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「万治石」最終回です

歴史を塗りかえた発見!
01 /30 2018
興味のない方には全く面白くない話で恐縮です。
でもこんな世界もあってマニアックな変な人がいるってご理解いただければ。

先日、千葉県野田市の石造物調査者の方が丁寧なお手紙とともに
拓本の写真を送ってくださいました。

野田市今上下の八幡神社・「万治石」の拓本です。

読者の皆さまから、「また万治石かい」とお叱りを受けそうですが、
「千葉県最古・日本で3番目に古い力石という名誉を、
このままうやむやにしたくない、ただそんな思いだけなんです。

地元の氏子さんたちの混乱を招いたことへの反省と正しい記録を残したい、
それは「万治石」に関わった方々の共通の思いだと確信しております。

地元調査者の方は石造物研究30年というベテランです。
当初の誤読を認め、
浅学の私からの指摘をお許しくださりご理解していただきました。

今までの経緯をおさらいしていきます。

土に埋まっていたときの「万治石」です。
2万治4年

この石は2004年以前は、こんなふうに読まれていました。

「奉納力石五十六メ目 明治四辛未年 五月日」

その5年後の2009年、埼玉の斎藤氏が「万治」の刻字を発見。
これにより「万治」「明治」と誤読していたことが判明。
正しくは、こうなりました。

「奉納力石五十六メ目ョ 万治四年」

ここまでは確定です。問題は左の一行です。
斎藤氏はこう解読しました。

「吉三月日」

この発見を地元調査者が知ったのは、昨年半ばとのこと。
で、改めて拓本を採って再調査されたそうです。
そして、今回、新たに解読されたものがこちらです。

「丑ノ五月日」

読者のみなさまは、
どうしてバシッと決まらないのかと疑問に思われましょうが、
古文書の経験がある方ならおわかりいただけると思います。
どんなベテランでも迷います。

以前ブログにご紹介した大阪の力石「稽古捺」、これ一つにも、
慣れているはずの大学や古文書会の方々の解読はさまざまでした。

石は紙の史料と違い立体でデコボコ。
また長年風雨にさらされ、人に踏んづけられて傷だらけ。
難解なんです。

さて、言い出しっぺの私が何も解読しないのは卑怯というもの。
なので恥を忍んで解読しました。

「辛丑月日」

斎藤氏の「吉三月日」は、「吉」の使い方が通常とは異なる。
通常は「三月吉日」のような使い方をしますので、これは違うのではないかと。

地元調査者の「丑ノ五月日」については、
写真では「三」、拓本では確かに「五」に見えます。
しかし万治は4年4月25日を持って寛文元年に改元されたため、
「五月日」はあり得ない。また「丑」字も違うのではないかと私は思いました。

私が解読した「辛丑(かのとうし)」は万治から寛文の干支です。
また万治4年はわずか4か月しかない。
石工さんは早めに彫り始めたでしょうし、改元の噂は聞いていたはず。
だから明確な月は入れなかった、というのが私の理屈です。

ただし、正直に申せば「辛」字はちょっと苦しい。

最近受講した常葉大学大学院の先生の、
「古文書解読には推理力、想像力を駆使してネ!」
のお言葉に力を得て、なけなしの想像力をフル稼働してみました(^-^)/

送っていただいた拓本の写真です。
IMG_1006-1.jpg

三案出そろったところで、
当地で最も権威ある「駿河古文書会」のお二人の先生に
ご意見をうかがいました。

お二人とも「現地で現物を見て判断するしかない」としながらも、
あくまでも私見として、こんなお答えをくださいました。

T先生
「左上の字を「吉」「丑」とするのは苦しい。
また「辛丑」は「辛」と読むには下部の「十」が見えないし、
「○月日」という場合、○には数字が入ると思う」

N先生
「三案の解読では、「辛丑月日」が最も無難かと思います。
ただ「辛」の字、写真も拓本も「?」です。
「辛」字の「立」の部分もその下の「十」の部分も、
写真も拓本もそうは見えないのが難点です。

また右側には成程、「ノ」とある如く、そう見えます。
「丑ノ五月日」という書き方は文書にはよくありますが、
碑文にこういうふうに「ノ」字を書くのはやや不審です。
不十分なる回答しか出来ず、慙愧の至りです」

困った時の神頼みで、N先生にはよくお尋ねするので、
「またむつかしい力石の石碑の宿題をいただきました。
干支と月日、写真版と拓本とを見比べながら悩ましく思います」と。

す、すみません!

古文書会の両先生がおっしゃるように、
「結局、現物を直接見て判断するしかない」

なので、ここに挙げた例はあくまでも参考に留め、
あとは地元の方々で大いに議論していただきたい。
きっとよいご判断が下されると信じております。

最初にこの石を見つけて調査された地元調査者と、
新たに万治文字を発見した斎藤氏、まさに見知らぬ者同士の共同作業が、
おのずと「万治石」を今に生かしたと私は思っています。

斎藤氏が八幡神社を訪れたとき、参拝者のおばあさんが若夫婦に、
「これ、知ってるかい? 力石って言うんだよ」と教えていたそうです。
嬉しいですね。

地元にゲタをあずけて、
「万治石」問題は、ひとまずオシマイ

      ーーーーー◇ーーーーー

※「亥ノ五月日」との見立てもありましたが、
  そうなると「明和四年」になってしまいます。
  現物を見た斎藤氏、地元調査者のお二人とも、
  「万治」を確認していますので、これはナシとしました。

