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お幾(き)んさんとお千代さん

神田川徳蔵物語
06 /28 2017
荷役・運送業の「飯定(いいさだ)組」の親方、飯田定次郎
力自慢の血気盛んな若者たちを束ねるには、
それなりの押しの強さと器量、技量がなければ務まりません。

そんな剛腕の男の元に嫁いだのが武士の娘だった「お幾(き)」さんです。

徳川さまの家臣だった「幾ん」の父親は、幕末の上野の戦争のあと、
妻と幼い幾ん姉妹の3人を、当時私塾を開いていた妻の兄に預けて、

「自分は殿さまと一緒に品川から船に乗って行く」

と言い残して黒門町の家を出たという。

これが慶喜公を守って静岡へ行ったということだったのか、
それとも、新政府樹立のため函館へ向けて出航した
榎本武揚率いる艦隊のことだったのかはわかりません。

どちらにせよ、父親の消息はそのままぷっつり途絶えたそうです。

函館戦争で討死したのか、はたまた静岡の清水湊に停泊中、
官軍の襲撃を受けた咸臨丸の犠牲者の中にいたのかもわかりません。

わずか三歳で父を失い、他の幕臣の娘たち同様、
苦労の多い人生を歩いて来たお幾んさんは、孫たちにいつも、
「赤毛(官軍)は悪いやつだ」と言っていたそうです。

そんなお幾んさん、定次郎との間に1男5女(二女は夭折)を授かります。

定次郎と娘たち
※下の写真について、先に大正末ごろの写真でしょうかと書きましたが、
  縁者で情報提供者のEさんから、
  「昭和八年一月十五日撮影とあります」とお知らせいただきました。
  左の二人は、お正月なので日本髪に結ったのですね。

s080115_iisada_musume.jpg

前列中央が飯田定次郎。向かって右が長女
父親の定次郎さんは、この長女を一番頼りにしていたのかも。
左端の女性は不詳。

後列向かって左から長男の妻、四女、三女、
そして右端の人物が今回の主人公・徳蔵の妻、五女お千代さんです。

4人の娘さんはみなさん、母・お幾んさんの優しさ、たおやかさ、
それに、徳川家と運命を共にした
武士の娘としての凛とした姿を受け継いでいらっしゃいますね。

子福者となった定次郎は、組同様、家庭をもがっちり支配して、
一家の主として君臨し、一族の結束を固めます。

「子供たちの結婚は父親の定次郎によってすべて決められた」
とひ孫のEさん。

しかしただ一人、自分の意志を貫いた「強い」娘がいました。
末っ子の五女、お千代さんです。

お千代さん、気性だけではなく、お顔まで父親にそっくり。

普段は荒くれ男たちに睨みを利かせている定次郎父さん、
愛娘たちに囲まれて照れくさかったのか、
威厳のあるお顔はそのままでも、膝の上の手が定まらず、

阿弥陀様になっちゃってます。


<つづく>
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渋い男たち

神田川徳蔵物語
06 /24 2017
神田川

東京都下・三鷹市の井之頭池に源を発し、都心を流れ下り、
やがて隅田川に合流する一級河川。

ひと昔前の若者なら、
かぐや姫のフォークソング「神田川」を思い浮かべるかもしれませんね。

ベトナム戦争の頃、
ジョーン・バエズが「ドナドナ」や「朝日のあたる家」を歌って世界中を魅了した。
同じころ、かぐや姫の「神田川」も大ヒットした。

でも、私はこれ、きらいだった。
「♪小さな石鹸カタカタ鳴らし」
ヒャー、しみったれてる。

「銭湯から一緒に出ようねと言ったのに、いつも私は待たされた」だって?
女を待たせて長風呂たァ、ヤな男だねえ。
「♪あなたは私の身体を抱いて、冷たいねと言った」?
言う方も言われる方も、どっちもアホじゃね? 

