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「金澤町屋」を歩く②

「大きく美しい黒瓦の屋根、木虫籠と黒漆喰の正面意匠」ー。

金沢市文化財課では、料亭「壽屋」の建物をこのように紹介しています。
で、「木虫籠(きむしかご)」って何だろうと思ったら、
これ「キムスコ」と読み、町屋のあの細い出格子のことでした。

建物を覆った木の格子は、まさに「虫かご」。

その格子にインドのベンガラ地方の赤い顔料を使ったことから、
「弁柄(紅柄)格子」ともいうそうです。

そういえば前回ご紹介した町屋、格子が全部赤く塗られていました。

その「木虫籠」の3階建ての料亭を背に、さらに歩を進めます。

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金沢市指定保存建造物の「壽屋」

路地から路地を歩いているうちに、急に開けたところへ出た。
石鳥居のかたわらに立派な石柱が立っていて、
「久保市乙剣宮(くぼいちおとつるぎぐう)」の文字が…。

しかしこのころから雲行きが怪しくなって、時おり突風が吹き始めた。
大きな石鳥居の下に、着物姿のお嬢さんが二人、
風に裾を舞上がらせながらも、楽しげに佇んでいます。

「京都の真似をして観光客に着物を貸しているのよ」と友人。

でもとっても可愛くて、
「写してもいいですかァー!」と叫んだら、
「うわー! ふふっ。 いいですよォー!」

そこでパチリ。

CIMG4106.jpg
金沢市下新町

「ブログに載せてもいいですかァー!」
すると二人声を揃えて、
「うわーっ! いいで~す!」

なので大きく写しました。仲良し二人組。
若さがまぶしいなァ。
左の方で狛犬が口をあんぐり開けて見ています。

ここは縁結びの神社だそうだから、きっといいご縁談に恵まれますよ!

CIMG4108.jpg
 
お嬢さんたちと別れて、私たちは「暗がり坂」へ。
建物のすき間に作られた狭い石段が暗がり坂だそうで、
ここはギンギンに凍っていて滑ること滑ること。

石段を降りたら浅野川河畔に出た。
このあたりは花街で、「主計(かずえ)町茶屋街」というのだそうで。
金沢の旦那衆は暗がり坂を下りて、この花街に遊びにきてたのねぇ。

河畔に立つ「主計町」の石碑の前で説明してくださる友人の声が、
風に乱されかき消されていく。
雪がくるくる回って四方へ飛び散って行きます。

江戸時代、
ここに加賀藩士・富田主計(とだかずえ)の屋敷があったところから、
その名を継承して「主計(かずえ)町」と呼ばれているとか。

で、「主計」という文字を見て連想したのが、
磯田道史氏原作で映画にもなった「武士の家計簿」。

これは、
「そろばん侍」の異名を持つ加賀藩御算用者・猪山家を描いたもので、
幕府崩壊で多くの武士が路頭に迷う中、
この猪山家だけが生き延びたという実話です。

下級武士で家計はいつも火の車だった猪山家だけがなぜ生き延びたのか。
それは「そろばん」という実務の腕を明治政府に買われて、
当主の息子が海軍主計官として重用されたからなんだそうです。

何が身を助けるかわかりませんね。

下の写真は、「かずえ町茶屋街」の夕景です。
強風でカメラを出すチャンスがなかったので、
金沢市商工会議所のパンフからお借りしました。

左が浅野川。向うに見えるのが浅野川大橋です。
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御算用者の謹厳実直な当主・猪山直之は、
この浅野川で友禅流しをしていたお駒さんと出会い結婚した。

映画のそのワンシーンが鮮やかに蘇ってきて、
雪の舞う川面がより一層美しく感じられました。


<つづく>
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「金澤町屋」を歩く①

話が前後しますが、お許しを。

毛針の目細商店へ立ち寄る前、
私たちは「町屋(まちや)」なるものを見て歩きました。

最初に目にしたのがこちら。

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かつてはこうした商家が軒を連ねていたそうですが、
時代とともに取り壊しや空き家が目立つようになった。

