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バーベルの謎

荷役運搬の国際通運(現・日本通運)に入社以来、
重い荷を担ぐ「荷役」は平原直氏の生涯のテーマとなった。

しかし意外なことに、
荷役現場の人々が「力石を担ぐ人々」であることを知るのは、
日通を辞めたあとの昭和25年のこと。

本物の力持ちに会うのはさらに3年後の昭和28年
平原氏が会ったのは、古谷野庫太郎という、
当時、東京・秋葉原にあった日本運輸倉庫の現場監督の男。

古谷野は熱烈な神田川徳蔵の信奉者だったが、
平原氏が徳蔵の名を知らされたとき、徳蔵はすでにこの世を去っていた。

その平原氏の知らなかった戦前の徳蔵、
ここでは徳蔵とバーベルについて見ていきます。

バーベルを持つ神田川徳蔵です。ブーツをはいています。
幸龍寺バーベル (2)

この写真には、以下の添え書きがありました。

「昭和弐(2)年六月 球棹差切 帳場前ニテ寫(写)ス」

このとき徳蔵はバーベルに「球棹」
つまり球体のと木の(サオ)の字をあてています。
当時はこういう名称だったのでしょうか。でも読み方がわかりません。

棹は「トウ」「タク」です。「球竿」ならキュウカンですが…。
まあ、どちらにしても形状は球とサオです。

この「球棹」の写真が「昭和の怪物」といわれたボディビルダー
若木竹丸の著書「怪力法」(昭和13年)に出てきます。

では徳蔵はこの「球棹」を若木竹丸から提供されたのかというと、
そうではない

以前にもご紹介しましたが、徳蔵が残したアルバムの中に、
一番早い時期に出て来た「球棹」がこちらです。

徳蔵の足元(赤丸)に置かれています。
室内 (5)

「川向こうに大正9年再建の旧両国国技館があること。
また周辺には大正12年の関東大震災を受けた様子がないことから、
この写真は大正9~12年の間に撮影されたもの」(斎藤氏談)

若木は明治44年生まれで、徳蔵とは20歳も年が離れています。

この時期の若木はまだ10~12歳の子供です。
徳蔵は30~32歳の、しかも「飯定組」の親分として組を率い、
本町東助のあとを継いで東都力持界の中心的人物になっていますから、
子供の若木が近づくことさえできなかったはず。

こちらは大正15年の添え書きがある写真です。

力石の前に鉄アレイと「球棹」が置かれています。
赤矢印は神田川徳蔵です。

sasiisi3_2 (5)

この時期の徳蔵は力石による力持ちを披露するときは、
必ずバーベルとアレイを持参していたことがわかります。
まだ日本には普及していなかったはずのこの新しい道具を
徳蔵はどこで手に入れたのか気になります。

昭和6年ごろ、徳蔵の甥の飯田一郎が神田の古本屋で、
英文のウエイトリフティングの本を見つけ、
それをもとに製作したのが日本最初のバーベルという説があります。

ですが、大正9年ごろ徳蔵は、すでにこの「球棹」を持っていたわけですから、
一郎が作ったものとは明らかに別物です。

若木竹丸でもない、飯田一郎製作のバーベルでもないとなると、
あの写真のバーベルは、

一体どこから?


※敬称略
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ぱいなっぷる~

先週、おもしろいパイナップルを買いました。

ブログに入れ込んでいるせいか、このごろやたら疲れる。
で、疲れると買い物に行くんです。
そこで面白いなと思ったものを気の向くまま買うようになりました。

「旅行に行ったと思えば」「外食したと思えば」
安いもんじゃないのと、ちょっと言い訳しつつ。

で、この日、
近くの農協の市場へ行ったら、変わったパイナップルがあったんです。

これなんです。見た目は普通ですけど。
CIMG4337.jpg

沖縄・やんばるからの直送で、期間限定だというので早速、購入。
「期間限定」とか「今しか」に、私、弱いんです。

パインは豚肉のソテーか酢豚に使うくらいで、生では食べないので、
普段はめったに買いません。
でもここで見たパインはなんだか面白そうだったので迷わず買いました。

何が面白そうだったかというと、その食べ方なんです。

まずパインのお尻をスパッと切って、
あとは突き出たポッチを指で掴んで引っ張るだけ。
超簡単。
スルースルーと面白いようにはがれます。

CIMG4335.jpg

普通のパインをなぜ食べないかというと、
新しいのは酸味がきつくて口の粘膜にキーッと突き刺さるし、
熟れすぎたものは甘さがくどくて、ベターッとへばりつくから食指が動かない。