てなわけで、私はこのわざとらしさが鼻について敬遠してたけど、
でもそれもまた、「あのころの私は若かった」せいかもしれませんね。

歌詞には「三畳一間の小さな下宿の、窓の下には神田川」とあります。

でも、神田川を舞台にした神田川徳蔵の物語は、
そんなチマチマした、甘ったれた物語ではありません。
真の男の豪快なお話です。

かつて神田・佐久間河岸にあった「神田川米穀市場」
その市場に「飯定組」という、
荷役「陸仲士(おかなかし)を業とした組がありました。

写真中央がその「飯定組」の親分、飯田定次郎です。
今回、貴重な情報をお寄せくださった方は、
この定次郎のひ孫にあたる方です。

法被に革靴。めかし込んでます。靴、ピカピカです。

より神田川徳蔵孫

写真向かって左側は「飯定組」の一の子分、羽部重吉です。
この重吉はいくつかの力石に名を残しています。

そして写真右側が今回の主人公、神田川徳蔵(本名・飯田)です。

徳蔵は定次郎の五女・千代の入り婿で、「飯定組」の後継者。

旧姓「佐納徳蔵」。
明治24年生まれ。茨城県那珂湊出身。

どうです、このお三方。
ビシッと伸ばした背筋。一分の隙もない面構え。
それでいて、柔和な表情をたたえている。

粋でいなせで、芯の強さと誇りを秘めた渋い男たち。

男がしびれ、女が惚れる、
忘れられた日本の男の姿そのものではありませんか。

<つづく>

心、しずめて…

神田川徳蔵物語
06 /19 2017
今年2月、思いがけないメールをいただきました。

明治後期から昭和初期まで活躍した力持ち界の雄、
神田川(飯田)徳蔵氏。

メールはそのごく近しい縁者の方からでした。

もうこれだけでもびっくり。
私、興奮しました。
だってこんなことめったにない、というか、まずありませんから。

そして先ごろ、たくさんの写真を送って下さった。
第一級の資料です。

神田川徳蔵という人はただの力持ちではないんです。
東京の力持ち界をリードした男。
日本のウエイトリフティングの草分け。
そして、千社札の常連という趣味人

私はこの貴重なお宝を前にして、
正直、どこから手をつけていいか悩みました。

さあ、どこから「料理」していくか。
と思案の末、迷った時は台所へ、といういつものパターンで、
この日は、朝から晩まで無心で料理に没頭しました。

まずは甘夏みかんでマーマレード作り。

CIMG3791.jpg

皮も実も全部入れて、グツグツ。
全部で甘夏4個分。
つきっきりで鍋をかき混ぜて、大量のマーマレードの出来上がり。

次なるは夏みかんのピール作りです。
二日ほど前に作っておいたものをこの日、強風に晒して乾燥。
うまく乾燥できました。
グラニュー糖をまぶして完成です。

CIMG3794.jpg

ほろ苦いからそんなに食べられません。
ブランデーをふりかけて冷凍庫へ。

夜になりました。
今度は餃子作りです。

ジャンボ餃子30個
普通サイズなら60個分ぐらいでしょうか。

先日、職場の施設利用者の料理の先生からお聞きしたのですが、
中国では水餃子ばかりで焼き餃子は日本独自のものとか。
それで中国では皮はごはん、中身がおかず感覚で、
金持ちは中身に肉をたくさん入れ、貧乏人は野菜を入れるのだそうです。

この料理教室の生徒さん、男性ばかりなんです。
始めのころは奥さんのエプロンをぎこちなく体に巻きつけて、
手元もおぼつかなかったのですが、今は自分専用のエプロン。
料理の味も手際もすばらしく上達しました。

私、この男の手料理、毎回、ごちそうになっています。
頭にバンダナ、エプロン姿の壮年男性が、お盆にご馳走を並べて、
「はい、お待ちどうさま」と部屋へ持ってきてくださる。
よそ様の御主人方からの「上げ膳据え膳」です。

おいしいで~す!

さてさて、ジャンボ餃子が出来上がりました。
大きいから一度に3個ぐらいしか食べられません。
冷凍にしてちょこちょこ食べていきます。

CIMG3795.jpg

気が付いたら時計は午前0時。
ゆっくりお茶を飲みながら考えました。

「幸さま」ひと筋の日々から一転、「徳さま」ひと筋へと心変わり。

でも、いつものひらめきが今ひとつ。
うまく書けるか不安が頭をもたげますが、

やるっきゃない!

