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「本屋風情(ほんやふぜい)が!」

柳田国男は東京帝大の坪井正五郎が設立した「集古会」について、
自著「故郷七十年」でこう述べている。

「道楽の気味のある人ばかりの集まりで、突飛なものさえ出せばほめられる。
私は田舎者だからそういう人と一緒になって、
「さようでゲス」なんていって歩くことはできなかった」

明治29年から昭和19年まで続いた集古会の会誌。
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「内田魯庵山脈」よりお借りしました。

柳田は集古会の人たちの研究発表を「道楽」と蔑んでいますが、
この会誌には各界の様々な人たちの論文が載っています。

「佐久間象山旧蔵の磨製石斧」 坪井正五郎
「甲斐湯村の梵字碑」 山中笑
「家蔵の大津絵」 清水晴風
「埴輪円筒の石蓋」 林若樹
「商標の蒐集」 岡田村雄
「団扇の話に就きて」 南方熊楠

集古会周辺に岡 茂雄という人がいました。
陸軍士官学校を出て軍人になりますが、陸軍学校での国史に疑問を持ち、
軍人を辞めて東京帝大の人類学者・鳥居龍蔵の門に入ります。

しかし大正13年(1924)、弱冠30歳のとき、
地味な学問に打ち込んでいる学者たちの力になれれば、と、
人類学、考古学、民俗学などの書籍を刊行する「岡書院」を設立。
内田魯庵をして、「選り抜きの名著ばかりを出版」と絶賛された。

岡は後年、出版業に携わっていたころ垣間見た学者や文人たちの
表では見せない裏側の「本然の顔」を、回想録として一冊の本にした。
タイトルは「本屋風情」

昭和2年、東京都砧村(世田谷区成城町)に新築した柳田邸。
img971.jpg
「本屋風情」よりお借りしました。

タイトルを「本屋風情」にしたのには、こんなわけがあった。

岡茂雄は昭和3、4年ごろのある日、渋沢敬三から食事に誘われた。
渋沢敬三は実業家で、のちに日本銀行総裁や大蔵大臣を務めた人ですが、
伊豆の民家から貴重な文書を発見するという民俗学者でもありました。
そして自宅に「アチック・ミューゼアム」(屋根裏博物館)を設けて、
恵まれない多くの学者たちを支援し、世に送り出していました。

公用では汽車の一等席を使うが、私用では三等席に座る人だったそうです。

現在、大阪・吹田市にある国立民族学博物館の基礎を作ったのはこの人で、
ここには渋沢が集めた玩具や民具約2万点が収蔵されています。

渋沢敬三が岡を食事に誘ったのは、
岡と柳田国男の関係がギクシャクしていることを知ったためでした。
食事会にはミューゼアムに集う数人の仲間も参加し、平穏に終わった。
しかし柳田は不機嫌で、同席した仲間にこうぶちまけたという。

「なぜ本屋風情(ほんやふぜい)を同席させたんだ」

私はこのくだりを読んだとき、本でしか知らない柳田から亡き父もろとも、
「娼婦あがりの神主ふぜい」と罵倒されたような気持ちになった。

岡茂雄が新築祝いに贈った朴ノ木に対する柳田からの礼状(一部)
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上記同書より

岡が柳田から「本屋風情が…」と罵倒されたのには、こんな背景があった。

「昭和2年11月下旬、柳田から「雪国の春」を来年1月までに出版したいから
岩波書店の岩波に頼んでくれといわれた。
しかし岩波は柳田を嫌っているし、
第一、年末年始を挟んだ2か月以内の出版なんて無理。

そこで岡は「私が一切の仕事を放りだしてこの本に取り組めばなんとかなる」
と伝えたら、「君のところで出したんでは本は売れないからダメだ」と。

結局引き受けることになったものの、
柳田は表紙の絵が気に入らず他の画家に描き直しを命じ、
12月中旬に渡すといっていた原稿も入ったのが翌1月中旬。
それでもみんな死に物狂いで完成させ、翌月、見本を持参したところ、
ページの重なった部分があることが発覚。

翌日呼び出された岡は、
「だから君んところはイカンというんだ」」と罵倒された。

それがギクシャクした理由だったが、渋沢のせっかくのとりなしも、
「本屋風情…」という暴言を生み出すだけで終わってしまった。

岡はそれを本のタイトルにした気持ちをこう記している。

「本屋風情とはいかにも柳田先生持ち前の姿勢そのままの表現であり、
いうまでもなく、蔑辞として口走られたのであるが、…略…
私はこの四文字に愛着さえ持つようになって、…略…
いわば柳田先生から拝領した記念すべき表題ということになろうか」

柳田は上機嫌のときと不機嫌なときの差が大きく、
不機嫌な時は当たり散らしたという。これをみんなは「荒れ」と呼んでいた。
そういう「荒れ」を起こして、他の学者の出版妨害をしたり、
「岡の企画を執筆者もろとも他の出版社へ持ち込んで岡に打撃を与えた」
という、とんでもない仕打ちをしたこともあったという。

