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黒田清隆謹書

神田川徳蔵物語
11 /28 2017
本町東助がこの世を去った翌年の明治25年、
この偉大な力持ちを讃える碑が東京・浅草の幸龍寺に建てられた。

この寺は初め静岡県浜松市に建立され、
徳川家康の入府とともに江戸の神田湯島、さらに浅草へ再々移転。
江戸、明治と無事過ごしてヤレヤレと思っていたら、あの関東大震災です。
被災したため昭和2年、今度は世田谷区北烏山へ移り、現在に至っています。

流転の寺といったら、ちょっと言い過ぎか。

で、東助の碑が建てられたのは、寺が浅草にあったころです。
碑の表です。

CIMG0716.jpg

碑文。
「    明治廿五年六月建之
 力士 本町東助碑
               清隆謹書□□」


これを書いた「清隆」というのは、元薩摩藩士で、
明治21年、第二代総理大臣になった黒田清隆のことです。

この人です。
img276_201711271406076ec.jpg

この黒田清隆のことは、
江戸和竿「竿忠」の初代・中根忠吉の「竿忠の寝言」にも出てきます。

当時の人は釣竿に凝る趣味人が多かったのでしょうか。
華族から現職政治家、外国人から庶民まで確かな竿師を求めて
自慢の一品をこしらえた。

忠吉のもとへもいろんな人が来た。その一人がこの黒田公だった。
その黒田公のことを忠吉はこう語っている。

「そのころの総理大臣の権力はすごかった。神さまのようだった。
でも黒田さまは気さくな方で、
”太郎 舟を浮かべて仙興に入る”なんて漢詩を書いてくれた」

「一週間から十日、先方(お屋敷)で仕事をする。その仕事があがったとき、
公が奥さまに、”今日は忠公に芸者をご馳走してやれ”と。
そして奥さまお手ずからお酌をしてくださった」

「竿師風情をこれほどまで歓待してくれるとは」と、
忠吉さん、感激のあまり、思わずうれし涙

「そこで嬉しさまぎれに、
芸者の三味線で、蝿がハエ取りもちに引っかかった踊りを見せたら、
”忠公の妙な踊りを見たよ。本当におもしろい”
と奥さまはお腹を抱えて笑われた」

釣りが大好きな黒田公は力持ちも大好きで、
碑への揮毫は東助だけではなく、
前回ご紹介した大島傳吉の碑にも揮毫しています。

それがこれ。
傳吉の出身地・大島の岡田港に建っています。
右にあるのは伝吉が持った「勇鑑石」です。

img579 (2)
東京都大島大島町岡田

碑文。
「力士 大嶌傳吉碑
           黒田清隆書□□」


裏面は「明治二十七年一月」
寄進者は「榊原健吉、高砂浦五郎、阿武松緑之助、東京力持連」
となっています。

ここでも榊原健吉、高砂浦五郎がでてきました。
本町東助と同時代を生きた傳吉は、しっかり彼らとつながっていたのです。

絵師の河鍋暁斎も江戸和竿師の中根忠吉も総理大臣さえも、
身分や職業に関係なく、直接間接にみんなつながっていた。
羨ましいほどのネットワークです。

さらにこれが千社札の世界へも広がっていたのですから、
この当時の人たちは本当に心が豊かです。

これは明治21年(1888)の力持興行引札(広告)です。

img068.jpg

画面上部に当時の有名力持ち力士の名が並んでいます。
真ん中に「本町東助」
右端に「大島傳吉」
そしてこの中に「筋違車半」の名で、おもちゃ博士の清水晴風も出ています。

この明治21年には神田川徳蔵は、まだこの世に誕生していませんでした。
明治25年、本町東助の碑が建立されたとき、やっと一歳。

茨城県那珂湊の佐納家で産声を挙げた徳蔵さん、
自分が将来、東助のように力持ち界で活躍するなどとは夢にも思わず、
お母さんの胸に抱かれてスヤスヤ眠っていたことでしょう。

それがのちにこの「東助碑」に深く関わることになったのですから、
人生って、おもしろいですね。

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新聞に載った東助

神田川徳蔵物語
11 /23 2017
明治を代表する力持ち、
本町(浪野)東助の今まで知られていなかった姿を、
「河鍋暁斎絵日記」をお借りしてご紹介してまいりました。

東助は終生の友、暁斎に遅れること2年後の
明治24年6月2日に病没します。

この偉大な力持ちを讃えた記念碑を建てようと、
東京力持ち連や門弟、交流があった著名人たちが立ち上がります。
そして、一周忌を迎えた翌年、「力士本町東助碑」が完成。
加えて、追善力持ち興行も開催することになりました。