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総代さんの行動力

力石の保存
01 /27 2018
その日私は、力蔵さんのご子孫宅から図書館へ直行。
そこで願ってもない本を見つけました。
府川松太郎さんという方が書いた「追分今昔記」です。

府川氏というのは、追分の角で「追分羊羹」を売る老舗のご主人だった人。

追分の道しるべです。
江戸時代、駿府清水湊を結んだ道です。

左へ入る小道が清水湊への道。道しるべの背後が「追分羊羹」のお店。
CIMG4086.jpg

「追分今昔記」(昭和60年。私家本)によると、
春日神社は鎌倉時代にこの辺りを支配していた入江氏の氏神だったが、
その後、追分の氏神になったもので、元は線路を越えた田んぼの中にあった。

そして、
昭和46年に持ち上がった県道建設のため、現在地へ移転したとのこと。

ということは、あの力石は神社移転と共に運ばれてきたことになります。
「いかい石」は、元の場所に置いてきたのかもしれません。

で、府川氏は本の中で「力蔵と力石」を取り上げていたのです。
そして力蔵さんのこんなエピソードも。

その頃このあたりは寂しいところでよくキツネに化かされた。
ある晩、ここを通りかかった力蔵さんは、
頭に里芋の葉っぱを載せたキツネを見た。そこで力蔵さん、
よし、逆にキツネを化かしてやろうと、川の中を歩く真似をして、
深いよォ深いよォと言いながら、キツネの周りをグルグル」

追分の狐ではありませんが、おキツネさんとおタヌキさんをお目にかけます。

CIMG1459.jpg CIMG1465.jpg
静岡市・畑守稲荷大明神のおキツネさん。右は某寺のおタヌキさん。
参拝者の目に触れないよう、秘所を隠してございます。
それを見たおキツネさん、皮肉っぽく笑っております。

力蔵さんといたずらギツネの勝負はどうなったかというと、

人間を化かしたと思いこんだキツネが油断したすきに、
力蔵さん、担いでいた天秤棒でキツネをしたたかに打った。
不意打ちを食らったキツネはコンと鳴いて闇に消えた。
さしものキツネも懲りたとみえて、その後は姿を見せなくなったとさ」

さて、力石です。
その後、私の神社惣代さん探しは難航。
個人情報保護とかで、教えていただけません。

ところが翌2012年早々、師匠の高島先生から、
「春日神社の総代さんから問い合わせが来た」との知らせです。

総代さんの話では、以前から境内にある「力石」が気になって調べていたら、
図書館で「静岡の力石」という本を見つけ、師匠へ連絡したとのこと。

総代さんは保存に動いていましたが、工事費がかかります。
氏子さんたちの説得に苦慮されている様子だったので、
私の講演へお誘いしました。

私、新聞に載っちゃいました。=静岡新聞=
img181 (2)

その日、総代さんとお二人の役員の方がお越しくださいました。

それから保存が急ピッチ。
完成したのがこちらです。

CIMG0579 (2)

立派な説明板も立てました。

CIMG0566 (2)

説明板には「静岡の力石」の紹介と、
師匠と私の名前(赤丸の中)までいれてくださった。

光栄です。

これはすべて総代さんの迅速で強大な行動力のおかげです。

こういう例は富士市今泉の愛鷹神社にもありました。
この愛鷹神社の総代さんは元富士市立図書館長だった方で、
境内に埋まっていた石が気になって調べ、
周囲を説得して保存されたとのことでした。

それがこちら
富士山の噴火の際飛び出した石もあります。さすが富士山麓の地区ですね。

CIMG0821.jpg
富士市今泉・愛鷹神社

清水区の春日神社の総代さんは保存だけではなく、
自ら民俗文化財指定の申請をされましたが、
残念ながらこちらはなりませんでした。

なにしろ旧静岡市は今まで一度も石造物の悉皆調査をしていない所で、
今後もその予定はないという。
私はこれを庶民文化軽視行政といっています。

今、計画中の歴史博物館も徳川家康一辺倒の感じで、
静岡弁でいう「やっきり」しちゃう状況です。
「ぜひ、博物館の庭に力石を置いてください」とお願いしましたが、
笑われるだけでしたもの。

くやじい~

ま、それはさておき、
春日神社の全景をご覧ください。

拝殿左に、保存された力蔵さんの力石がございます。
狛犬がお尻を向けていますが、気にしません。

旧清水市の石造物悉皆調査でも見落とされた力石ですが、
こうしてめでたくデビューできました。

末永く地域のみなさまに愛されていっていただきたいと願っております。

CIMG4084.jpg
静岡市清水区追分・春日神社

フンだり蹴ったり

力石の保存
01 /23 2018
今から9年前の2011年6月、偶然、力石と遭遇しました。
さんざん歩き回って何も収穫がないことが多いけれど、
ひょいと出会うことがあるんです。

これはそんな嬉しい発見です。

力石があったのは、静岡市清水区の春日神社です。
その日は地元の歴史団体主催の歴史散歩に参加。
参加者のみなさんはガイドさんを囲んで熱心に説明を聞いています。
そしていっせいに神社の屋根や立派な石碑を見上げています。

