ルイ・クレットマンのこと
柴田幸次郎を追う
こんな本を見つけました。
「若き祖父と老いた孫の物語」

「若き祖父」とは、明治9年に24歳で来日したルイ・クレットマンのこと。
あの元柳橋の柳の根元の「大王石」を撮影したフランス士官です。
ルイ・クレットマンの名は、フランス側の1875年(明治8年)の資料、
「フランス顧問団・陸軍士官学校職員一覧」に、
「教官 地形学・築城学 クレートマン中尉」として出てきます。
さて、「若き祖父」に対する「老いた孫」とは、ルイの孫ピエールのことですが、
奇しくも彼は、祖父が亡くなったその同じ年に誕生。
当然、祖父の顔も過去も知らなまま成長します。
ところがふとしたことから、
明治時代の日本から故郷の両親や弟に送った祖父の手紙を入手し、
その後さらに、
祖父が建てたレマン湖のほとりの家で大量の写真を発見します。
それはルイ青年の来日から約120年後の1990年代のことでした。
日本の写真などを秘蔵していたレマン湖のほとりの家です。

「若き祖父と老いた孫の物語」からお借りしました。
見つかった手紙や写真の祖父は、まだ24、5歳の青年で、
それに対して孫のピエールはすでに80歳。
だから「若き祖父と老いた孫」なのだと著者は明かす。
発見された写真は全部で535枚。
その中にあの「大王石」の写真が入っていたというわけです。
この本には、興味深い話がたくさんありました。
来日したルイ・クレットマンは、
フランス軍事顧問団の本部になっていた「カモンサマ屋敷」に入ります。
カモンサマとは桜田門外で暗殺された大老・井伊直弼のことです。
ちなみに「カモン」は井伊宗家の官名「掃部頭(かもんのかみ)」のこと。
「井伊の赤備え」
観光用の作り物 本物

浜松市・龍潭寺
カモンサマ屋敷です。
本の著者によると、この写真はいつも書斎に掛けられていたため、
孫のピエールは子供のころから知っていたが、
祖母が「ベトナムで撮った写真」と
言っていたので、まさか日本とは思わなかったとのこと。

「若き祖父と老いた孫の物語」より 左から3番目の椅子に座っているのがルイ。
その後、明治政府は東京番町にルイ個人の屋敷を建てます。
その家には「ムスメ部屋」というのがあって、
部屋にはルイの部屋に通じるドアがついていたという。
「ムスメ」とは公認の愛人、日本娘のことです。
斡旋業者がちゃんといて、
すでに「ムスメ」は異国人たちの各国共通語になっていたそうです。
私は遊女とか慰安婦とかこうした「ムスメ」の存在を知るたびに、
自分がそういう境遇に生まれなかった幸運に感謝せずにはいられません。
「ムスメ」の元祖ともいうべき女性は、
安政4年(1857)、初代アメリカ総領事として伊豆・下田にやってきた
ハリスにあてがわれた「お吉」です。
そのお吉を斡旋したのは、下田奉行支配組頭の伊佐新次郎でした。
牧之原茶園の幕臣を描いた「遺臣の群像」に、
伊佐が「唐人お吉」として蔑まれるお吉の身を案じる記述がでてきます。
でもルイは、こうした風習に批判的で、母への手紙には、
「ムスメの斡旋は何度も受けたが、ぼくにはまだいません」と書き送っていた。
下の写真は、東京の自宅で撮影したルイと日本女性たちです。
著者によると、母親への手紙に、
「特別の仲ではないから心配しないで」
と書かれていたそうです。

「若き祖父と老いた孫の物語」より
で、とやかく目くじらたてるのも無粋ではありますが、
「大王石」の写真です。
「ムスメ」?が写っているんですよね。白いこうもり傘を持って…。
でもまあ当時24歳の青年ですからね、いない方が不自然ですけど。

この本からは残念ながら、
「ムスメ」のことも「大王石」のことも何一つわかりませんでしたが、
ほかの収穫がありました。
あの悲惨な昭和の大戦は、約70年前のルイが滞在したころの明治に
その出発点があった、そのことに気づかされました。
その明治10年に西郷隆盛の「西南戦争」がありました。
その最中、ルイ青年はバカンスで京都・大阪めぐりに出掛けますが、
横浜から出航した船に兵士たちが乗りあわせていたことを書いています。
で、西郷はその戦争で自決するわけですが、
「維新正観」につづいて原田伊織氏の「大西郷という虚像」を読んだら、
この人はもうテロリストそのもので…。
うっ、こわ!
薩摩人っていったい何者なんだって思ってしまいました。
で、ふと頭に浮かんだのが以前読んだ「静岡の歴史と神話」。
神話です。
九州に下り立った天孫ニニギは、
オオヤマツミから二人の娘との結婚を勧められます。
しかし姉のイワナガヒメは醜かったのでこれを断り、
美しいコノハナサクヤヒメと結婚します。
下の写真は、
コノハナサクヤヒメが祀られている静岡浅間神社の今年の絵馬です。
背後の賎機山にはお父さんのオオヤマツミの麓山(はやま)神社があります。
年に2度、娘は父に会いに行きます。これを「昇り祭」「降り祭」といいます。