そのことが明治25年の東京朝日新聞に掲載されました。

img272_20171122153547524.jpg

東京朝日新聞の記事です。
記事冒頭で「力持ちにて有名なりし」とあることから、
東助はその名を知らない者がないほどの人気者だったのでしょう。

img066.jpg
「東京朝日新聞」明治25年5月22日。

最初に名前が挙がっている門弟の本町忠蔵は、
明治21年の番付に師の東助と並んで載るほどの力持ちです。
忠蔵の力石は、隅田川神社(墨田区堤通)に一つ、
そしてもう一つ、世話人として名を刻んだ石が静岡県伊東市にあります。

下の写真は、伊豆大島出身の大島傳吉が担いだ「大傳石」です。
本町忠蔵の名が刻まれているのはこの石です。

大島(嶋田)傳吉の力石は、9個確認されていますが、
静岡県の三嶋大社で傳吉の力持ち興行が行われたという話も残っています。
この神社には東京の力持ちたちの名を刻んだ石があったのですが、
今は神社裏の藪に捨てられてしまって…。それがなんともつらい。

「大傳石」です。
CIMG0178.jpg
静岡県伊東市物見が丘・仏現寺

明治25年5月の新聞記事によると、東助碑建立の発起人に、

戯作者の仮名垣魯文
姫路藩酒井侯のお抱え力士で、高砂部屋の開祖・高砂浦五郎
馬術指南の草刈庄五郎

将軍様お抱えの骨接ぎ医師・名倉弥一
ちなみにこの名倉家はその後、多くの整形外科医を輩出しているそうです。
そして、剣術家の榊原健吉が名を連ねています。

ここに登場する方々は、明治21年の
東助が会主となって開催した書画会にも補助者として出ています。

もちろんみなさん、河鍋暁斎の親しい友人たちでもあります。
榊原健吉は幕府崩壊後、謹慎を命じられた徳川慶喜の護衛として、
静岡市で一年ほど暮らしています。

こちらは暁斎が描いた榊原健吉と写真です。

img067 (2)
「河鍋暁斎絵日記」よりお借りしました。

で、もう一つ、先の5月22日の新聞から約2か月後に出た記事があります。
いろいろあったのでしょうか。
追善力持ち興行の場所が最初の予定地の浅草公園から、
回向院境内へと変更されています。

ただし興行日数は3日間から5日間に延長。

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「東京朝日新聞」明治25年7月16日。

この番付には有名力士がたくさん出ています。
たびたびこのブログに登場する
神田川徳蔵の大先輩、竪川大兼も大関を張っています。

西の張出大関の関原金蔵は伊東市・仏現寺の傳吉の石に、
本町忠蔵と共に、世話人として名を残している人です。
その関原金蔵と連名で、
東京都江東区の冨賀岡八幡宮に石を残した須賀文八の名も見えます。

東の張出大関は大阪の若濱常次郎です。
ほかに花川戸、小網町、佐賀町、扇橋など有名一門がずらり。

これだけの名力士たちが「本町東助」のために馳せ参じたのです。
さすが、東京の力持界を統率した大物だけあります。
暁斎さんが生きていたら大張り切りで、
雄渾な、それでいて茶目っ気たっぷりの絵を描いたことでしょう。

で、河鍋姓で思い出したのですが、
天保7年ごろ、河鍋寅松という力持ちがいたのですが、
この人、ひょっとして暁斎さんの親戚?


※参考文献・画像提供/「河鍋暁斎絵日記」河鍋暁斎記念美術館編
          平凡社 2013

身をば削るな

世間ばなし
11 /19 2017
「雨宮さん、力石があるよ」

先日、所属する「静岡市文化財協会」の会員さん達と、
愛知県新城市の「鳳来山(ほうらいさん)東照宮」へ行ったときのことです。

鳳来山東照宮への道です。
国重要文化財の蓬莱山、国宝の日光(栃木県)、
国宝の久能山(静岡県)の三社は、日本三大東照宮と呼ばれています。

CIMG4019.jpg

「力石とくれば雨宮さん
もうね、ことあるごとに「ちからいし!力石!」とわめいたおかげで、
今や「力石」と「雨宮さん」は同義語になっております。

会員のお一人が教えてくださったのはこの石です。

CIMG4012.jpg

本当に力石そっくりです。
ですが、実はこれ、「狛犬」なんです。というか成れの果て。

なぜこんな姿になってしまったのか、ご説明していきます。

戦国時代には武将が力石を担いで力自慢をしました。
近・現代になってからは、戦死した若者の墓に力石が置かれるようになった。
息子が愛用した力石をご両親がそっと墓石に添えたのです。