そこで、江戸の風情を今に伝える歴史的建造物を残そうと、
市や市民団体が保存と継承、活用に取り組んでいるとのこと。

細かい格子戸が印象的です。

狭い道路に音もなく走り込んでくる車と、
足元の雪に気をつけながら、しばらく町屋を見て歩く。

外はやっぱり寒い。静岡との温度差10℃。
手袋をはずしてカメラを取り出すと冷気が指先に突き刺さる。
なので、ついつい撮影はおざなりに。

「乗善寺」さんというお寺にやってきました。
変わった山門です。

CIMG4090.jpg
金沢市此花町

中へ入ったらすごい雪の山。軒先まで届いています。
玄関までの道だけが雪の壁に沿って続いています。

「これみんな屋根から滑り落ちた雪なんです」と友人。
「ひゃァー! こんなのが頭上から落ちてきたらひとたまりもないじゃない」
「雪吊りしていても樹の枝なんか一晩で折れてしまうのよ」

雪の力の怖さを知らない私にはピンとこない。

息子たちが小学生のころは学校でバスを仕立てて
わざわざ富士山のふもとまで雪見遠足に出かけたり、
雪をトラックで運んで運動場に雪山を作って遊ばせたりしていた。

この無邪気さ、
雪に苦労している地方の方々にはなんとも申し訳ないような…。

それにしてもこれだけ積み上がった雪の山、
春になったらどうなっちゃうんだろう。

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私が親しくしていただいているヨリックさんは、ここ金沢のご出身。

山伏の野田泉光院が江戸の文化年間に諸国を歩いて書いた
「日本九峰修行日記」を丹念に追い、それにご自分の旅を重ねたブログ、
「ヨリックの迷い道」のブロガーさんです。

かつては金沢大学フィルハーモニーオーケストラと同合唱団で活躍。
現在は静岡県浜松市でリコーダーアンサンブルに所属。
今も変わらず演奏活動を楽しまれています。

そのヨリックさん、ふるさとの表記は必ず「金澤」としています。
で、今回金沢の、特にこの町屋を見て歩いたらすごく納得したのです。

「かなざわ」は「金沢」ではなくて「金澤」なんだって。

さて、乗善寺さんの次に寄ったのが、前回お話した毛針の目細商店です。
そこから再び、町屋歩きへ。

途中、「旧北国街道」の道しるべを見つけました。
あれ? こんなところに「北国街道」が…。

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昔、信州の「北国街道」を歩きました。
これは信州から新潟へ抜ける道だったのですが、
ここ金沢の「北国街道」は、新潟から富山、金沢を経て滋賀県に達した道で、
古くは「北陸道」と呼ばれていたそうです。

