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懐かしくもあり切なくもあり

青山熊野神社での「八百喜代納石力持」には、
名の知れた力持ち力士が何人か参加しています。

ここではその中の一人、
東京都世田谷区羽根木を根城に勇名を馳せた
羽根木一派の羽根木政吉をご紹介します。

羽根木政吉、本名・細野
羽根木の漬物業者で、
漬物石を日常的に持ち上げていたため力が強かったそうです。

羽根木政吉です。

政吉羽根木

向かって右は青山八百喜代です。

羽根木政吉の名を刻んだ石は、都内4カ所9個
そのうち八百喜代と連名の石は、杉並区の大宮八幡神社1個あります。

img993.jpg
東京都杉並区大宮・大宮八幡神社

しかし、八百喜代同様、神田川徳蔵との石はいまのところ見つかっていません。
ちょっと残念。

こちらは八百喜代の納石力持での番付です。
右側にずらりと書かれているのは羽根木一派の力士名です。
政吉を筆頭に元吉、清造、角□、吉□□、長□6人も。

番付青山熊野

ずらりと並んだ羽根木一派の名前。
これを見ただけで八百喜代と羽根木政吉の結びつきが
いかに強かったかわかります。

左側赤矢印は、次回ご紹介する(浜)町秀太郎です。
濱町秀太郎は羽根木一派の名前の下にも、「年寄」として、
麹町生嶋(島)、羽根木政吉とともに記されています。

左端の2名は先にご紹介した野澤組の野澤(根岸)良雄野澤□三郎です。
その下は「世話人」で、原宿有志となっています。

こちら羽根木政吉濱町秀太郎連名の力石です。

CIMG3880 (2)
東京都杉並区高円寺南・氷川神社

「奉納 四拾貮貫 大正十五年 高円寺 大場通 井川新太郎 持之
 立会人 羽根木政吉 濱町秀太郎

下の写真は、政吉の地元の羽根木神社で発見された力石です。
無銘なので政吉の力石かどうかは不明。
ですが、羽根木一派のものである可能性は大です。

img931.jpg
東京都世田谷区羽根木・羽根木神社  

実ははるか昔、私はこの羽根木に住んでいました。
東松原駅前に、女優の馬淵晴子さんの邸宅があって…。
プールもあったような気がします。

これは羽根木神社の夜祭りに出掛けたときの私と子供たちです。
こんな時代もありました。

長男の手を引いて、二男をおんぶして…。
img777.jpgimg770.jpg

小さなアパートの空き地で子供を遊ばせていたら、
おばあさんに連れられた男の子がオズオズとやってきました。
「遊んでちょうだいね」
というおばあさんのうしろにいたのは外国の婦人。
こちらを心配そうに見ています。

近所のおばさんたちが、あれは蓮見さんといって、
あの女性はフランスから連れてきた人だと話していました。
ずっとあとになって、それはのちに東大総長になったフランス文学者の
蓮見重彦氏の奥さまとご子息だったことを知りました。

でも、あのときおばあさんに手を引かれてやってきたぼっちゃんは、
今年6月、40代の若さで亡くなられたとか。

ここに住んだのはわずかな期間だったけれど、印象は深い。
子育てをしながら、料理雑誌に「食べ物歳時記」を書き、
在宅で本の校正の仕事をしていました。
湯水のように散財する夫との暮らしに疲れ果てて、逃げるように静岡へ。

あのころは力石など名前すら知らなかった。

羽根木、

懐かしくもあり切なくもあり。



※参考文献/「石に挑んだ男達」高島愼助 岩田書院 2009
        /「東京の力石2」高島愼助 斎藤保夫 
         四日市大学論集 第25巻第2号 2013
※人物特定・文字解読/斎藤
         
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減ったり増えたり

大正9年、東京・青山で行われた八百喜代の納石力持ち。
その記念写真の中に我らが徳蔵が見当たらない。

でも似たような人物が一人います。
しかし、埼玉の斎藤氏も徳蔵縁者のEさんも「この人では?」と思うものの、
今一つ決め手がない。
なにしろ当日の力持ち番付に徳蔵の名前がないのが致命的です。

ま、徳蔵の件はこの際ひとまず置いといて、
この日の主人公・八百喜代(やおきよ)へとまいります。

青山八百喜代です。
  (トリミング、ちょっと失敗。左側に余計な線を残してしまいました)

