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江戸趣味 力遊び

埼玉の研究者、斎藤氏が「美家古鮨本店」の力石と一緒に、
こんな珍しい写真を送ってくれました。

お寿司屋さんにほど近い墨田川沿いの「墨田川テラス」
遠くにスカイツリーが見えます。

img948 (2)
東京都台東区

歩道にきれいなタイルが埋め込まれています。

img948 (3)

よく見たら、なんと「力石」文字が! それも2ヵ所も。
これはすぐわかりますよね。

img948 (4)

img949 (4)

斎藤氏は昨年も隅田川沿いの遊歩道「石庭」で、
力石そのものを新発見しているんです。
それがこちら(赤矢印)。
「石庭」は「廿六メ目」の石があるお寿司屋さんの対岸墨田区で、
名物「長命寺の桜もち」店の近くです。

この石には立派な刻字があります。

「東男の大石持 國技を偲ぶ 江戸趣味力遊び 
   昭和二十□年 秀太郎書

1斎藤桜もち (3)
東京都墨田区

江戸時代には、
隅田川に架かる両国橋の東西(広小路)に見世物小屋が立ち並び、
花見や舟遊び、花火見物にと、大勢の人が繰り出しました。

隅田川界隈は江戸趣味の宝庫だったんですね。

ちなみに「見世物」というと現代人は一種、下等なものを連想しますけど、
当時は下岡蓮杖の写真油絵の展示、エレキテル(電気)、レントゲンなど
時代の最先端の「リアル」を見せていたところです。

なにしろここにいた人形師の精巧な人形を見て、
東大医学部から人体標本の製作依頼があったくらいですから。

で、石の刻字の「東男の…」は、なんとも(いき)じゃないですか。
今なおそんな粋な江戸趣味遊び心を持ち続け、
「力石」をさりげなく配置してくれたお役所があったなんて、もう奇跡です。

とまあ、感謝感激したあと、ふと思ったんですよ。
隅田川河畔の「石庭」に埋め込まれたこの「東男」、

4斎藤桜もち

これまでの調査ではまったく姿を見せなかったのに、
一体今まで、どこに隠れていたのでしょう。

斎藤氏によると、「昭和二十□年」はたぶん「二十九年」で、
これと同年の力石が,江東区牡丹の住吉神社に一個=「東光石」、
千代田区神田須田町の柳森神社に2個=「勇老」「力石建立」=あるとのことです。

この「東男」を発見した斎藤氏、ふと、こんなことを…。

「この界隈はしばしば訪れていたにも関わらず、見逃していたとは。
やはり力石探索は、
気配り、目配り、無駄遣いが必要だと改めて思った次第です」


<つづく>

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野良犬的探索

このところビッグ情報3つも飛び込んできまして、
もう嬉しい悲鳴、いやいや雄叫びです。

まずは明治の代表的な力持ち・神田川徳蔵(飯田徳蔵)です。 
徳蔵氏は日本のウエイトリフティングの先駆けとなった人ですが、
なんと、この人の縁者の方からメールが届いたのです。

こんなことって現実にあるんだと、もう、驚くばかり。

神田明神祭礼の千社札に名前を残す神田川徳蔵氏。
img155.jpg

ところが続いて、「木場名所図絵」の「力持ちの図」に俳句を添えた
俳人の「茂丸」氏のお孫さんからメールです。

徳蔵氏、茂丸氏、どちらの方もこのブログを見てご連絡くださったとのこと。
全く予期しなかったことで、ネットの力をまざまざと実感。

近いうちに詳細をお知らせしますので、もう少しお待ちください。

さて、本日は3番目のビッグ情報からお伝えします。
力石研究の大先輩、埼玉在住の斎藤氏からの情報提供です。
斎藤氏の眼力の凄さ、行動力をとくとご覧ください。

2年前(2015)の5月、斎藤氏は、
「雨宮さんが投げた元柳橋の大王石に触発されて、本日、柳橋界隈を散策。
得意の野良犬的探索で裏路地で力石を1個見つけました

それがこれ。みなさん、わかりますか?
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東京都台東区柳橋1-10-12  斎藤氏撮影(2015・5・11)

「柳ばし 美家古鮨本店」の入口角。
今から200年ほど前の文化年間創業という江戸前のお寿司屋さんです。

ただの石にしか見えませんが、そこは斎藤氏です。
刻字がなくても、「力石だ!」と直感。

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斎藤氏撮影(2015・5・11)