また「加賀街道」とも言われて、加賀藩主の参勤交代にも使われたとか。

信州を歩いていたとき、とある古民家で、
ベトナムのコーヒーというのを飲んだことがありました。
黒くてちょっと脂っこい味でした。

そこのご主人が北国街道整備の運動をされているとかで、
「ご寄付を」と書かれた大きな甕に少しばかり投じたりして。

そんなことを思い出しながら角を曲がったら、また立派な建物がありました。
懐石料理の「壽屋」さんです。

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金沢市尾張町

元は羽二重問屋の大店だったそうです。
それを買い取って料亭にしたのが昭和8年。
今も現役です。

江戸末期の創業から一世紀半。
時代を生き抜いてきた歴史の重みをことさら誇示することもなく、
T字路の突き当りにひっそりと建っていました。

雪明かりに浮かんだ夜の料亭の、凛としたたたずまいと、
黒々とした格子戸からもれるほのかな灯り。

そんな光景が、ふと目に浮かんできました。


<つづく>

加賀毛針の目細さん

「冬の日本海」を堪能して、再び雪の道へ。

いつもの一人旅なら綿密に計画を立て、
何度もシミュレーションして出かけますが、今回はすべておんぶに抱っこ。
まっさらな状態で出かけました。

だから次に何が待っているのか皆目わかりません。

そんな中、案内されたのが「目細八郎兵衛商店」でした。

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金沢市安江町  「ほんけ めぼそはり 八郎兵衛」

柔和なご老人のお出迎えを受けて、暖かなお部屋へ。

「何が始まるの?」
「作るのよ、毛針のブローチ。まずはお店の商品見ましょ」
「毛針!」

陳列棚に鳥の羽根を使ったアクセサリーが並んでいます。

01

こんなのや、

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こんなのも。

毛針型のイヤリング(ピアスかな?)。
ただし針の先は丸くなっていますからご安心を。

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ご老人はこの店のご当主・目細(めぼそ)さんです。

ここは江戸時代以前の天正三年創業という老舗で、
初代が絹針の目穴(目度)を工夫して「目細針」という縫い針を考案したところ、
その優良さを褒められて、加賀藩主から「目細」という名前を賜わったとか。

ご当主さん、「おそらくこの名字は日本で唯一だと思います」とニッコリ。

江戸時代になると足腰の鍛錬のため武士の間で川釣りが盛んになり、
明治になると庶民までが楽しむようになって毛針の需要が増えた。
それまで川釣りは武士の特権だったそうです。

知らなかった。

で、需要増大のため、毛針職人も増加。
中でも金沢の毛針は品質に優れ、「加賀毛針」として名声を博した。

目細家はその「加賀毛針」の元祖というわけです。

武士が釣りに興じる絵です。
クジラの背のように見えるのは犀川に置かれた蛇カゴです。

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目細商店のパンフからお借りしました。

自慢の毛針を手にしたご当主さんです。
もう何千回と説明してきたと思います。言葉がよどみなく流れ出ます。

02

いよいよ加賀毛針細工の体験です。
用意された色とりどりの鳥の羽根をピンセットで選び、作業にとりかかります。
このご老女はワタクシメでございます。

ブローチ毛針

できました! 私だけのフェザーアクセサリー。

ホロホロ鳥の羽根にクジャクをあしらって…。
土台は釣り針の形をしています。

CIMG4102.jpg

日本海の幸をお腹に入れて、金沢の伝統工芸を体験して…。
思えば私、今朝の7時までは静岡にいたんですよね。
それから新幹線を乗り継いで、
つい2時間ほど前、ここへやってきたばかり。

なのにもう何日もいる気分だなァ。

と、ダラけかけた私に、友人の優しくも気迫のこもった声が飛ぶ。
「まだまだ。お楽しみはこれからよ!」

そうだったのです。
ここまではまだ、友人が周到にたくらんだ怒涛のサプライズの、
ほんの始まりだったのであります。


<つづく>

「日本海」をいただきました

到着早々案内されたのは、お寿司の「太鼓鮨」です。

静岡を立つ前、
「お昼は新幹線の中ですませていきます」と伝えたら、
「それは困る。ちゃんと予定に入れてあるから食べずに来てね」と。

町では期間限定の食のイベント「フードピア金沢2018」を開催中。
その中から友人が選んでくれたのが「太鼓鮨」だったのです。

このお店は、
「冬の金沢 うまいもん巡り」の「寿司部門」に紹介されていました。
(下段右端)

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昼飯時を過ぎていたせいか店内は私たちだけ。
ちょうどオリンピック・フィギアスケート、羽生クンのフリー演技が始まるところで、
友人も店の女将も熱狂的に応援。

私はもっぱら職人さんが握ってくれた目の前のお寿司に集中。
マダイ、ヒラマサ、甘えび、バイ貝、白イカ、マグロ、ブリ、穴子。
パクリと食べるたびに、タイミングよく次の握りが置かれていく。

