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再び、神田川徳蔵です

大正・昭和を代表する力持ち、神田川徳蔵。
前の記事から1か月半ぶりの登場です。

もうね、みなさんの記憶から消えているんじゃないかと。
だって書いている私が「ハテ? 話はどこまでいったっけ?」なんですから。

頭を切り替え記憶を取り戻して、再スタートです。

前回は、
今から95年前の大正12年に起きた関東大震災でのお話でした。
大惨事の被服廠跡へ親方の娘・おスミさんを捜しに行った徳蔵。
しかしどこにも姿はなく。
もうこの世にいないものと、家の跡から溶けた硬貨を形見に持ち帰った。

被服廠跡でのおスミさんです。
イラストは文字もはっきりしていますが、PCのせいで読みにくくてすみません。
絵からそのときの状況を読み取っていただければ…。

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イラスト/章さん

幸いにもおスミさんは無事でした。
で、その関東大震災の58年前に起きたのが「安政の大地震」。
下の絵はその状況を描いた「鯰(なまず)絵」です。

地震を起こすのは「なまず」との言い伝えから、
そのなまず(ここではなまず坊主)の首根っこを「要(かなめ)石」で押さえて、
封じ込めようとしている絵です。

描いたのは天才絵師の河鍋暁斎(かわなべきょうさい)、
文は戯作者の仮名垣魯文(かながきろぶん)。
なまず坊主を懲らしめているのが人気役者の七代目市川団十郎ですから、
この錦絵は大当たり。売れに売れました。

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埼玉県立博物館蔵

で、河鍋暁斎、仮名垣魯文と来れば、
やっぱり明治の大力持ち、本町東助(ほんちょうとうすけ)です。

みんな酒に目がない飲み仲間連中です。

徳蔵は、その本町東助がこの世を去った年に生まれていますから、
この人たちとは全く交流はありません。

ですが、東助没後から35年後
徳蔵はこの大先輩と深く関わっていきます。

その関わりを象徴するのがこれです。

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東京都世田谷区北烏山・幸龍寺

東助を讃えた「本町東助碑」です。
東助への並々ならぬ思慕と尊敬が、この石碑には込められているのです。
それを順にお話してまいります。


※画像提供/「仮名垣魯文」興津要 有隣堂 平成5年
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豊かさをありがとう

玄関を入ると目の前の壁に、ご一家の写真が飾られている。
いずれも正装して写真館で撮ったものだ。

最初は友人夫妻と3人のお子さんの写真。
壁の写真はそこからスタートして、次の写真にはそれぞれのお嫁さんが加わり、
さらにお孫さんが増えていき…。

そのどの写真にも、家族の要(かなめ)に友人がいた。

間もなく沖縄で挙式するという三男さん。
そのお嫁さんもすぐに新しい家族としてこの壁を飾ることでしょう。

結婚に失敗した私には、望んでも果たせない世界だ。
羨望と称賛とほんの少しの反省のあと、私はきっぱりと「我が道」へ戻った。

金沢を去る朝、友人が篠笛を吹いてくれた。

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曲は「笛吹童子」と「山さくらの唄」

10年前、友人は私立高校からの要請を受けて学習塾をたたみ教師となった。
同時に海外トレッキングの軸足をエベレスト街道からヨーロッパへ移した。
そしてこの20日後には、南米ペルーに旅立つことになっていた。

山歩きにはこの篠笛を必ずザックに入れていくのだという。
笛の音色はどこでも歓迎され、ことに山岳民族には共感され喜ばれるとのこと。
今ごろペルーの山々に篠笛がこだましているに違いない。

正味1日半という金沢滞在だったのに、ものすごい濃密な時間を過ごせた。

私は来た時と同じように着ぶくれて、お世話になった友人宅をあとにした。
このむさくるしい髪は帰宅後バッサリ切って、元の短髪に戻しました。

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なぜ、金沢の食べ物はおいしいのか。
なぜ、金沢の文化は厚く、庶民にまで行きわたっているのか。
人口70万人の政令都市・静岡市が、
人口46万人の金沢市に遅れをとっているのはなぜなのか。

結論めいたことを言えば、
それは江戸時代の藩の在り方にあるのではないか、と。

江戸初期、徳川家康が駿府城にいたころの静岡市は、
人口15万人ともいわれた東海一の大都市で、
スペイン、オランダ、イギリスなどの使節が訪れた国際都市でもあった。

駿府城・巽櫓と東御門。左端のビルは静岡県庁。
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現在発掘調査が行われている駿府城跡からは
江戸城よりもはるかに大きい日本一巨大な天守台が見つかり、
かつてここは日本の政治経済の中心地で、大都市であったことを裏付けた。

