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年の終わりに

ごあいさつ
12 /27 2018
本年も私のつたないブログをお読みくださり、ありがとうございました。

「力石」という時代遅れの「マイナー」な庶民文化を、
多くのみなさまに知っていただき感謝しております。

「神田川徳蔵物語」は思いのほか長期連載になりまして、
本年度中に終る予定でしたが、あと数回来年に持ち越すこととなりました。

みなさまにとりまして、来年もまた実り多い年になりますよう念じつつ。

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    =この一年に思ったこと=

力石はすべてを人の力に頼った時代に、若者たちに使われた石です。
米市場では力石を採用試験に使ったそうです。
つまり石を上げられたら合格、上げられなかったら不採用というわけです。
袖の下も口利きも通用しない実力のみの、なんともわかりやすい方法です。

しかし、重い荷を担ぐ労働は苛酷です。
その苛酷さから労働者たちを解放したのが「機械化」でした。

でも私は思うのです。
「機械化」「合理化」「効率化」で人々は本当に幸せになったのか、と。
これが行き過ぎて、
むしろ人々は生きがいも夢も仲間も失ってしまったのではないか。

「機械」を操る人間と操られる人間とに二極化して、
操られる人々はただのロボットにされてしまったのではないか。

自殺者は毎年約3万人。無職の若者が自暴自棄になって法を犯す。
一生懸命働いても食べていけない。結婚や子供を持つこともできない。
米作り日本一の農家が米では暮らせず、タクシードライバーになった。

私の住む小さな地域にも「こども食堂」ができました。
国をけん引する人たちが高級料亭で過ごし、大災害の夜、大はしゃぎした陰で、
子供たちは周囲の善意で細々と生をつないでいる。

今の日本は何かおかしな方向へ行きつつあるのではと不安にかられます。

鳶・大工・石屋・仲士などの職人たちや全国の農山村漁村の若者たちは、
低くともそれぞれのテッペンをめざして仕事の腕を磨いた。

荷揚げ仲士の神田川徳蔵は、役員になっても部下たちと力石を楽しみ、
その力石をバーベルに持ち替えて、日本の重量挙げに多大な貢献をした。

「自分の力量以上の荷を担いでそれを誇りにしていた」という荷揚げの人たち。
腕を磨けば評価されるという夢があったからこそ、
体が変形してもみんながんばった。

新助・喜八コンビの力石です(寛政六年)。
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東京都港区白金・立行寺。斎藤氏の新発見703個のうちの一つ。

今、国会は誠実な議論の場でなくなりました。
自治が機能していた中世の村にも劣る状態です。
エリート議員が生活保護者への攻撃に在日外国人をやり玉に挙げたけれど、
生保受給者の98%は日本人であることをご存知なかったのでしょうか。

沖縄・普天間基地のグァムへの移転費用を日本は7000億円負担。
なのに辺野古の基地化を進めている矛盾。

命の水や農作物の種子の使用まで多国籍外国資本に売り渡す。
利潤だけを追求する民間企業へ「命」を差し出されてはたまりません。
ことに図書館の民営化など言語道断。焚書の時代になります。

国と国民を守るはずの政治家たちが率先して、
自国を植民地化しているように思うのは考えすぎでしょうか。

下の写真は、神社本殿の屋根に座って、
四方八方から押し寄せる魔物や災いを防いでいる
「四方睨みの猿=魔去る・魔猿」です。

もう何百年も、こうして一生懸命この土地と人々を守ってくれています。

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指先だけでPCやスマホを動かして仮想世界に生きる今の若者たちには、
自分の力だけで力石に挑んだ昔の若者たちが、
単純でおバカさんに見えるかもしれません。

でも彼らは、現実の世界にしっかり立って自分自身を生きた。
社会もまた、そういう彼らをしっかり受け止めた。
そして、彼らの多くが今にご子孫を残しているのは、
身も心も健全で豊かであったからこそと、私は思っております。

新しい年が誠実で憎悪を生まない社会であらんことを!