ヒラメのエンガワ、これは私の大好物。本物はなかなか食べられない。

そしてノドグロ。
このときばかりは友人もテレビから目をそらして、
「これがノドグロよ」

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うん、おいしい! 
上品な脂の乗りとほのかな甘み。
味の余韻を舌から脳へインプット。おいしい体験は忘れません。

日本海の地物ばかり。
以前、当地のお寿司を食べた富山からの客に言われたっけ。
「太平洋の魚は身がユルユルでしまりがない」と。

食べ比べてみれば確かに、
こちらのネタはどれもギュッと身がしまって歯ごたえが違う。

ほどよいシャリごと「冬の日本海」を頬張る。
おいしさがジワッと広がる。甘えびは甘えびらしく、ブリはブリらしく。

寿司という指先でつまめるほどの小さな世界をひたすら楽しんでいた私。
気がつけばテレビは、
金銀銅の羽生、宇野、フェルナンデスが抱き合うシーンに変わっていました。

      ーーーーー◇ーーーーー

羽生結弦選手にちなんだお話を一つ。

その名も「弓弦羽(ゆづるは)神社」
名前が似ているところからファンの絵馬がたくさん奉納されていて、
羽生クン自身もここへ4回も必勝祈願に訪れているとか。

で、ここには有名な力持ち力士の力石があるのです。
3個あります。そのうちの一つ(真ん中の石)をご紹介します。

東灘区弓絃羽の森・弓絃羽神社1
神戸市東灘区御影町  写真提供/高島愼助先生  情報提供/斎藤氏

「奉納豊年石 文久元辛酉秋 御影世話人 平野喜助 谷田音吉
 江戸鬼熊門人新川七五郎 大坂荒物屋松本辰五郎 持之」

この二人の力持ちもありったけの力で応援していたと思います。


<つづく>

金沢紀行

石川県金沢市へ行ってきました。
前日の天気予報は「暴風雪」!
いつもお日様マークの当地でぬくぬく暮らしている私です。

想像もつきません。

お世話になる友人から「たくさん着込んできてね」と言われたので、
パンパンのぬいぐるみ状態で、いざ出発。
初めての北陸新幹線。
東海道新幹線は通路まで人がびっしりだったけど、こちらは空席が目立つ。

「大宮を出ますと次は長野です」のアナウンスにびっくり。
埼玉から一足飛びに長野だなんて。

トンネルを出るたびに雪が増えていく。
まっ白い雪原の中に人が寄り添うように固まっているのは墓石群だ。
トンネルとトンネルとのわずかな空間でのつかの間の旅情。

午後1時23分金沢駅着。
改札で出迎えの友人の顔を見て、ホッ。
外はさぞ吹き荒れていると思ったら、なんと晴れていた。

そうか。私は名前は「雨」だけど山ではずっと晴れ女だったもんナって、
ひそかに自分をほめたりなんかして。

世界で最も美しい駅14の一つに選ばれた「鼓門」。
門が楽器の鼓の形になっていた。
CIMG4138 (2)

「お昼にしましょう」

二人連れだって町の中へ。
道の両側には積み上げられた雪の山。
滑らないように慎重に歩く。

時々日差し、時々雪が舞う。


<つづく>

「御父上様 すみより」

「飯定組」の親方・飯田定次郎の三女・おすみさん夫婦が行方不明になった。
親方の命を受けて、徳蔵は焼け跡を歩き回り必死の捜索を続けたが、
とうとう見つけることができなかった。

泣く泣くすみ夫婦の住いの焼け跡から溶けた硬貨を掘り出して、
形見として持ち帰った。

さんイラスト江田

そのとき徳蔵が持ち帰った硬貨の写真です。

sinsai_zeni2.jpeg

ところが震災から11日目も過ぎた9月12日、
父・定次郎の元におすみ無事の知らせが…。

それを追いかけるように父の元にそのおすみさんから手紙が来た。
すみと菊次郎、それに女中(お手伝いさん)の喜代は、
菊次郎の実家、房州(千葉県)に逃れていたことがわかった。

