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いよいよ…

柴田幸次郎を追う
03 /28 2017
「大王石」「柴田幸次郎」
いよいよ終盤に近づいてまいりました。

白状します。
実は昨年、すでに私は幸次郎の正体を突き止めておりました。

ずるい?
知っていてみんなの気を引いていたのかって?

すみませんね~。ま、おいしい話は引き延ばす、
すぐに正体を明かしてしまうのは惜しいじゃないですか。

img188 (19)

でも、もう一つ本音をいえば、
改めて幸次郎探索の経過を書くことは、
自分自身のためでもあったし、お読みくださる皆さまにも解りやすい、
それで長々、経過報告をしてまいりました。

2年もの間、幸次郎を追い続けて、ニッチモサッチモいかなくなったとき、
「そうだ。原点に戻ればいいのだ」と気がつきまして…。

難事件の解決の糸口が見えない刑事が、元の現場に戻るのと同じ、
なぁ~んていったら、ちょっと大げさですけど。

まあ、そんなわけで私は今までの資料をもう一度見直すことを始めました。
私が戻った先は、朝倉無声「見世物研究」

この本の「技術編・力持ち」のページを丹念に読みなおしたら、
出てきました、「大王石」が。

でも以前、読み落としたわけではなかったんです。
当時は別の「大王石」ぐらいに軽く考えていたんですね。

例えばこの「大王石」
これはクレットマン撮影の「大王石」とは書体が違いますから別物ですが。
DSCF5223 (3)
東京都江戸川区東小岩・善養寺  62余×47×28余㎝  斎藤氏撮影

大王石 當村 世話人 若者中 木花仙蔵」

ちなみにこの「大王石」の撮影者の斎藤氏は、埼玉在住の力石研究者です。
私の力石の師匠、西の高島先生に対する東の師匠にあたります。

斎藤氏は力石探索もさることながらお祭り大好きな粋なおじさんです。
下の写真は青年時代の斎藤氏(右端)。
モノクロ写真というところが時代を感じさせますね。

「髪型は角丸刈り風の神輿連中こだわりの祭りカット。
素肌に鯉口、どんぶりという腹掛け、パッチをはいて半纏を羽織り、
襟と裾を整えて、帯をまわしてキュッとしめ、白鼻緒の雪駄をはいて…」

祭り斎藤

さて
「見世物研究」の著者、朝倉無声は、「技術編・力持ち」の中で、
清水晴風という人にインタビューし、こんな紹介をしています。

「清水晴風は通称仁兵衛といって、車力を家業としていただけに、
若年から力持ちを練習して、ついに力持ち番付の幕の内に列したほどの男」

「されば幕末から明治にかけての素人力持ちについては、
生き字引といわれるほど精通している」

そしてこの「家業が車力の力持ち」のことをこうも言っているのです。

「玩具博士として有名な…」

えっ、なに! 玩具博士? 
子どものおもちゃ力持ちがどこでどう結びつくの?

不思議な展開になってきましたが、
でも、想像もできなかったこの結びつき、調べるしかありません。

で、こんな本を見つけたんです。

img166.jpg

<つづく>
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江戸に聞こゆる男也

柴田幸次郎を追う
03 /25 2017
文化文政期の素人力持ちの東西両大関として、
風俗研究家の三田村鳶魚朝倉無声が共に認めたのが
神田明神下の内田屋の金蔵と神田鎌倉河岸の豊島屋清蔵です。