その後の話が面白いんです。
静岡では、コノハナサクヤヒメ(富士山)は、
伊豆の最南端・下田にいる姉のイワナガヒメ(下田富士)会いたさに、
背伸びばかりしていたので、あのように高くなったといわれています。
ですがこれが薩摩になると、
オオヤマツミとイワナガの父娘は侮辱された憎しみと腹いせのために、
笠沙岳にいるニニギとコノハナサクヤに石を投げつけた、となるそうです。
ちょっと激しい…。
県民性の違い、なーんて言ったら薩摩の方たちに怒られそうですが、
でもまあ、静岡県民が穏やかなのは確かです。
でも、がっかりすることはありません。
「大西郷という虚像」の著者、原田氏はこうも言っているんです。
「西郷は策謀を好み、戦(いくさ)好きではあるが、
長州の木戸孝允や井上馨、山県有朋らと違って、
不正という汚濁には包まれていなかった。
明治新政府の腐敗に対して強い怒りを覚えたはずで、
金銭欲については淡泊であったと見受けられる」
で、原田氏は明治長州閥が犯した不法行為の数々を斬った刀で、
「明治は清廉で透き通った公感覚と道徳的緊張=モラルをもっていた」
と主張した司馬遼太郎氏を斬り返し、
「一体どこをみた論だろう」と痛烈に批判しています。
そうだそうだと、思わず原田氏に拍手。
さて、話を戻します。
明治政府は、ルイ青年が滞在した明治10年ごろ、
それまでのフランス依存から急激にドイツへ傾斜していきます。
ドイツ憲法に倣って明治憲法を作り、
軍隊、徴兵制、軍の統帥権を政府から天皇直属にし、
治安維持法や教育勅語で弾圧や統制を始めます。
昭和になると、ドイツからヒトラーユーゲントが来日し、
日本の青年たちがヒトラーに会いに行くなどの交流が盛んになりました。
来日したヒトラーユーゲントと静岡の青年たち。

「戦争に協力した青年団」より 三原山にて。
まさに、明治10年代にドイツと仲良くなったことで、そのドイツ流の体制が、
そのまま昭和20年の敗戦まで続いたということです。
明治時代に、日本がドイツへ軸足を移したことで、
フランス士官たちは帰国を余儀なくされます。
それはまた、青年ルイに再び悪夢を思い出させた出来事でもありました。
ルイが日本に来る6年前、故国フランスとドイツが戦った普仏戦争が起ります。
故郷のストラスブールはドイツ軍に侵攻され、ついにドイツ領となります。
侵略者から、「ドイツ国籍に入る者はそのままここにいてよろしいが、
そうでない者はここから出ていけ」と言われて、
両親は泣く泣くドイツ国民になり、
ルイはフランス国籍を選んで出て行ったそうです。
その6年後、今度は日本政府がドイツを選んだためこのフランス青年は、
明治11年、日本を去りました。
わずか2年数か月の日本滞在だったけれど、ルイ青年には忘れがたい体験で、
1914年(大正3年)、63歳でこの世を去るまで、
部屋にサムライの鎧を飾り、壁にはカモンサマ屋敷の写真を飾って、
日本を偲んでいたという。
さて、フランス士官の写真535枚は、
120年の時を経てその孫に偶然、発見されましたが、
私が3年前にバスを待つ間、図書館で「大王石」を見つけた幸運も、
偶然がもたらしたものでした。

偶然って、なんて素敵な瞬間なんでしょう。
ルイ青年から「大王石」の話は聞けませんでしたが、
でもこの「若き祖父…」の本によって、私は、日本とフランスを結ぶ
深くて味のある歴史や人のつながりを垣間見せていただきました。
<つづく>
※参考文献・画像提供/「若き祖父と老いた孫の物語」
東京・ストラスブール・マルセイユ
辻由美 新評論 2002
※画像提供/「静岡民衆の歴史を掘る」「戦争に協力した青年団」
肥田正巳 静岡新聞社 1996
※参考文献/「陸軍創設史」フランス軍事顧問団の影 篠原宏
リブロポート 1983
/「静岡の歴史と神話」静岡学問所のはなしを中心に
山下太郎 吉見書店 昭和58年
/「大西郷という虚像」原田伊織 株式会社悟空出版 2016
「若き祖父と老いた孫の物語」