でもこの「やんばるパイン」には、それがない。

酸味も甘みもほどよく爽やかで、それでいてコクがある。
それにツイーと引っ剥がすだけだから庖丁いらず。
いくらでも食べられます。

あっという間にこうなりました。
CIMG4333.jpg

やめられない止まらない。
パインがどんどん芯だけになっていく。

というわけで、再び農協へ。

CIMG4339.jpg

その2個目も平らげて、本日買いに行ったら、アリャァー、もうなかった!
あんなに山積みになっていたのに。

「あれは比較的新しい品種だそうで、だからあまり入らないんです」と職員。

残念だけど、
こうなりゃ、「おいしかった」の余韻だけで乗り切らなくちゃァね。

なんくるないさ!


物流近代化の父

「徳蔵物語」「平原物語」になってしまいましたが、
この時代の人たちの真っ直ぐな生きざまを、今しばらくお聞きください。
平原氏の力持ちに対する愛情、次々回あたりからたっぷりお見せします。

     ーーーーー◇ーーーーー

昭和31年(1956)のこの年
平原氏はヨーロッパやインド、ソ連ばかりでなく中国へも出かけます。

こちらは中国政府からの招待で、滞在は1ヵ月にも及びました。
そんなある日、歌人の宮崎白蓮夫妻らと共に周恩来総理を始め、
日本にゆかりのある郭沫若、廖承志、李徳全諸氏と歓談します。

そのときの記念写真です。
中央に総理、その隣りの着物姿が白蓮夫人。そのやや背後に宮崎龍介氏。
一人おいて核物理学者の坂田昌一氏。その隣りに本を手にした平原氏がいます。

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昭和31年(1956)、紫光閣

周総理に「荷役研究所」の名刺を見せたら、
「荷役」がわからないと言う。そこで肩に重いものを担ぐ真似をしたら、
「ああ、装卸(ツアンシエ)=荷役=だ。わかった」と。

その5日後、周総理は進行中の十三陵ダムの荷役現場におもむいた。
そして、ここで働く荷役労働者と同じ釜の飯を食い、同じテントに寝て、
昼はモッコを担ぎ、一輪車を巧みに操って荷役作業に従事した。

その人柄に触れた平原氏、
「日本の総理で荷役現場に出掛けて労働者と言葉を交わし荷を担いで
民衆の心を味わった人はいるだろうか」と。

そういえば、被災地の水たまりで靴を汚すのがいやで、
おんぶしてもらった大臣がいたっけなあ。裸足になって水を歩けば、
評価は全然違うものになったのに。惜しかったね、大臣さん!

工事現場で荷役作業をする周総理
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さて、話変わって、「物的流通=物流」という言葉、
今、私たちが当たり前のように使っていますが、
実はこれ、平原直氏の造語(訳語)だそうです。

昭和4年(1929)に国際通運(現・日本通運)へ入社した平原青年は、
「諸機能を効率的にシステム化するための技法原理」
という内容の、アメリカの学者が書いた本に夢中になります。

そして、平原氏の中に一つの構想が生まれます。
今、バラバラに動いている物流の機能をトータル化・機械化すれば、
効率もよくなり、荷役運搬に従事する人たちの体も損なわれずにすむ。

そこで、この構想の啓蒙と実現のために、
日本通運を辞めて、「荷役研究所」を開きます。
しかし、当時、耳を傾ける人はほとんどいませんでした。

ところが10年ほどたった昭和34年、
日本能率協会のセミナーで「流通技術」について話したのをきっかけに、
平原氏が願っていた「流通技術委員会」が発足します。

そこで活発に討論されたのが、アメリカンマーケティング協会のレポート、
「PD」(Manage-ment of the Physical Distribution Function)でした。
直訳するとPは物理的、Dは流通。あわせて「物理的流通」

こちらは、その「流通技術委員会」の中心的人物で、  
平原氏が師と仰いだ井沢道雄氏です。
流通技術の向上に生涯を捧げ、晩年、口述筆記中に絶命したという。

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昭和38年、平原氏は当時の池田内閣の経済審議会専門委員に抜擢され、
「日本のPDの現状、問題点、方策」について提言します。
この意見が通産省の政策として採用されたため、
PDをわかりやすい日本語で表現する必要に迫られ、
「物的流通」という言葉を提案したそうです。

