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ラストハンター

市の広報紙に聞きなれない講演会が載っていた。

「罠猟の極意と山や川の現在」

講師は静岡県西部の浜松市天竜区に住むホンモノの猟師、
片桐邦雄さん。昭和26年生まれ。

猟師といっても獲物を鉄砲で射とめる人ではない。
イノシシや鹿と向き合い、一進一退を繰り返しつつ捕獲する(ワナ)猟師です。

こうした猟師さんはこの人が日本で唯一かもしれません。
日本一の「罠猟師」であることは間違いありません。

この日は雨で、止めようかと迷った。
でも、出かけてよかった。
すべて自らの経験と信念に裏付けされたウソ偽りのない言葉に、
私はたちまち魅了された。

下の写真は、静岡県生まれのノンフィクション作家・飯田辰彦氏が、
年間を通じて片桐氏に密着取材して書き上げた
ラストハンター片桐邦雄の狩猟人生とその「時代」です。

背負っているのはイノシシです。
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鉱脈社 2011年

講演の初めから、罠にかかったイノシシとの息詰まるような映像。
猛り狂うイノシシと人との、まさに命のやり取りです。
獲物の心臓にヤリを突き刺す場面もあった。

講演が始まる前、司会者から「残酷な場面もございます」
とのアナウンスがあったけれど、講師の片桐氏は、さらりとこう言った。

「みなさんはお肉屋さんできれいに並べられた肉を買われる。
でもその前にこうしたことを必ずしなければならないんです。
みなさんも他の動物からをいただいているんです」

片桐氏が鉄砲でなく罠猟「足くくり罠」にこだわるのは、
「おいしい肉を食べていただきたいから」

でも何を隠そう、私は某山中でこのくくり罠に掛かりそうになったのですよ。
力持ちが担ぎあげたという地蔵さんを探しているうちに道に迷って…。
害獣駆除のために仕掛けられていたんです。
画面の中のイノシシと自分が重なって、ゾッとしながら聞いていました。

罠にかからなかった幸運に感謝しつつ、話の続きです。

獲った獲物は自宅の解体作業場へ運び、自らの手ですべて処理。
欝血死と失血死とで違う肉の旨みや内臓の説明など、
医療関係者も顔負けの知識です。

img945 (2)
「ラストハンター」よりお借りしました。

天竜川上流の自然の中で育った片桐氏は、
中学を卒業すると迷わず調理人の道へ。

二十歳のとき故郷へ戻り、割烹「竹染」を開業。
そのときから猟期は山へ、夏は天竜川の鮎やうなぎ、
家では日本蜜蜂の飼育という具合に、どっぷり自然と向き合ってきた。

少年のころ、鮎やうなぎで湧き立っていた川もダムで一変し、故郷を追われた。
片桐氏はいう。

「乱獲したから魚が減ったといわれるが、そうじゃない。
魚や動物を住めないようにしたのは自然を変えてしまった人間なんです。
今、洪水を起こすのは植林した山ばかりです。
植林した針葉樹は根が浅いし、1種類しか植えないから。
雑多の樹木が茂る山は崩れないんです。

山の動物の死は九割が自然死、あとの一割が人による捕獲です。
彼らは一日中、必死で食料確保に歩いています。
そうして死んだら他の動物や植物に自分を提供するんです」

天竜川で投網を打つ片桐氏。
img723 (3)
「ラストハンター」からお借りしました。

毎日大量に作られて大量に廃棄される食品と、
必要なだけ山や川、海から命をいただいて共存していく社会。
人間もまたこの自然を構成している生き物に過ぎないのに、
驕りすぎたのではないかと、そんなことを考えさせられた講演でした。

で、私、自分が今まで食べた山の野生動物を思い出してみたんです。

ヤマドリ、うさぎ、鹿、イノシシ、クマ。
クマは熊の取材に行った民宿で食べました。熊鍋。
ご主人は私が自然保護を持ちだして非難するのではないかと警戒していた。

で、息子さんが硬い表情で、
山のモンには山の暮らしっちゅうのがあるんです」という。
で私は、熊肉をパクつきながら「あなたもお父さんと猟に?」と聞いたら、
傍らの父親が、「それがダメなんだよ、こいつ。
可哀そうだって、鳥にさえ鉄砲向けられない」って苦笑いした。

でもこのときはっきりわかったことがあるんです。
野生動物の保護に一番貢献しているのは、山に住むこの人たちだって。

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羽部重吉の力石①

荷役業「飯定組」の親方、飯田定次郎に最も信頼され、
組の2代目・飯田(神田川)徳蔵を陰で支え続けた男、羽部重吉

徳蔵氏のお孫さんで、埼玉県児玉郡新里で中華料理店「麺飯珍」を経営する
Kさんの記憶の中の重吉は、「おとなしそうなおじさん」

その重吉さんの名前が刻まれた石をご紹介します。
全部で5個あります。2回にわたって全部お見せします。

まずは氷川神社から。

力石は氷川神社の「稲荷大明神」の祠のところに並んでいます。
CIMG3889 (2)
東京都杉並区高円寺南

ここには7個の力石があります。
そのうちの3個神田川重吉の名があります。

一つ目はこれ。
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「奉納 秀遊石 大正十五年 當所 濱町秀太郎
 立会人 神田川重吉 橘町逸」

二つ目です。
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「奉納 さし石 大正十五年 神田川竹松 佐賀町宇之吉 神田川重吉

3個目はこちら。
CIMG3885.jpg

「奉納 五拾貮貫 大正十五年 橘町逸 神田川重吉 持之
 立会人 神田川主馬蔵 神田川竹松

主馬蔵も竹松も神田川一派。
なので数ある興行写真には必ず写っているはずですが、
写真に氏名が書かれていないため、確認できない状態です。

重吉さんを始め、この人たちのご子孫がこれをお読みくださっていたなら、
そしてご一報いただけたらと、夢みたいなことを思っているのですが…。
 
それはさておき、ここでちょっと気になるのが奉納年なんです。
これらの石の奉納年はすべて大正15年なんですね。
実はこれには大きな意味があるんです。理由は後日、お教えします。

さて、ここで非常に興味深い写真をお見せします。

これです。
大信社倉庫部

「大信倉庫」という会社の前で撮影されたものです。
建物の壁のかまぼこ型のドームにご注目ください。
ドームの下に「大信」と書いてあります。
建物の表札にも「大信倉庫部」とあります。