日本最初の全国通貨「慶長小判」を作った金座も、
日本初の活字印刷、初の西洋式帆船の建造もすべてこの駿府が発祥。

しかし家康没後、孫の忠長が城主になったものの自刃。
以後、城主を置くことはなく、
サラリーマン武士が交代で城代になるという不完全な状態が幕末まで続いた。

家康が没して以後、政治や経済はことごとく江戸へ移り、
金座も銭座も遊郭も武士たちもすべて江戸へ引き揚げてしまい、
たちまち人口はかつての10分の1にまで激減した。

東御門
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今川氏時代に根付いた京文化も風前のともしびとなり、
駿府96ヵ町は田舎町に転落、ただの東西交通の通過点に成り下がった。

それに比べて金沢は、前田家支配のもと、加賀百万石の栄華を極めた。
結果、江戸時代の260年もの歳月の中で金沢は着実に文化を蓄積し、
城主がいないままの静岡は、衰退の一途をたどった。

転勤族の城代が支配者では、郷土への愛情も誇りも熱意も違ってくる。
その違いが味にも文化にも出ているのではないか。

ここはもう、「金沢のみなさん、参りました」と白旗をあげるしかない。

今、静岡市では「夢よもう一度」とばかりに、
大御所・家康さまにお出ましいただき、観光の目玉に据えている。
家康さまもおちおち安眠してはいられませんね。

篠笛の余韻を楽しみつつ、バスに乗った私。
金沢駅で買った笹寿司をリュックに入れて、無事、車中の人に。

次の停車駅の富山駅を出るころ、左手に日本海が見えた。
最初は大きな川だなあなどと思っていたら白波が立っていて、
「あ、日本海なんだ」と。

そのころから急に睡魔に襲われた。
その心地よい眠りの中に、夕べ見た兼六園のライトアップが現れた。

54

美しい光景だった。


<おわり>

※ブログには金沢の友人が撮影した写真をたくさん使わせていただきました。

夢は実現させるもの

「私の山歩きの原点は父」と友人は言った
その父が始めたファミリー登山で鍛えられたという。

「当時、周囲は青年、壮年の男性ばかり。女性も子供も珍しく、
幼い弟は褒められては歩き、母の胸に手を出してはまた歩き…。
槍ヶ岳は私が小6、弟が小2で立っています」

その槍ヶ岳(後方のとんがった山)と北穂高岳です。
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ついでながら、私の初めての雪山山行・奥穂高をお見せします。
 (上の写真もこのときのもの)
前から2番目が私。山を始めたのが30代半ばという遅咲き。
このとき40歳でした。エヘヘ。

ザイテングラードをうんとこしょ。後方に涸沢テント村が見えます。
 (左上・黒っぽく見える四角形)
 
♪ 滝谷さらば また来る日まで  北穂につづく雪の道
  かえりみすれば遠ざかる  まぶたに残る槍ヶ岳

思い出しますねえ。「穂高よさらば」
 ※ダークダックスや芹洋子さんも歌っています。
   ユーチューブでお聞きくださいね。

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さて、友人です。
「四年制大学へ行けば縁遠くなると言われた時代、その四年制大学へ進み、
ワンゲル部に入るもいつの間にか女子部員は自分一人」

「私を山好きにした父親でさえ、ステップアップを試みるたびに反対する。
なんでこれほどまで妨害されなければならないのかと思いつつ、
それでも雪山や長期テント山行と活動を広げていった」

その後、結婚、出産で登山は中断。
同時にフランチャイズ学習塾を始め、お義母さんとも同居。

「しかしこのままでは体力が落ちると思い、
2番目の息子が小学生になったとき、一大決心して社会人山岳会へ入会。
未婚女性に限るという会則があったが、雪山経験者ということで許された」

私が友人から、「おかあさんになっても山へ行ってもいいですよね」
の手紙を受け取ったのはこのころのようだ。

そして友人は、昔、父から学んだように息子さんたちを連れて山へ。
のちにご主人も引っ張り出しての家族登山になったという。

2007年、友人は一冊の本を出版した。
これです。

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本の帯にこうあります。
「夢は見るものではなく、実現させるものである」

その夢、「海外トレッキング」は2000年に叶い、
2005年にはこの1年間で3回もエベレスト街道を歩きに歩いた。

その留守中の学習塾を助けてくれたのが、大学生になった三男さんだった。

ただやみくもに突っ走ったわけではない。
義母との同居22年、30年近い学習塾の経営。
その中での登山です。

若いころから、日舞、お茶、お花を身につけ、
正月のおせち料理はすべて手作り、会合はいつも和服で出席という
まさに金沢の伝統を体現されている女性です。

下の写真は、ご自分の結婚の時の結納品で作った羽子板です。
「きれいだったので、職人さんに羽子板に作り直してもらったの」とのこと。

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子育て、介護、家事、仕事、習い事、そして山歩きと、
そのすべてに全力を傾けて人生を歩いてこられたのです。