そんなわけで、次回から「神田川徳蔵物語」、始めます。

立派に保存されました

みなさまからの力石
06 /15 2017
このブログをお読みくださっている方々から、
「力石、ありましたよ」との情報をいただくことが多くなりました。

本当にありがたい。

友人たちから、「観光で神社へ行くと、つい力石を探してしまう」と言われました。
シメシメと、私はほくそ笑んでおります。

またご自分のブログに、
行った先々で見かけた力石をアップしてくださる方も増えました。

中でもダントツなのは、東京都とその周辺を中心に、
見過ごしがちな路傍の遺物を丹念に訪ねて歩かれている
ブログ「路傍学会」の路傍学会長さんです。

関東大震災をくぐり抜けてきたレンガの塀
昭和8年の国旗掲揚塔にはめ込まれた在郷軍人会の徽章
吐水口がゆかりの梅の花になっていた天神様の手水鉢。
琺瑯(ほうろう)製の古い看板や住居表示などなど。

特に目を引くのは、
青面金剛像のさまざまな表情を丁寧に調査されていることです。
そして、
行く先々で見かけた力石もたくさん紹介してくださっている。

今回、ご了解をいただきましたので、そんな一つをご紹介します。

2屋敷神
東京都江戸川区松本1 個人宅  路傍学会長さん撮影

この写真は会長さんが2016年に撮影したものですが、
石の置かれた状況は、以前はこんな立派ではなかったのです。

順を追って説明します。

1999年「江戸川区の力石」(鷹野虎四)には、
9個確認されていたようですが、 
2003年「東京の力石」(高島愼助 岩田書院)では、
9個のうち2個不明で7個確認。

以下は2003年当時の記録です。

① 「さし石 大玉子石」  37余×38×31㎝

② 「七十五メ 本一色邑 無題 亀楽 金平 若□ 覚藤 
   元飯田町
 □□ 司」  55余×50×38㎝ 

「さし石 松本 平助」  55×40×35㎝
 
ほか無記銘の石4個。

そして2016年の路傍学会長さんの写真には4個写っています。
9個から7個、そして4個に減ってしまった。
でももしかしたら、裏側に並べてあるのかもしれません。

再調査してみなければなんともいえません。

さて、2003年当時はどんな状況だったかというと、

こんな感じ
2個見えていますが、ちょっと悲しい状況ですね。
img079 (2)
「東京の力石」より
 
ここにもありましたが…
あらら、植木鉢の置台になっちゃってます。

でもこの状態、わかる気がします。

だってご子孫の方にしてみたら、
わけのわからない、ただの邪魔な石でしかないわけだし。
でもそうかといって、
ご先祖が大事にしていたものだから捨てるわけにもいかないし。

img079.jpg

こちらは同じ番地の別のお宅の力石です。
このお宅は、一之江新田開発の旧家で、
2003年当時のご当主は18代目とのこと。

img079 (3)
80余×54×20㎝

「不老石 □□□□ 五郎 久蔵 金蔵 金助」

1999年当時は3個確認できたそうですが、2003年にはこれ1個だけ。
この石は藁打ち台に使い、別の1個は大黒柱の土台石にしたそうです。

昔、深川の洲崎遊郭力持ち大会があったとき、
この家の人が参加して見事に持ち上げた。
その褒美として石とお金をもらい船で運んできた。
それがこの石の由来です。

当時のご主人は、
「石の平蔵」の異名を持つ亀嶋平蔵などと親交があったそうですから、
かなりの力持ちだったのではないでしょうか。

丈が80余㎝もあるこの「不老石」
最後の調査からすでに14年。今、どうなっているのか気になります。

さて
先にご紹介した植木鉢の土台になっていた石、その後どうなったかというと、
立派に保存してくださっていました。
それが路傍学会長さんの写真で判明したのです。

本当に嬉しい。少々数が減ろうとも、持ち主の方に感謝です。

だってほとんどの力石はこの逆で、
放置され土に埋もれ忘れられていくという寂しい結末が多いのですから。

どうですか
赤い鳥居に屋敷神の祠。その土台を支えるように並んだ力石。

になります。美しいです。
これぞ日本の風景。 やすらぎを覚えます。

1屋敷神
路傍学会長さん撮影

会長さん、ブログでこんな感想を漏らしておりました。

千葉街道に面した場所で、フェンス越しに見つけました。
個人宅屋敷神に力石が奉納されているのも初めて見ました。
これも街歩きの楽しみであり、路傍学会の興味は尽きない」

出ましたね!
「路傍学会の興味は尽きない」

これ、会長さんの口ぐせ、ですよね!

