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四股名・神田川

☆未確認情報あり! 末尾。

     ーーー◇ーーー

神田川徳蔵橘町逸が、
名古屋市で力持ちを披露したのが大正時代最後の15年7月。

その4年後の昭和5年、徳蔵の元へ一人の少年がやってきた。
名は三木健一

「4年後なら昭和4年じゃないの?」と思われるでしょうが、
大正15年12月24日に大正天皇が崩御されたため、
新しい年号の「昭和元年」は12月25日から31日までの7日間しかなかった。
たった一週間でも1年は1年です。

翌元旦からはや、昭和2年。だから4年後の昭和5年というわけです。

徳蔵の元へやってきた健一少年です。
s5_5_8弟子 (4) 

初々しいですね。
で、この少年、なんと相撲部屋へ入門したのです。

この写真は、「徳蔵アルバム」に、
「清正公さんの力くらべ」のときの土俵の写真と一緒に貼ってありました。
このことから、
健一は名古屋の平出組の関係者ではないか、という気がします。

写真にはこんな説明がついていました。

s5_5_8弟子 

「昭和五年五月八日寫ス 
神田佐久間町居住 三木健一 十四才二ケ月
体重十八メ弐百 身長五尺五寸五分 

此ハ今回力士トシテ立浪部屋ニ佳弟入ス
力名 神田川

写真ではひ弱そうに見えますが、中学生にしてはなかなかの体格だそうで、
斎藤氏が白鵬の入門時と比較してくれました。

健一 身長166㎝余 体重68Kg余
白鵬    175㎝      68Kg

横綱となんら変わりません。

でも残念なことに、
神田川・健一君のその後は全くわかりません。

そこで、こちらをご覧ください。

img104_20180427200040702.jpg img105 (2)
碑の両脇に力石が置かれています。「虎勇」(左)と「魁」

左の写真は昭和10年に名古屋市中村区・妙行寺に建立された
「力持追善記念之碑」です。
名古屋の力持ち界の代表的人物だった永田寅吉を讃えた碑です。

徳蔵が名古屋の大物・寅吉一門と親しかったことは、
東京の「東助碑」に8名もの一門の名があることからもわかります。

碑の裏面には、
「昭和十年十月廿四日建立 米濱通 石菊」とあります。

右は碑の表下部に刻まれた関係者の名前です。
世話人に神田川徳蔵、発起人筆頭に平出健一の名があります。

そこで斎藤氏、推理を働かせました。
この「平出健一」は、あの三木健一少年ではないか、と。

相撲を辞めて故郷へ帰り「平出組」を継ぎ、碑の発起人として名を連ねた。

そうであれば、
このとき、弱冠19歳。

元・大相撲立浪部屋弟子、四股名・神田川、

どなたかこの健一少年を知りませんか!


    =情報=

まだ未確認ですが、三木健一に関する情報をいただきました。

徳蔵アルバムでは「神田川」を名乗っていましたが、情報によると
「国乃花」
昭和9年初土俵。昭和20年引退。最高位は三段目。

2007年か09年に、歌手でタレントのピーターさんの友人として、
国乃花の娘さんが「踊る!さんま御殿」に出演したとのことです。
ということは、
昭和10年建立の碑の「平出健一」は別人ということになります。

またの情報をお待ちしております。

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清正公さんの力くらべ

まずはこの写真をご覧ください。
人、人、人。大変な群衆です。

背後の建物には「旭硝子株式会社倉庫」の文字がみえます。

赤丸の中に丸太を担いでいる徳蔵がいます。
t15nagoya_web.jpg

写真にはこんな説明がついていました。

「大正十五年七月十九日 名古屋市郵般会会空地ニ於イテ 
二日間力角及ビ力持ヲ催ス 中央輪掛セルハ神田川徳蔵」

この「輪掛け(りんがけ)ですが、
伐採した木材を乾燥させるため井桁(井の形)に組むことをいいます。
それで、この写真の説明はちょっとおかしいなあ、と。

丸太は井桁に組んでないし、中央に座っているのは徳蔵とは別人だし。

で、この井桁ですが、
神輿も親棒担ぎ棒を縦、横に渡して井桁に組んだりします。

こちらは姫路市天満・蛭子神社祭礼での神輿です。
担ぎ手たちが担ぎ棒を高く差し上げています。

CIMG2557_20180423235255f33.jpg

そこで、祭り大好きの斎藤氏にお聞きしたら、
「自分たちは神輿を担ぐとき、
担ぎ棒に腕をくるりと輪っかのようにまわして担ぐことを、
輪掛け(わがけ)といっている」とのこと。

そうか。
樽に縄を掛けることを「輪掛け(わがけ)というから、
「輪掛セル徳蔵」はこちらだったのか。

徳蔵さんは神田明神のおひざ元にいるのだし、千社札にも名を連ねているし、
名古屋の写真の丸太は、まさしく神輿ですものね。

さらに斎藤氏、写真からこんなことまで解明してくださった。

「中央で丸太に座るメガネの親父は半てんの文字から、
「平出組」の親方でしょう」

徳蔵が名古屋の力持ちたちと特別の交流があったことは、
幸龍寺の「本町東助碑」と名古屋市・妙行寺の「力持追善供養之碑」に、
それぞれ名古屋の力持ちたちと徳蔵の名があることからもわかります。

