡羽鮒村出身(現・富士宮市)。
  第一旅団東京鎮台喇叭(ラッパ)卒  
  明治10年3月22日、玉名郡植木で戦死。

故郷にある幾太郎氏の墓です。

img251.jpg
「芝川町誌」より

M氏は幾太郎の死をこんなふうに伝えてくれました。

「20日の田原坂陥落後、22日には熊本城へと続く往還沿いでの戦争があり、
政府軍の死傷者はおよそ29名だった。

幾太郎さんはその中の一人で、喇叭(らっぱ)卒として
号令・命令を伝え、士気を鼓舞しながら亡くなったのでしょう」

それにしても小野田徳蔵さんの墓の場所が、
神社の前の道路際というのには、何か特別な理由があるのでしょうか。


※協力/熊本市経済観光局 文化スポーツ交流部・文化振興課植木分室

神の石

内房の力石
04 /18 2019
富士(相沼)浅間神社の古い写真です。
現在と同じ場所です。

創建は不明。
何度か移転を繰り返し、現在地に落ち着いたのが戦国時代だったとか。

CIMG4685.jpg
静岡県富士宮市内房

富士宮市教育委員会が立てた説明板によると、
「戦国時代、穴山梅雪の息子の武田勝千代が、
八幡大菩薩浅間大菩薩を勧請した」とのこと。

「芝川町誌」には、
「勝千代が信州佐久の望月与三兵衛、八郎右兵衛、弥兵衛の
望月3家を大檀那に、熊野から鈴木刑部大夫を神官として招いた。
現在の神社は当時の奥宮」とあります。

※私は今まで望月3兄弟と書いてきましたが、内房の郷土史家の増田氏から
以下のご指摘を受けましたので、3兄弟を3家と訂正しました。
 
 「望月氏は3兄弟ではなく、与三兵衛と弥兵衛が兄弟で、八郎右兵衛は
 彼らの伯父という関係です」
 =参考文献/「白鳥山城と万沢・内房の郷ー調査報告書」
         山梨県・富沢町役場 1997

古文書等によると、勧請当時は、
「間口六十間、奥行四十間、桧皮葺き朱塗りの堂々たる神殿」だったとか。

神社に保存されている棟札神像です。
CIMG4687.jpg

棟札は戦国時代から昭和まで11点。一番古いものは天文
神像は室町時代から江戸初期ごろの作で、
僧形が八幡大菩薩、裳を着けた像が浅間大菩薩(木花咲耶姫)」
  =富士宮市教委の説明板=

下の写真が、現在の神社です。

力石を担いだ「四谷の惣さん」こと遠藤惣作さんの家は、
神社からすぐのところで、現在のご当主は惣作さんのお孫さん。
「四谷」は遠藤家の屋号。

この遠藤家の近所のご老人が、
郷土史家の増田文夫氏にこんな目撃談を話しています。

「惣作さんは大人一人では動かせなかったこの石を担ぎ、数歩歩いた。
石は青年たちが中心になって担ぎあげて自慢した。
担げたら周りの人がパチパチ拍手して褒め称えた」

「担げない人にとってこの石は神の石とされて、
触れることもできないほどだった」

時おり、境内に砂塵が舞う。

   城跡の力石(いし)不動なり春嵐   雨宮清子


CIMG4708.jpg

冒頭の古い写真に土俵が写っていますが、
この土俵は現在も社殿の前にあります。

「今も相撲を?」との私の質問に、
「やってますよ。お祭りに子供相撲を」と氏子総代さん。
「賞品は出ますか?」に、総代さん、ひときわ明るく、
「もちろん出ます!」

増田氏も子供のころ、ここで相撲をとったとのこと。

総代さん、顔をほころばせつつ、
「祭りが近づくと土俵作りや賞品の買い出しで忙しくなる。
大人も子供もそれが楽しみでね」


※コメント欄に「夏目」さまから俳句をいただきました。

   惣作よ良くぞ担いだ神の石   夏目


うまい! 座布団10枚!


※写真提供/富士(相沼)浅間神社氏子総代
※参考文献/「内房の力石」増田文夫 私家本 2019
        /「芝川町誌」芝川町 昭和48年

   ーーーーー◇ーーーーー

「千葉県」さまから4月4日の記事「嬉しい出会い」のコメント欄に、
「松戸市の萬満寺に力石が見当たらない」と問い合わせをいただきました。
下の写真が萬満寺の力石です。返事に書いた通りに歩けば見つかります。

寺萬満

久々の新発見!

