招魂社①
柴田幸次郎を追う
明治2年(1869)6月、
皇居となった江戸城にほど近い九段坂上に「招魂社」が創立された。
招魂社は現在の靖国神社のことです。
創立の発案者は長州藩士の大村益次郎。
「駿州赤心隊」(若林淳之)によると、
「新政府軍に加担したため故郷へ帰れなくなった
静岡県の草莽隊(そうもうたい)への解決策として創立した」とあります。
草莽隊とは、
幕末、尊王攘夷や倒幕運動に参加した在野・民間の兵。
静岡県の草莽隊としては、主に以下の3つがあった。
浜松の「遠州報国隊」、県中部の「駿州赤心隊」、県東部の「伊豆伊吹隊」。
隊員のほとんどは国学を学ぶ神主たちでした。
駿州赤心隊の隊員たちが従軍の折り、錦旗などにつけた肩章です。

「駿州赤心隊」より
この駿州赤心隊には、
「大宮組」「府辺組」「山西組」の3つのグループがあった。
赤心隊の総隊長は富士山本宮浅間大社の大宮司・富士亦八郎。
この人は「大宮組」の代表でもありました。
富士山本宮浅間大社の本殿

静岡県富士宮市
そして私の曽祖父は、この「大宮組」の隊員の一人でした。
曽祖父は神主で、国学・平田派門人。
赤心隊へは尊皇攘夷運動のオルガナイザー、三浦秀波の紹介で入隊。
所属は、出征隊員への資金援助や留守家族への配慮などを行う留守部隊。
「朝敵を征伐せよ」との号令のもと、
討幕軍が東海、東山、北陸を江戸へ目指して進軍したのが慶応4年。
その年の2月、赤心隊隊長の富士亦八郎は、
三河吉田(愛知県)にいた大総督府に護衛とお供を願い出ます。
彼らは東征軍に従い江戸へ入り、坂下門や馬場先門の守衛を仰せつかり、
11月までの9か月間を江戸で過ごします。
そして今度は京都へ帰る大総督宮の護衛のため、再び駿府を目指しました。
この間の滞在費はすべて自費。
明治新政府樹立という目的を果たし、
官軍の一員として意気揚々と国へ凱旋してきた隊員たちでしたが、
まもなく神主殺傷事件が起き、
翌年には、隊長・富士亦八郎の自宅が放火され全焼してしまいます。
赤丸が大宮司・富士氏の邸宅。横矢印が浅間大社。下矢印は神田川。

「駿河記」より 文化年間
富士氏は戦国時代、今川方の武将として、
甲斐の武田氏と勇猛果敢に闘った大宮城の城主でもありました。
神主たちへの殺傷や放火はむごいことですが、
駿遠には江戸を追われた旧幕臣たちが大勢いましたから。
それに富士氏の本拠地の富士のふもとには、
荒地の開墾に入植した無禄移住の旧幕臣たちもいましたし。
旧幕臣たちにとっても徳川家の恩顧を受けてきた町民たちにしても、
官軍に味方した報国隊、赤心隊は憎みて余りある
裏切り者でしかありません。
赤心隊がまだ江戸にいた9月には、こんな事件も起きていました。
榎本武揚率いる旧幕府軍の咸臨丸が台風で難破。
清水湊へ漂着したところを、白旗をあげているにも関わらず、
新政府の軍艦・飛竜が攻撃したのです。
勝海舟が描いた咸臨丸。

「しみずの昔 その2」より
咸臨丸には大砲も小銃もない。勝負はすぐついた。
しかし新政府軍はそれだけでは飽き足らず、
小舟を漕いで咸臨丸に乗り込むと、無抵抗の旧幕臣たちへ銃を乱射。
死体の首を切り落し、次々と海へ投げ捨てた。全部で7体。
この残虐行為をしたのは、柳川藩士たちでした。
その一部始終を清水の民衆は見せつけられたのですから、
官軍を憎むのは当然といえば当然です。
惨殺された神主も腕を切り落とされた神主も、
共に清水の神社の神職です。
下の写真は、このときの咸臨丸の犠牲者を悼む殉難碑です。
表に榎本武揚揮毫の「食人之食死人之事」(解説は長くなるので割愛)
裏に咸臨丸事件の詳細が刻まれています。

