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「浦しま 五十六メ目」

前回、物流の平原直と力持ちの古谷野庫太郎が、
戦後の昭和28年、秋葉原駅近くにあった日本運輸倉庫前で、
初めて会った話をしました。

そのとき撮影した写真に気になる石がありました。

こちらです。
DSC_6120 (2)

左の石には「五十六メ目」の刻字があります。
古谷野の「銘石調帖」には、こう書かれています。

「浦しま 五十六メ目 
  郵船 浦島丸 船頭名不明 箱崎へ

「浦島丸」って、もしかしたら、これでしょうか?
 
「浦島丸」 大正14年(1925)進水。冷凍・冷蔵運搬船。
横浜船渠(株)建造、東京湾汽船(株)

昭和5年(1930) 東京・伊勢常商店へ売却。
昭和17年(1942) 相沢喜一郎(東京)へ売却。
昭和22年(1947) 船名録に抹消予定と記載。

古谷野が「箱崎へ」と記した「箱崎」とは、「日本橋箱崎町」のこと。
ここは隅田川にかかる清州橋永代橋の間にあった島で、倉庫群が並んでいた。
そしてこの島には対岸の佐賀町同様、船頭が大勢住んでいた。
 
※昭和51年に川が埋め立てられて、箱崎町は陸続きになった。

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古谷野が「銘石調帖」に書き添えた「郵船」が「日本郵船」のことなら、
この箱崎町には日本郵船の倉庫がたくさんあったので、
「浦島丸」はこの会社の船だったのかもしれません。

古谷野自身がこの界隈の船頭の子だったから、
「浦島丸」についてはよく知っていたと思われます。

また佐賀町は、現物正米取引所があったところなので、
神田川米穀市場同様、米俵を担ぐ荷役労働者がたくさん働いていました。

平原が力持ちに興味を持つきっかけとなった「神業の腕を持つ冨虎」や、
同じ「虎」名を持つ「飯虎」もまた、
佐賀町、箱崎町で荷担ぎとして働き、その名を石に残した人物です。

飯虎の力石です。
左は故・伊東明上智大学名誉教授のスケッチによる「虎峯」
右は「瓢石」(白矢印)
img144.jpg CIMG0783 (2)
東京都中央区日本橋箱崎町・八大龍王社元宮。  江東区富岡・富岡八幡宮

   「虎峯 さが町 飯虎持石」

   「瓢石 佐賀町 菊蔵 箱崎町 飯虎」

残念ながら、
先の「浦しま 五十六メ目」石には、これを持った力持ちの名がありません。
「箱崎へ」と書かれているところから、
日本郵船の倉庫か、郵船と縁の深い神社へ運ばれたはずですが、
現在、この石の所在は不明です。

「浦島丸」やこの石にお心当たりのある方がいらっしゃったら、
ぜひ、ご一報をお願いいたします。

右の「福住」石については次回。


※画像提供/流通経済大学・物流博物館
        /「東京都中央区の力石の調査・研究」伊東明 
         上智大学体育・第18号 1985
※参考文献/ネット「なつかしの日本の汽船」

文中敬称略

力石を愛し続けた男

平原が力持ちの古谷野庫太郎と初めて会ったのは、
終戦から8年後の昭和28年の秋だった。

きっかけは、かつて勤務していた日本通運の友人からの紹介。

そのとき、平原の目に映った古谷野は、
「語る言葉も朴訥(ぼくとつ)な、一見、野人
根っからの現場育ちの荒くれ男

深川河岸の船頭の子として生まれた古谷野は、
関東大震災後、陸へあがって日本運輸倉庫で働くようになった。
そして、
現場での腕を磨くため、力持ちの技の修行に専念したという。

しかし、この力持ちの技は、第二次大戦後急速に廃れてしまいます。、

それを惜しんだ古谷野は東京中の神社仏閣を訪ね歩き、
そこここに捨てられたままの力石の調査を始めます。

そのときのノートがこれです。
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この「東都力石銘石調帳」には、
古今の力持ちの名前と石銘、所在地などが記されています。

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調査しただけではなく、放置されたままの力石が散逸しないよう、
苦心して勤務先の倉庫の前へ集めた。