これがマスコミで宣伝され、またたく間に定着していきました。

平原氏の活動は中国、台湾、韓国、東南アジア各地へも広がり、
平成5年(1993)には北京科技大学名誉教授になります。
現地では「物流の父」と言われて大変尊敬されたそうです。

最後にこんなお話を…。

実は平原氏、若いころから荷役にまつわる歌謡をさがしていて、
万里の長城の苛酷な労働で命をなくした男とその妻の哀話
「孟姜女長城に哭(な)のレコード探しもその一つだった。

そんな折り、思いがけずNHKラジオからこの歌が流れてきた。
その後、NHKの仲立ちで、
これを歌っていた中国人歌手の時胡美芳さんと会うことが出来ました。

「荷役研究所10周年記念祭」の「荷役とアジアの夕」で、
「孟姜女」を歌う時胡美芳さんです。

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昭和34年6月、学士会館

一瞬、美空ひばりさんかと思いました。


※参考文献・画像提供/「物流史談ー物流の歴史に学ぶ人間の知恵」
               平原直 発行者・間野勉 編集・菊田一郎
               流通研究社 2000


なんと言われようとも、

※末尾に追加写真と記事を載せました。見てください。

下の写真は千葉県某所の海女さんたちが、
仕事を終えて「海女舟」を引き上げているところです。
こんな写真を掲載するなんて不謹慎な、と思わないでくださいね。

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「日本民俗写真大系3・東海道と黒潮の道」日本図書センター 1999

1961年の撮影です。
漁村の60歳以上の方なら、見覚えのある光景ではないでしょうか。

素裸にメンパ一つで素潜りをしていた娘さんたち。
はじけるような笑顔とまぶしいほどの健康体です。
色とりどりの花柄のパンツに精一杯の娘心が感じられます。

ウエットスーツで潜る現代から見たら奇異に映るでしょうが、
つい半世紀前まではこれが普通でした。

人力の時代には、
「人が重いものに力を加える」働き方がたくさんありました。
その一つに「引く・曳く」という「働き」があります。
奈良の石舞台古墳、東大寺の巨柱、城の石垣もみんなこの「働き」で出来た。

お馴染みの代八車もその一つです。
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「近世風俗事典」人物往来社 昭和42年

こういう荷車を見ると思いだすのが、高校生のころのこと。
下校のとき坂の途中でものすごい荷を積んだリヤカーが立ち往生していて…。
前を覗いたら、汗だくのおじさんと痩せこけたが私をキッとにらんだ。

犬は鎖でリヤカーに繋がれていて、毎日、引っぱっているのでしょう、
体も足もひどく変形していた。
その犬をおじさんが「もっと力を出せ」と棒でひっぱたいている。
私はとっさにカバンを友人に預けると、
スカートの裾をパンツにはさんでリヤカーを押しまくり、見事、坂の上に。

でもおじさんは逃げるように立ち去っていった。
「礼ぐらい言ってもいいのにな」と思いつつあたりを見回すと、
男子生徒たちがニヤニヤ笑いながら通り過ぎていく。
友人はと見ると、坂の下で両手にカバンを下げたまま怒ったような顔でいた。

あんなことするなんて、恥かしくて…」と友人。
私だって花を恥じらう乙女だけどサ、なんだか犬に申し訳ないような気がして。
でもさ、なんと言われようとも、やったこと、恥ずかしくなんかないよ。

とまあ粋がったけど、火事場のバカヂカラを出してフラフラだった。

これはイリヤ・レーピンが描いた「ボルガの舟曳き」です。
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平原氏は国内だけではなく、台湾、中国、ヨーロッパへも足を延ばします。
昭和31年には、世界軍縮会議出席のためストックホルムへ。
そしてそのあと、
当時「鉄のカーテン」といわれて外国人がめったに入れなかったソ連邦へ。

「鉄のカーテン」なんて言葉、懐かしいですねぇ。

そしてボルガ河畔に立って、かつての舟曳き人に思いを馳せた。

こちらは京都・高瀬川の舟曳きです。
「舟曳き」はボルガだけではなく、日本のどこの河川でも行なわれていた。
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「拾遺都名所図会」京都・高瀬川の舟入り

インドではこんなことがあった。
車から降りて自分のトランクを肩に担いだら、日本商社の人が飛んできて、
「あなたのような人が荷物を持つことは絶対いけません」と。

「運送屋上りの私であるから、荷物を担ぐくらいは一向平気である。
それをなぜ”下賤”とされている者がやらなければならないのか。
物を運ぶということはそんなに恥ずべきことなのか