静岡県清水区興津 清見寺
さて、隊長の富士亦八郎ですが、
赤心隊解散後は軍務官に従い、函館戦争に従軍するなどしていました。
しかし故郷に残してきた妻はその留守中、病死してしまいます。
家を焼かれたのはその一週間後のことだったそうです。
富士氏は故郷への帰還を断念します。
この神主殺傷や放火事件を聞いたほかの隊員たちはみな震え上がり、
故郷を捨てる決心をします。
そこで富士亦八郎が頼ったのが、
討幕軍の上司で、新政府の軍務官副知事の大村益次郎です。
大村は、彼ら神職を東京へ移住させる方策を考え、
「本国すでに徳川氏領地と相成り候につき、帰国はなはだ難渋の趣き」
という建白書を政府に提出。
しかし、仕事がなければ移住はできないので、
「上野山内へ昨年来戦死の霊祠を相設け、
神職共を移住せしめ、春秋の祭典を掌らせ…」と職場の確保も約束しました。
このことについて、「駿州赤心隊始末記」(若竹秀信)は、
「大村にとって、
中央集権的軍制を確立するには制度的な確立だけでなく、
精神面においても近代天皇制国家を支える支柱が必要であった」とし、
「駿州赤心隊」(若林淳之)は、
「その舞台としての招魂社、そこに奉仕する赤心、報国両隊の現況は、
彼の軍政改革構想(徴兵制)実現の、
起爆剤になった」としています。
招魂社社司任命書。遠州報国隊と駿州赤心隊の62名が任命された。

「駿州赤心隊」より
大村の建白書から半年後の6月、当初の上野山ではなく、
皇居(江戸城)に近い九段坂上で招魂社の起工式が行われました。
そのときの鎮祭に奉仕したのはすべてこの駿遠の神主たちでした。
で、私の曽祖父はどうなったかというと、
留守部隊であったがため難を免れ、東京移住もしないで済んだ。
だから、今の私がいるってわけだけれど。
ただし、
神職の世襲制が廃止されたため、
故郷にあっても家は没落してしまいました。
<つづく>
※参考資料・画像提供
/「駿州赤心隊」若林淳之 富士山本宮浅間神社社務所 昭和43年
※参考文献
/「駿州赤心隊始末記」若竹秀信 私家本 平成4年
※画像提供
/「駿河記」
/「しみずの昔 その2」多喜義郎 私家本 平成5年
皇居となった江戸城にほど近い九段坂上に「招魂社」が創立された。
招魂社は現在の靖国神社のことです。
創立の発案者は長州藩士の大村益次郎。
「駿州赤心隊」(若林淳之)によると、
「新政府軍に加担したため故郷へ帰れなくなった
静岡県の草莽隊(そうもうたい)への解決策として創立した」とあります。
草莽隊とは、
幕末、尊王攘夷や倒幕運動に参加した在野・民間の兵。
静岡県の草莽隊としては、主に以下の3つがあった。
浜松の「遠州報国隊」、県中部の「駿州赤心隊」、県東部の「伊豆伊吹隊」。
隊員のほとんどは国学を学ぶ神主たちでした。
駿州赤心隊の隊員たちが従軍の折り、錦旗などにつけた肩章です。

「駿州赤心隊」より
この駿州赤心隊には、
「大宮組」「府辺組」「山西組」の3つのグループがあった。
赤心隊の総隊長は富士山本宮浅間大社の大宮司・富士亦八郎。
この人は「大宮組」の代表でもありました。
富士山本宮浅間大社の本殿

静岡県富士宮市
そして私の曽祖父は、この「大宮組」の隊員の一人でした。
曽祖父は神主で、国学・平田派門人。
赤心隊へは尊皇攘夷運動のオルガナイザー、三浦秀波の紹介で入隊。
所属は、出征隊員への資金援助や留守家族への配慮などを行う留守部隊。
「朝敵を征伐せよ」との号令のもと、
討幕軍が東海、東山、北陸を江戸へ目指して進軍したのが慶応4年。
その年の2月、赤心隊隊長の富士亦八郎は、
三河吉田(愛知県)にいた大総督府に護衛とお供を願い出ます。
彼らは東征軍に従い江戸へ入り、坂下門や馬場先門の守衛を仰せつかり、
11月までの9か月間を江戸で過ごします。
そして今度は京都へ帰る大総督宮の護衛のため、再び駿府を目指しました。
この間の滞在費はすべて自費。
明治新政府樹立という目的を果たし、
官軍の一員として意気揚々と国へ凱旋してきた隊員たちでしたが、
まもなく神主殺傷事件が起き、
翌年には、隊長・富士亦八郎の自宅が放火され全焼してしまいます。
赤丸が大宮司・富士氏の邸宅。横矢印が浅間大社。下矢印は神田川。