ともに酒問屋のタルコロです。

内田金蔵の銘が入った力石は、現在21個残っています。

これはその一つ、富岡(富賀岡)元八幡宮の内田金蔵の力石です。
CIMG0746 (3)
東京都江東区南砂

「奉納 樊噲石 □仲□□ □八□ 文化十三年丙子歳八月四日
内田金蔵 世話人 當邑 竹之助」

樊噲「はんかい」と読みます。
中国・漢の武将で高祖劉邦に仕えて戦功をたてた強力の人の名前です。
金蔵はその人にあやかって石にその名を刻んだものと思われます。

実はもう一つ、「樊噲石」があるんです。
金蔵はこの「樊噲」がよほど気に入ったと見えて、
生まれ故郷の埼玉県三郷市高須の香取神社にも奉納しています。

こちらは亀戸天神社にある金蔵の石(左)です。
右側の石は清蔵のあと頭角を現した豊島屋の鬼熊が持った石です。
CIMG0870 (3)
東京都江東区亀戸

「亀戸天神奉納之 天神下 内田金蔵 持之 世巴人 佐助
八丁堀亀嶋平蔵 泉州信□住小川氏 文化九年 申十月二十五日」

富賀岡八幡宮と亀戸天神社の石は共に民俗文化財に指定されています。

こちらは内田金蔵の手形です。このとき金蔵32歳
img585 (3)
「石に挑んだ男達」(高島愼助)より

世話人は「石の平蔵」こと八丁堀亀嶋平蔵です。平蔵この時59歳

こんな話が残っています。

大阪下りの玄人力持ちの力松が120貫と称する釣鐘を持ち上げて、
「江戸では誰も担げまい」と広言した。
それを聞いた金蔵が「とても90貫以上あるとは思えない」と言うと、
力松は冷笑して、
「あるかないかは持てばわかる。持てたらあげましょう」と。

で、その結果どうなったかというと、金蔵は何の苦もなく持ち上げてしまった。
120貫目のウソがばれ、さっきまで散々江戸っ子を見下していた力松一座は、
金蔵の威光に恐れをなして詫びを入れ、早々、大阪へ帰ったとか。

「江戸名所図会」砂村富岡元八幡です。赤丸に力石が描かれています。
img260 (4)

しかし、金蔵と共に、
「その強力でお江戸八百八町に鳴らし、
車の両輪のごとく、江戸に聞こゆる男也」

と称えられたもう一人の力持ち、豊島屋清蔵は、
石も残さず、ぷっつりと消えてしまいました。

でも消えようが後世に名を残そうが、
三田村鳶魚はこの二人に、こんな賛辞を贈っています。

金蔵、清蔵はともに見世物にはなりませんでした。
別に高尚に構えこんだのでなかったが、
小揚げという本職を守って浮かれ出さなかったのでしょう

大阪下りの玄人力持ち・力松に本物の力量を見せつけた金蔵もまた、
それから間もなくこの世を去ったということです。

<つづく>

タルコロの活躍

柴田幸次郎を追う
03 /20 2017
大阪市此花区の立江地蔵堂の力石の行方は、
ジタバタしても始まらないので、「幸次郎」へ戻ります。

もうね、あっちこっち寄り道ばかりしているので、こんがらがっちゃって大変。
でも、お読みくださっている方々はもっと大変ですね。

ここで、
幸次郎のように消えてしまった力持ちを少しご紹介します。

と、その前に、力持ちのおさらいです。

力持ちの全盛期は江戸末期の文化文政のころで、
上方ではプロの力持ちが興行師に連れられて各地を歩きましたが、
江戸では素人力持ちが神社や寺で奉納力持ちをやっていました。

下の絵は、樽(たる)を足でくるくるまわす曲持師です。
この絵の人物は「あづまのすけ」となっています。
東(あづま)、つまり江戸出身の曲芸師ということです。

米俵や樽の中味を軽くしていたので、力持ちでなくてもできたそうですから、
これは力量を見せるというより、曲芸(足芸)の見世物興行ですね。
正徳享保の頃の絵なので、化政期からざっと130年ほど前の曲持ちです。
この曲持ちは一時廃れますが、化政期になって力持ちの間で復活しました。

img853.jpg
正徳享保年間上方版本「文字絵盡」 「見世物研究」朝倉無声より

さて
江戸の力持ちは素人といってもプロより強い上に、木戸銭を取らないから
江戸っ子には大人気。
彼らは別に生業を持っていましたから木戸銭は取らなかったのです。

気風の良さはいかにも江戸っ子ですね。

そんな力持ちに「タルコロ」と呼ばれた酒問屋の若者たちがいます。
当時酒は、灘などの酒蔵から江戸の新川などへ船で運ばれてきました。
その酒樽(たる)を河岸上げして各問屋の倉庫へ運ぶのが彼らの仕事です。
酒樽を転がして運ぶので、「タルコロ」なんです。