藤間諏訪神社の力石

みなさまからの力石
06 /11 2017
ブログ「山の彼方に」安田和弘さんから力石の情報です。

安田さんは経験豊富な山のベテランで、難度の高い山歩きをされています。
しかしブログの山行記録は、居ながらにして、
どなたをも難なく山の頂へ連れて行ってくださるように書かれています。

素人の私などがとうてい目にすることができない写真がたくさん出てきます。
ぜひブログへ訪問してくださり、
安田さんと一緒に山歩きを楽しんでいただきたいと思います。

このたびお寄せいただいた川越市・藤間諏訪神社の力石は、
すでに「埼玉の力石」(高島愼助 岩田書院 2007)に掲載済みですが、
なにしろ、
確認された力石が約2600個という日本最多の数を誇る埼玉県ですから、
写真もモノクロで小さくしか載せられませんでした。

そこで、
地元の方が鮮明に写した力石と地元の方ならではのお話をぜひお聞きください。

2個あります。
安田力石の位置_4906
埼玉県川越市藤間346・藤間諏訪神社

「地元のお祭りで神社の掃除と後片付けに行ったとき見つけました。
子供のころ遊んだ場所ですが、半世紀以上、気が付きませんでした」

「そのころ、うちのじいちゃん、大関だったという友達がいました。
相撲の大関とは思えないし、ひょっとして力持ちの大関だったのか?」

一つ目がこちら。
安田藤間諏訪神社力石Ⅰ_4902
55×40×27㎝

  「三十六メ目 氏子中」

「このあたりは鉄道が敷かれる前は、
新河岸川の舟運が盛んなところだったそうです。
力石はその当時のものと思われます」

「子どものころは神社の下まで川が流れ、その上流は掘割りになっていました。
今はすっかり暗渠になって、周辺は住宅が立ち並んでいます」

二つ目の力石はこちらです。
安田藤間諏訪神社力石Ⅱ_4905
59×41×31㎝

   「四十二メ目 氏子中」

「今は境内の片隅に置かれている力石ですが、氏子の役員の方に話して、
解説板とはいかないまでも存在のわかるようなものを立ててもらおうかな、と」

「力石をちょっと試してみましたがビクともしません。
非力な私、
当時、生まれていなくてよかった!

安田さん、悲観することはありませんよ。
36貫目は135㎏、42貫目は157㎏もあるんですから。
これは重量挙げ56㎏級や62㎏級のスナッチなら、
オリンピック優勝の重さですから。

安田さんは先ごろ、静岡の山へも来てくださったんです。
「大谷嶺」(おおやれい)にも足を運んでくださったとか。

この山には日本三大崩れの一つ、「大谷崩れ」があります。
作家の幸田文はここへ来て、その壮絶な崩れに圧倒され、
随筆「崩れ」を書きました。

下の写真は大谷崩れを歩く30代後半ごろの私。
いつまでたっても実力の伴わない山おばさん時代です。
改めて見たらすごいヘヤスタイルで自分でも驚きました。

img078.jpg
これはNHKの雑誌のグラビア撮影での一枚です。

安田さん、また静岡の山へお越しくださいね。

また、ブログをお読みくださっているみなさまも、
力石の情報、ぜひ、お寄せ下さい。

ほんに憎い男

柴田幸次郎を追う
06 /07 2017
隅田川河畔にあったという薬研堀(やげんぼり)。
その人工の掘割りに掛かっていた「元柳橋」
そこから見える両国橋は、
絵師の題材や異人さんたちの格好の撮影ポイントになった。

その元柳橋の両端には「女の髪を振り乱すがごとく」
勢いよく葉を茂らせた二本の柳の木があって、夫婦柳と呼ばれていた。

img077 (2)
「柳橋新誌・初編」(成島柳北 安政6年)より

そしていつしか柳は一本だけになった。
だが、その傍らにはいつのころ置かれたのか誰も知らない
「大王石」と刻まれた力石があった。

この大王石に関する情報は、たった2件しか得られませんでした。
地団駄踏んでもでんぐり返ってもそれだけ…。

その2件というのがこちら。
大正2年(1913)に没したおもちゃ博士の清水晴風と、
昭和5年(1930)に没した江戸和竿師の中根忠吉です。

二人とも、「元柳橋の大王石」と証言したものの、
晴風はこれを持った力持ちを「柴田勝蔵」といい、
忠吉は「柴田幸次郎」と書き残している。

困るんだよなあ、はっきりしてくれなきゃ。

とまあ、いきり立っても仕方がない。
柳ついでにこんなものをお見せします。
私が住む静岡市の駿府城公園です。

CIMG3660.jpg
このときはまだ芽吹き前でしたが、柳はお日さまが大好きな陽樹だそうです。

で、これはただの柳ではありません。
なんと、東京・銀座の柳の二世なんですって。

CIMG3659.jpg

さて、大王石を追いかけているうちに、
それを持ったとされた柴田幸次郎から、
思いがけず幕末の外国奉行柴田剛中へ行きつき、
それをきっかけに、幕末・明治維新へと踏み込んでしまいました。

