黒田清隆謹書
神田川徳蔵物語
本町東助がこの世を去った翌年の明治25年、
この偉大な力持ちを讃える碑が東京・浅草の幸龍寺に建てられた。
この寺は初め静岡県浜松市に建立され、
徳川家康の入府とともに江戸の神田湯島、さらに浅草へ再々移転。
江戸、明治と無事過ごしてヤレヤレと思っていたら、あの関東大震災です。
被災したため昭和2年、今度は世田谷区北烏山へ移り、現在に至っています。
流転の寺といったら、ちょっと言い過ぎか。
で、東助の碑が建てられたのは、寺が浅草にあったころです。
碑の表です。

碑文。
「 明治廿五年六月建之
力士 本町東助碑
清隆謹書□□」
これを書いた「清隆」というのは、元薩摩藩士で、
明治21年、第二代総理大臣になった黒田清隆のことです。
この人です。

この黒田清隆のことは、
江戸和竿「竿忠」の初代・中根忠吉の「竿忠の寝言」にも出てきます。
当時の人は釣竿に凝る趣味人が多かったのでしょうか。
華族から現職政治家、外国人から庶民まで確かな竿師を求めて
自慢の一品をこしらえた。
忠吉のもとへもいろんな人が来た。その一人がこの黒田公だった。
その黒田公のことを忠吉はこう語っている。
「そのころの総理大臣の権力はすごかった。神さまのようだった。
でも黒田さまは気さくな方で、
”太郎 舟を浮かべて仙興に入る”なんて漢詩を書いてくれた」
「一週間から十日、先方(お屋敷)で仕事をする。その仕事があがったとき、
公が奥さまに、”今日は忠公に芸者をご馳走してやれ”と。
そして奥さまお手ずからお酌をしてくださった」
「竿師風情をこれほどまで歓待してくれるとは」と、
忠吉さん、感激のあまり、思わずうれし涙。
「そこで嬉しさまぎれに、
芸者の三味線で、蝿がハエ取りもちに引っかかった踊りを見せたら、
”忠公の妙な踊りを見たよ。本当におもしろい”
と奥さまはお腹を抱えて笑われた」
釣りが大好きな黒田公は力持ちも大好きで、
碑への揮毫は東助だけではなく、
前回ご紹介した大島傳吉の碑にも揮毫しています。
それがこれ。
傳吉の出身地・大島の岡田港に建っています。
右にあるのは伝吉が持った「勇鑑石」です。

東京都大島大島町岡田
碑文。
「力士 大嶌傳吉碑
黒田清隆書□□」
裏面は「明治二十七年一月」
寄進者は「榊原健吉、高砂浦五郎、阿武松緑之助、東京力持連」
となっています。
ここでも榊原健吉、高砂浦五郎がでてきました。
本町東助と同時代を生きた傳吉は、しっかり彼らとつながっていたのです。
絵師の河鍋暁斎も江戸和竿師の中根忠吉も総理大臣さえも、
身分や職業に関係なく、直接間接にみんなつながっていた。
羨ましいほどのネットワークです。
さらにこれが千社札の世界へも広がっていたのですから、
この当時の人たちは本当に心が豊かです。
これは明治21年(1888)の力持興行引札(広告)です。

画面上部に当時の有名力持ち力士の名が並んでいます。
真ん中に「本町東助」、
右端に「大島傳吉」。
そしてこの中に「筋違車半」の名で、おもちゃ博士の清水晴風も出ています。
この明治21年には神田川徳蔵は、まだこの世に誕生していませんでした。
明治25年、本町東助の碑が建立されたとき、やっと一歳。
茨城県那珂湊の佐納家で産声を挙げた徳蔵さん、
自分が将来、東助のように力持ち界で活躍するなどとは夢にも思わず、
お母さんの胸に抱かれてスヤスヤ眠っていたことでしょう。
それがのちにこの「東助碑」に深く関わることになったのですから、
人生って、おもしろいですね。
この偉大な力持ちを讃える碑が東京・浅草の幸龍寺に建てられた。
この寺は初め静岡県浜松市に建立され、
徳川家康の入府とともに江戸の神田湯島、さらに浅草へ再々移転。
江戸、明治と無事過ごしてヤレヤレと思っていたら、あの関東大震災です。
被災したため昭和2年、今度は世田谷区北烏山へ移り、現在に至っています。
流転の寺といったら、ちょっと言い過ぎか。
で、東助の碑が建てられたのは、寺が浅草にあったころです。
碑の表です。

