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ルイ・クレットマンのこと

柴田幸次郎を追う
02 /28 2017
こんな本を見つけました。
「若き祖父と老いた孫の物語」

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「若き祖父」とは、明治9年に24歳で来日したルイ・クレットマンのこと。
あの元柳橋の柳の根元の「大王石」を撮影したフランス士官です。

ルイ・クレットマンの名は、フランス側の1875年(明治8年)の資料、
「フランス顧問団・陸軍士官学校職員一覧」に、
「教官 地形学・築城学  クレートマン中尉」として出てきます。

さて、「若き祖父」に対する「老いた孫」とは、ルイの孫ピエールのことですが、
奇しくも彼は、祖父が亡くなったその同じ年に誕生。
当然、祖父の顔も過去も知らなまま成長します。

ところがふとしたことから、
明治時代の日本から故郷の両親や弟に送った祖父の手紙を入手し、
その後さらに、
祖父が建てたレマン湖のほとりの家で大量の写真を発見します。

それはルイ青年の来日から約120年後の1990年代のことでした。

日本の写真などを秘蔵していたレマン湖のほとりの家です。
img797 (2)
「若き祖父と老いた孫の物語」からお借りしました。

見つかった手紙や写真の祖父は、まだ24、5歳の青年で、
それに対して孫のピエールはすでに80歳
だから「若き祖父と老いた孫」なのだと著者は明かす。

発見された写真は全部で535枚
その中にあの「大王石」の写真が入っていたというわけです。

この本には、興味深い話がたくさんありました。

来日したルイ・クレットマンは、
フランス軍事顧問団の本部になっていた「カモンサマ屋敷」に入ります。
カモンサマとは桜田門外で暗殺された大老・井伊直弼のことです。

ちなみに「カモン」は井伊宗家の官名「掃部頭(かもんのかみ)」のこと。

「井伊の赤備え」
観光用の作り物          本物
CIMG3298 (2) CIMG3300 (2)
浜松市・龍潭寺

カモンサマ屋敷です。
本の著者によると、この写真はいつも書斎に掛けられていたため、
孫のピエールは子供のころから知っていたが、
祖母が「ベトナムで撮った写真」と
言っていたので、まさか日本とは思わなかったとのこと。

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「若き祖父と老いた孫の物語」より 左から3番目の椅子に座っているのがルイ。

その後、明治政府は東京番町にルイ個人の屋敷を建てます。
その家には「ムスメ部屋」というのがあって、
部屋にはルイの部屋に通じるドアがついていたという。

「ムスメ」とは公認の愛人、日本娘のことです。
斡旋業者がちゃんといて、
すでに「ムスメ」は異国人たちの各国共通語になっていたそうです。

私は遊女とか慰安婦とかこうした「ムスメ」の存在を知るたびに、
自分がそういう境遇に生まれなかった幸運に感謝せずにはいられません。

「ムスメ」の元祖ともいうべき女性は、
安政4年(1857)、初代アメリカ総領事として伊豆・下田にやってきた
ハリスにあてがわれた「お吉」です。
そのお吉を斡旋したのは、下田奉行支配組頭の伊佐新次郎でした。

牧之原茶園の幕臣を描いた「遺臣の群像」に、
伊佐が「唐人お吉」として蔑まれるお吉の身を案じる記述がでてきます。

でもルイは、こうした風習に批判的で、母への手紙には、
「ムスメの斡旋は何度も受けたが、ぼくにはまだいません」と書き送っていた。

下の写真は、東京の自宅で撮影したルイと日本女性たちです。
著者によると、母親への手紙に、
「特別の仲ではないから心配しないで」
と書かれていたそうです。

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「若き祖父と老いた孫の物語」より

、とやかく目くじらたてるのも無粋ではありますが、
「大王石」の写真です。
「ムスメ」?が写っているんですよね。白いこうもり傘を持って…。

でもまあ当時24歳の青年ですからね、いない方が不自然ですけど。

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この本からは残念ながら、
「ムスメ」のことも「大王石」のことも何一つわかりませんでしたが、
ほかの収穫がありました。
あの悲惨な昭和の大戦は、約70年前のルイが滞在したころの明治に
その出発点があった、そのことに気づかされました。

その明治10年に西郷隆盛「西南戦争」がありました。
その最中、ルイ青年はバカンスで京都・大阪めぐりに出掛けますが、
横浜から出航した船に兵士たちが乗りあわせていたことを書いています。

で、西郷はその戦争で自決するわけですが、
「維新正観」につづいて原田伊織氏の「大西郷という虚像」を読んだら、
この人はもうテロリストそのもので…。

うっ、こわ!

