「万治石」最終回です
歴史を塗りかえた発見!
興味のない方には全く面白くない話で恐縮です。
でもこんな世界もあってマニアックな変な人がいるってご理解いただければ。
先日、千葉県野田市の石造物調査者の方が丁寧なお手紙とともに
拓本の写真を送ってくださいました。
野田市今上下の八幡神社・「万治石」の拓本です。
読者の皆さまから、「また万治石かい」とお叱りを受けそうですが、
「千葉県最古・日本で3番目に古い力石」という名誉を、
このままうやむやにしたくない、ただそんな思いだけなんです。
地元の氏子さんたちの混乱を招いたことへの反省と正しい記録を残したい、
それは「万治石」に関わった方々の共通の思いだと確信しております。
地元調査者の方は石造物研究30年というベテランです。
当初の誤読を認め、
浅学の私からの指摘をお許しくださりご理解していただきました。
今までの経緯をおさらいしていきます。
土に埋まっていたときの「万治石」です。

この石は2004年以前は、こんなふうに読まれていました。
「奉納力石五十六メ目 明治四辛未年 五月日」
その5年後の2009年、埼玉の斎藤氏が「万治」の刻字を発見。
これにより「万治」を「明治」と誤読していたことが判明。
正しくは、こうなりました。
「奉納力石五十六メ目ョ 万治四年」
ここまでは確定です。問題は左の一行です。
斎藤氏はこう解読しました。
「吉三月日」
この発見を地元調査者が知ったのは、昨年半ばとのこと。
で、改めて拓本を採って再調査されたそうです。
そして、今回、新たに解読されたものがこちらです。
「丑ノ五月日」
読者のみなさまは、
どうしてバシッと決まらないのかと疑問に思われましょうが、
古文書の経験がある方ならおわかりいただけると思います。
どんなベテランでも迷います。
以前ブログにご紹介した大阪の力石「稽古捺」、これ一つにも、
慣れているはずの大学や古文書会の方々の解読はさまざまでした。
石は紙の史料と違い立体でデコボコ。
また長年風雨にさらされ、人に踏んづけられて傷だらけ。
難解なんです。
さて、言い出しっぺの私が何も解読しないのは卑怯というもの。
なので恥を忍んで解読しました。
「辛丑月日」
斎藤氏の「吉三月日」は、「吉」の使い方が通常とは異なる。
通常は「三月吉日」のような使い方をしますので、これは違うのではないかと。
地元調査者の「丑ノ五月日」については、
写真では「三」、拓本では確かに「五」に見えます。
しかし万治は4年4月25日を持って寛文元年に改元されたため、
「五月日」はあり得ない。また「丑」字も違うのではないかと私は思いました。
私が解読した「辛丑(かのとうし)」は万治から寛文の干支です。
また万治4年はわずか4か月しかない。
石工さんは早めに彫り始めたでしょうし、改元の噂は聞いていたはず。
だから明確な月は入れなかった、というのが私の理屈です。
ただし、正直に申せば「辛」字はちょっと苦しい。
最近受講した常葉大学大学院の先生の、
「古文書解読には推理力、想像力を駆使してネ!」
のお言葉に力を得て、なけなしの想像力をフル稼働してみました(^-^)/
送っていただいた拓本の写真です。

三案出そろったところで、
当地で最も権威ある「駿河古文書会」のお二人の先生に
ご意見をうかがいました。
お二人とも「現地で現物を見て判断するしかない」としながらも、
あくまでも私見として、こんなお答えをくださいました。
T先生
「左上の字を「吉」や「丑」とするのは苦しい。
また「辛丑」は「辛」と読むには下部の「十」が見えないし、
「○月日」という場合、○には数字が入ると思う」
N先生
「三案の解読では、「辛丑月日」が最も無難かと思います。
ただ「辛」の字、写真も拓本も「?」です。
「辛」字の「立」の部分もその下の「十」の部分も、
写真も拓本もそうは見えないのが難点です。
また右側には成程、「ノ」とある如く、そう見えます。
「丑ノ五月日」という書き方は文書にはよくありますが、
碑文にこういうふうに「ノ」字を書くのはやや不審です。
不十分なる回答しか出来ず、慙愧の至りです」
困った時の神頼みで、N先生にはよくお尋ねするので、
「またむつかしい力石の石碑の宿題をいただきました。
干支と月日、写真版と拓本とを見比べながら悩ましく思います」と。
す、すみません!
古文書会の両先生がおっしゃるように、
「結局、現物を直接見て判断するしかない」
なので、ここに挙げた例はあくまでも参考に留め、
あとは地元の方々で大いに議論していただきたい。
きっとよいご判断が下されると信じております。
最初にこの石を見つけて調査された地元調査者と、
新たに万治文字を発見した斎藤氏、まさに見知らぬ者同士の共同作業が、
おのずと「万治石」を今に生かしたと私は思っています。
斎藤氏が八幡神社を訪れたとき、参拝者のおばあさんが若夫婦に、
「これ、知ってるかい? 力石って言うんだよ」と教えていたそうです。
嬉しいですね。
地元にゲタをあずけて、
「万治石」問題は、ひとまずオシマイ。
ーーーーー◇ーーーーー
※「亥ノ五月日」との見立てもありましたが、
そうなると「明和四年」になってしまいます。
現物を見た斎藤氏、地元調査者のお二人とも、
「万治」を確認していますので、これはナシとしました。
でもこんな世界もあってマニアックな変な人がいるってご理解いただければ。
先日、千葉県野田市の石造物調査者の方が丁寧なお手紙とともに
拓本の写真を送ってくださいました。
野田市今上下の八幡神社・「万治石」の拓本です。
読者の皆さまから、「また万治石かい」とお叱りを受けそうですが、
「千葉県最古・日本で3番目に古い力石」という名誉を、
このままうやむやにしたくない、ただそんな思いだけなんです。
地元の氏子さんたちの混乱を招いたことへの反省と正しい記録を残したい、
それは「万治石」に関わった方々の共通の思いだと確信しております。
地元調査者の方は石造物研究30年というベテランです。
当初の誤読を認め、
浅学の私からの指摘をお許しくださりご理解していただきました。
今までの経緯をおさらいしていきます。
土に埋まっていたときの「万治石」です。

