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恩人

牧之原へ入植した中条景昭は、
明治8年3月、今は新政府の役人になっている山岡鉄舟から、
神奈川県令になっていただきたい」と要請されます。

県令とは、現在の県知事のことです。

しかし中条さんは、これを蹴ったんです。
「わしはこの荒野に骨を埋める。お茶の肥やしになるのですよ」と。

下の写真は、牧之原産を中心にブレンドした煎茶です。
世界緑茶コンテストで通算連続で最高金賞と金賞を8回受賞した
お茶屋さんの製品です。

金賞なので、袋も
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お茶は農家自慢の単品もおいしいですが、ブレンドこそ命だそうで、
お茶屋さんはご自分の五感と培った技で自慢のブレンド茶を作ります。

さて、入植から13年目の明治15年、こんなことが起きました。

大草高重は山梨県で開催されたお茶の品評会に、
牧之原特産として「大草組」のお茶を出品しました。
ところが、下された判定は「粗悪品」。

手塩にかけて育てたお茶が「並以下の粗悪品」とされて、大草は憤慨。
そりゃそうですよね。粗悪品を徳川家へ献上していたことになりますから、
忠実勤勉な腹心にしてみれば一大事です。

中条とともに時の県令・大迫に抗議に行きます。大迫県令は大弱り。
そこで助け舟を出したのが、三重県の茶師・酒井甚四郎という人です。

酒井は牧之原まで足を運び、茶園から茶工場を見て回り、
このお茶は決して粗悪品ではない。ただ栽培上に問題があるとして、
魚肥の入れ方、新芽をもみ上げる時間など、
代表者たちを集めてきめ細かく指導。

いわれてみればもっともなことばかりです。

酒井甚四郎のこの親切に感激した中条や大草は、
白隠禅師の画や徳川家達の書をお礼に差し上げたそうです。

ところが今度は酒井の方がこれに感激。
農商務省の茶業課を訪れ、品評会の審査長だった多田元吉に、
牧之原の入植者の話を伝えました。

多田元吉も元幕臣で、明治2年、
静岡市丸子の徳川家の土地を譲り受けて茶の栽培を始めた人です。
のちに新政府に登用され、インドや中国へ紅茶製法の調査に出かけます。

多田元吉の著作です。
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右は徳川慶喜公から贈られた短冊。
   「雪中求若菜」

雪の中にあっても、力強く芽吹いてみずみずしい若菜になって欲しいー。

禄を失い厳しいこの時代にあっても、力強く芽吹いてくれよという希望を、
旧幕臣たち、あるいは自分自身へ込めた言葉なのでしょうか。

こちらは多田元吉の弟子で、茶樹「やぶきた」の発見者・杉山彦三郎
藪の北側に生えていたので「やぶきた」と命名された、と聞いたときは、
まさか!と笑いましたが、それは本当のことだった。

本物                  銅像
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                     静岡市葵区・駿府城公園

酒井が多田に伝えた牧之原開拓の中条、大草たちの話は、
今度は多田から農商務大臣の西郷従道(つぐみち)へと伝わりました。
西郷従道は西郷隆盛の弟です。
牧之原に入植した侍たちの苦闘を知った西郷は心を打たれ、
これがきっかけで、のちに牧之原を訪問します。

その折り、従道は兄・隆盛の旧知・今井信郎を訪ねます。
今井信郎は元・京都・見廻組。あの坂本龍馬を斬った男と言われた人です。
今井も中条を頼って、ここ牧之原に入植していたのです。

10数年前、私は今井信郎の旧居があったという場所へ行きましたが、
竹林を背にした寂しい場所でした。
その侘び住まいで従道はお茶をいただき、往時を偲んだそうです。

屋敷跡に今井信郎の顕彰碑を建立したときの新聞記事です。
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(静岡新聞・平成15年2月24日)

さて、静岡県のお茶の関係者がお世話になった三重県人は、
この酒井甚四郎だけではありません。
日本茶の振興に一生をささげた大谷嘉平も静岡県人にとっては恩人です。

静岡市の中心地に谷津山という標高100㍍ほどの小山があります。

こちらは、そのふもとの清水山公園に建つ大谷嘉平の像です。
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静岡市葵区・清水山公園