力石にも戦争は影を落としているのです。
そして狛犬さんにも。

東照宮の拝殿両側に、
聖域を守る狛犬がそれぞれ三代ずつ置かれています。
こちらは向かって右側の狛犬群です。
左から慶安4年、昭和15年、そして平成2年寄進の狛犬です。

CIMG4008.jpg

うしろから見るとこんな姿です。
一番奥の狛犬はもう完全にただの石。
真ん中のはかろうじて原型をとどめていますが、顔もシッポも消滅。

CIMG4011.jpg

立札に歌が書かれていました。

   戦争の絶えし世なれば神護る          
              身をば削るな狛犬われの


この狛犬は戦地に赴く若者たちが、
「弾丸除け」のお守りに削ったため、こんな姿になったものでした。

「お国のため」と強制され、せめて「生きて帰りたい」と、
より強い御利益を求めて山深く遠いこの鳳来山に殺到した。
出征する若者自身も送る両親も、本心は行きたくない行かせたくないんです。

狛犬のこの姿を見れば、その思いがいかに強かったかわかります。
戦争、戦争と安易に言ってほしくないですね。

戦争体験者の手記を読むと、若者たちのほとんどは、
「お国のために」とか「天皇陛下万歳」などとは言わず、
「お母さん、お母さん」と言って死んでいったそうです。

墓に置かれた力石です。
CIMG1082 (7)
東京都江戸川区東小岩・万福寺

鳳来山東照宮のこの削られた狛犬は、無残な我が身をさらすことで、
今の私たちに警告しているのだと思いました。

それは、
最前線に立たされた村々町々の名もない若者たちが味わったような、
「国が人の命を支配するという理不尽な思いを、
今の若者たちにさせてはならない
再び、私の体を削るような世の中にしてはいけないという…。

狛犬をブログで紹介されているブロガーのみなさん、
いつかこのような姿の狛犬と出会うかもしれません。

そのときは、自然風化ではなく、
「弾丸除け」のお守りに削られた狛犬かもしれないと、
そんな目でも見ていただけたら…。

そして狛犬さんのこの切なる願いに、そっと耳を傾けてほしい。

   身をば削るな狛犬われの


       ーーーーー◇ーーーーー

   =ちょっとひと言=

タイのバンコクからコメントを下さったPERNさんのご紹介です。
ラジオの「パーンのバンコクからこんばんわ」の日本語放送をされている方で、
「魔女の手紙 バンコク」のブロガーさんです。

日本とタイで共通する「こどもの遊び」で、タイで「蛇がシッポを食べた」
でしたっけ? とにかくその遊びが、日本の「ことろことろ」と同じ遊び
ということを放送していただきました。

で、河鍋暁斎の「賽の河原」に、その「ことろことろ」がありましたので、
PERNさんとみなさまにご紹介します。(絵は部分)

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賽の河原で鬼が水子や亡くなった子供たちを捕ろうとするのを、
お地蔵さまが両手を広げて守っているところです。

俗も聖域

神田川徳蔵物語
11 /15 2017
末尾の参考文献からお借りして、今回も暁斎さんと東助さんを続けます。

明治17年8月25日の「暁斎絵日記」に描かれた本町東助です。
東助の本名は「波野」。絵日記には「浪野」と書かれています。

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東助は暁斎の終生の友だったそうです。
暁斎はこの絵を描いた5年後の明治22年にこの世を去り、
東助はその2年後に友の待つあの世とやらへ旅立ちました。

絵日記に描かれる東助は、いつも酒の肴(さかな)持参です。
前回ご紹介した絵には、「伊豆大嶋のひもの、するめ」
この日は「ナマコ」「蟹」

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こちらの絵には、こんな添え書きがあります。
「東助が祝いか、立派な半てんを着て、星ザメを持ってやってくる」

img787.jpg

で、暁斎先生、嬉しさのあまり興に乗って、
「♪ 飲んで~飲んで~、飲まれて飲んで~」

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我らが東助さんをこんなに描き残してくれていたなんて、とっても嬉しい。
ですが、肝心の力石を差し上げている絵がないんですよねぇ。
それがチト寂しい。