私はというといつものクセで、地面や建物のばかりに目を向けています。
知人から「神社や寺へ来ると異様な目つきになる」と笑われていました。

その「異様な目つき」で見つけたのが、これです。
「力石」の文字がババッと眼に飛び込んできました。

小さく見えますが、タテは48㎝もあるんです。
CIMG0117.jpg
静岡県清水区追分・春日神社  48×33×30㎝

拝殿脇にゴミと鳥の糞にまみれてチンマリと。
うんまぁ! フンだり蹴ったりだ」って思いましたよ。

団体行動だからとその日はあきらめ、みなさんの後を追いました。
数日後、再び現地へ来てみたら、神社の屋根の修理中で、
なんと足場が力石を踏んづけていた。

重みで石が割れなきゃいいなあと心配しつつ、
寸法を測り写真を撮っていると、背後になにやら気配が…。
振り向くと、中年の女性が険しい顔で私を凝視している。
「こんにちは」と声をかけたら、慌てて逃げた。気にせず作業続行。

しばらくして、とにかく神社の総代さんを見つけなきゃと聞き込み開始。
手始めに境内に建つ社務所兼公民館の呼び鈴を押したら、
さっきの女性がドアのすき間から目だけのぞかせ、いきなりバタン!

こんなことでメゲてはいられません。
なにしろ静岡県では数少ない刻字の力石ですからね。

「片手差しの力石 嘉永四年生 鷺坂力蔵 納 鷺坂粂吉」

片手差しです。
差し上げた石が蓮の花のように見えるところから「蓮華差し」ともいいます。
「蓮の花には見えないよ」って? 腕が茎、茎の先に花。美しいじゃないですか。

img180.jpg img076_2018012411445283b.jpg
「力石ちからいし」(高島愼助)より、
右は「麻機遊水池の自然」(静岡県土木事務所)よりお借りしました。  

聞き込み続行。
垣根の切れ目から隣りへ入ると、なにやら古そうな建物が忽然と。

「追分のお不動様」、真言宗醍醐派の明王山延寿院です。
追分(おいわけ)とは、街道が分岐したところです。
寺は春日神社と背中合わせに建っていました。

創建は室町時代ごろらしいと言われていますが、
徳川将軍・四代家綱時代の寛文八年(1668)銘の鰐口が現存しているとか。

現在の建物は昭和50年に再建されたもので、
地域の方々からの浄財をもとに、
岐阜市の指定文化財建築専門家の田中繁太郎氏が手掛けたそうです。

延寿院です。県指定文化財。
CIMG4078.jpg
静岡市清水区追分

この延寿院の裏側に民家があって、
老夫婦が縁台で涼んでいたので、これ幸いと声をかけると、
なぜかおばあさんが慌てて家の中へ。
足の悪いおじいさんは動けず、そのまま硬直状態です。

怪しく見られた? 小さなリュックにカメラを持っているだけなのに。
ま、気を取り直して固まっているおじいさんに「力石…」と言ったら、
おじいさん、途端に相好を崩してしゃべりだし、おばあさんまで顔を出した。

「おお、力石かね。前は2個あったっけェが、
いかいほうは戦後、なくなっちゃった。どけェいっただら。いかかったっけよ

バッチリ静岡弁です。
かつて東京から静岡へ転居してきたとき、隣りの奥さんが
いっきゃあキュウリがなってる」と話しかけてきたので、
思わず、えっ?あっ!

「いっきゃあ」「いかい」も大きいという意味で、最後の「わ」は、
東京言葉を真似たものでした。そこまでしなくてもね。なんかセツナイ。
で、今受講している某講座の先生が昨日、いみじくも言ったんです。
静岡へ来たらみなさんがけェって言うのでびっくりしたと。

ちなみに同じ「けェ」でもお隣の山梨県では、「そうけェ」(そうですか)。
静岡では「そうかい」とか「そうかね」で、「そうけェ」とは言いません。
じゃどういう使い方かというと、例えば、
「僕らン子供時分にゃー、こんなふうに言ったっけェが」と、こんな具合。

さて、延寿院の隅にこんな石があったけど、
ひょっとしてその「いかい石」ってこれかな?
でももうこの石がそうだったのか知る人は誰もいません。

CIMG4080.jpg

で、おじいさんはさらに情報をくださった。
「あんなおめェもん、よく担げェたっけなァ。あれ担いだ男の家があるよ」
すっかり警戒心を解いたおばあさんが、「そこ行ってあそこ曲がって」と。

ちなみに「おめェもん」は「重いもの」のこと。

さっそく教えていただいたご子孫宅へ。
応対してくださった鷺坂さん、戸惑いつつも、
「そうです。力蔵はうちの先祖です。
でも東京から来たということしかわからないんです

それでも私は大満足。
お礼を申し上げて辞し、その足で清水中央図書館へ急いだのでありました。


<つづく>

幸せのカタチ

世間ばなし
01 /20 2018
年末からお正月にかけて、食料を買い込んで、
こたつに本積んで、食っちゃ寝の自堕落がたたりまして…。

4日前、胃カメラを飲みました。

逆流性胃炎でしたが、すでに治癒。ピロリ菌なし。他の臓器も全く異常なし。
とたんに元気回復です。
で、気がゆるんでついつい洋酒入りチョコをポンと。途端に胸焼け。

医者から「チョコ、コーヒー、ナッツはダメだぞ」といわれていたのに、
ああ…。

作曲家が不倫したとかで騒いでますけど、ナンカナアー。
恥を申し上げますが、はるか昔、単身赴任中の夫からの仕送りも途絶えた中、
二人の子供を家に残して、2回もの大手術の入院生活を送った私。