今回、私はこの金沢で、夢のような時間を過ごさせていただきました。
なぜここまで完璧にできたのか。

それは、
「何事にも手を抜かない」「きちっとやる」「楽しんでやる」
そして何より、「夢は実現させるもの」という現実重視。

その真髄、生きざまを私はまざまざと思い知らされました。


<つづく>

主婦が山へ行くということ

そもそも友人とはどこで知り合ったのか、みなさん気になる所だと思います。

思い返せば今から33年前。
私が本を出したことに始まります。こんな本でした。

主婦もどんどん外へ出て、好きなことをやりなさいという、
「不良のすすめ」「そそのかし」の指南書です。

ちなみにお世話になった発行元の山と渓谷社の担当者さんは、
定年後伊豆へ移住。今も賀状で近況を伝えてくださっています。

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この本の私は「昔の名前」で出ております。
「表紙のモデルはあなたでしょ」とよく言われましたが、残念、違います。

で、この本、いろんなところで反響を呼びました。
NHK全国放送では30分番組に出演。それをきっかけに北海道まで講演。
生まれて初めてのこの講演、もう下手で下手で。
思い出すと、今でも冷や汗が出ます。

新聞各社や団体、NHKほか雑誌への掲載や講演依頼などもあって、
この予期せぬ反響に、私はもうオタオタ。

全国からお手紙もたくさんいただきました。
で、その中に、金沢の友人からの手紙があったのです。

北海道講演のおり、連れて行っていただいた屈斜路湖にて。
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金沢の友人からの手紙にはこうありました。

「この本で勇気づけられました。
おかあさんになっても山へ行ってもいいんですよね」

この言葉は友人だけが胸に秘めていた悩みではありませんでした。
当時、私は近所の主婦やその夫たちから面と向かってなじられていました。

「主婦のくせに登山だなんてみっともない。あれは若者がやるものでしょ?」
「遭難したらどんだけ人に迷惑かけるか無責任じゃないのか」
「アンタ、この辺じゃあ有名人だってね。○○の変人ってみんな嗤ってるよ」
  ※ちなみに、○○は居住区の地名です。

でもそういういじめやいやがらせや悪口は、
本の発行と新聞掲載、テレビ出演でピタッと止んだ。つまり、
「出る杭は打たれる」けれど「出過ぎた杭は打たれない」状態になったのです。

それどころか、そういう人たちが「私も山へ連れてって」と言い始めた。
「変人が便利な人」に昇格です。身勝手なもんですね。

思い返せば、長い間のそうした周囲の偏見に耐えられたのは、
己の信念と自負、仕事への情熱だったと思います。

取材中の私。
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東京の画廊で評論家の俵萌子さんと。
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当時の山仲間の女性たちは、みんなそんな目に遭っていました。
周りを刺激しないよう、みなさん、家を出るときは普通の服で出て、
駅のトイレで登山靴や登山用の服に着替えていたのです。

だから私よりずっと若い金沢の友人の、
「おかあさんになっても山へ行ってもいいんですよね」に、
私は「あ、ここにもいたのか」と、胸をえぐられる思いがしたのです。

それから数年後、その友人が来静。
確か、ご主人の学会への同行だったと思いますが、
到着したばかりの静岡駅で慌ただしくお会いしました。

そのときの写真です。
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このときの坊やは三男さん。
上二人の息子さんのあと、9年目に授かったお子さんとか。

この三男さん、のちにおかあさんの海外への挑戦に、
大きな役目を果たすことになります。


<つづく>

ごちそう攻め

白山市から再び金沢市へ。

駅で地元のTさんと別れ、しばし土産物の物色です。
友人は観光客用ではなく、地元の老舗が並ぶ一画に案内してくださった。
でも迷いましたねぇ。

日もとっぷり暮れたころ友人は、とある料理屋さんの前で、
「ここここ。さ、入って」と戸を開けた。
「えっ?」と戸惑う私に、「予約してあるのよ」

もうサプライズの連続です。

案内されたのは蓮根(れんこん)料理の「はす家」さん。
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金沢のうまいもんといえば日本海の魚とばかり思っていた私、
蓮根もか!と、もうびっくり。

この日の特別メニューです。

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もうね、次から次へとご馳走が運ばれてきて、
それがまたおいしいのなんの。

