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熱心なり

神田川徳蔵物語
07 /30 2018
☆末尾に私からのお願いを書きました。
どうぞよろしくお願いいたします。

    ーーーーー◇ーーーーー

日中戦争激化で返上した「オリンピック東京大会」
そのかわりに、
「国民精神作興体育大会」を開催したことは前回述べた。

その翌年の昭和14年(1939)2月4日、
日本重量挙競技連盟は、
結成して初めての連盟主催の大会を開催。

これは各倶楽部対抗の重量挙げの競技で、
なんと、飯田徳蔵が立ち上げた「神田川倶楽部」優勝したのです。

そのときの記念写真です。

大会第一回

写真に、徳蔵の一人息子の定太郎、甥の一郎、その弟の勝康がいます。

あと二人、倶楽部のユニフォームを着た人が見えます。
賞状の中に書かれた栃木四郎三輪謙蔵と思われます。

前列、背広姿は誰なんだろう?
その隣りのメガネの男性は中国人のような…。
三島氏に木製のバーベルを贈った政治家・汪兆銘氏の関係者か?

その隣に立つ背広の人物は、連盟会長の三島氏に似ているような…。

そのときの賞状優勝カップです。

優勝カップと俵上げ (4)

神田川倶楽部 
飯田一郎 栃木四郎 三輪謙蔵 飯田勝康 飯田定太郎
右者 連盟主催第一回重量挙倶楽部対抗競技大会ニ於テ
第一位ヲ獲得セリ。仍茲ニ之ヲ賞ス

昭和十四年二月四日 日本重量挙競技連盟会長 
子爵 三島通陽 印」

三島氏の当時の日記にこんな記述があります。
神田川倶楽部が優勝した日のことです。

 「昭和十四年二月四日
 夜、重量挙対抗競技会へ出席する。
 関係者一同いつもながら熱心なり

 「二月十四日
 夜、重量挙の連中を華族会館へ招く。
 五百人のパーティになって、初めは断られそうになったのを、
 無理にやったが、なかなかの盛会、愉快であった」

当時、こういう競技大会は夜、行われていたのですね。
その二か月後の日記に、こんな記述がありました。

 「四月十五日
 夕方から重量挙大会あり。挨拶をして競技を見て帰る」

そのときの競技というのがこれです。

「重量挙種目別大会」。写真は「俵差し持久」

img026_20180729222507421.jpg
昭和14年4月16日。東京日日新聞

マイクロフィルムが劣化していて、ご覧の通りの状態ですが、
かろうじて飯田一郎や定太郎の名が読み取れました。

新聞の見出しは「俵差しなどで初大会賑わう」とあります。

そして同じ年の11月の日記には、
当時日本に併合されていた朝鮮の南寿逸選手が、
世界記録を樹立したときの感激が綴られていました。

 「十一月二日
 一時半、外苑競技場に秩父宮殿下お成り。感激の大会なり。
 涙ぐみつつ拝観す。四時還御。
 急いで昭和小学校へ行けば、五時半に秩父宮殿下お成りとの報あり。
 皆光栄に感激す。

 殿下台臨のもと、南選手堂々と世界記録を破り、嬉しかった


※参考文献/「わがスポーツの軌跡」井口幸男 私家本 昭和61年より
         「重量挙協会創立当時の思い出・三島通陽令嬢昌子氏執筆」

     ーーーーー◇ーーーーー

☆諸行無常さまから、
現在でも行なわれている「俵差し」の情報をいただきました。
 
●福岡県立東筑高校
●熊本県立東陵高校 

両校では、体育大会に「俵差し」を行なっているとのことです。
同校関係者様や生徒さんなど情報をいただけたら有難いです。
またほかにもありましたら、ご一報をお願いいたします。

兵庫県龍野市の「龍野の俵上げ」に出場した
浪速の力持ち、「浪速の長州力」さんです。

龍野
浪速の長州力さん(兵庫県在住)提供 
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桃太郎の鬼退治

神田川徳蔵物語
07 /25 2018
末尾に「雷電の力石」を載せました。
☆「雷電石」の追加です。

    ―ーーーー◇ーーーーー

幻となった「オリンピック東京大会」のかわりに、
国は「国民精神作興体育大会」を、昭和13年(1938)に開催します。

徳蔵の一人息子の飯田定太郎も友人の南治作と参加。

写真は、徳蔵がつくった「神田川道場」・
「神田川倶楽部」のユニフォーム姿の定太郎です。

定太郎3 (3)

