四股名・神田川
神田川徳蔵物語
☆未確認情報あり! 末尾。
ーーー◇ーーー
神田川徳蔵と橘町逸が、
名古屋市で力持ちを披露したのが大正時代最後の15年7月。
その4年後の昭和5年、徳蔵の元へ一人の少年がやってきた。
名は三木健一。
「4年後なら昭和4年じゃないの?」と思われるでしょうが、
大正15年12月24日に大正天皇が崩御されたため、
新しい年号の「昭和元年」は12月25日から31日までの7日間しかなかった。
たった一週間でも1年は1年です。
翌元旦からはや、昭和2年。だから4年後の昭和5年というわけです。
徳蔵の元へやってきた健一少年です。
初々しいですね。
で、この少年、なんと相撲部屋へ入門したのです。
この写真は、「徳蔵アルバム」に、
「清正公さんの力くらべ」のときの土俵の写真と一緒に貼ってありました。
このことから、
健一は名古屋の平出組の関係者ではないか、という気がします。
写真にはこんな説明がついていました。
「昭和五年五月八日寫ス
神田佐久間町居住 三木健一 十四才二ケ月
体重十八メ弐百 身長五尺五寸五分
此ハ今回力士トシテ立浪部屋ニ佳弟入ス
力名 神田川」
写真ではひ弱そうに見えますが、中学生にしてはなかなかの体格だそうで、
斎藤氏が白鵬の入門時と比較してくれました。
健一 身長166㎝余 体重68Kg余
白鵬 175㎝ 68Kg
横綱となんら変わりません。
でも残念なことに、
神田川・健一君のその後は全くわかりません。
そこで、こちらをご覧ください。

碑の両脇に力石が置かれています。「虎勇」(左)と「魁」
左の写真は昭和10年に名古屋市中村区・妙行寺に建立された
「力持追善記念之碑」です。
名古屋の力持ち界の代表的人物だった永田寅吉を讃えた碑です。
徳蔵が名古屋の大物・寅吉一門と親しかったことは、
東京の「東助碑」に8名もの一門の名があることからもわかります。
碑の裏面には、
「昭和十年十月廿四日建立 米濱通 石菊」とあります。
右は碑の表下部に刻まれた関係者の名前です。
世話人に神田川徳蔵、発起人筆頭に平出健一の名があります。
そこで斎藤氏、推理を働かせました。
この「平出健一」は、あの三木健一少年ではないか、と。
相撲を辞めて故郷へ帰り「平出組」を継ぎ、碑の発起人として名を連ねた。
そうであれば、
このとき、弱冠19歳。
元・大相撲立浪部屋弟子、四股名・神田川、
どなたかこの健一少年を知りませんか!
=情報=
まだ未確認ですが、三木健一に関する情報をいただきました。
徳蔵アルバムでは「神田川」を名乗っていましたが、情報によると
「国乃花」
昭和9年初土俵。昭和20年引退。最高位は三段目。
2007年か09年に、歌手でタレントのピーターさんの友人として、
国乃花の娘さんが「踊る!さんま御殿」に出演したとのことです。
ということは、
昭和10年建立の碑の「平出健一」は別人ということになります。
またの情報をお待ちしております。
ーーー◇ーーー
神田川徳蔵と橘町逸が、
名古屋市で力持ちを披露したのが大正時代最後の15年7月。
その4年後の昭和5年、徳蔵の元へ一人の少年がやってきた。
名は三木健一。
「4年後なら昭和4年じゃないの?」と思われるでしょうが、
大正15年12月24日に大正天皇が崩御されたため、
新しい年号の「昭和元年」は12月25日から31日までの7日間しかなかった。
たった一週間でも1年は1年です。
翌元旦からはや、昭和2年。だから4年後の昭和5年というわけです。
徳蔵の元へやってきた健一少年です。

初々しいですね。
で、この少年、なんと相撲部屋へ入門したのです。
この写真は、「徳蔵アルバム」に、
「清正公さんの力くらべ」のときの土俵の写真と一緒に貼ってありました。
このことから、
健一は名古屋の平出組の関係者ではないか、という気がします。
写真にはこんな説明がついていました。

「昭和五年五月八日寫ス
神田佐久間町居住 三木健一 十四才二ケ月
体重十八メ弐百 身長五尺五寸五分
此ハ今回力士トシテ立浪部屋ニ佳弟入ス
力名 神田川」
写真ではひ弱そうに見えますが、中学生にしてはなかなかの体格だそうで、
斎藤氏が白鵬の入門時と比較してくれました。
健一 身長166㎝余 体重68Kg余
白鵬 175㎝ 68Kg
横綱となんら変わりません。
でも残念なことに、
神田川・健一君のその後は全くわかりません。
そこで、こちらをご覧ください。


碑の両脇に力石が置かれています。「虎勇」(左)と「魁」
左の写真は昭和10年に名古屋市中村区・妙行寺に建立された
「力持追善記念之碑」です。
名古屋の力持ち界の代表的人物だった永田寅吉を讃えた碑です。
徳蔵が名古屋の大物・寅吉一門と親しかったことは、
東京の「東助碑」に8名もの一門の名があることからもわかります。
碑の裏面には、
「昭和十年十月廿四日建立 米濱通 石菊」とあります。
右は碑の表下部に刻まれた関係者の名前です。
世話人に神田川徳蔵、発起人筆頭に平出健一の名があります。
そこで斎藤氏、推理を働かせました。
この「平出健一」は、あの三木健一少年ではないか、と。
相撲を辞めて故郷へ帰り「平出組」を継ぎ、碑の発起人として名を連ねた。
そうであれば、
このとき、弱冠19歳。
元・大相撲立浪部屋弟子、四股名・神田川、
どなたかこの健一少年を知りませんか!
=情報=
まだ未確認ですが、三木健一に関する情報をいただきました。
徳蔵アルバムでは「神田川」を名乗っていましたが、情報によると
「国乃花」
昭和9年初土俵。昭和20年引退。最高位は三段目。
2007年か09年に、歌手でタレントのピーターさんの友人として、
国乃花の娘さんが「踊る!さんま御殿」に出演したとのことです。
ということは、
昭和10年建立の碑の「平出健一」は別人ということになります。
またの情報をお待ちしております。

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