はるか福島の汚染地帯から、中部地方の団地のひと部屋に逃れてきた
一人ぼっちのご老人やこちらでご主人を亡くされたご婦人たちに、
一日も早く笑顔が戻りますよう祈りつつ。
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文左衛門と新左衛門

神田川徳蔵物語
12 /23 2018
紀文稲荷神社です。

「紀文稲荷は猫の額ほどのちっちゃな神社ですよ」
と、写真提供者の斎藤氏。

1斎藤保夫撮影
東京都江東区永代1丁目

確かに、ちんまりした神社です。
ここで力持ちの秘芸のすべてを披露したとはとても思えません。
それもそのはず。
この稲荷神社はビル建設のため昭和62年、現在地に移転。
昭和29年の「力持ち奉納」開催は、移転前の場所だったのです。

紀文稲荷はその名の通り、
紀文こと紀国屋文左衛門ゆかりの神社です。
文左衛門は初め、あの「紀州みかん船」で有名になり、
のちに幕府の材木の御用商人となって財を築きます。

材木で大儲けした人と言えば、駿府(今の静岡市)にもおりました。

駿府豪商番付の横綱・松木新左衛門です。
元禄年間、この新左衛門と文左衛門の二人は、
上野寛永寺の根本中堂の新築を共同で請け負います。

また相次ぐ江戸の大火で材木の需要が増したため共に大儲け。
文左衛門は50万両、新左衛門は10万両を手にしたそうです。

「他人の不幸(復興)はメシの種」

その松木家の広大な屋敷は、
現在の静岡銀行本店の裏一帯(両替町)にありました。

銀行名が右から左へ書かれています。昭和6年施行の建造物です。

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静岡市葵区呉服町

この建物は国指定の登録有形文化財になっています。
建物をよく観察すると、石の壁に化石が見つかりますよ。
あんまりウロウロしていると怪しまれますけど。

さて、新左衛門です。
177㎝の長身で筋肉盛り上がり、月代(さかやき)厚く、色白で青ヒゲ。
その新左衛門こと新左は怪力の人で、相撲が大好き。
抱えの相撲取りの羽衣治兵衛と、
鬼彦と呼ばれた大力者の岡村彦四郎から相撲を習った。

この鬼彦、ある日久能山東照宮の神官から、
「いくら大力の彦四郎さんでも、この石灯籠を駿府まで運ぶことはできまい。
もし持って行けたらくれてやる」と言われて、「それなら」と、
天秤棒に2基くくりつけて持ってきてしまったそうな。

その石灯籠は現在、静岡駅近くの珠賀美神社にあります。

これです。かなり大きいです。
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静岡市葵区伝馬町

奉納久能山 松平新太郎源朝臣幸隆 元和三年丁巳四月十七日」
葵のご紋(赤矢印)もちゃんと入っています。

こんな話も残っています。

江戸相撲の大関・立川が駿府に巡業に来た時、
鬼彦の噂を聞いて相撲を取りたいと申し入れた。鬼彦も受けて立った。
人気者同士のこの取り組みに、会場は大入り満員。

「やっ!」とばかりに四つに組んだが、しばらくもみ合ううちに
立川の顔色が蒼白となり呼吸も荒くなった。
驚いた行司が二人を引き離すと立川はそのままぐったり倒れ込んだ。

肋骨を折られたのが原因で、立川はその晩ついに死亡。
ホントかいな。

ともあれ、そのときの落首がこれ。

「立川を横にするが(駿河)の鬼彦四」

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鬼彦の主人の松木新左衛門には、けちな金持ち根性は微塵もなく、
町内のためにも巨額の散財を惜しまなかったそうですが、
のちに手を出した遠州三方原や九州の開墾事業に失敗して没落

残された借財の後始末をしたのが番頭だった伊豆出身の伝八さんです。
その功績で松木家のあとを引き受けて事業家として成功。
現在、一般財団法人・伊豆屋伝八「伊伝」として、
静岡県内の文化財の保存や保護、修理・研究に多大な貢献をされております。