薩摩人っていったい何者なんだって思ってしまいました。
で、ふと頭に浮かんだのが以前読んだ「静岡の歴史と神話」

神話です。

九州に下り立った天孫ニニギは、
オオヤマツミから二人の娘との結婚を勧められます。
しかし姉のイワナガヒメは醜かったのでこれを断り、
美しいコノハナサクヤヒメと結婚します。

下の写真は、
コノハナサクヤヒメが祀られている静岡浅間神社の今年の絵馬です。
背後の賎機山にはお父さんのオオヤマツミの麓山(はやま)神社があります。
年に2度、娘は父に会いに行きます。これを「昇り祭」「降り祭」といいます。

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その後の話が面白いんです。

静岡では、コノハナサクヤヒメ(富士山)は、
伊豆の最南端・下田にいる姉のイワナガヒメ(下田富士)会いたさに、
背伸びばかりしていたので、あのように高くなったといわれています。

ですがこれが薩摩になると、
オオヤマツミとイワナガの父娘は侮辱された憎しみと腹いせのために、
笠沙岳にいるニニギとコノハナサクヤに石を投げつけた、となるそうです。

ちょっと激しい…。

県民性の違い、なーんて言ったら薩摩の方たちに怒られそうですが、
でもまあ、静岡県民が穏やかなのは確かです。

でも、がっかりすることはありません。
「大西郷という虚像」の著者、原田氏はこうも言っているんです。

「西郷は策謀を好み、戦(いくさ)好きではあるが、
長州木戸孝允井上馨山県有朋らと違って、
不正という汚濁には包まれていなかった。
明治新政府の腐敗に対して強い怒りを覚えたはずで、
金銭欲については淡泊であったと見受けられる」

で、原田氏は明治長州閥が犯した不法行為の数々を斬った刀で、
「明治は清廉で透き通った公感覚と道徳的緊張=モラルをもっていた」
と主張した司馬遼太郎氏を斬り返し、
「一体どこをみた論だろう」と痛烈に批判しています。

そうだそうだと、思わず原田氏に拍手。

さて、話を戻します。

明治政府は、ルイ青年が滞在した明治10年ごろ、
それまでのフランス依存から急激にドイツへ傾斜していきます。

ドイツ憲法に倣って明治憲法を作り、
軍隊、徴兵制、軍の統帥権を政府から天皇直属にし、
治安維持法教育勅語で弾圧や統制を始めます。

昭和になると、ドイツからヒトラーユーゲントが来日し、
日本の青年たちがヒトラーに会いに行くなどの交流が盛んになりました。

来日したヒトラーユーゲントと静岡の青年たち。
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「戦争に協力した青年団」より   三原山にて。

まさに、明治10年代にドイツと仲良くなったことで、そのドイツ流の体制が、
そのまま昭和20年の敗戦まで続いたということです。

明治時代に、日本がドイツへ軸足を移したことで、
フランス士官たちは帰国を余儀なくされます。
それはまた、青年ルイに再び悪夢を思い出させた出来事でもありました。

ルイが日本に来る6年前、故国フランスとドイツが戦った普仏戦争が起ります。
故郷のストラスブールはドイツ軍に侵攻され、ついにドイツ領となります。

侵略者から、「ドイツ国籍に入る者はそのままここにいてよろしいが、
そうでない者はここから出ていけ」と言われて、
両親は泣く泣くドイツ国民になり、
ルイはフランス国籍を選んで出て行ったそうです。

その6年後、今度は日本政府がドイツを選んだためこのフランス青年は、
明治11年、日本を去りました。

わずか2年数か月の日本滞在だったけれど、ルイ青年には忘れがたい体験で、
1914年(大正3年)、63歳でこの世を去るまで、
部屋にサムライの鎧を飾り、壁にはカモンサマ屋敷の写真を飾って、
日本を偲んでいたという。

さて、フランス士官の写真535枚は、
120年の時を経てその孫に偶然、発見されましたが、
私が3年前にバスを待つ間、図書館で「大王石」を見つけた幸運も、
偶然がもたらしたものでした。

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偶然って、なんて素敵な瞬間なんでしょう。

ルイ青年から「大王石」の話は聞けませんでしたが、
でもこの「若き祖父…」の本によって、私は、日本とフランスを結ぶ
深くて味のある歴史のつながりを垣間見せていただきました。

<つづく>

※参考文献・画像提供/「若き祖父と老いた孫の物語」
            東京・ストラスブール・マルセイユ 
            辻由美  新評論 2002
※画像提供/「静岡民衆の歴史を掘る」「戦争に協力した青年団」
     肥田正巳 静岡新聞社 1996       
※参考文献/「陸軍創設史」フランス軍事顧問団の影 篠原宏
      リブロポート 1983 
     /「静岡の歴史と神話」静岡学問所のはなしを中心に
      山下太郎 吉見書店 昭和58年
     /「大西郷という虚像」原田伊織 株式会社悟空出版 2016        
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師匠のブログをよろしくお願いします

ごあいさつ
02 /25 2017
私の師匠「三重之助」先生が力石のブログを開設しました。

「ご存知ですか力石!」
http://kawasaki0607.blog.fc2.com/

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長年、力石を調査研究してこられた力石の専門家です。

とっておきの話、先生にしか語れない力石、

日ごろ無口な先生がどんなお話をしてくださるのか興味津々です。

心に響く力石の俳句短歌もご披露くださると思います。

どうぞ、よろしくお願いいたします。

幸次郎探し、3年目に突入

柴田幸次郎を追う
02 /22 2017
東京・隅田川河畔に架けられていた元柳橋
その橋のたもとの柳の根元にあった「大王石」と、
それを担いだ柴田幸次郎を探しているうちに、なぜか話は明治維新に。

