チャン
柴田幸次郎を追う
「よそモンの薩長の田舎侍がなんでぇ。明治っていったって逆さに読みゃー、
治(オサマル)明(メェー)じゃねえか。べらんめぇー」(方言風土記)
と江戸っ子が毒づいても、明治の時代はピーヒャラドンドンと幕を開け、
文明開化の波は、あっという間に広がって行った。
「アメリカから帰ってきたとき、仙台藩主に会いに行ったらそばにいた侍が、
御前(ごぜん)の前だから首巻を取ったらどうじゃと。それで、
これはネクタイというもので、つけているのが礼でありますと申し上げた」
(高橋是清自伝)
ビゴーの風刺画「猿まね」。洋装をしているが鏡に映る顔は猿。

「紅毛人さえ履くものだから日本人に履けないことはないと靴を履いた。
寸法などあわないものだから豆ができる。
それでもびっこひきひき血だらけになって履いて歩いた。
だが、人がいないところでは、
ふところに入れておいた草履に履き替えた、という話がある」
(元・旗本の渋谷真琴・談)
情けないけど、今の私には下駄の鼻緒の方が痛い。
さて、
最後の将軍・徳川慶喜がそんな東京を離れて静岡市へ移住してきたのは、
明治元年、32歳のとき。
それから61歳で東京へ転居するまでの30年間をこの地で過ごします。
この30年の間に二人の側室が産んだお子は23人。
もう毎年のように代わる代わる出産です。
孫(のちの高松宮妃)を抱く慶喜公。

「徳川慶喜残照」より
でも23人のお子のうち10人が夭逝。
なぜか。
昔の上流階級では、乳首におしろいを塗るのが女のたしなみで…。
でもその頃のおしろいには鉛が入っていたんです。
鉛中毒ってことなんでしょうかねえ。可哀そうに。
そこで慶喜さんは、生まれた子を里子に出します。
里親は農家、石屋、質屋、煮豆屋、植木屋などいろいろ。
元将軍様のお子を預るなんて、私だったら怖気づいてしまいますが、
里親のみなさんは、ちゃんと5歳まで手元で育てました。
預っている最中に病死した子や川で溺れた子もいましたが、
お咎めは一切なし。ちゃんと養育料も支払われています。
川で溺れた子は助かったそうですが、
それにしてもケーキさん、すごい度量です。
子供たちは月に一度、実父の慶喜公に会いに来たそうですが、
「誠叔父(慶喜九男。のちに男爵)は、
早く里親の家に帰りたがったとか。
おとと様(慶喜公)に向かってチャン(父ちゃんの下町言葉)
って言ったので、(生みの親の)幸は慌てたそうです」(大河内富士子・談)
里親の大勢の子供たちと一緒に育ち、慶喜公を「チャン」と呼んだ誠氏。

前田匡一郎氏所蔵
里親たちは預ったお子たちをお返ししたあとも、
里子の入学、上京、結婚などの節目節目には必ず挨拶に訪れたそうです。
おかげで逞しく育ちます。
清水の海へ水泳に、ケーキさんと釣りや狩猟や自転車の遠乗りに。
花火見物や曲馬団見物。
みかん狩りは年中行事になった。
私は10年ほど前、
持舟(用宗)城落城の折り、
逃れてきたという城主についてお聞きするため、ある農家を訪ねました。
その時見せていただいたのがこの刀です。銘は「長船」とのこと。

いろいろ見せていただいた中に、
慶喜公の側室から頂戴したという刺繍(ししゅう)がありました。
その時はあまり気に止めなかったのですが、
今回、この家に慶喜さんご一家がみかん狩りに来たことや、
多趣味な慶喜公は刺繍もよくされたということを知り、
もしかしたら、あれは慶喜さんご自身の作品だったのでは、と。
それで撮ったはずの刺繍の写真を探しましたが見つからず。
ぼう大なネガを前に、探すのを諦めました。ホントに残念。
そのお宅へは、
最初の訪問から3、4年後に今度は力石採集のためお尋ねしたら、
なんと、無人の空き家になっていました。
あの刺繍のことを知る人がいなくなれば、刺繍はただのゴミ。
こうしていろんなものが消えていくんですねえ。
さて、無事育ったお子たち、「遊歩」と称して静岡浅間神社を始め、
遠く久能山東照宮まで徒歩で行ったというのですから驚きです。
明治22年4月には宝生九郎を招き、
静岡浅間神社の稚児拝殿のあたりへござを敷いて能観賞。
こちらは同神社・楼門横にある能の始祖「観阿弥」の碑です。

