恩人
柴田幸次郎を追う
牧之原へ入植した中条景昭は、
明治8年3月、今は新政府の役人になっている山岡鉄舟から、
「神奈川県令になっていただきたい」と要請されます。
県令とは、現在の県知事のことです。
しかし中条さんは、これを蹴ったんです。
「わしはこの荒野に骨を埋める。お茶の肥やしになるのですよ」と。
下の写真は、牧之原産を中心にブレンドした煎茶です。
世界緑茶コンテストで通算連続で最高金賞と金賞を8回受賞した
お茶屋さんの製品です。
金賞なので、袋も金。

お茶は農家自慢の単品もおいしいですが、ブレンドこそ命だそうで、
お茶屋さんはご自分の五感と培った技で自慢のブレンド茶を作ります。
さて、入植から13年目の明治15年、こんなことが起きました。
大草高重は山梨県で開催されたお茶の品評会に、
牧之原特産として「大草組」のお茶を出品しました。
ところが、下された判定は「粗悪品」。
手塩にかけて育てたお茶が「並以下の粗悪品」とされて、大草は憤慨。
そりゃそうですよね。粗悪品を徳川家へ献上していたことになりますから、
忠実勤勉な腹心にしてみれば一大事です。
中条とともに時の県令・大迫に抗議に行きます。大迫県令は大弱り。
そこで助け舟を出したのが、三重県の茶師・酒井甚四郎という人です。
酒井は牧之原まで足を運び、茶園から茶工場を見て回り、
このお茶は決して粗悪品ではない。ただ栽培上に問題があるとして、
魚肥の入れ方、新芽をもみ上げる時間など、
代表者たちを集めてきめ細かく指導。
いわれてみればもっともなことばかりです。
酒井甚四郎のこの親切に感激した中条や大草は、
白隠禅師の画や徳川家達の書をお礼に差し上げたそうです。
ところが今度は酒井の方がこれに感激。
農商務省の茶業課を訪れ、品評会の審査長だった多田元吉に、
牧之原の入植者の話を伝えました。
多田元吉も元幕臣で、明治2年、
静岡市丸子の徳川家の土地を譲り受けて茶の栽培を始めた人です。
のちに新政府に登用され、インドや中国へ紅茶製法の調査に出かけます。
多田元吉の著作です。

右は徳川慶喜公から贈られた短冊。
「雪中求若菜」
雪の中にあっても、力強く芽吹いてみずみずしい若菜になって欲しいー。
禄を失い厳しいこの時代にあっても、力強く芽吹いてくれよという希望を、
旧幕臣たち、あるいは自分自身へ込めた言葉なのでしょうか。
こちらは多田元吉の弟子で、茶樹「やぶきた」の発見者・杉山彦三郎。
藪の北側に生えていたので「やぶきた」と命名された、と聞いたときは、
まさか!と笑いましたが、それは本当のことだった。
本物 銅像

静岡市葵区・駿府城公園
酒井が多田に伝えた牧之原開拓の中条、大草たちの話は、
今度は多田から農商務大臣の西郷従道(つぐみち)へと伝わりました。
西郷従道は西郷隆盛の弟です。
牧之原に入植した侍たちの苦闘を知った西郷は心を打たれ、
これがきっかけで、のちに牧之原を訪問します。
その折り、従道は兄・隆盛の旧知・今井信郎を訪ねます。
今井信郎は元・京都・見廻組。
あの坂本龍馬を斬った男と言われた人です。
今井も中条を頼って、ここ牧之原に入植していたのです。
10数年前、私は今井信郎の旧居があったという場所へ行きましたが、
竹林を背にした寂しい場所でした。
その侘び住まいで従道はお茶をいただき、往時を偲んだそうです。
屋敷跡に今井信郎の顕彰碑を建立したときの新聞記事です。

(静岡新聞・平成15年2月24日)
さて、静岡県のお茶の関係者がお世話になった三重県人は、
この酒井甚四郎だけではありません。
日本茶の振興に一生をささげた大谷嘉平も静岡県人にとっては恩人です。
静岡市の中心地に谷津山という標高100㍍ほどの小山があります。
こちらは、そのふもとの清水山公園に建つ大谷嘉平の像です。

