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花ふりつむ

力石の新たな情報をいただいて、静岡県東部の
旧芝川町(現・富士宮市)内房(うつぶさ)へ出かけた。

3年振りの訪問です。

内房在住のA子さんが交通の便が悪いことを心配して、
東海道線の駅まで車で迎えに来てくださった。

その車中で、Mさんの死を告げられた。

Mさんは山の上の集落、大晦日(おおづもり)の最後の住人だった。
雪崩を打つように村人たちが山を下り、
村の指導的一族も去ったあとの長い年月、
妻と二人で集落とその一族の神社を守り続けてきた。

こちらは、いつもMさんがきれいに掃き清めていた芭蕉天神宮です。
年2回、麓の集落からやってきた子供たちが祭りを盛り上げます。

CIMG0608.jpg

祭りの日のMさんは、
センスのいいジャケットを着たおしゃれな紳士に早変わり。
大勢の来客を満面の笑みで迎えていた。

私が初めてMさんにお会いしたのは7年前、Mさん75歳のとき。
その折り、青年時代に持った力石を見せてくれた。
翌年訪れたら、
「もう一個あった」ともっと大きな石を、はにかみながら見せてくれた。

それがこちらです。

CIMG0536 (3)

   「十九貫担いだ」と語る老人の 
       力石(いし)つかむ指 瞬時花やぐ   
雨宮清子

このとき、寡黙なMさんがポツリと、
「体調が悪いから、近々山を下りるんだ」と言ったのが気になって、
「だったらこの石も山の上の保存場所に一緒にされたら」と言ったのだが、
Mさんはなぜか、「ウン」と言わなかった。

山の上には昔、青年たちが石担ぎをして遊んだ広場があって、
そこにあった力石2個が碑とともに保存されたばかりだった。
でもMさんは最後まで頑なにそれを拒み、
主なき家に石を置いたまま逝ってしまった。

3年ぶりのこの日、どこも桜で花やぎ、枝垂桜はすでに散り始めていた。

「とうとう誰もいなくなっちゃった
と、A子さんがつぶやいた。

ここには、中世から戦国時代の甲斐と駿河を結ぶ重要な交通路が走っていた。
その古い村がひとつ消えた。

CIMG4716.jpg

  廃村はただ白し 力石に花ふりつむ   雨宮清子

Mさんの死は村の消滅であり、力石の死でもあった。

      ーーーーー◇ーーーーー

Mさん、ありがとうございました。
心よりご冥福をお祈りいたします。

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駿府二丁町

駿府、今の静岡市は江戸幕府を開いた徳川家康が、
幼少時代を過ごし、晩年になって隠居所として住んだ町です。

慶長12年(1607)、66歳で秀忠に将軍職を譲った家康は、再び駿府へ戻り、
ここに「大御所政治」を展開。
そして、矢継ぎ早に、
全国通貨の慶長小判の鋳造、活字印刷金属瓦西洋式帆船
建造を手がけます。これはすべて、日本初のものです。

駿府城下には全国から商工業者が集まり、諸外国の要人たちが家康を訪問。
駿府はたちまち人口が膨れ上がり、東海一の都市と称されました。

そんな中にできたのが「二丁町遊郭」です。
敷地1万坪。幕府公認。
のちにここの一部が江戸吉原へ移ります。

これは二丁町の花魁が差していた髪飾りの一部です。

img697_20190323172146b83.jpg

記者時代、取材先の画家さんが花魁の髪飾りをペンダントに作り替えて、
私にくださったものです。

黒漆地に螺鈿(らでん)、金工象嵌(きんこうぞうがん)。
 ※螺鈿=夜光貝や真珠をはめ込んだもの。
 ※金工象嵌=金をはめ込んだもの。

どんな女性の持ち物だったんだろう、幸せになれただろうかと思いつつ、
ずいぶん愛用しましたが、とうとう壊れて、今はこれだけ残りました。

「わたしの叔母は二丁町の娼妓であった」ー、
という書き出しで始まる「静岡の遊郭二丁町」という本があります。
著者の叔父が身請けした「つね」という娼妓は、
最後に訪れたこの幸せに感謝しつつ、間もなく結核で亡くなります。