本の中に平原氏のこの言葉を見つけたとき、あのリヤカー事件で友人から、
「恥かしい」といわれたときのことが、ふと、蘇えってきました。
と同時に、怯え憎悪に満ちた犬の目も。

平原氏は語気強く、こうも記していました。

「人間生活や産業活動の中に、
運搬荷役がどんな重要な役割と地位を占めているかに、
もっと充分の自覚と信念をもってことにあたって欲しいと、
ここに改めて警鐘を乱打したい」


※参考文献・画像提供/「物流史談ー物流に学ぶ人間の知恵」
               平原直 発行者・間野勉 編集・菊田一郎
               流通研究社 2000

    
        追加写真・母のソビエト紀行 

平原氏のソ連訪問を書き終えてから、
母もまだ渡航が難しかったゴルバチョフ政権前後、「友好視察団」の一員として、
ナホトカからウラジオストクへ行ったことを思い出し、ここへ載せました。

ソビエトの婦人と。母、77歳。
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何事にも積極的な人だったので、駅の待合室で見かけたロシア人に、
「ズドラストビーチェ!(こんにちは)」と声をかけたら、相手は「???」
仕方がないからロシア語の手引書を見せたら、
「オーッ! ズドラストビーチェ!」

嬉しくなって思わず、スカシーバ!(ありがとう)」と言ったら、
手を握り締めてくれたとか。
母はこの二つしか知らない単語で7日間も町を歩き回り、
戦後初というアメリカ第七艦隊の入港に遭遇。
なんとソ連兵、米兵と一緒に写真まで撮ってきた。

帰国後、こんなことを。
「感動は人生の宝物。幾つになっても感動することを忘れたくない」

今ごろ天国でもあっちこっち歩き回っているかも。

※当時の国名で記しました。


極限の運搬

「働く」という文字は、人が重いものに力を加えると書く。
つまり、
力を出して荷役や運搬することから生まれた文字だと平原氏はいう。

「人の体は一種の運搬機械といってもよいくらい都合よくできている。
しかし筋力は無限ではない。
だからこそ労働災害を起こさないための方策が必要なのだ」と説く。

昭和35年、氏は、第4次建設、
俗にクロヨンと呼ばれた黒部ダム建設の現場へ足を運びます。

この写真の人は黒部ダム建設の資材を運ぶボッカです。
まず手始めは道作りから。写真を見ているだけで足がすくみます。
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標高2500㍍以上の山が53座も連なる黒部峡谷。
そこにダム建設の話が持ち上がったのは大正6年のこと。
4回の難工事を経て昭和38年の完成まで、
1000万人の労働者と46年の歳月を費やしたそうです。

氷雪と風と岩と急峻な谷に囲まれた前人未踏秘境
そこにダムを作るという難工事を挑んだわけですから、
無傷で済むはずがありません。
雪崩や吹き出す高熱や有毒ガス、厳寒、雪解けの急流に阻まれての作業に、
ものすごい数の犠牲者が出ました。

今は一大観光地になっていますが、血のにじむような先人たちの苦労と、
多くの人命が失われたことを決して忘れてはならないと思います。

だいぶ道らしくなったとはいえ、滑ったら命はありません
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「物流史談」(毎日新聞社提供)より

どんなことでも、人の営みはまず荷物の運搬から始まりますが、
それもまだここでは、
足を踏み外せばたちまち千尋の谷へ落ちてしまう道での運搬でした。

この一日10里(約40㎞)の道を歩く苛酷なボッカ運搬は、
軌道が完成する昭和10年まで続いたそうです。

現場に立って、第3ダム建設で資材運搬を担当した方から、
その残酷物語を聞いた平原氏は、
荷役運搬の改善を改めて誓ったと本の中で語っています。

こちらは富士山測候所の専属強力(ごうりき)を、
静岡県御殿場市へ訪ねた時の写真です。
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強力の並木宗二郎氏と平原氏。平成6年。

冬の富士山は全山氷の塊りです。
一度滑ったらピッケルなど歯が立たず滑り続け、
氷から突き出た岩に激突して生きては帰れないといわれています。

薄い酸素の中、一人、重い荷を背負って頂上まで行くのですから、
孤独で危険な仕事です。心身ともによほど強靭でなければできません。

その人に会いに行った平原氏、このとき93歳

立山のボッカ。富士山の強力(ごうりき)。
平原氏の「体力の限界を越えて重荷と闘う」人への熱い思いは、
ますます高まったものの、このとき、こんなことを漏らしています。