その入口両側に松と竹が門松みたいに飾られています。
そのうしろに洋装でおしゃれした会社経営者のような人が写っています。
一人は指にタバコを挟んでいます。

右端に半分消えかかっているように写っているのは神主さんでしょうか。
会社の特別の日なのか、何かの式典なのかはわかりませんが、
どうやらこれから力持ちが始まる気配。
「飯定組」のはっぴを着た男が三人。いつになく緊張しています。

皮のブーツを履き、服装もバリッと決めています。

赤丸の中の箱に「神田川」「力持ち」と書いてあります。
そして赤矢印は神田川徳蔵です。徳蔵さんには独特のオーラがあります。

大信社倉庫部 (2)

下の写真は現在の「大信倉庫」です。
今も同じ場所にありました。
神田川一派が力持ちを披露したのはいつのことかはわかりませんが、
建物のかまぼこ型ドームはそのままなんですね。

ということはこの建物、大正12年の関東大震災後の建築でしょうか。
昭和の大空襲にも生き残ったのは確かです。
「大信倉庫」さんには神田川一派の力持ちの写真を、
ぜひ、見ていただきたいです。

img347.jpg
東京都千代田区神田須田町   斎藤氏撮影

さて、重吉さんです。

以下はこの写真について、徳蔵縁者で写真提供者のEさんの推測です。

「ここにいるのは神田川一派ばかりのような気がします。
真ん中の少年は定次郎の孫です。
飯定組の親方・定次郎重吉さんかも、と思う人物も写っていますが、
なんともいえません」

神田川一派の大切な興行のように見えますから、
組の重鎮の重吉さんがいないのも変だなあと思うものの、現時点では不明。
このことと親方の定次郎さんが興行写真に現れないこと、
これが不思議なんです。

Eさんんによると、
「定次郎は大食漢で、あるとき、力士と3人でそば屋へ入ったのですが、
そのとき注文したのがざる二十一。一人7枚ってことになります。
これにはそば屋もびっくりしたというエピソードが残っています」

定次郎親方もきっと、大変な力持ちだったと思うのですが…。

徳蔵さんの愛妻お千代さんは平成元年までご存命だったとか。
そのときお会いできていたらいろんなお話が聞けたのに。
とは思うものの、
があるから面白い、が解けないから夢中になれる、

きっと、そうなんですね。

帰りゃんせ

「神田川徳蔵物語」から、ずいぶん寄り道してしまいました。

徳蔵さんの千社札コレクションの中から、
民俗学の祖・山中共古の札を見つけたのがそもそもの発端。
そこから話は民俗学の大家で「官のアカデミー」の柳田国男に及んだ。

その柳田が出版業者に発した「本屋ふぜいが!」の上から目線にカッチーン!
同様に私の祖先はこの人から「巫女ふぜいが!」と見当違いの記述をされ、
さらに地元郷土史家からは、未公開の私文書を楯に、
「ここの神主が横領云々」などと書かれて、
曽我兄弟ならぬ私の「仇討ち」という思わぬ展開になってしまいました。

その結果、

♪ 徳さん だんだん遠くなる 遠くなる
   今来たこの道 帰りゃんせ 帰りゃんせ


というわけで、
「徳蔵物語」のスタート地点、東京・神田川界隈へ帰って再出発です。

以前にも出しましたが、やっぱりこの写真から行きましょうか。
私の一番好きな写真です。

神田川米穀市場所属の荷揚業「飯定組」2代目・徳蔵の片手差しです。

優勝カップと俵上げ (2)

後ろにいるのは、
徳蔵の義父・飯田定次郎が従業員の中で一番信頼していた羽部重吉です。
徳蔵さん、最期はこの人に看取られたそうです。
それほどにこの二人は、深い絆で結ばれていたということですね。

下のスケッチは葛飾北斎の「北斎漫画・江戸百態」の一コマです。
左が片手差し、右が両手差し。

img156.jpg img289.jpg

こちらは神田川一派の力持ち興行です。
洗濯物がヒラヒラしていて、のんびりした風情ですから小興行か練習かも。

埼玉の研究者・斎藤氏によると、
「見物人は子供たちなので、夏休み中かもしれない。
遠方(赤矢印)に見えるドームは旧両国国技館
ということは、橋は隅田川にかかる総武線鉄橋です」

室内 (2)

拡大すると、
こんな感じ。米俵の片手差しをやっています。
みなさん笑顔を見せていて、なごやかです。
左端の白シャツの人、重吉さんに似ています。

赤矢印はバーベルです。
右端に腰かけている人が、それをチラッと見ています。

2新たな写真

バーベルを見ているのは、徳蔵さんなんですよ。
同じ会場を別の角度から写したのがもう一枚あります。
それを拡大したのがこちら。

徳蔵さんの後ろの人は、竪川大兼さんみたいだけど、どうなんでしょう。
楽しそうに笑っています。

1新たな写真

斎藤氏によると、
「旧両国国技館は大正9年(1920)に再建され、3年後の大正12年に
関東大震災で破損。翌年、再々建された。
この写真を見ると、向こう岸も興行場所も震災を受けたようには見えないので、
これは大正9年から12年の間に撮影されたものと思います」

ところがこのバーベルというものは、
明治から大正に外国人たちが使っていたという証言はあるものの、
民間では記録がなく、公的に初めて登場したのは、
日本政府がオーストリアから購入した昭和8年なんだそうです。

ということは神田川徳蔵は、
それより10数年も早くバーベルを所持していたことになります。

これって凄くないですか?

外国から入手したのか、自作品なのかはわかりませんが、
「力石からバーベルへ」
つまり、「伝統的スポーツから近代スポーツへ」なんて発想、
他の力持ちたちにも当時の日本人にもなかった。

それを徳蔵さんは難なくクリアした。その先見性が凄いんです。
まさに徳蔵さんは日本の重量挙げの道を開いた人
このことを多くの人に知っていただきたい。

神田川一派とバーベルについては後日、詳述します。

さて、重吉さんです。
無二の親友の徳蔵さんと行動を共にしているはずですが、
不思議なことに、その姿、今のところ興行写真から特定できておりません。

次回はその重吉さんの石のお話です。


※参考文献/「現代体育・スポーツ大系 第21巻」
         浅見俊雄・宮下充正・渡辺徹編 講談社 昭和59年
        /「日本ウエイトリフティング協会60年史」協会HP
※徳蔵関係の写真は徳蔵氏ご子孫と縁者Eさん提供。