しかし叔父は、身請けまでしておきながらなぜか決して入籍はしなかった。
そんな「つね」への思いを胸に、戦後、著者の調査が始まります。

この遊郭は静岡大空襲で焼失する昭和20年まで存在しました。

著者は調査の過程で、終戦間際の二丁町に、
「20人くらいの朝鮮人慰安婦がいた」という話を元・楼主から聞きます。

「若い女たちを集めたものの大陸への運搬船が沈んじゃって運べなくて。
それで日本のあちこちへ分散させた。その一部が二丁町へも来た」
「日本語も出来ないのに、戦後、彼女たちはどうなったのか」

思いがけない話を耳にした著者は、こんな感想を漏らしています。
戦争がこのようなかたちで二丁町に繋がっていようとは想像もできなかった」

ずいぶん前になりますが、私にも衝撃を受けた経験があります。
調べていた郷土資料の中に、娼妓たちの名前や住所を書いたものがあって、
その中に見知った家の住所を見付けてしまったのです。

貧しい家のため、その親から身売りされた娘なのに、
親はその娘を恥じて、年季が明けても家へ迎え入れることをしなかったという。

今、贅沢をしたいがために売春をする少女たちがいる。
そんなことを昔の娼妓たちが知ったら、どう思うだろうか。
「自分を粗末にしちゃいけないよ」って、言うのかもしれません。

私はこの「花魁の髪飾り」をいつもパソコンの横に置いています。
螺鈿や金工象嵌は今も美しく輝いています。

苦界に落ちても「穢れのない、凛とした気高さ」を感じるのです。


※参考文献/「静岡の遊郭 二丁町」小長谷澄子 文芸社 2006
        小二田誠二・静岡大学教授のHP「人言小二田研究室」

広報紙に掲載されました!

埼玉県川越市の広報紙に「力石」が掲載されました。

情報をお寄せくださったのは、川越市在住で、
ブログ「山の彼方に」の管理人さんの安田和弘氏です。

本当に嬉しい!!

「広報 川越」の中のシリーズ「川越時間旅行」に、
「力自慢たちのモニュメント」として、

市内元町二丁目の六塚稲荷神社の力石をご紹介くださったのです。

この神社は、船運が盛んだった新河岸川のそばにあるそうです。

「広報 川越」です。

1広報川越
平成31年3月10日発行 川越市役所広報室 埼玉県川越市元町1丁目3-1  

赤い四角の部分が文化財保護課の方による力石の記事です。

2広報川越

記事を大きくしたのがこちら。
「力自慢たちのモニュメント」
3のあ広報川越
下に続く
3のい広報川越
石の大きさは49×33×15㎝

石刻は、
「懐中石 宝暦十二年三月 高澤町 忍田屋 峰徳七」

「懐中石」とはまた、変わった命名ですね。

たぶん、忍田屋の徳七さん、
「こんくれえの石なんぞ俺にとっちゃ、懐(ふところ)へ入れられるほどのもんだ」
と大見得切って、川越っ子の心意気を示したのでしょう。

実は、徳さん自慢のこの力石、
現在、年次刻字石として川越市最古の石なんです。
※宝暦十二年(1762)

ちなみに、
埼玉県最古の力石は、久喜市樋ノ口の八幡神社にあります。
年号は「懐中石」より130年も昔の寛永九年(1632)。
しかもこの石、日本で一番古い年次刻字石でもあるのです。

埼玉県は力石の宝庫で、なんと日本一が4つも。
力石の数が日本最多、日本一の力持ち・三ノ宮卯之助の出身地、
610Kgもの日本一重い力石がある、そして日本最古の力石を所蔵。

こんなすごい埼玉県の中にあって、
こうして広報紙に載せていただいたのですから、

徳七つぁん、川越っ子の面目躍如。

大見得切った甲斐があったよね!