実はこれ、昭和40年に新たに建てた大谷嘉平の2つ目の銅像なんです。

この谷津山には静岡県最古の前方後円墳があります。

郷土研究家の安本収氏によると、
「お茶の貿易でお世話になった大谷への恩返しに銅像を建てようとしたら、
古墳がある山だとわかった。
それを知った大谷が、古墳に自分の銅像などとんでもないといい、
逆に、古墳の保存と公園整備のための費用を申し出た」そうです。

大正6年、その感謝をこめて公園内に最初の大谷嘉平の銅像を建立。
ところが太平洋戦争の勃発で、
銅像は軍に供出されて台座だけになってしまいます。

そして戦後13年たった昭和33年
この台座は駿府城公園に運ばれ、あらたな像を乗せることになりました。
像は、戦争中、軍需工場で亡くなった勤労奉仕の学生をモデルにしたもので
「やすらぎの塔」(岸信介・筆)と名づけられました。

戦没学生たちの名前を刻んだプレート。
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台座にはこう刻まれています。

「凛々しかった君たち若人らは、国家と運命を共にして、
一片の名誉すらなく、献身の二文字に消えた」


で、この台座はまたまた悲運に遭遇します。

台座の上に凛々しく立っていた男女二人の学生像が、
6年前の東北大地震で亀裂が入ったため、市で撤去してしまったのです。
市民からの補修や再建の声も届かず…。

台座だけになった「やすらぎの塔」です。高さ6.6㍍。両サイドの灯火台も破損。
近くにいる人と比べて見てください。かなりの大きさです。
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静岡市葵区・駿府城公園、「やすらぎの塔広場」

大谷嘉平の銅像は台座だけ残して軍に供出され、
その台座に今度は戦没学生の像が乗せられた。
そしてその像も地震で撤去されて、また台座だけになりました。

嘉平翁もまさかの展開ですが、思えば数奇な運命ですね。

これはおまけ。巨大な石のわさびです。
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駿府城堀端

このそばを通るたびに、なんとなく妙な気分になります。


<つづく>


※参考文献/「侍たちの茶摘み唄」江崎惇 鷹書房 平成4年
        /「牧之原開拓秘話 遺臣の群像」塚本昭一 初倉郷土研究会
         平成23年
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特別な思いで…

幕府崩壊で江戸城を官軍に明け渡した最後の将軍・徳川慶喜は、
その足で上野・寛永寺へ入ります。
慶喜、32歳。
その慶喜公の護衛のため、「精鋭隊」が結成されます。

精鋭隊頭は中条金之助景昭。40歳。一刀正伝無刀流達人。
精鋭隊頭取は大草多喜次郎高重。33歳。騎射の名門・和田家に生まれ、
本来は将軍家の所有で、朝廷の綸旨がなければ所持できないという
「重籐弓(しげとうのゆみ)の所持を許された名人。

中条景昭の像            鎌倉装束の大草高重真影
img700.jpg img701 (2)
坂本・種月院蔵          大草家蔵  いずれも「遺臣の群像」より

ほかに北辰一刀流の山岡鉄太郎(鉄舟)、直心影流の榊原健吉
関口艮輔(隆吉)=のちの静岡県令=など剣豪揃いの旗本70余名。

彼らは慶喜公と共に上野から水戸、その水戸から駿府へとやってきた。
江戸火消し「を組」の親分、新門辰五郎もまた子分ともども、
付かず離れず一行のあとを追ってきた。

慶喜公は二代将軍秀忠の生母・西郷の局の菩提寺・宝台院に入り、
新門一家はそこからほど近い常光寺を宿にして護衛にあたった。
一方、精鋭隊は名を「新番組」と改め、
久能山周辺の寺や民家に間借り。肩身の狭い「お泊りさん」になった。

幕臣たちを受け入れた家々では、この人たちを「お泊りさん」と呼んだのです。

慶喜公が謹慎生活を送った宝台院です。赤→が西郷局の墓石。
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静岡市葵区常磐町