重量挙の演技をする定太郎

定太郎3

「作興(さっこう)」とは、「心を奮い立たせる」という意味です。

大日本帝国は中国大陸、アジアへと侵攻し、
さあ、これからは「鬼畜米英」相手に戦争を拡大していかなければならない。

「国民よ、今こそ大和魂を奮い立たせ、
一丸となって、これに立ち向かおうではないか」というわけです。

当時のこんなが残っています。

♪首都南京はついに落つ
 焼けた砲銃(ほづつ)の手を止めて
 にっこり笑めば隊長も
    (略)
 皇軍大捷万々歳  「皇軍大捷の歌」


政府は「徐州作戦」「武漢三鎮攻略」「広東攻略」と次々に計画。

連戦連勝、イケイケドンドンと新聞も煽る。

しかし、国内は火の車。ガソリン不足で車の燃料は木炭

img056_201807250909463af.jpg

戦後ずっとあとになっても、私の田舎では木炭バスが走っていた。
家の飼い犬が坂の途中でいつも寝ていて、
坂の下からあえぎあえぎ登ってきたバスがクラクションを鳴らしても
知らん顔。

バスは犬の直前で動かなくなる。
するとそれを見越したかのように、犬は「めんどくせーなァ」とでもいうように、
やおら起き上がり大きく伸びをした。

バスから立ち上る水蒸気。運転手が曲がった鉄の棒を回してエンジンをかける。
ガガガッとエンジンがかかり、バスは車体をブルブル震わせながら、
エンヤラ、どっこいしょと坂を上りきった。

やがてガソリンバスが走り出すとその勢いに恐れをなして、
犬は坂道の途中で寝るこの習慣をパッタリやめた。

さて、
こちらは「精神作興体育大会」のメダルです。

img054_201807250922581ab.jpg

図柄は桃太郎
桃太郎の「鬼退治」「鬼畜米英の成敗」をかけたものだそうです。

従軍して現地へ赴いた作家の林芙美子は、
長江の沿岸にひるがえる日章旗を見て感激して、
「涙せきあえず」となったが、

こんな竹やりでは、いくらなんでも勝ち目はない。

この7年後の昭和20年には全面降伏となり、大日本帝国は崩壊。、
林芙美子も感激の涙を悲歎の涙に変えるしかなかった。

img412_20180725093925b84.jpg

当時は、永平寺のお坊さん相撲取りもみんな兵隊になった。

日本ウエイトリフティングを草創期から支えた井口幸男
その井口のライバル、中島寅男も戦場へ狩り出された。

その数年後、飯田定太郎にも召集令状が届いた。


※参考文献・画像提供/「飯田徳蔵子孫
              /「眼で見る昭和」朝日新聞社 昭和50年
              /ブログ「japanese old art medal」

          ーーーーー◇ーーーーー

ブログ「平成の世捨て人」のone0522さまからいただいたコメントの
「雷電の力石」をご紹介します。

雷電為右衛門墓前に置かれた力石。右は雷電の手形と伝えられている石。
img057_20180728154323621.jpg img057 (2)
いずれも東京都港区赤坂・報土寺

長野市にある「雷電の力石」
橋の架け替えで不要になった石を雷電が神社まで運んだとの伝承がある。
この石の上に子供を立たせると、丈夫に育つといわれている。

img058_20180728154935917.jpg
長野市東町・武井神社

      ーーーーー◇ーーーーー

諸行無常さまから情報をいただきました。
「雷電石」の追加写真です。

左は雷電生家の「雷電の鋤石」
雷電が畑の行き帰りに鋤の先につるして歩き、体を鍛えたという伝承の石。

右は「道の駅・雷電くるみの里」の力石。
旧大石集会所にあったもので、雷電由来の力石かは不明。

img059 (3) img059.jpg
いずれも長野県東御市。「長野の力石」高島愼助 岩田書院 2014       

スポーツの軍国化

神田川徳蔵物語
07 /22 2018
日本ではまだあまり知られていなかった重量挙が、
「ふさわしくないスポーツ」とされて、
体育大会から除外されことは前回書いた。