「伊伝」渡邉家のご先祖が両替町の敷地内に建てた
阿弥陀如来を祀る「不去来庵」(国の登録有形文化財)の山門です。

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静岡市両替町

静岡大火や静岡大空襲から奇跡的に助かった貴重な文化遺産です。

普段は公開しておりません。
問合せは伊伝財団☎054・284・7559

※参考文献/「静岡市の史話と伝説」飯塚伝太郎 松尾書店 昭和48年
        /「二番煎じ」法月吐月楼 文化洞 昭和55年

力持ち復活

神田川徳蔵物語
12 /18 2018
古谷野庫太郎が全精力を傾けて開催した「力石建立祭り」は、
往年の力持ちたちを一気に目覚めさせた。

力持ち復活への始動は、まず深川佐賀町で起きた。

佐賀町は、神田川徳蔵が働いていた「神田川米穀市場」とは
隅田川をはさんだ対岸の、やはり米穀倉庫群が並ぶ町でした。

この写真は、1975年発行の週刊朝日のグラビアに載ったものです。
「戦後、深川倉庫付近での”佐賀睦会”メンバーによる
腹受け餅つき」との説明があります。

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「週刊朝日」第10巻 第10号

写真提供者の田口俊一氏(大正8年生まれ)の祖父と父は、
ともに日本橋浜町で鳴らした力持ちだった。

その祖父・藤太郎と父・秀太郎の名が刻まれた「黄金」石です。
秀太郎は昭和51年、93歳で逝去。

父と子が一つの石に名を刻むなんて、素敵ですね。
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自宅にて所有。「石に挑んだ男達」高島愼助 岩田書院 2009

「力石建立祭り」から半年後、深川永代の紀文稲荷神社の祭礼で、
力持ちのすべての秘芸を公開という一大イベントが開催された。

「ここもとご覧にいれまするは…」と、江戸の口上もそのままに、
「小つばめ会」の少女たちの「江戸囃子(はやし)」が、
テンテン、ドドドンと賑やかに囃す中、、
まずは小手調べに、

「すっぽりかつぎ」「邯鄲(かんたん)は夢の枕」

続いて、
「曲俵桝受」「桶受」「長柄受」「脚立受」「箱受」に、
「俵筆書き」「布袋川越し(五人背負い)」「腹芸餅つき」「腹芸宝の入船」

これが「布袋川越し・五人背負い」だと思うんですけど…。
1,2,3,4。あれ?、4人しかいない…。
右端の人がこれから登るのかなぁ。

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でもってこの写真、「佐賀町の力持ち」なのは確かだけれど、
ひょっとしたら、
「紀文稲荷」ではなく、「力石建立祭り」のときのものかも、と、
ちょっと心もとなくなってきました。

さて、ここでいよいよ力石の登場です。
「大石差し上げ」「大石投げ合い」「大石持」

で、前回、撮影年不明としたこの写真、
ひょっとしたら、先の写真とは逆に、
この「紀文稲荷」の祭礼のときのものかも。

DSC_6163 (2)

どうもこのところ見落とし、勘違いが出てきました。
正直なところ、石を追いかけ続けて、

疲れたぁ~!

とまあ、これはホント半分、あとの半分は言い訳ですが、
気を取り直していきます!

次回は「紀文稲荷」の鳥居をくぐることにいたしましょう。


※参考文献/「物流史談」平原直 流通研究社 2000
※画像提供/平原直・流通経済大学・物流博物館

笑顔が並んでる

斎藤ワールド
12 /15 2018
埼玉の研究者・斎藤氏の「路上観察物件」をご紹介します。
斎藤氏は力石だけでなく、路上観察歴も長く豊富です。

埼玉県草加市の某所だそうです。
1斎藤路上観察

思わず笑ってしまいました。
不謹慎な!とお叱りにならないでくださいね。

石塀ごしに隣りの墓地を覗く植木の坊やたち。
なんて楽しい光景なんでしょう。

2斎藤路上観察

植木屋さんのセンスかしら。
それとも、茶目っ気たっぷりのこの家のご主人のアイデア?

癒されます。

路上観察④斎藤

地上の人も地下の人も。

師走二題

世間ばなし
12 /10 2018
「もう12月だなんて。一年なんてあっという間ねえ」
「ホントにねえ。また一つ年とっちゃうよ」

って言うことが、多くなりました。
しょうがないよね、いやでもなんでも月日は巡るんだから。
そんな走るが如き師走の中、ちょっと話題を変えてお話を二つ

今年の年頭のブログに、私は干支のを載せました。
近所の農家のおじさんが亡き愛犬をモデルに作ったススキの犬。
その後どうなったかなあと行ってみたら、

いました! ヨレヨレのボロボロ

ススキが抜け落ちて胴体もスカスカ。体から伸びる影もうら寂しく、
なんかおどろおどろしい雰囲気。

だけど君はこの一年、夏の暑さや雨、風に耐えてよくがんばった!