明治元年7月。
この日から慶喜公の静岡市での30年に及ぶ生活が始まり、
「新番組」もまた、想像もしなかった苦難の道を歩むことになります。

新門辰五郎が建立した戊辰戦争で亡くなった子分たちの供養塔。
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静岡市葵区常磐町・常光寺

職を失った旧幕臣たちの中には、
困窮のあまり妻や娘を遊女屋に売る者が続出。そのため「禁止令」まで出た。
生活苦は新番組の元旗本たちも同様だった。

そのころ、私の母方の実家も同じ憂き目にあっていたようで…。

母方は田中藩(藤枝市)の藩士で、曽祖母の父親は柔術師範だった。
幕府崩壊で藩主とともに房総へ移住。
若くして未亡人になった曾祖母は長男を農家へ養子に出し、
父親と共に房総へ行ったものの、のちに二人の子を連れて戻ってきた。

極貧にあっても常に懐剣を帯に差し、物静かに和歌を詠むという人で、
凛として近寄りがたかったと孫にあたる叔母たちから聞いた。
臨終を迎えたとき、養子に出した長男が「ひと目会いたい」と尋ねてきたのを、
すでに親子ではないと突っぱねた、とも。

曾祖母は最期まで武士の娘を貫いたのでしょう。

田中藩「田中亀城之図」 明治元年
「田中城内 ○○様だけで郵便が届いたんですって」と叔母たち。
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藤枝市西益津町   藤枝市郷土博物館発行のパンフレットより 

ひっくり返った時代の波を、官軍に味方した父方も武士だった母方も、
ともに等しく被ってしまったんだと思います。

さて「新番組」のその後はどうなったかというと、
駿府移住の翌明治2年7月、新番組は廃止され、
同時に中条や大草は「金谷原(牧之原)開墾方」を命じられます。
茶園を作るための入植です。
しかしそこは、農民たちも匙を投げるほどの荒れた台地だったといいます。

入植士族二百数十人。
そこに掘立小屋を建て、刀を鍬に代えて彼らは原野に挑みました。

殿様と言われた男たちは、木を切り倒し切り株を掘り起こす作業に明け暮れ、
千石取りの旗本の奥方たちも大井川流域の川根茶の産地へ行き、
茶のイロハを教えてもらう日々。

下の絵は、牧之原に入植した大草高重のかつての晴れ姿です。

将軍上覧の流鏑馬で、実父・和田勝正、実兄・和田勝信と、
親子競演「三騎揃え」を果たしたときの流鏑馬絵巻です。

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東京・高田馬場・穴八幡宮所蔵  「遺臣の群像」より

お茶は種を蒔いてから茶葉の収穫まで4年もかかります。
新政府の役人になった勝海舟や山岡鉄舟の力で資金をつなぐものの、
相変わらずの貧乏暮らし。入植した士族の数も減り続けます。

そんな中、明治6年、とうとう初めての収穫を迎えます。
その初収穫の新茶は、まずは徳川宗家へとの思いから、
中条と大草は新茶を入れたふろしき包みを背負い、
牧之原から徒歩で清水湊へ向かい、船と汽車を乗り継いで東京へ。
その東京・新橋から再び徒歩で、徳川邸のある千駄木まで届けたそうです。

静岡の茶畑です。牧之原大茶園でなくてごめんなさい。
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静岡市葵区有東木

「徳川慶喜家扶日記」というものがあります。
明治5年から慶喜公が亡くなる前年の大正元年までの41年間を、
慶喜家の使用人たちが書き継いできた日々の記録です。

その中の明治5年から30年までの静岡時代を、
前田匡一郎氏が「慶喜邸を訪れた人々」という本にまとめています。
前田氏は「人のやれないことをやれ」と誰も手を付けなかった分野に挑み、
「駿遠に移住した徳川家臣団」を著した方です。

この「慶喜邸を…」に、
牧之原に入植した中条大草たちがたびたび登場します。

日記に出てくる彼らは、大井川を越えてはるばる静岡の慶喜公の元へ、
はもちろん、さつまいも枝豆胡麻など自分の畑の収穫物を、
姿は変われど武士の魂を忘れず、誠実な腹心のまま、
万感の思いを込めて献上にきています。