内房の力石
04 /14 2019
戦国時代の砦あとに建つ富士(相沼)浅間神社です。

CIMG4691.jpg
静岡県富士宮市内房

鳥居のところが尾根の先端部です。

ここから急な石段が続きます。
登り始めは石段の数を数えましたが、息がきれてやめました。
150段ぐらいありそうです。しかもデコボコ。

CIMG4693.jpg

石段を登り詰めたら、ありました!

力石です。 久々の新発見!  静岡県内で266 個目

かなり大きいです。
説明板には123Kg(32貫余)と書いてあります。

CIMG4703.jpg
78×30×29㎝

これは昭和の初めごろ、
当時30歳ぐらいだった遠藤惣作さんが持った石で、
あの長い石段を担いで登ったという。

うーん…
ちょっと無理のような気が…。でも、なきにしもあらず。

以前、静岡県田方郡函南町で聞き取り調査をしたら、
ご老人が、子供のころ見た力持ちのこんな話をしてくれた。

「近所の富田さんが若いころ、16貫と24貫の石を二つ担いで
下駄で熊野神社の石段を登ったのを見た。
登りきると太鼓がドンドン鳴った」

太鼓がドンドンというのがいいですね。
力持ちはヒーロー。若者たちの歓声や称賛の声が聞こえるようです。

「富田さん」は二つ合わせて40貫の石を担いで登っただけでなく、
さらに下駄をはいて登ったというのだから凄い!
でも二つ合わせたら150㎏。ひょっとして1個ずつの見間違いかも。

でも昔は、「まさか!」と思うほどのとてつもない力持ちがいたのは確かです。

だから
誰もが村一番の力持ちと認めた「四谷の惣さん」なら、あるいは…。

砦(とりで)跡に立つ

内房の力石
04 /08 2019
富士(相沼)浅間神社の崖っぷちから富士川を見る。

「ここは富士川の洪水常習地帯だったんです。
大水が出ると一面、沼になったので、すべて沼という意味で、
昔は惣沼と呼んでいました」と増田さん。

その富士川に沿って長い堤防が築かれていた。

「あれが出来てから助かったんですよ。その前は洪水で家を流されては移転し、
移転したらまた流されて…」とA子さん。

ここは駿河(静岡県)と甲斐(山梨県)との国境(くにざかい)の村で、
戦国時代、甲斐の武田軍が押し寄せた激戦地。
神社が建つこの丘陵は、尾崎砦という陣城だった。

img987 (3)

写真左の山は標高567㍍の白鳥山(しらとりやま。しろとりやま。城取山)。
戦国時代の重要な山城で、
尾崎砦はその白鳥山から派生した尾根の先端にあった。

※内房の郷土史家・増田氏からのご指摘です。
白鳥山は地元では「しろとり」ではなく「しらとり」といい、小学校時代、
♪しらとりやまの緑こく、という校歌を歌っていたそうです。

山のガイドブックや古城の記事にはどちらも出ていますから、
どちらもOKかもしれませんが、

この山にはまっ白い大きな鳥が大和のほうから飛んできたという、
白鳥になったヤマトタケルを彷彿とさせる伝説がありますから、
やっぱり「しらとり」かな? それが戦国時代の「城取り」から
「しろとり」に転化したのかも。

さて、写真に戻ります。
右側の蛇行する川が富士川
写真上が山梨県につながる上流。下流は駿河湾へ注いでいます。

このあたりから見る富士山です。
CIMG1008 (2)

下の縄張図は、古城研究家の水野茂氏作成の尾崎砦です。
丘陵先端部から尾根上に真っ直ぐ伸びた直線は神社への石段。
その先の白い四角が本殿。

本殿の背後には今も堀切が残っています。

img191_201904070903092be.jpg
静岡県富士宮市(旧芝川町)内房字尾崎

この尾根をはさんで向かって右が尾崎地区、左が相沼地区です。
このように砦は二つの地区にまたがっているので、神社所在地の書き方は、
人によって尾崎にしたり相沼(惣沼)と書いたりさまざま。

ちなみに昭和48年発行の「芝川町誌」では、
尾崎ではなく相沼としています。

眼下に甲州街道が走り、目と鼻の先に富士川の渡船場を持つこの地域は、
を始めとする物資運搬の重要な道であり、いくさ道でもあり、
日蓮宗総本山・身延山久遠寺に通じる信仰の道でもあった。

