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おたぬきさんと力石

東京・神田川沿いの柳森神社の力石、ご紹介します。

15個あります。
徳蔵の名が刻まれた石は5個あります。

神社入り口で出迎えてくれたおたぬきさんです。
狸の顔ってこんなんでしたっけ?

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東京都千代田区神田須田町・柳森神社

奥に「おたぬきさん」の祠があって、説明板によると、
「この祠は八百屋の娘から三代将軍家光の側室になり、
五代将軍綱吉を産んだ生母の建立」だそうで、
元・江戸城内にあったのを明治2年に、この柳森神社に合祀。

なぜ「おたぬきさん」かというと、数いる大奥のお女中たちを抜いて、
側室という地位に上り詰めた、つまり他を抜いた(たぬき)というわけで、
この幸運にあやかろうとみんながお参りしたのだそうです。

たぬきといえば、「飯定組」の頭、飯田定次郎の親戚に、
悠玄亭玉介という幇間(ほうかん=たいこ持ち)がいましたが、
その玉介が所属していた「全国幇間睦会」で、昭和37年、
各花柳界の物故者の慰霊碑を建立することになった。

そこで資金集めの演芸会を開いた。そのとき配った手ぬぐいがこちら。

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「たいこもち(幇間)の生活」藤井宗哲 雄山閣出版 昭和57年より

なぜ絵柄が「たぬき」かというと、
たいこ持ちの異名たぬきだからなんですって。
たぬきの腹づつみとたいこ持ちの太鼓をかけたんでしょうか。

さて、この「たいこ持ち」
「なんですか、それ」なァんておっしゃる方が大半だと思います。
かくいう私も本の中でしか知りません。

男芸者なんて言い方もありますが、最も適切なのは、
「お座敷遊びの酒席の(ま)を幇(たす)ける人」だそうです。

こちらは自著の表紙を飾った有名なたいこ持ちの桜川忠七さんです。
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「たいこ持ち」桜川忠七 かのう書房 1990年

遊郭と共に盛んになり、遊郭の消滅で衰えていった職業だそうで、
今や「絶滅危惧種」
ですが、身近なところでは職場の上司を「ヨイショ」する人のことを
「たいこ持ち」と呼んだりしていますよね。

「たいこ持ち」については、またの機会に詳述することにして、
柳森神社に戻ります。

おたぬきさんの巨大な幸運のタマタマに、いつまでも見とれている場合じゃない、
お目当ては徳蔵さんの力石なんだからと自戒しつつ…。

こちらが境内に保存されている力石です。たくさんあります。
平成元年に「力石群」として千代田区有形民俗文化財に指定されています。

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なかでも有名なのが、神田川徳蔵「歌石」です。

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「石銘・歌石」70余×52×27㎝          作図/高島愼助教授

「東男の力を飾る祭りかな  
   大正十四年九月二日 神田川徳蔵 持之」 

神田川徳蔵は大正10年ごろから、
仕事上でも力持ち界でもめきめき頭角を現わします。

「飯定組」の従業員たちや近隣の力持ちたちと
ひんぱんに力持ち興行を行い、周囲にその勢いを知らしめます。

中でも大正15年は重要な年で、
その活躍はめざましく、徳蔵の輝かしい人生の花が一挙に開きました。

次回も柳森神社の力石についてお話いたします。

で、実はこの神社、お稲荷さんなんですよ。
おキツネさんの神社におタヌキさんタァー、こりゃまるで狐狸庵だァー!

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シャワークライミング

暑中お見舞い申し上げます。

山登りをやめてからすでに20年余り。
ただ今、老い支度の真っ最中。で、写真を整理していたら、
不良母ちゃんだったころのシャワークライミングの「雄姿」がでてきました。

沢登りです。ちょっと涼んでいってくださいね。

私、みなさんより年食ってますが新人ですからね、一番手で行きます。

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安倍川・椎の木沢

山のベテランがザイルで安全を確保してくれています。
ぬらぬら滑るけど不思議と怖くない。ワラジの威力絶大。
でもみなさん、心配そうに見ています。ほかのベテランから声が飛ぶ。

「ザイルに頼るな! 自力で登れ!」

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「へつり」です。左端が私。
なんでもないように見えますが、ちょっと先には滝が…。
流れが速いし深いし、落ちたらアウト。
岩が逆層で手がかり足がかりがない上に、もろくて難儀。

でも毎晩、家の前の石垣で練習していたから、ちょっとはいいかな。

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竜爪山(どこの沢だったか忘れました)