初対面では「野人」と映った古谷野だったが、
しかしその奥底に、「ゆかしいばかりの文化の香り」があるのを、
平原は感じ取ってもいた。

それもそのはず。
「彼は講談物から漱石、芥川クラスまで好む大変な読書家だった。
また文を書かせても達者だった」

二人は会った時から、なぜかうまが合った。
なによりも力石にかける古谷野の
「思慕というより執念に近い情念」が平原の心を揺さぶった。

人々から忘れられてゆく力石。
そんな中に現れた平原は、古谷野には最大の理解者と映ったはず。
「先生! 今から行ってもいいか」の電話が来て、
たびたび平原の事務所へやってくるようになった。

そんな付き合いが、古谷野がこの世を去るまで20年以上続いた。

初対面のときの古谷野(左)と平原(右)
DSC_6120.jpg
東京・秋葉原駅近くの日本運輸倉庫前で。昭和28年

「彼は大変な酒好きだった。
でもどんなに酔ったときでも、またどんなに疲れているときでも、
私が力石の話をすると、たちまち膝を立て直し、
口をキュッと真一文字に食いしばり、眼光をランランと輝かした。
そして、
言葉づかいは一転して気合の入った話しぶりに変わった」

「純真で愛すべき好人物であった」


※参考文献/「物流史談ー物流の歴史に学ぶ人間の知恵」平原直
        流通研究社 2000
※画像提供/流通経済大学・物流博物館

文中敬称略

平原アルバムを開く

「徳蔵物語」、再開します。

大正・昭和初期の力持ちで、神田川一派を率いた飯田徳蔵は、
第二次大戦の東京大空襲で、家も職場も力持ちへの意欲も失ってしまいます。

そして終戦から9か月後、
身を寄せていた「飯定組」の従業員・重吉の家のふろ場で、
突然の死を迎えてしまいました。享年55歳

一人息子の定太郎が戦地から帰還してわずか1週間目。
あまりにも短い再会です。でも失意の中にいた徳蔵にとって愛息子の生還は、
何ものにも代えがたい喜びだったのではないでしょうか。

10歳年下の愛妻・お千代さんが徳蔵の元へ旅立って行ったのは、
それから43年後の平成元年。
87歳だったそうです。

そのころお千代さんにお会いできたなら、
徳蔵さんのお話をいっぱい聞けたのに残念!

でも歴史というものはそんなものですね。
当事者がご存命で身近にいたり、出来事がまだ新しかったりすると、
なかなか腰があがりません。

この徳蔵さん、よほど人望が厚かったようで、
この世からいなくなっても徳蔵を慕う人たちは大勢いました。
お会いしたことがない私でも思いましたもの。好感度抜群だって。

徳蔵亡きあとのそんな様子を「平原アルバム」で見ていきます。

「平原アルバム」です。
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流通経済大学委託資料。現在、物流博物館で保存管理。

平原 直(ひらはら すなお) 明治35年(1902)~平成13年(2001)
享年100歳
その業績はすでにこのブログでご紹介してきましたが、再度。

昭和4年(1929)、九州帝国大学卒業後、国際通運(株)=現・日本通運入社。
昭和21年、退社。23年に荷役研究所を設立。

荷役現場で見てきた荷揚げ労働者の苛酷な労働に心を痛め、
その軽減をはかろうと、退職後は荷役の近代化・機械化に尽力。
物流理論の開発普及に努めました。

現在、普通に使われている
物流=物的流通」の言葉の生みの親でもあります。

平原氏です。ご自宅の庭で力石と。
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平原氏が推し進めていた荷役の機械化は、結果的には、
人力での荷役を担ってきた荷揚げ労働者から仕事を奪うことになります。

しかし、酷使してきた彼らの体は肩に瘤を作り、背骨や骨格を変形させ、
様々な内臓疾患を発症させて、彼ら自身を苦しめてもいた。
そうした彼らに、クレーンや車の運転技術を習得させ、
新しいシステムへの移行をはかろうとしたと、平原氏は著書に記している。

荷役現場でたくさんの労働者を見てきた平原氏ですが、
力持ちや力石の存在を知ったのは、
日本通運を退社した4年後のことだったそうです。

ちょっと意外ですね。

きっかけは、
深川の帝国倉庫の常務・内田貞三から聞いた「富虎」という力持ちの話だった。

冨虎は帝国倉庫で米俵を扱っていた人で、
五尺(1・5㍍)そこそこの小柄な男だったが、神業に近い腕を持っていたという。
私はその話にいたく感動し、興味を惹かれた」

米穀市場では米俵を2俵担ぐのは普通だったという。
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しかし、興味を持ったものの、まだのめり込むまでには至りませんでした。