でも今回、ひとつわかったことがあるのです。
以前、蒔絵師で日本画家の柴田是真を調べたとき、
本に「是真は暁斎とは不仲だった」との記述がありました。

不仲の原因は暁斎の入牢。
明治3年、書画会で描いた戯画を官憲に咎められて暁斎は入牢の憂き目に。
この時ひどい皮膚病にかかったため、いったん釈放され翌年、再び収監。
そして、50回のむち打ちの刑を受けた。

明治になってもこんな刑罰があったんですね。
それも諷刺画を描いただけで…。

で、是真はこれをきらって交際を断ったというのですが、
どうもそれは間違いじゃないか、と。
だって是真と暁斎は合作をしているんですよ。

入牢前から入牢中を経て明治5年までかけて描いた
「地獄極楽めぐり図」全40図の画帖の箱に、是真が影絵肖像画を描き、
入牢から15年後の明治18年には、
一枚の紙に是真が滝を、暁斎が鯉を描いた「鯉の滝登り」がありますから、
不仲だったとは到底、思えません。

暁斎は牢から出されたその年に、静岡県沼津市に住む母を訪ねています。

その母は翌年死去。沼津市の本光寺に葬られます。
明治20年、母と兄の供養のため、「枯木寒鴉の図」の碑を建立しますが、
残念なことにこの寺は米軍の大空襲で焼失、移転してしまいました。

こちらは書画会での暁斎さん。
img058 (2)

即興で200枚ほど描いて「もう描けない」と手を振っているところだそうです。

いっぺんに200枚描いたからと言って、描き散らしたわけではない。
緻密さと何度もの推敲を重ねた下絵を見れば、
恐るべき努力の人でもあったことがわかります。

7歳で浮世絵師の歌川国芳に、10歳で狩野派に入門。
抜きん出た才能のため、19歳という異例の若さで修業を終えた暁斎。
筆先から走り出るひと筋も、ただの一本の線ではなかったはず。

愛弟子のジョサイア・コンドルが師・暁斎を描いた「暁斎先生日光にて」
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河鍋暁斎記念美術館蔵

木下直之東大教授は「別冊太陽」の中で、
暁斎以前と以後について、こんな風に語っている。

他人が見守る中で描く書画会。
筆の代わりに棕櫚(しゅろ)ぼうきを使い、たった4時間で仕上げた芝居の引幕。
しかもその時暁斎は酔っていた。
このすべてがその後の画家たちに嫌われてゆく。

画家はアトリエという名の密室、あるいは聖域に籠り、…略…、
完成作のみを展覧会に出品する。
観客はそれを黙って眺める。会場での会話、飲食は厳禁である。

これが、美術鑑賞と呼んで、
われわれが身につけてきたいささか窮屈な態度である。
そして、暁斎の絵の中にみなぎる力やスピード、笑いや楽しさ、
パフォーマンス性を見失う結果となった」

私は記者時代、
プロアマ約80人ほどのアーチストのアトリエを訪問したことがあります。
そのときほんの一握りでしたが、彼らから言われた言葉がまさしく、
「アトリエは私の聖域です。他人を入れたくありません」でした。

「聖域…。作品を生み出す大切な場所だもの、そうかもしれないな」
と理解しつつも、違和感があって、こんなことも思った。
実力さえあれば、聖とか俗とか関係ないんじゃない?

ことに現代アートの人から「聖域」とか「芸術家は繊細」とか、
「この絵が理解できないとしたら、絵にではなく観る人に問題があるのですよ」
なぁ~んて言われたときは、思わずで叫んじゃいました。

「鼻持ちならねェー!」

とまあ、昔話はこれくらいにして…。

こちらは日光へ写生旅行に出かける暁斎と愛弟子のコンドルです。
暁斎は「コンデール君」と呼んでいたそうです。

img060 (2)

浮世絵や狩野派の正統派絵師の暁斎ですが、新し物好きでもあったらしく、
西洋の技法もどんどん取り入れたそうです。

暁斎さんには日本人とか外国人などというシチめんどくさい区別など
サラサラなかったのだと私は思う。
そして暁斎の感性は異国人の感性をより強く刺激したのかもしれないとも。

ともかくそんな暁斎の周りには、たくさんの異国人が集まった。
その一人が建築家のジョサイア・コンドルでした。

日本人の近代建築家を育て、自身も鹿鳴館やニコライ堂、
三井倶楽部などを手がけた人で、
暁斎から「暁英」の画号をもらったそうです。

ここまで書いて、私、ふと思ったんです。
暁斎の父親の生家は米穀商、父親は定火消し同心だったそうですから、
やはり力持ちとは縁があるのではないか、と。

で、だんだん面白いことがわかってきました。

是真は暁斎と親交があり、その暁斎は力持ちの東助と親友で、
その東助の碑に揮毫したのが二代総理大臣の黒田清隆
その黒田清隆がこれまたひいきにしていたのが初代「竿忠」の忠吉で、
忠吉は「酔っぱらいの絵師、暁斎」を知っていた。