もう一枚、お見せします。
何の写真か不明とされていたものです。

s5_5_8弟子 (2)

斎藤氏はこの「不明写真」に挑み、見事に解き明かしました。

「二列目の若者の半てんに「平出組」の文字があり、
土俵上中央の紋付羽織姿の男は、
輪掛けの写真で徳蔵の背後にいた男と同じ人物。
このことから、
これも場所は名古屋で、一枚目の写真と同時期のもの。
またテントにはサクラビールの文字がある」

この「力角及び力持」
どこで、何のために開催されたかについては、
「物流史談」(平原直 流通研究社 2000)という本からわかりました。

この本を書かれた平原直氏は、「物流」という言葉の生みの親で、
日本通運を経て流通研究社名誉会長となり、平成13年、百歳でご逝去。
その平原氏が本の中に、日通の荷揚げ現場で働いていた
橘町逸こと斉藤逸から聞いた話を書き残していました。

「大正十五年、名古屋の「清正公さんの力くらべ」で、
さし専門の徳蔵は三十四貫(約127Kg)をさし、(斉藤逸)は、
専門のかつぎで四十三貫(約160Kg)をかついで共に優勝した」

在りし日の平原直氏です。
20160912103354dc5_20180424000815221.jpg

「清正公さん」とは、秀吉・家康に仕えた強力の武将、加藤清正のこと。
その清正の命日には、清正ゆかりの名古屋市の妙行寺で、
近在の力自慢が集まって力くらべをやっていたそうです。

で、以上のことから、こんなことがわかりました。

名古屋での2枚の写真は、
加藤清正の命日に妙行寺で行われたイベントのときのもので、
この記念すべき日に徳蔵と斉藤逸は「平出組」から招待を受けて、
力持ちを披露した。

すごいですね。斉藤逸の話と当時の写真がピタリと一致したのですから。
徳蔵の秘蔵写真が出て来たからこそ起きた92年目の奇跡です。


      =補足です=

※加藤清正は旧暦6月24日(新暦8月2日)に熊本城で没しています。
 徳蔵たちが「清正公さんの力くらべ」に出掛けたのが7月。
 さらに大正10年生まれの地元の方の談話に、
 「7月24日の清正公の命日には、力くらべが行われた」とありましたので、
 これは清正命日にちなんだイベントとしました。

 8月2日といわれている命日とはズレがありますが、
 命日にちなんだ力比べで間違いないと思います。
 
 
 ※参考文献/「愛知の力石」高島愼助 岩田書院 2014


徳蔵の絶頂期

大正15年(1926)前後から昭和前期にかけては、
徳蔵の絶頂期だったと思います。

ことに大正15年はその活動がめざましく、各地で力持ちを披露。

下の写真は、

「大正十五年 高園寺ニ於テ角□店先ニテ寫(写)ス」

の覚書がある記念写真です。

赤矢印が神田川徳蔵です。徳蔵、このとき、35歳
t5_web.jpg

斎藤氏は、
背後の幟に書かれた「天力 丙寅仲夏から開催月は「大正15年5月」、
店は日本蕎麦屋、左隣りは歯科医院と推定。

こちらが写真に貼付されていた「覚書」です。
徳蔵の自筆と思われます。

t5覚書

この年徳蔵は、地元だけでなく、遠く名古屋にまで出かけて、
当地の経済界や地元の力持ちたちから大歓迎を受けます。
これについては次回、詳述します。

そしてこの年の11月、
東京の力持ちを結集して、
身延別院へ「本町東助碑」を再建したことは先述した通りです。

まさに「飯定組」二代目としての華々しい船出です。

こんなポストカードも作っています。

hagaki1_web.jpg hagaki2_web.jpg
 
また、
昭和29年(1953)発行の日本運輸倉庫株式会社の社内報、
「とびら」にこんな一文が載っています。
これは徳蔵没後の8年後の、徳蔵の偉業を称えた回想記事です。

「大正15年11月1日に、
それまで秋葉原にありました数百軒の小運送業者が統合して
秋葉原事業組合を結成した。
当時の積却組合倉庫取締役・神田川徳蔵さんのーー」

この記事から徳蔵はこのころ、「飯定組」のほかにもう一つ、
倉庫会社の取締役に就任していたことがわかります。

この大正15年という年は、
それまで3社あった大手運送業者が合併して新たに「合同運送(株)」をつくり、
1駅1店制を決めるという運送業界大変革の年でした。

ちなみにこの合同運送はのちに、戦時国策会社「日本通運」となります。

これは相撲のポストカードです。右端にいるのが徳蔵です。
こういうポストカードを作るという発想、なかなかのものですね。

sumou_postcard_web.jpg

この2年後の昭和2年には金融恐慌が起り、
やがて15年もの長きにわたる第二次大戦勃発という、
風雲急を告げる時代に突入していきます。

同じ年、
「飯定組」が所属する神田川米穀市場も深川米穀市場と合併。

そんな中徳蔵は、従業員の士気を高め、統率する手段として、
また、会社の宣伝の一つとして、
精力的に東京や名古屋で力持ちを披露して歩いたのです。


  ーーーーー◇ーーーーー

本日は久しぶりに「能」を鑑賞してきました。
「能」は「杜若」、狂言は野村万作さん出演の「佐渡狐」。

で、ヒヤッとしました。
市民文化会館での特設舞台で、杜若の精が舞台から落ちそうになったのです。
いやにこちらに寄り過ぎているな、危ないなあとハラハラしていたら、
次の瞬間、片足が半分、外へはみ出た。もう、どうなることか、と。
慌てて後ずさったため、落ちずにすみました。
後見さんがとっさに立ちあがりましたが、無事でよかった!