刻まれているのは、世阿弥の「風姿花伝」の一節、
するがの国 浅間の御まえにて 法楽仕り
その日の申楽ことに花やかに
見物の上下一同にほうびせしなり
で、末尾に「二十六世観世宗家清和」と記されています。
また、
「この碑文は生駒宝山寺蔵旧伝本より転写した」との説明があります。
碑の奉納者はNHKアナウンサーだった山川静夫氏です。
観阿弥が今川氏の招きで能を催したのは、至徳元年5月4日のこと。
しかしその15日後(新暦1384年6月8日)、ここで病死してしまいます。
慶喜さんは建穂寺(たきょう)の観音へも参詣に行っています。
下の絵図はかつての建穂寺です。
「瑞祥山建穂寺之図」

国立公文書館内閣文庫蔵
慶喜さんはここで狂歌を詠み、境内の桜の枝へ結びつけたそうです。
絵図右下の参道沿いに桜並木が続いていたそうですから、
そのどこかの枝に結んだのでしょう。
左上、山上の建物が観音堂です。
この里は服織(はとり)といって、
古代豪族・秦氏ゆかりの地といわれています。
清少納言の「枕草子」にも出てきます。
この里から毎年、
稚児舞の稚児たちが安倍川を越えて浅間神社へやってきます。
能のルーツは秦河勝に遡るとの説がありますから、
稚児舞もちょっと関係があるのかしら。つねまるさんに聞いてみようっと。
稚児舞です。

服織の里、建穂の観音で詠んだ慶喜公の狂歌はこちら。
静岡の方言を織り込んでいます。
おとなしく花見る人はごせっぽし
花折る人は実におとまし
みなさん、この方言、わかりますか?
「ごせっぽい」は、
咽喉がいがらっぽくてムズムズするという言葉だとお思いではないでしょうか。
私も静岡市へ来た当初はそう思いました。
でも、実はその反対。「ごせっぽい」は、
「清々しい」「清々する」「すっきりする」という意味なんです。
一説には「御所っぽい」「大御所(家康)っぽい」からきているとか。
「おとましい」は「うっとうしい」「危なっかしい」などの意。
こうした方言を慶喜公がご存知だったとは、静岡市民としてはとっても嬉しい。
「おかんじゃけ」が並ぶ今年のお正月の商店街です。

「おかんじゃけ」は、
服織の大字の一つ、
羽鳥の洞慶院に伝わる厄除け、祝い棒です。
材料は真竹。竹の上部を叩いて繊維状にします。
神さまの大麻(おおぬさ)でもあり、子供の玩具にもなります。
姉さま人形の島田髷も作れます。
さて、白鳳時代の草創と伝えられる古刹・建穂寺は、
明治維新で寺領取り上げとなり、翌年焼失して廃寺となりました。
こんな大寺がこんなに簡単に消えていくとは、なんとも痛ましい。
おびただしい仏像は、村人たちが自費で建立した小さなお堂に移されて、
今もこの里の方々がお守りしています。
十二所権現と馬鳴大明神は、
建穂神社として独立し今も存在しています。
明治22年、慶喜公が訪れた時、桜の木はまだ残っていたんですねえ。
<つづく>
※参考文献・画像提供
/「聞き書き・徳川慶喜残照」遠藤幸威 朝日新聞社 1982
/「慶喜邸を訪れた人々・徳川慶喜家扶日記」より
前田匡一郎編著 平成15年 羽衣出版
※参考文献
/「戊辰物語」東京日日新聞社会部編 昭和3年
/「高橋是清自伝」高橋是清 千倉書房 昭和11年
復刻 昭和39年 筑摩書房
/「方言風土記」すぎもとつとむ 雄山閣出版 昭和53年
治(オサマル)明(メェー)じゃねえか。べらんめぇー」(方言風土記)
と江戸っ子が毒づいても、明治の時代はピーヒャラドンドンと幕を開け、
文明開化の波は、あっという間に広がって行った。
「アメリカから帰ってきたとき、仙台藩主に会いに行ったらそばにいた侍が、
御前(ごぜん)の前だから首巻を取ったらどうじゃと。それで、
これはネクタイというもので、つけているのが礼でありますと申し上げた」
(高橋是清自伝)
ビゴーの風刺画「猿まね」。洋装をしているが鏡に映る顔は猿。