その忠吉は地元の若い衆たちの力石仲間で、
是真も仕事の合間に石担ぎをし、是真の知り合いのおもちゃ博士、
清水晴風は番付にも載るほどの力持ちであった。

みんな、つながっているんです。

  ーーーーー◇ーーーーー

※河鍋暁斎の父親の生家は、
下総国古河石町5672番(茨城県古河市中央町2丁目3番51号)。
古河の米穀商・亀屋和井田庄左衛門)。

米穀商とくれば、神田川米穀市場のように、
神田川徳蔵一派で活躍した荷揚げの男たちが働いていたはず。
「亀屋」の力持ちや力石に関する情報をお寄せいただけたら幸いです。

※参考文献・画像提供/「河鍋暁斎絵日記」河鍋暁斎記念美術館編 
           平凡社 2013
          /「別冊太陽 河鍋暁斎・奇想の天才絵師」
           安村敏信監修 平凡社 2008
          /河鍋暁斎記念美術館

※今回もたくさんの画像をお借りしました。ありがとうございました。

酔っぱらいの絵師

神田川徳蔵物語
11 /10 2017
河鍋暁斎。
幕末から明治前半にかけて活躍した絵師です。

暁斎と書いて「きょうさい」と読ませています。
画号を狂斎から暁斎に変えたとき、読み方だけは変えなかったそうです。
ちなみに図書館では「ぎょうさい」と濁らないと検索できません。

仕方がないか…。

左はフランス人画家のフェリックス・レガメが描いた暁斎の肖像画。
右は東京美術学校への提出用とされる写真。
いずれも河鍋暁斎記念美術館

img044.jpg
下記、参考文献よりお借りしました。

教科書にも載らない、世間ではメジャーな画家として扱われない絵師。
その暁斎の名が、江戸和竿師・中根忠吉の「竿忠の寝言」に出てきたとき、
私は思わず「あっ!」と。
「竿忠の寝言」は、孫の音吉が書いた祖父・忠吉の伝記ですが、
そこにひょっこり、河鍋暁斎がでてきたのです。

いつかじっくり見たい、知りたいと思っていた絵師でした。
で、本来の調べ物はそっちのけで、
図書館にある限りの河鍋暁斎の本を片っ端からめくっていたとき、
私は再び「うわっ!」と。
大発見! 興奮して、思わず震えが…。

だって、本の中に力持ちの本町東助がガンガン出てきたのですから。
東助と暁斎が結びつくなんて思ってもいませんでしたから。

もう瓢箪(ひょうたん)から駒、「暁斎絵日記」から東助ってな具合。

本町東助です。
img945.jpg
「暁斎絵日記」より。同上。

「竿忠の寝言」との出会いは、ネットでした。

フランス士官が撮影した写真に写り込んでいた力石、
あの元柳橋のたもとの「大王石」の謎を追いかけていたとき、
ネット上に掲載されていた初代竿忠の聞き書きを偶然、見つけたのです。

読むほどに江戸の職人の世界にどんどん引きずり込まれていきました。

語り手の中根忠吉は、 5世4代目竿忠の中根喜三郎氏と、
妹で故・林家三平師匠の奥さま、海老名香葉子さんのご先祖でした。

その中で見つけたのが、これ↓
大王石は鬼柴田といわれた怪力の柴田幸次郎が担いだ」のお話。
信じられないくらいラッキーでした。

img188 (6)

で、忠吉さんは幸次郎だけでなく、河鍋暁斎の話もしていたのです。

「東作(和竿師)の家の裏隣りに、酔っぱらいの絵師が住んで居た。
此人の名は判然としないが、前後の性格から推して、多分かの有名な
猩々狂斎(河鍋暁斎)であったと思われる」

※「竿忠の寝言」では画号を「猩々(しょうじょう)狂斎」と書いていますが、
  正しくは「惺々(せいせい)狂斎」
 
「惺々(せいせい)」とは、
「はっきり目を覚ましていなさい。自分を見失ってはいけないよ」という禅語。
 一方「猩々(しょうじょう)」は、能にも出てくる赤い顔の架空の動物。
 そこから「大酒家」を指すこともあるとのこと。