大女将にうかがうと、案の定、力石だという。
「以前は2個あったけど、1個盗まれちゃった」

そりゃ、ただ道に転がしてあるだけだもの、持っていくなと言う方が無理だ。

「赤い目方が書いてあったけど消えちゃったね。
先代から力石だと聞いていたけど、今は車除けに使っている」

オイオイ、女将さん、そりゃないよ

それから2年後の今年3月、斎藤氏は再び、その場所へ。
あの石は無事、店の角にありましたが、2年前とはちょっと様子が違った。
何もなかった石の表面に朱で「廿六メ目」の刻字が…。

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斎藤氏撮影(2017・3・4)

「たぶん、私の調査に触発されて石をひっくり返したのでしょう」と斎藤氏。

なにはともあれ、力石が姿を消していなくてホッとしました。
でも、「美家古鮨本店」さまには、ぜひお願いいたします。

古いのれんを大事にするのと同じくらい、
この力石も大切にしてください。

そしたら力石も喜ぶし、力石の保存に努めている斎藤氏も私も高島先生も、
そして全国の力石ファンもひと安心いたします。

この石は、文化年間のご先祖さまが差した記念の力石かもしれないし、
もしかしたら、
あの柴田是真ゆかりの力石かもしれませんし…。

長い歴史と先人の汗と涙と喜びが沁み込んだ力石です。

どうぞ、大事にしてやってください。


<つづく>

行ってきました、草競馬ッ!

いったん行くのを断念した「さがら草競馬大会」。
今朝、トーストに夏みかんジャムをたっぷりのせて、ガリリとやっているうちに、

やっぱり、行くか!

特急バス+なんだかんだで片道2時間。今なら午後のスタートに間に合います。
いざ、牧之原市「さがらサンビーチ」へ。

オッ、いましたいました。午前の疾走を終えて、一休み中のお馬さん。
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静岡県牧之原市相良・さがらサンビーチ

本日の出走はサラブレッド19頭、ポニー16頭、中間馬12頭。
午前、午後とも9レースずつ。

子どもは苦手だけど、しゃーない
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決勝戦が始まる前に行われた子供たちの「人間草競馬」です。
馬のぬいぐるみを被って走ります。

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さあ、いよいよ始まりました。砂に、海にヨット、空に遊覧ヘリコプター

CIMG3735.jpg  

なんだか興奮してきちゃった!  私はいつでも冷静よ。

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子どもの騎手さんが大勢出場しています。
遠く長野県から来た少年もいました。
ここに載せた写真の騎手は全員、少年少女たちです。

どうです、この手綱さばき
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外野のじじさまたちが「ほれ、行け」「やれ、行け」とうるさいこと。

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ポニーに乗った少年です。ポニーも少年に応えて懸命に走ります。

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すごいよ。
この馬と子供の一体化。

こんな文化が続いていたなんて。子供たちがあんなに生き生きと…。

祖父から父、父から子へ、連綿と引き継がれてきた草競馬。
じいさんの顔も父さんの顔も日に焼けて真っ黒。誇り高き日焼けだね!

闘いが済んで、お互いに健闘を讃え合う子どもたち。
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やっぱり思い切って出て来てよかった!
遠州名物の「干しいも」も買えたし…。

また来年。
お馬さんたちも元気でね!

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鬼柴田は是真か?

一昨年、「どなたか柴田幸次郎を知りませんかぁー!」と呼びかけた時、
「その人は外国奉行・柴田剛中神田の親戚ではないか」
との情報をいただきました。

で、その柴田剛中を追いかけましたが、とうとう幸次郎には辿りつけなかった。
でも神田という地名がずっと気になっていました。
神田には柴田姓の有名な力持ちが二人いますが、どちらも名前が違う。

そこで、玩具博士で力持ちの清水晴風とつながりがあり、
神田川沿いに住んでいた蒔絵師の柴田是真(ぜしん)を
ちょいと探ってみたら、こんなHPに出会いました。

蒔絵博物館 高尾曜のホームページ」

まずは是真の住んでいたところをご紹介します。
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「東都浅草絵図」嘉永6年版 「江戸東京切絵図散歩」山川出版社 2010より