岡茂雄は「岡書院」設立の翌年には山岳書専門の「梓書房」を設立。
当時としては珍しい気象や小屋の状況、
地図の読み方などを盛り込んだ山登りのハンドブックを発行。
さらに日本野鳥の会の機関誌「野鳥」も手がけた。

昭和6年、長野県穂高町にて。
後列中央が渋沢敬三、前列右端が岡茂雄。

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上記同書より

主体の民族関係では、
「南方熊楠全集」や、
金田一京助の「アイヌ叙事詩 ユーカラの研究」、
広辞苑の前身「辞苑」を世に出すなど、
まさに魯庵いうところの「名著」ばかりを刊行し続けた。

余談ですが、嬉しいことに、
岡のご子息も弟の岡正雄も、我が市の静岡県立大学の教授でした。
また「内田魯庵山脈」の山口昌男もかつてここに在職しておりました。

だからなんなの?といわれれば、「いや別に」と黙るしかないんですけどね。

下の写真は、山中共古の本です。
17年前、磐田市の図書館へ調べものに行った帰り、購入したものです。

本屋になかったため、発行元に電話。
すると、とびきりの明るい声が返ってきた。「今、持って行きます!」
若い経営者は「本を知ってくださる人がいたなんて本当に嬉しい」と言いつつ、
喫茶店でコーヒーをごちそうしてくださった。

img876.jpg
「見付次第/共古日録抄」山中共古 遠州常民文化談話会編 パピルス 2000

さて、話を集古会に戻します。

集古会のメンバーの一人、三村清三郎は「集古会昔話」に、
「私の願う所は決して学者ぶらぬ事」と皮肉を込めて記していますが、
それに対して柳田は、
「集古会などの団体は私を「おえら方」などと呼んで軽蔑した」
と「民俗学手帳」で反論しています。

そうした確執に対して、私が愛読するHP「木人子室」のブログ主さんは、
こんな見解を示されていた。

「集古会には在野の趣味人ばかりではなく、
政府要人、華族、学者や画家など約180人が参加していた。
柳田国男が集古会仲間から「おえら方」などと揶揄されていたのは、
柳田に、江戸時代から続く
本草学(博物学)的ネットワークの「座」の価値と、
そのルールに気付かなかった野暮なところがあったからだろう」

そして、
「柳田は集古会を通じて、山中共古南方熊楠を知るという
恩顧をうけているはず。それによってあの「石神問答」は成立したのだから」と。

岡茂雄は「一つの使命感に憑かれたように押しすすめていた」出版業を、
開業から11年目の昭和10年に、「ある事情」からやめてしまいます。

それから約40年後に書いた回想録「本屋風情」を、
岡はこんな言葉で結んでいる。

「商道に徹することの出来なかった私は、
本屋風情の資格さえなかった


                   ーーーー◇ーーーー

※参考文献
 「内田魯庵山脈・(失われた日本人)発掘」山口昌男 晶文社 2001
 「本屋風情」岡茂雄 平凡社 昭和49年
      =「第1回日本ノンフィクション賞」受賞作品=
 HP「木人子室」

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野のアカデミー

日本民俗学の父と呼ばれた柳田国男と同時代に、
宮本常一という民俗学者がおりました。

足にゲートルを巻き大きなリュックを背負い、野越え山越峠を越えて、
山奥の村から村へ民俗探訪の旅を続けた人です。
行った先々で民家に泊めてもらい、古老に話を聞き、古文書を書き写した。

そういう旅を死ぬまで続けた。訪れた先は全国1200ヵ所にも及んだという。

同じ民俗学者であっても、柳田と大きく違っていたのは、
柳田が非定住者の漂泊民や被差別民、性や性神に関する伝承や、
江戸を中心とした都市民俗嫌悪していたのに対して、
宮本はそのすべてを調査の対象にしていたことだという。

「旅芸人の図」(秋田風俗絵巻)
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「庶民の旅」宮本常一 社会思想社 昭和45年より

その宮本常一の著作の中に、こんな一文がありました。
「大学などの民俗調査では、まず教授がその村の教育委員会へ連絡して
調査対象になりそうな地区を紹介してもらう。

対象になった村では都会から大学の偉い先生たちがやってくるというので、
当日はよそ行きの服を着た村人たちが集会所に集められる。

そこで聞き取り調査が始まるわけだが、村人は、
村の恥になるようなことは一切他言するなと釘をさされているので、
さしさわりのない話しかしない。こんなんでは本当の話が聞けるわけがない」

下の写真は「門づけして歩く蛭子(えびす)まわし」(和歌山県)
こうした旅芸人は昭和の中ごろまで存在した。

img991.jpg
上記同書より

これと似たようなことを力石の調査に行った先で聞きました。

私はある民俗調査資料の中に、
村の集会所横に力石が3個あるとの記述を見つけて、早速そこを訪ねました。
集会所の横には確かに力石らしい石がありました。

そこで近くの家を訪ねて聞いたところ、そこの家のおじさんは事もなげに、
「そんなものねえよ」

「でも、これこれこういう本に書いてありました」と言った途端、
ワッハッハと笑い出して、
「それはな、偉い先生方がそうだろそうだろというので、
面倒くさくなって、俺がそうだって言ったんだよ。
だってあいつらは自分たちに都合のいいシナリオを書いてきて、
どうでもそれに当てはめようと必死だったしサ」