「此のたびは、一かたならぬ御心ぱいをかけ、其の上お金まで下されまして、
いつもいつもお心にかけ、有りがとう御座います」

初めてもらった愛娘からの手紙。
しかも「全員無事」の知らせです。
絶望に沈んでいた定次郎、人目も憚らずただただ嬉し涙

31歳でこの大地震を体験したおすみさん、
九死に一生を得たその体験を、息子の利貞氏に繰り返し話したという。
その話を利貞氏は、「母の手紙」と題して手記に残していた。

他人のそら似と言われた徳蔵(左)と手記を書いた利貞氏(右)です。
利貞氏はE(章)さんのお父さまです。

徳蔵利貞

ちなみに徳蔵のご子息の定太郎氏は、
ウエイトリフティングの黎明期に活躍した人で、
東京オリンピックでウエイトリフティングの役員を務めたそうです。
愛称「タロさん」
利貞氏とはいとこ同士で、終生気の合った兄弟のように付き合ったそうです。

バーベルをあげる徳蔵子息の「タロさん」こと定太郎氏
定太郎3

手記からの抜粋です。

地震が起きた直後、家を飛び出したすみ夫婦と女中の3人は、
陸軍の軍服を作っていた被服廠(ひふくしょう)跡へ逃げ込んだ。
しかしそこは人の群れと荷物を満載した大八車で身動きもできない状態。

そこへ火の粉が雨のように降り注ぎ、激しい火焔と大旋風が巻き起こり、
大群衆の上にのしかかってきた。
薪を積み上げた中に隠れていたようなものだから、たまったものではない。

大八車がふわふわと空中を飛び、しっぽに火がついた馬は、
大八車につながれたまま、ただブルブルと鼻を鳴らすだけ。
生き地獄の中、人々は神や仏の名を叫び念仏を唱え…。

そのときおすみさんは妊娠中。
「こんなところで出産したらみっともない」と気丈にふるまった。

そのうち阿鼻叫喚の世界がぱったり止んで、急に静かになった。
あたりを見ると黒焦げの屍るいるい。

sinsai-_manga.jpeg

おすみさんたちは偶然飛んできた毛布を3人でかぶり火の粉を避けた。
しかし火勢からは逃れたものの、夫と女中はやけどを負ってしまった。
夫の菊次郎はぐったりして動かない。
もうダメだと思った時、通りかかった人がくれた氷水で蘇ったという。

房州まで徒歩で行ったのか貨車に乗ったのか、
何日たったのか記憶にない。
ただ田舎に着いたとき、菊次郎の母親が、
「お前、足あるか」と聞いた。
もう死んだものとあきらめていたそうです。

大震災が起きた年のおすみさんです。
1おすみさん

震災12日目に父に届いた我が子からの手紙。

「お体お大切になされ、いずれお目もじの上、御礼申し上げます。
母へもよろしく。
御父上様                            すみより」

父はこの手紙を小さくたたみ茶封筒に入れて、その上書きにこう書いた。

「三人が生きて房州にいることを聞いたときの、うれし涙のかわかぬ夜、
初めて来た手紙、
なつかしの手紙、かわいの我子の手紙、

後の記念に保存して置く」

無題

   ーーーーー◇ーーーーー

※イラスト・写真提供はE(章)さん。

関東大震災「おすみさん行方不明」

東京・秋葉原駅近くの神田川沿いにあった神田川米穀市場
そこは明治末年から昭和の戦前まで、
神田川の水運と鉄道によって栄えた米の一大流通センターだった。

その市場に所属していた荷揚げ運送業の一つに「飯定組」がありました。
荷揚げとくれば力持ちばかり。
中でも抜きん出ていたのが神田川徳蔵です。

徳蔵はのちに「飯定組」の親方・飯田定次郎の五女千代と結婚して、
飯定組二代目となります。

神田川米穀市場前で米俵の片手差しをする徳蔵
sijou_tawaraage_web (3)