除外されたのは、知名度が低いからだけではなかった。

時代が第二次大戦へと向かい、日本が軍国主義国家になったため、
スポーツまで軍国化していったからだと、
「国立競技場の100年」の著者、後藤健生氏はいう。

「戦時色が増すにつれ、1930年代半ばごろから、
西洋の近代スポーツは否定され、日本精神が求められて、
日本古来の武士道を尊重するようになった。
それまではリベラルなスポーツ大会だった明治神宮大会も、
変質していった」

このころ、小学生にまで木製を持たせて「戦技訓練」を始めた。
こどもたちはみんなはだしです。

img055_201807210906409e3.jpg

「そのため、
日本古来の剣道、柔道、撃剣、槍術、相撲、馬術などが推奨され、
ボクシングやフェンシング、レスリングなどは、
「不要なスポーツ」という烙印を押された」

「競技種目にはさらに陸軍の提案で、「行軍競争」「手りゅう弾投てき突撃」
などの「国防競技」「集団主義」が加わった」

「こうした中、敵性スポーツとして批判を浴びた野球は、
自己保身のため、アメリカ生まれのハイカラなイメージから、
武士道精神を強調するスポーツへと変身。

現在の甲子園の高校野球に見る軍隊調の行進や選手たちの坊主頭
集団主義・自己犠牲が過度に強調された様子、
早いイニングから犠牲バントやスクイズの多用などに、
戦時下の片鱗を見ることができる」

今年、甲子園出場校の北海道の高校では丸刈りはやめたとありましたね。
戦後73年もたっているのに、それがニュースになるのだからすごい。

今じゃ、スポーツドリンクまであって「飲まなきゃ死ぬぞ」が常識だけれど、
子供のころは、マラソンのときでも先生はこう言った。
「水は飲むな。飲むと体に悪い」

その本当の理由は、
戦地で兵隊に充分水を支給できないことへの言い訳だった。
それが公然と暴露され始めたのは、昭和の終りごろだった。ひどい話だ。

戦争の影響って、一度沁みこんだら何十年も生き続けるってことか。

さてこの時期、徳蔵の息子の飯田定太郎(写真左。右は南治作)も、
こうした日本精神を強調した大会に参加しています。

南治作飯田定太郎 南治作飯田定太郎裏書

写真の裏にはこう書かれています。

「昭和拾参年拾壱月六日 国民精神作興体育大会 
最終日 閉会式後 神保町角ノ写真屋ニテ写ス 
南治作 飯田定太郎 十七才

大会は昭和13年(1938)11月に行われた。

この半年まえの4月に日本政府は、
すべての国民が戦争遂行に協力しなければならないという
「国家総動員法」を発布。

そしてこの年、2年後の昭和15年(1940)7月に開催の予定だった
オリンピック東京大会を日中戦争激化で返上した。

そのオリンピックの代わりに行われたのが、
この「国民精神作興(さっこう)体育大会」だったのです。


<後半は次回へつづく>


※参考文献/「国立競技場の100年」後藤健生 ミネルヴァ書房 2013
※画像提供/「写真で見る体育・スポーツ百年史」上沼八郎 日本図書センター
         1974
        /飯田徳蔵子孫

父に自分を重ねて

神田川徳蔵物語
07 /19 2018
昭和12年、井口らの念願だった「日本重量挙連盟」が誕生した。

しかし、世間からは「特殊なスポーツ」と見られ、
第12回明治神宮国民体育大会では、卓球などと共に、
「ふさわしくない競技」として除外された。

井口幸男の著書「わがスポーツの軌跡」には、
重量挙に対する世間からの容赦ない言葉が随所に出てくる。

馬鹿力を出すだけのもの」
「重いものを持つだけの単純なスポーツ

そんな中、貴族院議員の三島通陽氏が初代会長を引き受けてくれた。

家族から「重量挙とはおよそ縁遠い人が、どう考えてもおかしい」
と言われて、
「日本にはまだ重量挙の歴史がないのだから、
おかしな会長と思われても仕方がないさ。いまに立派な選手が生まれて、
その人たちの手で本当の運営がされる日がくるまで、
自分はその下地を作るのだからね」と。