無題

八百喜代は都内5か所9個の力石を残していますが、
ここでは青山熊野神社の石のみに触れておきます。

この熊野神社では、
故・伊東明上智大学教授の調査時に4個確認されていましたが、
「石に挑んだ男達」や「東京の力石」(高島愼助 岩田書院)では、
このうちの2個は所在不明で、2個しか実在しなかったと記載されています。

ところが最近、ネット上で3個並んだ写真を見つけました。
一つ増えていたのです。
そのうえ、「伏見稲荷大明神」の石柱のところにも、力石みたいな石が…。
で、今すぐにも飛んでいって確認を、と思ったもののままならず。

そんな私に徳蔵縁者のさんが助け舟をだしてくれました。
なんと、お仕事の合間を縫って、
青山熊野神社へ確認の調査に出向いてくださったのです。

こちらはEさんが撮影した熊野神社の力石です。
確かに3個、あります。

2017aoyamakumano.jpeg
東京都渋谷区神宮前・青山熊野神社

そして、「伏見稲荷大明神」の石柱のかたわらにも一つ。

これです。
拡大すると刻字があるようにも見えますが、なんともいえません。
小ぶりですが、形からすればまさしく力石です。

3inari_yoko.jpg

この石を加えると、伊東先生の調査時と同じ4個になります。

検証していきます。

下は、高島先生の調査時に行方不明とされた石です。
左は伊東先生が書き残していった画。
右の写真は、今回、Eさんが撮影した3個のうちの右端の石です。

どちらにも
「奉納 四十五メ 大正七年 青山八百喜代」
と刻字されています。

全く同じです。貫目の「五」と「メ」の間の窪みも同じです。
行方不明ではありませんでした。

img733.jpg 6aoyama_yaokiyo45kan.jpg
84×47×26cm

こちらは3個並んだうちの真ん中と左端の石です。

2017aoyamakumano (2)
 
右の大きな方を拡大するとこうなります。
刻字が見えます。

5aoyama_yaokiyo31kan.jpg
64×44×23㎝ 

「三十六メ 青山八百喜代」

石の大きさや右下の割れ目などから、
「東京の力石」などで現存とされている石の
2個のうちの一つであることが確かめられました。

これで、3個並んだ石のうちの2個を確認できました。

次に、左端に置かれたちょっと小ぶりの石を考えてみます。
これは現存とされているもう一つの石かと思ったのですが、
それは、71×43×33㎝の大きさだったと記録されていますから、
隣りの64㎝「三十六メ」より大きいはずです。
ですが小さい。明らかに違う石です。

だとすると、これは、
高島先生の調査時に不明だった2個のうちの一つの可能性があります。
所在不明の石ですから、
それ以前に調査した伊東先生の絵でしか見ることができません。

これです。
img733 (3)

この石は48×38×38㎝だそうですから、
写真・左端の石に似ています。球形に近い形もぴったりです。

写真の石と伊東先生の絵とはちょっと違って見えますが、
写真の石は下部が土に埋もれているのかもしれません。

このことから、左端の石はこの「二十六メ」の可能性大です。
刻字の確認もしないままは危険ですが、そう断定してもいいように思います。

そうなると、不明だった石は2個とも現存していたということになります。
これで、並んでいる3個の石の正体がすべて明らかになりました。
となると残りはあと一つ、
高島先生の調査時にはあった「青山」刻字の石の行方です。
長さ71㎝の石です。

「青山」刻字の力石はこちらです。「東京の力石」に掲載。

img766.jpg
71×43×33㎝

再び、Eさん撮影の「伏見稲荷大明神」石柱の横の石をお見せします。
4個のうち余った石はこれしかありません。
Eさんが石の上に10円玉を載せてみました。

7inari_ishi3.jpg

チョット見には一番長いところで71㎝もあるとは思えません。
無謀を承知で推理してみました。

写真の石を計ると約70mm、石の上の10円玉は約3mmです。
このことから、写真の石の長さは10円玉の23倍あることがわかりました。
これを実際の10円玉の大きさ23~24mmで計算すると、
写真の石は約55㎝となります。

とまあ、高校時代、数学で追試を受けた私ですから、合っているかどうか。
でも、仮に55㎝としても、71㎝には届きません。
実物を計測しなければ、なんともいえませんが…。

前回お見せした「納石」の集合写真に8個の石が写っていましたが、
今回、改めて見たら「八百喜代」「□十メ」などの刻字が確認できました。
この8個は八百喜代の石で、そのすべてを奉納したのなら、
まだどこかに埋もれていて、ときどき現れたりするのかもしれません。