平原氏が力持ちの技に取りつかれるようになったのは、その3年後、
古谷野庫太郎との出会いからだった。

古谷野は東京・秋葉原の日本運輸倉庫の現場監督で、
力石を担ぐ力持ちでもあった。
その古谷野から聞く荷役の苦心談や経験談、力持ちの誇りや技の話が、
よほど魅力的だったのでしょう。

「古谷野の口から力持ちと力石の言葉が出てきたときは、
電気で衝撃を受けたようになり、講演旅行で地方にいるときも、
熱にうかされたように力持ちと力石を思い浮かべては、独り興奮していた」
という状態になった。

こうして古谷野庫太郎と出会ったことで、
平原氏の力石と力持ちへの情熱は一気に燃え上がった。

「徳蔵を尊敬してやまない」古谷野から、
名力持力士・飯田徳蔵の名を聞き、
その存在を初めて知ったのはこのときだった。

ここから、平原氏の「力持・力技への復活」の夢が始まったのです。


※画像提供/流通経済大学。現在、物流博物館で保存管理。
※参考文献/「物流史談 物流の歴史に学ぶ人間の知恵」平原直
        流通研究社 2000

人の見残したものを見る

静岡県立美術館木下直之館長のことは、
ロバート・キャンベル氏との対談を聞くまで、私は何も知らなかった。

この対談から啓示のようなものを感じて、私は慌てて館長の著書を読んだ。
もうまったくの速読・乱読。
でも飛び込んでくる言葉は共感できるものばかり。私はたちまち魅了された。

「祭礼の数日間だけ出現しては壊されながらも次の祭礼にはまた出現する、
という具合に、日本にはハリボテをハリボテとして眺め、
いわば、そのインチキを笑い楽しむ文化があった」

「キッチュ」と解釈していいのかしら。
※キッチュ=まがいもの、俗悪、大衆的、独特の存在感などの意。

館長の著書に、
男の裸体彫刻を論じた「股間若衆 男の裸は芸術か」なんてのもある。
「股間若衆」はあの「古今和歌集」を彷彿させる響きですが、全く無関係。
でも今度は、
「新古今和歌集」をもじったような「せいきの大問題 新股間若衆」を刊行した。

先生、ちょっとハメを外しすぎてません?

こちらは、文部省体育研究所の嘱託時代の安藤熊夫氏です。
「この写真、わざと出したでしょう」って? 実はそうなんです

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昭和9年ごろ、同研究所の草原で。

安東氏は北村西望の彫刻のモデルになった人。
「北村氏作の長崎平和祈念像を見ると、顔をのぞけば体は安藤氏そのもの」
と、井口幸男氏。

その祈念像について、木下館長はこう言う。

「いくら北村氏が”とろける股間”を得意にしたとしても
あの大きさで、しかも大勢の参列者が目の前に来る。
やむを得ず?股間はで覆うことにした」

井口氏も西望氏のモデルになったが、やはり像の腰には布が巻かれていた。
芸術とわいせつ。悩ましい問題ですね。

そろそろ本題に入ります。

木下館長の別の著書、
「世の途中から隠されていること― 近代日本の記録
をご紹介します。

左上の角をご覧ください。なんと「力石」が載っています。
そうなんです。この本には力石が出てくるのです。

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本の冒頭には、こんなことが書かれています。

「あるものを引き出す作業は、別のあるものを隠す作業にほかならない。
そのことを、今からおよそ百年前の
日本美術と呼ばれるものの中に探ってみようと思うのだが、あるいは、
美術と呼んだとたんに隠されてしまった別のものの探索になるかもしれない」

「子どものころからヘソが曲がっていたらしい」と自認する木下館長、
博物館と美術館のその上に位置する「百物館」主人として
京都国立博物館やパリにまで赴き、
「美術と呼んだとたんに隠されてしまった別のもの」の探索に励みます。

その探索には、民俗学者の宮本常一が故郷・周防大島を離れるとき、
父親から与えられた言葉、
「人の見残したものを見るようにせよ」を肝に銘じて…。

そんな中で見つけたものの一つが金沢市・尾山神社力石だったのです。

館長が見た力石です。拝殿石も含めて全部で5個あります。
尾山町・尾山神社2
石川県金沢市尾山町・尾山神社

刻字は「さし石」、
「奉納 □藩主前田家ヨリ 拝領石 之御手木中」など。

「手木」は「てこ」と読みます。手木衆とは藩主・前田公に仕えた足軽。
  力量の優れた者たちが集められた。
  彼らの居住地は「手木町=てこまち」と呼ばれた。現・金沢市本多町1丁目。
  参考文献/「金澤古蹟志・第五編 巻十二」の46,47ページ。
      