「御殿場市は雪景色で、93歳の老人には少しこたえた」

こちらは私の富士山ルポです。
1995年、すでに廃道になって久しい旧道を1合目から歩きました。

ひゃー、あれからもう23年も経っちゃったんだ!
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新聞のタイトルがなぜ「臭い山」かというと、
このころは激増する登山者に対応しきれず、お山は糞尿まみれ、
加えてマナーの悪さでゴミだらけという有様だったからです。

なにしろこの日も、バスの発着所の5合目を少し登ったあたりには、
スカートにローヒールの子連れ女性や手ぶらにTシャツの外国人たちがいて、
「頂上はまだですか?」なんて聞いてくるのですから。

だからこの記事は、
商売優先の山の在り方に警鐘を鳴らしたつもりで書きました。

さて、旧道はすでに自然に帰りつつありましたが、
それなりに昔の顔をそこここに残しておりました。
荒れ放題の道際に朽ちた道路標識があったり、全壊した山小屋があったり。

ここは高校一年だった私の富士山初登山の道でした。
布製のズック靴にレインコート着て金剛杖ついて…。

ルポで登ったときは、まだ測候所がありました。

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この9年後の2004年、測候所は撤去されます。

夏の夜、麓から、
このドームと山頂をめざす登山者の光の列が帯のように見えました。

鼻のテッペンにできたにきびみたいなドームが消えたときは、
青春時代が遠くへ去ってしまったような寂しさを感じたものです。


※参考文献・画像提供/「物流史談ー物流の歴史に学ぶ人間の知恵」
               平原直 発行者・間野勉 編集・菊田一郎
               流通研究社 2000


やんちょい

終戦後間もなく平原氏は、
永雄節郎という工学博士が書いた本と出会います。

それは全ページローマ字で書かれた「NIYAKU NO KIKAI」という
荷役に関する本だった。ローマ字で書かれているばかりでなく、
ベルトコンベアを「はこびおび」、つまり「運び帯」というふうに、
大和言葉で表現する不思議な本だった。

「はこびおび」を現場では「天狗取り」といった。
この荷役の手法を知って以来、平原氏は「天狗取り」に病みつきになり、
約40年間、その手法を追いかけます。

こちらは「天狗取り荷役」による石炭積みの光景です。
従事していたのは主に女性たちだったそうです。

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明治のころは船を動かす燃料は石炭だった。
軍船が大挙して海を渡っていく日露戦争の時代。
いちいち船足を止めていたら戦局に響きます。

そこで荷役業者が考え付いたのが、
艀(はしけ)に石炭を積んで本船へ行き燃料を補給する方法だった。

今でいう「海上給油」みたいなものでしょうか。

本船の舷側に、ひな壇のように板子の棚を艀(はしけ)まで吊り、
そこへ上下に並べた人の手で石炭を順送りして本船に積み込む、
まさに「人間ベルトコンベア」そのものだった。

「天狗取り」は「手繰り取り」が訛った言葉という説も。

このような人海戦術で、6時間半の間に2300トンもの石炭を積むという
迅速かつ正確なこの荷役手法は世界を驚かせ、
昭和7年には、ロンドンの新聞に写真入りで紹介されたという。

石炭といえば、私はカナダ・バンクーバー島で、
日本人炭坑夫が働いていた炭坑遺跡博物館を見に行ったことがあります。

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白人の抗夫は人間扱いでそれ以外は動物並み、
人種によって賃金も持ち場も違ったという待遇に、姉の白人の夫は憤慨し、
姉は、展示品の着飾った日本人一家の写真を見て、
「日本の親戚に送ったんでしょう。精一杯見栄張って」と涙ぐんだ。

次の写真は、日本の炭坑でスラ曳きをする婦人と子供ですが、
カナダにもこれと似た写真がありました。

博物館の説明にはこうありました。
日本人は小さいので狭い坑道での石炭掘りに適していた」

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田川市立図書館提供

残酷な写真ですが、目を逸らせてはいけないと思います。
こういう時代があったことを忘れてはいけないと思います。

姉夫婦や友人たちと別れてカナダ本土へ帰ったら、
日本人会のお年寄りを招待してパーティーを開くのだという。
いきなり私もフラダンスです。ありあわせの服を着て厚化粧して。