是真の家は神田川沿いに建ち、裏は「石切河岸」だった。
蒔絵博物館の高尾氏によると、
是真は「石切河岸の先生」と呼ばれていたそうです。

是真の家の対岸はこんな感じ。
新し橋方面の神田川沿いは、
柳の並木が続く「柳原堤(つつみ)(柳原の土手)だった。

img933.jpg
「日本橋北内神田両国浜町明細図会」安政6年版
「江戸東京切絵図散歩」山川出版社 2010より

さて、私が高尾氏のHPを見て、
「もしや」と思ったのは、こんな記述があったからです。

是真は身長5尺6寸(170㎝)で、力士のような体格で胸毛が生えており、
ー略ー 腕力があり、4斗俵を持ち上げたそうです。

また昼食の後は弟子たちを連れて家の裏の空き地に行き、
弟子たちが持ち上げられない大きな石を持ち上げて見せ、
それを投げ落とすや家に駆け込み、
すぐに絵筆を取って絵を描いてみせたそうですが、
少しも手先が震えなかったそうです」

82歳のときの是真凄みがあります。
img928.jpg
「蒔絵博物館」からお借りしました。

木村与五郎というより、
俳優でお笑いタレントで画家の片岡鶴太郎にどことなく…。

でも、写真の是真が放つ鋭い眼光や気迫には、おのずと日本画や蒔絵の実力の
ゆるぎない凄さがほとばしり出ている気がします。
並の芸術家が束になってかかっても、是真の足元にも及びません。

で、これは! と思いました。

だって、その技量を国が認めた「帝室技芸員」の美術家で、
外国でも評価が高い蒔絵師が「幸次郎」だったら、最高じゃないですか。

是真の作品「富士田子浦蒔絵額面」 
柴田是真
明治6年(1873)、ウイーン万国博覧会出品作品。福富太郎コレクション

でも是真の幼名は亀太郎。通称は順蔵。幸次郎という名ではない。

やっぱり違ったか。

でも、ダメもとで、蒔絵博物館の高尾氏にお尋ねしました。
丁寧なお返事をいただきましが…。

「力石という名前すら存じませず、興味深く拝読しました。
是真の逸話の典拠は、
岡田梅真の「柴田是真の逸事」書画骨董雑誌 1929年です。

力石とは無関係でしょう」

はァー…


<つづく>

「追っかけ」やってます

前回、玩具博士の清水晴風が、

「元柳橋の大王石は150貫目と証言した」

と書きましたが、実は朝倉無声の「見世物研究」の段階では、
晴風はまだ「元柳橋」の名を出してはいないのです。

でも私は、晴風のいう大王石は元柳橋の大王石に間違いないとにらみ、
あれこれ探しまくり、ようやくそれを突き止めて前回早々出してしまいました。

でも、そのてんまつに入る前に、
「幸次郎」探しの苦労話をちょっとお聞きください。

まだ見ぬ「幸次郎」が、ブ男だなんてアリエナイ!
きっと木村与五郎みたいな粋な男だったはず。
と思う心は、アイドルの「追っかけ」と同じかも♪

美男薄命の力持ち、木村与五郎です。
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さて、その幸次郎追っかけのお話です。

高橋是清という幕末生まれの政治家がいました。
昭和11年の青年将校たちの反乱、二・二六事件で暗殺された人です。

その是清の自伝に、
母の再婚相手、塩魚屋の名前として「幸次郎」が出てきたのです。
ひょっとして柴田姓ではないかとあれこれ調べたものの、判明せず、
これはあきらめました

次に目にしたのが、明治33年発行の「新撰東京名所図会」に出ていた
柳橋の船宿「藤もと」の「幸次郎」です。

明治のころの柳橋と船宿です。
img874 (2)img874 (3)
「新撰東京名所図会」東陽堂 明治33年より

場所も元柳橋に近いし、江戸時代から続く船宿とくれば有望です。
ですがこちらもこれ以上の手掛かりが得られず断念

そこでもう一度「竿忠の寝言」に戻ってみると、和竿師の忠吉さんも、
「以前から素人力持ちの仲間に入って、石や俵を差していた」とあった。

だから忠吉さんは、「鬼柴田と大王石」のことを知っていたのですね。

その忠吉さんを讃えた「名人竿忠之碑」が、木場の洲崎神社にあります。
そこの力石群です。
img630 (3)
江東区深川木場・洲崎神社 「東京の力石」高島愼助 岩田書院 2003より

木材集積地の木場ですからね、こんな勇ましい男衆たちが働いていました。
彼らは川並鳶(かわなみとび)と呼ばれ、車力派と力持ち界を二分していたのです。

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「明治・大正・昭和/東京写真大集成」編・集成 石黒敬章 新潮社 2001より