読書

本日は「焼畑フォーラム」へ出かける予定だったのに寝坊して行き損ねた。
フットワークが鈍くなった。
そこで読んだ本の中から一冊とりあげて、こんな感想を書いてみました。

          ーーーーー◇ーーーーー

苫米地英人さんという方の、
「明治維新という名の洗脳」=ビジネス社 2017=を読んだ。
おもしろかった。

お名前は知っていたが、今まで著書は読んだことがなかった。
でもこれは説得力があって、納得することが多かった。

明治維新については諸説あって、正直、よく解らない。
解らないけど「これって変だよな」という薄ぼんやりした疑問は持っていた。
それはこんな疑問です。

270年も平和が続いた日本が明治に入った途端、戦争を始めて、
以後、昭和に至るまで、戦争に明け暮れるようになったのはなぜなんだろう。
日本の風俗習慣をばっさり切り捨てて「西欧の猿真似」に徹したのは、
いくらなんでも鮮やか過ぎないか。

皇室までイギリス王室を真似たのはなぜ?

生麦事件でイギリス人を殺して薩英戦争を起こした薩摩藩の武士や、
イギリス公使宿舎を焼打ちしたり、外国艦船へ砲撃した萩藩(長州)の武士たちが、
同じ年にそのイギリスへ留学(密航)出来たのはなぜ?

留学した彼らは「長州ファイブ」と呼ばれ、若くして明治政府の高官になった。
資金もない地方の藩の下級武士たちに、なんでそんなことができたのか。

そして一番の疑問だったのが、
明治初年早々、なぜ外国の銀行が横浜に林立できたのかということだった。

その答えが「明治維新という洗脳」に出ていた。
ずばり、「国際金融資本家たちの暗躍」

苫米地氏は言う。
「明治維新はロスチャイルド家などの国際金融資本家集団が、
戦争で儲けるために仕掛けた。長州ファイブはその手先だった。
そしてその状況は今も続いている」と。

真偽はわかりません。
でもおもしろい。

元柳橋のたもとの謎の「大王石」とそれを持った柴田幸次郎の記事で、
私は蒔絵師の柴田是真のことを書いた。
この是真のことを明治になって、旧幕臣の塚原渋柿園がこう言っている。

「会津と官軍が戦っていたころ、あの人(是真)ときたらまるで気狂いで、
李竜眠の十六羅漢の画幅を携えて、銀座役人にこれを千両で買ってください、
そのお金を会津へ送って弾薬の料にしてもらうからと泣いて頼んだ」

懐古趣味と言われようが時代遅れと蔑まれようが、
私は国際金融資本家のエージェントになった長州ファイブより、
こういう是真のような人のほうがずっと好きだ。

墓前にて

「神田川徳蔵物語」 最終回です。

スタートは、2年前の2017年6月24日。
それから約1年9か月、116回書き続けました。

この「物語」を始めたきっかけは、神田川徳蔵の縁者・Eさんからのメールでした。
その後、今まで誰も見たことがなかった写真やご子孫に関する
第一級の資料をいただき、「これはなんとしても書かねば…」と。

Eさんから送られてきた徳蔵の笑顔の写真と対面して、
私はどうしても徳蔵さんに会いたくなり、
翌月、お聞きした墓所へお参りのため上京した。

飯田家の菩提寺・善應院(日蓮宗)です。
CIMG3836.jpg
東京都江東区平野・善應院

ものすごい暑い日でした。
その炎天下の、不慣れな東京での墓探しは大変でした。

人に聞き聞き、ようやく寺町のような一画へ。
道の片側に小さなお寺が軒を連ね、
反対側には、高い石塀で囲まれた墓地が要塞みたいに並んでいた。

石塀の中は迷路のようになっていて、
その狭い通路沿いに、墓石が窮屈そうに肩を寄せ合っていた。

ですが、閉塞感いっぱいの墓地の路地から路地を歩き回っても、
別の石塀の墓所へ出たり入ったりしても、飯田家の墓は見つかりません。

汗で濡れたメガネを拭き拭き、再度寺へ。
ご住職の奥さまが墓の配置図を指差しながら、ゆったりとした口調で、
「右から○列目の、通路の手前から○番目がそうですよ」

今度はあっけなく見つかった。思わず墓石に向かって、
「徳蔵さん、会いに来ました!」

下の写真が飯田家のお墓です。
左は「飯定組」初代・飯田定次郎、幾ん夫妻の戒名が刻まれた墓。
右は定次郎の孫・一郎が建立した「飯田隆四郎家」の墓です。

隆四郎は定次郎の長女の夫で、一郎は子息。
 一郎は日本初のバーベルを作ったといわれている人。
 一郎の弟・勝康は、日本重量挙協会の理事長・井口幸男と共に、
 金メダリストの三宅選手を始め、ウエイトリフティングの名選手を育てた人。