これはそうした石の一つかもしれないし、全く無関係な石かもしれません。

aoyama_web (4)

なんだか頭がこんがらがってきました。
おさらいしますと、

伊東先生の調査時に力石は4個ありました。
先生没後、再調査に着手した高島先生は2個のみ確認。

しかし今年、Eさんが調査した結果、
高島先生の調査時に実在した石1個と不明とされた2個の計3個を確認、
実在したはずの71㎝の「青山」銘の石は現在、行方不明とわかりました。
また、「伏見稲荷大明神」横の石は、力石かどうかは不明。

伊東先生が青山熊野神社の力石を調査された年月日はわかりませんが、
亡くなる前年の1992年に、日本体育学会の体育史専門分科会で、
「渋谷区の力石の調査・研究」として発表されています。

伊東先生の最後のお弟子だった高島先生が、再調査し、
「東京の力石」に掲載したのが2003年ですから、
その10年ほどの間に、2個行方不明になったことになります。

で、それから10余年後の今日、
Eさんの調査で再び姿を現すなど、状況が変わっていたことが判明しました。

八百喜代さんの力石、減ったり増えたり…。

師匠! こうなったらもう一度、
青山熊野神社へ再調査に行くしかないですよォー!

※師匠とは、高島愼助元・四日市大学教授で、私の力石の先生です。


   ーーーーーー◇ーーーーーー

Eさん、本当にごくろうさまでした。感謝申し上げます。

花咲徳栄高校、おめでとう!

埼玉の研究者、斎藤氏からこんなメールが届きました。

花咲徳栄(はなさきとくはる)高校
            埼玉県勢で初めて夏の甲子園で優勝!

「マスコミやTVアナウンサーや解説者は、
広陵の勝利となるシナリオを描いていたのがほとんど。
冗談じゃない。
結果はそいつらの鼻をあかすに充分な勝ち方・得点で溜飲を下げた次第」

テレビの前で缶酎ハイを飲みながら、拍手したり絶叫したりしていたそうです。
で、そこはさすが研究者、どんな状況でも力石を忘れません。

花咲徳栄高校近くの力石の写真を送ってくれました。

埼玉花咲鷺ノ宮神社
埼玉県加須市花崎2丁目・鷲宮(わしのみや)神社

斎藤さん、今度は球児たちと力石の写真、頼みますよォ~!

2枚あった写真

大正から昭和初期に活躍した力持ち力士神田川徳蔵
その縁者、Eさんからいただいた写真の中に、こんな一枚がありました。

「八百喜代氏納石力持」

aoyama_web (2)

当時、東京・青山原宿で八百屋を営んでいた「青山八百喜代(やおきよ)が、
自分の持ち上げた力石を神社に奉納したときの記念写真です。

時は今から97年前の大正九年七月二十六日。
場所は東京・青山熊野神社(渋谷区神宮前)。

この力石奉納を記念して、
近隣の力持ちたちがそれぞれ自慢の石で力技を披露したのでしょう。
見事な石がずらりと並んでいます。

後ろに写る見物人の多さから、
この力石奉納はかなりの人気を呼んだことがわかります。

で、この写真を見た埼玉の研究者の斎藤氏はびっくり。
「実はこれと同じ写真を、2008年にネットで見つけていたのです。
ところが誰の納石力持ちか、参加した有名力士は誰なのか場所はどこか
さっぱりわからず、そのままにしていました」

今から9年前、斎藤氏が入手していた写真がこちら
ホントだ、おんなじだ!

img674.jpg

これは鉄道沿線の旧家から明治・大正期の古写真を集めた
「写真が語る沿線」に収録されていた一枚です。
  =校正:石川佐智子/編集支援:阿部匡宏/編集・文:岩田忠利=

説明によると、
こちらの写真は根岸造園(世田谷区下馬)の当時の社長、
野澤(根岸)良雄のご子孫が持っていたもので、
後列向かって左端の黒っぽい半てんを着ているのがその人だという。

下の写真の自転車の青年は、19歳のときの野澤(根岸)良雄です。
大正7年、村で一番早く自転車を買ったそうですから、
かなり裕福な家だったことがうかがえます。

右の写真は野澤(根岸)良雄の力持ちグループ「野澤組」です。
自転車に乗るハイカラな青年が力持ちに興じる、
当時の青年たちにとって力持ちは、粋な遊びだったのかもしれません。

img613.jpg
「写真が語る沿線」よりお借りしました。写真は根岸造園所蔵。

「八百喜代氏納石力持」が行われたのは大正9年で、
自転車購入の2年後ですから、このとき根岸は21歳になっていた、
ということになります。

この根岸が着ている半てんには屋号の「水車」がついています。
前列左から4番目の人物も同じ半てんを着ています。
斎藤氏は写真に写る番付から、この人を「野澤□三郎」と特定しました。