写真は、
中国の政治家・汪兆銘氏から贈られた木製のバーベルを挙げる三島氏。
娘たちに「重量挙でなくて、軽量挙ね」とからかわれた。

img053.jpg
昭和15年5月

だが、三島氏は戦後、農地法によって資産を失い会長を退いた。

重量挙が置かれた状況は、戦後になっても変わらなかった。
昭和34年、
全国高体連・重量挙部の優勝校へ高松宮殿下が優勝旗を下賜。
そのお礼にうかがったとき、殿下からこんなお尋ねがあった。

あんなものは止めたほうがよいではないか。
あのような大きな筋肉をつけて一体何になるのかなあ。
仕事に差し支えないか」

それに対して、井口が、

若い時代には、あのような筋肉に憧れを持つ時期がありまして、
鍛錬に従って筋肉が隆々として参りますことが、
本人にとりましては楽しみの一つでございます」

と「お答え申し上げたところ、殿下はお笑いになっておられた」という。
のちに井口は著書の中で、こんな感想をもらしている。

「当時世間では重いものを持ち上げる動作や愛好者に対して、
嘲笑、罵倒、陰口をたたくという、実に埋もれた時代であった。
今日の発展を思うと、御下賜旗のことが偲ばれ、感慨ひとしおです」

しかし、バーベルの一つ前の力石の時代に生きた徳蔵は、
「見世物」「下層階級のやるもの」などという
井口ら以上の心ない蔑視や陰口をたくさん受けていたはず。

下の写真は、神田川米穀市場・帳場前の神田川(飯田)徳蔵です。

足元に力石、手にバーベル。
「力石からバーベルへ」の過渡期と、
徳蔵がその中心的役割を担ったという象徴的な写真です。

幸龍寺バーベル (2)

「たかが見世物」などと蔑視を受けたはずなのに、
アルバムに残された写真には、そんな卑屈さは微塵もない。
写真の中の徳蔵と仲間たちは、いつでもどこでも自然体で、
心底楽しげに、誰もが満面の笑顔で石挙げに興じている。

そんな徳蔵を井口はこう評価する。

「力石を相手に汗を流して力技を披露し、同好の士に酒をふるまう。
それが楽しくてしょうがなかったと聞かされて、
私はこの中にこそ真のアマチュア精神があると思い、
実に気持ちのよい話だと、微笑ましく拝聴した」

徳蔵が重量挙げの道場をつくり、そこで練習する井口たちへ
「強くなれよ」と激励したのも、世間からの「嘲笑、罵倒、陰口」を
自ら体験しているからこそ、と、私には思えてなりません。

バーベルを挙げる徳蔵の一人息子の定太郎です。
道行く人たちが珍しそうに見ています。

少年

この写真は、先に載せた「帳場前の徳蔵」の写真の下に隠されていたという。
それを発見したとき、徳蔵縁者のEさんはこんなことを思ったそうです。

父の姿に自分を重ねたのだろうか。
定太郎さんの思い を見た気がした」


※参考文献・画像提供/「わがスポーツの軌跡」井口幸男 私家本 昭和61年
               飯田徳蔵子孫所有のアルバム

相撲力士と力持ち力士

神田川徳蔵物語
07 /16 2018
ネットにこんなのが出ていた」と知人が知らせてくれた。

それは、
「昭和の怪物・若木竹丸を語れ」と題した掲示板の記事で、
竹丸自身の談話として、こんなふうに書かれていた。

「ある日、世界一と自称する外国の力持ちが、
出羽海部屋で相撲取りと力比べをやるという新聞記事を読んだ。

そこで、もし外国人に負けるようなことがあれば、
国技たる相撲の名誉を傷つけるであろうから、
ぼくが下っ端力士に化けてその外国人と闘おうと協会に申し入れた。

当日、48貫800目の鉄アレイをひっ下げ、
神田川徳蔵氏と飯田一郎君を連れて相撲部屋へ行った。
そのアレイを持って土俵上で寝ざしを披露したら、力士たちも唖然。

若木竹丸の寝ざし。徳蔵の神田川道場にて。
徳蔵アルバム説明2 (5)