女性にのめり込んでお金をつぎ込み、子供だけの家にも帰らず、
入院費さえ支払わなかった我が不倫夫の仕打ちに比べたら、
作曲家さんの「添い寝」なんて可愛いもんじゃないですか。
今でも思い出しますよ。
病院のベッドで天井見ながら、「入院費、どうしょう」って泣いた日を。

で、この方、長い間、奥さまを介護していたんですよね。

介護で思い出した話があります。
記者時代に取材させていただいた女医さんが、ふともらした話です。

女医さんは、ある農家に定期的に往診に行っていたそうです。
鍵がかかっていない家に入ると、座敷の真ン中に布団が敷いてあって、
寝たきりのおじいさんがいつも一人ポツンと寝ていた。

おばあさんは朝から畑へ出かけて留守。
おじいさんの枕元には、手つかずのままのご飯が置かれていた。

「なぜだと思います?」と女医さんが私に聞いた。
「ご飯を載せたお盆は、
おじいさんの手が届きそうで届かない位置に置いてあるんですよ」

「なぜだと思います?」
女医さんはまた同じ質問を繰り返した。
「それはね、おばあさんの復讐なんですよ」
「復讐!」

女医さんは話を続けた。

おばあさんが嫁にきたとき、この家には舅姑や大勢の小姑がいたんです。
夫となった人は横暴で、嫁さんは人間以下の扱いでさんざん泣かされた。
でもどんなにいじめられてもつらくても愚痴一つこぼさず働き通した。

それから舅姑を見送り、子供たちも家を出て行き、
やがて老いた自分たち夫婦二人きりの暮らしが始まった。
そのうちおじいさんが倒れて口も聞けず、寝たきりになった。

早朝、おばあさんは夫の枕元にご飯を置いて畑へでかけてしまう。
畑で一日過ごして星がまたたくころ、おばあさんはやっと帰ってくる。
おじいさんの枕元には、手つかずのまま干からびたご飯が…。

畑に行ったってそんなに仕事があるわけじゃはないのに、
お弁当を持って毎日出かける。
雨の日には農機具小屋で一日過ごす。

「おばあさんは無口な人で、私にも何も言わなかったけど、
そのうちわかったの。
ご飯はちゃんとあげてますから、手が届いたらお食べなさいって。
そうして積年の恨みを晴らしているんだって。
黙って、静かに、微笑みながらの復讐なんですよ」

介護が復讐のチャンスになってしまったんだ。

横暴な夫が倒れて自分に手をあげることもできなくなって、
おばあさんは初めて夫を支配する立場に立てた。
それでやっと自由の身になれたってわけか。

ある日、ポツリとおばあさんが言ったそうです。
「今が一番幸せ」

そのシアワセの背後に大きな不幸を背負っているんだね。
そういう時代だったのかもしれないけれど、無性に哀しくむなしい。

私は復讐より自立をめざしたけどね。
退院して半年でリュックを背負い、首からカメラをぶらさげ、
片手で手術の傷を押さえつつ、登山の紀行文を書くために山へ登った。

とにかく働かなくちゃって。
前向いて前向いて、歩くしかないしね。

おかげで「食い」気は旺盛ですが、「悔い」のない今があります!

「万治石」に動きが…

歴史を塗りかえた発見!
01 /16 2018
千葉県野田市今上下の八幡神社の「万治石」に動きがありました。

以下は埼玉の研究者、斎藤氏からの報告です。

江戸川堤上から見た八幡神社です。
この堤から富士山が見えたそうです。

1野田市
千葉県野田市今上下・八幡神社

土留めとして埋まっていたときの「万治石」です(一番手前)。
1万治年

それが、
下の写真のように掘り起こされていました。(2018年1月12日現在)
初めて全体像を見せました。きれいな楕円形です。

今回、これまで公表してきた寸法よりずっと大きかったことが判明。
埋もれていたときの寸法は、45×32×10余㎝でしたが、
新たに測り直した寸法は、62×43×28余㎝です。

2野田市

今までは写真右側の石碑の後方に埋まっていましたが、
現在は石鳥居をくぐったあたりに移動されています。

昨年12月に、野田市役所の方が宮司さんに話してくださったおかげでしょうか。
氏子さんたちが掘り出してくださったのかもしれません。
ありがとうございました。

3野田市

充分、石に日差しがあたるのを待って、斎藤氏は刻字を改めて読み直します。

そして新たな文字を発見!
赤丸の中にカタカナで小さめの「ョ」文字がみえます。
「ョ」は「余」で、「56貫目余り」ということです。なかなか細かい。

このことから以下のような刻字になりました。

「奉納力石五十六メ目ョ 万治四年 吉三月日」

ただし、ここで問題が一つ浮上。
石の全貌がわかって改めて文字を見たら、「五十六メ目」の「目」が、
目二つか、月篇に目みたいに見えたのです。(赤丸の上)

斎藤氏、2日間も通い、辞書も調べたそうですが、
そういう文字はあっても意味不明。
傷のようでもあり人為的なもののようでもあって、今一つわからないとのこと。
あとは地元の方に判読をお願いするしかありませんが、
ブログに来て下さるみなさまにもご意見を伺えればと思っております。

野田市5

斎藤氏は、「吉三月日」を「吉」文字と断定した根拠を、
「異体字解読辞典」(柏書房)、「くずし字解読辞典」(東京堂出版)、
「漢字くずし字辞典」(同)を参照して判読したとのこと。