そのきっかけになったのは、寄せられた一通のコメントでした。

ブログで、
「どなたか柴田幸次郎を知りませんかァー!」と、呼びかけたところ、
「幕末、フランスへ渡った外国奉行の柴田剛中という人がいる。
幸次郎はその柴田の神田の親戚かも」とのコメント。

あら、うれしやと、
さっそく、柴田剛中(たけなか)なる人物に取り組みました。

中柴田剛 (2)

で、この柴田剛中さんを調べているうちに、
この人のどこまでも真面目で誠実な人柄に惚れ込み、
さらに、
攘夷だ倒幕だと賊どもが騒ぐ中、外国との交渉や日本の近代化へ、
身命を賭して働く幕臣たちの姿に、私はすっかり感動してしまったのです。

だって今まで、
日本の近代化は維新の志士たちの功績だとさんざん教わってきたのに、
全然違っていたんだもの。

彼ら明治新政府の元志士たちが、
「開国、外国との条約締結、外国航路の運航、大資本の商工会の設立、
ロシアとの北方領土の一歩も譲らない交渉などは、
みーんな自分たちがやった」といっていたのに、
それはウソで、本当は全部幕府がやったことだって知っちゃったんですから。

で、肝心の柴田剛中と「幸次郎」とはつながらなかったけれど、
コメントをいただいたことで、
私は明治維新の真実を知ることが出来て、感謝感謝です。

さて、大王石と柴田幸次郎探しは3年目に突入しました。
そもそもの発端は、図書館で見つけた一枚の写真でした。
もう何度かお話していますが、おさらいです。

これです。
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「フランス士官が見た近代日本のあけぼの」より

これは明治9年、お雇い外国人として日本にやってきた
フランス士官のルイ・クレットマンが撮影したものです。

これを見つけた時は狂喜乱舞、
とまではいきませんでしたが、とにかく興奮しました。
だって、ばっちり力石が写っていたんですから(赤丸)。

決め手は石の刻字。力石に間違いないと確信しました。

クローズアップしたのがこちら。後ろにあるのは米俵です。
img188 (15)

「大王石」とはっきり刻まれています。

写真に撮影場所が書いてなかったので、まずは場所探し。
背後の橋が「両国橋」とわかるまで数日かかりました。
そこから糸がほぐれていき、
左はしの大木は、江戸時代からその名を知られた夫婦柳の一本と判明。

この柳の木は元柳橋のたもとにあって、
歌川広重の「名所江戸百景」「江都八景暮雪」に描かれ、
亜欧堂田善の銅版画「両国勝景」にもなっていました。

力石が写り込んだ類似の写真や絵を探したら、出てきました。

こんなのや、
img210 (4)
「古写真で見る江戸から東京へ」より   撮影者・撮影年不明。

このような絵が…。
小林清親の作品「元柳橋両国遠景」
0421-C069 (6)

師匠の高島先生が「絵の中の石、本当に大王石かなあ」というので、
東京都練馬区立美術館の清親研究者にお聞きしたら、
「力石でよいのではないでしょうか。
意識的に描いているにほかありません」と。

で、もう一枚、石らしいものが描かれている絵を教えていただきました。
清親の弟子の井上安治の「元柳橋」です。
面白いのは、
両国橋の向うの特徴的な同じ建物が、写真や絵に必ず出てくることです。

井上保治 元柳橋 (2)
東京都立図書館

どうやらこの元柳橋と柳の木は、
両国橋を写す格好の撮影ポイントのようでした。

だから、フランス士官のルイ・クレットマンも、
その同じ場所で撮影したのだと思います。

で、このクレットマンさんって、一体、どんな人だったのか、
それは次回に…。

<つづく>

※画像提供/「フランス士官が見た近代日本のあけぼの」ルイ・クレットマン
    アイアールディー企画 2005
    /「古写真で見る江戸から東京へ」世界文化社 2001

「破邪顕正は人間界の常道である」

柴田幸次郎を追う
02 /18 2017
ものすごい面白い本と出会いました。
「維新正観」

著者は蜷川新。明治6年生まれ。
国際法を学び、政治、外交、赤十字などの
国際会議に列席する任務にあたっていた。

父は大阪城で死亡した将軍家茂の側近
著者は母親から秘事として、
「家茂は茶にを盛られて殺された」と聞かされていたという。

何が面白いかというと、
近親者たちが幕末動乱の中枢にいた当事者であること、
ご自身も慶喜公の実子とパリで同宿するなど、
二次資料に頼る後世の歴史家と違い、圧倒的な臨場感があることです。

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私が目を見張った記述はいくつかありますが、
3つほどあげてみます。

① 西郷隆盛についてです。著者は容赦なくこう断言しています。
「西郷は乱を好み、世を騒がした人たるに止まり、
日本人民に利益した人物では無論ない。
封建武士の典型でもない。政治の改革をした人でもない。
徹頭徹尾、謀反人であった」

「西郷は強盗団を組織して江戸市中で略奪、暗殺を繰り返した。
薩長の大久保木戸岩倉などの反幕府勢力は勤王を口にしながら
詔勅や錦の旗を偽造し世人を欺き、天皇の暗殺を企てた。
尊皇は名目だけであった」