以前にも浅間神社舞殿での「羽衣」で、社殿を上がる狭い階段でつるり。
転ばずに体勢を立て直しましたが、あのときも本当にヒヤリでした。


削られた裏面

今回も「東助碑」の裏面にこだわっていきます。

シツコイ? でもね、物事はこだわりを持つところから進展する。
なんちゃって!

なんせ、これは神田川徳蔵の名誉に関わる問題なので、悪しからず。

東助没年の翌明治25年に建立されたこの碑、
そのときの石工(彫刻師)は山口平四郎でした。
しかし、現在の碑にこの名はありません。

碑の表と裏では石面の肌触りや色が明らかに違います。
たぶん碑の裏面は、大正15年の再建のとき研磨して元の文字を削り、
そこへ新たに刻字をしたのでしょう。
彫刻した人も石工も別の人になっています。

相撲をとる徳蔵(左)
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で、私、悩みました。
徳蔵さんは慎み深く、常に目上の人を敬い下の者に目をかける
優しく謙虚で道をはずれたことができない真っ直ぐな人物のはず。
お会いしたことはないんですけど…。

それがなぜ、碑を削ってそこへ自分たちの名前を刻んでしまったのか。

「そこまでして目立ちたいのですか」
とまあ、怒ったり気落ちしたり。

そうして逡巡した末、いや、それは違うのではないかと思い始めました。
碑の裏面に刻まれたおびただしい力持ちと台座の千社札著名人たち。
よほどの信頼がなければ、これだけの人たちが賛同するはずがありません。

大先輩の碑に手を加えるという大胆なことができたのは、
震災で損傷した碑は削るしかなく、そのことをみんなが納得したから。

そしてこうも思いました。
悩む徳蔵の背中を最後に押したのは、竪川町の大工の兼吉こと
竪川大兼(たてかわだいかね)だったのではないか、と。

これは、
本町東助が没した翌年に開催された追善力持ち興行の記事です。
img271 (2)
「東京朝日新聞」明治25年7月16日

この興行番付の西の大関竪川大兼です。

大兼はこの大事な追善興行に大関として出場したほど、
生前の本町東助とは親密な力持ち仲間でした。

大兼は東助没年と同じ年に、
まるで東助の生まれ代わりみたいに誕生した徳蔵を、
親身になって可愛がっていたのではないでしょうか。

徳蔵はそうした大兼の気持ちに報いるべく、
震災の翌大正13年、大兼が32年前に担いだ「鳳凰石」を改刻して、
世田谷区の妙壽寺に奉納。

大兼もまた老いの身で、徳蔵の興行にしばしば登場して支援していました。

下の写真は、「神田・佐久間学校にて大石差し」です。

大石を差し上げているのが徳蔵。その隣の黄色の丸が竪川大兼です。
さし石3 (2)

大兼徳蔵、仲よく並んでニコニコしています。

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こんな状況を見て、私は思ったのです。
東助碑再建は、竪川大兼が神田川徳蔵を見込んで実現したのだ、と。

このことから、碑の再建は、
それまで反目していた川並派車力派が初めて一つになるという、
記念碑にもなったのだ、と。

「東助碑」裏面中央に竪川大兼の名が刻まれています。
CIMG0717 (2)
東京都世田谷区北烏山・幸龍寺

神田川徳蔵には、
それだけの力があった
それだけの人徳があった

そういうことだと思いました。


ハマリますよ!

某ブログに書かれていた
「碑背面には高砂や榊原、馬術の草刈庄五郎らの名があります」
を確かめるべく幸龍寺へ飛んだ埼玉の斎藤氏。

その日のうちに結果がもたらされました。
「やっぱりなかったですよ。ブログ記事は勘違いかフェイク」

力石や力持ち碑などは注目度が低いので、
それを採り上げてくださるのは本当に有難いのですが、ちょっと困惑。

というわけで、斎藤さん、ご苦労様でした。
でも何事も無駄にはしない斎藤氏です。
ちゃっかり、別の発見を持ち帰りました。

これです。「東助碑」前方の敷石に刻まれた刻印です。
DSCF0466.jpg

斎藤氏がなぜ、この刻印に目をとめたかと言うと、
ワタクシメが「魔除け(呪符)の本を読め読め」とそそのかしたからです。
もともと路上観察を手掛けていた斎藤氏、たちまち術にハマリました。