さて、この「さし石」を見た館長、
「何のために重い石を高く持ち上げるのか」と考えたあげく、
「若衆たちの力競べを見守っている人間を超えた何ものかの存在」
を感じ、
「それこそが彼らに超人的なパワーを与えた張本人だ」と結論付ける。

う~ん、素人のアタシにはちょいと理屈っぽいニャ。

「かつて力持ちと呼ばれた人たちがいた。
今ならウエイトリフティングや相撲の世界という居場所があるが、
昔の彼らの居場所を説明するのはなかなかむつかしい。
と思っていた矢先、ひょんなところでばったり出くわした」

館長が「ばったり出くわした」相手は、幕末明治の画家・河鍋暁斎だった。

「暁斎の友人に浪野東助という力持ちがいる。
その東助の友人に清水晴風がいる。
荷車引きの家に生まれた晴風は、3、40貫目の力石を差し上げた力持ちで、
しばしば東助と連れだって近在各地で力持ちの技を見せたという」

「晴風はおもちゃの蒐集家で「うなゐの友」という画集も出した。
東助、晴風ともに単なる筋肉マンではなかった。
彼らの居場所が垣間見える」

清水晴風とは、フランス士官が撮った写真や小林清親の絵に出てくる
元柳橋の「大王石」「柴田幸次郎」のところで登場した人物です。

館長はここから、
「絵画を額縁に閉じ込め、さらに美術館という聖域に二重に閉じ込めた」
近代美術に対して、その場で「作者の芸を見せる書画会」に言及。

「書画会で東助は米俵に結びつけた大筆で文字を書き、
暁斎は八畳敷の大紙に竜頭観音を描いた。
この二人の行為は美術である前に身体の文化に属するものだ」

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「暁斎のパフォーマンスは北斎歌川国芳のそれを連想させる。
幕末には力持ちがその名称のまま見世物として成り立ち、
文化の一翼を担っていたこともここでは思い起こしたい」

酒屋の主人の東助は書も文もよくし、各界の著名人との交流も深かった。
晴風もまた家業の運送屋を番頭にまかせて、絵や民俗学の仲間と活動。
廃れゆくおもちゃの蒐集に全国を行脚した。

その晴風の墓には、墓石にした愛用の力石がデンと据えられています。

館長さん、文化の一翼を担ったこうした力持ちと力石のことを
もっとたくさん見て、知って、広めてくださいね。

追記

宮本常一が故郷の周防大島を離れるとき、父親が、
「人の見残したものをみるようにせよ」
と言ったと館長さんの著書にありましたが、宮本氏は自著の中で、
師の渋沢敬三がよく言った言葉として書いています。
今のところ、「父が言った」という記述は見つけていませんので、
間違いかもしれません。


        ーーーーー◇ーーーーー

※見世物研究の第一人者・川添裕氏、木下直之氏、
「明治の迷宮都市」の作者の橋爪紳也氏が登場する
別冊太陽「見世物はおもしろい」平凡社 2003は、お勧めです。


※参考文献/「世の途中から隠されていること」木下直之 晶文社 2002
        /「股間若衆」木下直之 新潮社 2012
※画像提供/「わがスポーツの軌跡」井口幸男 私家本 昭和61年
        /「酔うて候 河鍋暁斎と幕末明治の書画会」
         河鍋暁斎記念美術館ほか 思文閣出版 2008
※参考文献・画像提供/「石川の力石」高島愼助 岩田書院 2014

意外なところに「東助」が…

久しぶりに美術館へ行きました。
絵を見に、ではなく講演と対談を聞きに。

私は美術館が苦手。

まず建物に威圧され、知的で上品な受付の女性に緊張し、
鑑賞者が一様に押し黙り、順路通りに歩くのを見て息苦しくなり、
暗がりに座り続ける生人形みたいな学芸員さんにギョッとなるから。

加えて、出口に至るわずかな時間に、
いかにも教養を高めたような気分になってしまう自分に嫌気がさすから。

かなりひねくれています。

小学生のころ、夏休みの「自由研究」に毎日、を描いた。
昔の夏休みは8月のまる1か月だったから、全部で31枚の「空の絵」。
それを見た先生が吐き捨てるように言った。