「おーい。滝の中へ突っ込め!」
ヒェー、水圧で流されそうだってのに。
「水圧で岩にコケがないから大丈夫ダァ!」

というわけで、入ったはいいけど、頭から水をかぶって息ができない。
ときどき顔を出してプワー、ハッと息継ぎ。

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垂直の崖に草とコケ。岩がもろくてつかんでもボロッ。
下にゴツゴツした岩と青々とした滝壺が控えている。冷や汗の連続。

「草はつかむなァ!」

雑念を払って、ただひたすら三点支持、三点支持。

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竜爪山・長尾沢・本谷

このとき若い女性が恐怖のあまり動けなくなった。
ザイルにしがみついてぶら下がってしまい蓑虫状態。
みんなで引っぱり上げたけど、
人一人の重さといったら、想像をはるかに越えていました。
だって、大の男が3人かかってもあがらないんですから。

よくテレビドラマでビルから落ちそうな人を、
片手で引っぱり上げたなんてシーンがあるけど、あれは大ウソ。

ファイトいっぱーつ! ウソはっぴゃくぱーつ!

で、とうとうベテランがおんぶ、前後を補佐してようやく登りました。
もう頭が下がるばかり。この人たちって本当に凄いと思いました。

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私が初体験した沢がこちら。
大雨で増水していましたが、身震いしつつもワクワク。
こんな面白い遊びがあったのか、と。

このときはヘルメットも安全ベルトもまだ借り物でした。
蛇が横にいても全く気付かなかったのはこのときだったか。

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安倍川・黒ン沢・七ツ釜

長尾沢・本谷コース、最大の滝。15m。
「いいか。登り切っても安心するな。それが一番危ないんだ。
安全を確保してから力を抜け」

はい。肝に銘じて登ります。

15mの滝の次に来たのが10mの滝。
難関は最後にあって、やれやれ登りきったと思ったらガレ。
岩も木もない砂地に、両手に吸盤をつけたつもりでペタペタ這い上る。

落石もあるし、ザイルも出してもらえないし。

3歩登って2歩ズルズルの匍匐(ほふく)前進。
動くたびに砂がサラサラ、ジャーと滑り落ちていく。
あの恐ろしさは今でも脳裏にこびりついています。

思えば優れた先輩たちに恵まれていました。
あのとききちんと感謝したかなあ?
でも今でも先輩たちのあのときの声はしっかり耳に残っています。

もうみんな、おじいさんになっちゃったんだろうな。

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竜爪山・長尾沢・本谷

その夜は、布団にはいっても滝の音がザーザー蘇って眠れませんでした。
あのころは面白さの方が勝っていて、怖いもの知らずだった。
近所の主婦たちの悪口なんかまったく気にならなかった。

でも今は、ハッ、ヒヤリばかりが思い出されて山が恐くなりました。

それに「育児放棄」した息子たちへの贖罪も…。

で、思い返せば、当時、夫から「中性」呼ばわりされていました。
時々、少年に間違えられた。若かりしころの写真を出すのはなんですが、
こんな顔してたからかな。色気ゼロ。
でも、年を重ねるごとに女性(右)らしくなったでしょ?

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今は「どこから見てもバァサンだァ」になりました。

このセリフ、生前、母から聞いたんですよ。
そのころの母はゲートボールに夢中で。
あるじいさんが一人の女性に執拗に「バァサン」を連発。
で、その女性、「わしゃバァサンじゃねえ」ってやり返したら、じいさんが、
「どこから見てもバァサンだァ」と。

思わず吹き出しましたけど、これはいけません。

母たちの楽しみは競技のあとのお茶だったみたいで。
中にモテモテのじいさんが一人いて、貢物の食べ物がそこへ集中する。
いわしの丸干しを焼いて貢ぐ人もいたそうで、
母は「なにサ」と笑っていましたが、
そういう母はイヤリングなんかつけて、いそいそと行ってました。

いくつになっても青春。いいんじゃない?