② 坂本龍馬暗殺について。
「暗殺者は新撰組だとか会津の佐々木只三郎だとか
今井信郎
だとかいわれているが、
当時の旅館の女中が暗殺者は鹿児島弁を話していたといっていた」

薩長、特に西郷さんの故郷・薩摩の方々にとっては、
許しがたい発言だと思います。
ちょっと、ハラハラ。

奥医師・桂川甫周の娘、みねさんの夫は佐賀藩士で、
聞き書き「名ごりの夢」によると、
夫の今泉氏は大の徳川嫌いだったので、夫婦げんかはいつも、
「薩長が…」「徳川が…」になったと書いています。

しかしみねさんは病没した夫の墓を、
夫が尊敬していた西郷隆盛の墓地内に建立したのだそうです。

③ 榎本武揚が北海道に新共和国の樹立をはかり、
官軍と戦闘になったとき、その榎本隊にフランス人士官8人もいた。
私はそのことに驚きましたが、もう一つはその8人の中に、
あの「元柳橋」のたもとにあった「大王石」の撮影者がいたのではないか、
という期待を持ちました。(まだ調べてはおりませんが…)。

「維新正観」の著者・蜷川新。昭和27年撮影。80歳。
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むろん、維新の真相などという大それたことは、
私ごときには何もわかりません。
ですが、この「維新正観」に共感を覚えるのは、この著者が
「権力にへつらう人物を最も軽蔑する硬骨漢である」こと。
「官軍に惨殺された小栗上野介を最も優れた人物」として礼賛していること。
「幕府には新政府とは比較にならないほどの高い外交能力があった」
この3点があってのことです。

この本の解説者・礫川全次氏の言を借りれば、こういうことです。
維新政府を担った政治家、外交家には識見や能力の点においても、
モラルの点においても、問題な人物が多かった

著者・蜷川新に叩かれたのは、岩倉具視や西郷隆盛だけではない。
静岡市民になじみの慶喜公にも容赦なくその矛先が向けられています。
内容は本でお読みいただくとして、慶喜さんのお身内にはこんな話も…。

聞き書き「徳川慶喜残照」に、
孫の大河内富士子さんと慶喜さんの臨終に立ち会った叔父さんとの
こんな会話が載っています。

「おやじもいろいろ言いたいことがあったろうに、
何一つ言わずに逝かれたのはお気の毒に思うね」
「でももし本当のことをあれこれおっしゃったら、日本の歴史が変わりましょ

静岡時代の慶喜公は訪問者に対して好みをはっきり持っていました。
アメリカ人はだいたい面会拒絶
牧之原の中条や大草たちには息子の代になっても丁寧に会っています。

乞食になった旧幕臣たちが「おめぐみ」をもらいに訪れるのも断りますが、
見かねた使用人がポケットマネーから与えたりしています。

慶喜さんは明治30年、静岡から東京へ移りましたが、
その翌年、明治天皇とお酒を酌み交わしたそうです。
その折り、天皇からこんな言葉をかけられたという逸話があります。

「今日やっと罪滅ぼしができた
なにしろ慶喜が持っていた天下をとったのだから」

この「維新正観」から私は、
「維新」という言葉は、かつて学校で教わった
「世直し」とか「封建制社会の打破」などといった単純、安直なものではない、
ということと、維新をいろんな角度から読み解き真実を追求することの大切さ、
そして、幕末維新の「邪(まやかし)」は、
決して遠い過去の出来事ではない、ということを教えられました。

<つづく>

※参考文献・画像提供
/「維新正観」秘められた日本史・明治篇 蜷川新 昭和27年
復刻 注記・解説 礫川全次 批評社 2015
※参考文献
/聞き書き「名ごりの夢」今泉みね 昭和38年 平凡社
/聞き書き「徳川慶喜残照」遠藤幸威 朝日新社 1982

企画展「日本刀 鉄(くろがね)の輝き」

できごと
02 /15 2017
宣伝です。

私もちょっぴり関わっている静岡市文化財資料館の企画展、
「日本刀 鉄(くろがね)の輝き」
ただ今、開催中です。

協力は「草薙刀剣会」さん。

チラシ・左上の鍔(つば)は、草薙刀剣会代表・川島義之氏の作品
「妙法蓮華経薬王菩薩文字透鍔」
平成28年「日本美術刀剣保存協会 新作名刀展 調金の部」会長賞受賞。

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鎌倉初期から江戸時代までの刀剣23口、(つば)・小道具約30点、
新作鍔約20点、鉄砲4丁を展示。

特別出品に徳川家光公奉納の御神宝、県指定の太刀など。

刀剣会の方々が常時会場に待機。説明をしてくれます。
また、会場に小型のライトが設置されていますので、隅々まで堪能できます。

先日、刀剣会会員による実演を見せていただきました。

田村正明氏による「柄(つか)巻き」です。
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福與裕毅氏による「鍔」製作です。
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地鉄の研磨加工、形紙に書いた文字などを地鉄に糊付け、毛書、
耳廻り切断、ドリル・糸ノコで穴あけと切断、ヤスリかけ、砥石、錆付けなど
気の遠くなるような工程が続きます。

