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招魂社②

柴田幸次郎を追う
01 /21 2017
倒幕軍に呼応して立ち上がった民間の組織、草莽隊(そうもうたい)。
明治新政府樹立前に「身内」から消された草莽隊もありました。

その一つ、公卿を擁立して九州地方で蜂起した「花山院一党」は、
三条実美から「勅書」をいただき、薩長から軍資金までもらっていたのに、
のちに、同志のはずの長州藩から攻撃されて消滅。

相楽総三が、
公卿・綾小路俊実らを擁立して組織した「赤報隊」は、
慶応3年、西郷隆盛らと結託して江戸薩摩藩邸に浪士を集め、
関東一円の攪乱工作(やたら人を切って暴れた)を展開。
その工作が功を奏したのが、幕府側浪士による薩摩藩邸の焼打ちです。

この焼打ち事件、
実は徳川慶喜に大政奉還されて倒幕の根拠を失った薩長が、
その新たな口実にするために仕掛けたワナ。それに幕府側がひっかかった。

しかし薩摩にとって、相楽総三の利用価値はここまで。
討幕軍から東海道鎮撫使付属というお墨付きをもらったにも関わらず、
ほどなく薩摩藩から、
「偽(にせ)官軍」の汚名を着せられ処刑されてしまいます。

「わらべ地蔵」 
 「うしろのしょうめん、だあれ?」「もしかして、さつまさん?」
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静岡市葵区伝馬町・宝泰寺   

神主グループも似たり寄ったりの結末になったわけですけど、
その神主たちを討幕軍加担へ駆り立てたものとは何だったかというと、

「駿州赤心隊」(若林淳之)は、
「幕藩社会の推移によって失われつつあった神社や氏子に対する
「権威や地位の復活」「神葬祭の許可」などをあげています。

そういえば父がよく言っていました。
「本当は寺より神社の方が上なんだよ」って。

なんでそうムキになってるの?と子供心におかしかったけど、
江戸時代の神仏混淆を見ると、確かに坊さんの方が優遇されていた。
でも子供のころは「死んだら仏教徒はにしかなれないけど、
私たちはになれるんだ」って思っていたから、
父の洗脳は効果ありだったかも。

で、父も兄もお葬式はもちろん神葬祭でした。

でも、神式のお葬式ってなかなかいいものですよ。
雅楽の中で行われるし、簡素だし、戒名はいらないし、荘厳だけど安上がり。
祭壇が白木、幕が白黒ではなく紫と白というのも私、好きなんです。

さて、招魂社です。
ここに祀られたのは戊辰戦争の官軍側の戦死者だけなんですよね。
「朝敵」とされた旧幕府軍はみんなはじかれた。
国家による「死者の差別・選別」ー。

あの戦国時代でさえそんなことはなかった。
今川、武田の激戦地には敵味方の五輪さんが一緒に並んでいます。

モダンな平成の五輪さんです。
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静岡市葵区伝馬町・宝泰寺

これが明治新政府の官僚たちとなると、なんだかひどく冷淡です。
勝ちに乗じてむごいこともしました。

清水湊では、無抵抗の咸臨丸乗員の首を切り落とし海へ捨てましたが、
「戊辰物語」にも同様のことが出てきます。

「上野で戦死した幕府側の彰義隊は220余名。
官軍は鉄砲を使ったから幕府軍の死体はきれいだったが、
それを官軍兵士らは、さらに刀でなますのように切り刻んだ」


その上、官軍は幕府軍の遺体だけを放置。腐臭は上野の山に漂った。
遺体を葬ろうにも官軍が怖くて誰にもできない。

清水湊でも同じことが起きた。
咸臨丸の旧幕臣たちの遺体が海にプカプカ浮かんでいるのを、
やっぱり官軍が怖くて誰も手を出さない。

そこで侠客・清水次郎長が、
「死ねば敵も味方もない。みんな同じ仏さんだ」といって死体を引き上げ、
駿河湾に注ぐ巴川河畔に手厚く葬った。

下の写真が巴川です。
黄色→の先に、咸臨丸の犠牲者の「壮士墓」があります。
赤→は次郎長の船宿「末広」、観覧車のあたりがエスパルスドリームプラザ。
その後ろが清水港です。