で、「どこから見てもバァサン」になった私、電車でよく席を譲られます。
東京でギターを抱えた若者から譲られたとき、
丁寧にお礼を言って座らせていただいたら、すごく照れてましたっけ。

しょうもない昔話に、すっかり付き合わせてしまいましたが、
少しは涼んでいただけましたでしょうか。

でも、部屋の中は写真が散乱。これから私は汗だくで整理に没頭します。

※当時、連れて行ってくださった方々、写真を撮ってくださった方、
 本当にありがとうございました。

たかが見世物とお思いでしょうが

今から94年前の大正12年9月1日、
神奈川を震源とする関東大震災が起きた。

家屋が密集した東京は昼食時のこともあって、あちこちで火災が発生。
人的被害10万5000余人、全壊・焼失家屋約30万戸という大惨事となった。

しかし、江戸っ子はたくましい
全滅した花柳界は3か月もたたないうちに再建。
新国劇や歌舞伎役者たちは「何か慰安会をやろう」と相談、
日比谷のバラックで獅子舞や歌舞伎十八番「勧進帳」などをやったという。

藤井宗哲は著書「たいこもちの生活」に、こう書いている。

「焦土の都にはじめて色彩と音楽の花を咲かせ、荒みきった灰色の人心に
はじめてにこやかな芸術の香気を吹き込んだ」

「飯定組」の神田川徳蔵が一門の弟子たちや漫才師の東喜代駒と共に、
某宮家の別荘跡地で力持ちを披露してみせたのは、震災から7か月目のこと。

その会場での、
徳蔵と栄吉のおどけっぷりがまた楽し。
 
 ※前回、徳蔵の隣りで上半身裸で踊っている人物について、
  飯定組の一の子分の重吉かそれとも栄吉かで意見が分かれましたが、
  埼玉の研究者・斎藤氏から「栄吉」に訂正との連絡が入りました。

  そうすると「椅子に座って開脚の男」は不明になってしまい、まだ疑念が
  残りますが、一方、組の重鎮でどっしり落ち着いた重吉でなかったことに、
  私はなんとなくホッとしたりもしているのです。
   
改めて「おどけた仕草の徳蔵栄吉
さし石1 (2)

見物人たちも、力持ちの怪力や笑顔に大きな力を得たことでしょう。

この大震災のとき、
「飯定組」を始め佐久間町の住人たちは一丸となって火災から町を守り、
神田川米穀市場の米で炊き出しを行なって被災者たちへ提供したそうです。

こちらは、
余興興行から2年後の大正15年、「神田川佐久間町 佐久間学校」での、
「徳蔵 大石差切」です。

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中央で石を差し上げているのが神田川徳蔵です。
徳蔵、この時35歳
のちに明治大学ウエイトリフティング部OBとなる長男の定太郎は、このとき2歳

赤矢印の黒い着物の男は竪川大兼です。後述します。
見物人がカメラを意識して振り向いているのが面白い。

さて、みなさまは、
このような興行は木戸銭を取ったと思われるかもしれませんが、
江戸時代から江戸の力持ちは寺社などで奉納力持ちを見せるだけで、
木戸銭は取りませんでした。

これは関西では力持ちを職業にしていたのに対し、江戸の力持ちは生業を持ち、
興行はあくまでも人々を楽しませるためのものと心得ていたためです。

こちらも上と同じ場所での連続写真です。

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これは「神田川栄吉 腹受」といいます。
5人の人間が乗った舟の下に臼、臼の下に米俵2俵、その下をよくご覧ください。
仰向けでそれらをお腹で支えている人がいます。神田川栄吉です。

この興行には神田川一門のほかに、
佐賀町、羽根木(世田谷区)、大工町など他の町の力持ちも出演しています。

埼玉の研究者・斎藤氏は、
「親方の定次郎が見込んだ徳蔵は、
飯定組の生業に大きな影響力がある従業員の養成として、
娯楽と体力増強のために力持を多用し、自らも出演した感がある。

これらを見ても徳蔵は膂力だけではなく、リーダーシップがあり、
マネージメント力も優れていたことがわかる」と評価しています。

で、この「腹受け」の技、今でも「深川の力持ち」でやっております。
これを演じているのは徳蔵の興行に出演していた浅吉の居住地、
「佐賀町」のみなさんです。

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東京都江東区木場・木場公園

さて、ここでさきほどの黒い着物の年輩の男をご紹介します。
上の写真では臼の横、下の写真では右端にいて片手で舟を支えています。

竪川の大工の兼吉こと竪川大兼(たてかわ だいかね)。
明治時代の力持ちの大物。明治21年の番付の「東関脇」です。      

竪川大兼の現存する力石は5個。そのうちの一つをお見せします。
鬼熊の墓の横にある「鳳凰」がそれです。

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東京都世田谷区北烏山・妙壽寺  79余×60×30㎝

「鳳凰 明治廿六年 大正十三年改刻ス 竪川大兼 
 世話人 神田川飯定 徳蔵」 


写真に写っている黒い着物姿の竪川を見た斎藤氏、感激のあまり、

「風貌と姓名がこれほど合っている男は初めてだ!」


※暑くなりましたので、私も余興に真夏の夜の「怪談」をひとつ。
 木場の「腹受け」の臼に、なにやら奇妙な顔が写り込んでおります。
 強い西日のいたずらで、偶然が作った錯覚ですが、
 虫眼鏡で見るとリアルで、ちょっと寒くなりますよ!