こんな感じ。
img252 (3)

有名なタルコロに神田鎌倉河岸・豊島屋の鬼熊こと熊治郎がいます。
幕末の嘉永、安政に活躍した力持ちです。
東京都世田谷区北烏山にお墓がありますし、台東区の浅草寺には、
新門辰五郎建立の鬼熊の碑「熊遊」(くまあそび)があります。

鬼熊です。「鬼熊の戯画」
img055 (8)
「絵本風俗往来」菊池貴一郎

酒問屋が並ぶ河岸では日暮れになると、
こうしたタルコロたちが酒樽で「曲持ち」をして見物人を楽しませた。

こんな感じで…。「豊島屋酒店 樽の曲差しの図」
img548 (3)
同上

タルコロを引退したあと鬼熊は、
「神田新し橋の彼方、柳原より右へ曲がれる横丁の角なる居酒屋の主人」
になります。「三田村鳶魚全集第十五巻」

三田村鳶魚は「神田に鬼熊横町という俚名をのこしている」と書いていますが、
今もあるのでしょうか。

さて、鬼熊は墓も現存し、鬼熊の名を刻んだ力石を20個も残し、
その雄姿を絵にもとどめるという幸せ者ですが、
一方、
世間の喝采を浴びたもののその痕跡すら残っていない力持ちもいます。

同じ豊島屋酒店のタルコロだった「清蔵」もその一人です。

豊島屋清蔵は鬼熊より少し前の文化文政期に活躍した力持ちです。
この時代、力持ち界の東西両大関としてその名をとどろかしたのが、
この清蔵と神田明神下の酒問屋、内田屋の金蔵でした。

この二人のことは次回にてお話しいたします。

<つづく>

尋ね石の時間です③

力石余話
03 /17 2017
一週間ほど前、師匠の高島先生からメールがきました。

「大阪へ力石の調査に行ってきました。
例の此花区・立江地蔵堂の2個の力石、なくなっていました」

なに! 力石がなくなっていた?!

「近所のタバコ屋さんで尋ねたら、地蔵様が盗まれてお堂は閉鎖された。
その際、力石も撤去された、ということでした」

私、昔からフットワークいいですからね。
JRの「そうだ、京都へ行こう!」じゃないけれど、
「そうだ!」と思い立ち、気が付くと電車の中にいたなんてこともしばしば。

で、早速、
以前お世話になった大阪歴史博物館此花区役所へ問い合わせました。
歴博さんはまったくわからないとのこと。
大阪此花区役所さんからはこんな情報をいただきました。

「地蔵さまと一緒に力石も盗まれた」

ヴァーッ!! やい、どろぼう!

あんたっちゃ、力石なんか盗んでどうするダネ。
金になるとでも思ったんだか。やっきりしちゃうよ、ったく!
早く元の場所に戻してやらにゃあ、な、地蔵さまも泣いてるらヨ。

大阪弁で思いきりドツキたいけど知らないから、
それで静岡弁でやってみたけど、全然、迫力ないよね。
この時点で、もう負けてます。

で、ここは一つ、ネットの力をお借りしようと呼びかけることにしました。
みなさーん! どこかの庭先なんかで見かけたら、ぜひご一報くださーい!