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チラシ中ほどの鍔は、
平成28年「日本美術刀剣保存協会 新作名刀展 調金の部」で
優秀賞を受賞した福與氏の作品「八ツ橋透鍔」です。

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草薙刀剣会代表の川島義之氏の象嵌(ぞうがん)細工です。
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「あくまでも趣味でやっています」という川島氏。
刀剣と出会って40年。鍔製作30年という大ベテランです。

川島氏の鍔の作品と象嵌細工のストラップです。
梵字、花などまったくのオリジナル作品。繊細で実に美しい。

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「刀剣女子」のみなさんから質問攻めの川島氏。
年配者はちょっと遠慮しています。

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実演は今月18日(土)、19日(日)にもあります。
各日13:00から一時間ほどです。

ぜひお越しください。

静岡市文化財資料館(静岡浅間神社境内)☎054-245-3500

またも血を吸う

柴田幸次郎を追う
02 /11 2017
清水次郎長が監獄にぶち込まれたという知らせは、
すぐに東京の山岡鉄舟の元へ伝えられた。

山岡は即座に次郎長救出に動き出します。
その一つが、
天田五郎が書いた次郎長の武勇伝「東海遊侠伝」の利用です。

天田は奥州磐城平(福島県)の藩士の子で、15歳のとき戊辰戦争に出陣。
ところが帰ってくると、両親と妹が行方不明になっていた。
天田は、父や母、妹をさがす全国行脚を始めます。

そして25歳の時、山岡鉄舟と出会い、
勧められて次郎長の養子になります。

写真は次郎長の養子時代の天田五郎(28歳)です。
明治14年、次郎長は富士山麓開墾事業を始めます。
五郎は次郎長夫婦と共に開墾地に住み込みます。

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富士山麓の開墾地にて。

そんな五郎さん、次郎長と暮すうちにその生き様に魅せられ、
武勇伝を書き上げます。それに山岡は目をつけたわけです。
本には名だたる政府要人の序文を付けて体裁を整え、
次郎長逮捕の2か月後に刊行。各界著名人や政治家に配布した。

減刑嘆願のための本ですから、次郎長の優れた面を誇張してあります。

この「東海遊侠伝」のおかげで次郎長の評価は高まりますが、
出獄できたのは出版から1年7ヶ月もたってからでした。
でも、判決は懲役7年ですから、まあ成功したというべきですね。

次郎長を投獄し、民権運動家の弾圧に力を発揮した県令・奈良原繁は、
静岡市民の不評を買い、赴任からわずか9か月でこの地を去ります。
彼の勤務状態は、県庁に朝、2時間ほど顔を出して、
あとは料亭で芸妓相手に遊んでいたそうですから、ふざけた野郎です。

近年でも、月に数回しか登庁しなかった知事さんもいたみたいですけどね。

写真は、内外新報社時代の天田五郎(33歳)です。
五郎は31歳の時、有栖川宮家に奉職のため、次郎長との縁組を解消。
しかし、次郎長夫婦を「終身の親」と知人に語っていた。

富士の開墾時代と比べて、変われば変わるもんですね。

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さて、その奈良原です。
「次郎長の風景」(深澤渉」によると、
奈良原は次郎長が釈放された翌年、今度は工部省鉄道局長の肩書で、
なんと、次郎長の前に現れてこう言ったそうです。

「あれ(投獄)は政府の方針で致し方なくやったことだ。
で、ほかでもないが、今度ここに鉄道が通ることになった。
土地の買収、家屋の移転、工夫人足の調達など、
親分にぜひやってもらいたい」

鉄道という文明開化の新事業です。大もうけは確実です。
でも次郎長はこの申し出をきっぱり断ります。

さすが、次郎長さん。筋の通らない金や名誉に転びません。
まさに、
自らの尊厳を守り、山岡への義理を通した東海一の大親分です。

次郎長の前半生はまぎれもなく、反社会勢力のヤクザ渡世
ですが、後半生は、油田開発、塩田事業、富士山麓の開墾。
また、海外貿易の重要性を悟り、清水港を整備、海運事業も展開するという
れっきとした実業家です。

それに獄中で民権運動家の前島豊太郎から聞いた
「新しい世界」への第一歩として、経営する船宿で「英語塾」を開講。
次郎長の元へは慶喜公を始め、明治の軍人たちも足しげくやってきました。

明治19年、清水波止場に開業した次郎長の船宿「末廣」
徳川慶喜撮影。
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平成13年に復元された「末廣」です。
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静岡市清水区港町

清水港の発展は、次郎長のおかげといっても過言ではありません。
その陰に女房の三代目お蝶がいたことも忘れてはなりません。
この女性は三河国西尾藩の武士の娘です。

ちなみに作家の諸田玲子さんは、なんと次郎長の末裔だそうです。
諸田さんは吉川英治文学新人賞や新田次郎文学賞などの受賞作家です。

こちらは、その諸田さんが清水波止場を舞台に書いた「波止場浪漫」
次郎長の娘おけん(実在の人物)の恋物語です。
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日本経済新聞社 2014