友、遠方より来たる②

「望嶽亭・藤屋」をでると、目の前が「薩埵(さった)峠」の登り口です。

友人はなにしろ海外の山旅のベテランなので、
夕べの夜行バスの疲れもなんのその。

坂の途中で振り向けば笠をかぶった富士山が…。

雪のない富士山で、雄大さにはちょっと欠けるけど、
海と富士山を一緒に見たい」という希望は、なんとか叶えてあげられたかも。

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静岡市清水区由比西倉沢

登るほどに駿河湾が迫ってくる。
友人は歩きながら、片手に持ったカメラで野の花を次々写していく。

あっという間に峠に出た。

江戸時代の「さったぢぞうみち」の道標2基と現代の道しるべが立つ。
この道しるべ、昔は反対側の崖にめり込んでいました。

CIMG3953.jpg

ここまで来ればあとは平らな遊歩道です。
私がここへ初めて来たときは、
崖っぷちのみかん畑の中を枝をかきわけて歩きましたが、今は楽なもんです。

ビューポイントにきましたが、あいにく富士山は裾だけ残してすっぽり雲の中。
ホントに気まぐれなお山です。

CIMG3950.jpg

「本当はこんな風に見えるんです」って、説明板が言ってました。

06 薩た峠

こちらは同じ場所から広重さんが描いた「東海道五十三次之内 由井」
富士山手前の山の形は今も同じ。

暗くてわかりませんが、
左端の崖から旅人がこわごわ下をのぞき込んでいます。

もっと昔はこの崖下の波打ち際を歩いたとか。

波がひいたとき大急ぎで通らなければ波にさらわれます。
なので親は子を構ってはいられず、子は親をあてにせず自力で通った。
そういう難所だったので、ここを
「親知らず子知らず」と呼んだそうです。

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たっぷり景色を満喫したあとは静岡駅へ逆戻り。
さっぱりと着替えて、いざ、ディナーへ。

この日のために私が選んだお店です。
こじんまりと落ち着いた空間。もちろんお料理も抜群です。
まずは再会を祝して、「かんぱァーい!」

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たっぷり2時間、飲んで食べておしゃべりして…。

で、翌日も半日時間があるというので、お付き合いです。
静岡浅間神社や駿府城、登呂遺跡は、
山の同好会のお仲間と地元ガイドの案内で行かれるというので、
では、「清水次郎長さんに会いに行きましょうか」ということに。

翌朝、待ち合わせの静岡駅へ行ったら、お仲間が一人増えていた。
「みんな面倒見ちゃいましょ」というわけで、いざ、清水湊へ。

清水駅前の広場では、マグロ祭りの幟がはためいていましたが、
私たちは駅前からバスで日の出埠頭へ。
そこから昨日登った薩埵峠をながめたり、朝の光の中にもやう船やヨットや、
まだ動き出さないエスパルスドリームプラザの観覧車を見たり。

もちろん、近くの西宮神社のあの金杉藤吉の力石もお見せしましたよ。

川沿いの杭の一本一本に大きな鵜が止まり、胸をそらして翼を広げている。
そんな光景を横目で見ながら、
官軍に襲撃された旧幕臣たちを次郎長が手厚く葬った「壮士之墓」
次郎長の生家、次郎長が英語塾を開いた船宿「末廣」とめぐりました。
もう次郎長づくし、次郎長一色。

次郎長さんと並んで「合羽からげて三度笠」の友人。よく似合ってます!
09 次郎長の英語塾

船宿でゆっくりお抹茶をいただいて、無事、帰路につきました。
同好会のお仲間との合流までに充分間に合って、安堵。

後日、
「おかげで、ツアーのガイドさんの質問に全部答えることが出来ました。
あなたはベストガイド。静岡を満喫できて感謝しています」とのメール。

喜んでいただけて、よかった!

友人からいただいた金沢のお土産です。
「箔一」の漆器のワイングラス。なんか使うのもったいないよ~。
右側は金沢市元町「中田屋」のきんつば。「毬栗」と「うぐいす」。
左側は大手町「森八」の「秋の宝達」。

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さっそく、「秋をおひとつ、いッただきまあ~す!」

「これは是が非でも金沢へお越しいただかなければ…」
って友人が言ってたけど、
いいね! 冬の金沢で再々会といきましょうか!

友、遠方より来たる①

10月3連休は、石川県金沢市から友人を迎えて楽しみました。

昔、私が出した山登りの本を読んで、
「お母さんになっても登山を続けていいんだと勇気をもらいました」
というお手紙を下さった方です。
所属する山の同好会で静岡市へ旅行に来ることになり、
彼女だけ一日早く来静。なんと、27年ぶりの再会です。

お互い、孫を持つ身と相成りました。

初日の半日は由比の「薩埵(さった)峠」へ軽いハイキング。
由比といえば桜えび、というわけで、まずは腹ごしらえ。

生の桜えびです。
秋漁は今月末なので、今はまだ冷凍ですが美味。
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桜えびはなんといってもかき揚です。私は獲れ立てを自分で揚げます。
桜えびに粉をふりかけ、水を2,3滴垂らすだけ。
それを大さじに入れて油の中へ流します。

窓いっぱいの駿河湾をながめながら、塩を振りかけて、
「いっただきまあす!」

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静岡市由比・「くらさわや」

満腹になったところで、今度は昔ながらの家並を抜けて「望嶽亭・藤屋」へ。
ここは江戸時代の茶店だった家で、旅日記や広重の絵にもなっています。
かつてお世話になったご主人の松永宝蔵さんはすでになく、ちょっと寂しい。

「静岡の力石」の表紙に使わせていただいた
宝蔵さんの力比べのスケッチです。

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宝蔵さんに似たご親戚の方に招き入れられて、お話を聞く。

絵描きになりたかったが農家の長男だったから断念したという宝蔵さん。
「独学で覚えた」と言っていた絵が部屋中に飾ってあった。
「七福神」の手ぬぐいを購入。
おさえた色合いの多い宝蔵さんにしては珍しくあでやかだ。

松永宝蔵画「七福神」の一部。
弁天さまにだけ足袋?を履かせているのが、心温かい宝蔵さんらしい。

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続いて、昔、新聞連載の記事のため何度もおじゃました蔵座敷へ。
懐かしいなあ。
宝蔵さんの「官軍に襲われて望嶽亭に逃げ込んだ山岡鉄舟はッ!」
の名調子を聞いたのがつい昨日のよう。

山岡鉄舟が置いて行ったフランス製のピストルも、
戦後ここへやってきたオリバー・スタットラーの礼状もそのままあった。

スタットラーは米軍の軍属で、美しい日本の宿に魅せられ、
興津にあった水口屋という旅館とそこを取り巻く人々を描いた
「水口屋ものがたり」を書いた。これは英訳、ドイツ語訳、日本語訳になった。