この石は2004年以前は、こんなふうに読まれていました。
「奉納力石五十六メ目 明治四辛未年 五月日」
その5年後の2009年、埼玉の斎藤氏が「万治」の刻字を発見。
これにより「万治」を「明治」と誤読していたことが判明。
正しくは、こうなりました。
「奉納力石五十六メ目ョ 万治四年」
ここまでは確定です。問題は左の一行です。
斎藤氏はこう解読しました。
「吉三月日」
この発見を地元調査者が知ったのは、昨年半ばとのこと。
で、改めて拓本を採って再調査されたそうです。
そして、今回、新たに解読されたものがこちらです。
「丑ノ五月日」
読者のみなさまは、
どうしてバシッと決まらないのかと疑問に思われましょうが、
古文書の経験がある方ならおわかりいただけると思います。
どんなベテランでも迷います。
以前ブログにご紹介した大阪の力石「稽古捺」、これ一つにも、
慣れているはずの大学や古文書会の方々の解読はさまざまでした。
石は紙の史料と違い立体でデコボコ。
また長年風雨にさらされ、人に踏んづけられて傷だらけ。
難解なんです。
さて、言い出しっぺの私が何も解読しないのは卑怯というもの。
なので恥を忍んで解読しました。
「辛丑月日」
斎藤氏の「吉三月日」は、「吉」の使い方が通常とは異なる。
通常は「三月吉日」のような使い方をしますので、これは違うのではないかと。
地元調査者の「丑ノ五月日」については、
写真では「三」、拓本では確かに「五」に見えます。
しかし万治は4年4月25日を持って寛文元年に改元されたため、
「五月日」はあり得ない。また「丑」字も違うのではないかと私は思いました。
私が解読した「辛丑(かのとうし)」は万治から寛文の干支です。
また万治4年はわずか4か月しかない。
石工さんは早めに彫り始めたでしょうし、改元の噂は聞いていたはず。
だから明確な月は入れなかった、というのが私の理屈です。
ただし、正直に申せば「辛」字はちょっと苦しい。
最近受講した常葉大学大学院の先生の、
「古文書解読には推理力、想像力を駆使してネ!」
のお言葉に力を得て、なけなしの想像力をフル稼働してみました(^-^)/
送っていただいた拓本の写真です。

三案出そろったところで、
当地で最も権威ある「駿河古文書会」のお二人の先生に
ご意見をうかがいました。
お二人とも「現地で現物を見て判断するしかない」としながらも、
あくまでも私見として、こんなお答えをくださいました。
T先生
「左上の字を「吉」や「丑」とするのは苦しい。
また「辛丑」は「辛」と読むには下部の「十」が見えないし、
「○月日」という場合、○には数字が入ると思う」
N先生
「三案の解読では、「辛丑月日」が最も無難かと思います。
ただ「辛」の字、写真も拓本も「?」です。
「辛」字の「立」の部分もその下の「十」の部分も、
写真も拓本もそうは見えないのが難点です。
また右側には成程、「ノ」とある如く、そう見えます。
「丑ノ五月日」という書き方は文書にはよくありますが、
碑文にこういうふうに「ノ」字を書くのはやや不審です。
不十分なる回答しか出来ず、慙愧の至りです」
困った時の神頼みで、N先生にはよくお尋ねするので、
「またむつかしい力石の石碑の宿題をいただきました。
干支と月日、写真版と拓本とを見比べながら悩ましく思います」と。
す、すみません!
古文書会の両先生がおっしゃるように、
「結局、現物を直接見て判断するしかない」
なので、ここに挙げた例はあくまでも参考に留め、
あとは地元の方々で大いに議論していただきたい。
きっとよいご判断が下されると信じております。
最初にこの石を見つけて調査された地元調査者と、
新たに万治文字を発見した斎藤氏、まさに見知らぬ者同士の共同作業が、
おのずと「万治石」を今に生かしたと私は思っています。
斎藤氏が八幡神社を訪れたとき、参拝者のおばあさんが若夫婦に、
「これ、知ってるかい? 力石って言うんだよ」と教えていたそうです。
嬉しいですね。
地元にゲタをあずけて、
「万治石」問題は、ひとまずオシマイ。
ーーーーー◇ーーーーー
※「亥ノ五月日」との見立てもありましたが、
そうなると「明和四年」になってしまいます。
現物を見た斎藤氏、地元調査者のお二人とも、
「万治」を確認していますので、これはナシとしました。
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