CIMG1587.jpg
港橋付近

次郎長さんを馬鹿にしちゃあいけないよって私は思います。
「死ねば敵も味方もない」ー。
これが日本人だよ、日本人の感性だよ、長州の大村さん。
だから次郎長はやくざでも、この心意気にみんな惚れたんです。


その次郎長の像です。
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静岡市清水区清水南岡町・梅蔭寺

でも、大村益次郎の「建白書」を読んでみると、
「戦死の霊祠を相設け」とあるだけで、「官軍だけを祀る」とは書いてない。
どこから「官軍だけ」という考えがでてきたかというと、
「駿州赤心隊」(若林淳之)にこうありました。

「国事に尽くした人々を神に祀るということは、
全く大村の独自の発想であったわけではなく、
慶応4年5月、天皇は嘉永~安政以降の
国事に殉じた志士の霊を祀るため、
京都霊山に祠宇を建てたことがあって
(概観維新史)、東京招魂社はこれの延長であり…」


こちらが咸臨丸犠牲者の「壮士墓」です。山岡鉄舟揮毫。
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静岡市清水区築地町

ちなみに、静岡市の静岡浅間神社裏の賎機山にある慰霊の塔は、
昭和20年の米軍による大空襲の犠牲者2000余名と、
墜落したB-29のアメリカ兵23名が合祀されているんです。

当時「鬼畜米英」と教えられていた市民が、
自分たちに焼夷弾を落したその「鬼畜」のために、
木の十字架をつくって弔ったそうです。

昨今の紛争地で敵の遺体をさらに傷つけたり、憎しみのあまり相手の国旗を
踏みつけたりする人たちには、不可解な行為と映るかもしれませんが…。
戦後70年の一昨年の慰霊祭には米軍基地から軍人が多数参列しました。
きっと何かを感じていただけたと、私は信じているんです。

実は静岡市には、もう一つ「壮士之墓」があります。
銚子の犬吠崎近くで難破した「美加保丸」遭難者・処刑者の共同墓です。

美加保丸は、咸臨丸と同じ榎本武揚率いる旧幕府の軍艦の一つでした。
この墓はその生き残りの旧藩士が建立したものです。

美加保丸殉難者の「壮士之墓」
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静岡市葵区伝馬町・宝泰寺

さて、その招魂社に、
遠州報国隊、駿州赤心隊合わせて
62名が職を得たことは前回お話しました。
しかし、国元ではそれなりの暮らしをしていたのに、
東京では長屋住まい、一代限りの扶持という厳しい暮らしでした。

さらに明治5年になると、社司たちの人員整理が始まります。
「一代限り」どころか、たった3年で解雇です。

招魂社に留まった者はわずか5名
放逐されて下級官僚になったものの出世した者は一人もいない。
故郷へ戻った者たちはさらに厳しく、
竹細工職人煙草切り鍛冶屋質屋など思いもしなかった仕事について、
惨めな生活を強いられました。

「駿州赤心隊之碑」  「遠州報国隊紀念碑」
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富士宮市・富士山本宮浅間神社境内 浜松市・五社公園

私の曽祖父は土地など切り売りしたり茶園を始めたり、
祖父はあちこちの神社を掛け持ちして生計を立てていたようです。
慶喜さんほどではなかったけれど、
祖父は3人の妻が産んだたくさんの子の養育に大変だったみたいです。

さて、駿遠の神主さんたち、
「江戸幕府による疎外感の払拭」「神道本来の復帰」という目的のために
新政府に望みを託し協力したものの、
考えてみれば、薩長土肥の藩閥以外は本流になれるはずはなく、
今度はその新政府によって、アウトサイダーとして疎外されていきました。

早い話が、
「花山院一党」や相楽総三の「赤報隊」同様、利用されて捨てられた…。

残念な話ですが、しょせん、国家権力なんてこんなものかも…。

<つづく>

※参考文献
/「駿州赤心隊」若林淳之 富士山本宮浅間大社社務所 昭和43年
/「戊辰物語」東京日日新聞社社会部編 昭和3年
復刻 筑摩書房 昭和39年
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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