素顔の力持ちたち

前回の「大正十三年四月三日 本郷丸山某宮家・別荘空地ニテ
     峰崎家主催宴遊会ノ余興」

の連続写真の2枚目です。

力石に刻まれた名前しかわからなかった力持ちたちが、
こうして突如、眼前に姿を現わしたのですから、これはもう、
ワクワクを通り越して震えがきます。

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写真提供/Eさん

ここで写真の人物特定、最初の特定の訂正です。

左側の右足膝下に包帯を巻いた後ろ向きの男が神田川萬平
演者は佐賀丁(町)浅吉
浅吉の横が神田川徳蔵、ここまでは確定です。

徳蔵縁者のEさんから、
「太鼓をたたいている人物は悠玄亭玉介ではなく飯定組の者」との
ご指摘がありました。

これは私の早とちり。訂正いたします。
問題なのは、徳蔵の横で上半身裸でおどけている人物です。

Eさんは「最初重吉とお伝えしましたが、どうも栄吉ではないか」と。
埼玉の研究者・斎藤氏は「椅子に開脚で座っているのが栄吉」と、
意見が分かれました。

進展があり次第、ご報告します。

さて、神田川萬平に戻ります。
彼の名が刻まれた力石(百度石の斜め後ろ)がこちら。
萬平の石は現在、これ1個のみ。

この「百度石」も神田川徳蔵が足で差し上げた力石です。
後日、ご紹介します。
   
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東京都千代田区神田須田町・柳森神社  60余×46×26cm

      「面形 神田川 萬平」

この神社には神田川一門の力石が15 個奉納されています。

その柳森神社です。
子供たちの遊び場として開放されていました。

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火消し組の玉垣です。

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神社の裏には神田川が流れています。
川の右側の土手沿いにはかつて柳が植えられ、
その一画で怪力の鬼熊が居酒屋を出していました。

左側一帯は「佐久間河岸」と呼ばれていたところで、
荷役「飯定組」が属していた「神田川米穀市場」があり、
米穀倉庫群が建ち並んでいました。

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橋を渡ると間もなく「秋葉原電気街」。
中国語が飛び交い、中国語の説明書きがたくさん見られました。

秋葉原駅はすぐそこです。
「秋葉原停車場」といわれていたころ、ここに東北地方からの米が運ばれ、
飯定組の若い衆たちが米俵を担いで働いていました。

さて、前回お見せした写真では、神田川栄吉が演者でしたが、
この写真では佐賀丁(町)浅吉が演じています。

浅吉の力石は現在まで確認されていませんが、
世田谷区・幸龍寺の「本町東助碑」裏面にその名が刻まれています。
詳細は後日書きます。

この写真で面白いのは、
徳蔵と飯定組の一の子分、重吉、あるいは栄吉おどけた姿ですね。

とっても楽しそう!

柳森神社の徳蔵の力石、次回、ご紹介します。

東喜代駒と飯定組

東喜代駒(あずま きよこま)。本名・武井喜代次。
大正、昭和初期に活躍した漫才師。

ブログ「東京漫才のすべて」によると、
「大正14年には当時の一流劇場だった市村座で独演会を開催、
東京漫才として初となるレコードの吹き込みやラジオ出演を果たすなど、
東京漫才の礎を築いた人」なのだそうです。

最初のコンビ。
 東喜代志(落語家・柳亭左橘)       東喜代駒   
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ブログ「東京漫才のすべて・東喜代駒ノート」よりお借りしました。

喜代駒は、群馬県館林秋元藩の武士の次男
とはいえ、生まれたのが明治32年(1899)ということですから、
恵まれた武家暮らしは遠い過去のものになっていたはず。

大正2年(1913)、喜代駒こと喜代次は14歳で故郷を出ると、
東京・神田の米問屋に丁稚奉公。
それが縁で荷役「飯定組」の陸仲士(おかなかし)=荷揚げ人足になった。