まあ、どう考えても奈良原繁の、
「土地買収などで面倒が起きた時、ヤクザなんだから役に立つだろう」
という人を小馬鹿にした認識は、見当はずれもいいところですね。

この男、静岡県令として赴任してきたとき、こう言い放ったそうです。

「勝海舟や山岡鉄舟は、おのれのみの栄達を望んで旧幕臣たちを裏切り、
新政府の役人になり背信行為をなす日和見主義者である。
それに取り入っている次郎長は信用できぬ要注意人物である」

写真は34歳でになった天田五郎です。
初めは鉄眼、のちに愚庵と改名。次郎長の死後11年目に51歳で没しました。
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慶喜公のみならず静岡学問所の教授たちにまで政府の密偵が張り付く、
そういう新政府のしつこい監視や猜疑心を回避させるべく、
勝や山岡はあえて政府中枢に入っていったと私は思うのです。

だから、大久保利通などに揺さぶりをかけて、
牧之原入植者の中条や大草たちへ救済金を出させることもできたのです。

明治20年、その大草たちの天覧流鏑馬(やぶさめ)を企図したのも、
慶喜公の朝敵の汚名を削ぎ名誉回復をはかるための、
勝海舟の考えであったといいます。

その同じ明治20年、山岡鉄舟は子爵になった。

それを伝達に来た元長州藩士の井上馨に山岡が尋ねた。
「井上さんはどんな功労があって一番上の侯爵になられたのか」
すると井上が、
「お国のために満身創痍の働きをしたからだ」と答えた。

それを聞いた山岡が、
「それなら自分の体には傷一つないから爵位をもらう資格はない。
次郎長なら体中傷だらけだ。爵位ならその男だ」とからかったとか。

次郎長の生家
CIMG1570 (2)
静岡市清水区美濃輪町・次郎長通り。

そのとき、山岡はこんな狂歌を詠んでいます。

寝て起きて働きもせぬご褒美に
     蚊属(華族)となりてまたも血を吸う


その翌年、山岡は病死した。享年52歳。

次郎長はこの大恩人「やまおかせんせいさん」の葬儀に、
雨の中、旅姿で参列したということです。

<つづく>

※参考文献/「次郎長の風景」深澤渉 静岡新聞社 2002
※参考文献・画像提供/「清見潟」第24号「天田五郎(愚庵)が次郎長に
            出会うまでの遍歴と清水港時代をめぐる人々」
            山田倢司 清水郷土史研究会 2015

「まだまだ…」

柴田幸次郎を追う
02 /06 2017
慶喜さんは、
祖先・家康の隠居地・静岡市で30年も過ごしたわけですが、
何ゆえ、謹慎生活がそれほど長きにわたったのか。

「そろそろ東京へ帰ってもいいのでは」という話が出ると、
決まって現れるのが勝海舟で、その都度、「まだまだ」と押しとどめていた。

明治元年・江戸開城のころの勝海舟(45歳)肖像画。
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「静岡史跡めぐり」より

宿敵だった長州の木戸孝允は明治10年に病死し、
東京招魂社(靖国神社)を実現させた大村益次郎は、
同じ元長州藩士に暗殺されて、すでにこの世にいない。

もう一方の宿敵だった薩摩はというと、明治10年、西郷隆盛が自死。
翌年には慶喜公に非常な憎しみを抱いていた大久保利通が暗殺された。
倒幕の急先鋒だった公卿・岩倉具視も明治16年に鬼籍に入った。

それでも海舟は「まだまだ」と言い続けた。

晩年の勝海舟。
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海舟がこんなふうに慎重にしていたのには、いくつか理由がありました。

「慶喜を護衛していた元精鋭隊の中条景昭や大草高重らが牧之原にいる」
として、
政府は警戒を怠らなかったそうですから、
明治も半ばになっても「朝敵」として狙われる心配は充分あった。

また、旧幕臣たちが慶喜公を担ぎだして再び兵をあげる心配や、
逆に旧幕臣から「裏切り者」として狙われる危惧もあった。

以前、会津へ行ったとき、私は地元の方から
「慶喜は会津藩を捨てて大阪城から一人で逃げた卑怯者」
と言われたぐらいだから、
明治のころの恨みつらみはもっとひどかったのではないでしょうか。

静岡市の自宅で弓を引く慶喜公。
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徳川慶朝氏所蔵  「慶喜邸を訪れた人々」より

全国22都市を結んで行われる「大政奉還150周年記念」スタンプラリーが、
始まりました。私のスタートはやっぱり静岡から。スタンプの慶喜さんです。
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「明治は遠くなりにけり」どころか、平成の世にもこんなことがありました。
平成13年、作家・早乙女貢が長編小説「会津士魂」を刊行。
その出版記念会で、早乙女がこんな挨拶をした。

「会津の悲劇は会津攻防戦で終わったわけではない。
倒幕に成功した薩長は、憎悪をあらわにして、
徹底的に敗戦の会津に弾圧を加えた。
その結果、薩長藩閥政府による欺瞞の歴史が正史とされ、
御用学者によって真実が抹殺された。

その歴史の仮面をはがすことは大変でした。
連載中に受けた<迫害は編集者にも及びました」


誰が何のためにそのような脅迫や迫害をしたのか知りませんが、
平成13年といえば維新から133年、一世紀以上もたっているというのに、
凄まじいというほかありません。