使われなくなった力石は、まれに庭石や石垣に再利用されたりしますが、
たいていは後世の人がその処置に困って、木の根の周りに集めたり
埋めてしまったり、お堂や集会所の脇へ置いたりしています。

そこの石も形状や集会所に置かれた状況からも力石と思われますし、
当時の調査の人が「力石」との伝承を聞いていたのかもしれませんし、
近所のこのおじさんはそれを知らなかっただけかもしれません。

しかし、石に刻字もなく、それを証言する書付もなく、
今現在、それを証言する人がいない限り無理やり認定することはできません。

当時の調査者には同情しますが、
近所のおじさんが言った「あらかじめシナリオを書いてきて…」
という言葉には、宮本常一が苦言を呈した
「民俗調査の原点を忘れるな」という教訓をひしひしと感じました。

話を明治の昔に戻します。

帝国大学理学部・人類学の坪井正五郎研究室にて「集古会」誕生。
その創刊号(明治29年)の清水晴風「諸国玩弄達磨」です。

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「内田魯庵山脈・失われた日本人発掘」山口昌男 晶文社 2001より

柳田国男はこの「集古会」に席を置いたものの、
「少し道楽の気味があったので、私はそうひんぴんとは行かなかった」
と自著に書いているが、実際には一度しか参加せず寄稿は全くしなかった。

柳田は兵庫県播磨の出身で自らを「田舎者」といい、
江戸っ子気質を嫌う風があったという。

「内田魯庵山脈」の山口昌男は、こう言う。

「柳田は一高・帝大・官の生活という当時の出世街道を駆け上った人である。
播磨出身という田舎者コンプレックスがあった柳田ですが、
逆に田舎出身でも出世コースの頂点を極めれば、
官制国家の末端にもつながっていない連中よりはるかに上だという
優越感を常にちらつかせていた」

そしてさらに、
「彼は農村を中心として民俗学を作り上げていく過程で、
従順な地方の学校教師を優遇し、
江戸前の「野のアカデミー」の自由人たちをことごとく退けていった。
都市民俗学はこうして柳田によって殲滅(せんめつ)させられた」

確かに、
柳田国男はピラミッドの頂点に君臨した「官のアカデミー」の人であり、
宮本常一や玩具博士の清水晴風、千社札のいせ万らは、
逆ピラミッドの広い空間を行き来した「野のアカデミー」の人たちであった。

しかし彼らの大半は、旧幕臣や大商人や熟達した職人たちで、
田舎の儒者の六男坊で「小さな家」で育ち養子に出された柳田とは違い、
能、狂言、笛、小唄や長唄に親しみ、絵師や書家の手ほどきを受け、
狂歌、俳諧、落語に通じる江戸の通人で、
内田魯庵いうところの豊かな「高等遊民」でありました。

「野のアカデミー」の一人、彫刻家の竹内久一の「神武天皇像」と、
久一の父で本職は提灯屋の田蝶こと竹内善次郎の千社札「角大師」

img187.jpg   img339.jpg
上記同書より

その「高等遊民」は、古銭、土偶、玩具、古書、刀剣、絵など
あらゆる分野の蒐集家たちで成り立っていました。
そして、彼らが構築した世界は、
誰が頂点ということはなく、その知識を参加者全員で共有し、
トコトン学問をたのしむという、権威とは無関係な自由な空間だったのです。

この話、もう少し続けます。

権威って何だろう?

徳蔵の千社札コレクションの中に、
考古・民俗学の研究家、山中共古の千社札があるのは、
当然と言えば当然のことなのです。

山中共古の名前がある千社札「浅草年中行事」です。
SANY1521 (2)
「徳蔵コレクション」より

上段右端に「山中笑(共古)
下段左から2番目に江戸文字の高橋藤之助
右端の「寿多有」は、アメリカ人の人類学者、フレデリック・スタールです。
「お札博士」と呼ばれていました。昭和8年、東京・聖路加病院にて死去。

そして、上段右から4番目に「荒いせ」とあるのは、大阪の人です。
この人の別の千社札をお見せします。

「明治維新永代濱力競 うつぼ荒いせ」

大阪の靭(うつぼ)にあった永代浜での力持ち大会を描いたものです。
永代浜はコンブや塩魚などの問屋街だったそうですから、
「荒いせ」はそうした問屋の一つだったのかもしれません。

img290 (5)

力持ちの徳蔵と山中共古との間に直接の交流はなかったにしろ、
彼らは江戸趣味という共通項を持ち、
その趣味を通してさまざまな人の輪の中にいました。

その輪というのは考古学者、作家、画家、民俗学者など、
主に在野の学者・研究者たちが集う趣味の同好会のことで、
人類学者の山口昌男(のちに詳述します)いうところの
「官のアカデミー」に対する「野のアカデミー」「街角のアカデミー」
なるものに属する趣味人たちでありました。