まあ、いつも赤ら顔の暁斎先生ですから、「猩々」に見えたのかも知れません。
でも、酒好きの暁斎さん、どんなに酔っぱらっていても、
絵日記「観音像」「菅原道真像」は毎日欠かさず描いていたそうです。

画号の「惺々」の通り、
どんなときにも覚醒して、自分を見失ってはいなかったと私は思う。

でも「酔っぱらいの絵師」の汚名だけを残して、
長い間、埋もれてしまっていた。

別冊太陽 河鍋暁斎」に書かれた暁斎のひ孫・河鍋楠美氏の一文は、
何度読んでも胸が痛くなります。そのひ孫さんの思いを以下に記します。

img723 (4)

「戦前は展覧会の狩野派や浮世絵の系図にも暁斎の名が見えた。
ところが戦後になると、両派ともに暁斎の名は消えていた
理由もわからず美術史から消え、くだらぬ絵を描く画家と評価されることに
”痩せ蛙、負けるな。一茶ここにあり”ではないが、顕彰運動を決意し、
研究と公開の場となる美術館の設立を思い立った。

皆さまに見ていただき、
本当に美術史上から忘れ去られる画家かどうかを問いたい。
開館当初、”高く評価されなくても良い。ありのままの暁斎を見て欲しい”
と記したが、今も同じである。

酔っ払い絵師、研究に値しない画家といわれて、奮闘すること三十年。
二〇〇八年四月、やっと狩野派絵師としての大規模な展覧会が
京都国立博物館で開催されるところまで辿り着いた」

「酔っ払い絵師、研究に値しない画家」ー。

なんと悲しい評価でしょう。
なぜそんな言われ方をされてしまったのでしょう。

その原因の一つとして、木下直之・東京大学教授は同誌の中で、
岡倉天心の薫陶を受けた藤岡作太郎のこんな言葉を紹介しています。

「暁斎や柴田是真(蒔絵師)らが画運勃興の偉功を樹立できなかったのは、
彼らの仕事は誇張の弊に陥り、風潮野鄙に流れて根が浅いからだ。
新しい時代はフェノロサによって開かれ、
東京美術学校の開校によって実現した」

この藤岡作太郎の言ったことは、つまりこういうことです。

「暁斎の絵は大げさで弊害しかなく、野鄙(野卑=下品で田舎びている)。
そんな根の浅い仕事しかできない彼に、
新時代にふさわしい画壇など樹立できるわけがない」

いかにも明治新政府の、なんでも西洋一辺倒の時代らしい、
と言ってしまえばそれまでですが、それにしてもひどい!

「このころから暁斎は語られなくなった」と木下教授はいう。

門外漢の素人の私が見ても、
躍動感、下絵、デッサン力、発想の凄さなど暁斎の絵は驚きの連続です。
まさに、同誌の見出し通り、
正統狩野派絵師にして、
ひと工夫しないと気がすまない奇想の天才です。

下の絵は「達磨の耳かき図」です。

「聖者の達磨が俗界の太夫に耳かきをさせて、だらしない顔をしている。
聖俗を逆転・対比させて、常識的な価値観を笑い飛ばしてみせているようだ」
(佐々木英理子板橋区立美術館学芸員)

img057.jpg
太田記念美術館蔵。同上。

「別冊太陽」で木下教授は、こう続けています。

「いいかえれば、このころから東京美術学校に学んだ画家たちが語られ始め、
さらに文部省美術展覧会(今の日展につながるもの)が開設されるに及んで、
…略…、美術学校や美術展の話が繰り返し語られてきたがゆえに、
それが近代美術のすべてだとする勘違いがはびこってしまった。
暁斎の絵を”誇張の弊”だとか”風潮野鄙”とみなす言葉を、
われわれは、いつしか刷り込まれてきたのである」

げに「刷り込み」は恐ろしい。

当時暁斎は、日本でも外国でも人気絵師としてもてはやされたが、
明治後半以降、日本では「研究に値しない画家」にされてしまった。
しかし外国では今なお評価は高く、フランス、ドイツ、イギリス、アメリカなど
世界6か国の美術館に多くの作品が収蔵されているという。

この違いはどこからくるのだろうか。

メジャーとか国のお墨付きなどという権威をやたら有難がる国と、
多様な個性にこそ価値があるとする国との国民性の違い、なのだろうか。

近代日本の美術人たちは、自分たちの規範に当てはめようとするあまり、
暁斎の特異な感性やスケールの大きさを理解できなかったのでは、
などと、おこがましくもワタクシメは思ったのであります。