いつもならさっそくお料理の写真を撮るのに、
この日はそんなことは吹っ飛んじゃって、ひたすら舌鼓です。

繊細な味、美しい盛り付け、隙のない組み合わせ。
夢のようなひとときです。

代わりに友人が「証拠写真」を撮ってくれました。

手前の椀が「治部煮」、その向こうに見えるのが「のど黒塩焼き」です。
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「治部煮」には鴨肉、生麩が入っていてトロッとした口当たり。
「のど黒塩焼き」は、脂ののりが上品でクセがなく、刺身とはまた違う風味。
これをレモンと大根おろしでいただきました。

加賀・小坂れんこんの「はす蒸し」、ふわっふわで微妙に魚の味がします。
これも初めて食しました。なにもかも初めて。
自分の食生活がいかに貧しかったか思い知らされました。

こちらは、
金沢出身のヨリックさんが送ってくれた治部煮と甘えびの写真です。

治部煮 甘エビ

金沢へ出発前、逆流性食道炎で胃カメラを飲んだことなどコロッと忘れて
ひたすら食べまくりましたが、
天ぷらが出てくる頃には、さすがにもう入らない。

友人から「しらこの天ぷらは絶品よ」と言われて、
「では一つだけ」と口に入れたら、これがまたおいしいのなんの。
クリーミーで、とろ~っ。
で、欲がでてもう一つ、頬張りました。

あとに控えているのが「カニ雑炊」と「五郎島金時いもプリン」です。
これも食べなきゃ、〆になりません。
とうとう「しらこの天ぷら」の残り一つは、断念してしまいました。

金沢へは、お料理を食べにくるだけでも価値があります。
もうね、本当においしい。

こちらはヨリックさんが送ってくださった「かぶら寿司」の写真です。

かぶらずし

静岡へ帰ってから、あの天ぷらが忘れられず魚屋で「しらこ」を購入。
天ぷらにしたいのはやまやまだったけど、友人から、
「油がはねて大変よ」と言われていたので、煮つけでいただきました。

これはこれでおいしかったけれど、残してきた「しらこの天ぷら」のあの一つ、
なぜ無理してでも食べなかったのかと、
未練がましくも、深く後悔したのでありました。


<つづく>

文弥まつり・でくの舞③

白山市東二口(ひがしふたくち)の人形、裸にするとこんなふうになっています。
十字に結んだ心串に首(かしら)を差し込んであるだけで、
手も足もありません。

33 人形の説明 (2)

これに衣装を着せて人形遣いが一人で動かします。
これを一人遣いといいます。

ここから発展したのが文楽で、こちらは3人で動かしますから三人遣い。
語りは延宝・元禄のころ一世を風靡した「義太夫節」。
東二口の浄瑠璃(でくまわし・でこまわし)は「文弥節」です。

この違いが新旧の分かれ道で、
それゆえ、東二口の浄瑠璃は「古浄瑠璃」と呼ばれています。

現在、この古浄瑠璃が残されているのは全国で5か所。
●白山市の2ヵ所(東二口・深瀬新町)=加賀文弥
●鹿児島県=薩摩文弥
●宮崎県=日向文弥
●新潟県=佐渡文弥

こちらは終演後に出てきた「野呂間(のろま)人形」です。たぶん…。
間違っていたらごめんなさい。

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「のろま」は江戸のころ、野呂松という人形遣いが操った道化人形です。
アドリブで会場をわかし、ちょっとエロチックなことも言って、
最後にすっぽんぽんになったりしたそうです。

東二口にはこの「のろま人形」が三体残されているようですが、
「頭平めにして青黒き顔色の賤気なる人形」(声曲類纂)とありますから、
その一体がこれではないかと。

で、このときばかりは「おひねり(投げ銭)受け付けます」というので、
会場から次々と投げられました。
私もティッシュにお金を包み、ギュイとひねって投げ込みました。

「賤気なる」ー。確かに。いやしい目つきのオッサンです。
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この日の上演は「五段」をはしょって1時間半。これでも結構長い。
昔の人はこれを一晩中見ていたんですね。
神楽でも田遊びでも夜が明けるまで演じたのはなぜかって思うんです。

で、民俗調査書には、ただ「娯楽のない山村だったから」とか
「博打ばかりやっているからその矯正のため」なんて説明していますが、
私はそれはちょっと違うように思っています。

村にはもともと、それらを受け入れる素地があった。
初めは宗教的、呪術的に受け入れ、それが娯楽へと転化していった。
そして一番肝心なことは、これが「ライブ」であったこと。

つまり演者と観る側が一体となって、その場を楽しめた。
この「楽しめた」というワクワク感が一番大事ではないか、と。

この日は終演後、楽屋へ招き入れてくださった。
人形も自由に触らせていただきました。

楽屋

子供のころ見た「大衆演劇(ドサまわり)」の芝居では、客席から、
「おーい、うしろに刀もった奴がいるぞ! 気をつけろー!」と声がかかる。
すると役者は二ヤリとして「おお、ありがとよ」と。