ここからしばらく、ごく個人的な私のたわごとをお聞きください。
すでにこのブログでお話もしておりますが、再び…。

私が庶民の歴史や風習に興味を持ち、それを明確に意識し出したのは、
すでに2児の母親になってからのことでした。
民俗学という分野がぼんやりと頭に浮かび、
それなら民俗学の権威、父と呼ばれた柳田国男だと思ったのです。

で、「定本 柳田國男集」全36巻を揃えました。

その中に、父の家のことが書かれていました。
父の家は田舎の小さな神社で、江戸の初めごろから、
代々神主をやっていました。

img958 (2)
明治末ごろの神社。右端の木と鳥居の間に座っているのが祖父。

明治になって世襲制が廃止されたため、神社は村のものとなり、
このころの祖父はただの雇われ神主に成り下がっていました。

明治44年の観光案内書「日本史蹟」に、こう書かれています。

「一の祠宇あり、八幡大菩薩ならびに兄弟を祀る。祠の左右に
小祠それぞれ一あり。一は稲荷神社にして、今一は厳島神社なり。
境内12畝 老樹これを巡りて苔気(たいき)林嵐(りんらん)、
おのずから冷(ひややか)」

柳田国男はその神社や父の先祖のことをこう書いていたのです。

「ここは虎という歩き巫女が定着した小祠にすぎないのに、
曽我兄弟の祠として角田浩々歌客の父の角田虎雄が撰文を書いて、
ついに本物の祠にしてしまった。古くたどればずいぶん疑わしい」

「歩き巫女」とは、地獄絵図などを携えて各地を放浪して歩いた
女宗教者のことです。そしてこの巫女たちは行った先々で、
春をひさぐ女たちとしても知られていました。

売春婦が定着した祠? いかがわしく疑わしい家?

私はあまりの柳田国男の言葉に、立ち上がれないほど打ちのめされました。
確かに、貧乏神が住み着いたようなささやかな神社でしたから、
たびたび江戸へ出て「ご開帳」をしなければやっていかれなかった。
しかし、当時はかなりの大社や大寺院もこぞって出開帳をやっていました。

出開帳の折りの宝物を入れた箱に描かれた神紋「庵木瓜」
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神紋とは別に家紋は定紋「丸に二つ引き」、これは男だけが使いました。
ちなみに、今川氏と同じ紋です。
この定紋とは別に裏紋「五三ノ桐」があり、これは女性用でした。
嫁ぐとき着物に実家の裏紋をつけ、嫁ぎ先の紋は生涯つけなかったのです。

さて、出開帳とは、所持する宝物を持って江戸などの大都会へ出かけ、
それらを見せて収益を得るという経済活動のことです。

世界遺産になった富士山本宮浅間神社も数回、江戸へでかけています。
浅間神社は出開帳のほかに富興行(富くじ)も行ないましたが、
これはあまり売れず、失敗してしまいます。

左の箱書きは明和二年に使用したものを文化十三年に再利用したもの。
右は文化六年の箱書きです。

img351 (2)  img352 (2)
 
ほとんどが深川八幡神社回向院での60日の出開帳でした。
出開帳の江戸で、不慮の死を遂げた先祖もいたようです。

柳田国男の一文に戻ります。

誰もが民俗学の大家と認める柳田国男ですが、
でもどう考えても父の家には、柳田が言うような「歩き巫女」の影はない。
あるのは武士であり神主であった伝承ばかりです。

それに柳田国男は、自らの足でここには来ていないはず。
たぶん、各地にいた門下生などから又聞きしたものでしょう。
それにしても、あまりにも悪意に満ちすぎています。

柳田国男のこの一文は、父には内緒にしていました。
だから父はそんな文章が、
大民俗学者の著作の中にあるなど知ることもなく、この世を去りました。

私がのちに本を書き、新聞に記事を載せるようになったとき、
伝聞や資料の孫引きを避け、可能な限り資料は原本に、と心がけ、
他人様のことを書くときは必ず自分の足で現地へ行き、その人に会って、
見る、聞くことを徹底してきたのは、こんな苦い経験をしたからなのです。

それでも人さまを傷つけることが生じることがあるのです。

父に隠し通した柳田国男の一文でしたが、
残念なことに、それはそのままでは終わらなかったのです。

粋と洒落の人生

「いせ万」

東京・神田多町の青物問屋「伊勢屋万次郎」の五代目。
本名・大西浅次郎。明治七年(1874)生まれ。

納札家・関岡扇令の言を借りれば、
「柳橋、浜町、白山などの遊里へ足しげく通い、粋な遊びに興じ、
また芸人をこよなく愛し …略…
千社札の蒐集研究では、その右に出る者はなく、
資料や古文書を納めた「いせ万文庫」は納札界において最も権威があった」
 =「千社札」西山松之助監修、関岡扇令編 講談社 昭和58年=

「遊里へ通い…」と聞くと、
遊女遊びにうつつを抜かしている自堕落な男を連想すると思いますが、
モノの本によると、本当の遊び人は、芸者衆をあげて遊んだあとは、
連れて行った者たちが存分に遊べるよう揚げ代をすべて支払い、
彼らを残して早い時間に自宅へ帰ってしまう人なんだそうです。