望嶽亭はこの水口屋とは親戚で、侠客・清水次郎長とも深い関わりがあった。

蔵座敷の窓です。
CIMG3948.jpg

窓の向うに東海道本線と国道、高速道路、
その向こうに見えるのが駿河湾です。
地震で隆起したため現在のようになったが、江戸時代は窓の下がすぐ海で、
海女さんが獲ったアワビやサザエを、その場で焼いて旅人に出していた。

狂歌師の大田蜀山人は、
「ここのアワビやサザエを楽しみにしてきたのに、
松平近江守の一行がいて占領していたので、仕方なく隣りの茶店に行った」
と旅日記「改元紀行」に書いている。

蔵座敷には隠し階段があって、私たちは特別、下へ降りさせていただいた。
地下もまた広い空間になっていて、
漆喰を施した三重の扉で密閉されていた。

火事になったときすぐ新しい家を建てられるよう、
ここに一軒分の木材を保管していたという。

CIMG3945.jpg

官軍に追われた山岡鉄舟はこの隠し階段から海へ逃れ、
次郎長が用意した小舟に乗って、西郷隆盛の待つ駿府を目指した。
これが「江戸城無血開城」につながったという。

学者さんたちは「あり得ない話」といいますが、
松永家では代々、そんな話を伝えてきたのでしょう。

そんなこともあって説明のおじさんは、
「これはあくまでも言い伝えです」との言葉を添えていました。

広重が描いた「望嶽亭藤屋」です。
右側の建物が望嶽亭です。切り立った崖は、
河竹黙阿弥がここを舞台に書いた歌舞伎「切られお富」の名セリフ、

「総身の疵(きず)に色恋も、薩埵峠の崖っぷち」の薩埵峠です。


由比隷書
隷書版「東海道五十三次 由井」

これでおしまい

「角田桜岳日記」の中で河津祐邦が言った
「曽我社には細川、雨宮という二人の神主がいた」というくだりを読んだとき、
真っ先に浮かんだのは、伯母の一人から聞いた話だった。

この伯母は兄や姉たちにではなく、なぜか、
「何を考えているかわからない気味の悪い子」と疎んじられていた私に、
「清子さん、よく覚えておくのですよ」と懸命に話しかけた。

こんな話だった。

「祖先はもとは細川といい、京都で戦乱が起きた時、都落ちしてきた」
「のちに信濃の雨宮(あめのみや)というところから養子を迎えたため、
そのときから名前が変わった」

それから数十年後、歴史に興味が出てきたとき、
伯母が言っていた京都の戦乱は「応仁の乱」で、
信濃の雨宮(あめのみや)は、長野県埴科郡にあって、
川中島の合戦に出てくる「雨宮の渡し」の地だと気が付いた。

ここには土豪・雨宮氏が築いた雨宮城という山城があったという。
城主といってもたくさんいた土豪の中の超マイナーな一人に過ぎない。
が、とにかくそこから養子としてはるばる駿河(静岡)へやってきた人がいた。

雨宮城登山口
城雨宮
千曲市雨宮。「城と古戦場・戦国大名の軌跡を追う」からお借りしました。

私の実家に刀と槍が残されている。
母が嫁いだとき、父の生家の長押には槍がたくさん架けられていたそうだから、
その一部だったのだろう。

刀は室町期の作で、これ以上研ぐことができないほどすり減っていて、
何度も実戦に使われた、つまりたくさん人を斬った刀だと研ぎ師は言った。

民俗学の大家・柳田国男は、
父の先祖の神社は、「歩き巫女が定着した小祠」と書いていたが、
この刀の存在といい槍といい、そこにあるのは、
戦国乱世を駆け抜けてきた武士の姿で、春をひさぐ巫女の影などない。

で、「細川と雨宮の二人の神主」の記述を見た瞬間、
子供の私に真剣な表情で語った伯母の顔がドーンと甦ってきた。
あれは作り話ではなかったんだ。そう思ったら、
それを数百年も伝えてきた「家」という存在に感慨すら覚えた。

「双禽八陵鏡」
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八幡宮蔵。子供のころ、ままごとの道具に使ってしまった神鏡。

そして、歴史学の史料偏重ともいうべき在り方に疑問が湧いてきた。

文字として書かれた記録だけが歴史ではない、
伝説や伝承の中にも歴史はちゃんと生きているんだ、と。

人類学者の山口昌男は、
「官のアカデミー」だけを尊重する風潮を戒め、
官のアカデミーを縦軸に、「野のアカデミー」を横軸にしたクロスを提唱した。

この言葉をお借りしていえば、私が学芸員さんたちから
「あんなマイナーなもの」と言われた力石に夢中になったのも、
「野」から見えてくるものを大切にしたい、そういう思いがあったからだ。

先祖たちの存在は、大きな歴史の中では無価値なチリの一片でしかない。
けれどそこから見えてくるものが確かにある。

世の中の流れが、応仁の乱から戦国時代へと向かった時、
都落ちした祖先が居を構えたその場所は、
信濃を制圧し、今度は矛先を海のある駿河に転じた甲斐の武田信玄が、
駿河侵攻に大軍を率いて押し寄せた往還のかたわらにあった。

そして、
敵・今川氏の強力な武将で、富士山本宮浅間神社の宮司でもあった富士氏は、
その街道の入り口に居城・大宮城を構えていた。
そしてなぜか、曽我社に隣接して甲斐出身の武士、植松氏が住まっていた。

移築された植松家の長屋門です。水路開削の技術者だった植松氏は、
水を引く樋(とい)を掛けたため、樋(とよ)代官と呼ばれていた。

長屋門植松家 (2)
富士市立博物館内・広見公園。博物館HPよりお借りしました。

この植松氏は、大正時代になっても、
困窮した父の家への金銭的援助を惜しまなかったそうで、
古くから父の家とは特別なつながりがあるように見えたと、母が言っていた。

なぜ植松氏がそこまでしてくれたのかはわからない。
京都~信濃~甲斐~駿河と流れてきた先祖の、
その足跡のどこかに接点があったはずだが、
それは遠い先祖だけが知っていたことで、子孫には伝わらなかった。

さて、明治の新時代が始まる11年前の弘化四年(1847)の秋、
河津祐邦は、佐野与市(角田桜岳)の案内で、
遠路はるばる、江戸から厚原の曽我八幡宮へやってきた。
このときの曽我社の神主は、22歳の雨宮富太郎(邦孝)だった。