これは神田川徳蔵が残したアルバムの写真です。
写真の添え書きに、
「大正十三年四月三日、本郷丸山某宮家・別荘空き地ニテ
峰崎家主催宴遊会ノ余興」

とあります。

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写真提供/徳蔵縁者のEさん

椅子に座った徳蔵の横に立つ黒いフロックコートの男が東喜代駒です。

喜代駒このとき25歳。
故郷を出てから11年目。
この11年間は目まぐるしいほどの変転です。

丁稚から6年目の21歳のとき独立。
米卸売商を始め、同時に結婚して子供ももうけた。
だが好きな芸事は止められず、アマチュアの芸人グループ「天狗連」に参加。

しかし間もなく起った関東大震災で店舗も何もかも「みんな焼けちまった」
「焼けちまった」あとがたくましい。

今度は心置きなく芸ひと筋の道へ踏み出し、
大阪の漫才にないものを目指してフロックコートに鼓を持つという
新機軸の「東京漫才」を確立。一時代を築いた。

弟子に東ヤジロー・キタハチ、大空ヒット、Wけんじ、源氏太郎などがいます。

こちらは昭和30年代から40年代にかけて人気を博した漫才コンビ、
Wけんじ の東けんじ(左)と宮城けんじ(右)
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「東京漫才うらばな史」遠藤佳三 青蛙房 平成14年より

上の「力持ちの余興」写真は、
大震災からまだ7ヶ月しかたっていないときのものです。
復興へ向けての元気発信に一役買ったのでしょうか。

このスタイルの力持ち、東京・深川で今でもやっております。
この「深川の力持ち」は、東京都無形文化財です。

「長柄の技」。徳蔵の時代と比べると柄の長さはちょっと短め。
長柄の広がり方も徳蔵のときは上へいくほど広がるなど違いがあります。

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東京都江東区木場・木場公園

お囃子は「砂村囃子」のみなさんです。
〽テンテンドドドン、テンドンドン
「深川の力持ち」、ブログ上でちょっとご堪能ください。

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   =ここでちょっとひと言=

Eさん提供の写真の人物特定は、
埼玉在住の力石研究者・斎藤氏が行いました。

ほかの写真や写真に写る番付、半纏、看板の文字、
斎藤氏がこれまで蓄積してきた知識やEさんからの情報などを駆使し、
例えば、演者の後ろに座っている萬平は足の包帯から、また、
演者手前の浅吉は厚手の筒袖からといった具合に特定していきました。

   =もう一つ=

2014年9月6日の記事「本町東助と幸龍寺②」
拍手コメントを下さった「東助」さんのひ孫さま、
拍手コメに気づかず今日まできてしまいました。申し訳なかったです。
もしご覧くださっていたら、ご一報お願いいたします。


<つづく>

スタミナつけました!

荷役業「飯定組」ゆかりの東喜代駒(あずま きよこま)、
この人は東京漫才の創始者だそうですが、
この人の終焉の地がなんと、静岡というので調べに出掛けました。

静岡での演芸か寄席に関する新聞記事から何かつかめればいいなあ、と。

一時間に一本しかない県立図書館行きのバスですから、
乗り換え時間もきちっと計算。
はやる心を抑えつつ、ようよう図書館の入り口にたどり着くと、
思いもしなかった「臨時休館」の看板。

書籍の重みで床に亀裂が入り、3~6か月休館します」

アチャー!

あそこには真下に断層が走っているし、遠くない過去に地震も起きた。
さてはまた地下で何かが、などと不吉な思いがよぎり、ついでに、
古い団地に分不相応な本を積んでいる我が部屋のことも頭をかすめた。

それにしても、県立図書館が半年も使えないなんて大ショックです。
仕方なく、市立図書館へ行くことに。
再びバスに揺られてさっき来た道をたどります。

バスからぼんやり外を眺めていたら、道路きわにひらがなばかりの看板が…。

「ちかんをみたら、110番」

で、ゆらゆら揺られながら、こんなことを考えた。
ちかんの「ち」をあいうえおに置き換えたらどんなふうになるだろう?

「あかん」はアカンなあ、「いかん」もイカン。う、えは飛ばして
「おかん」は「お母」か。「おかんを見たら110番」
110番したくなるようなおかんっているかもな。

か、き、く、けを飛ばすと「こかん」、「股間を見たら110番」?
そういえば最近静岡市内で、
暑いので服を脱いで下着だけでバイクを運転していた肝っ玉姉さんが捕まった。
水着だったらどうなんだろう?