かたや外国人力持ちは背中にビール瓶をはさんでそれに紐をつけ
力士に引っ張らせるというただの曲芸だったため、
力比べは無為に終わった」

出典が書かれていないので真偽のほどはわかりませんが、
「翌日の新聞にそのときの写真が出た」とありますから、
徳蔵さん、出羽海部屋へ行ったのかもしれません。

こちらは正真正銘、
相撲の高砂部屋で稽古を見ている力持ちの鬼熊です。

「改正相撲高砂稽古場之図」蜂須賀(歌川)国明。3枚の内の1枚。
img052_20180715081616ff6.jpg

上段右端で腕組みをしているのが鬼熊です。

鬼熊は幕末から明治初期に活躍した力持ちで本名・熊治郎。
豊島屋酒店のタルコロ(酒樽を転がして運ぶのでこう呼ばれた)で、
東京・浅草寺の「熊遊」など20個の力石を残して、明治18年に没した。

鬼熊の隣りの力士は「神田川」
幕末にこういう四股名の力士がいたんですね。

徳蔵が残したアルバムに、
「昭和5年、立浪部屋に入門した三木健一君。力名・神田川」がありましたが、
しかし、三木少年の四股名は「神田川」ではなく「國ノ花」だった。
この「鬼熊神田川が並んだ図」が、徳蔵の中に願望としてあったのかも。

こちらは嘉永7年(1854)正月のペリー来航のときの瓦版です。
アメリカ側からの土産に対してそのお返しはお米。
力持ちたちが米俵を乱暴に投げ込んでいます。

この瓦版(新聞)は、
「物流の父」平原直氏が古道具屋で手に入れたものだそうです。

img051_20180715084535626.jpg

ここにも「鬼熊」がいます。

「ベースボールマガジン社」編集部の門脇利明氏から
この絵に登場する力士たちの地位など教えていただきました。
なお上記の錦絵の情報も門脇氏からです。

右から、
荒馬吉五郎  
  =西前頭筆頭。最高位は関脇。嘉永7年5月18日、46歳で現役死亡。
雲龍久吉
  =東前頭筆頭。柳川藩抱え。のちの横綱免許。年寄り追手風。
鬼熊
長谷川忠吉(のちの年寄放駒)
  =西二段目7枚目(現在の十両)。幕内に入らず終わった。
象ケ鼻灘五郎
  =西前頭4枚目。丸亀藩抱え。のち小結平石七太夫。
    引退後は大阪相撲に戻り頭取(大阪相撲での年寄りのこと)朝日山。
小柳常吉
  =大関。引退後、年寄二代阿武松常吉。安政5年3月、40歳で没した。

平原氏は著書の中で、このときの幕府を辛辣に批判しています。

「アメリカのおどしにムキになって肩をはってみせた。
その道具に、日本人の力持ちを活用した。
日本人は米俵を一人で3俵も4俵も持ち上げることができるが、
お前たちアメリカ人は1俵でへたばっているじゃないか」と。

でもまあ、昨今みたいに、
むやみやたらとアメリカさんにスリスリするのも、

なんだかなぁー

     
        ーーーーー◇ーーーーー

「力士」の呼称について、門脇氏からご教示いただきました。

「力士という呼称は、
明治時代は、主に力持ちに使われていたことが多かったように思う。
新聞には相撲取りの方は「相撲取り」と書かれていることが多かった。
相撲での「力士」の呼称は横綱常陸山が広めたのではないかと思っている」

常陸山谷右衛門(1874~1922)
 父は水戸藩士。武士の魂を持ち続けた品格のある横綱だった。
 東京・亀戸天神社の力石を次々担いだという話もある。(wik)


※画像提供/国立国会図書館
        「人間の知恵」平原直 流通研究社 2000 

徳蔵、道場をつくる

神田川徳蔵物語
07 /13 2018
井口幸男飯田徳蔵より20歳も年下。
徳蔵の甥の飯田一郎や若木竹丸と同年代です。

その井口が徳蔵と初めて会ったのは、まだ体育学校の学生だったころで、
徐相天から預かった「朝鮮力道大会」への渡航費用を渡すため、
若木竹丸の家へ行ったときだった。

以来、井口はこの「力」大先輩を尊敬しつづけます。

井口たち若者が設立に奔走した「日本重量挙連盟」は、
昭和11年に全日本体育連盟の一組織として発足。
その翌年、念願の独立を果たします。
前途多難ながらも新しく船出したのです。