さて、力石も力持ちもすでに人々の記憶から遠ざかってしまった今日、
このように同じ写真が別々のご子孫のお宅から発見されたことは、
本当に奇跡です。

「徳蔵縁者の方からの写真の情報は、すこぶるつきのプレゼントです。
こういうことがあるので持つべきものは力友ですね!」
と斎藤氏は興奮を隠せない。

「持つべきものは力友」…
…でしょう?

ここから斎藤氏の懸命な人物特定の探求が始まりました。
が、すぐ壁にぶつかりました。

「肝心の徳蔵がいない…」

  
       ーーーーーー◇ーーーーーー

※昨日、町で買い物中、ご老人に呼び止められた。
 「力石の会ってどこにあるんだね?」
 そう言ってご老人は、私が着ていた例のTシャツの
 「東海力石の會」の文字を懐かしそうに見つめていた。
 
 力石の文字が目にとまり、なおかつ「ちからいし」と読める人なんて、
 この静岡市にはまずいない。
 これは嬉しいと早速説明しようとしたら、
 連れ合いらしいおばあちゃんがいきなりさえぎった。
 なんでかわからないけれど、本当に残念だった。
 
 でも、こんなことがあるんですものね、
 これからもどんどんこのTシャツを着て町へ出かけます。

新発見と調査中の力石

ここでちょっと、力石新発見のニュースです。

お一人目は埼玉県川越市安田和弘さんからの情報です。
山歩きのブログ「山の彼方に」を書かれている方です。

以前、埼玉県川越市の
「藤間・諏訪神社」の力石(2017・6・11掲載)をご紹介くださったのですが、
その折り安田さんは、まだ幼かったころ、今は亡き祖父が、
「これはおじいちゃんが使っていた「ためしいし」だよ」
と言っていたのを思いだし自宅の庭を探したものの、そのときは見つからず。

この「ためしいし」というのは、「力試しの石」のことです。

ところが先日、玄関先の柘植の庭木を剪定中、その根元に石を発見。
祖父のあとにくっついて遊んだり座ったりしていた思い出の石との、
60年ぶりの対面になったそうです。

氏神さまの諏訪神社での力比べで見事、石を担げるよう、
この石でひそかに練習に励んでいた若き日のおじいちゃんの姿が
ほうふつとしてきます。

なにしろ当時は、力自慢の若者は女の子にもてましたから。

おじいちゃんが残していった「ためしいし」です。
の力石安田家
長径45×高さ35×?㎝

「自然石のようですが、ここらは川の下流域で石はありませんから、
かなり上流から持ってきたのでは、と思います」と安田さん。

諏訪神社は子供のころの遊び場でしたから、
当然力石を目にしていたはずですが、まったく知らないままできました。
力石というものを知って初めて、これがそうだったのかと」

そんなものですね。
私も力石を知ってから改めて、「そう言えばあのとき見たあれが…」と。
だから、知ってくださる方が増えるのは本当にうれしい。
それがおじいさんとの思い出につながったのですから、なおうれしいです。

お二人目は島根県在住のちょびさんです。
写真の素晴らしさが際立つブログ「ネコと趣味の創作人形」
ブログ主さんです。

ちょびさんちのちょびクンです。ちょび髭に白靴下、タキシードの紳士です。
ちょび

今まで力石の存在を知られていなかった島根県江津市有福八幡宮です。

福江津市有

赤っぽい丸い石が力石です。
大黒天や干支の置物などもあって、
行き場のないいろんなものが肩を寄せ合っているといった風情ですが、
力石は説明板も付けられて、ちゃんと力石と認識されて保存されています。

3江津市

今まで散逸もしないで、よくぞ残しておいてくださった。
八幡宮さんと地域の方に感謝です。

説明板にはこう書かれています。

「ここは中世の山城だったところで、地頭・有福実長の居城だった。
そしてこの石は平素より家来たちが身体鍛錬のため使っていたもので、
家来たちが戦場から無事に帰る「福授けの石」とも
言い継がれている」

