ついに発見、でも…
柴田幸次郎を追う
風邪はピークを越え、思い出も「風邪とともに去りぬ」。
現実に戻って「大王石」です。
前々回、清水晴風が亡くなる間際に書き残した
「3人の神田の力持ち」のことをお話しました。
今回はいよいよ真打登場です。
それは神田仲町1丁目で米搗(つ)き屋をやっていた男でした。
米搗き屋というのは、玄米を搗いて白米にする商売です。
今でいう精米所。
地面に埋め込んだ臼に玄米を入れ、それを杵でついて精米したそうです。
米粒の表面を削り取る仕事で、当時はこれをすべて人力でやった。
力がないと成り立たない商売です。
だから搗き屋は大力持ち揃いで、ゆえに大飯食らいだった。
そこで江戸庶民はこんな川柳を詠んだ。
昼飯の搗き屋仁王を茹でたよう

狩野芳崖「仁王捉鬼図」 「三重の力石」高島愼助 三重大学出版会
狩野芳崖さんの名画と並べるなんて恐れ多いですが、
まあ、こうしてみると、真っ赤な仁王さんも力持ちも似てなくもないか。
地方で玄米や雑穀を食べていたとき、江戸では白米がもてはやされた。
それで多くの出稼ぎ人が米搗き屋となって江戸へやってきた。
出稼ぎは越後(新潟)や信濃(長野)からが多かったそうです。
で、こんな言葉が江戸で流行った。
「越後米搗き、能登三助」
神田仲町の米搗き屋は定住者のようでしたが、抜きん出た力持ちで、
晴風はこんなエピソードを紹介しています。
「米俵3俵を大八車ごと担いで運んだ」「両足で15俵もの米俵を差し挙げた」
柴田名の「千社札」です。

で、晴風は最後にこんなことを書き残しています。
「同人が足で差した三百貫の大王石は、両国元柳橋の川岸にあったが、
今は何れに運ばれたか解らなくなっている」
キター! 大王石に元柳橋! バッチリじゃないですか。
「竿忠の寝言」の忠吉さんに続いて二人目の証言です。
このことから、
同時期、晴風が朝倉無声に話した三百貫(実質150貫)の大王石は、
この元柳橋の大王石と同じ石であることが判明しました。
しかし、です。
本当ならここでめでたしめでたしになるはずだったんです。
でも、肝心の名前が、柴田幸次郎ではなかった。
柴田は柴田でも、柴田勝蔵。
初めて見る名前です。
「実に驚くべき大力で衆人を驚愕せしめたこの柴田勝蔵は、
俗に「柴勝」と呼ばれていた」というのです。
鬼柴田や鬼幸ではなく柴勝。
さらに晴風はこんなことも書いていた。
「この柴勝が力持ち興行に出たとき、
坂本辺の鳶の組合から贈り物をして景気を添えたそうである」
オイオイ、晴風さん、
力持ち興行に出掛けたのは、勝蔵ではなく柴田勝次郎ですよ。
大阪・難波新地で興行したときの引き札(チラシ)です。
赤丸に「柴田勝次郎」の名前があります。

まあねえ、あの江戸研究者の三田村鳶魚でも、
鬼熊の本名・熊治郎を「熊吉」と書いていましたから、
晴風がうっかり勝次郎を勝蔵としてしまったことは大いにあり得ます。
ですが「勘違い」という確証もありません。
せめて幸次郎のように「鬼柴田」と鬼を冠して呼ばれていたならまだしも、
「柴勝」ですからねぇ。
ただ姓と名を縮めただけですもん。
ちっとも強そうに見えないじゃないですか。
<つづく>
現実に戻って「大王石」です。
前々回、清水晴風が亡くなる間際に書き残した
「3人の神田の力持ち」のことをお話しました。
今回はいよいよ真打登場です。
それは神田仲町1丁目で米搗(つ)き屋をやっていた男でした。
米搗き屋というのは、玄米を搗いて白米にする商売です。
今でいう精米所。
地面に埋め込んだ臼に玄米を入れ、それを杵でついて精米したそうです。
米粒の表面を削り取る仕事で、当時はこれをすべて人力でやった。
力がないと成り立たない商売です。
だから搗き屋は大力持ち揃いで、ゆえに大飯食らいだった。
そこで江戸庶民はこんな川柳を詠んだ。
昼飯の搗き屋仁王を茹でたよう


狩野芳崖「仁王捉鬼図」 「三重の力石」高島愼助 三重大学出版会
狩野芳崖さんの名画と並べるなんて恐れ多いですが、
まあ、こうしてみると、真っ赤な仁王さんも力持ちも似てなくもないか。
地方で玄米や雑穀を食べていたとき、江戸では白米がもてはやされた。
それで多くの出稼ぎ人が米搗き屋となって江戸へやってきた。
出稼ぎは越後(新潟)や信濃(長野)からが多かったそうです。
で、こんな言葉が江戸で流行った。
「越後米搗き、能登三助」
神田仲町の米搗き屋は定住者のようでしたが、抜きん出た力持ちで、
晴風はこんなエピソードを紹介しています。
「米俵3俵を大八車ごと担いで運んだ」「両足で15俵もの米俵を差し挙げた」
柴田名の「千社札」です。

で、晴風は最後にこんなことを書き残しています。
「同人が足で差した三百貫の大王石は、両国元柳橋の川岸にあったが、
今は何れに運ばれたか解らなくなっている」
キター! 大王石に元柳橋! バッチリじゃないですか。
「竿忠の寝言」の忠吉さんに続いて二人目の証言です。
このことから、
同時期、晴風が朝倉無声に話した三百貫(実質150貫)の大王石は、
この元柳橋の大王石と同じ石であることが判明しました。
しかし、です。
本当ならここでめでたしめでたしになるはずだったんです。
でも、肝心の名前が、柴田幸次郎ではなかった。
柴田は柴田でも、柴田勝蔵。
初めて見る名前です。
「実に驚くべき大力で衆人を驚愕せしめたこの柴田勝蔵は、
俗に「柴勝」と呼ばれていた」というのです。
鬼柴田や鬼幸ではなく柴勝。
さらに晴風はこんなことも書いていた。
「この柴勝が力持ち興行に出たとき、
坂本辺の鳶の組合から贈り物をして景気を添えたそうである」
オイオイ、晴風さん、
力持ち興行に出掛けたのは、勝蔵ではなく柴田勝次郎ですよ。
大阪・難波新地で興行したときの引き札(チラシ)です。
赤丸に「柴田勝次郎」の名前があります。

まあねえ、あの江戸研究者の三田村鳶魚でも、
鬼熊の本名・熊治郎を「熊吉」と書いていましたから、
晴風がうっかり勝次郎を勝蔵としてしまったことは大いにあり得ます。
ですが「勘違い」という確証もありません。
せめて幸次郎のように「鬼柴田」と鬼を冠して呼ばれていたならまだしも、
「柴勝」ですからねぇ。
ただ姓と名を縮めただけですもん。
ちっとも強そうに見えないじゃないですか。
<つづく>
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