やっと会えた「力持の図」
柴田幸次郎を追う
4月15日のブログ記事「「追っかけ」やってます」に、
「木場名所図絵」の「力持の図」に句を添えた俳人のことを書きました。
これです。
さし石や遊びと見えぬ腕くらべ 茂丸
この句を詠んだ茂丸って誰だろう?
もしかしたら、
明治から昭和初期に暗躍?した政財界のフィクサー、杉山茂丸かも、
なぁ~んて思ったりしましたが、あえなく迷宮入り。
ま、取りあえず絵を見に行こうと思い立ち、静岡県立図書館へ。
県立図書館を通じて所有者の国立国会図書館より、
絵を送信していただくためです。
その絵がこれ。

「木場名所図絵」「腕くらべ」 国立国会図書館蔵
森田寛次郎・画 川部茶酔・解説 加藤真次郎・出版 昭和2年
本物はきれいな彩色がほどこされていたのですが、
残念ながら、モノクロのみ許可ということで…。
この絵には川部茶酔のこんな解説がありました。
「腕くらべ解説
日々商戦激甚の間にも、自ら閑日月ありて、百人百種の楽しみあり」
百人百種の楽しみのうちから、大弓、囲碁、将棋、力持の4種をとりあげ、
それを絵にして、それぞれに俳句を添えてありました。
茂丸氏が詠んだ「力持の図」を拡大してみました。

いい作品ですねえ。
やっと会えた絵ですから、もう感激!
それからほどなくして、すごい情報が飛び込んできました。
なんと、「茂丸」氏のお孫さんからのメールです。
「茂丸さん、私の祖父らしいのです」
驚いたのなんの!
お孫さんの話によると、
「茂丸」は俳号で、本職は深川島崎町(現・平野町)の材木屋だった。
大阪学院大学の松村隆先生の、
「明治における木材取引ー明治30年代後半の状況」
=国際学論集・第22巻1号=によると、
「明治39年当時の東京府下の材木問屋は、
千住組合に属する業者を除くと248名いた。
そのうち164名が所属する深川組は、
上木場、中木場、下木場とあり、
上木場の三好町、島崎町、久永町には大きな問屋が多かった。
これらは「巨壁たる」材木問屋で、角材、丸太の大物を扱った」
島崎町の「茂丸」氏は、大店のご主人だったんですね。
これは「神田材木町通り」の材木屋さんの絵です。
木場ではありませんが、こんな感じだったのかなあと…。

「新撰東京名所図絵」東陽堂 明治33年より
「茂丸」氏は孫の顔を見ないまま旅立ってしまったそうで、
メールをくださったお孫さんは祖父が俳句を残していることを最近伝え聞いて、
その句を読んでみたいと思っていたところ、私のブログに出会ったとのこと。
「茂丸」氏が「木場名所図絵」に添えた俳句はまだまだありますので、
お孫さんにはぜひ、国会図書館や都立中央図書館などで、
本物を見ていただきたいと思います。
本やPC画面を通して、
知らなかった「おじいちゃん」と対面するなんて素敵じゃないですか。
さて、俳句です。
もう一つ、貴重な情報をいただきました。
東京都江東区常盤の「芭蕉記念館」の学芸員さんからです。
「木場名所図絵の俳句の選者の一人である雪中庵東枝(清水東枝)は、
雪中庵十一世を継いだ俳人で、昭和12年、静岡県沼津市で没した。
茂丸については不明ですが、
大正~昭和初期に東京とその周辺で活動していた
雪門(嵐雪の系統)の俳人だったと思われます」
ちょっと解説します。
「雪中庵」(せっちゅうあん)とは、其角と並ぶ江戸中期の俳人で、
芭蕉十哲の一人、服部嵐雪のことです。
この一門は「雪門」と呼ばれ、俳句界の一大勢力となりました。
芭蕉記念館の学芸員さんがおっしゃった十一世雪中庵東枝は、
「九世時雨窓・村上静雄(寿像)」の軸装に賛を残しています。
で、ここに出てきた「時雨窓」(しぐれそう)ですが、これは、
江戸後期の駿府(静岡)の俳壇を代表する俳諧グループで、
初代・山村月窓は東海地方の雪門(嵐雪系統)を指導した人です。
同じ「雪門」というところで、静岡と「茂丸」氏がつながりました。
静岡市の清水寺には、
その「時雨窓系・六花庵」の俳人たちの句碑がたくさん残されています。
その一つです。