もう10年ほど前になります。
ある城の研究者の講座へ出かけた私、
その先生が「城の石垣の刻印は大名の家紋」と言い切ったので、

「城の石垣には意味不明な刻印が多い。
魔除け、鬼門除けの呪符や石工の符牒
という観点から考えることも必要ではないか。
城の石垣には地蔵墓石石臼などが魔除けとして埋め込んであるし、
もともと家紋も魔除けや縁起のいい印から成り立っているわけですから」

とまあ、余計なことを言ってしまって…。
ムッとなった先生、「面白いこと言うね」とだけ言ってそっぽを向いた。

確かに、静岡市の駿府城石垣の刻印も、
昔の本には「そこを担当した大名の家紋である」としている。
で、前々から私はそれはおかしいと思っていたのです。

こちらは近くの神社の石垣で見つけた刻印です。
CIMG1107.jpg

「丸に中」とも見えますが、「丸に十」が正しいように思いました。
ちなみに、伊東市宇佐美の石丁場には、「丸に中」の刻印があります。

で、「丸に十字」の刻印は、たいてい薩摩藩・島津家の家紋だとしています。
「いやいや、隠れキリシタンの印だ」との説もありますが、
ややこしくなるので、ここでは割愛。

でもこの「丸に十字」は薩摩藩・島津家家紋とは関係なく、
山の災いから身を守る「護身の符」という意味もあるのです。
よく見かける刻印なので、
「薩摩藩」という考えはいったん捨てて眺めると面白い発見があるかも。

こんな印、見たことありませんか? 「九字」という呪符です。
目がいっぱいあるから、この目を魔が恐れて退散するというわけです。
で、この九字を越えた力を持つのがというわけで、
だから「十」「丸に十」は、より強い呪符とされています。

無題

ここにはこんな刻印もあります。

CIMG1108.jpg

一般的にいうとこの刻印は、
紀伊和歌山藩・浅野家の家紋です。
でも呪符の三つ星かもしれないし、ほかの意味があるのかもしれません。
梅の花みたいにも見えます。

下の絵は「五芒星」(左は六芒星)といいます。世界中にあります。
静岡県伊東市の仏現寺の屋根瓦にもこの印があります。

この寺には、力持ちの大島伝吉が持った「大傳石」がありますが、
その石の世話人の一人が本町東助の弟子・忠蔵です。
ちなみに「東助碑」の発起人に伝吉がいないのは、
東助より早く亡くなったためです。

また、この五芒星、第二次大戦の折りには、
「弾丸除け」として軍帽につけていました。
星

で、駿府の町から遠く離れたこんな僻村に、
なんで刻印された石があるかというと、
「ここの石が駿府城の石垣用に使われたから」ということになっています。

だから山の中にこんな「矢穴石」が今もあります。
ここは江戸時代、石を切り出した「石丁場」だったのです。

CIMG1388.jpg

上でご紹介した刻印の神社は、この山の下の神社で、
ここにも矢穴石が残されています。
ここまで運んできたけれど、途中で放棄したものと思われます。

CIMG1106.jpg

30年ほど前、土地の古老に、
「本当に駿府城の石垣に使われたのでしょうか?」と聞いたら、
「ここのは石質がもろくて、城の石垣には使えなかったらしい」と。

真偽のほどはどうなんでしょう。

確かな記録としては、はるかに時代が下った宝永のころの名主日記に、
「駿府城の石垣用に出したのに使ってくれなかったので、
府中の寺の敷石用に買ってもらい、あとは捨ててしまった」とあります。

これは宝永の大地震で崩れたときのことで、家康築城のころではないようです。

また幕末のころ、
「用水路の石垣用に出したけど挫折してしまった」ともあります。

この神社に残る石はそのときのものではないかと思います。
ならば石の刻印は大名の家紋とは無関係ということになります。

だから私は、これは石工たちが自分たちの安全祈願のために刻した呪符や、
自分たちだけに通じる符牒ではないかと思っています。

こちらは神社入り口にほったらかしになっている石です。
地元で、ここに刻印の石があることを知っている人はほとんどいません。
残念です。みなさん、駿府城の石垣は見に行くのに…。

CIMG1104.jpg

またもとんだ横道に逸れましたが、
でも魔除けの印にこだわるのは古今東西、世界共通です。
寺社のみならず鉱山や山仕事の場、漁船、農機具、海女さんの衣装、
日用品や幼児の着物、家具とあらゆるところに「呪符」はついています。

これを探すのも力石同様、想像力をかき立てられてすごく楽しいです。

私が城の石垣は呪符と教えられたのは「陰陽五行説」の本でしたが、
わかりやすい格好の本がありますのでご紹介しておきます。

「かたちの謎を解く・魔よけ百科」岡田保造 平成19年 丸善

久しぶりに怒っちゃった

疲れましたァ…。
久しぶりに怒りが脳天突き抜けて、ここ数日、気をもんでイラついて。

いつも利用している某通販に注文したら荷物が届かない。
委託の宅配業者の問合番号で追跡したら、なんとすでに「配達済み」。

そんなバカな! 
宅配業者へ電話したら、
「間違ってボタンを押しただけ。荷物は手元にあるから」と。
でもね、その後、配達された荷物、
なんかグシャッとしててセロテープがベッタリ貼られていて。
そこで初めて、荷物は誤配され、すでに開封されてしまったことが判明。