CIMG3834.jpg

あまりの暑さに、カメラのレンズカバーが垂れ下がっているのに気づかず、
そのままシャッターを押したので、写真左上にはみんな黒い影が…。

でも飯田家のみなさんに会えて、暑さも疲れも吹っ飛びました。

左の墓石の側面にこんな文字が刻まれていました。

「昭和六年七月
神田川 為 飯定親方

舊恩思子分中有志一同建立」

飯田定次郎は配下の従業員たちにずいぶん慕われていたのですね。

CIMG3830.jpg

縁者のEさんの調べでは、ここには18人の方が眠っているとのこと。
「飯定組」二代目で、力持ちの神田川一派を率いた飯田徳蔵も、
妻・千代と共にここに眠っていました。

徳蔵は終戦の翌年の1946年、55歳でこの世を去りましたが、
千代さんは天寿を全うし、
それから43年後の平成元年(1989)、87歳で亡くなりました。

人っ子一人いない墓所の中で墓前に手を合わせ、
「徳蔵物語」を書くことへのお許しと、
無事、書き上げることができますようお願いしました。

その願いが通じたのでしょうか、どうにか最終回を迎えることができました。
もうね、この2年間、寝ても覚めても徳蔵さん一色でしたから、
ものすごく身近な人になりました。

下の写真は、
晩年の飯田定太郎(徳蔵子息)と徳蔵縁者のEさんの父上です。
二人は終生、兄弟のように仲良く交流していたそうです。
このころお二人にお会いしていたら、徳蔵さんのことをいっぱい聞けたのに、

残念!

2000年ごろ、定太郎の娘さんが経営する中華料理店の前で撮影。
晩年定太郎
埼玉県児玉郡神川町新里・中華店「麺飯珍(めんはんちん)前にて

Eさんには貴重な情報、写真などをたくさん頂戴しました。
忙しい仕事の合間に親戚を訪ね歩き、徳蔵が残した力石を見て回り、
そして、私からのどんな要望にもきちんと応えてくださった。

でもEさんはどこまでも謙虚。
「これがきっかけで、疎遠だった親戚と再び会うことができました」
と、私と知り合ったことや記事にしたことなど、手放しで喜んでくださった。

このような拙いブログにもかかわらず、
神田川(飯田)徳蔵のお孫さんを始め、ご協力くださった多くの皆様、
そして根気よくお付き合いくださった読者の皆様へ、

心より感謝申し上げます。

埋もれた歴史を掘り起こすのは共同作業だと常々思っておりました。
今回、それを実践できたことが何よりもうれしいです。

力石の力持ちが、力石をバーベルに持ち替えて、
日本のウエイトリフティングの礎を作った、

そんな男がいたことを、
どうか皆さま、忘れないでくださいね。

学園創設の原点

物流の科学的研究に着手し、のちに「物流の父」と呼ばれた平原直氏。
その自宅の庭に置かれていた力石は、
氏の逝去後、日本通運(株)と縁の深い流通経済大学へ寄贈された。

※平原氏は戦前、日本通運(株)に在職。また流通経済大学は、
  日本通運(株)の出捐(しゅつえん)=寄付=によって設置された大学。

力石の寄贈を受けた大学では「平原直 物流資料室」を設置。
他の資料とともに保管することになった。

こちらがその当時の力石です。右から二つ目の石は「車石」。
流通経済大学1

それから14年後の平成27年(2015)、創立50周年を迎えた同大学は、
IT時代にふさわしい最新の教育機材を取り入れた新キャンパスの建設に着手。

この建物を造るにあたり、
「学園の過去・現在・未来をつなぐシンボルをぜひ作りたい」
と思案を巡らせていた野尻俊明学長は、
「このとき、平原氏から贈られた力石を思い出した」と随想で語っています。