河鍋暁斎記念美術館館長、河鍋楠美さんの本職はお医者さん。
出っ歯で鼻ぺちゃの暁斎さんとは大違いの、可愛らしく上品な女性です。
でも人懐っこそうな雰囲気は、ひいおじいさんの暁斎さんそっくり。


   ………◇………

※参考文献/「別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師」平凡社 2008
     /「河鍋暁斎絵日記」河鍋暁斎記念美術館編 平凡社 2013
※河鍋暁斎記念美術館/埼玉県蕨市南町。☎048-441-9780

本町東助碑

神田川徳蔵物語
11 /06 2017
今回からいよいよ、神田川徳蔵が全精力を傾けて再々建した
「本町東助碑」のお話をしてまいります。

碑は東京都世田谷区北烏山の幸龍寺にあります。

この寺は初め静岡県浜松市に建立されましたが、
天正19年(1591)、徳川家康の入府と共に江戸へ移転。
しかし、それから332年後の大正12年、関東大震災によって焼失したため、
昭和2年、現在地へ移転したという歴史を持っています。

そのため、「東助碑」も移転。これに尽力したのが神田川徳蔵だったわけです。

「本町東助碑」です。
CIMG0705.jpg

徳蔵の功績に入る前に、
この碑の「東助」なる人物についてお話してまいります。

下の図は、
国会図書館所蔵の「夢跡集」(山口豊山・1900)掲載の東助の墓です。
この本は各界の著名人の墓石を記録したものです。

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現在、この東助墓石は所在不明となっていますが、
山口豊山が描いたあと、関東大震災で菩提寺の幸龍寺とともに
焼失破損してしまったのかもしれません。

で、「夢跡集」の中で著者の山口豊山は、東助についてこう書いています。

「東助は波多野氏。本石町にて酒を渡世す。生れ付き大力にして
当時神田豊嶋町の鬼熊と並ぶ力持を以て其の名を世に鳴らせり。
其の性、洒落にして常に文事を好み、四斗入りの米俵の先に筆をさして
よく文字を書きたり」

米俵の先に筆をさして文字を書いている東助です。

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これは東助が会主となって催した「書画会」の記念誌に描かれたものです。
袖に東助の「東」が入っています。
書画会は明治21年6月2日、東両国の中村楼で開催。
その席上、東助はこうしたパフォーマンスを披露したのです。

「書画会」の補助員として、
戯作者の仮名垣魯文、剣術家の榊原健吉、相撲の高砂浦五郎
書の永井素岳など各界のそうそうたる人物が名を連ねており、
東助の人望の厚さ、交流の広さを物語っています。

東都を代表する力持ち力士というだけの人ではなかったのですね。

もちろん、自ら率いる東京力持睦連も参加。
そして特筆すべきは、鬼才・不世出の絵師、河鍋暁斎がこの席上で、
八畳敷きの大紙に「龍頭観音図」と「達磨図」を描いていることです。

上に掲げた米俵でのパフォーマンスの絵も、
この暁斎の筆によるもののようです。暁斎は東助を描くときは、
体のどこかに必ず「東」の字を書き入れています。

下の絵は、暁斎が描いた「龍頭観音図」を熱心に見ている本町東助。
まわりの人たちよりひときわ大きく描かれています。
暁斎は「龍頭観音図」を描いたあと、その状況を絵日記に描いたのです。

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「河鍋暁斎絵日記」より。明治21年6月2日の絵日記部分。

この絵師と東助との交流は、後日、詳述します。

さて、
酒屋の主人で書の才能もあり、豊島屋の鬼熊と並ぶ大力だった東助さん、
以前ブログでご紹介したところ、
なんと、この東助さんのひ孫さんからコメントをいただいたのです。

コメントは記事の間違いのご指摘で、
本名は「波多野ではなく波野」とのこと。

あわてて国会図書館の「夢跡集」を再確認したら、「波多野」となっている。
著者の書き間違いだったわけですが、いずれにしても申し訳ないことでした。

そのことが判明したのはもちろんありがたいことでしたが、
それよりなにより、徳蔵さんのご子孫に続いて
東助さんのひ孫さんからのご連絡にはもうびっくり。

ご子孫の方々はこうしたご先祖を忘れず、誇りに思っていらっしゃる。
それを代々伝えている、そのことに感動しました。

ついでに、といってはなんですが、
同じ「夢跡集」に江戸大相撲の史上最強の力士といわれた
雷電為右衛門の墓石図がありましたので、ご紹介します。

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碑面の右側が文政八年、59歳でこの世を去った雷電為右衛門、
左側はその2年後、61歳で亡くなった妻・八重です。

墓前に「三十メ目」の力石が置かれています。

こちらが現在の墓所です。力石もあります。まったく同じですね。

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東京都港区赤坂・封土寺

最強の相撲取りの墓前に自身が使った力石があるなんて、
最高じゃないですか!
しかも200年もの間、どっしりと居座って…。

私は日本の真ん中、静岡市で叫びます。

力石よ、永遠なれ!

