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やっぱり勝次郎だよなァ

柴田幸次郎を追う
05 /23 2017
明治維新前の神田の力持ちの一人、米搗き屋の「柴田勝蔵」は、
「柴勝」と呼ばれていたと晴風はいった。

そんなトンカツ屋もどきの俗称ではなく、
鬼熊や鬼幸のようにを冠してほしかった、と私は思うのです。

戦国時代の武将・柴田勝家はその猛将ぶりから「鬼柴田」と呼ばれ、
明治・大正の時代になっても「英雄史談」や児童読み物になって登場した。

やっぱり「鬼」でなくちゃ。

晴風さんは言及していませんが、神田にはもう一人、有名な力持ちがいた。
1丁目の「勝蔵」のお隣、2丁目の柴田四郎右衛門です。

こちらがその四郎右衛門が持った力石です。=有形民俗文化財=
CIMG0811 (4)
東京都千代田区外神田・神田神社  110余×73×32㎝

「奉納 大磐石 神田仲町二丁目 
 柴田四郎右衛門持之 文政五年壬午三月吉日」

四郎右衛門も幸次郎同様、
この石一つだけ残して、忽然と消えてしまいました。

そして、この四郎右衛門と同じ文政期に神田を拠点に活動していたのが、
前回ご紹介した「柴田勝次郎」です。

勝次郎は「柴田連中」のリーダーとして活躍し、
群馬県桐生市に1個、都内に3個、力石を残しています。
詳細は2016年9月1日、3日のブログ記事をご覧ください。

四郎右衛門もこの柴田一門の一人かと思いましたが、
現在のところ確認できておりません。

さて、勝次郎です
文政8年、勝次郎は芝の魚屋の土橋久太郎に率いられて、
大阪・難波新地へ力持ち興行に出かけます。

そのときの絵です。演目を書いた引札(チラシ)は前回、お見せしました。
勝次郎15065487-s (4)
国広画  日本芸術文化振興会蔵

「男山」のこもかぶりを担いでいるのが美男の木村与五郎、
その隣で、「大亀」の石を「両手差し」しているのが土橋久太郎です。

そして我らが柴田勝次郎は、こちらです。
尻出して、あられもない姿で臼を「足差し」しています。

勝次郎15065487-s (5)

晴風さんが言った「柴田勝蔵」は、
やっぱりこの男、勝次郎ではないのかなあ。

<つづく>
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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