碑文。
「 明治廿五年六月建之
力士 本町東助碑
清隆謹書□□」
これを書いた「清隆」というのは、元薩摩藩士で、
明治21年、第二代総理大臣になった黒田清隆のことです。
この人です。

この黒田清隆のことは、
江戸和竿「竿忠」の初代・中根忠吉の「竿忠の寝言」にも出てきます。
当時の人は釣竿に凝る趣味人が多かったのでしょうか。
華族から現職政治家、外国人から庶民まで確かな竿師を求めて
自慢の一品をこしらえた。
忠吉のもとへもいろんな人が来た。その一人がこの黒田公だった。
その黒田公のことを忠吉はこう語っている。
「そのころの総理大臣の権力はすごかった。神さまのようだった。
でも黒田さまは気さくな方で、
”太郎 舟を浮かべて仙興に入る”なんて漢詩を書いてくれた」
「一週間から十日、先方(お屋敷)で仕事をする。その仕事があがったとき、
公が奥さまに、”今日は忠公に芸者をご馳走してやれ”と。
そして奥さまお手ずからお酌をしてくださった」
「竿師風情をこれほどまで歓待してくれるとは」と、
忠吉さん、感激のあまり、思わずうれし涙。
「そこで嬉しさまぎれに、
芸者の三味線で、蝿がハエ取りもちに引っかかった踊りを見せたら、
”忠公の妙な踊りを見たよ。本当におもしろい”
と奥さまはお腹を抱えて笑われた」
釣りが大好きな黒田公は力持ちも大好きで、
碑への揮毫は東助だけではなく、
前回ご紹介した大島傳吉の碑にも揮毫しています。
それがこれ。
傳吉の出身地・大島の岡田港に建っています。
右にあるのは伝吉が持った「勇鑑石」です。

東京都大島大島町岡田
碑文。
「力士 大嶌傳吉碑
黒田清隆書□□」
裏面は「明治二十七年一月」
寄進者は「榊原健吉、高砂浦五郎、阿武松緑之助、東京力持連」
となっています。
ここでも榊原健吉、高砂浦五郎がでてきました。
本町東助と同時代を生きた傳吉は、しっかり彼らとつながっていたのです。
絵師の河鍋暁斎も江戸和竿師の中根忠吉も総理大臣さえも、
身分や職業に関係なく、直接間接にみんなつながっていた。
羨ましいほどのネットワークです。
さらにこれが千社札の世界へも広がっていたのですから、
この当時の人たちは本当に心が豊かです。
これは明治21年(1888)の力持興行引札(広告)です。

画面上部に当時の有名力持ち力士の名が並んでいます。
真ん中に「本町東助」、
右端に「大島傳吉」。
そしてこの中に「筋違車半」の名で、おもちゃ博士の清水晴風も出ています。
この明治21年には神田川徳蔵は、まだこの世に誕生していませんでした。
明治25年、本町東助の碑が建立されたとき、やっと一歳。
茨城県那珂湊の佐納家で産声を挙げた徳蔵さん、
自分が将来、東助のように力持ち界で活躍するなどとは夢にも思わず、
お母さんの胸に抱かれてスヤスヤ眠っていたことでしょう。
それがのちにこの「東助碑」に深く関わることになったのですから、
人生って、おもしろいですね。
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