さ行の「さ」は「さかん」左官、「し」は「しかん」で屍姦? こりゃ、猟奇的。
た行へいって、「ちかん」は痴漢。すぐ110番です。でも最近冤罪も多いしな。

な、に、ぬがなくて「ねかん」は寝棺。エジプト展へ行けば見られます。
は行はなくて、ま行は「み」で「みかん」蜜柑
最近みかんが売れなくて、一部にはこんな光景も。
ひいじいさんひいばあさんたちが苦労して育てたみかんですけどねえ。

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このあたりの鳥たち、みかんに関しては味覚が発達していますから、
おいしいみかんしかつつきません。

かつてこんな話がありました。
ハイキングコース沿いのみかんの枝に、ビニール袋がしばりつけてあって、
農家さんが開いて見たら、「一ついただきました」のハイカーの手紙と一緒に、
100円玉が入れてあった。

私、こんな話、好きなんです。

や行は「やかん」で薬缶。これはおもしろくもなんともない。
「ゆかん」は湯潅。葬儀屋さんの出番です。
兄の「おくりびと」をしてくださったのは、まだ若い楚々としたお嬢さんだった。
最後まできれいな娘さんのお世話になるなんて、女性好きだった兄らしいよ。

「らかん」は羅漢さん。羅漢さんを見て110番する人はいないし。
「わかん」は和姦。強姦犯人が言い逃れによく使うよなあ。
こういう輩は刑務所へ直行だよ。

などと遊んでいるうちに駅前バスターミナルへ。
ここからバスを乗り換えて、今度は市立図書館へ。

そのバスの中から、時々行く「うなぎや」が見えた。
カウンター席5つにテーブル席一つの小さなお店。
そうだ、日曜日にうなぎを食べそこなったんだ。今日こそ食べてやる!

でも図書館の近くにはおいしい蕎麦屋もある。
だったら、「東京の蕎麦のは静岡の蕎麦で」といこうか。

でもまてよ。
図書館の前には老夫婦がやっている赤レンガの洋食屋がある。
あそこのコーヒーとケーキは絶品だし。

とまあ、迷ったあげく、結局、お腹にいれたのは「うなぎ」

引き締まっているのに柔らかく、
変な臭みも人工的な油っぽさもない、おいしいうなぎでした。

「徳蔵物語」の続き、これでスタミナ、万全です!

気合で行ってきました

神田川徳蔵の足跡を追って、
東京へ行ってきました。日帰りの強行軍。

しかしメチャメチャ暑かった。秋葉原駅へきたら35℃もあった。
汗が止まりません。

最初は塩をなめなめ水のボトルを1本あけ、次はスポーツドリンクに変えた。
スポーツドリンクは普段は飲まないけれど、こういうときは威力を発揮します。
お医者さんのコラムだったと思いますが、リンゲル液のようなものだ、と。

乗降駅をざっと書くとこうなります。

静岡ー東京ー大手町ー東西線・門前仲町-大江戸線・清澄白河ー
ー森下経由で岩本町ー秋葉原ー高円寺

日曜は中央快速は運休というので高円寺までは総武線各駅を利用。
高円寺で2ヵ所回って、
これであとは高円寺ー東京ー静岡だァと安堵したのがいけなかった。

東京を通ると思い込んでいたので、
「次は亀戸ォ~。この電車は千葉行きです」のアナウンスに慌てて下車。
千葉まで運ばれるところでした。

出掛ける前に何度も頭の中でシミュレーションしていったのに、
やっぱり間違えてばかり。だからもう、聞きまくりです。

東京の方には大変お世話になりました。

どこでもそうかもしれないけれど、あれですね、
不親切な人も親切な人もその対応が極端。
親切な人はどこまでも親切だけど、そうでない人は徹底的に冷たい。
親切な方だけ、ありがとうございました。

東京には交番ちゅうモンはないんですねェ。

お昼はおいしい日本蕎麦を食べたくて、やっと一軒見つけて入った。
でも「食べなきゃよかった」のを食べちゃって。
まあ安かったから仕方がないよなと納得していただいた。

そしたら、
隣りのテーブルで家族連れの若い父ちゃんが「うまい!」って言った。
アンタ、普段、何食べてんだよ!

で、帰りの新幹線の中で、やたらウナギが食べたくなって。
でもウナギ屋まで歩く気力はないから、駅ビルの鮨屋のウナギでいいか、
というわけで下車後行って見たら、満席。

しかたがないので、三元豚ロースカツと特製ヒレカツを買って帰りました。

そうそう。東京で何にびっくりしたかというと、
キオスクの売店のお兄さんがインド人(だと思うのですが)だったこと。

日本の駅の売店で日本人がインド人から、
「ありがとうございました。ハイ、48円のお釣りです」
と言われるなんて思いもしなかった。

そんなわけで、今晩はぐっすり休みます。


徳さんの恋

神田川(飯田)徳蔵が結婚したのは、30歳を過ぎたころだったという。
当時としては晩婚。
お相手は「飯定組」組頭、定次郎の五女で10歳年下のお千代さん

徳さんはなぜ、長く独り身を貫いていたのか、今となっては知りようもない。
「徳蔵は最初、三女のすみと結婚するはずだった」
という話が伝わっていたが、それも定かではない。