配達員が「はんこください」と出した書類にはなぜか拇印が押してあった。
今どき、拇印? 開けちゃった人っておかしくない? 
同じなのは姓だけで、名前も住所も全然違うし、
第一、心当たりのない荷物って気味悪いし、
それに誤配とわかったらすぐ通報するのが常識だと思うけど。
 
でも平気で開封して中を出したらしく、商品が乱雑に詰め込まれていた。
食料も入っているのになァ。顔見知りが開けたなら笑って受け取ったけど、
どんな人がいじくりまわしたかわからないし、個人情報は知られちゃったし。

ここ数日、悶々。

実は今回、今までの宅配業者から別の業者に変えられて、
ちょっと不安がよぎったけど、それが的中してしまったんですね。

今までの業者さんは必ず「住所、氏名をご確認ください」と言って、
宛先を目の前に出して、はっきり見せる人たちだったから、
社員教育が行き届いているんだなといつも感心していた。

で、商品なんだけど、
気にし過ぎかもしれないけど、気持ち悪くて、こりゃ、捨てるしかないかと。
でもダメ元で発送元へメールしてみたら、
即、宅配業者へ厳重注意が行って、即「弁償」となった。

ちょうど同じころ、友人から甘夏を送るからという電話があって、
それがなかなか届かないので、また誤配かと疑心暗鬼になった。

結論からいうと、友人からの荷物は電話から5日目に、
別の業者から無事届けられた。だからこちらは私の思いこみで終わった。

通販の荷物は発送元から新しい商品が改めて届けられることになった。
しかも以前の宅配業者の手で。
丁寧な詫び状をいただけたことも嬉しかった。

宅配の若者たちは本当に頑張っています。
だから、寒い夜、届けてくださったときなどはチョコレート差し上げたり、
再配達させないよう、気をつけたり。

誤配を責めているわけではないんです。
私でも誰でも間違いは起こすし、やってしまったことはしょうがないじゃない。
ただ問題はその後の対応です。

ウソやごまかしや威嚇で切り抜けようとしてもダメ。
相手の怒りを増幅させるばかりだから。
でも今回の業者さんも配達のおにいさんも、
思いもよらなかった出来事に気が動転しちゃったんでしょうね。

これを教訓にして次に生かしてくださいとしか言えないけど。

で、今回、改めて気付かされたことは、
通販会社の迅速かつ誠実な対応でした。
正直、
ここまで真摯に向き合って解決してくださるとは思ってもいませんでした。

だから感謝をこめて言っちゃいます。

ありがとう「ケンコーコム」さん!

ここ5日間、心身ともに疲れ果てて、
甘いものをバカ食いしてしまいましたが、今晩から穏やかに過ごせます。

※「いついつあなたのところへ、誰々から荷物が送られます」
 という事前の通知があるといいですね。
 中には連絡もなく送る人もいますから、事前に通知があれば、
 そのつもりで待機できますし、誤配されたときすぐわかります。
 配達依頼の書類にそうしたハガキをつけておくのもいいかも。

神田川派の旗揚げ

元・薩摩藩士でのちに第二代総理大臣になった黒田清隆
この人が力持ちのために揮毫した石碑は2基あります。

一つは東京都大島の岡田港にある「大島伝吉」碑、
そしてあと一つが「本町東助」の碑です。

黒田清隆が総理大臣になったのは明治21年。
翌年、大日本帝国憲法が発布されますが、黒田はその年のうちに辞任。

東助碑は辞任の3年後、伝吉碑は5年後の明治27年の建立です。

下の写真は5年前、私が写してきた「東助碑」の裏面です。
この碑は大正12年に震災で倒壊し、
その3年後、徳蔵によって身延別院に再建。

そして2年後の昭和2年
元の建立場所だった幸龍寺が世田谷区に再建されたのを機に、
東助碑も移転し現在に至っています。

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東京都世田谷区北烏山 
上部赤丸に神田川徳蔵、下部赤丸に書の高橋藤之助、黄色は納札睦会

で、この伝吉と東助の二つの碑をぼんやりながめいていたとき、
私の脳裏にふと、疑問が…。

普通、碑の裏面には建立者や後援者、世話人、
それを彫った石工の名が刻まれています。
大島にある伝吉の碑には、39の個人と団体名があります。

ところが東助碑には最初の建立時の後援者名はありません。
本来なら、明治25年の新聞に載っていた発起人、
仮名垣魯文や榊原健吉などの名があってもよいはず。

代わりに彫られているのが、再建の経緯を記したものです。
こちらです。
2東助碑

全文を書き出します。読みやすいように区切ります。( )内は補足。

 
   本町東助碑 門弟忠蔵 田甫(たんぼ)幸龍寺へ建設し
   然るに震災に遭遇し 其儘(そのまま)廃棄
   徳蔵 之聞(これをきき) 身延別院境内へ
   力士連及(び)納札睦會(会)後援し移轉(転) 再建設保留す