次の場面になると今度は役者のほうから、
「うしろに怪しい奴はいないかい」と客席に尋ねる。
芝居小屋の客は大爆笑。

泥臭いけど、まさにライブ。

その大衆演劇の役者さんたちと小沢昭一氏。
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「季刊・藝能東西・野分雲号」新しい芸能研究室 1976より

「ライブ」ついでに、余談です。

こんなことがありました。
あるママさんコーラスの発表会で指揮者が突然、演奏を中断して
「そこの人たち、うるさい! 今すぐ出ていきなさい」と怒鳴った。

で、毎回、義理でチケット買わされていた私、密かにうそぶきました。
「客を怒鳴る前に、実力のなさを恥じろ」って。

かたや某有名テノール歌手のコンサートでは、
歌い終わったと勘違いした客がいっせいに拍手したら、
その歌手はにっこり笑って、
「みなさん、ちょっとお待ちください。まだ続きがあるのです」と。

で、そのとき私、思ったんです。
「なぁんだ。みなさん、通のような顔していたのに、
実は何にも知らないんじゃないの」って。

ママさんコーラスの客は一気にしらけ、テノール歌手の会場は
一気に盛り上がったことは言うまでもありません。

「ライブ」とは生(なま)を味わうこと。生を味わうということは、
楽しさを「強制」することではなく「共有」することだと思うのです。

私も「おのの姫」を持たせていただきました。
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佐渡の「のろま人形」はすっぽんぽんになったあと、舞台で放尿までした。
この「のろま人形」だけは、ちゃんとそれがついていたそうです。

で、そのおしっこ(水)をかけてもらうと子供が授かるというので、
子のない女性は喜んで浴びたと伝えられています。

現代人には奇異に映るかもしれませんが、こうした人形芝居一つでも、
まさに暮らしや人生と密接につながっていた証しではないでしょうか。

紀元前のエジプトでは巫女は呪術に神の形代(かたしろ)として、
糸に吊るした男根像を、また日本でも平安時代には
傀儡(くぐつ)女の百太夫が同じことをして歩いたそうです。

糸あやつり人形の起源はここからとも言われています。

男性のみなさん、自信持ってね(^-^)/ 神さまなんですから。
ただし、糸で吊るされた…。

世界の主流はこの「糸あやつり」だそうですが、
でも、東二口の人形たちの動きは、なんだか昔、NHKで見た
「ひょっこりひょうたん島」の糸人形たちと重なりました。

歴史民俗資料館の外では、
「でくの舞」に出演・協力した金沢工業大学の学生さんたちが、
一列に並んで見送ってくれました。

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ありがとう、みなさん!

生きた歴史、永久(とわ)に!


<つづく>

文弥まつり・でくの舞②

浄瑠璃の表題は「出世景清」。
で、私、思ったんです。なんで「出世」とつくのだろうって。

作者の近松門左衛門は、その最終章の「五段目」をこう締めくくっています。

「源頼朝は自分の命を狙う景清を捕えて首を刎ねた。
そしたら観音さまの首が落ちた。つまり観音さまが身代わりになったのだ。
これを見た頼朝は深く感じ入り、景清を赦した上、日向国まで与えた。

この温情に景清は声をあげて泣いた。
でも気がかりなのは、頼朝の姿を見たら起きそうな復讐心です。
そこでそうならないよう、己の両眼をくりぬいて頼朝に差し出した」

うーん。なんでこれが「出世」かいな?

この作品は近松の「出世作」だから「出世」とつけた、
なんて説もあるようですが、よくわかりません。

話を戻します。
こちらは牢屋につながれた景清に酒を差し入れる「おのの姫」です。
なんでこうなったかというと、

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頼朝の命を狙う景清は、頼朝の重臣に正体を見破られて京都へ落ち延びます。
その京都で平家全盛時代に愛した「阿古屋(あこや)」と二人の子供と再会。
しかし、阿古屋は兄からおのの姫のことを聞かされて嫉妬に狂います。

そのころ京都・六波羅では、熱田の大宮司とおのの姫が捕えらえて牢獄に。
それを知った景清は二人を救うため名乗り出て、自ら入牢の身となった。

で、赦免された姫は愛する景清のために牢獄を訪れては
酒を飲ませたり食べ物を差し入れたりしている、というわけです。

もうね、警備ユルユル。

それはさておき、
「おのの姫」の遣い手さんと「景清」の遣い手さんのお二人、
目線もすごいけど、阿吽の呼吸と緊張感、ビンビン伝わってまいります。

姫おのの

近松は、能「景清」や「大仏の供養」、舞曲「かげきよ」を元にして、
この作品を書いていますが、
今までにない「画期的」な作品ということで、たちまち大衆の人気を博します。