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フラダンスの次に踊ったのが炭坑節
日本人のお年寄りが知っているものを、との思いから選び、
レコード代わりにみんなで歌いながら、

♪月がー出た出たァ~、月がァ出たァ

と踊り出したら、招待席にいたご老人が突然、号泣。
もう「サノ、ヨイヨイ」どころではない。
慌てて駆けつけると、嗚咽しながら言うには、
「自分は今も日本語しか話せない。
今日、思いがけず炭坑節を聞いて、もう懐かしくて嬉しくて」と。

日本でもカナダでも炭坑夫だったそうです。

話を戻します。

三井、三池という国内最大の炭坑があった北九州で始まり、
昭和30年代まで続いた天狗取り荷役。
そのルーツは島原半島の口之津港と聞いて平原氏、早速出掛けます。

ここでは「やんちょい荷役」といっていたそうです。

そのやんちょい荷役に14歳から従事したおばあちゃんを昭和56年に訪ねます。
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平原氏と当時88歳の竹ハルおばあちゃん。

竹ハルさんは与論島出身。
明治31年の台風で与論島、沖永良部島、徳之島などの南西諸島が、
壊滅的被害を受けたとき、労働力不足の口之津に集団移住してきた。

長屋の6畳一間に家族が寝起き。常食はカライモ。
徹夜して雇い主から握り飯二つをもらうのが一番の楽しみだった。

島から来た人たちは一番波の荒い場所に行かされた。

「内地の人は私らを軽蔑するものですから、内地の人を班長に雇うとりました。
そうすると軽蔑されまっせん。でもあんまり軽蔑すると海へ投げよりました。
内地の人は泳げんでしょ。力では負けませんでした」

やんちょいはみんなで必死にがんばるための与論言葉の掛け声だった。

       やんちょい さらさら 
     やんちょい さらさら


平原氏は九州・佐賀県の生まれで、九州帝大(現・九州大学)ご出身。
その故郷で得たものをこんなふうに語っています。

「天狗取りとは、貧乏と封建的遺風と人口過多の中、
クレーンもコンベアも何一つ持っていなかった日本人が、
荷役近代化への突破口として、人間そのものを一種の機械にしてしまった
体当たり戦法の一つであった」


※参考文献・画像提供/「物流史談ー物流の歴史に学ぶ人間の知恵」
               平原直 発行者・間野勉 編集・菊田一郎
               流通研究社 2000


はこぶことは生きること

  =写真を追加しました=

下の写真は、故・平原直(ひらはらすなお)氏のご著書、
「物流史談 物流の歴史に学ぶ人間の知恵」です。

平原氏は、
「個々バラバラに分断され、分散されて、無力化のまま放置されてきた
輸送、保管、荷役、包装、情報という「物流機能」を個別に考えず、
トータルシステムとして捉えよ」と主張。
その普及・啓蒙に生涯を捧げた方です。

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この本は、流通研究社の月刊「マテリアル・フロー」に書き続けたものを
1冊にまとめたもので、連載期間は1996年から2000年までの4年半。
執筆したときの年齢はなんと、94歳から97歳のとき。

驚くべき記憶力と精神力です。

本の序章にはこう書かれています。

    はこぶことは生きること
   生きることははこぶこと


「ものを運ぶということは、この世に生きとし生けるものの、悲しい宿命である。
生きるためには、まずものを運ばなければならないし、
ものを運ばなければ、人間も虫けらも生きることができない」

どんなに文明が発達し産業構造が変わろうとも、
「ものをはこぶことは生きること」という本質は変わらない。

その原点を忘れず、そこで育まれた人間の知恵に学ぼうと、
日本の産業を底から支えてきた「ものを運ぶ」人たちを、
平原氏は全国各地に訪ね歩きます。

米どころ、山形県酒田市の山居倉庫で働く女性です。
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なんて美しい笑顔でしょう。
私は一瞬、往年の大女優・原節子さんの映画のワンシーンかと思いました。

この場所はNHKの朝の連続ドラマ「おしん」の舞台になったところです。
ここの女性たちは美しいだけでなく、おしんのごとく、
ものすごいがんばり屋さんだったんだと改めて思いました。