8野田市 10野田市

で、今まで「千葉県最古」とされてきた野田市野田の愛宕神社は、
というと、
説明板が引き抜かれて立てかけてありました。(下の写真)。

以前にも書きましたが、
故・伊東明・上智大学教授の調査時には、確かに千葉県最古でしたから、
氏子さんたちの間違いではありません。

問題はその後の調査にあります。
「万治石」を「明治石」と誤読したこと。そして一番の問題点は、
その後、誤読が判明した時点で速やかに伝えなかったことです。

だから、氏子会のみなさまが恥じることは何もないのです。

むしろ、石の数の多さや形の良さは誇るべきものです。
そしてなによりも、「飯田氏」と刻まれた「宝暦石」は、
野田の醤油醸造家との関連性を推測させる貴重な石だということです。

6野田市
野田市野田・愛宕神社

愛宕神社のこの「宝暦石」は、
誤読のほか、年々古い石の発見が相次いだため、
「千葉県最古」から「千葉県で14番目に古い石」に陥落。

ですが、むしろプラス思考で、
こうした一連の動きは愛宕神社と八幡神社の力石の
新しい「ものがたり」の誕生になったと思っていただきたいのです。

力石が遠い過去の遺物となってしまった現在、
ただ石を並べておくだけでは、市民のみなさんに理解されません。

そういう経緯を記した新たな説明板を設置することで、
「へーっ、そうだったのか」「ここにはそんな歴史があったのか」と、
郷土を見直すきっかけにしていただけたら、と私は思っております。

で、「千葉県最古」の力石になった「万治石」、
この石に刻まれた「万治四年」は、
野田の醤油醸造が始まったころです。
これらを踏まえ、
氏子さんたちにはぜひ、民俗文化財指定の申請を、と願っております。


<つづく>

「ありましたッ!」

由比の力石
01 /13 2018
「久代ですッ! ありましたッ!」

電話の向こうから柔らかくもとびきり弾んだ声。
私はこの声を何度耳にしたことか。

電話の主は静岡市清水区由比の望月久代さんです。

今から8年前、
由比地区には力石がたくさんあるのではと思った私は、
当時、由比の郷土研究グループの会員で、
会報「結愛」の編集長だった望月良英氏に思い切って電話をかけた。

見ず知らずの私からの電話に戸惑いつつも、
良英氏が即座に名前をあげたのが、郷土史家の久代さんだったのです。

もう何でも突撃。当たって砕けろ。思えばご迷惑もずいぶんおかけしました。

久代さんの新発見第一報の力石がこちらです。
CIMG1192.jpg
静岡市清水区東山寺大門・大門薬師堂

久代さんはご主人と家業のみかん農家を営みながら、
長年、幼稚園の園長先生を務め、
また、静岡市との合併前の旧由比町時代には、
文化財保護審議会の委員として文化財の保護活動に携わった方です。

この大門薬師堂の力石は、私が電話をした前年の平成21年
久代さんはすでに先人が書き残した冊子から見つけていました。

上の写真は境内に埋まっていたものを相撲の土俵上に並べたところです。

平成22年11月、私は師匠の高島先生と薬師堂を再訪。
そのとき、地元の松永宝蔵氏が描いた力比べの絵もいただきました。

平成23年
地区をあげての「力石の重さ当てイベント」が行われました。
一番重いのは135㎏、最軽量は35㎏。ぴったり賞の主婦は米10㎏ゲット。

CIMG0011 (2)

それから3年後の平成26年9月、
地区の人たちの手で力石は新しい居場所を与えられ、永久保存されたのです。

昔の人はこれを担ぎましたが、今はこうしてクレーンのお世話に。
img883 (2)
「東山寺の歴史」(望月久代著)より

法印さんのご祈祷も。

img883 (3)
同上。

平成27年3月、
久代さんはご主人と共に説明板を寄贈

それから間もなく、電話の向うからいつもの優しく弾んだ声。
きれいにできましたから、見にきてくださいッ!」

ありがとう、久代さん! 
早速駆けつけたことは言うまでもありません。

「写真撮ってもいいですか? ブログに載せてもいいですか?」
「うふっ! どうぞッ!」

下の写真は、
薬師堂と隣接する東山神社との入口に保存された力石と久代さんです。
この一帯は古い歴史を持つ地域で、この東山神社も、
かつて存在した東山寺という古刹の鎮守だったそうです。
ちなみにこの東山寺は和銅年間(708~715)創建と伝えられています。

そして私が一番驚いたのは、
今も地区の方たちが当番制で神社に毎朝、お灯明をあげていることです。
365日、一日も欠かしたことがないそうです。
数百年以上、ひょっとしたら千年以上、
この神聖な火を絶やさずにきたなんて、凄いことですよね。

力石保存場所・説明板の右側に東山神社の石段があります。
CIMG2742.jpg

ここ大門薬師堂の力石は、久代さんが初めて見つけた力石で、
その発見から6年の歳月をかけて、熱心に地元の方々を説得。
そして見事に保存されたのです。

あの穏やかなお顔からは想像もできない粘り強さです。

現在、確認されている旧由比町の力石は全部で25個。
そのすべてを久代さんが見つけてくださったのです。

現在は郷土史研究や俳句を創りながら、
観光や美術館ボランティア、更生保護女性会委員を務めるなど
相変わらず多忙な日々を送られています。

気負わず、威張らず、自然体で人とも力石とも郷土とも向き合い、
しかし、その粘り強さで着実に成果をあげていった久代さん。
私にとって貴重な、そしてまたとない素敵な出会いでした。