近代になってからも戦争のたびに、戦場に向かう若者や父母たちは、
この石を撫でて無事帰還を願ったのではないでしょうか。

説明板です。
石江津市

三人目の方は古代史に造詣が深く、狛犬、神社など楽しく発信されている
「無責任男の呟き」minekazeyaさんです。

お寄せいただいた力石は、今まで未発見のものでしたが、
つい最近報告があり、師匠の高島先生が調査に着手したばかりの石でした。
一足遅れで新発見にはならなかったのですが、
神社の由緒や奉納者銘など興味深いものなので、ご紹介します。

福岡市中央区・中司孫太郎稲荷神社です。
2孫太郎稲荷

力石です。

1孫太郎稲荷

ここにあるのは、
横綱玉の海の優勝記念の力石2個と、大関栃光の力石2個。

同じ福岡市博多区の櫛田神社はお相撲さんが奉納した力石で有名ですが、
ここにもあったんですね。

安田さん、ちょびさん、minekazeyaさん、
貴重な情報、ありがとうございました。

今後もみなさまからの情報、お待ちしております。

場違いですが、ポエムです

終戦の日に…。


身の上ばなし


荒々しい足音が近づいてきたと思ったら いきなり拳が振り下ろされた
一撃を食らった私のほおに ピリッと電気が走った
痛みなど感じはしなかったけれど 
不意打ちの恐怖と畳に落ちた鼻血にはうろたえた
その畳につんのめったまま見上げると
そこに仁王立ちした母がいた
母のパーマネントの髪は総毛立ち 天井いっぱいに広がっていた

そのとき私はまだ六歳で 殴られる理由など何もなかった
ただ暗い部屋のタンスの前で
紙の着せ替え人形で遊んでいただけだった
息を殺して固まっている私を母はよく光る目で一べつすると
「ああ、スッキリした」とでもいうように軽やかに立ち去っていった

本当はいらない子だったんだと母はいった
終戦間際のドサクサに妊娠してしまった五番目の娘
以来 父への嫌悪とセットにして聞かされ続けたセリフ
「あんただけが”あの”お父さんに似てるからヤなんだよ」
だからいつも五番目の娘にしか当たらなかったピンポイント爆弾

戦争が終わってもなお戦争を引きずる母がいて
その母に殴られても無視されてもヘラヘラ笑う私がいた
狂気の時代が終わってもなお狂気を増幅させる母がいて
そういう母に
「お父さんなんか死ねばいいのにね」
と媚びる私がいた

これが私の身の上ばなし
六十年たっても引き戻される色のない原風景

              (「詩人会議」掲載作品)

東海力石の会

本日、岐阜在住の大江誉志さんから特注のTシャツが届きました。
なんと、プレゼントしてくださったんです!!

これです。胸に「東海力石の會」と書かれています。

CIMG3930.jpg

大江さんは、
NPO法人日本ロシアンケトルベル協会のインストラクターですが、
極真空手の有段者でもあります。

ケトルベルを使って。


バーベルを使って。


そして私と同じように「力石に魅せられて」、
とうとう力石の同好会を作ってしまったのです。

仕事の合間に、お仲間の方々と各地の力持ち大会へ出場し、
地域のみなさまと熱い親交を続けています。

「東海力石の会」のみなさまです。
1東海力石の会
向かって左端が大江さん。

こちらは姫路で、誰も担げなかった大石を挙げたときの大江さんです。
このときは浪速の力持ち浪速の長州力さんと私も同行しました。

大江さんは静岡県出身の奥さまと愛犬さくらちゃんを伴い姫路入りしました。
地元の若者たちや大江さん、浪速の長州力さんの力技を見せていただき、
もう凄すぎて、言葉になりませんでした。



大江さんと仲間たちが作る「東海力石の会」は、力石と男たちの熱いホームです。
リンクに貼ってあります。ぜひ、ご覧ください。

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3東海力石の会

私も「力」のTシャツで、ポーズをとってみました。
セルフタイマーで汗だくで…。といっても、この程度ですが…。

CIMG3923.jpg

いただいた力を背負って これからもがんばります!