静岡市葵区・清水山公園
実はこれ、昭和40年に新たに建てた大谷嘉平の2つ目の銅像なんです。
この谷津山には静岡県最古の前方後円墳があります。
郷土研究家の安本収氏によると、
「お茶の貿易でお世話になった大谷への恩返しに銅像を建てようとしたら、
古墳がある山だとわかった。
それを知った大谷が、古墳に自分の銅像などとんでもないといい、
逆に、古墳の保存と公園整備のための費用を申し出た」そうです。
大正6年、その感謝をこめて公園内に最初の大谷嘉平の銅像を建立。
ところが太平洋戦争の勃発で、
銅像は軍に供出されて台座だけになってしまいます。
そして戦後13年たった昭和33年、
この台座は駿府城公園に運ばれ、あらたな像を乗せることになりました。
像は、戦争中、軍需工場で亡くなった勤労奉仕の学生をモデルにしたもので
「やすらぎの塔」(岸信介・筆)と名づけられました。
戦没学生たちの名前を刻んだプレート。

台座にはこう刻まれています。
「凛々しかった君たち若人らは、国家と運命を共にして、
一片の名誉すらなく、献身の二文字に消えた」
で、この台座はまたまた悲運に遭遇します。
台座の上に凛々しく立っていた男女二人の学生像が、
6年前の東北大地震で亀裂が入ったため、
市で撤去してしまったのです。
市民からの補修や再建の声も届かず…。
台座だけになった「やすらぎの塔」です。
高さ6.6㍍。両サイドの灯火台も破損。
近くにいる人と比べて見てください。かなりの大きさです。

静岡市葵区・駿府城公園、「やすらぎの塔広場」
大谷嘉平の銅像は台座だけ残して軍に供出され、
その台座に今度は戦没学生の像が乗せられた。
そしてその像も地震で撤去されて、また台座だけになりました。
嘉平翁もまさかの展開ですが、思えば数奇な運命ですね。
これはおまけ。巨大な石のわさびです。

駿府城堀端
このそばを通るたびに、なんとなく妙な気分になります。
<つづく>
※参考文献/「侍たちの茶摘み唄」江崎惇 鷹書房 平成4年
/「牧之原開拓秘話 遺臣の群像」塚本昭一 初倉郷土研究会
平成23年
明治8年3月、今は新政府の役人になっている山岡鉄舟から、
「神奈川県令になっていただきたい」と要請されます。
県令とは、現在の県知事のことです。
しかし中条さんは、これを蹴ったんです。
「わしはこの荒野に骨を埋める。お茶の肥やしになるのですよ」と。
下の写真は、牧之原産を中心にブレンドした煎茶です。
世界緑茶コンテストで通算連続で最高金賞と金賞を8回受賞した
お茶屋さんの製品です。
金賞なので、袋も金。

お茶は農家自慢の単品もおいしいですが、ブレンドこそ命だそうで、
お茶屋さんはご自分の五感と培った技で自慢のブレンド茶を作ります。
さて、入植から13年目の明治15年、こんなことが起きました。
大草高重は山梨県で開催されたお茶の品評会に、
牧之原特産として「大草組」のお茶を出品しました。
ところが、下された判定は「粗悪品」。
手塩にかけて育てたお茶が「並以下の粗悪品」とされて、大草は憤慨。
そりゃそうですよね。粗悪品を徳川家へ献上していたことになりますから、
忠実勤勉な腹心にしてみれば一大事です。
中条とともに時の県令・大迫に抗議に行きます。大迫県令は大弱り。
そこで助け舟を出したのが、三重県の茶師・酒井甚四郎という人です。
酒井は牧之原まで足を運び、茶園から茶工場を見て回り、
このお茶は決して粗悪品ではない。ただ栽培上に問題があるとして、
魚肥の入れ方、新芽をもみ上げる時間など、
代表者たちを集めてきめ細かく指導。
いわれてみればもっともなことばかりです。
酒井甚四郎のこの親切に感激した中条や大草は、
白隠禅師の画や徳川家達の書をお礼に差し上げたそうです。
ところが今度は酒井の方がこれに感激。
農商務省の茶業課を訪れ、品評会の審査長だった多田元吉に、
牧之原の入植者の話を伝えました。
多田元吉も元幕臣で、明治2年、
静岡市丸子の徳川家の土地を譲り受けて茶の栽培を始めた人です。
のちに新政府に登用され、インドや中国へ紅茶製法の調査に出かけます。
多田元吉の著作です。