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で、後ろを見たら、来年の干支のイノシシがいるではありませんか。
まだ未完成だけれど、
「おい、今度はオレさまの出番だよ。早くどいとくれ」とでもいうように
牙で犬のお尻をせっついていた。

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このイノシシくん、
制作途中とはいえ、なかなか凄みがあります。
畑を荒らすお馴染みの無法者。モデルには事欠きません。

猟銃向けても鼻息荒く向かってくるっていいますから、
恐怖はみなさん体験済み。だから真に迫っています。

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二つ目のお話は「干し柿作り」。

今年は暖冬で、「あ、そうだ。干し柿だ」と気づいたときはすでに遅し。
もう渋柿はどこにも売っていません。

先週、6個入り一袋をやっと手に入れただけ。

これがその柿。早くもいい感じになっています。
これは渋柿の中では一番大きい種類て、横幅が7、8㎝ほどあります。
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「あああ、今年はこの6個だけか」とあきらめていたら、
本日、農協の市場に出ていました。
大きな柿の10個入り。それが3袋あったので全部買いました。

種類は「あおっさ」。袋に大きく「キズ」の文字。
残り物に福。
キズものでも、皮をむけばきれいなもんです。

当地は暖かいから、熱湯をくぐらせ焼酎で洗ってから吊るします。
今まで一度もカビが生えたことはありません。
鳥よけに磁石を置くだけ。

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これから約1か月間、窓越しにこの風景を眺めて暮らします。
朝日に輝き、風に揺れて…。

大空に書いた音符みたいでしょ?

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♪ド、レ、ミ、ファ、ソソソソ、ラファ、ドラ、ソー ♪♪

久世家の庭石

神田川徳蔵物語
12 /06 2018
昭和20年の敗戦から立ちあがり、近代化へと突き進んだ日本。

中でも物流の世界ではいち早く機械化が進み、目覚ましい発展を遂げます。
しかしそれと引き換えに、
すべてを人の力に頼っていた人力の時代が急速に衰退し、
同時に力石も見捨てられていきました。

それを惜しみ、往年の力持ちたちの力石を集めて開催したのが、
「誉れの力石建立祭り」でした。

発起人の古谷野庫太郎が、あえて「誉(ほま)れ」と名付けたのは、
長い年月の間に荷役労働者たちが編み出し、
日本の伝統技術の一つとして確立させた人力荷役の技法に、
多大な愛惜と誇りを持っていたからではないでしょうか。

その発起人の一人に、戸田卯之助がいた。

卯之助もまた古谷野に習い、東京の力石を記録した
「力石銘石調帳」を残しています。

卯之助の「銘石調帳」です。
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二人は開催を記念して、この祭りにかけた意気込みと、
「力石を忘れないで」の気持ちを石に刻みつけた。

これがそのときの「力石建立」石です。
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東京都千代田区神田須田町・柳森神社

「力石建立 発起人 日通 直江永二郎 日倉 古谷野庫太郎
 ㊁ 戸田卯之助 後援 日本運輸倉庫 昭和二十九年一月十日

この石は現在、神田川沿いの柳森神社にあって、
古谷野が尊敬する神田川徳蔵の歌石のそばに置かれています。

写真右が「歌石」、左下が「力石建立」石。
真ん中の「大林」も徳蔵が持った石です。
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ちなみに歌石にはこう刻まれています。

「東男(あずまを) 力越(ちからを)飾留(かざる) 
祭里(まつり) 可奈(かな)
          大正十四年九月二日 神田川徳蔵 持之

古谷野の名が刻まれた石は、「建立石」を含めて3個。
そのうちの「卯の花」石は同じ柳森神社にあります。

戸田卯之助の石は「建立石」を含め2個現存。
こちらは「東光石」といい、江東区の住吉神社にありますが、
これには「古谷野庫太郎殿」と「殿」をつけた古谷野の名も刻まれています。