「真実の暴露」を恐れるあまり、とでもいうのでしょうか。
人間の性(さが)の底知れぬ闇の深さ。ゾッとします。


さて、明治時代の慶喜さんはというと、
市内だけではなく、電車に乗って県西部まで気ままに出歩いていたし、
子供たちものびのび過ごしていました。
でも、一見、平穏そうな慶喜家ですが、
実は、2度も土蔵破りの被害に遭うという物騒な事件も起きていました。

慶喜さんは3度転居。これは静岡での最後の住まいです。
土蔵破りが入ったのはこの家。
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静岡市西草深 「深草」でなくて「草深」です。時々間違える人がいます。

2回目の盗賊は二人組で、のちに東京で捕まります
山形県出身の「最上小僧」と異名をとる名うてのドロボーでした。
ただ、邸内には複数の警備官が昼夜常駐し猟犬もいるというのに、
犬は吠えず誰も気付かなかったというのも不思議な話です。

しかし、「次郎長の風景」(深沢渉)という本に、
「政府は慶喜の屋敷にスパイを大勢送り込んでいた」とありますから、
そういうスパイが手引きしたことも考えられます。

そんなこんなで、
海舟の「まだまだ」の判断は正しかったのかもしれません。

明治7年、元薩摩藩士の大迫貞清が静岡県令として赴任してきます。
慶喜さんはさっそく大迫のもとへ、就任のお祝いに出掛けています。

大迫は大変温厚な人で、敵対した旧幕臣たちの巣窟・静岡市へきても、
大勢の人たちと交わり、あの清水次郎長とも仲良くなります。
そして9年もの長い県令時代をここで過ごします。

そのあとにやってきたのが、同じ元薩摩藩士の奈良原繁です。
コワモテの猛者、奈良原が慶喜公の住む静岡へなぜやってきたのか、
「次郎長の風景」の深沢氏はこう分析しています。

「明治10年ごろになると、
薩長藩閥政府の傲慢な政治に対して、各地で人々が不満を持ち始め、
それが「自由民権運動」として全国に広がっていった。
その摘発と弾圧のために選ばれてここへやってきた」というわけです。

この人はその後県令として赴任した沖縄でも、苛酷な弾圧をしています。

下の絵は、言論弾圧の諷刺画です。明治21年、「トバエ」掲載。ビゴー画。
「トバエ」はフランス人の画家・ビゴーが横浜で発行していた諷刺雑誌。

警官がトバエ片手に、「民権論」を唱える新聞記者にさるぐつわを噛ませて
弾圧している。それを右上の窓からビゴーがのぞいて苦笑しています。

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奈良原県令は、「ヤクザが自由民権運動と結託する可能性大」として、
着任2か月後の明治17年2月、次郎長を捕えて監獄にぶち込んだ。
まずは「博徒を自宅に招いた」という罪で…。
次郎長さん、もしかして「共謀罪」適用?

次郎長はこの監獄で、前島豊太郎という人物と出会います。

弁護士で静岡県議会議員の前島は、自由民権運動の活動家でもありました。
その前島は次郎長より3年も前の明治14年、
「すべての人間は平等でなければならない。天子さまも同じだ」と演説して、
「不敬罪」で捕まっていたのです。

温厚といわれた大迫県令時代に捕縛されていたわけですが…。

で、次郎長は監獄でその前島と初対面。
奈良原県令がわざわざ引き合わせたようなものです。

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静岡市清水区・次郎長通り

こうして元ヤクザの次郎長と弁護士の前島は、
この監獄で「臭い飯」を食う仲間となり、
その前島から聞かされた「自由・平等・博愛」の話は、
次郎長が「新しい世界」を考えるきっかけになりました。


<つづく>

※参考文献・画像提供/「慶喜邸を訪れた人々」前田匡一郎 
          羽衣出版 平成15年
※参考文献/「次郎長の風景」深澤渉 静岡新聞社 2002
※画像提供/「静岡の史跡めぐり」安本博 静岡県地方史研究会 昭和50年

晴れ舞台

柴田幸次郎を追う
02 /02 2017
「牧之原の真実をなんとしてでも後世に書き残しておかなければならない」

静岡市在住の作家・江崎惇氏が、
その思いをようやく「侍たちの茶摘み唄」として世に出したのは、
亡くなる3年前の平成4年のこと。構想からすでに20年もたっていた。

それから19年後、今度は地元生まれの郷土史家・塚本昭一氏によって、
より詳細で、写真をふんだんに取り入れた
「牧之原開拓秘話 遺臣の群像」が刊行された。

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その塚本氏は本の末尾にこう記しています。
「彼らは幾多の困難にもめげず、直参旗本としての矜持を保ち続け、
この地に異質の文化と新しい産業振興をもたらした」

その彼らが、
直参旗本だったかつての栄光を再び世に知らしめた出来事が起きます。

明治維新もすでにふた昔前となった明治20年の春、
大草高重の元へ東京の勝海舟と山岡鉄舟から手紙が届いた。
なんと、明治天皇天覧流鏑馬(やぶさめ)への出場要請でした。