幕府崩壊で人生が一変した旧幕臣たちの哀しく悲惨な姿も垣間見ました。
奥勤めだった大名が深編み笠で顔を隠し、
着たきり雀の紋付の着物でムシロに座って物乞いに落ちぶれていた、
そんな姿も…。

「柳橋新誌」の著者で元・奥儒者だった成島柳北(なるしまりゅうほく)は、
新政府からの士官の誘いを断って野に下り「朝野新聞」を創刊。
政府の「言論取締法」を批判して監獄に4か月、罰金100円を課せられた。

「衣解き、ふんどしを脱して(すっ裸で)獄吏の検査を受く。
幽室に鎖さるる。厳寒の身にせまるや。
身に伴うものはただ糞・痰つぼの二物のみ。
豈、馬鹿馬鹿しからずや」

獄吏は成り上がりの薩摩藩士。
さまざまないやがらせを仕掛けてきた

明治政府は「讒謗律(ざんぼうりつ)」「新聞紙条例」を作って言論弾圧を強め、
政府批判をした者や批判者を擁護した者を容赦なく監獄へぶち込んだ。

柳北が投獄されたとき、30名ほどの記者が牢獄につながれていたという。
それでも言いたいことは言う。
明治のジャーナリストたちはなかなかが据わっていた。

成島柳北です。享年48歳。
北成島柳

奥医師・桂川甫周の娘の今泉みねさんは、著書で柳北のことを、
「お顔の長い方でしたから、何となくお馬さんの感じがした」
と書いていますが、確かに。

そんな柳北さん、著書「柳橋新誌(りゅうきょうしんし)・二編」の中で、
「新しい権力者になった薩長の田舎侍たちが金と権力を振りかざして、
慣れない花柳界で遊び狂う様子」を嘲笑っています。

で、入獄したのは、柳北や新聞記者ばかりではなかった。
画鬼といわれた天才画家・河鍋暁斎もまた諷刺画を描いて手錠をかけられ、
「元柳橋両国遠景」を描いた小林清親は、
薩長政府を諷刺したポンチ絵を連載して官憲から睨まれた。

清親自身は逮捕は免れたものの、
掲載誌の「團團珍聞(まるまるちんぶん)は、
社長のたびたびの入獄や罰金、発行禁止を食らった。

「元柳橋両国遠景」小林清親
0421-C069 (7)

それはともかく、清親のこの絵、気になりますねえ。

「髪振り乱すがごとく」萌え盛る柳の木。その根元に置かれた大王石。
この柳の(胸騒ぎ)と力石の(沈黙)、暗示的です。

清親研究者の評論を読んでも、どなたもこの石のことには触れていません。
私は全くの素人ですが、この石の存在は大変重要で、
この激しく感情をあらわにした柳だけでは、この絵は成り立たないのでは?

清親がこの絵を描いた当時、このあたりはゴミゴミしていた。
そういう余計なものをきれいに取り払い、
柳と力石だけを残してそこに訳ありげな男女を配置した。
柳と石はこの二人の心象風景と言ったら言い過ぎでしょうか。

どうなんでしょう、清親研究者さんたち。

屁理屈はさておき、絵の続きをもう少し。

遠くに霞む両国橋。
ちょき船もやう朝霞の岸辺に誰かを待つように佇む着流しの男
そこへ粋な姐さんが声をひそめて、
「もし、幸次郎さん」

てなわけ、ないよなあ…。

そうそう。
反骨の人・成島柳北の甥の子供って、俳優の故・森繁久彌さんなんですって。

話が逸れました。

3年かけて追い続けた大王石と柴田幸次郎ですが、
いつまでたっても、

    幕末の元柳橋隅田川
           大王石は古写真の中


というわけで、その行方は杳(よう)と知れず。
そこで、いろいろ考えました。

この大王石の情報を残した晴風と忠吉は共に幕末生まれですから、
文化文政期に活躍した勝次郎(勝蔵?)やそのころいたらしい幸次郎の力技を、
実際見たわけではない

しかし伝聞であれ、
忠吉さんが「鬼勝」ではなく「鬼幸」と記憶していたことから、
勝次郎を幸次郎と聞き間違えたとは思えない。だから幸次郎は存在していたはず。

また、勝蔵か勝次郎かの問題にしても、
大阪へ力持ち興行に出掛けたのは勝次郎であることを
番付が証明していますから、晴風が「勝蔵」と書き残したのは、
晴風の単なる勘違いではないだろうか。