右は徳川慶喜公から贈られた短冊。
「雪中求若菜」
雪の中にあっても、力強く芽吹いてみずみずしい若菜になって欲しいー。
禄を失い厳しいこの時代にあっても、力強く芽吹いてくれよという希望を、
旧幕臣たち、あるいは自分自身へ込めた言葉なのでしょうか。
こちらは多田元吉の弟子で、茶樹「やぶきた」の発見者・杉山彦三郎。
藪の北側に生えていたので「やぶきた」と命名された、と聞いたときは、
まさか!と笑いましたが、それは本当のことだった。
本物 銅像


静岡市葵区・駿府城公園
酒井が多田に伝えた牧之原開拓の中条、大草たちの話は、
今度は多田から農商務大臣の西郷従道(つぐみち)へと伝わりました。
西郷従道は西郷隆盛の弟です。
牧之原に入植した侍たちの苦闘を知った西郷は心を打たれ、
これがきっかけで、のちに牧之原を訪問します。
その折り、従道は兄・隆盛の旧知・今井信郎を訪ねます。
今井信郎は元・京都・見廻組。
あの坂本龍馬を斬った男と言われた人です。
今井も中条を頼って、ここ牧之原に入植していたのです。
10数年前、私は今井信郎の旧居があったという場所へ行きましたが、
竹林を背にした寂しい場所でした。
その侘び住まいで従道はお茶をいただき、往時を偲んだそうです。
屋敷跡に今井信郎の顕彰碑を建立したときの新聞記事です。

(静岡新聞・平成15年2月24日)
さて、静岡県のお茶の関係者がお世話になった三重県人は、
この酒井甚四郎だけではありません。
日本茶の振興に一生をささげた大谷嘉平も静岡県人にとっては恩人です。
静岡市の中心地に谷津山という標高100㍍ほどの小山があります。
こちらは、そのふもとの清水山公園に建つ大谷嘉平の像です。

静岡市葵区・清水山公園
実はこれ、昭和40年に新たに建てた大谷嘉平の2つ目の銅像なんです。
この谷津山には静岡県最古の前方後円墳があります。
郷土研究家の安本収氏によると、
「お茶の貿易でお世話になった大谷への恩返しに銅像を建てようとしたら、
古墳がある山だとわかった。
それを知った大谷が、古墳に自分の銅像などとんでもないといい、
逆に、古墳の保存と公園整備のための費用を申し出た」そうです。
大正6年、その感謝をこめて公園内に最初の大谷嘉平の銅像を建立。
ところが太平洋戦争の勃発で、
銅像は軍に供出されて台座だけになってしまいます。
そして戦後13年たった昭和33年、
この台座は駿府城公園に運ばれ、あらたな像を乗せることになりました。
像は、戦争中、軍需工場で亡くなった勤労奉仕の学生をモデルにしたもので
「やすらぎの塔」(岸信介・筆)と名づけられました。
戦没学生たちの名前を刻んだプレート。

台座にはこう刻まれています。
「凛々しかった君たち若人らは、国家と運命を共にして、
一片の名誉すらなく、献身の二文字に消えた」
で、この台座はまたまた悲運に遭遇します。
台座の上に凛々しく立っていた男女二人の学生像が、
6年前の東北大地震で亀裂が入ったため、
市で撤去してしまったのです。
市民からの補修や再建の声も届かず…。
台座だけになった「やすらぎの塔」です。
高さ6.6㍍。両サイドの灯火台も破損。
近くにいる人と比べて見てください。かなりの大きさです。

静岡市葵区・駿府城公園、「やすらぎの塔広場」
大谷嘉平の銅像は台座だけ残して軍に供出され、
その台座に今度は戦没学生の像が乗せられた。
そしてその像も地震で撤去されて、また台座だけになりました。
嘉平翁もまさかの展開ですが、思えば数奇な運命ですね。
これはおまけ。巨大な石のわさびです。

駿府城堀端
このそばを通るたびに、なんとなく妙な気分になります。
<つづく>
※参考文献/「侍たちの茶摘み唄」江崎惇 鷹書房 平成4年
/「牧之原開拓秘話 遺臣の群像」塚本昭一 初倉郷土研究会
平成23年
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