これも久代さんが見つけた力石です。
CIMG0033 (2)
静岡市清水区由比阿僧・瘤山観音堂

ちょっと寂しい光景ですが、こうして力石の存在を掘り起こしたことで、
昔の青年たちの力比べの歴史が、地元の方々へ確実に伝えられていったと、
私は信じています。


   =朗報です=

前々回お伝えした野田市今上下・八幡神社の「万治石」と、
愛宕神社で動きがありました。
次回、詳細をお伝えします。


<つづく>

協力者のパワー

内房の力石
01 /09 2018
昨年暮れ、野田市役所から「万治石」についての電話を頂戴した折り、
役所の方がこうおっしゃった。

「しかし、この力石は神社所有なので役所で保存に動くことはできません。
それで神社の宮司さんに、
これは大変貴重な石なのでぜひ保存を、とお願いしたところ、
早速、氏子さんたちに話して善処したいと言っていました」

そうなんです。
時々「役所に保存をお願いしたのに何もしてくれない」という話を聞きますが、
保存は所有者がするものなんです。

私が関わった保存の話、2、3 お聞きください。
すでにこのブログでご紹介してきましたが、再度…。

一番早い保存は5年前の2013年の、
静岡県富士宮市大晦日(おおづもり)の力石です。

最初はこんなふうに放置されていました。この峠の向うは山梨県です。
CIMG0529.jpg

2個あります。
5個あったそうですが、右の石垣に使ってしまったとか。

この石の発見と保存に至るまで、10数人の方がご協力くださったのです。
石の所在地はバスも通らない山のテッペンだったので、
いつも協力者のご夫婦が半日がかりで車で連れて行ってくださって…。

最初は私の講演を聞いたこのご夫婦が力石に興味を持ってくださり、
それを知り合いの方に話したら、力石なら実家にもあるよ、と。
案内されて行ってみたら、写真のような状態で置かれていました。

このことはすぐ、その方の兄でご当主の望月氏へと伝えられました。
それから間もなく、「よし、保存しよう」となったのです。
秋祭りに懇意にしている石屋さんに引き合わせるから来てくれという。

秋祭りとは大晦日集落の氏神さま、芭蕉天神宮のお祭りです。
この日ばかりは山上に子供太鼓が鳴り響き、露店も出て大にぎわいです。
そんな中私は、他県の保存写真を持参して石屋さんにお会いしました。

それから半年後、協力者のお一人から電話がきました。
「雨宮さん、喜んでくれ。出来たぞ! 立派なものが」

これです。見事に保存された力石、どうぞご覧ください。

CIMG0620_201801041254434eb.jpg

この保存は石屋さんが、望月氏への恩返しをこめて無償で設置。
「力石は初めて知りました。石屋としていい仕事をさせてもらいました」と。

ほんの半年前まで、私はご協力いただいたみなさんとは面識もなかったのに、
それをここまでしてくださった。もうなんといったらいいのか。

石屋さんです。
CIMG0613.jpg

このことから、同集落の方の家にご自分が使った石があることも判明。
新たに3個の発見につながりました。

石を保存した場所にはかつて青年集会所があって、
その広場が力比べの場所だったそうです。石はそのときのものでした。
広場にある大カヤの木は対岸の集落からもよく見えて、
青年たちはその木を目指して集まったそうです。

また、昭和50年代まで力比べをしていたとのことで、
多くの方から体験談を聞くことも出来ました。

市の文化財保護審議会へ民俗文化財の申請を、と勧めたら、
望月氏は「そうなればいいなあ。それまでがんばって生きる」と。

代々この集落を守ってこられたご当主の望月ご夫妻です。
CIMG0611.jpg

それ以降私は、
芭蕉天神宮の春と秋のお祭りには、一升ビン持参で参拝。

そんな私に会うたびに、望月氏は「文化財はまだかねえ」と。
でも残念ながら、それは実現しませんでした。
それから間もなく、ご当主は天寿を全うされて黄泉路へ。

その亡き夫の墓前に正座して、
寒風の中、残された奥さまが切々と歌った「武田節」。

♪ 祖霊ましますこの山河 
   敵に踏ませてなるものか
   人は石垣 人は城


私は涙が止まらなくなりました。今でも耳に蘇ります。

そのころの富士宮市は、
「富士山世界文化遺産」で、それどころではなかったのだと思いますが、
後日、若い学芸員のお二人に、
力石の話をゆっくり聞いていただく機会を与えていただきました。

望月一族が守ってきた芭蕉天神宮です。
杉林の山道をクネクネ登って行くと、忽然と現れる「天空の社」です。

CIMG0510 (2)

超がつくほどの限界集落ですが、力石は望月氏亡き後も芭蕉天神宮と共に、
ご子孫と周辺集落の方々の手でしっかり守られております。


<つづく>

検証します

神田川徳蔵物語
01 /06 2018
埼玉の研究者・斎藤氏がこれまで新たに発見した力石は、
684個にものぼります。まさに驚異的な数です。

これに先人調査者の誤読を見つけて訂正した力石を加えれば、
その数はさらに増えます。
その一つが千葉県野田市今上下・八幡神社の「万治石」だったわけです。

ちなみに万治は江戸前期。
長野県下諏訪町の「万治の石仏」、あの時代です。

「万治の石仏」です。
の石仏万治
長野県在住のすくなひこな様のブログ「音 風 水」からお借りしました。

さて、斎藤氏が力石に関わってからすでに20数年。
そのキャリアに加え、路上観察で鍛えた勘の冴えと、
居住地の埼玉を起点に、関東一円を徒歩と自転車でコツコツ訪ねるという
気の遠くなるような根気と努力が684個という数字を生み出したといえます。