「盗難にあった」力石です。
元の場所は大阪市此花区西九条1丁目 立江地蔵堂です。

此花区西九条・地蔵堂2 (6) 石左志 (2)

とまあ、ここまで書いて、
改めて、師匠からのメールと区役所からのを見比べてみました。

師匠のメールには、タバコ屋さんが言ったこととして、
「地蔵さまが盗まれてしまったのでお堂を閉鎖した。
その際、力石も撤去した」とありました。

で、区役所からのメールには、
「此花地区のまち案内の会の代表が、
「地蔵さんと一緒に2個の力石も盗難にあったと聞いております」
と言っております」とあります。

うっ? これって、「盗難話」は案内の会の代表者が誰かから聞いた話で、
区役所の方はそれをまた聞いただけ、言ってみれば「またまた聞き」

ご親切にお返事いただいたのに、イチャモンつけたみたいですみません。
これも力石を思うあまりですので、ご容赦を。

でもね、タバコ屋さんはこう言ったんです。
「力石はお堂が閉鎖されたとき撤去された」

ならば力石は盗まれたのではなく、
どこかに保管されているのではないでしょうか。

それに石の写真をもう一度ごらんください。
二つとも下部をコンクリートで固められています。
無理です。盗むのは。

師匠にそのことを伝えたら、
「力石があった場所はコンクリートで平らに埋められていた。
盗んだ人がこんなにきれいに整地していくでしょうか???」と。

やっぱりな。第一、こんな重い石、盗っ人なんぞに担げるわけがない。

保管場所は、私への回答から、
大阪歴博でも此花区役所教育委員会でもないことははっきりしています。

だったら、どこかにある。そう思ったら希望が出てきました。

此花地区のみなさーん!
お心当たりの方は、ぜひ、ご一報くださーい!

力石の無事を祈りつつ、吉報を待ってまーす!

尋ね石の時間です②

力石余話
03 /14 2017
大阪市此花区の地蔵堂の力石。

立派な刻字がありますが、これが読めません。
地蔵めぐりのマップを発行した地元の歴史グループに問い合わせするも、
「まったくわかりません」とのお返事。

オイオイオイ!

というわけで、いろんな方に聞きまくりました。
みなさまも挑戦してみてください。
まず、三文字の一番上の文字がこちら。

此花区西九条・地蔵堂2 (3)

いろいろ出ました。

私は「鷲」(わし)と解読しました。
古文書会の大御所も「鷲だ」というので気を大きくしたものの、
ほかの先生方から「違うよ」のご意見が多数出て、またまた「うーむ?」

「勢」と呼んだ方もいましたが、これは即、却下。

「盤(磐)」。この方は「盤古」の「盤」と解釈しましたが、
こちらも古文書会の先生方や静岡県立大学の先生から否定された。

で、圧倒的に多かったのが、「稽」(けい)。
下の文字と合わせて「稽古」(けいこ)。

静岡県立大学と花園大学の先生は、迷うことなく「稽古」。
大阪(なにわ)歴史博物館の学芸員さんも同意見。
最終的には高島先生も「稽古」。

ちなみに、
右の石は大阪市浪速区・敷津松之宮神社の「稽古石」です。

此花区西九条・地蔵堂2 (4) img852.jpg

石担ぎの稽古に使ったんでしょうね。
そういう石として「力量石」とか「試し石」「剛試」と刻んだ石もあります。

石の命名もさまざまで、「虎」「龍」ならわかりますが、
「朝顔の種」とか「ボタ餅」「鮓司」「牛の顎」(あご)となると、
「ちょっとふざけ過ぎでは」なんて思ってしまいます。

男女の性器そのものずばりを命名した力石もありますので、
昔乙女の私、しばし顔を赤らめますデス。

さて、上の二文字は「稽古」で決まりました。
でもさらに難解なのは、一番下のこれです。

此花区西九条・地蔵堂2 (5)