つまり、きれいな遊び方をしたということです。
今、こうした気風の粋な男は皆無ではないでしょうか。

こちらは、いせ万の千社札「纏(まとい)です。
img794.jpg
「千社札」西山松之助監修、関岡扇令編 講談社 昭和58年より

右下の「高橋」高橋藤之助です。
父子二代、著名な江戸文字の書家ですが、この札は二代目と思われます。

以前お伝えした世田谷区・幸龍寺の「本町東助碑」
これは徳蔵が移築したものですが、
この碑の裏面にも高橋藤之助の名があります。

いせ万は「東都納札会」に所属していましたが、
この納札会には寺社への千社札詣での「掟」がありました。

「決して売名宣伝に札を貼らぬ事」
「禁じられた堂宇には貼らぬ事」などなど。

残念ながら、こんな「掟」を作らなければならないほど、
寺社に迷惑をかけていたってことなんですね。

さて、前回、神田川徳蔵アルバムにあった
「いせ万追善力持ち興行」の写真をお見せしましたが、
こちらはいせ万の十七回忌といせ万の息子・徳太郎の一周忌の
追善連札の会触れです。

会触れとは追善会の案内です。
仲間たちが「いせ万追善」をテーマにそれぞれ連札を作るわけです。

img786 (2)
上記同書より

ここで強調しておきたいことは、
今回、徳蔵アルバムから発見された追善写真は、おそらく、
いせ万研究者も知らなかった新発見だったのではないかと思います。

さて、前回、力持ち興行で演じていた男たちが文身(刺青)をしていたことで、
斎藤氏はこれは「いせ万」の追善供養であると確信しました。
なぜか。

それはいせ万が刺青の伝承に励み、文身の会「神田彫勇会」を結成し、
自身の体にも刺青を入れていたからなんですね。

そのいせ万と神田川徳蔵との交友は、はっきりわかりませんが、
こんな札が残されています。

「江戸三天王 連札 八丁札」
img930.jpgimg788.jpg
上記同書より

この札のどこに、いせ万と徳蔵のつながりがあるかというと、
ここです。上記の札の幟の下に徳蔵、左の方にいせ万の名があります。

img788 (2)

徳蔵さんは千社札のコレクションも残していますが、
その中に、なんと、山中共古(笑=えむ))のお札がありました。
徳蔵さんのコレクションに山中共古がいたなんて、
本当に嬉しい!

旧幕臣だった山中共古は幕府崩壊後、現在の静岡市へ移住。
この地で洗礼を受け、日本メソジスト教会の牧師になりますが、
牧師として赴任した先々で民俗探訪を始めます。

民俗学の権威とされる柳田国男が、まだその分野に着手しない時代です。
それゆえ山中は、「日本民俗学の先駆者」といわれました。

次回はその山中共古や、
力持ちで玩具博士のあの清水晴風が集った
「集古会」に焦点をあてていきます。


       ーーーーー◇ーーーーー

※徳蔵さんのご親戚の方々から、

「謎の男」(9月10日)で徳蔵とされた人物は別人ではないでしょうか」
とのご意見をいただきました。

また「いせ万追善力持ち」(9月14日)の左利きについて、
左利きの人はどちらも器用に使えるから右手を使っても不思議ではない
とのご意見も頂戴しました。

お身内には第三者にはないお身内としての感覚がありますから、
おっしゃるように別人の可能性もあります。
なにしろ昔の写真のことなので、確固たる決め手がありません。
これは壮大な謎解きブログです。(ちょっと大げさですが)。

いろんなご意見を頂戴して意見交換できたら嬉しいです。

「いせ万」追善力持ち

※後ろに追加写真があります。すでに読まれた方も、ぜひもう一度見てください。

           ーーーーー◇ーーーーー

東京・秋葉原駅近くの神田川沿いにあった神田川米穀市場。
そこで荷揚げを業としていたのが飯田定次郎「飯定組」です。

その「飯定組」の後継者となった神田川(飯田)徳蔵は、
大正から昭和初期にかけて名を馳せた力持ち力士ですが、
「千社札(せんしゃふだ)の世界にも身を置いた趣味人でもありました。

ちなみに千社札の「社」「じゃ」ではなく「しゃ」と濁らないのが「通」とか。

棟や柱に貼ってあるお札が千社札です。
CIMG1531.jpg
静岡県伊豆の国市・願成就院

この千社札は四国八十八ヵ所や西国三十三ヵ所霊場巡りなどの折り、
記念に神社仏閣に貼り出したのが始まりといわれています。

もっとも盛んになったのは、やはり江戸時代です。
千社札には、寺社に貼る「題名納札」
趣味人が集まって札を交換し合う「納札交換会」の二通りがありました。

交換会には凝りに凝った自慢の逸品を持参して、みんなを唸らせたい、
と思うのは誰も同じ。
そこで会員たちは競って著名な絵師や書家に依頼したそうです。
そのため、江戸のグラフィックデザインともいうべき
美術的価値の高い千社札がたくさん作られました。