その画期的なものの一つが、
「悪女・阿古屋」と「貞女・おのの姫」との対比という設定なんだとか。

能とはどこが違うかというと、能の「景清」の内容はこんな感じ。

「源氏に捕えられ日向国に流された景清は、
源氏の世など見たくないと自らの両眼をえぐって盲目となります。
そこへ熱田の遊女に生ませた娘が尋ねてくるー」

まるっきり違います。神さびています。
近松景清は人間臭くてドロドロですが、こちらは重々しく静謐(せいひつ)です。

   能「景清」の面(おもて)    歌舞伎の「景清」
   面  景清歌舞伎
    梅若万三郎家所蔵       三代目歌川豊国・画

能については、つねまるさんのブログ
「戦国時代を追いかけて 日本のつまみ食い紀行」をぜひご覧ください。
つねまるさんは昨年、一大決心をして能の世界に飛び込んだ方です。
能についての質問、どうぞ、つねまるブログへどんどんお寄せください。

さて、
こちらは牢獄の景清の前で、二人の息子を殺して自害する阿古屋です。
悲劇的です。これを「シェイクスピアの一大悲劇」に比す人もいます。

で、なんでこんな結末になったかというと、嫉妬にかられた阿古屋が、
懸賞金を狙う兄に、景清の居場所を教えてしまったからなのです。

あこや戸子供たち

で、阿古屋は自分の非を詫びますが景清は許さず、
「父上助け給えや」とすがる我が子にまで、こんなひどい言葉を投げつけます。

「皆あの母めが悪心にて、
邪悪な女の胎内より出でたるものと思へば、汝らまで憎いぞえ」

なに言ってんのよ、景清さん。もとはと言えばアンタが悪い。
それに牢屋に入ったのは、おのの姫愛しさゆえだったでしょうに。

とまあ、大近松サマにイチャモンつけても始まらないけど。

忠義の証しに己の目ン玉を差し出して、かつての敵、頼朝から、
「仁義の勇士・武士の手本」と褒められて日向国までもらっちゃた景清さん、

「日向の国を本領し、悦び悦び退出す」

で、やっぱり私、思うんですよね。
憎っくき相手から領地を賜わった途端、嬉しがってシッポ振って、
「昨日までは平氏、今日からは源氏」って、

それがなんで「出世」なの?


<つづき>

文弥まつり・でくの舞①

350年もの伝統を持つ白山市東二口集落の「人形浄瑠璃」は、
毎年2月の4日間だけ、ここ歴史民俗資料館で上演されるという。

その貴重な千秋楽に、私は訪れることが出来たのです。

なんという幸運!

いよいよ始まります。
開演に先立ち、まずは人形による口上です。

32 口上

派手な衣装のこの人形、
勇ましい語りと大きな身振りで、右へ左へ舞台狭しと動き回ります。
人形遣いさんも重労働ですね。

人形の口上のあとは、浄瑠璃保存会の方の説明です。

33 人形の説明

かつては100軒ほどの集落だったそうですが、
北海道への移住や過疎化で現在はわずか12戸。

人形浄瑠璃を上演するには、最低20人ほどの人手が必要だそうですが、
現在は集落を離れた20代から70代11人のメンバーで存続しているとか。

静岡市にも似たような「有東木」という集落があります。
ここにも国の重要文化財の盆踊りや神楽が伝わっていますが、
保存会の方が以前、こんな悲壮な決意を語っていました。

「これもいずれ消えていく運命かもしれませんが、
受け継いだ者の責任として、それまでは一生懸命守っていきます」

ですが、この有東木集落は世帯数70戸。
温暖な地域、お茶やワサビ栽培、バスの便があるなどを考えれば、
ここ東二口集落の地理的条件や12戸という危機的現実とは、
比較にならないほどの安定感があります。