こうした女性仲士を「女丁持ち」(おんなちょうもち)といったそうです。
絣の着物に地下足袋に前掛け姿。この方は米5俵を担いでいます。

米1俵は60Kgですから米だけで300Kg。
それにバンドリという背あての重さ10Kgが加わりますから、
〆て310Kgです。

それだけではありません。

背負った米を倉庫に積み上げなければなりません。
本の中で平原氏は、これを「はいつけ」ではなく、
「併積み(はいづみ)と記しています。

彼女たちはこの「併積み」のため、夜の8時、9時まで提灯片手に、
天井まで届く「歩み板」を登っていたそうです。

これは江戸末期の力持ち、木村与五郎の錦絵です。

与五郎木村

いくら与五郎が強力の持ち主ともてはやされても、担いだ俵は4俵

酒田の「女丁持ち」には、
完全に負けているではないですか。


※参考文献・写真提供/「物流史談ー物流の歴史に学ぶ人間の知恵」
               平原直 発行者・間野勉 編集・菊田一郎
               流通研究社 2000 

      
         ーーーーー◇ーーーーー

※ヨリックさま、三島の苔丸さまからいただいたコメントに答えて。

昭和29年ごろの炭焼き窯と炭の搬出の光景です。
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大井川流域の村々を行商して歩いていた昭和50年ごろの「シマネー」
これだけの荷物を背負い、両手には一斗缶を下げていたそうです。

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「大井川 その風土と文化」野本寛一 静岡新聞社 1979

20年ほど前私は、この一枚の写真を頼りにシマネーこと「しま」さんを探し、
ようやく見つけてお会いしました。

しまさん(大正11年生まれ)は旅館で賄いをしていました。
「働くのが大好き!」
「子供のころからずっと働いてきたからね」とサラリと語ったしまさん。
とびきりの笑顔、今も鮮明に覚えています。

男の料理教室

ちょっと力石を離れておいしいお話。

本日は月に一度のお楽しみサタデー。
勤務先の施設の利用団体さんに、男ばかりの料理教室がありまして。
私はいつもご馳走になっているんです。

どんどん腕が上達して、本当においしいんです。

こんな感じで料理スタート。
今回はスタートしたての場面のみ撮らせていただきました。

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刻む。

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皮をむく。

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サクサクサク

左下に見えるのは本日のメニューです。
持っているのは、創作料理を次々考え出す美人の先生。
本日は「春の和食」

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くるくる、トントン じょきじょき

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2時間ほどで出来上がり。

「お待ちどうさまァ~」

頭にバンダナ、エプロン姿のお父さんが事務室に持ってきてくださる。
ぷ~んといいにおいがただよう。

よそ様の殿方からの上げ膳据え膳。なんというシアワセ…。

「いっただきまあ~す!」

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上段左は油揚げにひき肉などを詰めた「狐ステーキ」
油揚げはちゃんと裏返して使っています。
右は「たけのこの混ぜご飯」

下段左は「蕨(わらび)炒め」、右はたけのこと若芽の「若竹汁」
一番右は「抹茶ケーキ」

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盛り付けも美しく、どれも本当にいいお味です。
お腹も心も満腹!

完食です!

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みなさまの真剣なお顔、見事な包丁さばき、そして仲間との楽しげな様子を、
奥さまやお子様方に見せてあげたい。



はいつけの神さま

「はいつけ」って何だろうと思ったら、
木材や米俵などの荷を積み上げることだった。

積み上げた荷のかたまりを「はい」といい、
積み上げることを「はいつけ」、ばらすことを「はい崩し」というのだそうです。

昔、荷役の男たちが自分の力だけで倉庫に積み上げていたのが、
今ではフォークリフトやクレーンでできるようになった。
でも「はいつけ」という言葉は今も使われていて、
これを動かすには特別な技能がないとできないとか。

下の写真は、明治時代の荷役の頭(かしら)です。
もとは房州船(千葉県)の船頭(船長)で、
のちに静岡の清水港で働くようになった松下伊左衛門です。

威厳があります。

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「鈴与百七十年史」鈴与株式会社 昭和46年より

さて、荷役の現場で彼らを見続けてきた平原氏でしたが、
意外にも、
力持ちの習俗や力石を知るのは現場を離れたあとだったという。

終戦を機に、17年間勤めた日本通運を辞めた平原氏は、
昭和23年、「荷役研究所」を設立します。

「運搬」という作業の重要性を世間に理解してもらいたい。
荷役の人たちを苛酷な労働から解放したい。
彼らの社会的地位の向上に力を貸してほしい。

そんな思いからの独立だったという。

しかし当時は荷役の重要性を説いても馬耳東風。
啓蒙運動に走り回って2年が過ぎたころ、耳を傾けてくれる人がやっと現れた。

深川の帝国倉庫・常務取締役の内田貞三だった。
内田は荷役を深く愛し理解し、わがものにしていた人で、
二人はたちまち意気投合。

その内田から聞かされたのが、
「はいつけの神さま」、佐賀町の富虎だった。
これがきっかけで、平原氏は力持ちという習俗に惹きつけられていきます。

冨虎の名がある番付です。
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「東京力持興行広告番付」明治21年。「石に挑んだ男達」高島愼助より