16歳で父を亡くした富太郎は、この家の当主になったものの、
暮らし向きはたちまち傾き、
河津氏を迎える一年前には、借財のため本宅を売り払うほどになっていた。
そのため、河津氏を隠居所でお迎えするしかなかったという。

桜岳は、雨宮家のそんな事情を河津氏に、
「道々、なにくれとなく話した」と日記に記している。
河津氏はそんな曽我社に、当地に滞在中何度も足を運び、
若い富太郎と物語などして過ごしたという。

下の文書は、
河津氏が金三両とお初穂百疋を曽我社へ届けるよう
大宮町の佐野与市へ頼んだことを知らせてきた書状です。
安政六年の桜岳日記にも、
河津氏から預かった三両などを曽我社へ届けた旨の記述がある。

この安政六年は、
祐邦が河津家の家督を継いでからすでに9年たった年にあたります。
時代は、
安政の大獄、井伊直弼暗殺などが立て続けに起きた幕末動乱の真っ最中。

そのわずか四年後には、
薩摩と英国との戦争が勃発。同じ年、祐邦は遣欧使節副使として渡仏した。

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手紙の宛先の「雨宮紀伊」は邦孝(富太郎)のことで、私の曽祖父にあたる人。
家運立て直しのため茶園栽培に着手。幕末には「駿州赤心隊」に参加した。

書状の末尾は紀伊が贈った梅干しひと樽に対する礼状。
  =この解読は駿河古文書会の中村典夫先生にお願いした=

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今、曽我八幡宮の片隅に、
衰退した曽我社を憂えて再建をもくろんだものの果たせず、
無念のうちにこの世を去った角田桜岳(佐野与市)の、
伊豆石製の標柱が立っている。これは桜岳没後、ご子息の手で建立された。

そして、ささやかな参道沿いには、古びた石段や石灯ろう、石橋が、
ここを行き交った人や過ぎた日々を懐かしむようにひっそりとたたずんでいる。

元禄、享保から明治までの灯ろうが並ぶ厚原・曽我八幡宮。
仇討ち本懐を遂げた十津川村の小松典膳奉納の石灯ろうも現存。

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どの家にも他人さまには計れない、一族の血が伝えてきたものがある。
史料や学説では説明のつかない真実がある。
なんて偉そうなこと言っちゃって。

柳田国男や地元郷土史家の本を読まなければ、避けて通ったお話でしたが、
黙っていられなくて…。
父への鎮魂にはなりましたが、皆さまのお目を汚してしまいました。

とにもかくにも、
この小さな祠を守ってきた先祖の話は、これでおしまい。

光明

今日のブログは長~いです!
よそんちのごくごく個人的な歴史をお読みいただくのは申し訳ないと思いつつ。

     ーーー❤ーーー

父を青ざめさせた「神主が横領云々」の文言は、その本の著者によると、
「延宝六年、厚原・曽我八幡宮の神主、細川喜太夫が、
伊豆の河津三郎兵衛に宛てた宝物借用願いの中にあった」という。

そこに書かれていたのは、
貸した宝物は河津三郎兵衛代々の系図や正観音など五点。
しかし出開帳のあと、四点は江戸の河津家へ返されたものの、

「弘法大師作・守り本尊は、いまだ返り申さざるなり。
そのころの神主細川というもの、今いづれになりしやしらず

という文言で、借用願いの末尾に書き入れてあった追記だという。

それを受けて、「宝物は戻されていなかったようで、紛失したのか、
神主が横領して行方をくらましたのか不明だが」と著者が書き添えてあった。

ここに出てくる河津家とは、あの曽我兄弟に連なる「河津一族」です。

下の写真は、古い話ですが、
昭和31年(1956)製作の映画「曽我兄弟・富士の夜襲」に使った装束です。
なんと、映画会社東映から曽我八幡宮に奉納されたもの。
十郎役の東千代之介(30歳)と五郎役の中村錦之助(24歳)が着た装束で、
十郎の愛人・大磯の虎は高千穂ひづるという女優さんが演じたそうです。

ちゃんとサインもあります。
img834.jpg img684.jpg
   
なんでそんなものがここにあったかというと、
東京から帰郷した伯父の後妻さんの熱心な働きかけがあったからで、
そのためみんなから「やりすぎだ」と物笑いにされたとか。

この後妻さん、白い顔に細い切れ長の目をした冷たい感じの人で、
国学院大学を出て神職の資格を持つ才媛だと、ほかの伯母たちが言っていた。

子供のころの私はこの人が怖くて、
今でも稲荷神社の陶製の白いキツネを見るとドキッとします。

でも、この後妻さんは伯父ですら関心を示さなかったこの家の事に興味を持ち、
国会図書館へ通い、ついに一冊の本にまとめたという執念の人でもありました。
でも現在は、文書などと共にこの装束も紛失してしまい、保管庫は空っぽとか。

話を戻します。
この「横領話」を読んだとき、私はこんな疑問を持ったのです。

厚原の曽我八幡宮が伊豆の河津家へ出したという借用書を、
なぜ、よその八幡宮(上井出)の宮守が持っていたのか。
それにその追記は、いったい誰が書き加えたのか。

「伊豆」と書いてあるが、河津三郎兵衛は江戸・下谷に住む旗本。
本拠地は伊豆であっても、願書(ねがいしょ)は江戸の河津家へ出すはず。
宝物四点は「江戸の河津家へ返されたが…」と追記はいうのだから。

この借用書の全文を見たかったが、これが収録されているという
地誌「駿国見聞抄」は市史にも県史にも見当たらなかった。

埼玉県に、この地誌に興味を持った人がいたらしく、
埼玉県立久喜図書館から著者へ問い合わせをしたことがネットに出ていたが、
「この地誌は一般公開はしていない」との返事だったという。