   大正拾五年十一月
         発起人   神田川徳蔵 

この碑の書は江戸文字の高橋藤之助、彫刻は岡本光平
石工は溝口峯次郎です。

で、「再建の経緯」の下には協力した力持ちたちの名がびっしり。

1東助碑

東京・芝大神宮の文化財になった力石の金杉藤吉をはじめ、
当時の有名力持ちが実に61名も名を連らねています。
これには遠く名古屋の力持ち8名も参加。

台座に刻まれた納札の会員を合わせると総勢112名余
すごい数です。

当時東京には、
運送業として船を使った川並派(かわなみは)と、
大八車を使った車力派(しゃりきは)があった。
この二派は仲が悪いとされていましたが、
しかしここでは仲良く碑に刻まれています。

そこでこんなことが考えられます。

徳蔵が両派をまとめて、新たに「神田川派」を起こした、
まさに徳蔵は本町東助に並ぶ東都の力持ちの中心的人物になった、
そのことをこの碑の裏面は教えてくれているのではないでしょうか。

写真は再建と同じ年に開催した神田川・佐久間学校での記念写真です。
赤矢印が徳蔵。
力石と並んで、ここにもバーベル鉄アレイが写っています。

sasiisi3_2 (5)

で、ここでむくむくと頭をもたげた疑問とは、
「徳蔵は最初の後援者名を削ってしまったのか?」ということでした。

そこでネットをパラパラ見ていたら、
伝吉碑と東助碑のことを書いたブログが目に止まりました。
で、読んでみたら「東助碑」の説明にこんなことが書かれていた。

碑背面には高砂や榊原、馬術の草刈庄五郎らの名があります」

ウソおっしゃい。そんなことどこにも書いてないよ。
また、ブログ主が「伝吉碑」と勘違いしたとも思えない。
なぜなら、伝吉碑には「草刈庄五郎」の名はないのだから。

でも写真も載せているし、現地へ行って書いたようになっているし…。
とは言っても、やっぱり腑に落ちません
第一、裏面いっぱいに刻まれた徳蔵と力持連中の名前は
いやでも目に入るはずなのに、これっぽちも書いてない。

この碑は故・伊東先生も高島先生も見ているし、
私も斎藤氏も調査しているから、見落とすわけがない。

だけど、
「書いてあった」とする人がいる以上、シロクロはっきりつけなきゃァ、
「ちから姫」の名がすたる!

というわけで、すぐ埼玉の研究者・斎藤氏へ相談。
うやむやにすることを私以上に嫌う斎藤氏、
確認のため早速、現地へ飛びました。

納札睦会

神田川徳蔵の結婚前の名は佐納徳蔵。
荷揚業「飯定組」の親方、飯田定次郎に見込まれて、
定次郎の5女お千代さんの婿養子となり、二代目を継いだ。

この結婚がいつごろかは定かではないが、
縁者のEさんによると、大正10年から12年ごろではないかという。

徳蔵30~32歳のころにあたります。

最初授かった女の子を幼くして亡くし、
震災の翌年、待望の男児を授かります。飯田定太郎です。

下の写真は、定太郎誕生のころの力持ち興行です。

「大正十三年四月三日 本郷丸山某宮家・別荘空地ニテ
 峰崎家主催宴遊会ノ余興」

黒いスーツ姿は東京漫才の東喜代駒、その右に徳蔵がいます。
さし石1 (3)
徳蔵ご子孫提供

この徳蔵長男の定太郎はいとこの飯田一郎や勝康とともに、
日本ウエイトリフティングの生みの親になった人です。

結婚、飯定組二代目就任、長男誕生と、
お目出度いことが続いたわけですから、もう徳蔵の人生は絶好調。
仕事や力持ちの世界だけではなく、
千社札の粋人たちとの交流を初め、東京漫才の東喜代駒
お座敷芸の幇間・玉介などをも仲間に加えていきます。

そんな中での「東助碑」の再建です。
この再建には「力持連」はもちろん、
千社札の「納札睦会」の先輩たちからも助けられました。

これが千社札です。これは文字札。
CIMG4263.jpg
静岡市内の某寺

写真を撮っていたら石垣の上からお坊さんがものすごい顔で睨んでいた。
貼る場所を物色していると思ったみたい。
建物を汚されるから江戸の昔から問題になっていて大変なのはわかります。

こんなのもあります。額に入れて奉納したものです。
額奉納
埼玉県越谷市・浄山寺

ここには納札塚も。

塚納札

これなら建物も汚れないしいいねと思ったら、やっぱりありました。

埼玉千社札

またまた話が逸れてしまいました。
ダメですねぇ、ついついしゃべり過ぎちゃって…。

「東助碑」を再建しようとがんばっている徳蔵を、
「納札睦会」の方々が協力したお話に戻ります。

睦会の方々の協力の証しがこれです。
「東助碑」の台座にざっと50余人もの会員の名が刻まれています。

1東助碑納札睦会

こちらには著名な高橋藤之助紺三いづ赤など、
千社札ではお馴染みの名があります。右端に徳蔵の名も見えます。

4東助碑納札睦会

徳蔵は所属する「納札睦会」の交換会へ出かけては千社札を集め、
それを丁寧にアルバムに貼っていました。
その徳蔵コレクションは、
飯定組・親方の三女おスミさんのご子孫宅に保管されていました。