♪あなたッと呼べ~ば、あなたッと答える~
 山のこだ~まァのうれしさよー
 ”あなァた” ”なァんだい”
 空は青空ァ ふたりは若~い

なんて歌が流行っていたが、世の中は暗雲たれこめた第二次大戦前夜。
反乱軍となった青年将校たちが朝日新聞社を襲撃し、
閣僚たちを殺害するという二・二六事件が起きて世間を震撼させた。

そんな中、昭和11年にはオリンピック・ベルリン大会で、
前畑秀子選手(左)が200㍍平泳ぎで優勝します。

img048_20180712014821370.jpg

このとき、実況放送のアナウンサーが「前畑ガンバレ」を36回も連呼した。
それがのちの語り草になった。
水着といい体形といい、時代を感じさせます。後ろには着物の人が…。

日華事変が起きて、井口幸男が戦地へ召集されたのが翌12年。
この年は、
正月早々名古屋城の金のしゃちほこのウロコ58枚が盗まれるなど、
不穏な世情となります。一方、
5月には双葉山(26歳)が横綱になり日本中をわかせました。

強いだけではない。顔も姿もすごくきれいなお相撲さんですね。

img049_2018071201590668b.jpg

前畑選手も双葉山も日本中の人から注目されたが、
井口たちの重量挙げはそうはいかなかった。

「当時重量挙げは一般の人の関心はほとんどなく、
特殊なスポーツのように見られていた。
愛好者は十指にも満たなかった」という状況。

そんな中、徳蔵は朝鮮でこの新しい力技を体験したことで、
その重要性を悟り、私財を投じて秋葉原に重量挙げの道場をつくります。

「徳蔵氏は重量挙げの普及に奔走し、愛好者のために力を注がれた。
私たち(飯田一郎君、勝康君、定太郎君等々)は、毎晩のように
この道場へ通い、一生懸命練習した。
この狭い部屋の正面高くに神棚が祀られていたことを今でも思い出す」

井口のライバル・中島寅男を真ん中に、
徳蔵の甥の飯田一郎(左)と息子の飯田定太郎(右)

img050_20180712022141217.jpg

井口は40数年たってもそのときの恩を忘れず、こんな回想を残しています。

「徳蔵氏はときどき練習場へ顔を出しては、
強くなれよと激励されたが、
その顔が今もまぶたに浮かびます」


※画像提供/「写真で見る体育・スポーツ百年史」上沼八郎 日本図書センター
         2015
        「眼で見る昭和」朝日新聞社 昭和47年
        「わがスポーツの軌跡」井口幸男 私家本 昭和61年

「懐かしい飯田家」

神田川徳蔵物語
07 /10 2018
日本重量挙界の草分け、井口幸男が亡くなったのは、
平成五年(1993)、81歳だった。

井口が「人生のほとんどを占めた」重量挙げの生涯を、
「わがスポーツの軌跡」と題して自費出版した。

本に挟んであった「謹呈」にはこう書かれていた。

「老境に至り、重量挙げの歴史を書き残すことを思い立ち、
昔日のありし日の記憶を辿りつつ書き上げた次第です。

後日重量挙げの編纂史が企画されることにでもなれば、
参考の一助になると思います」

井口の生涯を見ていきます。

戦地から帰還した翌年の昭和15年、
井口は慶応義塾普通部へ教員として就職。
そのころの井口氏です。

戦時中で高価な用具が買えないため、トロッコの車輪を使った。
img047_2018071007025995d.jpg

井口が著書の中で、たびたび触れているのが飯田家との交流です。

本の小見出しに「懐かしい飯田家」と付けたのも、
それだけ、この一族とは強いきずなをもっていたからでしょう。
こんなことが書かれていました。

「神田の秋葉原には都民の米の集積所があった。
そこには古いのれんを持つ飯定組があり、
飯田徳蔵氏はその元締めで、
多くの人夫を使って集積所の仕事をされていた。

徳蔵氏は暇さえあれば、子分を連れてどこへでも出かけて行き、
その土地にある名代の力石を次から次へと差し上げたという。
そして最後に残った横綱石を征服すると、介添え人に命じて石屋に頼み、
自費でその日の年月日と自分の名を刻みこませ、
神社仏閣に奉納したと聞かされた」