卯之助の「東光石」の刻字です。

「東光石 昭和廿九年四月廿九日 深川旧久世大和守別邸庭石
 ㊁東京倉庫 戸田卯之助建立 世話人 山田政國 金子孝一 高橋吉治
日本運輸倉庫 古谷野庫太郎殿

「東光石」です。
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東京都江東区牡丹・住吉神社

これは「久世大和守」の屋敷の庭石を力石に転用したものと思われますが、
どういう経緯(いきさつ)でそうなったのかはわかりません。

ちなみに久世氏は、現・千葉県野田市の「関宿藩」藩主で徳川家の重臣。
別邸(下屋敷)は深川の現・清澄公園にあった。

幕府崩壊で屋敷は将軍家に返上。その後、持ち主が転々としたあと、
三菱財閥の岩崎弥太郎の別邸になった。

久世氏がらみで力石や力持ち関連を探ってみると、

岩崎邸を作ったのは建築家のコンドルで、コンドルの絵の師匠は河鍋暁斎
その暁斎には力持ちの本町東助という飲み友達がいた。

久世氏支配地の野田市は醤油の町で、今も力石が多く現存する。

そして久世家の菩提寺の本妙寺には、
おもちゃ博士で力持ちの清水晴風が眠っている。

晴風の墓です。自ら差した力石を墓石にしています。
img069 (2)
東京都豊島区巣鴨・本妙寺

深川別邸が久世家の手を離れてから100年後の昭和の時代に、
戸田卯之助はなぜ、わざわざ石に「久世家の庭石」と刻んだのか。
この100年の間、庭石はどこをどう彷徨っていたのか。

興味は尽きませんが、ここは目をつぶって次へ進むことと致します。

こちらの写真をごらんください。
撮影年は不明ですが、
力石興行の雰囲気を知っていただくためにここに載せました。

DSC_6163.jpg

「神田川」と書いた箱が見えますから、徳蔵の力石グループと思われます。
真ん中あたりに、まわし姿の少年が写っています。

ちょっと気になる写真です。


      ーーーーー◇ーーーーー

ブログ「ネコと趣味の創作人形」のちょびさんが旅立ちました。
愛猫と奥さまの創作人形、四季折々の風景を、
素晴らしい写真でつづったブログでした。
お住まいの山陰地方に埋もれていた力石を写真と共に教えてくださり、
たくさん助けていただきました。
感謝と共にちょびさまのご冥福をお祈りいたします。

リンクはしばらくそのままにさせていただきます。

琉球弧の島唄

古典芸能
12 /02 2018
昨日は沖縄民謡をたっぷり聴いてきました。
場所は、静岡音楽館AOI。

早くから前売り券を買って楽しみにしていました。
「たっぷり聴いてきた」なんて言っちゃいましたけど、
こんな本格的なのは初めて。

出演は、
知名定男、大城美佐子、大工哲弘、仲宗根豊、西和美の各氏。
奄美、沖縄、宮古、八重山の民謡界を代表する方ばかりだそうです。

そういう方々の声量豊かな歌声が、三線、横笛、太鼓、琴の音と共に、
広いホールに響きわたります。

恋の歌、豊作を祈る歌、神歌。
歌詞は全然わかりません。
ですが、会場の客たちは切々とした歌に吸い寄せられ、
軽快なリズムの歌になると、いっせいに手拍子を打ち出しました。

客席から鋭い指笛まで飛んできて、もう沖縄どっぷり。

手さばき足さばきも軽やかな男女の舞踊がまた楽しい。

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なんか、いい雰囲気、
と思っていたとき、あらやだ! 突然、涙があふれてきた。
泣くような場面かい?と自問したけれど、自然に涙が出てきちまって。

以前、この同じ場所で、
正倉院の復元楽器による日中音楽家の演奏会があった。
あのときは突然、全身に鳥肌が立って…。
眠っていたDNAがいっせいに動き出した、そんな感覚に襲われた。

中央アジア天山南路を経て、はるばるこの日本にやってきた楽器たち。
その楽器の音色に私のDNAが反応して踊りだしたって感じでした。

で、そのとき思いました。
私の体の細胞には遠いアジアの遺伝子が確実にあるんだって。

それが今日は、あの表と裏の声が往ったり来たりする、そんな歌声を聞いて、
思わず涙が出て来てしまったのです。

あれは一体、何だったのだろう。

フィナーレは客席と一体になってのカチャーシーの総踊り。
少し泣いたけれど、楽しい楽しいひとときでした。

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