「紅毛人さえ履くものだから日本人に履けないことはないと靴を履いた。
寸法などあわないものだから豆ができる。
それでもびっこひきひき血だらけになって履いて歩いた。
だが、人がいないところでは、
ふところに入れておいた草履に履き替えた、という話がある」
(元・旗本の渋谷真琴・談)
情けないけど、今の私には下駄の鼻緒の方が痛い。
さて、
最後の将軍・徳川慶喜がそんな東京を離れて静岡市へ移住してきたのは、
明治元年、32歳のとき。
それから61歳で東京へ転居するまでの30年間をこの地で過ごします。
この30年の間に二人の側室が産んだお子は23人。
もう毎年のように代わる代わる出産です。
孫(のちの高松宮妃)を抱く慶喜公。

「徳川慶喜残照」より
でも23人のお子のうち10人が夭逝。
なぜか。
昔の上流階級では、乳首におしろいを塗るのが女のたしなみで…。
でもその頃のおしろいには鉛が入っていたんです。
鉛中毒ってことなんでしょうかねえ。可哀そうに。
そこで慶喜さんは、生まれた子を里子に出します。
里親は農家、石屋、質屋、煮豆屋、植木屋などいろいろ。
元将軍様のお子を預るなんて、私だったら怖気づいてしまいますが、
里親のみなさんは、ちゃんと5歳まで手元で育てました。
預っている最中に病死した子や川で溺れた子もいましたが、
お咎めは一切なし。ちゃんと養育料も支払われています。
川で溺れた子は助かったそうですが、
それにしてもケーキさん、すごい度量です。
子供たちは月に一度、実父の慶喜公に会いに来たそうですが、
「誠叔父(慶喜九男。のちに男爵)は、
早く里親の家に帰りたがったとか。
おとと様(慶喜公)に向かってチャン(父ちゃんの下町言葉)
って言ったので、(生みの親の)幸は慌てたそうです」(大河内富士子・談)
里親の大勢の子供たちと一緒に育ち、慶喜公を「チャン」と呼んだ誠氏。

前田匡一郎氏所蔵
里親たちは預ったお子たちをお返ししたあとも、
里子の入学、上京、結婚などの節目節目には必ず挨拶に訪れたそうです。
おかげで逞しく育ちます。
清水の海へ水泳に、ケーキさんと釣りや狩猟や自転車の遠乗りに。
花火見物や曲馬団見物。
みかん狩りは年中行事になった。
私は10年ほど前、
持舟(用宗)城落城の折り、
逃れてきたという城主についてお聞きするため、ある農家を訪ねました。
その時見せていただいたのがこの刀です。銘は「長船」とのこと。

いろいろ見せていただいた中に、
慶喜公の側室から頂戴したという刺繍(ししゅう)がありました。
その時はあまり気に止めなかったのですが、
今回、この家に慶喜さんご一家がみかん狩りに来たことや、
多趣味な慶喜公は刺繍もよくされたということを知り、
もしかしたら、あれは慶喜さんご自身の作品だったのでは、と。
それで撮ったはずの刺繍の写真を探しましたが見つからず。
ぼう大なネガを前に、探すのを諦めました。ホントに残念。
そのお宅へは、
最初の訪問から3、4年後に今度は力石採集のためお尋ねしたら、
なんと、無人の空き家になっていました。
あの刺繍のことを知る人がいなくなれば、刺繍はただのゴミ。
こうしていろんなものが消えていくんですねえ。
さて、無事育ったお子たち、「遊歩」と称して静岡浅間神社を始め、
遠く久能山東照宮まで徒歩で行ったというのですから驚きです。
明治22年4月には宝生九郎を招き、
静岡浅間神社の稚児拝殿のあたりへござを敷いて能観賞。
こちらは同神社・楼門横にある能の始祖「観阿弥」の碑です。