静岡市葵区音羽町・清水寺
静岡市ゆかりの、
時雨窓、白兎園まで手を広げると収拾がつかなくなりますので、
ここはスイッと身を引いて、
次回は「幸次郎」に戻ります。
<つづく>
「木場名所図絵」の「力持の図」に句を添えた俳人のことを書きました。
これです。
さし石や遊びと見えぬ腕くらべ 茂丸
この句を詠んだ茂丸って誰だろう?
もしかしたら、
明治から昭和初期に暗躍?した政財界のフィクサー、杉山茂丸かも、
なぁ~んて思ったりしましたが、あえなく迷宮入り。
ま、取りあえず絵を見に行こうと思い立ち、静岡県立図書館へ。
県立図書館を通じて所有者の国立国会図書館より、
絵を送信していただくためです。
その絵がこれ。

「木場名所図絵」「腕くらべ」 国立国会図書館蔵
森田寛次郎・画 川部茶酔・解説 加藤真次郎・出版 昭和2年
本物はきれいな彩色がほどこされていたのですが、
残念ながら、モノクロのみ許可ということで…。
この絵には川部茶酔のこんな解説がありました。
「腕くらべ解説
日々商戦激甚の間にも、自ら閑日月ありて、百人百種の楽しみあり」
百人百種の楽しみのうちから、大弓、囲碁、将棋、力持の4種をとりあげ、
それを絵にして、それぞれに俳句を添えてありました。
茂丸氏が詠んだ「力持の図」を拡大してみました。

いい作品ですねえ。
やっと会えた絵ですから、もう感激!
それからほどなくして、すごい情報が飛び込んできました。
なんと、「茂丸」氏のお孫さんからのメールです。
「茂丸さん、私の祖父らしいのです」
驚いたのなんの!
お孫さんの話によると、
「茂丸」は俳号で、本職は深川島崎町(現・平野町)の材木屋だった。
大阪学院大学の松村隆先生の、
「明治における木材取引ー明治30年代後半の状況」
=国際学論集・第22巻1号=によると、
「明治39年当時の東京府下の材木問屋は、
千住組合に属する業者を除くと248名いた。
そのうち164名が所属する深川組は、
上木場、中木場、下木場とあり、
上木場の三好町、島崎町、久永町には大きな問屋が多かった。
これらは「巨壁たる」材木問屋で、角材、丸太の大物を扱った」
島崎町の「茂丸」氏は、大店のご主人だったんですね。
これは「神田材木町通り」の材木屋さんの絵です。
木場ではありませんが、こんな感じだったのかなあと…。

「新撰東京名所図絵」東陽堂 明治33年より
「茂丸」氏は孫の顔を見ないまま旅立ってしまったそうで、
メールをくださったお孫さんは祖父が俳句を残していることを最近伝え聞いて、
その句を読んでみたいと思っていたところ、私のブログに出会ったとのこと。
「茂丸」氏が「木場名所図絵」に添えた俳句はまだまだありますので、
お孫さんにはぜひ、国会図書館や都立中央図書館などで、
本物を見ていただきたいと思います。
本やPC画面を通して、
知らなかった「おじいちゃん」と対面するなんて素敵じゃないですか。
さて、俳句です。
もう一つ、貴重な情報をいただきました。
東京都江東区常盤の「芭蕉記念館」の学芸員さんからです。
「木場名所図絵の俳句の選者の一人である雪中庵東枝(清水東枝)は、
雪中庵十一世を継いだ俳人で、昭和12年、静岡県沼津市で没した。
茂丸については不明ですが、
大正~昭和初期に東京とその周辺で活動していた
雪門(嵐雪の系統)の俳人だったと思われます」
ちょっと解説します。
「雪中庵」(せっちゅうあん)とは、其角と並ぶ江戸中期の俳人で、
芭蕉十哲の一人、服部嵐雪のことです。
この一門は「雪門」と呼ばれ、俳句界の一大勢力となりました。
芭蕉記念館の学芸員さんがおっしゃった十一世雪中庵東枝は、
「九世時雨窓・村上静雄(寿像)」の軸装に賛を残しています。
で、ここに出てきた「時雨窓」(しぐれそう)ですが、これは、
江戸後期の駿府(静岡)の俳壇を代表する俳諧グループで、
初代・山村月窓は東海地方の雪門(嵐雪系統)を指導した人です。
同じ「雪門」というところで、静岡と「茂丸」氏がつながりました。
静岡市の清水寺には、
その「時雨窓系・六花庵」の俳人たちの句碑がたくさん残されています。
その一つです。

静岡市葵区音羽町・清水寺
静岡市ゆかりの、
時雨窓、白兎園まで手を広げると収拾がつかなくなりますので、
ここはスイッと身を引いて、
次回は「幸次郎」に戻ります。
<つづく>
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