その木場は明治20年に埋め立てられてしまいますが、
その跡地にできたのが「洲崎遊郭」です。

ここの使用人たちが大正14年に奉納した力石が現存していますから、
遊郭の人たちも力比べに興じていたんですね。
でも残念
なかったんです、忠吉さんの力石。

洲崎遊郭は明治末の45年に大火で焼失。
復興して隆盛を極めますが、昭和33年の売春防止法で廃止されました。

焼失したときの洲崎遊郭です。
img095 (2)
同上

忠吉さんの力石はなかったのですが、
その洲崎神社の石の一つに、「虎子石」と刻まれた石があって、
故・伊東明・上智大学教授の研究論文にこんな記述がありました。

「川部茶酔の木場名所図絵「力持ちの図」に添えて、

     さし石や遊びと見えぬ腕くらべ  茂丸

の句がある」

句を詠んだ茂丸とは誰だろう?
もしかしたら、明治から昭和初期に暗躍?した政財界のフィクサーの
あの杉山茂丸かと、一人色めき立ちました。

が、トホホ。これも確認できず。

茂丸探索と同時に「木場名所図会」なる絵画集も探しました。
この図絵を描いたのは森田寛次郎という人で、(川部茶酔は解説者)
昭和2年に設立された東京木材市場株式会社の創立者の一人と判明。

私は「木場名所図絵」に描かれた力石が見たくて、
現在の関係先・東京木材製材協同組合へ連絡させていただいたのですが、
組合では何もわからない、絵の所有者はご病気、
とのことで、それ以上は遠慮しました。

またこの絵図は、
東京都立図書館と国立国会図書館にもあるとのことでしたが、
館内のみの閲覧ということで、こちらも断念せざるをえませんでした。

でもね、捨てる神あれば拾う神ありで、
これも全くの偶然ですが、
もう一枚、元柳橋の大王石の写真、見つけちゃいました。

これです。
元柳橋が見えているということは隅田川の船上からの撮影だと思います。
img875.jpg
「大日本全國名所一覧」イタリア公使秘蔵の明治写真帖
監修 マリサ・ディ・ルッソ 石黒敬章 平凡社 2011

これは、明治10年(1877)、イタリア公使として来日したバルボラーニが、
日本で収集した1268枚というぼう大な写真の中の一枚です。
そのすべてが撮影年も撮影者も不明だそうです。

クレットマンは自分で撮影しましたが、この人は既存の写真の収集です。

写真の元柳橋は隅田川へ注ぐ薬研堀にかかっていた橋ですが、
明治36年に埋め立てられて消滅してしまいました。

で、みなさん、おわかりになりましたか?
赤丸の中の「大王石」

ほら!
img875 (2)

赤丸の中を虫メガネで見る方がはっきりわかるかも。

これで「大王石」が写っている写真は3枚になりました。
私、こんなのを探しているんですよ。酔狂な、とお笑いください。

以前にもご紹介しましたが、3枚のうちのもう一枚がこれです。
img210 (6)
「古写真で見る江戸から東京へ」世界文化社 2001 撮影者不明

大王石を背に立っているのは人力車夫みたいですね。
写真の撮影者はこの人力車に乗ってここへやってきたのかもしれません。

このように古写真の中から力石を見つけたときは、
クラクラするほど嬉しいのですが、でも、そのあとちょっぴり寂しくなるんです。

だってこれらの力石はたまたまそこにあったがために、
偶然写真に写り込んだだけなんですから。

安土桃山時代にポルトガル人によって編さんされた
日葡辞書(にっぽじしょ)」には、「力石」のことがちゃんと載っているのに、
幕末明治に来日した異人さんたちは、何の興味も示さなかった。

だから、
力石や力持ちを意識的に撮影した写真が一枚もないのです。

それがものすごーく寂しいです。


<つづく>

※国立国会図書館からデジタル画像としてこちらの県立図書館に
送信するシステムがあるようなので、近日中に行ってきまぁーす。

75貫か150貫か

元柳橋にあった「大王石」の重さは、
玩具博士で力持ちの清水晴風が「150貫目」と証言しました。

150貫目は約600㎏です。
どのくらいの重量かというと、
一番太っていた頃の大関・小錦(285Kg)二人分+10Kgの米3袋

009konishiki (2) 009konishiki.jpg +30㎏

現在確認されている日本一重い力石は、
三ノ宮卯之助「大盤石」610㎏(実測)です。

これです。
こんな石を持ち上げるなんて、信じられます? でも上げたんですよ。

三ノ宮卯之助の研究者・高崎力氏と大盤石
img798 (3)
埼玉県桶川市・稲荷神社 =有形文化財=

柴田幸次郎の大王石、現存していればこの「大盤石」に匹敵します。
もしかしたらそれを上回る日本一の力石かもしれません。

ところが江戸和竿師・中根忠吉の「竿忠の寝言」では、
「鬼柴田、鬼幸と呼ばれた怪力の人が差した大王石」は、
75貫(285㎏)となっていました。

75貫目なら150貫目の半分しかない…。

これがその元柳橋の大王石です。
何度も出して恐縮ですが、なにしろこれしか残っていないので…。

石をグラリと起こせば、かたわらの女性の腰か胸あたりまで来そうです。
img188 (20)