また交換会は、江戸の文化人サロンとして隆盛を極めたそうです。

徳蔵もそうした流れを汲む明治の納札会に身を置いていたのです。

これは徳蔵さんの納札コレクションの一部です。
SANY1512.jpg

徳蔵コレクションについてはまた改めて書きますが、
本日は力持ちの関連から千社札を取り上げました。

下は、室内で「腹受け」という技を披露している写真です。
赤丸の中に鉄アレイ(ダンベル)が見えます。
このころバーベルやダンベルを所持していたのは、
神田川一派しかありませんので、徳蔵も関わっていたのは確実です。

場所は道場のようなところにも見えますが不明。
また、演者たちの背後には屏風が立ててあって、
その前に人か像かはわかりませんが、黒い人影が見えます。

sasiiti_situnai_web (2)

問題は黄色の丸の中です。
いくら拡大しても私にはさっぱりです。
ですが、斎藤氏はバッチリ解き明かしました。

「右(黄色の丸)に祭壇があり、献花と灯明が置かれている。
その間に「南無大慈観□」の掛け軸。
掛け軸に肖像画が描かれた額が立てかけてある。
ちょうど鉢巻をしめた右の男の額あたりです。

肖像画の右上に「いせ万」の千社札が貼ってある。
おそらく肖像画の人物はいせ万で、この力持ちは彼の追善供養興行でしょう」

そうか。それで室内で行われたのか。

こちらは「納札大鑑」掲載の「いせ万」の肖像画です。

「つねに結城の茶みじん、藍みじんと唐桟縞を好み、
八幡屋の煙草入れ、金具は夏雄の一刀彫…。
江戸っ子の生粋中の生粋。男が惚れる男であった」(関岡扇令)

img849.jpg
「千社札・弓岡勝美コレクション」ピエ・ブックス 2006より

「肖像画」「千社札」…
斎藤氏はこともなげに言いますが、しかしです。
いくら目を凝らしても私には見えません。もう、凄いとしかいいようがない。

さらに、
「いせ万は大正14年4月12日に亡くなっています。
この写真には献花に菖蒲が見えることから、
逝去の年か翌年の5月にこの力持ちが行われたのではないかと思います」

花の種類までわかるって、私の眼力とPCではとてもそこまでいきません。

舟の上で逆立ちしている人物と後ろの一人は、
全身に文身(刺青)を入れています。
徳蔵縁者のEさんによると、
「徳蔵さんは刺青はいれていなかった」そうですから、明らかに別人です。

しかし、文身の男たちが演じていることからも、
これは「いせ万」の追善供養であることがわかったと斎藤氏は言います。
なぜでしょうか?

この「いせ万」については次回、改めてご紹介いたしますが、
斎藤氏には本当に脱帽です。

と書いたところで、
斎藤氏から黄色の丸の中の拡大写真が送られてきました。

で、見た途端、ガアーン!
なにこれ!  なんでこんなにくっきりなんだよ。

斎藤いせ万拡大

PCによってこんなに違うものなの?
それとも私の操作が悪いのか…。

ああ、しばし、呆然…。

    
        =追記=

斎藤氏から追加写真が届きました。

祭壇全体です。掛け軸の左にはたくさんの千社札が見えます。
斎藤室内腹受け

「謎の指」
指さし室内腹受け

以下は、斎藤氏のコメントです。

屏風の前の人物について、
「横笛が見えているから、お囃子の人ではないか」

そして、扇を持った人物の横の指については、
「何かを指図している太い謎の指。
これが徳蔵だったりして、と、想いは脳内を駆け巡る

と、ここまで書いて、私はふと思ったのですよ。
「謎の指」は左手ですよね。つまり左利き。
サウスポーとくれば大工町惣吉。
でも、写真の扇の男は右利き。

それで斎藤氏からのメールを再度読み直したら、
扇の人物を一旦、惣吉としたものの、最終的には別人と判断していました。
なので、室内「腹受け」での大工町惣吉の名は消しました。

だとすると、扇の人は誰なんでしょう?

謎解き

珍しい写真をお見せします。

今から94年前大正12年4月
「力持同好会」のメンバーや家族が船で花見に出かけた時の写真です。

img755.jpg

これは日本橋浜町でそば屋を経営していた
浜町(田口)秀太郎のご子息が所持していた写真で、
1975年に週刊朝日のグラビアに掲載されたものです。

船の舳先に力石が積まれています。
お囃子も同行。もちろん、こも被りの酒樽も。
出発場所は日本橋浜町の蛎浜橋。行先は千住です。

写真左上の看板に「釣舩(船)」「汐干(潮干狩り)」などと書いてあります。
のどかな光景ですが、
この5か月後に、あの関東大震災が起きるなんて誰も知る由もなし。

さて、ここで船上の人物の特定にいきます。
特定したのは埼玉の研究者の斎藤氏です。

まずはこれをご覧ください。
img755 (4)

赤丸が神田川徳蔵、黄色の丸が浜町秀太郎
白丸はもしかしたら青山八百喜代かも。
そして、大きな黄色の丸の中の女性は秀太郎の妻と息子の田口俊一氏。
日本髪のお母さん、いいですねえ。明治生まれの女の気概を感じます。

子息の俊一氏が1975年、週刊朝日の記者に語ったところによると、
「母の後方にいるのが父の秀太郎。母に抱かれているのが4歳だった私です。
船上でも力石担ぎや米俵の曲持ちを披露しました」