それから半年後の10月31日、いよいよ天覧流鏑馬の当日を迎えた。
場所は東京・千駄ヶ谷の徳川家達邸。
出場は16組。うち牧之原からは、
大草高重、山名時富、小島勝直の3人が三騎揃えで晴れ舞台に挑んだ。

写真は、天覧流鏑馬で見せた山名信次郎時富の雄姿です。

山名家の祖は、清和源氏の支流・新田義貞の子、山名冠者義範。
大草家とは親戚で、代々御庭騎射を務めた騎射の名家。

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山名家蔵 「遺臣の群像より

リーダーの大草高重は、
「騎射は大草殿の右へ出る者はいない」といわれた名人です。
鎌倉時代の装束で、威風堂々の出場。


このときの様子を江崎惇氏はこう書いています。

「進行係の鉄舟が百戦錬磨の肺腑をえぐるような大声で呼ばわった。

   静岡県牧之原士族 大草高重

静岡県の次に牧之原がついている。
誰もが、この男が旗本でありながら名利に拘泥せず、
刀や槍を鋤や鍬にかえて悪戦苦闘している男か、と一様に感嘆した」


「牧之原士族」
重々しく、栄誉ある紹介です。
苦労を共にした三人に、熱い思いが込み上げたはずです。

私はこの「牧之原士族」の活字を見るたびに、ウルウルしてしまいます。

「天覧流鏑馬図鑑」の冒頭に描かれた大草多喜次郎高重です。
出自は三河国大草郷。祖は足利尊氏に仕えた公経(きんつね)。
四条流と並ぶ儀式料理の大草流庖丁師を輩出しています。

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徳川宗家蔵 「遺臣の群像」より

大草、山名、小島ともに三箭(や)、見事に命中。
この日、大草高重は、征夷大将軍しか所有できない
「重籐弓(しげとうのゆみ)」を天皇から賜りました。

元々、騎射の名門に生まれ、その才能にも恵まれた大草は、
かつて藩主に騎射を教えていたほどの身です。
名誉あるこの弓を与えられるのに一番ふさわしい人物だったのでしょう。

実はこの弓には後日談があるのです。

弓は戦後、大草家から離れてその後長い間、行方不明になっていたそうです。
「遺臣の群像」の著者・塚本氏がそれを静岡新聞で呼びかけたところ、
静岡市文化財協会の理事から「個人が所有している」との連絡がきた。

塚本氏と島田市博物館の関係者が所有者宅へ駆けつけてみると、
まさしく本物。
いろんな人の手を経て骨董屋に流れたとのことで、
60年ぶりに最後の所有者から、無事、大草家へ戻ったということです。

弓の発見は今から14年前の平成15年のこと。
その10年前の平成5年に、
今、私がちょっぴり関係している静岡市文化財資料館での刀剣展で、
「伝・大草高重所有の弓」として展示されたそうです。

ちなみに現在、同資料館では、
企画展「日本刀 鉄(くろがね)の輝き」が始まったばかりです。
で、やっぱりおいでになりました。着物姿の「刀剣女子」さんたちが…。
嬉しいですね。刀に着物のお嬢さんたち、会場がとっても華やぎます。

こちらの写真は、天覧流鏑馬に出場したときの小島勝直です。
出自は近江国。先祖は家康の直参旗本。勝直は小笠原流騎射の名手。

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小島家蔵 「遺臣の群像」より

さて、明治天皇はこの流鏑馬がよほどお気に召したのか、
翌11月、今度は大草たちを皇居に招き、皇太子(のちの大正天皇)と共に、
吹上馬場にて流鏑馬をご覧になったそうです。

しかし、
いつも牧之原の侍たちを気にかけていた山岡鉄舟は、
彼らの見事な活躍ぶりを見届けた翌年、病死。

大草はこの天覧流鏑馬に、
「徳川家への人生最後のご奉公」として臨んだそうですが、
その任を見事に果たした5年後、57歳で波乱の生涯を閉じました。

その大草と共に出場した山名も、大草と同じ年に59歳でこの世を去り、
小島はその2年後、二人のあとを追うように、57歳を一期として
開拓に生涯をささげた牧之原の土となりました。

明治2年、入植した旗本は240余世帯。
現在、牧之原で茶農家をしておられる旧士族は、
天覧流鏑馬に臨んだ大草、山名、小島家と、
大草高重の生家・和田家の4家を含む9世帯だそ
うです。

富士を背に、牧之原の台地に建つ中条金之助景昭の銅像です。
金之助中条
静岡県島田市  昭和62年建立。 島田市HPよりお借りしました

大草と共に入植士族の先頭に立ち、
牧之原を大茶園に育て上げた開墾方頭の中条景昭は、
大草に遅れること4年後の明治29年、69歳で他界。

山岡鉄舟の一刀正伝無刀流を継承した中条の子息・克太郎は、
のちに剣道の指導者として静岡市へ転出しますが、
中条景昭は今も牧之原を見守るように、
地元の種月院に眠っています。

<つづく>

※参考文献・画像提供/「牧之原開拓秘話 遺臣の群像」塚本昭一
         初倉郷土研究会 平成23年
※参考文献/「侍たちの茶摘み唄」江崎惇 鷹書房 平成4年
※画像提供/島田市役所HP

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