すみ三女  千代5女
    おすみさん            お千代さん

このおすみさんのお孫さんが今回、貴重な情報をくださったEさんです。
そのEさんがおっしゃった。
「もしそうなら、いくら姉妹でも恋敵の火花が散りそうですが、
何事もなく祖母たちはみんな仲良しでした」

飯田家の4人姉妹は生粋の神田っ子
「しゃべり出したら止まらない。口から先に出たような人たちだった」と
Eさんのお姉さんも、明るくシャキシャキした様子をよく覚えています。

で、徳さんは一体誰が好きだったのか沈黙したまま、相撲を取ったり、
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向かって左が徳蔵。

こちらはちょっとポーズを決めた徳さんです。

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モテモテ男の徳さんですが、どちらにしても親方のお嬢さんですからね、
いくら好きでも口には出せません。
で、三女すみさんは18歳で父・定次郎が決めた人と結婚。
それから数年後、五女・千代さんも嫁いでいった。

しかしこのお千代さん、嫁いだものの徳さんが忘れられず、
女の命である髷を切り、三つ指ついて婚家先を出奔。

飛び出してきたのは結婚した翌日だったというのですから、見事な行動力です。

お千代
イラスト/章

やりますねェ。まさに明治の女
強いオヤジの言いなりはイヤとばかりに、自分に正直に生きたお千代さん。
ですが、
愛する末娘を相応の男に嫁がせた一家の長・定次郎の面目丸つぶれです。

そのお千代さんの一途な思いは叶えられて、晴れて徳蔵と夫婦になった。
それだけではない。
徳蔵は飯田家の入り婿として迎えられ、「飯定組」の後継者に納まります。

実は定次郎には一人息子がいたのですが、Eさんの話では、
「長男は仲士の親方をやるような性格ではなく、
たぶん、ホワイトカラーだったのでしょう。飯定組は継ぎませんでした」

こちらは昭和6年の「飯田家墓供養」の記念写真です。
こうして見ると、義父の定次郎と徳蔵、なんとなく似ています。

s60920_hakakuyou (2)

徳蔵は飯田家の跡取りとして重要な位置に座っています。
定次郎の右の人物は長女・喜代の入り婿で、
馬車屋(運送業)「飯隆組」の組頭・飯田隆四郎です。
この人の力石も残っていますが、それはまたの機会にご紹介します。

前回お伝えしたバーベルの一郎はこの人の長男なんです。

昔の経営者は、実の息子がいても資質がなければバッサリ切り捨て、
こうして婿をとって家督を継がせた。
経営者にしろ政治家にしろ、現代人にはなかなかできないことですね。

で、この写真で面白いのは、この中に芸人さんが写っていることです。
それもただの芸人さんじゃない。

Eさんによると、
赤矢印は東京漫才の創始者の東喜代駒さん。
この人は飯定組に所属し、徳蔵と一緒に力持ち興行をやっています。

青矢印は「たいこ持ちの玉介」こと「悠玄亭玉介」
最後の幇間(ほうかん)といわれた人なんだそうです。

    =ここでちょっと訂正= 

情報提供者のEさんから訂正メールが入りました。
東喜代駒とした赤矢印の人物、親戚から、
もしかしたら違うかもといわれた。いたことは確かなんですけど。
また、悠玄亭玉介とした青矢印の人物も間違い。
勇み足だったかも。ごめんなさい」

悠玄亭玉介は私の早とちりです。
説明に「たいこの人」とあったので、「たいこ持ち」と勘違いしました。
ごめんなさい。

でもみんな、昔むかしの人たちですものね。
自分の先祖を考えてみても、父や母の兄弟姉妹でも、もはやあやふやです。

写真の解読や人物特定など現在進行形で、その過程もひっくるめて、
読者の方々と楽しみながらやっていきましょう!