そしてこちらは羽根木政吉です。
全体写真では、船の舳先、提灯の横におります。
隣りのチョンマゲのカツラの男、花見気分満開ですね。

img755 (5)

そしてこちらが「謎の男」
船の最後尾におります。

img755 (6)

つまり、この花見の写真には、
あの「青山熊野神社納石」写真と同じ人物たちが写っているということです。

もう一度、その写真をお見せします。
いますねぇ、「謎の男」
人物特定の天才、斎藤氏もこの男の正体は突き止められません。

でも斎藤氏は黄色の丸の男については、
花見の船の前列右端の男と同一人物であることを突き止めました。

aoyama_web (8)

子息の俊一氏によると、
浜町秀太郎は日露戦争で負傷してからは、力持ちの世話人をしていたそうです。
そして昭和51年、93歳でこの世を去ったということです。

昭和51年までご存命だったなら、
そしてそのころの私が力石と出会っていたなら、
ひょっとしてお会いできたかもしれません。

親友の秀太郎さんよりひと足早く
黄泉の国へいってしまった徳蔵さんの話も聞けたかも。

かえすがえすも残念!

それはさておき、人物特定の謎解き、いかがでしたか?
いかにもマニアックなお遊びですよね。
でも私はこんなふうに思っているんです。

押し入れの奥にしまい込まれていた古びた写真一枚からも、
歴史が見えてくるんだって。

徳蔵さん?

前回、杉並区・氷川神社の「六拾貫余」の力石をご紹介しました。
この石は神田川徳蔵が持ち、
立会人として3人の力持ちの名があることもお伝えしました。

今一度、ここにお見せします。

CIMG3887 (2)

3人の名は、竪川大兼、川岸寅五郎、浜町秀太郎です。
どんな人たちかというと、こんな男達です。
浜町秀太郎は前回の写真をご覧ください。

下の写真は、大正15年、神田佐久間町佐久間学校にて行われた
神田川徳蔵(中央)による「大石差切」です。

左で扇をかざしているのが川岸寅五郎
臼の横の黒い着物姿(黄色の円)が竪川大兼です。

演者の力持ちたちはお揃いの着物を着ています。
今でいうユニホームですね。
うしろの幕には、左側に神田川徳蔵、
右には贈り主の羽根木政吉賢太郎の名が染めてあります。

積み上げた俵などで隠れていますが、「青山」という文字も見えます。
「青山八百喜代」も贈り主の一人だったと思われます。

さし石3 (2)

力持ち力士の姿をこんなふうに見ることができたなんて、奇跡。
だって、今までは名前しかわからなかったんですから。
それが姿と結びついて蘇えった。本当に貴重なんです。

この人たちの名前は世田谷区北烏山幸龍寺でも見ることができます。
ここには明治時代活躍した力持ち・本町東助の碑があります。
本町東助は東京の力持ち力士の西の大関で、その膂力もさることながら、
各界の著名人との交流も広く、多くの力持ちに慕われた力士です。

ちなみにこの碑の揮毫者は第二代内閣総理大臣・黒田清隆です。
この碑については、話したいことが山ほどありますので、
稿を改めて詳述します。でないと、収拾がつかなくなりますので。

「本町東助碑」を裏側から見たところです。
CIMG0723.jpg
東京都世田谷区北烏山・幸龍寺

この碑の裏面には約60名ほどの力持ち力士と千社札の「納札睦会」、
著名な書の高橋藤之助などの名が刻まれています。
今回は「六拾貫余」の立会人のみをお見せします。

年寄として竪川大兼の名が刻まれています。
もちろん神田川徳蔵は筆頭に記されていますが、今回は割愛。

CIMG0717 (2)

下段の刻字をご覧ください。
年寄として川岸寅五郎(黄色の円)
世話人として浜町秀太郎(赤い円)の名前が見えます。

CIMG0718 (3)

さて、青山八百喜代の「青山熊野神社納石」記念写真へ戻ります。

最後の難問、この写真の中に徳蔵は果たしているのか?
似ている男がいますが、しかし、番付には徳蔵の名がありません。

急きょ、飛び入りしたのでしょうか。
それとも、「徳蔵さん?」と思われる人物は別人で、
ホンモノの徳蔵は、力石仲間からこの写真をもらっただけなのか。

試行錯誤の末、埼玉の研究者・斎藤氏は最終的に、
この写真の人物は「神田川徳蔵である」と判断しました。

一見、両者は面長の顔と丸顔に見えますから、別人のようにも見えます。
ですが、確かに耳の形、額の剃り、口元やきれいな目元、似ています。

左は青山熊野神社の写真の男です。右は正真正銘の徳蔵です。

aoyama_web (7)  駒東喜代
 
さてさて、みなさまは、
どんなふうに思われたでしょうか?