おスミさんのご子孫・Eさんの話では、
「徳蔵さんの長男の定太郎さんとスミの息子が大の仲良しだったから
定太郎さんから譲られたのではないか」と。

その中から2つほどお見せします。

「紀元二千六百年奉祝神田明神 両国御假舎之図」
右端に徳蔵の名。
SANY1496.jpg

こちらは「俳優見立納札繭玉七福神」の「福禄寿・市蔵」。

左下の赤い瓢箪の横に徳蔵の名。
SANY1550.jpg

ほかに、
「江戸玩具集納札」「洒落紋」「引き出し駄洒落集」「納札睦尻取り合わせ」
などもありました。
また、東京漫才の東喜代駒の札もありますが、ここでは割愛。

東助碑、倒壊

当時の著名人たちが発起人になり、華々しく報道された「本町東助碑」。
最初、亀戸八幡宮境内に建立するはずでしたが、
なぜか2か月後には、当時、浅草にあった幸龍寺に変更となった。

こちらは現在の亀戸天満宮に残る力石です。
CIMG0869 (4)
東京都江東区亀戸

この幸龍寺は初め、2代将軍秀忠の生誕地、静岡県浜松市に創建されます。
その後、家康の移動に伴い、駿府(今の静岡市)へ移転。
そこから江戸・湯島、さらに浅草へと移転を繰り返します。

そのころの浅草は一面の田んぼ。
田んぼの中の寺ということで、「田甫(たんぼ)幸龍寺」と呼ばれていたとか。
確かに、東助碑の裏面にも「田甫幸龍寺へ建設」と刻まれています。

ところが建立から31年後の大正12年9月1日、
突如関東一帯を襲った大震災で寺は焼失。碑は倒壊してしまいます。

その前後の徳蔵の動き をちょっと見てみましょう。

大正9年ごろと推定される写真です。
みんなで俵上げに興じています。

20171021122649dbb_20180403192412646.jpg

埼玉の研究者・斎藤氏によると、
川は隅田川。川向こうに見えるのは旧国技館。鉄橋は総武線鉄橋とのこと。

斎藤氏は国技館の形から、この写真は震災前の大正9年ごろと推定。

足元にはバーベルが置かれています。
当時の日本ではまだウエイトリフティングもバーベルもないころです。
徳蔵はどのようにしてこれを手に入れたのでしょう。

ここでも徳蔵の進取の気性と先見の明を見ることができます。

20171021123623e1a_20180403193123bbe.png

そしてこの3年後、あの大震災です。

奇跡的に焼失をまぬがれた神田川米穀市場の人たちは、
被災者への炊き出しなどを行い、
徳蔵は親方の娘・おスミさんを捜しに本所・被服廠跡へ行きました。

それから2年後の大正14年4月、「いせ万」こと大西浅次郎死去。

この人は神田多町の青物問屋の伊勢屋万次郎の2代目で、
「東都納札会」に所属し、千社札の蒐集家としても知られた粋人。

同じ千社札の仲間だった徳蔵は、
この大先輩を悼み、力持ちたちによる追悼会を開きます。

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赤丸は「いせ万」の祭壇。

そして震災から3年後の大正15年
浅草・幸龍寺の焼け跡に廃棄されたままの「東助碑」の再建に、
徳蔵は並々ならぬ熱意で取り組みます。

こちらが徳蔵の手で身延別院に再建された
「力士本町東助碑」です。

hontyoutousukehi_web.jpg

碑の台座は、徳蔵が新たに加えたもので、
千社札の仲間たちの名前が刻まれています。
そして、碑の周りには力石が置かれています。

次回以降、詳しく見ていきます。

さて、この大正15年という年は、
徳蔵が最も精力的に動き始めた年でありました。

その原動力となったのが、
徳蔵自身、社会的に責任ある地位に上り詰めたことではなかったか、と。

ともあれ、そういう記念すべき年がこの大正15年であったのです。


          ーーーーー◇ーーーーー

※冒頭の「東助碑」以外の写真は、
  神田川(飯田)徳蔵のご子孫から提供されたものです。

発起人たち

※「相撲の土俵の一件」付け足しました。

東都力持ち界の中心人物・本町東助こと(浪)野東助は、
怪力の人でもあり、風雅の道を極めた人でもありました。

その東助、明治21年に自らの引退披露のための「書画会」を開催。
その様子を無二の親友、河鍋暁斎が描いたのが下の絵です。

東助は米俵につけた筆で書をしたため、風雅と力技を披露しています。

img101_20180402083147217.jpg
酔うて候ー河鍋暁斎と幕末明治の書画会」成田山書道美術館・
河鍋暁斎記念美術館編 思文閣出版 2008より