※写真などは「東海力石の会」さまからお借りしました。

徳蔵と惣吉

前回、徳蔵惣吉が足受けした力石「百度石」をご紹介しましたが、
この二人の名を刻んだ力石はあと2個残されています。

一つはこちら、氷川神社のお稲荷さんのところにあります。
残念ながら参拝者の方々、ほかは熱心に説明板を読んでいますが、
ここは素通りです。トホホ。
まあ、説明板もないのですから、仕方がありませんね。

CIMG3889.jpg
東京都杉並区高円寺・氷川神社

徳蔵と惣吉の石はこちらです。

   「さし石 大正十五年 神田川徳蔵 大工町惣吉」

どなたか時々洗っているんでしょうか。
今から91年も前に彫付けた文字とは思えないほどきれいです。

CIMG3882.jpg
79×33×27㎝

あとの一つはこちらの馬橋稲荷神社にあります。
炎天下、道に迷いつつ、やっとたどり着きました。
建物に鳥居がくっついていてびっくり。この前は道路です。

CIMG3895.jpg
東京都杉並区阿佐ヶ谷・馬橋稲荷神社

入ると中は意外と広い。
境内をあちこち探してやっと見つけました。
これです。ちょっとうら寂れた風情。
寺や神社ではご住職や宮司さんが変わると価値観が一変してしまいます。
昨日まで大切にされていた力石が裏の竹やぶに捨てられたり…。

で、人一倍汗かきの私。暑さと疲れで頭もカメラもボーッ
カメラのレンズカバーが垂れ下がってくるので、いちいち押し上げて…。

CIMG3898.jpg

でも、4個あるはずなのに2個しかありません。
やっと石碑の右側にコンクリートにめり込んだ3個目をみつけたけど、

CIMG3903.jpg

残りの一個が見つかりません。
なんか妙なおっさんがいて、なんとなくヤバイという気もあってあきらめました。

それが肝心の「徳蔵と惣吉」の石だったと帰宅後気が付きました。
急きょ、師匠の高島先生にお願いしてお借りしたのがこちら。

阿佐谷南・馬橋稲荷神社2
67余×40×26cm

   「奉納 さし石 四拾メ目 大正拾五年 
    神田川徳蔵 大工町惣吉 立会人 浅賀喜八」


この日はもう一つ、撮り忘れたものがありました。
竜の巻き付いた珍しい鳥居です。
古びた参道があって、たぶんその先にあったと思いますが、
なんとなくUターンしてしまいました。

さて、ここで本日の主役、「大工町惣吉」の紹介です。

何度も申し上げていますが、
今まではただ石に刻まれた名前しかわからなかった人物が、
こうして眼前に姿を現したのですから、常に冷静な私でも興奮しまくりです。

埼玉の研究者・斎藤氏は、
古き良き日本人の風貌がそこにあり、惚れ惚れと見とれてしまいました」
とワクワクしつつ、日夜、人物特定に取り組んでいるとのこと。

右矢印が大工町惣吉です。
sasiisi4_1 (2)

これはすでにご紹介した
大正15年に神田佐久間町・佐久間学校での興行、
「神田川栄吉腹受」です。

舟の上で3人の男が米俵を差し上げています。
その真ん中で「片手差し」をしているのが大工町惣吉です。
左端は神田川徳蔵です。

とっておきのもう一枚を、お目に掛けます。

下の写真をご覧ください。
上の写真と同じ日の、佐久間学校での興行です。
立派な力石がズラッと並んでおります。

で、その前に置かれているのはなんと、バーベル鉄アレイです。
大正15年に徳蔵一派はすでにバーベルを手に入れていたんですね。

日本に重量挙げの連盟ができたのは昭和12年
初めてオーストリアからバーベルを買ったのが昭和9年ですから、
それより8年も早く徳蔵たちはバーベルを使っていたということになります。

非常に興味深い事実ですが、これについてはのちのちお話しいたします。

sasiisi3_2 (2)

徳蔵と惣吉に戻ります。
上の写真を拡大したものがこちら。
右の赤丸の人物は神田川徳蔵ですが、問題は左の赤丸の人物です。

斎藤氏は初め、左の人物を佐賀町丈太郎としていましたが、
特定し直した結果、これは丈太郎ではなく大工町惣吉だと判断。

sasiisi3_2 (3)

この写真には添え書きがあります。
確かに添え書きではこの人物を「大工町惣吉」としています。

斎藤氏は添え書きを間違えて書くはずはないと思い直し、
再度、人物特定に挑戦。
そこで、
惣吉はサウスポーだったということに気付いたそうです。

確かに一枚目の写真の惣吉は左手で俵を挙げています。
左利きですね。
2枚目では子供を左手で抱いています。

斎藤氏はこう言います。

「誰の子供かわからないけれど、大切な子供だから無意識に利き腕で抱いた。
これが惣吉特定の大きなポイントになりました」

徳蔵の縁者のみなさまには異論反論があるかと思います。
ぜひ、ご意見をいただければ、と思っています。

ちなみに徳蔵縁者のさんの見解は、
赤矢印の横を向いてる人物が大工町惣吉、
前列で左手で子供を抱えているのは、神田川萬平

徳蔵に関してはEさん、斎藤氏共に同意見です。

sasiisi3_2 (4)