   =追記=

上の写真の徳蔵の年齢をここに記します。
左は29歳。右は40歳のときの写真です。
見比べるには年齢に差があり過ぎますので、
追加写真を特別公開します。下の写真は徳蔵35歳のときのものです。

t5_web (2)

ちなみに、徳蔵のお孫さんは上の左の写真の人物は、
「祖父だと思います」とおっしゃっております。

そば屋の秀太郎さん

(浜)町秀太郎、以後、浜町と表記します。

写真の登場人物の特定も、いよいよ佳境に入って参りました。
浜町秀太郎、本名、田口
日本橋浜町のそば屋の主人。関東大震災のあと、世田谷区大原へ移転。
秀太郎の力石は、都内3カ所9個残っています。

赤矢印が本日の主役、浜町秀太郎です。
aoyama_web (6)

青矢印の人物は麹町生島
生島の横の帽子の男は「謎の男」です。あとでまた出てきます。

埼玉の研究者の斎藤氏によると、赤い星マークの石には、
「四十□メ 青山八百喜代」の刻字があるそうです。
もしかしたら、青山熊野神社のあの「四十五メ」の石かもしれません。

それにしても斎藤さん、よくこの状態から判読するものですね。
並はずれた眼力、恐れ入りました。

さて、前列左端(白矢印)の男性をとくとご覧ください。
我らが神田川徳蔵ではないかとされる人物です。
もしこれが徳蔵ならこのとき29歳。まだ独身です。
秀太郎は徳蔵より8歳年長ですから、このとき37歳ということになります。

この写真の「徳蔵」のことはのちに詳述します。

もう一枚、お見せします。
img755 (3)

この写真は1975年の「週刊朝日」のグラビアに掲載されたうちの一枚です。
左端の着物姿の男性が秀太郎です。
写真を所持していたご子孫の話では、
「大正5年、東京都杉並区の大宮八幡神社に力石を奉納する際の
地元の力持ち力士たちの記念写真」とのこと。

屈強そうな男たちが写っていますが、名前が判明しているのは秀太郎のみ。
この大宮八幡神社で保存されている力石は全部で14個
前回お見せした羽根木政吉八百喜代の石もその一つですが、
ここに写る男たちの奉納した力石は、まだ特定されていません。

当てずっぽうですが、
「松ノ木の井川新太郎」や「促成園の松島」がヒントになりそうな…。

この「週刊朝日」に写真を提供した秀太郎のご子息の田口氏は、
当時、取材記者に「このとき父は35歳です」と話していますが、
生年から計算すると33歳です。
奉納年を間違えたのか? それとも記者の書き間違えか?

どちらにしても、
八百喜代と写した「青山熊野神社納石」の記念写真より若いですね。

こちらは徳蔵秀太郎連名の力石です。
CIMG3880.jpg
東京都杉並区高円寺南・氷川神社

拡大したのがこちら。

CIMG3887.jpg

六拾貫余 大正十五年 神田川徳蔵 持之 
 立会人 竪川大兼 川岸寅太郎 濱町秀太郎

徳蔵はこの六十貫余、およそ240㎏もの石を両手で持ったのでしょうか。
それとも立会人が介添えして足差しをしたのでしょうか。

240㎏といわれてもピンとこないので、
私はいつも10㎏の米で何個分かと考えます。
これでいくと240㎏は10㎏の米袋24個分です。
もう凄いとしかいいようがない。

ちなみに人力の時代の男の一人前の基準は米俵1俵です。
米俵1俵を担げて初めて村の若者(15、6歳)は、
若い衆組の仲間入りを許され、一人前の給金をもらえました。
また「一人前」というのは、
「女の尻を追いかけてもいいよ」ということでもありました。

徳蔵の直系のご子孫によると、
「神田川米穀市場での米俵を運ぶ男の一人前は村の若者と同じ1俵
徳蔵のようにそれを積み上げる人は2俵持てて一人前」だったそうです。
徳蔵子孫の方のおじさんは3俵担いで新聞に載ったとか。

江戸風俗研究家の三田村鳶魚によれば、
相撲取りの一人前は2俵だったそうです。

ですが、各地の民俗調査資料を見ると、
昔は女性も荷揚げに従事したとあり、米俵を2、3俵は担いだそうです。

大井川の船着場から荷揚げした荷を背負い峠越えをするお母さんたち。
img197 (2)

北アルプス山麓・安曇村の人と生活を書いた「山人(やまど)のムラ」
(横山篤美 産学社 1989)によると、
「野麦峠を往来するボッカ衆(持子)たちは、普通50貫(190㎏)を背負った。
 30貫では駆け出し者扱いだった」そうです。

すごいですね。
しかしいくら強力でも、そうそう長い時間歩けないので、
5、60歩歩いては念棒(つっかい棒)を荷の下にあてて休んだとありました。

話を戻します。

神田川徳蔵が持った「六十貫余」の立会人の3人については、
次回の「本町東助碑」で再び、お目にかけます。

    
        ーーーーーー◇ーーーーーー

※神田川徳蔵のお孫さんは、
現在、「麺飯珍(めんはんちん)という中華屋さんを経営されています。
 =埼玉県児玉郡神川町新里220-1=
 最寄駅は八高線丹荘駅。定食も焼肉もあるお店だそうです。
 食べログにも載っています。

お近くに行かれた際は、ぜひ自慢の中華料理をご堪能ください。
プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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