刻まれているのは、世阿弥の「風姿花伝」の一節、
するがの国 浅間の御まえにて 法楽仕り
その日の申楽ことに花やかに
見物の上下一同にほうびせしなり
で、末尾に「二十六世観世宗家清和」と記されています。
また、
「この碑文は生駒宝山寺蔵旧伝本より転写した」との説明があります。
碑の奉納者はNHKアナウンサーだった山川静夫氏です。
観阿弥が今川氏の招きで能を催したのは、至徳元年5月4日のこと。
しかしその15日後(新暦1384年6月8日)、ここで病死してしまいます。
慶喜さんは建穂寺(たきょう)の観音へも参詣に行っています。
下の絵図はかつての建穂寺です。
「瑞祥山建穂寺之図」

国立公文書館内閣文庫蔵
慶喜さんはここで狂歌を詠み、境内の桜の枝へ結びつけたそうです。
絵図右下の参道沿いに桜並木が続いていたそうですから、
そのどこかの枝に結んだのでしょう。
左上、山上の建物が観音堂です。
この里は服織(はとり)といって、
古代豪族・秦氏ゆかりの地といわれています。
清少納言の「枕草子」にも出てきます。
この里から毎年、
稚児舞の稚児たちが安倍川を越えて浅間神社へやってきます。
能のルーツは秦河勝に遡るとの説がありますから、
稚児舞もちょっと関係があるのかしら。つねまるさんに聞いてみようっと。
稚児舞です。

服織の里、建穂の観音で詠んだ慶喜公の狂歌はこちら。
静岡の方言を織り込んでいます。
おとなしく花見る人はごせっぽし
花折る人は実におとまし
みなさん、この方言、わかりますか?
「ごせっぽい」は、
咽喉がいがらっぽくてムズムズするという言葉だとお思いではないでしょうか。
私も静岡市へ来た当初はそう思いました。
でも、実はその反対。「ごせっぽい」は、
「清々しい」「清々する」「すっきりする」という意味なんです。
一説には「御所っぽい」「大御所(家康)っぽい」からきているとか。
「おとましい」は「うっとうしい」「危なっかしい」などの意。
こうした方言を慶喜公がご存知だったとは、静岡市民としてはとっても嬉しい。
「おかんじゃけ」が並ぶ今年のお正月の商店街です。

「おかんじゃけ」は、
服織の大字の一つ、
羽鳥の洞慶院に伝わる厄除け、祝い棒です。
材料は真竹。竹の上部を叩いて繊維状にします。
神さまの大麻(おおぬさ)でもあり、子供の玩具にもなります。
姉さま人形の島田髷も作れます。
さて、白鳳時代の草創と伝えられる古刹・建穂寺は、
明治維新で寺領取り上げとなり、翌年焼失して廃寺となりました。
こんな大寺がこんなに簡単に消えていくとは、なんとも痛ましい。
おびただしい仏像は、村人たちが自費で建立した小さなお堂に移されて、
今もこの里の方々がお守りしています。
十二所権現と馬鳴大明神は、
建穂神社として独立し今も存在しています。
明治22年、慶喜公が訪れた時、桜の木はまだ残っていたんですねえ。
<つづく>
※参考文献・画像提供
/「聞き書き・徳川慶喜残照」遠藤幸威 朝日新聞社 1982
/「慶喜邸を訪れた人々・徳川慶喜家扶日記」より
前田匡一郎編著 平成15年 羽衣出版
※参考文献
/「戊辰物語」東京日日新聞社会部編 昭和3年
/「高橋是清自伝」高橋是清 千倉書房 昭和11年
復刻 昭和39年 筑摩書房
/「方言風土記」すぎもとつとむ 雄山閣出版 昭和53年
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