やっぱり勝次郎だよなァ
柴田幸次郎を追う
明治維新前の神田の力持ちの一人、米搗き屋の「柴田勝蔵」は、
「柴勝」と呼ばれていたと晴風はいった。
そんなトンカツ屋もどきの俗称ではなく、
鬼熊や鬼幸のように鬼を冠してほしかった、と私は思うのです。
戦国時代の武将・柴田勝家はその猛将ぶりから「鬼柴田」と呼ばれ、
明治・大正の時代になっても「英雄史談」や児童読み物になって登場した。
やっぱり「鬼」でなくちゃ。
晴風さんは言及していませんが、神田にはもう一人、有名な力持ちがいた。
1丁目の「勝蔵」のお隣、2丁目の柴田四郎右衛門です。
こちらがその四郎右衛門が持った力石です。=有形民俗文化財=

東京都千代田区外神田・神田神社 110余×73×32㎝
「奉納 大磐石 神田仲町二丁目
柴田四郎右衛門持之 文政五年壬午三月吉日」
四郎右衛門も幸次郎同様、
この石一つだけ残して、忽然と消えてしまいました。
そして、この四郎右衛門と同じ文政期に神田を拠点に活動していたのが、
前回ご紹介した「柴田勝次郎」です。
勝次郎は「柴田連中」のリーダーとして活躍し、
群馬県桐生市に1個、都内に3個、力石を残しています。
詳細は2016年9月1日、3日のブログ記事をご覧ください。
四郎右衛門もこの柴田一門の一人かと思いましたが、
現在のところ確認できておりません。
さて、勝次郎です。
文政8年、勝次郎は芝の魚屋の土橋久太郎に率いられて、
大阪・難波新地へ力持ち興行に出かけます。
そのときの絵です。演目を書いた引札(チラシ)は前回、お見せしました。

国広画 日本芸術文化振興会蔵
「男山」のこもかぶりを担いでいるのが美男の木村与五郎、
その隣で、「大亀」の石を「両手差し」しているのが土橋久太郎です。
そして我らが柴田勝次郎は、こちらです。
尻出して、あられもない姿で臼を「足差し」しています。

晴風さんが言った「柴田勝蔵」は、
やっぱりこの男、勝次郎ではないのかなあ。
<つづく>
「柴勝」と呼ばれていたと晴風はいった。
そんなトンカツ屋もどきの俗称ではなく、
鬼熊や鬼幸のように鬼を冠してほしかった、と私は思うのです。
戦国時代の武将・柴田勝家はその猛将ぶりから「鬼柴田」と呼ばれ、
明治・大正の時代になっても「英雄史談」や児童読み物になって登場した。
やっぱり「鬼」でなくちゃ。
晴風さんは言及していませんが、神田にはもう一人、有名な力持ちがいた。
1丁目の「勝蔵」のお隣、2丁目の柴田四郎右衛門です。
こちらがその四郎右衛門が持った力石です。=有形民俗文化財=

東京都千代田区外神田・神田神社 110余×73×32㎝
「奉納 大磐石 神田仲町二丁目
柴田四郎右衛門持之 文政五年壬午三月吉日」
四郎右衛門も幸次郎同様、
この石一つだけ残して、忽然と消えてしまいました。
そして、この四郎右衛門と同じ文政期に神田を拠点に活動していたのが、
前回ご紹介した「柴田勝次郎」です。
勝次郎は「柴田連中」のリーダーとして活躍し、
群馬県桐生市に1個、都内に3個、力石を残しています。
詳細は2016年9月1日、3日のブログ記事をご覧ください。
四郎右衛門もこの柴田一門の一人かと思いましたが、
現在のところ確認できておりません。
さて、勝次郎です。
文政8年、勝次郎は芝の魚屋の土橋久太郎に率いられて、
大阪・難波新地へ力持ち興行に出かけます。
そのときの絵です。演目を書いた引札(チラシ)は前回、お見せしました。

国広画 日本芸術文化振興会蔵
「男山」のこもかぶりを担いでいるのが美男の木村与五郎、
その隣で、「大亀」の石を「両手差し」しているのが土橋久太郎です。
そして我らが柴田勝次郎は、こちらです。
尻出して、あられもない姿で臼を「足差し」しています。

晴風さんが言った「柴田勝蔵」は、
やっぱりこの男、勝次郎ではないのかなあ。
<つづく>
スポンサーサイト