どうでしょう、この石。150貫目か、はたまた75貫目か。

75貫目はどのくらいのものか比較可能な石がありませんので、
貫目足らずですが、次の写真でちょっと想像してみてください。

笠岡市郷土館の力石です。
郷土館の管理人さんに立っていただいて写しました。

手を置いている石の重さは180㎏48貫目)です。
静岡市にはこれと同じ重量の石を片手で上げた金杉藤吉の力石があります。
こんな石を片手で持ち上げたんですから、本当にぶったまげます。

で、写真を見ただけでも、
これより大王石の方がはるかに大きいことがわかります。
CIMG0500 (2)
岡山県笠岡市・郷土館

石ではありませんが、もう一つお見せします。
京都・醍醐寺「五大力尊・餅あげ奉納」
台+大鏡餅で150㎏(約40貫目)。
写真は挑戦者の一人、岐阜在住でケトルベルトレーナーの大江誉志さんです。

台の上の餅がズルズル動いて重心が定まらず、非常に持ちにくいそうです。

CIMG2992 (3)
京都市伏見区醍醐・醍醐寺

こちらは、三ノ宮卯之助が差したもう一つの「大盤石」です。
重量は520㎏144貫目)。=文化財=
img360 (4)
埼玉県越谷市・三野宮香取神社  朝日新聞(2013・5・1)掲載

さて、元柳橋の「大王石」の本当の重さは75貫目か、150貫目か?
重さは石質によっても違いますから難しいところですが、
判断はお読みくださっている皆さまにお任せいたします。

どちらにしてもこんな大きな石は、手で持ち上げることは不可能です。
なので、こうした巨石は足で差したんですね。
これを「足差し」または「足受け」「足の曲持」といいます。

150貫目の石なんて、とてつもない重い石ですが、
75貫目もまた、「足差し」でなければ上げられない巨石です。
どちらにしても凄い石に変わりありません。

下の写真が「足差し」です。
三ノ宮卯之助の「大盤石」(610㎏)の足差しの再現です。

まわしの白さが目にしみます。
なんだか見てはならないものを見てしまったような罪悪感が…。

桶川市民祭り1 (6)
桶川市市民祭り

しかしですよ、いくら足とはいえ、
最重量力士、285㎏時代の小錦二人分+米30㎏ですからねぇ、
失敗したらぺっしゃんこ。

命がけです

猫とネズミのディズニーアニメ「トムとジェリー」で、
ぺっしゃんこになった猫がペラ~ンと起き上がって、
そのまま走り出すシーンがあったけど、
現実にはペラ~ンとなったらおしまいですもんね。

厳しい世界です。


<つづく>

本物の気品

本日(7日)、
天皇皇后両陛下スペイン国王ご夫妻がこの静岡市においでになりました。

そのつもりは全然なかったのに、私、偶然、日の丸の小旗を振ってきました。

実は一週間前、友人から「美智子さんを見たい」と言われていました。
「見たい」という表現は失礼な言い方ですが、
「会いたい」というのも変だし、やっぱり「見たい」んですね。

私は全然その気がない。第一、その日は仕事でムリムリ。
でも友人はあきらめきれず、昨夜、真夜中に電話してきて、
「やっぱりどうしても見たい

他人をあてにしないで行けばいいのに、と自立心のなさにちょっとがっかり。

で、来静の件はすっかり忘れたまま、半日の仕事を終えて用事で町へ。
ところが、バスが町の中心部へ入ったら思わぬ光景です。
日の丸とスペインの小旗を持った人たちが沿道にずらり。

駅近くのバス停に降りて警備の人に聞くと、
「あと10分ほどでお見えになります」
さっそく小旗をいただいて沿道の人となりました。

CIMG3688.jpg

ものものしい警備など全くありません。
いつもの通り、バスも車も走り人も歩いています。

で、ちょっと間隔があいたかなと思ったら、白バイが2台。
そのあとに2、3台の黒い乗用車がゆっくりゆっくり走ってきました。
そして天皇、スペイン国王の車、続いて皇后、王妃の車です。