中央の赤丸に「本町東助」、右の赤丸に東前頭として「佐賀町富虎」
右端には「豆州 大嶌傳吉」の名も見えます。
ちなみに我らが徳蔵はまだ生まれていないので、ここには出ていません。

内田貞三は、大正3年、早稲田大学を出て、
鉄道院(運輸・国土交通省、国鉄、JRの前身)に入り、
のちに帝国倉庫へ入社。

荷役の現場を40年も体験した人で、
「倉庫の中のネズミの歩き方まで研究している人」と言われるほど、
倉庫実務にかけては当代随一の人だったという。

冨虎はそんな内田氏のもとで米俵を扱っていた男だったのです。

富虎の名は、
世田谷区・幸龍寺の「本町東助碑」にも「年寄」として刻まれています。

虎東助碑富

昭和6年、冨虎は72歳でこの世を去ります。
徳蔵このとき、40歳
徳蔵もこの「はいつけ」をやっていて、米俵2俵を同時に揚げていたそうですから、
大先輩の神技を目にしていたはずです。

70歳近くになっても重い米俵を手先でコロコロ転がして、
若者たちをアッと言わせていた冨虎。

明治23年、明治憲法発布の祝賀会に呼ばれて、
米俵に筆をさして文字を書く「俵筆の文字書き」を披露。
見事な出来栄えに黒田清隆侯から短刀一振りとお墨付きを賜ったという。

冨虎の銘がある力石「大石」(右端)です。

虎富 (2)
千葉県松戸市下矢切・矢切神社

この神社には神田川徳蔵の「水神」(右)もあります。

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でもですね。「はいけつの神さま」の現存する石はこれ1個きり
しかも世話人としてのみ…。

寂しすぎです。


※参考文献/「東京都無形文化財力持力技の復活と私」
        =「荷役一筋の道」平原直 1985
        流通経済大学図書館OB・石坂正男氏提供



シンボルとして

流通経済大学龍ケ崎キャンパスの力石。

同大学の野尻学長は力石を設置した理由を、
随想「「力石」への思い」の中でこんなふうに語っています。

「創立五十周年を迎えて新館を建築することになった。
そこで学園の過去・現在・未来をつなぐシンボルをぜひ作りたいと」

「いろいろ思案を巡らせていたとき、
十数年前に故・平原直氏から寄贈された「力石」のことを思い出した」

平原氏は平成13年にご逝去。
その折り、自宅庭にあった力石3個を流通経済大学へ寄贈。

「平原直物流資料室」へ保管された当時の力石です。
流通経済大学1

左から3番目の石は、
窪みに車輪をはめて移動する石のレール「車石」でしょうか。
車石は「物流博物館」☎03-3280-1616で見ることができます。

この3個の力石の中で、野尻学長が特に興味を引かれたのは、
右端の「再会」という石でした。

この石にはこんなエピソードが…。

これは昔、秋葉原の丸通(日本通運)の店の前に転がっていた石で、
そのころは仲士を採用するとき、この石を持ち上げさせて、
採用不採用や賃金の額を決めていた。

秋葉原駅近くの神田川です。
徳蔵一門の力石が置かれた柳森神社は右側の岸辺にあります。

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ところがこの石、戦災で行方不明に。散々探したものの見つからず。

しかし、奇跡が起きました。
戦後、秋葉原駅の改修工事で掘り返したら、この石がひょっこり出てきた。
仲間たちは石との再会に大喜び
そこで当時の駅長に、「再会と書いてもらい、石に刻んだ」

石に刻まれたたった一つの言葉から物語が流れる。

普段は捨て置かれ沈黙していた石が、何かをきっかけに語り出す、
私はそこに魅せられてきました。
平原氏も野尻学長も、きっと「石の声」を耳にしたのだと思います。


プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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