ちなみに中条景昭は、明治29年にこの世を去るまで、
ちょんまげを切らなかったそうです。

事実だけを箇条書きにして淡々と構成していく前田氏が、
中条らの姿に胸を熱くしたのか、ここばかりはこう書き添えてありました。

「原野を開拓していた腹心だった彼らからの献上品は、
特別な思いで受け取ったであろう」


<つづく>


※参考文献・画像提供/「牧之原開拓秘話 遺臣の群像」塚本昭一
               初倉郷土研究会 平成23年
※参考文献/「侍たちの茶摘み唄」江崎惇 鷹書房 平成4年
        /「慶喜邸を訪れた人々」前田匡一郎 羽衣出版 平成15年

招魂社②

倒幕軍に呼応して立ち上がった民間の組織、草莽隊(そうもうたい)。
明治新政府樹立前に「身内」から消された草莽隊もありました。

その一つ、公卿を擁立して九州地方で蜂起した「花山院一党」は、
三条実美から「勅書」をいただき、薩長から軍資金までもらっていたのに、
のちに、同志のはずの長州藩から攻撃されて消滅

相楽総三が公卿・綾小路俊実らを擁立して組織した「赤報隊」は、
慶応3年、西郷隆盛らと結託して江戸薩摩藩邸に浪士を集め、
関東一円の攪乱工作(やたら人を切って暴れた)を展開。
その工作が功を奏したのが、幕府側浪士による薩摩藩邸の焼打ちです。

この焼打ち事件、
実は徳川慶喜に大政奉還されて倒幕の根拠を失った薩長が、
その新たな口実にするために仕掛けたワナ。それに幕府側がひっかかった。

しかし薩摩にとって、相楽総三の利用価値はここまで。
討幕軍から東海道鎮撫使付属というお墨付きをもらったにも関わらず、
ほどなく薩摩藩から、
「偽(にせ)官軍」の汚名を着せられ処刑されてしまいます。

「わらべ地蔵」  「うしろのしょうめん、だあれ?」「もしかして、さつまさん?」
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静岡市葵区伝馬町・宝泰寺   

神主グループも似たり寄ったりの結末になったわけですけど、
その神主たちを討幕軍加担へ駆り立てたものとは何だったかというと、

「駿州赤心隊」(若林淳之)は、
「幕藩社会の推移によって失われつつあった神社や氏子に対する
権威や地位の復活」「神葬祭の許可」などをあげています。

そういえば父がよく言っていました。
「本当は寺より神社の方が上なんだよ」って。

なんでそうムキになってるの?と子供心におかしかったけど、
江戸時代の神仏混淆を見ると、確かに坊さんの方が優遇されていた。
でも子供のころは「死んだら仏教徒はにしかなれないけど、
私たちはになれるんだ」って思っていたから父の洗脳は効果ありだったかも。

で、父も兄もお葬式はもちろん神葬祭でした。

でも、神式のお葬式ってなかなかいいものですよ。
雅楽の中で行われるし、簡素だし、戒名はいらないし、荘厳だけど安上がり。
祭壇が白木、幕が白黒ではなく紫と白というのも私、好きなんです。

さて、招魂社です。
ここに祀られたのは戊辰戦争の官軍側の戦死者だけなんですよね。
「朝敵」とされた旧幕府軍はみんなはじかれた。
国家による「死者の差別・選別」ー。