天皇さんも皇后さんも、
小雨の中、窓をあけてにこやかに会釈をなさっています。

まあ、なんという気品。なんという美しさ、優しさ

お二人のお顔が若き日のお顔になっています。
手が届くかと思うほどの近さです。
暴漢に襲われたらひとたまりもありません。

でも、お二人のゆったりとした表情とにこやかさには、
そんな懸念などどこにもありません。
危険など超越した強さとでもいうのでしょうか。

このあとご覧になった静岡浅間神社での稚児舞はいかがだったでしょうか。
400年前、ご先祖の王さまが家康に贈った時計に、
スペイン国王ご夫妻はどんな感慨を持たれたでしょうか。

慶長16年(1611)、
海難救助のお礼にスペイン国王から家康に贈られた時計。国重要文化財。
img873.jpg
久能山東照宮所蔵

当時イスパニアといったスペインから、ドン・ロドリゴが駿府城の家康に会いに来た。
友好のためではなく国を乗っ取りに。
で、ロドリゴは本国へこんな手紙を書き送った。

「この国は武力による侵入は困難。
鉱山に宣教師を入れて布教による人心収らん以外に乗っ取ることはできない」

まあ、これは昔の話ですからね。

帰宅後、近所の人に会ったら、
「うちのお父さん、美智子さんの大ファンで、以前、カメラを向けて
みちこさまぁ~と叫んだら、立ち止まって微笑んでくれたの」

「で、うちへ帰ってきてカメラを見たら、なぁ~んも写ってなかった。
ボーッとしちゃってシャッター切るの忘れたんだって」

わかるわかる!
私もあのお顔は忘れられないもの。

友人に「見た」と電話したら、すごい落胆した声になった。

友情にひびが入るかも。

ついに登場、百五十貫の大王石

玩具絵本の復刻版「日本のおもちゃ」畑野栄三氏の解説を続けます。

「世に美術と称する絵画彫刻などは、自分には高尚すぎて愛しがたい」
と思った清水晴風は、28歳のとき、
「土もて造れるものや木にて刻める手遊びの品」を求めて、
子どもの玩具蒐集の旅に出かけます。

旅を続けること10数年
その旅で集めた玩具は300点100余種に及びました。

さらにそれらの玩具を晴風自らが描いて記録し、
明治24年40歳のとき、彩色木版画集「うなゐの友」として出版します。

でも「明治24年」と聞いてもピンときませんよね。
なにしろ今から126年も昔ですから。
若者からみると、おじいさんのそのまたおじいさんの時代といったところでしょうか。

またここに出てくる「うなゐ」ですが、これは、
「子どもの髪をうなじ(首のうしろ)で束ねたもの」のことで、
広く「子ども」を表現した言葉なんです。

実はこの表題、
蒔絵師の大家柴田是真の写生帖「うなゐの友」から借用したとのこと。

是真は晴風より44歳も年長で、すでに美術界の大御所でしたが、
晴風の「竹馬会」への協力は惜しまなかったそうです。

「柴田是真の植物図」です。
img167.jpg
=編著 横溝廣子、薩摩雅登 光村推古書院 平成25年

是真は、胸毛が生えた力士のような男だったそうですが、
描く絵はなんとも繊細優雅

さて
明治24年に初めて「うなゐの友」を世に送り出した晴風ですが、
それから大正2年までの22年間に6編出版します。
最後の6編目を出して力尽き、この世を去ったため、
仲間の西澤笛畝が跡を継ぎ、自ら筆をとって10編まで仕上げます。

この10編の完成までに費やした年数は、
二人合わせて33年余というのですから凄い!

収録された玩具は、張り子、三春駒、羽子板、かるたなど約900種
嬉しいことにその中に、
棒の先に人や動物の頭だけつけた「でっころぼう」
真っ赤な鯛が向き合った「祝い鯛」などの静岡玩具もありました。

晴風が描いた「でっころぼう」と、
静岡市清水区の「いちろんさん(市郎右衛門)のでっころぼう」です。
img872.jpg でっころぼう
「日本のおもちゃ」と「静岡諸玩具」からお借りしました。

で、初編から、東北各地のこけしを載せていますが、
「うなゐの友」掲載のこけしで、現存するのは3本だけだそうです。
こけしは何体と数えるのかと思っていましたが、何本と数えるんですね、
今回、初めて知りました。

