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「力」でつながる

はじめに
 
井口幸男氏の著書「わがスポーツの軌跡」の引用にあたり、
ひと言お伝えしておきます。

日本重量挙理事長を24年間務め、
オリンピックなどの監督として数々の業績を残した井口氏ですが、
日本ウエイトリフティング協会を通じて、ご子孫を探していただいたものの、
見つかりませんでした。

やむを得ず、そのまま写真等使わせていただくことをお許しください。
もし、ご子孫や関係者の方がこのブログをご覧になりましたら、
ご一報いただけたら有難く存じます。

天皇・皇后両陛下に競技解説を申し上げる井口幸男氏(右端)

img044_20180702192816d44.jpg
昭和40年10月、岐阜県土岐市国体にて

神田川(飯田)徳蔵ら3人が戦前の昭和7年、重量挙大会出場のため、
今の韓国ソウルへ渡ったことは以前書きました。
そのきっかけが雑誌「キング」に載った怪力の若木竹丸だったことも。

そのころ井口が学んでいた体育会体操学校(現・日本体育大学)に、
徳蔵たちを招待した徐相天の門弟・元喜得がいた。
 
 ※徐相天氏は体育会体操学校出身。卒業後は帰国して教師に。
   ヨーロッパから重量挙げの知識や道具を導入して韓国内に広めた。
   韓国ウエイトリフティングの草分けとなった人物。

「その徐氏から元君へ(徳蔵たちの)旅費80円が送られてきた」

そのお金を届けるため井口の二人は若木の湯島の家を訪れます。
そこには大きな鉄アレイとともに大小さまざまな鉄の塊りが置かれていて、
若木はその鉄の中に埋もれるようにあぐらをかいていた。

「そこに集まっていた人の中に、
飯田定太郎君の父・飯田徳蔵氏がおられた」

そのころの徳蔵です。
img032_20180702202911777.jpg

若木は仰向けに寝て頭上に腕を伸ばし、その手のひらの上に
徳蔵(90Kg)を立たせて、軽々と胸の上で挙げて見せた。

徳蔵について井口はこんなことも書いています。

「徳蔵氏は石差しでは日本一の方であった。
重い石を相手に鍛錬されたその怪力のほどは、
今の人に話してもわからないし、見てもらうこともできないのが残念である。
当時、飯田徳蔵氏ほど強い人はいなかった」

先祖に八重垣という相撲取りがいたという井口家。
そこに生まれた井口も幼いころから「力」への憧れがあって、
を差し上げたり、を担いだりして鍛えたという。

この写真は、昭和12年の日中戦争勃発で召集された井口が、
中国力石「チューコーロ」で練習しているところ。

石にあいた穴に棒をさしてバーベル代わりにしています。

img046.jpg
北支・ベーリンンソン集落の駐屯地にて

「北支戦線を2年3か月に渡り転戦。
生死の境をくぐりながらも、いずれ平和な時代がくることを信じて、
代用品で重量挙げの練習をした」

力石を使った著名人がもう一人います。
木村政彦という天才柔道家を育てた牛島辰熊という人です。

「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」(増田俊也 新潮社 2011)
といういささかショッキングなタイトルの本に、
牛島夫人の話として、
「(夫は)松の根元に置いてある三貫目くらいの力石を、
30回も40回も持ち上げていた。これを稽古石(けいこいし)と呼んでいた」

そしてこの牛島辰熊はウエイトトレーニングの重要性を知り、
若木竹丸のところでトレーニングを受けていたそうです。

みんな、「力」つながっていたのです。


※前々回、「出来上がった自著をちょっと恥ずかしげに配っている井口氏の姿が
 ほうふつとしてくる」と書きましたが、「スポーツ人名事典」によると、
 井口氏は本発行の前年の昭和60年9月に亡くなっておりました。

※参考文献・画像提供/「わがスポーツの軌跡」井口幸男 私家本 昭和61年

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プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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