2017年に完成した流通経済大学・龍ケ崎キャンパスです。
HPはこちらです。「流通経済大学」

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茨城県龍ケ崎市・流通経済大学・龍ケ崎キャンパス

同大学のキャンパスは、この龍ケ崎市と千葉県松戸市の2ヵ所にあります。

「最先端のロジスティクスを現場で学ぶ」ー、
そういう「実学主義に基づく教育理念」と、
全国的にも珍しい「全員ゼミ制度を実施」という特色を持つ大学です。

ロジスティクスとは、原材料の調達から生産・販売に至るまでの
 物流を管理するシステムのこと。

龍ケ崎キャンパスの「スポーツ健康科学部」では、
沖縄・渡嘉敷島での海浜実習も行っています。

ここでのテーマは、
「スポーツ文化」「スポーツ政策」「水難救助」「食事と運動」
「発達障害児(者)のスポーツを通した社会適応」など多岐にわたっています。

また、
近代日本を代表するジャーナリストの「三宅雪嶺 記念資料館」も併設。
これは、雪嶺の嫡孫が同大学名誉教授だったご縁から実現したそうです。

※三宅雪嶺=加賀藩出身の哲学者・歴史家・評論家。
         雑誌「日本及日本人」など発行。著書に「真善美日本人」など。
         友人に美術家の岡倉天心、作家の坪内逍遥など。

なんだか大学のPRブログみたいになっちゃったけど、お許しあれ!

さて、下の写真です。
これは、野尻学長が「学園の過去・現在・未来をつなぐシンボル」と位置付け、
新館エントランスに設置した力石です。

朱も入れていただき、すっかりきれいになりました。

SAIT0174.jpg

右から、
「白龍」
「再会 試力石 秋葉原」
「力石 贈 岡正矣 正三十メ目」


人力労働の象徴の「力石」が、最新機材を備えた大学構内にあって、
平成生まれの若者たちの身近にあることの不思議さ、楽しさ、有難さ。

立派な説明板も掲げられています。

SAIT0191 (2)

これらの写真は、昨年、同大学へ力石の写真送付をお願いしたとき、
総務の方が即座に撮影して送ってくださったものです。
見ず知らずの私からの唐突で無遠慮なお願いにも関わらず…。

届いた写真を見ながら、このご配慮に信じられない思いでしばしボーッ。

学長から、ぜひ協力してあげてくださいとの指示がありました。
野尻学長は力石への思い入れも強く…、
雨宮様からお問い合わせをいただいたことが
とてもうれしかったようでございます」
との総務の方のメールに、もう胸が熱くなって…。

その後も学長は、
同大図書館学芸員OBの方や、物流博物館にも働きかけてくださり、
貴重な「平原アルバム」もお借りすることができました。
本当に、身に余るご好意を頂戴しました。

改めて感謝申し上げます。

SAIT0167.jpg

野尻学長が特に興味を惹かれた「再会」石には、
荷揚げの若者たちの喜び悲しみがいっぱい沁みこんでいます。

空襲で焼かれ行方不明になったものの、土中からひょっこり現れて、
古谷野庫太郎から平原氏へ渡り、そして今、
物流の最先端を学ぶ若者たちの学び舎に置かれている。

この石が持つたくましさ、強運。

野尻学長は言う。
「この3つの力石は、本学園創設の原点」と。

「再会」の刻銘通り、ここに学ぶ若者たちはこの先の人生で、
たくさんの人と出会い、別れ、再会を経験していくことと思います。

くじけそうになったら、ここに並ぶ力石にそっと手を置いて、
パワーをいただいてください。
石から、昔の若者たちの元気な力が伝わってきますから。


※参考文献/「「力石」への思い」野尻俊明 大学時報58 2016
        / 流通経済大学HP
※画像提供/流通経済大学龍ケ崎キャンパス


     ーーーーー◇ーーーーー

前回お伝えしました力石を詠んだ俳句、短歌、川柳などを、
引き続き募集しています。詳細は前回のブログをご覧ください。

流通経済大学の学長さまを始め、関係者、学生さんからもいただけたなら
嬉しいです。
プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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