下の写真のこけしは、現存するこけし3本のうちの1本です。
このこけしのふるさとは、
あの大震災で大きな被害を受けた福島県浪江町です。

汚染された山河、故郷喪失。
こけしはこの惨状をどんな思いで見ていることでしょう。
胸が痛くなります。

「浪江こけし」です。 系統は「遠刈田」。作者不詳。8寸3分。
こけし西田記念館
「原郷のこけし群 西田記念館」のご好意で写真をお借りしました。

このこけしの底辺にはこう記されているそうです。

「磐城國双葉郡浪江町 こけし這子 大の雲外」

「這子」とは、ほうこと読み、はいはい人形のこと。
幼児の魔除けに使われたそうです。

また「大の雲外」とは、
文化人類学者、坪井正五郎の東京帝国大学の研究室にいた
大野雲外という人物だそうです。
この「浪江こけし」は、その大野から晴風に手渡されたものだとか。

巡り巡って現在は「西田記念館」に保管されているというわけです。

下の写真は、その伝統こけしの展示館
「原郷のこけし群 西田記念館」です。

伝統こけしの研究家だった西田峯吉(1900--1993)のこけし3500本を含め、
1万本を収蔵しています。
美しい吾妻山のふもとのこけしの館。ぜひ訪れてみたい場所ですね。
HPも必見です。

記念館西田
公益財団法人 東邦銀行教育・文化財団付属
 =福島市荒井字横塚3-183(アンナガーデン内)☎024-593-0639=

また、個人が運営するこけしのHP「木人子室」も素晴らしいです。
ここまでやるか!というくらい充実しています。

力持ちの清水晴風に戻ります。

晴風は「うなゐの友」初編を出した直後の40歳のとき、
力比べの際、過って石を落として大ケガをしてしまい、
残念なことに、そのまま力持ちの世界から遠ざかってしまいます。

追い打ちをかけるように、
今度は両親の相次ぐ死という不幸に見舞われます。

そんな晴風をさらに追い詰めたのが、文明開化という時代の波でした。
時代は人力から機械化という時代になり、
大八車を引く家業の運送業が岐路に立たされました。

そんなこんなで晴風は「車力」稼業を番頭に譲り、
玩具一筋の道へと踏み出します。そして、玩具の本格画集の制作により
ついに「郷土玩具の一大宝典」といわれる業績を残しました。

「見世物研究」朝倉無声は、
大正2年、63歳で亡くなる直前の晴風からこんなことを聞き出していました。

「力持ちの真打は多くは足の曲持ちである。
三百貫目と称する大王石(実は百五十貫目ほど)を足で差し上げ…」

img342 (5) CIMG2431 (3)
沢田重隆・画   江戸川区郷土資料室「まるいし おもいし ちからいし」展の猫 

猫ちゃん、短めの足でがんばっております。

さて、力持ちの生き字引、晴風によって語られた「大王石」。しかも百五十貫!

当時の若者が一人前の男として認められる資格は、
十六貫(60Kg)の力石を上げられること。
しかしこの「大王石」は、その10倍もあるというのですから、
怪力の鬼柴田にふさわしい重さです。

いやが上にも胸が高鳴ります


<つづく>

※参考文献/「日本のおもちゃ」玩具絵本「うなゐの友」より
        監修解説 畑野栄三、図版解説 林直輝 
        美術出版芸艸堂 2009
       

あたりき しゃりき

玩具博士・清水晴風とは、

朝倉無声の「見世物研究」「技術編・力持ち」に出てきた人物です。
子どものおもちゃの大家(たいか)が力持ちだったというのですから面白い。

どんな人物だったのか、
「日本のおもちゃ」=玩具絵本「うなゐの友」より=の
畑野栄三氏の解説から拾います。

清水晴風、嘉永四年(1851)、江戸旅籠町(外神田三丁目)生まれ」

嘉永四年は、日本周辺に異国の船がウロウロし始めたころで、
アメリカのペリーの黒船はこの2年後に浦賀へ現れます。
そんな「太平の眠りを覚ます」時代に晴風は誕生しました。

「晴風の幼名は半七
生家は元禄年間から続く大名諸侯の人夫請負や運送を業とする旧家で、
代々清水仁兵衛と名乗った。
半七も十五歳の時、十一代目の当主となり仁兵衛を継いだ」