このことが著者のいう「一般の人の目には触れない資料を自分は持っている」
という、やや優越感を誇示した言い方になったのだろうか。

それにしても埼玉県にまで、「横領話」が知られていたなんて。
いったん世に出た活字は生き続けるのだ。暗澹とした。

しかし捨てる神あれば拾う神ありで、ひょんなことからこの一件は急展開。

10年ほど前のある日、私は静岡県立図書館の棚に、
大宮町(富士宮市)の役人だった佐野与市(角田桜岳)の日記を見つけて、
思わず、あっ!と声をあげた。

佐野与市(角田桜岳)です。
岳角田桜
富士宮市HPからお借りしました。

この佐野与市こそ、例の本の著者が、
「横領」の典拠とした借用書が収録されているという
未完の地誌「駿国見聞抄」の編者だったからだ。

早速「角田桜岳日記(一)」(2004年解読。富士宮市教育委員会)から読む。

例の本に、桜岳が地元の古文書を集めて「駿国見聞抄」を編んだのは、
天保13年の事とあったが、
日記はその一年前の天保12年から始まっていた。

桜岳はたびたび江戸・下谷の河津家に出入りしていた人で、
河津家の三郎太郎とは親しく話をする間柄だと書いてあった。

この三郎太郎というのは、河津三郎兵衛の嫡男・祐邦のことで、
この人はのちに、江戸幕府最後の長崎奉行を務め、
幕末の文久三年(1864)、横浜港鎖港を話し合うため、
池田遣欧使節団の副使として渡仏した。

下の写真はチョンマゲに刀を差したこの一行が、
エジプトのスフィンクスの前で写した珍しい一枚です。

エジプト池田遣欧使節

祐邦は、桜岳が出入りしていた頃はまだ若殿であったが、
この若殿は、ことのほか「曽我物語」に関心を持っていたようで、
その話の中に、なんと父の先祖が登場していたのです。

それが出てくるのは天保13年の日記からで、
桜岳は河津家を訪問した折りには、
曽我社の江戸での出開帳をたびたびお願いしていたと書いていた。
そして三郎太郎が語ったこととして、こんな話を載せていた。

「延宝のころ、先祖が曽我社へ参詣せしに、曽我の神霊白蛇二匹出(い)で、
明(ひ)らけ置きたる扇の上に乗り、こけら二枚を残し去りしとなん。
そのこと秘して語らざりしを、五万石の伊東氏へ話せし」

「延宝年中、先祖浪人いたし、厚原村曽我八幡神主雨の宮方にて、
一年も居候よし。そのころ、細川と申す神主もありしよし」

細川喜太夫の名が記された曽我八幡宮「神領寄進状」です。
img500.jpg

名前の部分を拡大したのがこちら。
赤丸の中に喜太夫。矢印は寄進状を出した旗本・日向半兵衛正道。
時は寛永七年(1630)。江戸初期です。

img500 (3)

雨宮は古くから「あめのみや」と呼ばれていました。
桜岳は日記には忠実に、わざわざ「の」の字を入れて書いていた。

例の著者が示した「神主の細川が姿をくらました」年号は、
この「寄進状」の寛永七年から48年後の延宝六年とのこと。
確かにその延宝六年に、出開帳が行われている。

執行したのは初代なのか、二代か三代目の細川だったかはわからない。
しかし、祐邦の話によれば、
問題のその延宝には、雨宮姓と細川姓の神主がいたという。

それから30余年たった享保末の当主は五代孝祥・雨宮喜内です。
この人は十九歳で逝去。子がなかったため、
急きょ、江戸にいた甥の政次が家督を継いで六代雨宮和泉守となった。
以前お見せした「江戸出開帳願文」を書いた人です。

この人は中興の祖といわれ、なかなかの人物だったようですが、
現在は屋敷跡のがけ下に、地元の篤志家の手で立てられた石祠に、
わずかにその名をとどめているだけになっていた。

CIMG0842.jpg CIMG0841.jpg

私は河津家の若殿のこのくだりを繰り返し読んだ。
読み間違いではないよね、と息をつめて…。
何度も読んでいくうちに、喜びと怒りが同時に湧き上がった。

だって、例の「神主が横領云々」の本で、横領は延宝のころとあったのに、
その同じ延宝のころ、当の河津氏が浪人していて、
「行方をくらました」はずの神主の家に、
一年間も居候(いそうろう)していたというのだから。

天保13年に角田桜岳が書いた日記と、その同じ年に同じ人が集めたという
未完の地誌「駿国見聞抄」収蔵の借用書加筆の内容とは、
まるっきり違うではないか。

なぜなんだ。

三郎太郎はさらにいう。
「先祖、居候いたし節、曽我社へ系譜そのほか諸感状など写し、納め候よし。
細川と申す神主よりの書付なども見る」

延宝年中、
居候していた河津氏が、この社に納めたという系図はこれだろうか。

「曽我兄弟系図」
img426 (2)

あの本の著者は「ウソを暴くために今後も鋭いメスを入れていく」と豪語していた。
メスを入れなければならないのは著者自身だったのではないのか。
真偽はどうあれ、この日記が世に出た2004年の時点で、
著者は検証すべきだったと私は思う。

ともあれ、光明が見えた。

このことを父に知らせたかった。
が、その父は例の本が出た7年後に亡くなり、
「角田桜岳日記」が出た2004年には、それからすでに22年もたっていて、
とうてい間に合うはずもなかった。

長政まつり

「長政まつり」へ行ってきました。
静岡浅間神社の門前の商店街で行われました。

山田長政は駿府(静岡市)で生まれ、
江戸時代初め、シャム(タイ)へ渡り日本人町で頭角を現わし、
その後、タイ・リゴールの王さまになった人です。
最後は毒殺されたともいわれています。

タイの長政から静岡浅間神社へ奉納された絵馬と祭り用の象のハリボテ。
CIMG3969.jpg

このまつりは静岡市の若者たちが1986年に始めたもので、
その後、日本とタイの友好事業となり、今年で32年目を迎えました。

タイの踊りです。
美しい女性で、見とれてしまいました。

CIMG3970.jpg

男性たちの踊りです。
端正な顔立ちの美男ばかり。やっぱり見とれてしまいました。

CIMG3980.jpg

タイの青年が、飾りのようなものを日本の子供やお父さんに教えていた。
CIMG3988.jpg

路上ボクシングもやってました。
少年たちが真剣に見ていました。

CIMG3993.jpg

飾り物をつけたタイの車、雑貨、洋服などもありましたが、
目に付いたのはタイ料理の露店。全部で9店舗。
タイ在住のちい公さんのブログに登場するイサーンの食べ物もありました。

東京にあるタイ王室レストランも出ていました。
やっぱり人気がありました。

CIMG3995.jpg

で、私も買ってきました。
私が買ったのは普通の露店。
タイのおねえさんが汗だくで焼きそばを焼きながらたどたどしい日本語で、
「おいしいよ」というので、その笑顔につられて…。

買ってきたのは、
タイの焼きそば「パッタイ」、ちまき、ナッツと穀物を水あめで固めたお菓子です。
CIMG4000.jpg

途中で会った知人から、「タイは衛生状態が悪いからねえ」
といわれて、「あっ、そうか。買わなきゃよかったかな」と。

そういえば皆さん、トムヤンクンとか焼きそばばかりで、
ちまきやお菓子を買っていた人はいなかったよなあ。

ちまきとお菓子は輸入品みたいで、もしかしたらバイキンどっさりか、
保存料まみれか、なんて不安が脳裏をかすめましたが、
どちらもココナッツミルクの味がなんともいえず、
とってもおいしかった!