改めて確実な写真をお見せします。
昭和13年の飯田定次郎の葬儀の時の写真です。

赤矢印が東喜代駒、青矢印が悠玄亭玉介。(間違ったらまた直します)
s130409_sougi_shugou.jpg

力石のブログなのに力石をちっとも見せてくれないじゃないかって?
まァまァ。
そのうち、うんざりするほどお見せします。


<つづく>

米穀市場の若者たち

お行儀よく並んだ早苗がさやさやと風になびいています。

田んぼはかなり減ったけど、コンビニや保育園の周りに残された田んぼが、
ささやかながら、日本の原風景を見せてくれています。
ふと足元を見ると、おたまじゃくしがうじゃうじゃ。

私が住む地域は沼地だったためどこも深田で、
昔の農民は腰まで泥につかって田植えをしたそうです。
江戸時代まで租税は米穀物納だったから、もう必死だったのでしょう。
それでも「レンコン農家よりはずっと楽だったと古老は言います。

明治に入ると税金は米の物納から金納になった。
米商業の自由化です。

どういう変化が起きたかというと、
それまでの特権的株仲間が解体され、代わって、
生産地と大消費地を結ぶ米取引所、つまり正米市場が設立されたのです。

明治19年、深川正米問屋市場ができます。
それから遅れること22年後の明治41年、
荷役業「飯定組」が所属した神田川米穀市場が認可・稼働しました。

その「神田川米穀市場」の前景です。
img080.jpg
「神田川米穀市場概況」神田川米穀市場 大正12年より

内部の様子、「売り場」です。
img110.jpg

この神田川米穀市場は、従来からの水路と、
新しくできた「秋葉原停車場」の鉄道利用で大いに発展します。

今、若者でにぎわう秋葉原ですが、
かつては米の集散駅として、多くの仲士、軽子、小揚げ、
また肩に担ぐことから「肩」とも呼ばれた荷役の労働者が働いていました。

そして、神田川沿いの佐久間河岸に昭和初期ごろまで並んでいたのが、
「神田川と唱うれば米穀問屋の代名詞の如く」
といわれた90軒ほどの米問屋の倉庫群でした。

中でもすごいのが渋沢栄一の倉庫で、数百万俵積まれていたそうです。
そういう中で神田川徳蔵は「飯定組」の一員として働いていたわけです。

神田川米穀市場にて「米俵の片手差し」を披露する徳蔵。
優勝カップと俵上げ

後ろで見ているのは「飯定組」一の子分、神田川(羽部)重吉です。
  ※これは大正8年、このとき徳蔵28歳と判明。

文字の解読や人物特定をお願いしている埼玉の研究者・斎藤氏から、
「重吉は草鞋(わらじ)だが、徳蔵はブーツを履いている」と。

ホントだ!

で、どうです、徳蔵のこの清々しい
米俵1俵など軽々ですね。
後方で「おっ、やるじゃないか」と見ている重吉さんもいい顔しています。

優勝カップと俵上げ (3)

こうした若者たちの活気に満ちた市場でしたが、
昭和4年(1929)、神田川米穀市場は深川正米市場と合併。
さらに戦時下に入ると米が配給制度となり、
ついに昭和14年(1939)、米穀取引所は廃止、翌年解散してしまいます。

市場解散後の「飯定組」は、日本通運などの嘱託になったそうですが、
こちらは解散前の市場前の写真でしょうか。
マッチョな3人組です。

tokuzou_juukiti_itirou.jpg

写真提供者で縁者のEさんは、「左から徳蔵、重吉、一郎」としていますが、
斎藤氏は私見として、

重吉は他の人ではないか
他の写真の重吉はもう少し大柄で容貌も違うが、如何なものか。
筋肉の付き方から、右の一郎のウエイトリフティングの仲間か、と」

  ※真ん中の人物については=追記=参照。

この一郎青年というのは定次郎の孫で、
日本で初めてバーベルを作ったとされる人物です。
これについてはのちに詳しくご紹介いたします。しばらくのお待ちを。

で、写真ですが、
そういえば前々回の定次郎、徳蔵、重吉の3人で写した写真、
確かに重吉さんはもっと背が高かった。

でも、うーん、こればっかりは、なんともいえません。

この写真を見て、「あ、これ、うちのひいじいちゃんだ!」
なァ~んてお知らせいただいたら、また一つ面白い展開になるのですが…。


<つづく>

  =追記=

縁者のEさんからメールです。
「斎藤氏はすごい。
俵上げの徳蔵の後ろの人が重吉だったとは気が付きませんでした。
いろいろ探したら裏書が見つかりました。
大正八年 二十八歳とありました。
また、3人が写っている写真の真ん中は「若木竹丸」ではないかと、
姉から連絡が入りました」

  =注=
若木竹丸/怪力として知られた人。
この写真の徳蔵、竹丸、一郎の3人は、
昭和7年12月、朝鮮中央体育研究所の招待で、
ウエイトリフティング大会に出場しています。この件ものちに詳述します。

プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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