当時は運送業のことを「車力」(しゃりき)と呼んでいたんです。

 おっと がってん しょうちのすけ
   おどろき もものき さんしょのき
 
   あたりき しゃりき くるまひき

なぁ~んて言い方がありました。

「こんこんちきめ、そんなの当たりめえじゃねーかよ」
ってなときに使いました。

当時、運送用の車といえば大八車のこと。

これが大八車です。
img867.jpg
放送大学付属図書館蔵 撮影年代不詳。F・ベアト撮影。小田原宿。部分。

大八車の引き手は力がなければ務まりません。
そんな力自慢が集まる車力の親方の家に生まれたのですから、
半七自身も立派な力持ちに成長します。

「二十歳にも満たないころ、米俵2俵を片手で差し上げたといわれており、
筋骨隆々たる若者であった」そうで、
朝倉無声もまた、
「力持ち番付けの幕の内に列したほどの力持ちだった」と証言しています。

下の絵は飯田町・万屋金蔵の米俵・片手差しの図です。
米俵1俵は約16貫(60㎏)。
車力の半七さんは2俵120Kgを片手で差し上げたというのですから、

恐れ入りやした

img062 (4)
渡辺崋山・画

で、ちょっと前まで、
ホワイトカラーに対するブルーカラーなんて対比の仕方がありましたよね。
どうも現代人は力仕事をする人たちを無教養の人の如く見がちですが、
当時の人の随筆などを読むと、江戸時代の商工農の人たちは、
実にのびのびと趣味やら学問に励んでいたことがわかります。

港湾労働者として働くタルコロにしても、火消しの鳶にしても、
仕事の後は謡の稽古に出掛けたり、千社札のグループと交流したり、
を習ったりとなかなか多芸多才です。

車力の半七もなかなかの粋人でした、

「二十歳のころより孤山宗月について俳諧を学び号を晴風と呼んだ。
筆名の清水晴風はこの号から名づけた」

というのですから、
半七は力石だけでなく俳諧の世界にも遊んでいたんですね。
また絵心もあり、絵画彫刻などの美術工芸にも造詣が深かったといいます。

その証しがこれです。

「明治13年、28歳のとき、竹内久遠(彫像)、仮名垣魯文(戯作者)、
巌谷小波(作家)ら幼友達10余名と童心に帰って遊ぼうと、
竹馬会を結成した」

明治13年といえば、西郷隆盛の西南戦争の3年後です。
このころ、コレラが大流行。

前年の12年には明治の元勲・大久保利通が暗殺されるなど、
幕府を倒して天下をとった維新の立役者たちが次々と表舞台から去り、
新たな第2幕が開けた、
晴風が竹馬会を結成したのは、そんな時代へ突入した頃です。

おかしなもので、幕末には、
攘夷攘夷と異人や開国主義者を目の仇にして殺傷しまくっていた人たちが、
今度はその異人の風習こそ文化文明だといって極端な欧化政策に走り、
鹿鳴館を作って舞踏会などという猿まねを始めるのですから。

欧米人から「洋装していても鏡に写る顔は猿」と皮肉られた。
img493 (2)
ビゴー画

なんといっても明治新政府のきわめつけは、廃仏毀釈です。
大罪ともいうべき愚かな権力行使でした。
江戸時代は因循姑息な封建の世の中で、何の価値もない、 
というわけで、日本人としてのアイディンティティも息絶え絶えとなり果てた。

あれま、アイディンティティなんて懐かしい言葉、つい使ってしまって…。

、そんな中、晴風はこんな思いを抱きます。

「各地に古くから伝わる子どもの手遊び品を集めて人々に示そう。
土もて造り、木を刻む、こうしたものこそおのづから天然の古雅を備え、
その土地土地の風土情体を見るに足るもの。
美術とはかかるものをいうのではなかろうか

郷土玩具の「浜松張り子」花巻土人形「力持ち」です。
CIMG2838 (2) img796.jpg

この浜松張り子は、
幕府崩壊で静岡県に移住してきた武士が生活の糧として始めたものです。
写真はご子孫の二橋加代さんの作品です。  

童心に帰って遊ぼうと幼なじみらと竹馬会を結成した半七こと清水晴風は、
それから間もなく、諸国の子どもの「手遊び品」の蒐集を思い立ち、
全国行脚の旅に出掛けます。



<つづく>

※参考文献/「日本のおもちゃ」=玩具絵本うなゐの友より=
        清水晴風、西澤笛畝・画 復刻 美術書出版・芸艸堂 2009
        /「見世物研究」朝倉無声 昭和3年 
※画像提供/「レンズが撮らえた幕末明治・日本の風景」
         監修・小沢健志、山本光正 山川出版社 2014
        /「日本美術絵画全集・第24巻 渡辺崋山」
         集英社 1980
         /「江戸時代の土人形」遠谷茂 里文出版 平成21年
プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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