パッタイはおねえさんの笑顔もよかったけど、
実は9店舗中、一番おいしそうに見えて…。
それでここのにしようと決めたら、大当たり。辛いけどすごくおいしかった。

調べたら、横浜市戸塚区にあるタイ料理の人気店の出店だった。

かくしてめでタイ一日となりました。


想いあふれて

「お父さんのうちはドロボーをするような家じゃない」
「神主が横領したか?」の記事を見たとき、咽喉の奥から漏れた父のうめき。

他人さまにはなんでもない小さな記事ですが、
父には自分の人生の支えを叩き潰されたように思えたのです。
それにはこんな理由がありました。

父は、私には祖父にあたる人の3番目の妻の子で、
父親が53歳のときに生まれ、わずか14歳でこの父を亡くした人です。
22歳年長の腹違いの兄は19歳のとき、没落した家を捨てて上京し、
師範学校を経て教師になった。
父が生まれたのはこの3年後のことだった。

その人が東京から自分の父親へ出した手紙が今、私の手元にある。

「実母の早世に起因すると言えども、
我が家の財政の基礎を固めずして後妻を娶りしは、
我ら兄弟に対してその精神を蹂躙するものなり。
もはや家運傾くだけ傾け、破るるだけ破れろ、はや我が理性も飛び散ったり。

これだけは告げておく。
我が母さえの血を引く弟妹のみ面倒見るが、
継母と異母子弟は将来とも我らとは一切関係なし。
母上や祖母様の如き教養ある婦人ならいざ知らず」

長兄が去った後、
病身の老いた父、虚弱な腹違いの兄や姉、同母の姉や妹を、
20数年、父は母親と共に面倒を見てきたという。
父の青年時代の日記に、キリスト教へ入信したことが書かれていた。
神主の子供がそこまでするなんて、よほどつらかったのだろう。

しかし精米所の小僧をしながら献金を続けたものの、
キリスト教には救われなかったのか、すぐ脱会している。
そんな父の唯一の楽しみはバイオリンで、
夜中の田舎道をバイオリンを弾いて村を一周するのが日課だったという。

姉の婚約がととのい、照れながらバイオリンを披露した父。
img038 (2)

少し茶目っ気があったのか、茶娘に女装した写真が数葉残っている。
楚々とした美人に写っていた。

28歳でようやく結婚。
しかしそんな折り、東京から定年になった兄が故郷の家に戻ってきたため、
父は家を追われ、母親と新妻を伴い、ツテを頼ってさらに田舎へ転居した。

「継母と異母子弟は我らと一切関係がない」とまで言い切った伯父だったが、
いつのころからか、電車と徒歩で1時間もかかる我が家へよくやってきた。
まだ幼かった私が見た伯父は、母が作った綿入れ半天にくるまって
掘りごたつにすっぽり入り、大好きな猫を3匹も重そうに膝に乗せて、
ニコニコ笑っている好々爺だった。

父はどんなときも弱音を吐かなかった。
どんな仕打ちをもそれは自分の宿命だとして、ただ黙々と奉仕していた。
そしてこの「ひどい」兄さんを尊敬すらしていた。

そういうヘコヘコした優柔不断な父を、勝気な母はいつも非難した。
「この人は外では旧家のぼっちゃんで、家の中では下男だった」

事実、父親の葬儀には亡父の部屋に座らせてもらえず、
その日の写真の父は、
上は背広、下は長靴という出で立ちで下男たちの中にいた。

子供のころ、家計を助けようと村の子らと鉄屑拾いをしたら、
父親に「家名を汚した」とひどく叱られ、その晩家出。
村中総出で、金や太鼓で探したら農機具小屋に隠れていたという。

たぶんこれが、父の生涯唯一の反抗・自己主張だったと思う。

そんな父の5人の子供の中で、
父と二人で過ごしたことがあるのは、たぶん私だけではないだろうか。

近所のおばさんたちから、
「あんたのお母さんは上の姉さんたちばかり可愛がって。
あんたはまるでシンデレラみたいな子だね」と言われていた私。

人生の終盤を迎えた今になって、やっと私は気が付いた。

父が幼い私を隣り町の祭りに、電車ではなく山越えで連れ出したのも、
間もなく嫁ぐ私を、生家の墓参りに連れ出したのも、
父はこの末娘の不憫な状況と、
かつての自分の劣悪な境遇とを重ねあわせていたからかもしれない、と。

父の背中を仰ぎ見つつ、山の湧水を飲み、おにぎりを食べ、
隆起した崖に海の貝殻を見つけながら、ようよう峠に立った時、
テンツクテンと遠く近く風に乗って聞こえてきた祭り太鼓。

二人で出かけた生家の墓所では、丸い小さな石を指差して、
「これは捨て子の墓。屋敷の門前にはよく捨て子があってね、
でもほとんど育たなくて死んでしまったんだ」と言った父。

父のそんな昔話を聞きながら、
私は傾きかけたおびただしい墓石の年号を可能な限り書きとめた。
帰宅後、年代順に並べたら、こうなった。
「安和、承久、文永、弘安、文禄、元和、宝永、明和、文化、文久」

「安和」って平安時代じゃないの。絶対、あり得ない! 
石塔婆が建てられるようになったのは、もっと後だし。
いつかきちんと、と思っているうちに伯父の子孫に改葬・移転されてしまった。

さて、出生のときから不遇な人生を決められていたような父だったが、
その父が家庭内の差別に怒りもせず、苦労も厭わず奉仕を貫いたのは、
「自分の中には兄たちと同じこの家の血が流れている」という、
ただそれだけのことであったと私は思う。