「万治石」について、斎藤氏からのお話を中心に検証していきます。

2009年3月30日、野田市今上下の八幡神社を訪れた斎藤氏は、
境内で、土止めにされ埋もれた力石を見つけます。
すでに公表されている「千葉の力石」(2006年刊行)の記載通りに、
「明治」の「明」文字が出てくるかと思いつつ土を払って見ると、どうも違う。

このとき出てきたのが右端の文字です。写真からも「万治」と確認できます。
拡大万治石

で、「これは万の異体字ではないか」と気が付いた。

さらに「三月日」という日付を見て、
埼玉県久喜市の日本で2番目に古い「万治石」が頭に浮かび、
その石の「九月日」という表現に共通していると思ったそうです。

下の写真は久喜市・八幡神社の力石です。

黄色の矢印が日本で2番目に古い「万治石」。年が判読不能なため
「九月日」から判断して、年代は1658~1660年の間と推測。
二つに割れています。
赤の矢印は日本最古の力石「寛永九申年」(1632)。

2樋の口
埼玉県久喜市樋の口・八幡神社

翌31日、再び現地へ。
持参したシャベルで掘り出し、石の表面を水で洗い流すと、
「万治四年」がくっきりと現われた。間違いない。

「いい知れぬ感動がこみ上げてきて、こりゃ凄い石を発見したな、と」

何枚も写真を撮り、帰宅後何度も見直す。
「やっぱり、明治ではなく万治だ」と確信。さらに念には念を入れて、
翌4月1日、2日と再々調査に赴き「万治」と確定し師匠に報告した。

ここから、検証に入ります。

この石が誤読された原因の一つは、
先行した調査者のいくつかの思い込みにあったのではないでしょうか。

まず「明治四年」と読んでしまったことで、左側の「吉」文字を反射的に、
明治4年の干支にあたる「辛未(かのとひつじ)と思い込み、
「明治四辛未年」としてしまった。

※ここでは、この部分を、
 草字体の「吉」とした斎藤氏の判読を正しいものとして話を進めていきます。
 いずれにしても万治四年は「辛丑」なので、「辛未」は間違い。

絵万治石
  =下手な手書きですみません!=

さらに石の傷などを人為的な刻字と勘違いして、
「三月日」の「三」を「五」と読んでしまい、「五月日」と断定してしまった。
そういうことが推察されます。

なぜ、「五月日」の「五」が完全な間違いかというと、
実はこの万治という年号は、万治4年4月25日をもって改元され、
それ以後は寛文元年になったからです。
ですから、「万治四年五月」はありえないのです。

学識豊富なベテランでも誤読してしまった例をお話します。

当地在住で戦国大名・今川氏研究の第一人者の先生は、
桶狭間で討死した今川義元の寺の小僧時代の名、
「栴岳(せんがく)承芳」の「栴」の文字を「梅」と思い込み、
わざわざ「ばいがく」とルビを振るという誤読を長い間してしまいました。
おびただしい出版物にもずっとそう書いてきたのです。

しかし近年、それは間違いと指摘され、自らの誤読を認めて即座に訂正。
講演会などの公けの場できちんと謝罪されたため、むしろ好感を持たれ、
歴史愛好家たちの先生への信頼は、少しも揺るぎませんでした。

既刊の「梅岳」は消せませんが、私は納得済みで本は今も持っています。

樋の口八幡神社
日本で1番と2番に古い力石を有する久喜市樋の口の八幡神社。

浅学の若輩者の私が、大先輩の誤りを指摘するのは恐れ多い事ですが、
あえて申し上げます。

今回のこの問題は、すべて最初に「明治」と誤読したことから始まっています。
たとえて言えば、「初動捜査ミス」

古文書の解読は難しく、
ベテラン同士が解読を巡って議論することは珍しくありません。
まして力石の刻字は絵文字めいたものもありますし、石も破損や埋没で、
判読は容易ではない。いつも初心に帰ることが求められます。

本来ならこの調査とは無関係の、しかも他県の私が介入することでも、
市役所が動くことでもありません。
また、誤読自体、それほど目くじらを立てるほどのものでもない。

ただ地元調査者が誤読を知った時点で、
八幡神社や愛宕神社の氏子総代さんに伝えなかったことが悔やまれるのです。
また「すでに伝えた」のであれば、
誤読を見つけ、「千葉県最古の力石」の発見に貢献した斎藤氏へ感謝し、
その経過なりを伝える礼儀があっていいのでは、と思うのです。

暮れの電話で、「貴重な情報をいただき、感謝しています」
とおっしゃった野田市役所職員の言葉は、そのまま斎藤氏に伝えました。
斎藤氏が嬉しさのあまり、その晩したたかに酔ったことは前回書いた通りです。

幸い石は無事ですから、
今後はきっといいカタチになっていくと信じております。
願わくば、この「千葉県最古の力石」のことを、
市の広報紙で市民のみなさんへ知らせていただけたら、と思っております。