「若き祖父」とは、明治9年に24歳で来日したルイ・クレットマンのこと。
あの元柳橋の柳の根元の「大王石」を撮影したフランス士官です。
ルイ・クレットマンの名は、フランス側の1875年(明治8年)の資料、
「フランス顧問団・陸軍士官学校職員一覧」に、
「教官 地形学・築城学 クレートマン中尉」として出てきます。
さて、「若き祖父」に対する「老いた孫」とは、ルイの孫ピエールのことですが、
奇しくも彼は、祖父が亡くなったその同じ年に誕生。
当然、祖父の顔も過去も知らなまま成長します。
ところがふとしたことから、
明治時代の日本から故郷の両親や弟に送った祖父の手紙を入手し、
その後さらに、
祖父が建てたレマン湖のほとりの家で大量の写真を発見します。
それはルイ青年の来日から約120年後の1990年代のことでした。
日本の写真などを秘蔵していたレマン湖のほとりの家です。

「若き祖父と老いた孫の物語」からお借りしました。
見つかった手紙や写真の祖父は、まだ24、5歳の青年で、
それに対して孫のピエールはすでに80歳。
だから「若き祖父と老いた孫」なのだと著者は明かす。
発見された写真は全部で535枚。
その中にあの「大王石」の写真が入っていたというわけです。
この本には、興味深い話がたくさんありました。
来日したルイ・クレットマンは、
フランス軍事顧問団の本部になっていた「カモンサマ屋敷」に入ります。
カモンサマとは桜田門外で暗殺された大老・井伊直弼のことです。
ちなみに「カモン」は井伊宗家の官名「掃部頭(かもんのかみ)」のこと。
「井伊の赤備え」
観光用の作り物 本物


浜松市・龍潭寺
カモンサマ屋敷です。
本の著者によると、この写真はいつも書斎に掛けられていたため、
孫のピエールは子供のころから知っていたが、
祖母が「ベトナムで撮った写真」と
言っていたので、まさか日本とは思わなかったとのこと。

「若き祖父と老いた孫の物語」より 左から3番目の椅子に座っているのがルイ。
その後、明治政府は東京番町にルイ個人の屋敷を建てます。
その家には「ムスメ部屋」というのがあって、
部屋にはルイの部屋に通じるドアがついていたという。
「ムスメ」とは公認の愛人、日本娘のことです。
斡旋業者がちゃんといて、
すでに「ムスメ」は異国人たちの各国共通語になっていたそうです。
私は遊女とか慰安婦とかこうした「ムスメ」の存在を知るたびに、
自分がそういう境遇に生まれなかった幸運に感謝せずにはいられません。
「ムスメ」の元祖ともいうべき女性は、
安政4年(1857)、初代アメリカ総領事として伊豆・下田にやってきた
ハリスにあてがわれた「お吉」です。
そのお吉を斡旋したのは、下田奉行支配組頭の伊佐新次郎でした。
牧之原茶園の幕臣を描いた「遺臣の群像」に、
伊佐が「唐人お吉」として蔑まれるお吉の身を案じる記述がでてきます。
でもルイは、こうした風習に批判的で、母への手紙には、
「ムスメの斡旋は何度も受けたが、ぼくにはまだいません」と書き送っていた。
下の写真は、東京の自宅で撮影したルイと日本女性たちです。
著者によると、母親への手紙に、
「特別の仲ではないから心配しないで」
と書かれていたそうです。

「若き祖父と老いた孫の物語」より
で、とやかく目くじらたてるのも無粋ではありますが、
「大王石」の写真です。
「ムスメ」?が写っているんですよね。白いこうもり傘を持って…。
でもまあ当時24歳の青年ですからね、いない方が不自然ですけど。

この本からは残念ながら、
「ムスメ」のことも「大王石」のことも何一つわかりませんでしたが、
ほかの収穫がありました。
あの悲惨な昭和の大戦は、約70年前のルイが滞在したころの明治に
その出発点があった、そのことに気づかされました。
その明治10年に西郷隆盛の「西南戦争」がありました。
その最中、ルイ青年はバカンスで京都・大阪めぐりに出掛けますが、
横浜から出航した船に兵士たちが乗りあわせていたことを書いています。
で、西郷はその戦争で自決するわけですが、
「維新正観」につづいて原田伊織氏の「大西郷という虚像」を読んだら、
この人はもうテロリストそのもので…。
うっ、こわ!
薩摩人っていったい何者なんだって思ってしまいました。
で、ふと頭に浮かんだのが以前読んだ「静岡の歴史と神話」。
神話です。
九州に下り立った天孫ニニギは、
オオヤマツミから二人の娘との結婚を勧められます。
しかし姉のイワナガヒメは醜かったのでこれを断り、
美しいコノハナサクヤヒメと結婚します。
下の写真は、
コノハナサクヤヒメが祀られている静岡浅間神社の今年の絵馬です。
背後の賎機山にはお父さんのオオヤマツミの麓山(はやま)神社があります。
年に2度、娘は父に会いに行きます。これを「昇り祭」「降り祭」といいます。