曽我兄弟と応神天皇の像
img354.jpgimg945 (2)img353 (2)
曽我八幡宮蔵

たぶん郷土史家は思っただろう。
「だってドロボーをしたらしいという、そういう文書があるんだよ。
仕方がないじゃないか」と。

しかしそれは、父が唯一のよりどころとして生きてきた
「家の誇り」を汚され、否定された瞬間になってしまったのです。

その本が出た当時、今から42年も前になりますが、
私はいたたまれず、著者に手紙を書きました。

「どうしてこちらの話も聞きにきてくださらなかったのですか?」と。
しかし、著者からは何の返事もいただけなかった。

青ざめた父

力持ち・神田川徳蔵の千社札コレクションの中に、
民俗学者・山中共古を見つけたため、話がずいぶん飛んでしまいました。

回り道ついでに、もう一つお話しなければ収まりがつきません。
父への鎮魂です。あと三回ほどお付き合いください。

柳田国男の著作の中に父の家のことが出ていたのは、すでにお話しました。
「小祠」という指摘はその通りですが、「歩き巫女の定着した」
という見当違いの記述は、幸い、父に知られずに済みました。

曽我八幡宮を訪れた京都探遊会の人々。明治33年。
img345.jpg
静岡県富士市厚原

しかし、それから間もなく、
父は地元・郷土史家の本から新たな「攻撃」を受けることになった。
知人から「お宅の家のことが出ている本があるよ」
と言われた父は、喜び勇んで早速、その本を購入しました。

そこにはこう書かれていた。
「ウソの多い曽我伝説」

「曽我伝説」というのは、鎌倉時代初め、
父の河津三郎を、同族の工藤祐経に殺された遺児、十郎と五郎が、
源頼朝が催した富士の巻狩り(軍事訓練)で仇討ちをした話です。
仇討ち本懐を見事に果たした若き兄弟は、
兄の十郎がその場で、弟の五郎は鷹が岡(厚原)で首をはねられたとされ、
その悲劇が美談となり武士階級の最高の道徳としてもてはやされました。

工藤祐経の配下の者に殺された曽我兄弟のお父さん、河津三郎です。
CIMG0083.jpg
静岡県賀茂郡河津町・河津八幡宮

「曽我兄弟討ち入り絵馬」です。

「奉納 勝地傳兵衛  □積む 天保十二年 辛丑八月吉日」

img347 (2)
90×55×4㎝、幅5㎝の黒縁付き。方形額。作者不明。曽我八幡宮蔵

さらに江戸時代、その仇討ちを、
歌舞伎の初代市川団十郎が演じたことで江戸庶民が熱狂。
それが「名もない田舎の小祠」が江戸の出開帳で成功した理由でした。

この現象は今、歴史博物館や美術館で、
NHKの大河ドラマに関連した企画展をやると入館者が増えるのと同じです。

「九世市川団十郎 曽我五郎」豊斎画
img723 (2)
富士山かぐや姫ミュージアム(富士市立博物館)蔵

富士山麓には大きくわけて、巻狩りの現場(上井出)に一つ、
弟が打ち首になった鷹が岡(厚原)に一つ、
この兄弟を祀る御霊神社(曽我八幡宮)があります。
その鷹が岡(厚原)の神社が父の生家だったのです。

郷土史家は自著の中でこう書いていました。
「この神社を取り上げた人々はみな言い合わせたように点数を甘くしている。
自分はこれに厳しいメスを入れて行こうと思う」

そして、こうも書いていました。

「上井出の曽我八満宮の宮守・木本家が保管する文書に、
そのころ鷹が岡の曽我八幡宮にいた神主細川喜太夫が、
延宝六年の出開帳の折り、江戸の河津家から借りた宝物を返さず、
神主は行方をくらまし、いまどこにいるかわからないと書いてある。
どさくさに紛れて紛失したのか、神主が横領したのか不明であるが、
元々ここにはたいした物がなかったようである」

ここに出てくる細川という神主は、父の家の初代の名前です。

下の写真は出開帳の折り見せたニセ文書、「五郎赦免状」です。
源頼朝が曽我兄弟の養父、曽我祐信に宛てたものとされていました。
このほかにもう一通、ニセの「赦免状」があります。

文化11年の「藤岡屋日記」に、河内国古市郡の壷井八幡宮で、
江戸・回向院で楠正成の秘宝として脇差や武具、馬具などを見せたところ、
寺社奉行の手入れがあり、秘宝はすべて質屋からの借り物だったことが判明。
処分を受けたという。

それにひきかえニセ文書の曽我八幡宮は、
いつも無事に、しかも多大の収益をあげていたようです。

後世の贋作とされた「曽我五郎赦免状」
img834 (2)
曽我八幡宮蔵

「この神社にはろくな物もない」とは、柳田国男も書いていました。
柳田の時代に何もなかったのは当然と言えば当然です。

だって明治維新の折り、「駿州赤心隊」に入り官軍に味方したものの、
新政府になったら神主たちは、ものの見事に切り捨てられて、
山林や田畑はもちろん、めぼしいものはすべて売らなければならず、
あとにはガラクタばかりが残されたのですから。

それでなくても、
神社というのはもともと岩や樹木や山を神体としていたところです。
最初から何もないのです。

開き直るわけではありませんが、歴史家なら、
「伝説」にメスをいれるのではなく、
壷井八幡宮のように、質屋から借りてまでしても収益を得たかった、
そうした神社の切羽詰まった社会情勢を追求して欲しかった。

さて、父が喜び勇んで購入した本でしたが、
「神主が横領した」を読んだ父の顔が、見る見る青ざめていきました。

「今までは地元の夢や願望を壊さないよう止まってきたが、
今後は厳しいメスを…」という著者自身が、
「こう述べてくると、この家に恨みでもあるのかと言われそうで心苦しいが」
と書いていますが、当然、思いますよ。
この人は何か父の家に恨みでもあるのだろうか、と。

こちらは本物の文書です。
 差出人は、「松平内蔵亮知行所
        駿州富士郡松風庄厚原村
                  雨宮和泉」

雨宮和泉は政次といい、4代、5代目が相次いで没して家運が傾いたとき、
手腕を発揮して、家運を盛り返した功労者です。
この文書はその人が安永六年(1777)、
時の寺社奉行に出した出開帳願文書です。

前々々回お見せした出開帳の箱書を書いた人でもあります。

img982.jpg
曽我八幡宮蔵

この著者が批判していた
「点数を甘くしている他の郷土史家や歴史学者」たちですが、
史実には厳しくとも、最後は一様にこんなふうに記しています。

「いずれにしてもこの神社は古い歴史を持っている社で、
それだけに昔から氏子の尊崇が厚い

歴史に私情を挟んではいけませんが、でもこういう心遣いは本当に嬉しい。

それにしても、
「一般の人の目に触れない資料を持つ私自身が検討せねばならぬ」
と豪語した郷土史家さん、あんまりではないですか。

「神主が横領した、行方をくらました」だなんて。

だって私たち一族は逃げも隠れもせず、ずっとここにいるんですから。

プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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