「バカじゃないの!」

翌年は石膏デッサンを提出した。
黒目のない白一色の両眼と腕をもがれた人体のなることに魅かれて。

2学期の初め、先生がその絵をみんなに見せてこう言った。
「この絵は非常にうまく描けている。
でも一番ダメな絵だ。これは姉さんか兄さんに描いてもらった絵だろう。
みんなはこんなズルイことをしてはいけないよ」

これで私のひねくれ度に拍車がかかってしまった。

とまあ、昔話はこれくらいにして…。

講演は、
静岡県立美術館で開催中の「幕末狩野派展」にちなんだもので、
講演者はロバート・キャンベル氏(国文学研究資料館館長)。
続いてキャンベル氏と県立美術館館長で東大教授の木下直之氏が対談。

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静岡県立美術館(静岡市駿河区谷田53-2)☎054-263-5755

「アートは2階、奥のお座敷で」のタイトル通り、
江戸から明治にかけて料亭の奥座敷で催された「書画会」の話だった。

書画会とは料亭の大広間で書家や画家が客の求めに応じて
即興で作品をかくという席書・席画パフォーマンス。

キャンベル氏は、天才絵師・河鍋暁斎の書画会についても、
「酔うて候 河鍋暁斎と幕末明治の書画会」という本へ寄稿されている。
暁斎のことは力持ち・本町東助のところで、私も書かせていただきました。

ただしこの日は、期待した「暁斎」は語られなかった。

木下氏は静岡県浜松市生まれ。同県人です。親しみが持てます。
昨年春、同館の6代目館長になられた。
ご本人は「この6代目という呼び名が気に入っている」とか。

ご専門は美術史、写真史、そして見世物史とあります。
「常に見下されてきた見世物を美術の偉い先生が…」
と、私は驚きつつも嬉しさ全開です。

先生はご著書にこう書いています。

暁斎はあまり書画会は好きではなかったようだが、
最晩年には中村楼での書画会には参加した。
友人浪野東助の主催だったからだ。東助は力持ちとして聞えた人物」

でも私が読んだ暁斎に関する本には、
暁斎は大規模な書画会にも個人的な席画にもよく出ていたとあった。
ただしいつも「酔うて候」の状態で…。

ま、それはさておき、

ここへきて、まさか、美術館館長から、
「力持ち東助」の名が出てくるとは思いもしませんでした。

次回の講演はその木下館長による「”暁斎画談”を読む」
期待が高まります。


<つづく>

うーれしいな、うれしーな!

埼玉の研究者、斎藤氏から封書が送られてきました。

中に入っていたのがこれ。
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東京の地下鉄の駅で無料配布されている冊子、
「MetroWalker  メトロウォーカー」秋号です。

ヘェー、
東京にはこんなおしゃれな冊子があるんだと早速開いてみた。
地下鉄沿線の名所、味どころなど満載。

歴史・サイエンスライターの原島広至さんが写真と文と古地図でたどる
「メトロ今昔探訪」

今もつづく浮世絵の摺り師のお店や、
宮大工の木組みの技法を紹介する「木組み博物館」
江戸の火消しを知る「消防博物館」

どのぺージも、絵図や浮世絵、写真を駆使して色鮮やかです。

味どころの紹介がまた凝(こ)っています。
「味噌」を使った料理屋、パン屋、レストランがずらり。
米みそ、麦みそ、豆みそと種類も豊富。

行ってみたーい! 食べにいきたーい!

でも斎藤氏がこの冊子を送ってくださったのは、
私のそんな「欲望」のためではありません。

力石が掲載されていたからなんです。

ほらね!
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タイトルの
「江戸の力試し!力石を散策」ってのもいいですねぇ。

なんと力石四ヵ所、地図まで添えて紹介されています。
志演尊空(しのぶそんくう)神社=南砂町駅(東京で最古の力石) 
報土寺=赤坂駅(雷電為右衛門の墓にある力石)
成子天神社=西新宿駅 ④鉄砲州稲荷神社=八丁堀駅

右端の絵は杉並区荻窪・田端神社絵馬です。

うーれしいな、うれしーな!
力石もいよいよメジャーになってきたか!