その後の話が面白いんです。
静岡では、コノハナサクヤヒメ(富士山)は、
伊豆の最南端・下田にいる姉のイワナガヒメ(下田富士)会いたさに、
背伸びばかりしていたので、あのように高くなったといわれています。
ですがこれが薩摩になると、
オオヤマツミとイワナガの父娘は侮辱された憎しみと腹いせのために、
笠沙岳にいるニニギとコノハナサクヤに石を投げつけた、となるそうです。
ちょっと激しい…。
県民性の違い、なーんて言ったら薩摩の方たちに怒られそうですが、
でもまあ、静岡県民が穏やかなのは確かです。
でも、がっかりすることはありません。
「大西郷という虚像」の著者、原田氏はこうも言っているんです。
「西郷は策謀を好み、戦(いくさ)好きではあるが、
長州の木戸孝允や井上馨、山県有朋らと違って、
不正という汚濁には包まれていなかった。
明治新政府の腐敗に対して強い怒りを覚えたはずで、
金銭欲については淡泊であったと見受けられる」
で、原田氏は明治長州閥が犯した不法行為の数々を斬った刀で、
「明治は清廉で透き通った公感覚と道徳的緊張=モラルをもっていた」
と主張した司馬遼太郎氏を斬り返し、
「一体どこをみた論だろう」と痛烈に批判しています。
そうだそうだと、思わず原田氏に拍手。
さて、話を戻します。
明治政府は、ルイ青年が滞在した明治10年ごろ、
それまでのフランス依存から急激にドイツへ傾斜していきます。
ドイツ憲法に倣って明治憲法を作り、
軍隊、徴兵制、軍の統帥権を政府から天皇直属にし、
治安維持法や教育勅語で弾圧や統制を始めます。
昭和になると、ドイツからヒトラーユーゲントが来日し、
日本の青年たちがヒトラーに会いに行くなどの交流が盛んになりました。
来日したヒトラーユーゲントと静岡の青年たち。

「戦争に協力した青年団」より 三原山にて。
まさに、明治10年代にドイツと仲良くなったことで、そのドイツ流の体制が、
そのまま昭和20年の敗戦まで続いたということです。
明治時代に、日本がドイツへ軸足を移したことで、
フランス士官たちは帰国を余儀なくされます。
それはまた、青年ルイに再び悪夢を思い出させた出来事でもありました。
ルイが日本に来る6年前、故国フランスとドイツが戦った普仏戦争が起ります。
故郷のストラスブールはドイツ軍に侵攻され、ついにドイツ領となります。
侵略者から、「ドイツ国籍に入る者はそのままここにいてよろしいが、
そうでない者はここから出ていけ」と言われて、
両親は泣く泣くドイツ国民になり、
ルイはフランス国籍を選んで出て行ったそうです。
その6年後、今度は日本政府がドイツを選んだためこのフランス青年は、
明治11年、日本を去りました。
わずか2年数か月の日本滞在だったけれど、ルイ青年には忘れがたい体験で、
1914年(大正3年)、63歳でこの世を去るまで、
部屋にサムライの鎧を飾り、壁にはカモンサマ屋敷の写真を飾って、
日本を偲んでいたという。
さて、フランス士官の写真535枚は、
120年の時を経てその孫に偶然、発見されましたが、
私が3年前にバスを待つ間、図書館で「大王石」を見つけた幸運も、
偶然がもたらしたものでした。

偶然って、なんて素敵な瞬間なんでしょう。
ルイ青年から「大王石」の話は聞けませんでしたが、
でもこの「若き祖父…」の本によって、私は、日本とフランスを結ぶ
深くて味のある歴史や人のつながりを垣間見せていただきました。
<つづく>
※参考文献・画像提供/「若き祖父と老いた孫の物語」
東京・ストラスブール・マルセイユ
辻由美 新評論 2002
※画像提供/「静岡民衆の歴史を掘る」「戦争に協力した青年団」
肥田正巳 静岡新聞社 1996
※参考文献/「陸軍創設史」フランス軍事顧問団の影 篠原宏
リブロポート 1983
/「静岡の歴史と神話」静岡学問所のはなしを中心に
山下太郎 吉見書店 昭和58年
/「大西郷という虚像」原田伊織 株式会社悟空出版 2016
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