だとしても、一つ疑問が残ります。

「大王石」に刻まれた文字の書体が、
勝次郎が残したほかの石の文字とも、
もう一人の神田の力持ち、柴田四郎右衛門の石とも違うのです。

そこで私はこう推理しました。

この大王石は初め柴田幸次郎が差し、記念に「大王石」と刻字した。
それをのちに勝次郎が差し上げた。
勝次郎の死後、この石に挑戦する者はなく、
長い年月、元柳橋の柳の木の下に置かれていた。

そして明治36年の薬研掘の埋め立ての折り、そこに埋められてしまった。

新事実が出てこない限り、「ハイ、それまでよ」というわけで、
話の種が尽きました。

赤丸のところに、かつて元柳橋と柳の木と大王石があった。
img635 (3)
東京都中央区東日本橋

下の写真は上の地図と同じ場所です。
星マークのあたりに大王石が埋まっている、かも。
で、よくよく見たら、
日本橋中学校寄りに柳の木が一本、恨めし気に立っているではありませんか。
うーむ。因縁を感じます。

斎藤元柳橋あたり
斎藤氏撮影

モシ、幸さま。
ぬしはとうとう姿を見せなんだ。

ほんに憎い男じゃわいなァ
 
   チョーーーン

<幕>

龍の子は亀?!

柴田幸次郎を追う
06 /03 2017
今回は「亀」のお話です。

清水晴風が「神田の力持ち三傑」の一人と認めた米搗き屋の柴田勝蔵は、
群馬県と都内に4個の力石を残した柴田勝次郎に違いない、
という設定で話を進めます。

この勝次郎は、
子分に紋次郎、吉五郎、文八などを従えた「柴田連」のリーダーでした。
その「柴田連中」が差し上げた石の中に「亀」文字の力石が二つあります。

一つはこちら、「小亀石」です。
浅草・待乳山聖天1 (3)
東京都台東区浅草・待乳山聖天 70余×50×20㎝ 斎藤氏撮影

「小亀石 文政十歳 柴田連中」

この力石は、
埼玉県の研究者・斎藤氏が2010年12月25日に新発見したものです。
12月25日といえば巷ではクリスマス。
最近は私の住む田舎でも個人のお宅のイルミネーションが凄い。

私はそんな「誘蛾灯」に幻惑されて石探しを休み、
有名な光の回廊なるものに泊まりがけで3年も続けて出かけましたが、

CIMG1218.jpg

斎藤氏は違います。
光りの届かない路地から路地、古びたお堂や昔の街道、船着場の跡などを、
ポタリングや徒歩で地道に調査。
その結果が668個もの力石を新発見したという偉業です。
なにしろ、昨年10か月間だけでも、24個も見つけているのですから。

その24個の中に、先日ご紹介した隅田川河畔の「石庭の力石」や、
寿司屋さんの「廿六メ目」が入っています。

中でも特筆すべき発見がこれ、「大亀石」です。
CIMG0802 (5)
台東区浅草・浅草寺 86×48×35㎝ 

この石の刻字は、今まで「大亀石」のほかは判読不能とされてきましたが、
斎藤氏は誰にもできなかった文字の判読に成功
なんと、これ、柴田勝次郎の力石だったのです。

「大亀石 文政九 戌 歳 柴田勝治郎□」

石には所有者もいますし、重いから動かして調べるわけにもいきません。
何度も通い指でなぞり、可能な限り写真に撮って判読に挑戦。
ついに、「大亀石」と「勝次郎」とを明らかにした、というわけです。

さて、この「亀」文字です。
形状が亀に似ているから小さい石を「小亀」、大きいのを「大亀」とした、
初めはそんなふうに考えていました。

でも実際には「小亀」と刻まれていても「大亀石」より大きいものもあります。
勝次郎の「小亀石」もかなりの大きさですし、刻まれた文字からも
この石には特別な意志が込められているようにも思えます。