嬉しさついでに、大サービス。
江戸庶民がつくった力石と力持ちの川柳・雑排をご紹介します。
力石がいつもそばにあった庶民の暮らしに、思いを馳せていただければ…。

   今ちっと 端からきばる 力もち (文政七年。手引草)

   すゞみ場で 汗かいて見る ちから石 (元文五年。銀の月)
 
さて、上記の冊子とは別に、
六年前にも力石を紹介してくださっていた冊子がありました。

こちらです。「パトス」といいます。
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日清ファルマの製品を購入したら、毎回、無料で送ってくださったのです。
表紙はいつも安野光雅さんの絵。
それがまた楽しみでもあり、心が和みました。

この冊子も歴史、自然、美術・音楽、職人さんの記事満載。
特に芸術に関しては内容が秀逸です。
その中に、
「むかしむかし 伝説の跡を訪ねて」という連載記事があって、
そこに力石を何度か載せてくださっていたのです。

その一つがこちら。
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東京都葛飾区東新小岩・上小松天祖神社

この神社には16個も力石があります。
で、特筆すべきは、左下の写真の真ん中の石です。
これは「小松川の力持ち連中」6人が、明治29年に奉納した句碑で、
こんな句が刻んであります。=区登録有形民俗文化財=

   名をあげて 若き力の 花納(はなおさめ)

血気盛んな若いころ、みんなで担いだ思い出の力石を無事奉納できた。
その喜びが石に刻まれたのです。

嬉しいですねぇ。
そんな句とともに、「パトス」さんや「メトロウォーカー」さんが、
力石をこんなふうに取り上げてくださった。

東京のみなさーん、
これらの冊子片手に、ぜひ力石会いに行ってくださいね!


※参考文献・画像提供/「メトロウォーカー・秋号」東京地下鉄株式会社
               企画制作 KADOKAWA「MetroWalker」編集部
               2018
               /「パトス」(株)ポリッシュ・ワーク パトス編集部
                2012年1月
※参考文献/「川柳雑排 江戸庶民の世界」鈴木勝忠 三樹書房 1996
        /「東京の力石」高島愼助 岩田書院 2003

ただ今、「傷だらけの人生」中

「勝ちゃん」も「徳蔵」もいなくなったけれど、
「徳蔵物語」はしぶとく、もうちょっとだけ続きます。
なので、今しばらくお付き合いくださいませ。

実は私、台風一過の超秋晴れの日に、背中を肉離れさせてしまいまして。
抜けるような青空に、さん然と輝く太陽を見た途端、
洗濯だァー!
となって、よせばいいのに布団を洗濯機へ放り込んだ。

言い訳になりますが、これよりちょっと薄めのはOKだったのです。

そのちょっと厚めの布団、洗濯槽の中で身動きが取れなくなって、
それで、
水をたっぷり含んだ固まりをムンズと掴んでエイヤ!と引っ張り出したら、
背中がメリメリバリリ。

ちょっと前にお医者さんから、
骨粗鬆症もない、椎間板も異常なしのお墨付きをいただいたので、
その気になって若ぶって、ああ…。

バカだねえ、私って。
で、湿布貼り貼り、ちょいと世間の様子に目をやったら、
長崎と離島を結ぶ定期航路の会社が倒産しちゃって、
みなさん、困ってた。

♪ 「古い奴だとお思いでしょうが…
   ……
   生まれた土地は荒れ放題 
   今の世の中 右も左も真っ暗闇じゃござんせんか」

昔、先生から聞いたこんな話を思い出した。

「過疎の村にも鉄道があるのはなぜだかわかるか?
それは国有鉄道だからなんだよ。

乗る人が少なくて採算が合わなければ、
その分は都会の儲かっているところが助けてあげる。
それで日本中の人が平等に暮らせているんだよ」

「日本の郵便局はどんな山の中へも配達をする。
それで日本中の人がみんなつながっているんだ」

子供心にものすごく納得した。

でもその国鉄も郵便局も民営化されて、
利潤第一、儲からなければ潰れて当然になってしまった。

思えば、国が日本中の人を平等に扱ったおかげで、
どこに住もうが、みんな同じ幸せや便利さを共有できていた。
あああ、それなのに、今は「競争だ」「切り捨てろ」とけしかけるばかり。