大正5年の飯田定次郎一族です。
中列右から5人目が飯田定次郎、6人目が定次郎の妻幾ん
前列右端が定次郎五女のお千代さん。
徳蔵は結婚前なので、まだここには写っていません。

3 大正5年1月 飯田定次郎

そして後列右から2人目が今回の主人公、定次郎三女のおすみさんです。
この方は徳蔵の写真や情報をくださったEさんのおばあさまにあたります。
そのおすみさんと並んで右端にいるのがおすみさんの夫・菊次郎です。

大正12年9月1日の大震災のとき、神田川米穀市場は焼けなかったそうです。
そこで市場の人たちが一丸となって被災者の救援活動を始めます。
焼け残った倉庫の米で炊き出しをしたのです。

でも、本所に住んでいたおすみさん夫婦は無事だったでしょうか。

そのころのおすみさん(31歳)です。
縺吶∩螟ァ豁」12蟷エ1譛・螟ァ豁」12縺吶∩

おすみさんの孫でイラストレーターのEさん(章さん)が、
そのときの様子を描いてくれました。

右側は被災者救援のための炊き出しをする市場の人々。
そんな中、菊次郎・すみ夫婦行方不明の情報が入った。
父・定次郎は愛娘の安否を徳蔵に託し、再び被災者救援の陣頭指揮に戻った。

左側には焼け跡でおすみさんたちを探して歩く徳蔵が描かれています。
うわさでは、おすみさんは裸で泥をかぶっていたという。
しかし焼け野原には、何千とも何万とも知れない黒焦げの遺体が…。

努力もむなしく徳蔵はおすみさんを見つけ出すことが出来なかった。
泣く泣く焼け跡から溶けた硬貨を拾い、それを形見として持ち帰った。

「大忙しの神田川米穀市場」
さんイラスト江田 (2)

おすみさん夫婦はどこに? 

どこかで生きているのか、それとも…。
答えはイラストの中にあります。

探してね!

関東大震災・母の温もり

今から95年前の大正12年(1923)9月1日、
相模湾北西部を震源とする大地震が起きた。

関東大震災です。

被害は関東一円と山梨・静岡に及び、東京は廃墟と化した。
家屋の被害57万戸、死者行方不明者は14万人。

もうン十年も前になりますが、
私は見知らぬ方から突然、お手紙をいただいたことがあります。
静岡市内の老人ホームに入居のおじいさんでした。

父親と一緒に山奥の村から村へ行商をして歩いたという方で、
新聞に載った「冒険記事」(私の登山記事)を見て、
遠く南アルプスを見ながら峠越えした日々を思い出したとのこと。

そのとき送っていただいた伝説の花、「京丸牡丹」(アカヤシオ)です。
この花が咲く岩岳山京丸山は天竜川支流の山塊です。
おじいさんにとって大切な写真だったはずなのに3枚もくださった。

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「大正3年、小学校を卒業してすぐ行商を始めました。
父と一緒に汽車で袋井へ。そこから鉄道馬車で森町へ。
堀之内の商人宿に泊まって翌日は秋葉神社へお参り」

おじいさんは記憶力抜群で、12歳のとき歩いた道順をすべて書いてきました。

秋葉神社から気田(けた)ー居寄(いより)ー川上小俣(こまた)、
この小俣から京丸牡丹が咲く京丸山を一望したそうです。

その小俣から原山(わらせま) ー久保尾と歩き、
今度は大井川沿いの梅島から上長尾と強行軍だった。
「父は道々山の話や伝説を話してくれて、がんばる私を褒めてくれました」

「半年後、13歳で独立。魚屋を始めました。
天秤棒を担ぎ鰹4本(8貫目ぐらい)を売って、一日2円ぐらいの利益でした。
2円売り上げたとはたいしたもんだと褒められた。
夏にはポーラ化粧品を背負って山奥の村々を歩いた」