ちょっと感情が入り過ぎた…。

羽部重吉の力石②

神田川徳蔵物語
11 /02 2017
「鳳凰石」について新たな記事を加えましたので、ぜひお目を通してください。

神田川(羽部)重吉の力石4個目はこれです。

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東京都世田谷区北烏山・妙壽寺

左にある大きな石、これに徳蔵と連名で重吉の名があります。
でもこれを担いだのは徳蔵でも重吉でもありません。
竪川町の大工の兼吉、「竪川大兼」です。

鳳凰 明治廿六年 竪川大兼 大正十三年改刻ス 
 世話人 神田川 飯定 徳蔵 重吉

つまり大兼さんが、
明治26年と大正13年の2回、この石を持ち上げたということです。
徳蔵さんと重吉さんは世話人として関わりました。

と、ここで、=追加のご報告=です。
埼玉の研究者・斎藤氏から以下のご指摘をいただきました。
 
※「鳳凰」刻字の左側に「明治廿六年 竪川大兼」とあり、右側に
  「大正十三年改刻ス」とあることから、大正13年に再度担いだのではなく、
  震災などの何らかの事情で破損したため、
  改めて作製したということではないだろうか。

  また「神田川」と「飯定」の間が開いていて、その下に大きく、
  「飯定」「徳蔵」の名があり、「重吉」の名はその半分ほどしかない。
  このことから、この「飯定」は飯定組の親方の定次郎のことで、
  定次郎と2代目の徳蔵が世話人となり、
  一の子分の重吉を末尾に加えたのではないだろうか」

私としては、
なぜ、世話人名を「飯定」ではなく「定次郎」としなかったのか疑問は残りますが、
ほかは納得です。斎藤さん、ありがとうございました。

さて、この妙壽寺は、
当ブログを長くお読みいただいている方にはお馴染みの
「豊島屋の鬼熊」の墓石が置かれているお寺です。
「鳳凰」石の隣りの石が鬼熊の力石、そのうしろにあるのが墓石です。

さて、重吉5個目の石をご紹介します。
これは、「飯定組」のホームグラウンド・柳森神社にあります。

これです。
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東京都千代田区神田須田町・柳森神社

さし石 神田川飯定内 竹松 浅吉 重吉 大善」

竹松、浅吉、大善と「飯定組」のスターたちが勢ぞろいです。

で、今回の訪問でわかったことがあります。
ここの力石の総数は13個のはずなんですね。
それが一つ増えて、14個になっていた。
つまりこの「さし石」は、今まで確認されていなかった力石だったのです。

力石群の最前列に置かれていましたから、
過去の調査で見落としたはずはない。
となると、どこからか新たに運び込まれたものということになります。

ちなみに今までの13個はすべて、
千代田区の有形民俗文化財になっています。

ところがです。
そのあとここを訪れた斎藤氏が、もう一つ見つけちゃったんですよ。
どこにあったかというと、境内の稲荷神社のわきなんです。

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ここにはおキツネさんもおタヌキさんもいらっしゃって…。
そういえば私がここを訪れた時、このお母さんギツネ、
何か物言いたげだった。ですが私はとんと気付かず。

こんなところにあったなんて…。

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斎藤氏撮影

それにしても斎藤さん、力石新発見の名人とはいえ、さすがです。
でも、今度行ったら、この石、木の葉に変わっているかも~。

まあそんなわけで、柳森神社の力石の総数はこれで15個となりました。

で、このままめでたしめでたしと行きたいところですが、ちょっと問題が…。

神田川一派の力石が並ぶ境内です。
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千代田区役所さんでは、民俗文化財に指定してくださったり、
立派な説明板まで立ててくださっている。
「あんなのはただの石ころ」と言い、文化財指定の力石が県内に一つもない
我が静岡に比べたら、庶民文化に対する理解度と見識ははるかに高い。

でも、惜しむらくは、
説明の記述が間違っているんです。

徳蔵「徳三」、鬼熊こと熊治郎「徳治郎」と。

ああ…。

ちなみに鬼熊の戒名は「勇猛院熊力信士」。
鬼神も恐れた「熊力」の鬼熊さん、
草葉の陰で、がっくりしているかもしれません。

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