こうした存亡の危機に直面している浄瑠璃保存会ですが、
助っ人が現れました。金沢工業大学の学生さんたちです。

頼もしいですね。

さて、この若い力と伝統の力の合作、
近松門左衛門作「出世景清(かげきよ)」、いよいよ開演です。

36

時は源平のころ。
屋島・壇ノ浦の戦いに敗れた平家の侍・景清は、
平家滅亡後も源頼朝を討ちたいとの願望強く、落人となってその時を待った。

この景清さん、なぜか、尾張国(愛知県)熱田の大宮司家に婿にはいり、
大宮司の娘、「おのの姫」と夫婦になっちゃうんですよ。

ま、そんなことに目くじら立ててもしょうがない。

さきほどの保存会の方の説明によると、
「最盛期には浄瑠璃の演目は40以上あった。
明治期でも20演目ほど上演していたが、現在はわずか6演目。

近松門左衛門といえば、曽根崎心中などの世話物が有名で、
都会ではそういうものの方が人気があったが、
ここでは英雄・豪傑が登場する時代物がもてはやされた」とか。

さて、平家の落人・景清は、
これまでに34回も頼朝の命を狙うもののことごとく失敗。

37

チャンチャンバラバラ、敵味方入り乱れての活劇です。
人形の遣い手の頭も黒髪、白髪が入り乱れております。

語りの文弥節は一段と力強く声を張り上げ、
ここぞという場面には、ダンダンダンと勇ましく効果音が響く。
ツケ(拍子木を打つ音)だろうか、それとも足拍子でしょうか?

とにかく小気味よい。

冒頭、保存会のメンバーの方が、
「人形浄瑠璃になくてはならないものは三味線ですが、
昨年、三味線の方が突然亡くなってしまって…」
と残念そうにおっしゃった。

確かに、三味線の音色と共に動く人形は、
まるで生けるもののごとく泣き叫び、怒りで体を震わせたことでしょう。

無題

ですが、三味線がなくとも、
出演者のみなさまのこの「でくの舞」に賭ける情熱は、
初めてこの舞台を見た私を充分揺さぶってくれました。

文楽の人形は、指先までをもしなやかに動かしますが、ここのは、
手などなく、首(かしら)も目も口も動かない古浄瑠璃そのままの人形でした。

これを冬は雪に閉ざされた厳しい山村暮らしの中、
村人はみんなで楽しんだのですね。

そんな情景を思い浮かべつつ、いつしか私もその中の一人になって、
素朴な舞台に見入り、魅入りました。


<つづく>

12戸の村

金沢駅前からバスは一路白山市へ。
行くほどに雪が深くなる。

「東二口(ひがしふたくち)は本当に山の中なんですよ。
国道ができてやっと行き来ができるようになって…」と友人。

その国道とは、石川県から福井、岐阜をつなぐ157号線のこと。
険しい山間地が連続するため「酷道」と呼ばれているとか。

「落ちたら死ぬ」などと書かれた看板が立つほどだと聞いていたが、
集落までは難なく通行できた。
それでも4年前にはそこも土砂崩れを起こしたとか。

金沢から70分ほどで、本日の会場「東二口歴史民俗資料館」へ到着。
雪の壁には歓迎の絵が描かれていました。

29 東二口の積雪

玄関先で待っていてくれたのは、集落のかあさんたちです。
大鍋で煮込んだおでんで迎えてくださった。

CIMG4142.jpg

ここ東二口集落の「文弥(ぶんや)人形浄瑠璃」(でくの舞)は、
今から350年ほど前の江戸初期、
京都や大阪へ学問修行に出掛けた集落の若者たちが持ち帰ったもので、
現在、国の重要無形民俗文化財になっています。

「文弥」とは、当時大阪にいた浄瑠璃太夫「岡本文弥」のこと。

現代人は「こんな山の中の人たちが大阪へ?」などと言いますが、
それは「車で行く道」を想定しての考えで、
昔の道は、海上の道か山の稜線を越えていく道が「日常の道」でした。

だから、山中に集落が出来たのは自然の成り行きなんですね。

そしてその生活道路を人々は行き来したわけですから、
当然、他国の文化も流入します。
「陸の孤島」は決して「文化果つる寒村」ではなかった、
むしろ高度な文化の集積地だったと思います。

当地でも今、民俗文化財に指定されている神楽や田遊びの集落は、
金山を背負った金堀衆などの豊かな村でした。

静岡市の山間部に「八草」という、今は廃村になった村がありますが、
そこの神社では毎年、神楽の衣装や面を背負った近隣の若者たちが
山越えして集まり、一晩中、神楽を楽しんだと伝えられています。
そして自分たちの「創作神楽」までも演じていたのです。

ここでちょっと静岡市の神楽のお話を。
金沢から帰ってすぐ、静岡浅間神社での「大神楽祭」へ出かけました。

新田神楽の「チキドン」です。
CIMG4208 (2)

野外へ飛び出した神楽。一種の「門付芸」、道化です。
演者が羽織っているものをよくご覧ください。優勝旗なんですよ。
神楽用の特別な装束を着ているわけではないのに、サマになっています。

そこが楽しい!