この3年後の明治24年、東助はこの世を去ります。
そして翌明治25年、東助を讃えた「力士本町東助碑」が完成。

それを報じた新聞記事です。

「東京朝日新聞」明治25年5月22日号
img066_20180402084948f05.jpg

新聞にはこうあります。
「碑の題字は永く東助を贔屓(ひいき)にせし黒田伯がふるわれたよし」

黒田伯とは第2代総理大臣だった黒田清隆のことです。
江戸和竿師の初代竿忠さんもこの黒田伯御ひいきの竿師だったし、
竿忠さん自身も素人力持ちの仲間に入っていたから、
東助さんとは顔見知りだったのかもしれません。

さて、この碑の発起人には、
書画会のとき名を連ねた人たちがここでも登場しています。

どんな人たちかというと、

暁斎と「なまず絵」を制作した最後の江戸戯作者仮名垣魯文
img098.jpg
同上。「暁斎絵日記」より

魯文は、天秤棒を担いで行商するボテフリの魚屋のせがれ。
困窮する家のため、8歳で酒商へ10年の年季奉公に出されます。
そこで開眼したのが戯作(通俗小説)の世界です。

しかし、当時の戯作者のほとんどは武士で、戯作はあくまでも道楽。
つまり今でいう原稿料などナシ。なくても困らなかったのです。

でも定職のない魯文ですから戯作だけでは食べてはいけず、
パトロンに盲従して生きることを余儀なくされた」

「吉原へ行ってもパトロンと同等のおいらんを相手にすることはできず、
常に一段低いおいらんを与えられていた魯文には、生活のため、
ピエロに甘んじる悲しさがつきまとっていた」
  =「仮名垣魯文」興津要 有隣堂 平成5年=

そのパトロンの一人に、大伝馬町の豪商・勝田某がいます。
こちらが暁斎が描いたその勝田某こと勝田五兵衛です。

img064 (2)

明治の文明開化時代になって、戯作者としての知名度もあがり、
ジャーナリストとしての才能も開花してきた魯文でしたが、
それでも明治8年から始めた新聞発行で定収入を得られるまで、
この悲しきピエロ暮らしは続いたそうです。

ですから東助の書画会や東助碑に発起人になった明治21年、25年は、
魯文の絶頂期だったのかもしれません。

さて、東助碑に戻ります。
碑の発起人にはほかに、相撲取りの高砂浦五郎や馬術の草刈庄五郎
剣術家の榊原健吉などがいます。

草刈庄五郎にしても榊原健吉にしても、江戸時代は将軍家に仕えた
高位の武士でしたが、幕府崩壊でその地位を失います。
そこで健吉は剣術の技を生きる糧として、
撃剣会を立ち上げて見世物興行をするようになります。

無禄になった侍が刀を鍬に換えて茶園の開墾に苦労した話は、
以前、ブログに書きました。
版画家の小林清親も静岡へ移住後は、
一時期、漁師になったり榊原健吉の興行に出たりしていたそうです。

その小林清親の版画「元柳橋両国遠景」について、以前、長々と書きました。
版画の中の柳の木の下に描かれているのは、、
柴田幸次郎が持ったという「大王石」ではないか、と。

小林清親「元柳橋両国遠景」 千葉市美術館蔵
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「小林清親」練馬区立美術館・静岡市美術館編 2015より 

確証を得たいと思い、手当たり次第資料を当たったものの、さっぱり
そこで昨年、清親の著書もある某美術館の館長さんにお聞きしたのです。
館長さんから丁寧なお返事をいただきましたが、
「絵の中の”力石”のことには全く気づきませんでした」とのこと。

がっくり!

でも「暇をみて少し調べてみたい」とおっしゃっていたので、
すご~く期待しているところです。

さて、こちらは暁斎が描いた榊原健吉の錦絵です。

「榊原健吉吉山遊行之図」
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「戯画と笑いの天才絵師・河鍋暁斎」河出書房新社 2014より

で、この東助とは毎日酒を酌み交わすほどの仲良しだった暁斎さん。
東助碑建立の発起人に、
イの一番に名前が出てきてもいいはずなのに見当たりません。

それもそのはず、
実は暁斎さん、東助さんがこの世を去る2年前に、
ひと足お先にあの世とやらへ旅立ってしまっていたのです。


     ーーーーー◇ーーーーー

相撲の土俵から救命措置をした女性たちが下されたって聞いて、
ひと言言いたくなりました。
「女性は穢れた存在だから神聖な土俵にあげてはいけない」-。
まだそんな盲説がまかり通っているんですねぇ。
昔々は女性しか神に仕えられなかった。その後仏教が入ってきて、
「女性は穢れている」といって排除。

で、稚児というのがいたでしょ?
寺の坊さんなんかが女性の代わりに性の相手をさせた子供。
女は穢れているけど、男の子でしかも子供なら穢れもない。
それと交わることで身が清まるなんて信じていた(言い訳もあって)。

今も祭りで男が女装するでしょ?
あれはやっぱりここぞというときは女性でないと神の効力がないから。
「女があがると土俵が穢れる」って、これ、「伝統」ですか? 、
なら、女相撲はどう解釈します?
今神社では女の子も土俵へあがるし、
赤ちゃんの泣き相撲に差別はありませんよ。

大相撲さん、穢れとか伝統って意味、間違って使っていませんか?
第一、男もみんな「穢れた女」から生まれたんですよ。どうします?
プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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