そのため、甲斐の武田信玄に目をつけられたわけです。

信玄は3度、駿河侵攻を企てますが、
真っ先に攻められたのがここで、これを「内房口の戦い」といいます。

武田、今川双方の戦死者の五輪塔です。
img987_2019040709351862a.jpg

   天空に鬨の声聞く春はやて    雨宮清子

この戦いで今川方の荻氏は討死し、
それまで所領していた白鳥山城、尾崎砦を武田方に奪われてしまいます。
代わりに入ってきたのが信玄の重臣・穴山信君(のぶただ。梅雪)です。

その梅雪から名田を与えられて、
実際にここを支配したのが望月三兄弟です。
「三兄弟」と書く本が多いのですが、地元の郷土史家から、
「兄弟は二人でもう一人は伯父」とのご指摘を受けました。
 ※望月氏については拙ブログの「大づもり物語」の項をご覧ください。

この望月一族は元は信州(長野県)佐久地方の豪族。
この一族の末裔は今もこの地にしっかりと根付いています。

清水区由比の郷土史家だった手島日真氏は、
著書「由比町の歴史」にこう書いています。

「望月氏は繁殖力の著しい氏族である」


※参考文献・画像提供/「目で見る芝川町の歴史」唐紙一修、芦沢幹雄、
               佐野文孝 緑星社 昭和51年
               /「ふるさと古城の旅」水野茂 海馬出版 1998

   ーーーーー◇ーーーーー

ブログ記事とは無関係ですが、ちょっとつぶやき。

地下鉄で何度もドアに袋をはさんで列車の出発妨害していたおじいさん。
「うわあ、こういう人ってどこにもいるんだ」と。

エレベータに乗って「閉」ボタンを押したらすぐ開いてしまうことがあって。
何度押しても開くのでおかしいなあと思い後ろを見たら、
老人がドアが閉まりかけるたびに「開」ボタンを押していた。

別の日には停留所ごとにバスの「降ります」ボタンが押されるのに、
誰も降りない。たまりかねた運転手が「いたずらしないで」とアナウンス。
でも止みません。原因はなんと一番前の運転手に見える席の老人が
「次は○○」というアナウンスのたびに押していたのです。
運転手、押しそうになるたびに睨んでいて、おかしいやら気の毒やら。
でも全然、止めないのです。

エレベータの老人はニヤニヤしていたから意識的にやっていたと思いますが、
バスの老人はごく真面目に自然にやっていたんですよ。
どちらにしても、これって何なんでしょう。

嬉しい出会い

内房の力石
04 /04 2019
旧芝川町内房までは、
通常、電車を乗り換え、さらにタクシーで行くしかありません。
下車駅の芝川駅への運行は1時間に1本。しかも無人駅。

車の運転があまりにも下手で、「人様に危害を及ぼす前に止めよう」と、
はやばや免許証を返納してしまった私ですから、
力石探しはいつも公共交通機関とタクシー。

そんな私に、A子さんが、
「52号線を行けばすぐですから、車で迎えに行きますよ」

A子さんのご配慮はこれだけではなかった。

目的地の富士浅間神社(相沼浅間神社)に着くとすぐ、
神社惣代さんに引き合わせてくださり、
さらに、郷土史家の方にも声を掛けてくださったとのこと。

神社の長い石段を登り詰めると、
果たしてその郷土史家さんがすでに境内で待っていてくれました。

CIMG4700.jpg
静岡県富士宮市内房字尾崎・富士(相沼)浅間神社

増田文夫氏。内房出身。
  芝川郷土史研究会会員。静岡県文化財保存協会会員。
  『深澤碧水句集「杣の人」拾遺』 『十七音の詩形のしらべ』など編集。

ここへ来るまでの車中で、
私は増田さんのご著書「内房の力石」を見せていただいた。

馬頭観音や道祖神の調査の中で、力石に出会ったという増田さん。
郷土史家さんで力石に興味を示す人などめったにいない中、
増田さんは石仏に接するときと同じまなざしで、
力石を見てくださっていた。

地元ならではの人脈を駆使した緻密な調査が目を引く。
取材相手との会話が生き生きと記されていて、
さすがだなあと感心したり、羨ましく思ったり…。

末尾に、
私と師匠・高島先生の「静岡の力石」も紹介してくださっていた。

「内房の力石  
  ~もう忘れさられた力自慢・腕比べ自慢の力石~です。

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私家本。2019年。

そしてこの中に私の知らない力石が、なんと2個も収録されていたのです。

増田さんの新発見です。

次回は増田氏のご案内で、その力石を紹介してまいります。

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