この時期、山間部の神楽が年に一度、ここ静岡浅間神社に集まります。

こちらは「清沢神楽」の「鬼の舞」です。
この舞殿は今川時代、能の大成者・観阿弥が舞った場所です
観阿弥はそのあと、ここで没してしまいます。

CIMG4212.jpg

写真右端のビデオ機材の持ち主さん、椅子に立ちビデオをまわしながら、
小型マイクで自ら実況して録音までしています。

民俗芸能がよほどお好きなようで、いろんな場所でよくお見かけしますが、
以前、この場所を巡って大声出していて…。神さまの前なのに。
浅間神社さん、
この場所への立ち入りや舞台へ機材を置くのを禁止できませんか?

機材が邪魔をして、
橋掛かり上の演者をまともに見ることも撮ることもできないんです。
私もみなさんも暗黙の常識で、客席に座って撮影していますから。
それにマスコミ各社でさえ、
客の目障りにならない場所でカメラをまわしているじゃないですか。

とまあ、イラついてもしょうがないですね。

さて、東二口の人形浄瑠璃に戻ります。
歴史民俗資料館に保存されている「でく」たちです。

49

開演前の館内です。
床へ直に座るのがチョイと苦痛ですが、
始まってしまえばなんてことありません。

CIMG4143.jpg


<つづく>

ちょこっと観光

※ 末尾に「ヨリックさん」からの写真を追加しました。ぜひご覧ください。

金沢滞在二日目は市内見物です。
スキーや雪山山行とは違う、雪国の日常を知るよい機会となりました。

雪囲いです。

CIMG4130.jpg

昔、豪雪地帯へ行ったとき、
白一色の世界から、ふいに人影が現われてびっくりしたことがあります。
家などどこにも見えないのに、音もなく丸い影がふわーっと。
思わず目を凝らしました。この人たち一体、どこから?

白一色というのは墨絵のようでもあり、青の世界のようでもありましたが、
今回私が見た金沢の雪景色にはほんのり色がついていました。
この雪囲い、めぐらされた藁の感触が柔らかく暖かく優雅でした。

もう一つ、珍しいものを見ました。
融雪装置です。

CIMG4129.jpg

昨夜、タクシーに乗ったら道路が濡れていて。
「雨になったの?」と友人に聞いたら、道路から水がでているのだと。
翌朝、しげしげとこの装置を見学。

いたるところから水が噴き出ていて、なんとも面白い。
時おり、背丈ほども高く噴き出す個所があって、
友人は「注意しないと、頭から浴びるときがあるのよ」と。

やがて金沢城址(兼六園)へ。

雪の石垣が美しい。確か「大手門口」

CIMG4131.jpg

そこから見た「菱櫓(ひしやぐら)」です。
加賀百万石を誇った金沢城。石垣と櫓だけというのは寂しいですね。
江戸時代の城が現存していたら、と思わずにはいられませんでした。

CIMG4132.jpg

風もなく日差しが出てきたので、寒くはありません。

今度は黒門口から、「近代バイオテクノロジーの父」高峰譲吉旧居へ。
明治時代、36歳で渡米して、
消化薬のタカジアスターゼとアドレナリンを発明した人だ。

そういえば教科書で習ったことがあったなと思いつつ、
今はひっそりとたたずむ旧居をあとにした。

次に訪れたのは近江町市場です。
朝から観光客で大にぎわい。

カニ、高いですね。
地元産は外国産の3倍の値段です。
足が折れていると安くなるそうです。

生きたカニが口から泡を吹いていました。
ちょっと残酷。

CIMG4133.jpg

ウニも牡蛎もありました。
その場で食べさせてくれるそうです。
今度来たら、絶対、食べなくちゃ!

そこから私たちは金沢駅へ向かいました。
途中、巨大な鉄のオブジェが置かれていましたが、
金沢の町には似合いません。

駅へ来たのは、これから白山市へ行くためです。
白山市東二口(ひがしふたくち)という集落で、
この時期にだけ演じられる「人形浄瑠璃」を見に行くのです。

私はこれ、ものすごく楽しみにしていました。
正式には「文弥まつり」といいます。

駅前のバス乗り場で、昨夜ご一緒したTさんと合流。
白山市観光課が用意してくれたバスに乗り込み、
いざ、東二口集落へ。

CIMG4141.jpg

集落は深い雪の中にありました。


<つづく>

   = ヨリックさんから =

金沢出身で現在、静岡県浜松市にお住まいのヨリックさんが、
金沢の食べ物の写真を送ってくださったのでご紹介します。
ヨリックさんは今も味噌もかぶらずしもご自分で作っているそうです。

「鯛の唐蒸し」  
カラムシ

「二匹を腹合わせにして、
お腹に卯の花(おから)をいっぱいつめてお客に出します」

「ズワイガニと香箱蟹」
こうばこがに

プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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