私にはみんな同じ顔に見えちゃって。
石上げならぬ、まったくのお手上げです。


    =利き腕の左手で子供を抱いていることについて
 
 男性と女性では違うかもしれませんが、
 私は右利きですが 子育て中は左手で子供を抱いていました。
 
 これは利き腕で哺乳瓶を持ったり、赤ちゃんの顔を拭いたり荷物を持ったり
 また、不意の危機にとっさに対応するためにも、
 無意識に右手をあけておいたような気がします。

 こんな観点から惣吉の左手で抱き上げた動作をみるのも面白いかも。
 写真後列右端の人物は右手で子供を抱いていますね。

人間わざとは思えない

柳森神社の力石群の中でひときわ異彩を放つのが、この「百度石」です。

これです。
高さが1m余もありますので、ほかの石が小さく見えます。

CIMG3852 (3)
100余×68×24㎝

  「百度石 皇紀二千六百年建立 
       神田川 徳蔵 大工町 惣吉 足受」


これは神田川徳蔵大工町惣吉がそれぞれ足で差したという意味です。

ここに刻まれた「百度」というのは、
寺社の入り口から拝殿や本堂までを百回往復して願掛けをする
「お百度参り」のことです。

百度石はその目印として入口あたりに置かれていましたが、
徳蔵たちのこの百度石が、どこに奉納されたかは定かではありません。

また「皇紀二千六百年」というのは、昭和15年(1940)のことで、
この年は神武天皇の即位から2600年目にあたるとされ、
各地で盛んに催しなどが行われました。

この9年前の昭和6年、日本は満州事変勃発で15年戦争に突入。
昭和14年には、ドイツのヒトラーがポーランドへ侵攻。
これが第二次世界大戦へと広がっていきます。
日本は、皇紀二千六百年とされたこの年、
そのドイツとムッソリーニのイタリアとの間で三国軍事同盟を結びます。

徳蔵と惣吉は戦時下の国威発揚のお役目を仰せつかって、
この足受けを披露したのかもしれません。
しかし「日本の戦勝祈願」より、我が子が無事戦地から帰ることを願って
お百度参りをした母たちが多かったのではないでしょうか。

戦死した息子の墓に、
生前その息子が愛用した力石をそっと添えたお墓があります。
お母さんはご自分がこの世を去るまで、
この石を息子のつもりで、会いに行っていたような気がします。

「一億火の玉」「欲しがりません勝つまでは」の戦時色一色の状態は、
B29による大空襲、広島、長崎への原爆投下、米軍の沖縄上陸などで
壊滅的被害を受けた昭和20年まで続き、敗戦を迎えます。

