軍神
内房の力石
内房の力石探訪のはずが、つい横道にそれました。
いつものことですが、「何でも見てやろう」精神がちょいと出まして。
だって変だと思いませんか?
西南戦争で亡くなった小野田徳蔵さんの墓碑が、
なんで神社の前の道路沿いにあるのか。
そんな私に、内房の郷土史家、増田文夫氏が、
郷土誌「かわのり」の記事を紹介してくれました。
「かわのり」は旧芝川町の郷土史研究会の会誌。
会誌はいう。
「この墓碑は最初、別の街道沿いの、
ドンドン下という字名の大岩の上に建っていた。
ところが明治36年、新しい県道が開通してここは廃道になった」
「そこで前年の明治35年、地元や近隣の在郷軍人等が主体になり、
村長が協力。村を挙げての事業として現在地に移転・完成させた」

静岡県富士宮市内房
でも普通、お墓は墓地でしょ?
これに対して増田氏は「あくまでも僕の想像ですが」としつつ、
こんな風に語ってくれた。
「軍神として祀られたのだと思います。
最初の場所はその先が内房小学校で、たぶん当時の小学生たちは
登下校の折り、大岩の上の軍神に敬礼して通っていたのではないでしょうか」
「移転後の神社は村社で、戦争へ行く若者たちがお参りしたところです。
ですからそこに英霊を祀って士気を鼓舞するという…。
まあ、そういう時代だったと思います」
この墓碑を移転した2年後、日露戦争が始まります。
「軍神が建っていたその先の小学校には、
明治から昭和までの戦没者の名前を刻んだ慰霊碑が今も建っています」
と増田氏。
「今は火の見やぐらもなくなり、川筋や道筋も変わってしまって、
ここの墓碑のことさえ関心を持って見る人も少なくなりました」
その増田氏、
地元小学校の子どもたちに石造物についての
授業やフィールドワークを始めて3年になるという。
「ふるさとの歴史を調べて子どもたちに教え、伝え、記録に残していきたい」
生まれ育った「内房」への愛情は深く、大きく、温かい。
※参考文献/「かわのり第5号」芝川郷土史研究会 鈴木太一 昭和53年
いつものことですが、「何でも見てやろう」精神がちょいと出まして。
だって変だと思いませんか?
西南戦争で亡くなった小野田徳蔵さんの墓碑が、
なんで神社の前の道路沿いにあるのか。
そんな私に、内房の郷土史家、増田文夫氏が、
郷土誌「かわのり」の記事を紹介してくれました。
「かわのり」は旧芝川町の郷土史研究会の会誌。
会誌はいう。
「この墓碑は最初、別の街道沿いの、
ドンドン下という字名の大岩の上に建っていた。
ところが明治36年、新しい県道が開通してここは廃道になった」
「そこで前年の明治35年、地元や近隣の在郷軍人等が主体になり、
村長が協力。村を挙げての事業として現在地に移転・完成させた」

静岡県富士宮市内房
でも普通、お墓は墓地でしょ?
これに対して増田氏は「あくまでも僕の想像ですが」としつつ、
こんな風に語ってくれた。
「軍神として祀られたのだと思います。
最初の場所はその先が内房小学校で、たぶん当時の小学生たちは
登下校の折り、大岩の上の軍神に敬礼して通っていたのではないでしょうか」
「移転後の神社は村社で、戦争へ行く若者たちがお参りしたところです。
ですからそこに英霊を祀って士気を鼓舞するという…。
まあ、そういう時代だったと思います」
この墓碑を移転した2年後、日露戦争が始まります。
「軍神が建っていたその先の小学校には、
明治から昭和までの戦没者の名前を刻んだ慰霊碑が今も建っています」
と増田氏。
「今は火の見やぐらもなくなり、川筋や道筋も変わってしまって、
ここの墓碑のことさえ関心を持って見る人も少なくなりました」
その増田氏、
地元小学校の子どもたちに石造物についての
授業やフィールドワークを始めて3年になるという。
「ふるさとの歴史を調べて子どもたちに教え、伝え、記録に残していきたい」
生まれ育った「内房」への愛情は深く、大きく、温かい。
※参考文献/「かわのり第5号」芝川郷土史研究会 鈴木太一 昭和53年
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