熱心なり
神田川徳蔵物語
☆末尾に私からのお願いを書きました。
どうぞよろしくお願いいたします。
ーーーーー◇ーーーーー
日中戦争激化で返上した「オリンピック東京大会」。
そのかわりに、
「国民精神作興体育大会」を開催したことは前回述べた。
その翌年の昭和14年(1939)2月4日、
日本重量挙競技連盟は、
結成して初めての連盟主催の大会を開催。
これは各倶楽部対抗の重量挙げの競技で、
なんと、飯田徳蔵が立ち上げた「神田川倶楽部」が優勝したのです。
そのときの記念写真です。

写真に、徳蔵の一人息子の定太郎、甥の一郎、その弟の勝康がいます。
あと二人、倶楽部のユニフォームを着た人が見えます。
賞状の中に書かれた栃木四郎と三輪謙蔵と思われます。
前列、背広姿は誰なんだろう?
その隣りのメガネの男性は中国人のような…。
三島氏に木製のバーベルを贈った政治家・汪兆銘氏の関係者か?
その隣に立つ背広の人物は、連盟会長の三島氏に似ているような…。
そのときの賞状と優勝カップです。

「神田川倶楽部
飯田一郎 栃木四郎 三輪謙蔵 飯田勝康 飯田定太郎
右者 連盟主催第一回重量挙倶楽部対抗競技大会ニ於テ
第一位ヲ獲得セリ。仍茲ニ之ヲ賞ス
昭和十四年二月四日 日本重量挙競技連盟会長
子爵 三島通陽 印」
三島氏の当時の日記にこんな記述があります。
神田川倶楽部が優勝した日のことです。
「昭和十四年二月四日
夜、重量挙対抗競技会へ出席する。
関係者一同いつもながら熱心なり」
「二月十四日
夜、重量挙の連中を華族会館へ招く。
五百人のパーティになって、初めは断られそうになったのを、
無理にやったが、なかなかの盛会、愉快であった」
当時、こういう競技大会は夜、行われていたのですね。
その二か月後の日記に、こんな記述がありました。
「四月十五日
夕方から重量挙大会あり。挨拶をして競技を見て帰る」
そのときの競技というのがこれです。
「重量挙種目別大会」。写真は「俵差し持久」

昭和14年4月16日。東京日日新聞
マイクロフィルムが劣化していて、ご覧の通りの状態ですが、
かろうじて飯田一郎や定太郎の名が読み取れました。
新聞の見出しは「俵差しなどで初大会賑わう」とあります。
そして同じ年の11月の日記には、
当時日本に併合されていた朝鮮の南寿逸選手が、
世界記録を樹立したときの感激が綴られていました。
「十一月二日
一時半、外苑競技場に秩父宮殿下お成り。感激の大会なり。
涙ぐみつつ拝観す。四時還御。
急いで昭和小学校へ行けば、五時半に秩父宮殿下お成りとの報あり。
皆光栄に感激す。
殿下台臨のもと、南選手堂々と世界記録を破り、嬉しかった」
※参考文献/「わがスポーツの軌跡」井口幸男 私家本 昭和61年より
「重量挙協会創立当時の思い出・三島通陽令嬢昌子氏執筆」
ーーーーー◇ーーーーー
☆諸行無常さまから、
現在でも行なわれている「俵差し」の情報をいただきました。
●福岡県立東筑高校
●熊本県立東陵高校
両校では、体育大会に「俵差し」を行なっているとのことです。
同校関係者様や生徒さんなど情報をいただけたら有難いです。
またほかにもありましたら、ご一報をお願いいたします。
兵庫県龍野市の「龍野の俵上げ」に出場した
浪速の力持ち、「浪速の長州力」さんです。

浪速の長州力さん(兵庫県在住)提供
どうぞよろしくお願いいたします。
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日中戦争激化で返上した「オリンピック東京大会」。
そのかわりに、
「国民精神作興体育大会」を開催したことは前回述べた。
その翌年の昭和14年(1939)2月4日、
日本重量挙競技連盟は、
結成して初めての連盟主催の大会を開催。
これは各倶楽部対抗の重量挙げの競技で、
なんと、飯田徳蔵が立ち上げた「神田川倶楽部」が優勝したのです。
そのときの記念写真です。

写真に、徳蔵の一人息子の定太郎、甥の一郎、その弟の勝康がいます。
あと二人、倶楽部のユニフォームを着た人が見えます。
賞状の中に書かれた栃木四郎と三輪謙蔵と思われます。
前列、背広姿は誰なんだろう?
その隣りのメガネの男性は中国人のような…。
三島氏に木製のバーベルを贈った政治家・汪兆銘氏の関係者か?
その隣に立つ背広の人物は、連盟会長の三島氏に似ているような…。
そのときの賞状と優勝カップです。

「神田川倶楽部
飯田一郎 栃木四郎 三輪謙蔵 飯田勝康 飯田定太郎
右者 連盟主催第一回重量挙倶楽部対抗競技大会ニ於テ
第一位ヲ獲得セリ。仍茲ニ之ヲ賞ス
昭和十四年二月四日 日本重量挙競技連盟会長
子爵 三島通陽 印」
三島氏の当時の日記にこんな記述があります。
神田川倶楽部が優勝した日のことです。
「昭和十四年二月四日
夜、重量挙対抗競技会へ出席する。
関係者一同いつもながら熱心なり」
「二月十四日
夜、重量挙の連中を華族会館へ招く。
五百人のパーティになって、初めは断られそうになったのを、
無理にやったが、なかなかの盛会、愉快であった」
当時、こういう競技大会は夜、行われていたのですね。
その二か月後の日記に、こんな記述がありました。
「四月十五日
夕方から重量挙大会あり。挨拶をして競技を見て帰る」
そのときの競技というのがこれです。
「重量挙種目別大会」。写真は「俵差し持久」

昭和14年4月16日。東京日日新聞
マイクロフィルムが劣化していて、ご覧の通りの状態ですが、
かろうじて飯田一郎や定太郎の名が読み取れました。
新聞の見出しは「俵差しなどで初大会賑わう」とあります。
そして同じ年の11月の日記には、
当時日本に併合されていた朝鮮の南寿逸選手が、
世界記録を樹立したときの感激が綴られていました。
「十一月二日
一時半、外苑競技場に秩父宮殿下お成り。感激の大会なり。
涙ぐみつつ拝観す。四時還御。
急いで昭和小学校へ行けば、五時半に秩父宮殿下お成りとの報あり。
皆光栄に感激す。
殿下台臨のもと、南選手堂々と世界記録を破り、嬉しかった」
※参考文献/「わがスポーツの軌跡」井口幸男 私家本 昭和61年より
「重量挙協会創立当時の思い出・三島通陽令嬢昌子氏執筆」
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☆諸行無常さまから、
現在でも行なわれている「俵差し」の情報をいただきました。
●福岡県立東筑高校
●熊本県立東陵高校
両校では、体育大会に「俵差し」を行なっているとのことです。
同校関係者様や生徒さんなど情報をいただけたら有難いです。
またほかにもありましたら、ご一報をお願いいたします。
兵庫県龍野市の「龍野の俵上げ」に出場した
浪速の力持ち、「浪速の長州力」さんです。

浪速の長州力さん(兵庫県在住)提供
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