手紙には少年時代に天秤棒を担ぎつつ仰ぎ見た
南アルプス前衛の山々の名が淡々と綴られていた。

遠州(静岡県西部)の山々です。不動岳山行の折りに写したもの。
おじいさんはこんな風景を目にしたのかもしれません。

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新聞記事に書かれていた私の本を買いに町へ行ったら、
まだなかったので1週間待って、やっと手に入れたとのこと。

「自分も昔のように自由に山を歩きたいけど、年を取ってしまった。
どうぞ、大自然に反則なさらず、お山を愛してください」と、
手紙の末尾に必ず書いてあった。

下の写真は同じ遠州奥地の山、丸盆岳を経て黒法師岳へ行く途中です。
若い山仲間に誘われての山行でした。左が私。
夜はみぞれになり、テントが強風にあおられて眠れない一夜となりました。

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17歳のとき、母親が自分を仏間に座らせて、
10円やるから他人さまのご飯を食べて修行してきなさい、と。
それで実家がある金谷から大井川沿いの小長井梅地を通り、
野宿しながら井川田代を経て山梨県に入り東京上野へ行った」

「それから西郷さんの銅像を見て、片道6銭の市電で花やしきへ行きました」

「落ち着き先も決まらず難儀しました。
なんとか落ち着いた矢先、関東大震災に遭遇。
ちょうど東京湾で友人と水泳中で、
深川の木場から流れてきた材木につかまり、一夜を明かしました。
友人は上陸して本所の被服廠まで逃げ、行方不明になった」

「自分は翌日、千葉の漁師に救われ、1か月後、芝浦桟橋から軍艦で
静岡の清水港へ。そこから蓋のない貨車で実家へ帰ったら、
母に抱きつかれまして、母の愛の温もりをヒシと感じました」」

大震災の被災者たちです。
このとき「朝鮮人暴動」のデマが流され、多くの朝鮮・中国人が殺され、
騒ぎに乗じて無政府主義者の大杉栄らが憲兵に殺された。
ちなみに大杉栄の墓は静岡市の霊園にあります。

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おじいさんはたくさん手紙をくださった。
「小学校しか出ていないので」と言いつつも達筆で、
句などもたくさん送ってくださった。その一つ。

   吹き溜まり枯葉同士の敬老日

私もたくさん返事を書いた。
「あなたさまからいただいたお手紙は繰り返し読んでいます」とのこと。

「テレビに出ます」と連絡したら、寮母さんがひときわ明るい声で、
「耳が遠いので伝えます。ありがとうございます。尋ねてくる人がいないので」と。

それからすぐ手紙が届いた。

「テレビはじっくり拝見いたしました。
一度お目もじしたいと思いつつ、心に封印しております。
ご縁あっての文通でございます。
いつまでも変わりませぬ御心情でありますことを祈念しつつ」

南アルプスのライチョウです。
トサカを赤くしたオス(左)がメスに求婚しているところです。

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私はとうとうおじいさんをお訪ねしなかった。
でもいただいたお手紙はなぜか手放せなかった。

こういう昔話、私は好きなんです。
決して歴史の表には出てこないささやかな個人史ですが、
まぎれもなくその土地その時代に生きた人の生の証言だと思うから。

封筒には「正・6匁4分…約22g」や、「弦月~2日」とか
「7:20投函」という赤い文字が書かれていた。

なんとなく微笑ましいその小さな文字には、
おじいさんが歩いてこられた人生が凝縮しているような、
そんな気がしているのです。


次回は神田川徳蔵の縁者Eさんが送ってくださった震災の手記です。

10万馬力で、ゆくぞー!