井口が慶応義塾へ就職した昭和15年は、
神武天皇の即位から2600年目にあたる「紀元節」として、
各地で祝賀の行事が盛んに行われた。

徳蔵も「紀元節」を祝う力石を奉納しています。

CIMG3852 (4)
東京都千代田区神田須田町・柳森神社 100余×68×24㎝

  「百度石 皇紀二千六百年建立 
        神田川徳蔵 大工町惣吉 足受」


※参考文献・画像提供/「わがスポーツの軌跡」井口幸男 私家本 昭和61年

「力」でつながる

神田川徳蔵物語
07 /04 2018
はじめに
 
井口幸男氏の著書「わがスポーツの軌跡」の引用にあたり、
ひと言お伝えしておきます。

日本重量挙理事長を24年間務め、
オリンピックなどの監督として数々の業績を残した井口氏ですが、
日本ウエイトリフティング協会を通じて、ご子孫を探していただいたものの、
見つかりませんでした。

やむを得ず、そのまま写真等使わせていただくことをお許しください。
もし、ご子孫や関係者の方がこのブログをご覧になりましたら、
ご一報いただけたら有難く存じます。

天皇・皇后両陛下に競技解説を申し上げる井口幸男氏(右端)

img044_20180702192816d44.jpg
昭和40年10月、岐阜県土岐市国体にて

神田川(飯田)徳蔵ら3人が戦前の昭和7年、重量挙大会出場のため、
今の韓国ソウルへ渡ったことは以前書きました。
そのきっかけが雑誌「キング」に載った怪力の若木竹丸だったことも。

そのころ井口が学んでいた体育会体操学校(現・日本体育大学)に、
徳蔵たちを招待した徐相天の門弟・元喜得がいた。
 
 ※徐相天氏は体育会体操学校出身。卒業後は帰国して教師に。
   ヨーロッパから重量挙げの知識や道具を導入して韓国内に広めた。
   韓国ウエイトリフティングの草分けとなった人物。

「その徐氏から元君へ(徳蔵たちの)旅費80円が送られてきた」

そのお金を届けるため井口の二人は若木の湯島の家を訪れます。
そこには大きな鉄アレイとともに大小さまざまな鉄の塊りが置かれていて、
若木はその鉄の中に埋もれるようにあぐらをかいていた。

「そこに集まっていた人の中に、
飯田定太郎君の父・飯田徳蔵氏がおられた」

そのころの徳蔵です。
img032_20180702202911777.jpg

若木は仰向けに寝て頭上に腕を伸ばし、その手のひらの上に
徳蔵(90Kg)を立たせて、軽々と胸の上で挙げて見せた。

徳蔵について井口はこんなことも書いています。

「徳蔵氏は石差しでは日本一の方であった。
重い石を相手に鍛錬されたその怪力のほどは、
今の人に話してもわからないし、見てもらうこともできないのが残念である。
当時、飯田徳蔵氏ほど強い人はいなかった」

先祖に八重垣という相撲取りがいたという井口家。
そこに生まれた井口も幼いころから「力」への憧れがあって、
を差し上げたり、を担いだりして鍛えたという。

この写真は、昭和12年の日中戦争勃発で召集された井口が、
中国力石「チューコーロ」で練習しているところ。

石にあいた穴に棒をさしてバーベル代わりにしています。

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北支・ベーリンンソン集落の駐屯地にて

「北支戦線を2年3か月に渡り転戦。
生死の境をくぐりながらも、いずれ平和な時代がくることを信じて、
代用品で重量挙げの練習をした」

力石を使った著名人がもう一人います。
木村政彦という天才柔道家を育てた牛島辰熊という人です。

「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」(増田俊也 新潮社 2011)
といういささかショッキングなタイトルの本に、
牛島夫人の話として、
「(夫は)松の根元に置いてある三貫目くらいの力石を、
30回も40回も持ち上げていた。これを稽古石(けいこいし)と呼んでいた」