私は「捺」(なつ)と読みました。

ほかに「袴」はかま)という意見もありましたが、
圧倒的に「捺」。
で、この石の刻字は、めでたく、

「稽 古 捺」に決定。

でもそうなると今度は、「稽 古 捺」ってどういう意味なんだ?
ということになったんです。

「捺」は、捺印の捺です。
つまり印鑑を押す動作の事をいいます。

このほかに、「手で押さえつける」「我慢する」「辛抱(しんぼう)する」
などの意味もあります。

となると、「稽古捺」というのは、

「重い石も辛抱して担げば、きっと力持ちになれていい稼ぎができて、
いい嫁さんもきてくれると思い、一生懸命稽古した。
そしたらその通りになった。その記念の印(しるし)にこれを刻んだ」

とまあ、少々こじつけの気味はありますが、これが只今のところの結論です。
「つらい稽古をした証しに、それを石に刻み印した」

みなさま、どう思われたでしょうか?
ご意見、お寄せ下さいね。

さて、この石の行方、驚きの事実が判明しました。

<つづく>

※参考文献・画像提供/「大坂の力石」高島愼助 岩田書院 2013

尋ね石の時間です①

力石余話
03 /11 2017
「大王石」と「幸次郎」探しの途中ですが、
またまた「尋ね石」発覚。なくなっちゃったんです、力石が…。

行方不明の顛末はひとまず置いといて、まずはこんな話から。

昨年5月、師匠の高島先生から一通のメールがきました。

「ご協力乞う」

師匠は決して偉ぶらない人ですから、不肖の自称弟子にも丁寧です。

「大阪の力石で解読できない刻字の力石があります。
姫なら読めますか?」

そう言って送ってきたのがこれです。
場所は大阪市此花区西九条1丁目35の立江地蔵堂
この地蔵堂の両脇に力石が2個、置かれているとのこと。

此花区西九条・地蔵堂2 (2)

奉納者は「小西連」

他の場所に「小西庄造」「小西□七」などの名前を刻んだ力石がありますから、
このあたりには小西というリーダーが率いる力持ちのグループがいたんですね。
その人たちが石を担いで力量を競い、その記念に各所に奉納した、
ここの地蔵堂の力石はそんな石の一つだったと思います。

立江地蔵堂のもう一つはこちらです。
石左志

   「左志石」

「さしいし」と読みます。「差し石」、つまり力石のことです。
これには「若濱佐□」と刻まれています。

さて、問題は最初の石の文字です。
三文字あります。
真ん中は「古」です。これは誰にもわかりますよね。
でもその「古」の上下の二文字が難解です。

私はこう解読したんです。

   「鷲 古 捺」

なぜ「鷲」(わし)としたのかというと、これ↓に似ていたから。
どうでしょう、似ていませんか?

この力石の文字は江戸後期の書家、岩佐一亭の書、「鷲」
一亭は山岡鉄舟の書の師匠です。
CIMG0496 (3)
岡山県笠岡市笠岡・笠岡市立郷土館

鷲の右上に刻まれているのは「東浜」
ここには瀬戸内海の海上輸送の一大拠点だった笠岡港があります。
昔は荷揚げに従事した浜仲士たちが大勢働いていました。

その人たちが東浜組西浜組に分かれて力石を担いで競い合ったんです。
しかし機械化という時代の到来で沖仲士たちはいなくなり、
石だけが残されました
その石が今、この郷土館に保存されているというわけです。

さて、私は大阪の地蔵堂の力石を「鷲 古 捺」と読みましたが、
でも意味が全然わかりません。

師匠の高島先生がせっかく頼って下さったのにね。
明確に答えが出せなくて、ホントに情けない

でも黙って見過ごせないのが私の性分です。
こうなりゃ他力本願しかない!
というわけで、私、みなさんに聞きまくりましたですよ。

、すぐにいつもの元気を取り戻しました。
なぜかって?