「駿河記」より 文化年間
富士氏は戦国時代、今川方の武将として、
甲斐の武田氏と勇猛果敢に闘った大宮城の城主でもありました。
神主たちへの殺傷や放火はむごいことですが、
駿遠には江戸を追われた旧幕臣たちが大勢いましたから。
それに富士氏の本拠地の富士のふもとには、
荒地の開墾に入植した無禄移住の旧幕臣たちもいましたし。
旧幕臣たちにとっても徳川家の恩顧を受けてきた町民たちにしても、
官軍に味方した報国隊、赤心隊は憎みて余りある
裏切り者でしかありません。
赤心隊がまだ江戸にいた9月には、こんな事件も起きていました。
榎本武揚率いる旧幕府軍の咸臨丸が台風で難破。
清水湊へ漂着したところを、白旗をあげているにも関わらず、
新政府の軍艦・飛竜が攻撃したのです。
勝海舟が描いた咸臨丸。

「しみずの昔 その2」より
咸臨丸には大砲も小銃もない。勝負はすぐついた。
しかし新政府軍はそれだけでは飽き足らず、
小舟を漕いで咸臨丸に乗り込むと、無抵抗の旧幕臣たちへ銃を乱射。
死体の首を切り落し、次々と海へ投げ捨てた。全部で7体。
この残虐行為をしたのは、柳川藩士たちでした。
その一部始終を清水の民衆は見せつけられたのですから、
官軍を憎むのは当然といえば当然です。
惨殺された神主も腕を切り落とされた神主も、
共に清水の神社の神職です。
下の写真は、このときの咸臨丸の犠牲者を悼む殉難碑です。
表に榎本武揚揮毫の「食人之食死人之事」(解説は長くなるので割愛)
裏に咸臨丸事件の詳細が刻まれています。

静岡県清水区興津 清見寺
さて、隊長の富士亦八郎ですが、
赤心隊解散後は軍務官に従い、函館戦争に従軍するなどしていました。
しかし故郷に残してきた妻はその留守中、病死してしまいます。
家を焼かれたのはその一週間後のことだったそうです。
富士氏は故郷への帰還を断念します。
この神主殺傷や放火事件を聞いたほかの隊員たちはみな震え上がり、
故郷を捨てる決心をします。
そこで富士亦八郎が頼ったのが、
討幕軍の上司で、新政府の軍務官副知事の大村益次郎です。
大村は、彼ら神職を東京へ移住させる方策を考え、
「本国すでに徳川氏領地と相成り候につき、帰国はなはだ難渋の趣き」
という建白書を政府に提出。
しかし、仕事がなければ移住はできないので、
「上野山内へ昨年来戦死の霊祠を相設け、
神職共を移住せしめ、春秋の祭典を掌らせ…」と職場の確保も約束しました。
このことについて、「駿州赤心隊始末記」(若竹秀信)は、
「大村にとって、
中央集権的軍制を確立するには制度的な確立だけでなく、
精神面においても近代天皇制国家を支える支柱が必要であった」とし、
「駿州赤心隊」(若林淳之)は、
「その舞台としての招魂社、そこに奉仕する赤心、報国両隊の現況は、
彼の軍政改革構想(徴兵制)実現の、
起爆剤になった」としています。
招魂社社司任命書。遠州報国隊と駿州赤心隊の62名が任命された。

「駿州赤心隊」より
大村の建白書から半年後の6月、当初の上野山ではなく、
皇居(江戸城)に近い九段坂上で招魂社の起工式が行われました。
そのときの鎮祭に奉仕したのはすべてこの駿遠の神主たちでした。
で、私の曽祖父はどうなったかというと、
留守部隊であったがため難を免れ、東京移住もしないで済んだ。
だから、今の私がいるってわけだけれど。
ただし、
神職の世襲制が廃止されたため、
故郷にあっても家は没落してしまいました。
<つづく>
※参考資料・画像提供
/「駿州赤心隊」若林淳之 富士山本宮浅間神社社務所 昭和43年
※参考文献
/「駿州赤心隊始末記」若竹秀信 私家本 平成4年
※画像提供
/「駿河記」
/「しみずの昔 その2」多喜義郎 私家本 平成5年
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