そしてこの牛島辰熊はウエイトトレーニングの重要性を知り、
若木竹丸のところでトレーニングを受けていたそうです。

みんな、「力」つながっていたのです。


※前々回、「出来上がった自著をちょっと恥ずかしげに配っている井口氏の姿が
 ほうふつとしてくる」と書きましたが、「スポーツ人名事典」によると、
 井口氏は本発行の前年の昭和60年9月に亡くなっておりました。

※参考文献・画像提供/「わがスポーツの軌跡」井口幸男 私家本 昭和61年

力石の記録映画

神田川徳蔵物語
07 /01 2018
先週末は東奔西走
おまけに東京からの帰路、な、なんとカメラを紛失。

あせりまくりました。

その日は、徳蔵縁者のEさん3姉妹と埼玉の研究者・斎藤氏と一緒に、
東京・品川区にある物流博物館を訪問。

斎藤氏とは2度目、Eさん3姉妹とは初体面。
待ち合わせ場所にあらわれた3姉妹の若さにまずびっくり。

だって力石に興味を持つ方のほとんどは年配者で、女性は皆無ですから。
美人揃いの姉妹が、これまたとびきり明るく元気で、
終始、華やいだ雰囲気になりました。

物流博物館は日本通運(株)の協力で、平成10年(1998)に開館した
「物流」に関する専門博物館です。

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東京都港区高輪 ☎03-3280-1616 JR品川駅高輪口より徒歩7分

私たちがここへやってきたのは、
「物流の父」といわれた平原直氏制作の記録映画を見るためです。
この博物館には物流に関する記録映像がたくさん保管されていて、
大型スクリーンや個室で見られるようになっています。

学芸員さんの解説つきで上映が始まりました。

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始まってすぐ、声があがりました。

「あ、歌石! ほら右のあの石」
「ほんとだ!」
「これ、秋葉原駅前の、あれだよね、あれ」
「そうそう、古谷野さんがやった祭りだ」
「誉れの力石建立祭り!」

「東男(あづまお)の力を飾る祭りかな」と彫られた歌石は、
現在、神田川沿いの柳森神社にあります。

この祭りは、力持ち仲間の古谷野庫太郎神田川徳蔵を偲んで
昭和29年、秋葉原駅前の日本運輸倉庫で行ったものです。

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「あ、徳蔵さんの神田川だッ! ほら一番下に」
「どれどれ、あ、ホントだ」
「これ、秋葉原の祭りのイベント?」
「そうでしょ。さっきの場面に駅のホームが見えてた」
「いろんな組のはっぴが…」

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「平原アルバム」も見せていただく。

「あれは定太郎さんだよね」「そうそう」「若ーい!」
 ※紋付羽織姿の青年(青矢印)が徳蔵子息の飯田定太郎
この人は明治大学にウエイトリフティング部を作った人。

しばらくの沈黙のあと、突如、3姉妹がいっせいに、
「あ、おばあちゃんだッ!」

学芸員のTさん、斎藤氏、私は大笑い。
 ※左白矢印が3姉妹のおばあちゃんのおすみさん。
   おすみさんは徳蔵の妻・お千代さんの姉。

大きな箱ようのものを肩に下げた男性は、ラジオ局の人でしょうか。
その隣の胸にリボンをつけた方が、平原直氏です。

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流通経済大学寄託で物流博物館所蔵の「平原アルバム」より、
「誉れの力石建立祭り」の神事。

スクリーン上で64年前のおばあちゃんとご対面だなんて、本当に奇跡。
3姉妹のボルテージも最高潮です。

映画のあとはT学芸員さんが館内をご案内くださった。
和気あいあい。本当に楽しく有意義なひとときでした。

で、紛失したカメラです。
気付いたのは翌朝。どこで失くしたのかサッパリだったけど、
まずは新幹線車内かとJR東海へ紛失届を提出。

ご飯ものどを通らず、意気消沈したまま出勤。
ところがです。
届けてから5時間後、な、なんとJR東海名古屋から電話。

Eさんからいただいた豪徳寺招き猫さんのおかげでしょうか。

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あったんです! もう夢のよう。
神さま、仏さま、JR東海さまです。

で、仕事の帰り、通りがかったお菓子屋から、
「本日は福の日です。ふくもちはいかがですか」の可愛い女性の声。

二十九日の「ふく福」なんだそうで…。

もちろん買いましたよ。
ただの大福でしたけど、今日だけは特別おいしかった!

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