だって古文書会の大御所も大学の先生も博物館の学芸員さんも
みーんな「うーん」と言ったまま目を白黒。

その結果、もうてんでんばらばらに解読したんですから。

<つづく>

※参考文献/「大坂の力石」高島愼助 岩田書院 2013

たかが力石、されど…

柴田幸次郎を追う
03 /08 2017
明治初年、フランスからやってきたお雇い外国人、ルイ・クレットマン
当時24歳だったルイ青年は、滞日2年数か月の間に、
ぼう大な数の「日本」をカメラに収めていた。

しかしその写真535枚が陽の目をみたのは、なんと120年後の1990年代のこと。
「大王石」の写真はその中の一枚だったわけですが、
120年後の発見も、私がその中から力石を見つけたのもすべて偶然

祖父ルイの写真を発見した孫のピエールさん。祖父のルイ・クレットマン
img797.jpg
「若き祖父と老いた孫の物語」からお借りしました。

だから私は偶然ってなんて素敵な瞬間なんだろうって思ったんです。

さて、この石には「大王石」との刻字があったことから力石と判明。
そうなれば次に来るのは当然、それを担いだ人物の特定です。
その人物が判ったのは、「大王石」の写真発見のわずか4日後。
これまた偶然です。

私、これに執念を燃やしましたですよ。

なにげなくネットサーフィンで遊んでいたときのことでした。
「そばバカ日誌」というブログに、
「竿忠の寝言」なる変わった記事を見つけました。

引き込まれるように読んでいくと、
ひょっこり出てきたんです、「大王石」が…。
己の勘の良さ?を、一人ひそかに自画自賛

ブログ主は石川県白山市の蕎麦屋さん。
「竿忠のことをたくさんの人に知ってほしい。覚えていてほしい」
そういう思いで、この「竿忠の寝言」を載せていると書かれていました。

「竿忠」とは、
幕末から昭和初年を生きた江戸和竿師・初代「竿忠」中根忠吉のこと。
「寝言」は、その忠吉さんが生前、まるで寝言みたいにつぶやいた言葉を、
孫の三代目が綴ったものでした。

当時の職人の世界や人間模様がおもしろおかしくやるせなく語られていて、
夢中で読んでいるうちに、気が付いたら朝になっていました。

ちなみに、この忠吉のひ孫が四代目竿忠の中根喜三郎氏と香葉子さん。
香葉子さんは言わずと知れた落語家・故・林家三平師匠の奥さまです。

忠竿 (2)

詳細は2016年8月に書きましたのでよかったら見てください。

その「竿忠の寝言」の中の「東屋の全盛」にこうありました。

「日本橋柳町四番地、両国橋の角に釣具店で彦田茂八さん。
此お方は屋号を東屋といって、文化頃に起こった」

この茂八さんの妻は「おひさ」さんといって、
錦絵にも描かれた美人。
平成になってからも何度か記念切手になっています。

「おひさ」17歳。喜多川歌麿・画
C0100784 (4)

で、とうとう出てきたんです。大王石とそれを担いだ人の名が…。

「おひささんは、柳橋と名付けられた起こりの柳の木の下に、
昔、柴田幸次郎、俗称鬼柴田あるいは鬼幸とも称された
怪力の人が差した大王石のかたわらに水茶屋を出していた」

忠吉さんが言う「昔」って、どれほど昔のことかはわかりませんが、
幕末生まれの忠吉さんの記憶に名前が残っていたのです
柴田幸次郎は幕末よりそれほど遠くない時代に生き、
かなり名の知れた力持ちだったに違いありません。

そして「大王石のかたわらに」と言うくらいですから、
この力石もまた柳の木同様、誰もが知っていた名物だったかもしれません。

下の絵は亜欧堂田善の油彩画です。
向うにみえるのは両国橋。青々と勢いのよい柳の木があって、
たぶんそのそばに「大王石」があったはず。

おひさは大王石のかたわらに水茶屋をだしていたというのですから、
左手の建物がその水茶屋かもしれません。

相撲取りのような人物に番頭が「またのお越しを」とかなんとか言っている。

350px-Aodo_Denzen_21 (3)

とにかくこの石がルイ・クレットマンの写真に出ていた「大王石」で、
それを差した男が鬼柴田とも鬼幸とも呼ばれた「柴田幸次郎」と判明した。

どうです。すごい発見でしょう?