大空襲の中で、多くの力石が生き延びた
石は自ら動けないのにね、不思議なたくましさを感じます。

さて、この石にはもう一つ、聞きなれない言葉が刻まれています。
「足受け」です。「足差し」ともいいます。

こういう技です。
img342 (4) CIMG2431 (4)
沢田重隆・画                   江戸川区郷土資料館

足差しにはとてつもない重量の石が使われますので、
力持ち番付にも載った玩具博士の清水晴風は、
「これができるのは真打だけ」と言っています。

この重い石をどうやって足に乗せるかというと、
こんな具合に介添え人たちが乗せるのです。乗せる人たちも大変ですね。

桶川市民祭り1 (7)
埼玉県桶川市の市民祭での「足差し(足受け)」の再現

この再現で使われたのはハリボテの石ですが、
実際の石は610㌔(実測)もある日本一の力石で、
これを差したのは埼玉県出身の日本一の力持ち、三ノ宮卯之助です。

この卯之助の石の大きさは125×75×35㎝
これに比べて徳蔵と惣吉が挙げた「百度石」は、
100余×68×24㎝とやや及ばないものの、堂々たる巨石です。

徳蔵、このとき49歳
想像してみてください。
49歳で、1m余りもある巨石を足で挙げたのです。

実際に力石を目にされた方は、
「こんな石を持ち上げたなんて信じられない」とおっしゃいます。
本当にとうてい人間わざとは思えませんが、挙げたんです。

この二人もまた卯之助同様、抜きん出た力持ちだったのです。

残念ながら百度石の足受けの写真はありませんので、
かわりに臼の足受けの写真をお見せします。
「百度石」の足受けから遡ること18年も昔の興行です。

樽臼
「樽の曲持ち」                      「臼の足受け」

「大正十壱年七月十六日 深川高橋際舟亀前空地
  樽ノ曲持 臼ノ足受」


演者は不明ですが、埼玉の研究者・斎藤氏によると、
臼の足受けで左端で付き添っているのは、神田川徳蔵とのことです。

このとき徳蔵さん、31歳
愛するお千代さんと結婚したころでしょうか。

張り切っております。


※徳蔵関係の写真は、
 徳蔵直系のご子孫から縁者のEさんを通してお借りしています。

両輪のごとく

荷役業「飯定組」の飯田定次郎には、1男5女があったと以前お伝えしました。

末っ子の千代の夫は入り婿の神田川徳蔵ですが、
長女の夫もまた婿入りした人で、神田川(飯田)隆四郎といいました。

この人です(左)。右は義父の定次郎。
s60920_hakakuyou.jpeg

縁者のEさんによると、隆四郎は「飯隆組」(いいたかくみ)という
馬車を使った運送業をしていたそうです。

ちなみに、そのころは、
陸上の運送業を「車力派」
河川の舟での運送業を「川並派」と呼んでいました。
なので、神田川一派は「車力派」になります。

で、この二人の婿殿が義父・定次郎の統率のもと、
車の両輪のごとく「飯定組」を盛り立てていた。

その両輪のお二人の名が刻まれた力石が、ここ柳森神社にあります。

これです。(赤矢印)
CIMG3848 (2)

埼玉の研究者・斎藤氏が草をかき分けて撮影した写真がこちら。
下段右端に「飯隆」とあります。隆四郎です。左端の「飯徳」は徳蔵です。
あとは「飯定組」の従業員と思われます。

img449.jpg
58余×43×24㎝

「さし石(石銘) 蛎殻町 政吉 神田川 飯定内
 飯隆 主馬蔵 大善 竹松 飯徳」

この飯田隆四郎の長男は一郎といい、
バーベルをつくり、徳蔵や徳蔵の長男の定太郎とともに
日本の重量挙げの興隆に貢献してきた人です。

まさに日本のウエイトリフティングの元が、
神田川米穀市場の「飯定組」の徳蔵とその親族にあったということになります。

飯田一郎です。
中央が祖父の飯田定次郎、その右横が一郎
後列左端が徳蔵長男の定太郎、右端が一郎の弟、勝康

この3人が徳蔵と共に活躍します。詳細はのちにお伝えします。

s080115_iisada_mago.jpeg

ここで私が注目するのは、
力石による石上げ競技という伝統的スポーツから、
ウエイトリフティングという近代スポーツへの移行が、
徳蔵という一人の力持ちを通して成し遂げられたという事実です。

早稲田大学の寒川恒夫教授は、「日本スポーツ史・スポーツ前史」で、
「sportという単語は紀元前五世紀のローマ人が使っていたラテン語動詞で、
これは物を移動させる、あるいは人が移動するを意味した。

これがのちに移動の対象を物から心へ広げ、
心ある状態(重い、つらい、ふさぎ込んだ状態)からそうでない状態へ移す、
即ち、気晴らしをする、楽しむ、遊ぶを意味させるに至った」としています。

そして、こうも言っています。
「近代化・欧化の一環としてスポーツを展開した明治・大正の日本人にとって、
「遊ぶ」スポーツ理解は、むしろじゃまであったのかもしれない」

「鳥獣戯画」に描かれた「ウサギとサルの走り高跳び」
img531.jpg

平安末から鎌倉初期まで各僧侶によって描き継がれた「鳥獣戯画」には、
動物たちが相撲や蹴鞠などを楽しんでいる様子が描かれています。

綱引き、羽根つき、凧揚げ、ハーリー、流鏑馬、勇壮な神輿担ぎなどは、
みんな伝統的スポーツと呼ばれるものだそうです。
どれも真剣そのものですが、その精神はおおらかで、まさに遊び心の爆発
する側も見る側もここぞとばかり楽しんでいます。

それにひきかえ、勝敗にこだわり、技術の追求ばかりの、
「遊び心」を忘れてしまった最近の近代スポーツ。

昔の力持ちたちは石担ぎに失敗すると家に飛んで帰り、
カツオ節をかけたどんぶり飯を腹いっぱい食べて再度挑戦したけれど、
今はドーピング問題が…。

ラテン語のsportの精神、どこへやら。

プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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