次回は、私が関わった調査から保存に至るまでのお話をしていきます。

 ※少々熱くなりすぎまして、申し訳ありません。


<つづく>

※「万治の石仏」以外の写真はすべて斎藤氏提供

朗報です\(^o^)/

歴史を塗りかえた発見!
01 /03 2018
昨年の、暮れも押しつまった12月28日朝、
私は思いがけない電話をいただきました。

実はその前日にも同じ番号の着信があったのですが、気付くのに遅れて…。
電話は千葉県野田市の市役所の方からでした。

「八幡神社の力石、現地で万治と確認できました」

思わず「本当ですか! ありがとうございます!」と叫んでしまいました。

この石は「明治」と誤読されたため、顧みられることがないまま、
境内の土止めに使われ、土中に埋もれていたのを、
2009年、埼玉の研究者・斎藤氏によって、「万治」と読み直されたものでした。

この発見でこの「万治石」は、
千葉県最古、日本で3番目に古い力石になったのです。

しかしその後も保存されたという話もなく…。そこで昨年12月7日のブログに、
「歴史を塗りかえた発見!」と題してご紹介しました。

これです。
2万治4年
千葉県野田市今上下・八幡神社

実は3年前の2014年10月のブログでもこのことを取り上げたのですが、
地元の野田市での反応はゼロ。
ブログは始めたばかりだし、力石は認知度が低いから仕方がないか、と。

何の動きも進展もないまま、
誤読が判明してからすでに8年も経過

いったい地元の郷土史家たちは何やってんだろうと、少々苛立ちながら、
昨年12月、思い切って野田市役所へメールを出しました。

それから22日後、その返事がとうとう来たのです。
年末の多忙の中、
県外の見知らぬ一市民の要望に、職員がわざわざ現地へおもむき、
「万治」の刻字を確認してくださったという。こんな嬉しいことはありません。

このことをいつも気にかけ、この石の誤読が訂正されて広く認知され、
保存される日を待ち望んでいた斎藤氏に、すぐ知らせると、
「ホントですか!!!」と興奮したメールが返ってきた。
その晩は嬉しくて、祝杯をあげてしたたかに酔ったとのこと。

土に埋もれた「万治石」(手前)です。
1万治年

誤読は、いつ起きてしまったのか。

どんな高名な学者さんでも、どんな調査でも間違いは起こります。
また、新たな発見があれば、歴史はどんどん塗りかえられます。
歴史はそういう宿命を持っていますし、力石も例外ではありません。
だからこそ、過ちにはことさら、
真摯に向き合わなければいけないという責任が生じます。

下の写真は、
かつて日本一古いとされていた志演神社の「寛文四年(1664)」の力石です。
その後もっと古い石が発見されて、現在は4位に陥落。

chikara02_20180102210655e70.jpg
東京都江東区北砂・志演神社

「万治石」も、最初の間違いに気づいた時点ですぐ動いていれば、
同市の愛宕神社の氏子さんたちが、学者の調査書を元にして書いた
「千葉県最古の宝暦石」の説明板を早いうちに訂正することができたはずです。

「過ちを改むるにはばかることなかれ」

わかる範囲で検証していきます。
決して誤読した調査者を批難したり貶めたりするという意図のないこと、
個々人の民俗文化への貢献や業績は揺るぎなく、尊敬は変わらないことを、
ここに申し添えておきます。

この石は、2004年の調査報告書に出てきます。

これが初出かどうかはわかりませんが、
情報提供者の野田市の石造物研究者と我が師匠との、
共著の冊子の中に見出せます。そのときの判読がこちらです。

「奉納力石五十六メ目 明治四辛未年 五月日」

その5年後の2009年、調査に訪れた斎藤氏が判読したのがこちら。

「奉納力石五十六メ目 万治四年 吉三月日」

明治と万治では2世紀、200年も離れています。
誤読は年号だけではなく、ほかにも数か所ありました。

寸法は2004年のときの計測も2009年に量ったものも同じだという。
斎藤氏はこれを掘り起こして計っている。
2004年以前はどうだったのだろうか。
誤読はどんな状態の中で起きてしまったのだろうか。


<つづく>

写真提供/斎藤氏

明けましておめでとうございます

ごあいさつ
01 /01 2018
昨年の暮れ、いつもの川沿いの道を散歩していたら、
なんと、大きなワンくんがこちらを見ているではありませんか。

CIMG4060.jpg

一瞬、ライオンか!と思いましたが、よくよく見たら犬。
急ぎ家へ帰り、カメラ片手に急行。

再び来てみたら、幸運にも農家のお父さんがいて、
ワンくんの手入れをしていました。

CIMG4065.jpg

木で犬の形を作り、それに金網を被せてススキを差し込んだとのこと。
耳と顔の毛はちゃんと色を変えてあります。

芸が細かい。

目は発泡スチロールのどんぶりで、鼻も同じ材質だという。
「来年は戌年だからつくってみた」とお父さん。

うしろから見るとこんな感じ。
シッポもススキです。

CIMG4062.jpg

この遊び心、たまんないですね。

「ワンちゃん、名前ありますか?」と私。
「うんあるよ。コーン」とお父さん。
「えっ? コーン?」
「あのな。これは今飼ってるうちの犬がモデルで。そいつがコーンっていうんだ」
「なんか珍しい名前」
「フフ。あのな。一代目の犬はポップって名前だった。
だもんで二代目はコーンにしたんだよ。合わせてポップコーン」

ポップコーン!

もう二人で大笑い。
ひと足早い福笑いです。

CIMG4067.jpg

どうです、お父さんを見るコーンくんの甘えたようなまなざし。
信頼と愛情が行き交っています。

道行く大人も子供もみんな優しい笑顔になって通り過ぎていきます。

幸せな一年になりますように! きっとなりますね!

本年もよろしくお願いいたします。

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