興奮のあまり、加えて徹夜で腹ペコだったので朝から大食らいしました。

ですが、ここまでトントンと進んできたこの話、
柴田幸次郎でまた、蹴(け)つまづきました。

不思議なことにこの人物、過去の地元の郷土史家たちにも、
朝倉無聲三田村鳶魚などの明治の風俗研究者の目にも触れたことはなく
また力石研究の故・伊東明上智大学名誉教授の記録にも出てこない。
もちろん、私の師匠、高島先生の力持ち名鑑にも登場しません。

それに「大王石」行方すらわかりません。

そんなわけで、
ここから一歩も前へ進めず、再び新たな挑戦の日々が始まりました。

で、思いあまって「そばバカ日誌」のブログ主さんへ、
四代目が何か知っていないか問い合わせました。
ブログ主さんは四代目とその妹・香葉子さんのいとこさんです。

半年後に届いた四代目さんのお返事は、
「竿のことならたいがいわかるが、力石のことはトンとわからない」

ちょいとヘコみました。
でもみなさん、見ず知らずの私のためにご親切に応じてくださって、
それだけでも有難い。感謝しなくちゃ罰があたる。

柴田幸次郎の名が判明しただけでも御の字です。
だって、謎の「大王石」の記述はこの「竿忠の寝言」にしかないんですから。

ですが、またまた探索が行き詰ったのも確かで、
なけなしの知恵やら当てにならない勘やら偶然やらに願掛けて、
再び、「幸次郎」を追う日々とあいなりました。

2竿忠 (2)

初代「竿忠」忠吉さんの「寝言」は、逆立ちしたってもう聞けないしなあ。

<つづく>

※参考文献/ブログ「竹林舎 そばバカ日誌 人生の徒然を」
※画像提供/「若き祖父と老いた孫の物語」東京・ストラスブール・マルセイユ
      辻由美 新評論 2002

UFO?

できごと
03 /04 2017
まだドキドキしています。

つい1時間ほど前の午後7時ごろ、
集合ポストへ郵便を取りに行こうと部屋を出たら、
山の上にひときわ鋭い光を放つ妙なものが…。

星でも飛行機でもありません。
月は別の場所で光っていたし、星はこれに比べたら塵(チリ)ぐらいの光です。

慌ててカメラを持ってきて撮影。
どんなに目を凝らしてみても全然動きは見られないのに、
写真で見たら、こんなに動いている。

CIMG3673.jpg

光る物体はほぼ円形で、
天空の上弦?の月の約10分の1、飛行機の100倍以上の大きさです。
ひときわ強く鋭く光っています。
カメラをズームにして撮ったら、下のような写真になった。

CIMG3674.jpg

ウン十年前、この同じ場所で見たんです、変なもの。
夏祭りの帰りでした。

家族4人で川沿いの道を歩いていたとき、同じ山の稜線上に
丸いオレンジ色の物体がフワンと浮かんでいるのを見たんです。
それは今夜のものとは比べ物にならないくらい巨大で、
そのオレンジの光を包むように、鳥かごみたいなものが外側にありました。

「あれ、なんだ!」
みんなで見上げていたら、
いきなり外側の鳥かご状のものがグルリと一回転。
次の瞬間、パッと消えてしまいました。

その同じ場所、同じ時間帯でまた…。
本当に、肉眼では全然動いていないのに写真ではご覧の通りです。
腕を手すりに固定して撮ってもやっぱり動いています。

CIMG3677.jpg

で、こちらの写真、PCで拡大したら色が付いていました。
思わず、ギョッ! 何なんですか、これ!

CIMG3675 (4)

こうして書いている間も、震えが止まりません。
私、また遭遇しちゃったんでしょうか、UFOに。

30分後、光が弱くなったり鋭くなったりを2、3度繰り返し、
パッと消えてしまいました。

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