「亀」という文字をなぜ好んで使ったのか。

石に限らず昔から、大きな亀は「霊亀」といわれ、
特に大切に扱われてきた。そのことが引っかかりました。

こちらは「霊亀石」と呼ばれる手水石です。
享保18年(1733)、漁師たちが霊亀の導きで海中から引き揚げたものとか。

手水石の縁の穴は「盃状穴」(はいじょうけつ)といいます。
「霊亀」の力にあやかろうと、小石で根気よくこすって穿った願掛けの穴です。

 CIMG1033~1 (2)
神奈川県川崎市・石観音堂

ついでに、この石観音堂の力石をお見せします。

CIMG1021 (3)

「亀の碑と正統」(平勢隆郎 白帝社 2004)という本を読みました。

みなさんは巨大な亀の背中に石柱をのせた碑を見たことはありませんか?
これ、「亀趺碑(きふひ)というのだそうです。

私がこの「亀趺碑」を初めて見たのは20年ほど前。
会津若松市の会津藩松平家墓域でのことでした。

そのときの写真、探せど見つからず。
チョンマゲつけた城のガイドのおじさんとのツーショットもあったのに。
で、「亀の碑と正統」からお借りしました。

こんな感じのものです。
img035.jpg
鳥取県岩美郡国府町・池田光仲墓石。

会津で私は、
巨大な亀の背中にこれまた見上げるように建つ巨碑に度肝を抜かれました。
もうホントに異様
そんな「亀趺碑」が山全体に林立していたのです。

勝次郎の「大亀石」を見たとき、ふと、その会津藩の亀趺碑が甦りました。

「亀の碑と正統」によると、「亀趺碑」は古く中国から起こったそうです。
こんな伝説があるそうです。

がたくさんの子供を産んだ。
龍の子供なのに龍にならずみんな亀になった。
中でも、最後に生まれた子はただの亀ではなかった。
贔屓(ひいき)という大亀(霊亀)で、
この大亀は重いものを好んで背負った。

が碑を背負う「龍趺碑」は親の皇帝だけが許されるもので、
だから、その子供たちはみな「亀趺碑」を建てた。
「亀趺碑」の亀の顔に牙や角が付いたものがあるのは、
親が龍だからなんだそうです。

これが朝鮮半島から日本へ伝わったというのです。

こちらは「亀」文字が刻まれた力石です。

鬼熊川崎平次郎が持った「大亀石」と奥戸村伊勢が持った「大亀」
img034.jpg img033.jpg
川崎市幸区・壽福寺 110×80×20㎝  葛飾区奥戸・天祖神社 64×61×30㎝

またこんな話も…。

中国、漢代の墓から出土した帛画(絹織物に描いた絵)に、
「水に浮かんだ大地力士が支え水際にがいる」

そんな絵が描かれていた。
これがのちに、力士の代わりに亀が大地を支える構図に変わったという。

ひるがえって力石をながめてみると、
石銘には中国の故事から命名したものが少なからずあります。

「龍」「虎」「鳳凰」「玄武(亀)」なども多いのですが、
これらは単に「勇猛」を強調しただけとはいえないような気がします。
東西南北を守る四神の青竜、白虎、玄武、朱雀になぞらえたのでは、
と、私は思っているのです。

漢の遺跡から出た帛画の「大地を支える力士」を、
江戸っ子力持ちに置き換えてみると、壮大な気分になります。

「大亀」を両手で差している土橋久太郎です。

勝次郎15065487-s (6)

彼ら力持ち力士は、大地を支えているという「大亀」を、
その大亀ごと大地を支え持つように、好んで空高く差しあげた。

勝次郎の「大亀石」も、鬼熊や平次郎や伊勢、
それに、大阪での興行で土橋久太郎が差し上げた「大亀」も、
龍の子供の贔屓(霊亀)であった、と私は思いたい。

コジツケ過ぎでしょうか。


  =ちょっと一言=

最近、ヤフオクに清水晴風こと「筋違車半」が載った
明治23年の「力持番付表」が出品されたそうです。
斎藤氏が気づいたときはすでに落札されたあと。

「逃がした魚は大き過ぎる」と斎藤氏、悔やむことしきり。

どなたが落札したんだろう。
なにはともあれ、力持ちに興味がある方がいたなんて嬉しいです。
私のこのブログもお読み下さっていたなら、なお嬉しい。

<つづく>

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