バーベルの謎
神田川徳蔵物語
荷役運搬の国際通運(現・日本通運)に入社以来、
重い荷を担ぐ「荷役」は平原直氏の生涯のテーマとなった。
しかし意外なことに、
荷役現場の人々が「力石を担ぐ人々」であることを知るのは、
日通を辞めたあとの昭和25年のこと。
本物の力持ちに会うのはさらに3年後の昭和28年。
平原氏が会ったのは、古谷野庫太郎という、
当時、東京・秋葉原にあった日本運輸倉庫の現場監督の男。
古谷野は熱烈な神田川徳蔵の信奉者だったが、
平原氏が徳蔵の名を知らされたとき、徳蔵はすでにこの世を去っていた。
その平原氏の知らなかった戦前の徳蔵、
ここでは徳蔵とバーベルについて見ていきます。
バーベルを持つ神田川徳蔵です。ブーツをはいています。

この写真には、以下の添え書きがありました。
「昭和弐(2)年六月 球棹差切 帳場前ニテ寫(写)ス」
このとき徳蔵はバーベルに「球棹」、
つまり球体の球と木の棹(サオ)の字をあてています。
当時はこういう名称だったのでしょうか。でも読み方がわかりません。
棹は「トウ」「タク」です。「球竿」ならキュウカンですが…。
まあ、どちらにしても形状は球とサオです。
この「球棹」の写真が「昭和の怪物」といわれたボディビルダー
若木竹丸の著書「怪力法」(昭和13年)に出てきます。
では徳蔵はこの「球棹」を若木竹丸から提供されたのかというと、
そうではない。
以前にもご紹介しましたが、徳蔵が残したアルバムの中に、
一番早い時期に出て来た「球棹」がこちらです。
徳蔵の足元(赤丸)に置かれています。

「川向こうに大正9年再建の旧両国国技館があること。
また周辺には大正12年の関東大震災を受けた様子がないことから、
この写真は大正9~12年の間に撮影されたもの」(斎藤氏談)
若木は明治44年生まれで、徳蔵とは20歳も年が離れています。
この時期の若木はまだ10~12歳の子供です。
徳蔵は30~32歳の、しかも「飯定組」の親分として組を率い、
本町東助のあとを継いで東都力持界の中心的人物になっていますから、
子供の若木が近づくことさえできなかったはず。
こちらは大正15年の添え書きがある写真です。
力石の前に鉄アレイと「球棹」が置かれています。
赤矢印は神田川徳蔵です。

この時期の徳蔵は力石による力持ちを披露するときは、
必ずバーベルとアレイを持参していたことがわかります。
まだ日本には普及していなかったはずのこの新しい道具を
徳蔵はどこで手に入れたのか気になります。
昭和6年ごろ、徳蔵の甥の飯田一郎が神田の古本屋で、
英文のウエイトリフティングの本を見つけ、
それをもとに製作したのが日本最初のバーベルという説があります。
ですが、大正9年ごろ徳蔵は、すでにこの「球棹」を持っていたわけですから、
一郎が作ったものとは明らかに別物です。
若木竹丸でもない、飯田一郎製作のバーベルでもないとなると、
あの写真のバーベルは、
一体どこから?
※敬称略
重い荷を担ぐ「荷役」は平原直氏の生涯のテーマとなった。
しかし意外なことに、
荷役現場の人々が「力石を担ぐ人々」であることを知るのは、
日通を辞めたあとの昭和25年のこと。
本物の力持ちに会うのはさらに3年後の昭和28年。
平原氏が会ったのは、古谷野庫太郎という、
当時、東京・秋葉原にあった日本運輸倉庫の現場監督の男。
古谷野は熱烈な神田川徳蔵の信奉者だったが、
平原氏が徳蔵の名を知らされたとき、徳蔵はすでにこの世を去っていた。
その平原氏の知らなかった戦前の徳蔵、
ここでは徳蔵とバーベルについて見ていきます。
バーベルを持つ神田川徳蔵です。ブーツをはいています。

この写真には、以下の添え書きがありました。
「昭和弐(2)年六月 球棹差切 帳場前ニテ寫(写)ス」
このとき徳蔵はバーベルに「球棹」、
つまり球体の球と木の棹(サオ)の字をあてています。
当時はこういう名称だったのでしょうか。でも読み方がわかりません。
棹は「トウ」「タク」です。「球竿」ならキュウカンですが…。
まあ、どちらにしても形状は球とサオです。
この「球棹」の写真が「昭和の怪物」といわれたボディビルダー
若木竹丸の著書「怪力法」(昭和13年)に出てきます。
では徳蔵はこの「球棹」を若木竹丸から提供されたのかというと、
そうではない。
以前にもご紹介しましたが、徳蔵が残したアルバムの中に、
一番早い時期に出て来た「球棹」がこちらです。
徳蔵の足元(赤丸)に置かれています。

「川向こうに大正9年再建の旧両国国技館があること。
また周辺には大正12年の関東大震災を受けた様子がないことから、
この写真は大正9~12年の間に撮影されたもの」(斎藤氏談)
若木は明治44年生まれで、徳蔵とは20歳も年が離れています。
この時期の若木はまだ10~12歳の子供です。
徳蔵は30~32歳の、しかも「飯定組」の親分として組を率い、
本町東助のあとを継いで東都力持界の中心的人物になっていますから、
子供の若木が近づくことさえできなかったはず。
こちらは大正15年の添え書きがある写真です。
力石の前に鉄アレイと「球棹」が置かれています。
赤矢印は神田川徳蔵です。

この時期の徳蔵は力石による力持ちを披露するときは、
必ずバーベルとアレイを持参していたことがわかります。
まだ日本には普及していなかったはずのこの新しい道具を
徳蔵はどこで手に入れたのか気になります。
昭和6年ごろ、徳蔵の甥の飯田一郎が神田の古本屋で、
英文のウエイトリフティングの本を見つけ、
それをもとに製作したのが日本最初のバーベルという説があります。
ですが、大正9年ごろ徳蔵は、すでにこの「球棹」を持っていたわけですから、
一郎が作ったものとは明らかに別物です。
若木竹丸でもない、飯田一郎製作のバーベルでもないとなると、
あの写真のバーベルは、
一体どこから?
※敬称略
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