大正・昭和初期を代表する力持ち、
神田川徳蔵の話からずいぶん逸れてしまって…。

一体いつごろ脇道へ入ったのか考えてみたら、なんと2ヶ月も前だ。
この空白は大きいよ。記憶を戻そうにもそう簡単にはいきません。

苦し紛れにぼんやりヤフーニュースを眺めていたら、
北の将軍さまのお顔が飛び込んできた。それをまじまじ見ていたら、
髪型が鉄腕アトムの頭にそっくりだと気が付いた。

♪ 空をこえてェ ラララ 星のかーなたァ
  ゆくぞー アトム ジェットのかぎりィ


将軍さまも「空をこえてゆくぞー」が好きみたいだし、
妹さんはウランちゃんに似た人かも。

なんて、あああ、寝ぼけたこと言ってる場合じゃないですよね。

エイッと記憶を2か月前に戻してそこから現在までの道筋をたどってみました。
逆に現在から2か月前まで後戻りしてみましたが、
なぜかうまくいかないんですよ。なので2か月前に戻って仕切り直しです。

そのころは確か、幸龍寺に建つ「本町東助碑」の話をしていました。

碑の主人公で明治の力持ち、本町東助です。
img787 (2)

東助さんをスケッチしたのは、天才画家の河鍋暁斎です。
そのころブログで、暁斎さんの酔っぱらいぶりと、
鬼才の名を欲しいままにした絵の数々を楽しみました。

で、そこから東助さんとも暁斎さんとも仲良しの押絵細工師の
勝文斎椿月へ話が飛んだのです。

その勝文斎椿月です。
img069_2017120217253782d.jpg

勝文斎椿月が手掛けた押絵扁額が、
千葉県の野田市郷土博物館にあるというので、写真拝借をお願いしたら
快く使わせてくださった。

その扁額「野田醤油醸造之図」のほんの一部です。
これはキッコーマン国際食文化研究センターが同博物館に寄託したもの。

2醤油醸造図部分

で、扁額の構図通り、野田とくれば醤油です。
ここからもう一気に「徳蔵さん」を離れました。

話は醤油醸造に使った重石(吊し石)へ行き、
それが職人たちの力比べの力石になったことを述べてきました。
そんな石が野田市内の神社に残されていることをご紹介し、
その中で、市内今上下・八幡神社の「万治石」へと話が飛びました。

「万治石」は発見当初の2004年に「明治」と誤読され、
2009年に斎藤氏によって「万治」と確認されたものの放置の憂き目に。

そのため長い間顧みられず、土留め石として土中に埋まっていたのを、
野田市役所の職員の方のご尽力で、昨年、氏子会に伝えられ、
この度めでたく千葉県最古の名誉を得て、土中から救出されたのでした。

そのてんまつを長々お話していたら、
あっという間に2か月たってしまったという次第。

ふうー。

記憶を巻き戻しているうちに、だんだん徳蔵さんが見えてきたぞ。

「本町東助碑」と神田川徳蔵の話、ここから再スタートです。

神田川徳蔵は「本町東助碑」を2度移転再建しています。
1度目は大正12年の関東大震災で破壊されたとき身延別院に移転。
2度目は昭和2年、幸龍寺の世田谷への再建を機に、碑も再度移転。

奇しくも本町東助がこの世を去った明治24年に、
神田川徳蔵は生まれています。
新旧力持ちの交代劇のような、なにか運命的なものを感じます。

徳蔵さんが何に突き動かされて碑の再建に情熱を傾けたかは、
今となっては知る由もありません。

ただ、埼玉の斎藤氏が言うように、
「知的で人望厚い力持ちの先達、東助に畏敬の念を持っていた」のは確かで、
その偉大な先輩のために時間も財力も惜しまず奔走した、
そういう真面目でひたむきな姿がほうふつとしてきます。

やれやれ。やっと感覚が戻ってきました。

こうなりゃ、この先、
10万馬力で、ゆくぞーっ!


※画像提供/「河鍋暁斎絵日記」河鍋暁斎記念美術館編 平凡社 2013
        「酔うて候 河鍋暁斎と幕末明治の書画会」
         成田山書道美術館・河鍋暁斎記念美術館編
         思文閣出版 2008
        野田市郷土博物館
プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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