グローバル経済とか勝つテクニックとか金目の話や得する生き方とか、
そういう社会って、もういいや。

♪ 何から何まで真っ暗闇よ
  筋の通らぬことばかり
  右を向いても左を見ても ばかと阿呆のからみあい

♪ 「なんだかんだとお説教じみたことを申してまいりましたが、
   日陰育ちのひねくれ者
   お天道さまに背を向けて歩く… 馬鹿な人間でございます」

これ、「傷だらけの人生」という大昔の歌なんです。
鶴田浩二という人が歌っていました。

背中の肉離れってのは夜、布団に横になるのが恐いんです。
屈んでスッキーン、身を横たえてズッキーン 寝返り打つたびズッキーン

古い奴だとお思いでしょうが、
「布団を背にして眠られない… 馬鹿な人間でございます」 
  

勝ちゃん逝く

運命はあまりにも早い時期に彼を死の世界へ呼び寄せてしまった。
さだめし生きたかったであろう。
まだいろいろとこの世に未練もあっただろう。
それを思うと友の心は察するにあまりある」

よき後輩、よき友として、
ウエイトリフティング創設期を共に歩んできた飯田勝康の突然の死に、
井口幸男は慟哭した。

「選手を甘やかしすぎるという批難も一部にはあったが、
彼は自己の意志を変えることはなかった。

相手の気持ちをうまく捉え、硬軟自在、千変万化の中に、
自分の意のごとく進ませ得る手腕を彼は心得ていて、
それで世界的チャンピオンを育て上げた」

現役時代の飯田勝康です。天皇皇后両陛下の御前で。
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「それなのに、
これからますます敏腕を振るってもらわなければならないときに、
彼は突然若くして他界してしまった」

井口は著書の中で、「残念でならない」を繰り返す。

勝康がいつこの世を去ったのか、詳しいことは何もわかっていない。
井口が「若くして」と書いていることから、
昭和41年のタイ・バンコクでのアジア大会からほどなくのころか?
ならば、40歳そこそこで旅立ってしまったことになる。

勝康は「飯定組」の親分だった祖父・定次郎や父・隆四郎から
剛健な素質を受け継ぎ、
乳飲み子の時に別れた母からは優しく細やかな性格をいただいた。

父、母と。
喜代隆四郎一家 (3)

そして叔父で、大正・昭和を代表する力石の力持ち、
神田川(飯田)徳蔵の薫陶を受けて育った。
徳蔵は運送会社を経営するかたわら、力持ちの神田川一派を率い、
東都力持ち界の重鎮として活躍した人。

その徳蔵亡きあとは、
兄・一郎やいとこで徳蔵の息子の定太郎が勝康の大きな力になった。

井口はそんな勝康をこう評した。

「こうした血統からして、
重量挙の育成に尽くさなければならない宿命を背負った男」

勝康がいよいよ危篤状態になったとき、
「あれだけウエイトリフティングのために尽くされた飯田さんに
勲章をもらってあげるべきではないか」という友人たちの声に、
時の協会会長が尽力。叙勲の運びとなった。

「正六位勲五等双光旭日章」

叙勲の知らせは葬儀の日に届いた。
葬儀には三宅選手を始め、自衛隊の方々が大勢参列したという。

井口幸男の脳裏には、バンコクの宿舎で二人だけで、
メザシとキムチを肴にウイスキーを飲みつつ語りあった日のことや、
得意の「黒田節」を歌った勝ちゃんの姿が浮かんだのではないでしょうか。

この写真は、足元に力石を置き、楽しげにバーベルを持つ徳蔵です。
徳蔵は、日本政府が海外から初めてバーベルを購入する13年も前に、
すでに手に入れていたのです。

幸龍寺バーベル (3)

2年後には東京オリンピックが開かれます。
ウエイトリフティングのみなさん、きっと活躍されることでしょう。

そんなみなさんへお願いです。

力石をバーベルに持ち替えて、
ウエイトリフティングという新しい世界に果敢に挑戦し、
自ら朝鮮の重量挙大会に出場した徳蔵

「馬鹿力を出すだけのもの」と蔑まれ、
肩身の狭い思いをしていた若者たちに、私費を投じて道場を建てた。
井口幸男もその道場で汗を流した一人だった。

すべては遠い昔のことだけれど、
力石の徳蔵なくして、バーベルの勝康は生まれなかった。

そしてこの新興スポーツに挑んだほんの一握りの先人たちの、
長い長い苦難と地道な努力があって今があります。

そのことに、ほんの少しでも思いを馳せていただければ、と。



※参考文献・画像提供/「わがスポーツの軌跡」井口幸男 私家本 昭和61年
※画像提供/徳蔵・定太郎アルバム
プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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