あの戦国時代でさえそんなことはなかった。
今川、武田の激戦地には敵味方の五輪さんが一緒に並んでいます。

モダンな平成の五輪さんです。
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静岡市葵区伝馬町・宝泰寺

これが明治新政府の官僚たちとなると、なんだかひどく冷淡です。
勝ちに乗じてむごいこともしました。

清水湊では、無抵抗の咸臨丸乗員の首を切り落とし海へ捨てましたが、
「戊辰物語」にも同様のことが出てきます。

「上野で戦死した幕府側の彰義隊は220余名。
官軍は鉄砲を使ったから幕府軍の死体はきれいだったが、
それを官軍兵士らは、さらに刀でなますのように切り刻んだ」

その上、官軍は幕府軍の遺体だけを放置。腐臭は上野の山に漂った。
遺体を葬ろうにも官軍が怖くて誰にもできない。

清水湊でも同じことが起きた。
咸臨丸の旧幕臣たちの遺体が海にプカプカ浮かんでいるのを、
やっぱり官軍が怖くて誰も手を出さない。

そこで侠客・清水次郎長が、
「死ねば敵も味方もない。みんな同じ仏さんだ」といって死体を引き上げ、
駿河湾に注ぐ巴川河畔に手厚く葬った。

下の写真が巴川です。
黄色→の先に、咸臨丸の犠牲者の「壮士墓」があります。
赤→は次郎長の船宿「末広」、観覧車のあたりがエスパルスドリームプラザ。
その後ろが清水港です。

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港橋付近

次郎長さんを馬鹿にしちゃあいけないよって私は思います。
「死ねば敵も味方もない」ー。
これが日本人だよ、日本人の感性だよ、長州の大村さん。
だから次郎長はやくざでも、この心意気にみんな惚れたんです。

その次郎長の像です。
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静岡市清水区清水南岡町・梅蔭寺

でも、大村益次郎の「建白書」を読んでみると、
「戦死の霊祠を相設け」とあるだけで、「官軍だけを祀る」とは書いてない。
どこから「官軍だけ」という考えがでてきたかというと、
「駿州赤心隊」(若林淳之)にこうありました。

「国事に尽くした人々を神に祀るということは、
全く大村の独自の発想であったわけではなく、
慶応4年5月、天皇は嘉永~安政以降の
国事に殉じた志士の霊を祀るため京都霊山に祠宇を建てたことがあって
(概観維新史)、東京招魂社はこれの延長であり…」

こちらが咸臨丸犠牲者の「壮士墓」です。山岡鉄舟揮毫。
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静岡市清水区築地町

ちなみに、静岡市の静岡浅間神社裏の賎機山にある慰霊の塔は、
昭和20年の米軍による大空襲の犠牲者2000余名と、
墜落したB-29のアメリカ兵23名が合祀されているんです。

当時「鬼畜米英」と教えられていた市民が、
自分たちに焼夷弾を落したその「鬼畜」のために、
木の十字架をつくって弔ったそうです。

昨今の紛争地で敵の遺体をさらに傷つけたり、憎しみのあまり相手の国旗を
踏みつけたりする人たちには、不可解な行為と映るかもしれませんが…。
戦後70年の一昨年の慰霊祭には米軍基地から軍人が多数参列しました。
きっと何かを感じていただけたと、私は信じているんです。

実は静岡市には、もう一つ「壮士之墓」があります。
銚子の犬吠崎近くで難破した「美加保丸」遭難者・処刑者の共同墓です。

美加保丸は、咸臨丸と同じ榎本武揚率いる旧幕府の軍艦の一つでした。
この墓はその生き残りの旧藩士が建立したものです。

美加保丸殉難者の「壮士之墓」
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静岡市葵区伝馬町・宝泰寺

さて、その招魂社に、
遠州報国隊、駿州赤心隊合わせて62名が職を得たことは前回お話しました。
しかし、国元ではそれなりの暮らしをしていたのに、
東京では長屋住まい、一代限りの扶持という厳しい暮らしでした。

さらに明治5年になると、社司たちの人員整理が始まります。
「一代限り」どころか、たった3年で解雇です。

招魂社に留まった者はわずか5名
放逐されて下級官僚になったものの出世した者は一人もいない
故郷へ戻った者たちはさらに厳しく、
竹細工職人煙草切り鍛冶屋質屋など思いもしなかった仕事について、
惨めな生活を強いられました。

「駿州赤心隊之碑」              「遠州報国隊紀念碑」
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富士宮市・富士山本宮浅間神社境内    浜松市・五社公園

私の曽祖父は土地など切り売りしたり茶園を始めたり、
祖父はあちこちの神社を掛け持ちして生計を立てていたようです。
慶喜さんほどではなかったけれど、
祖父は3人の妻が産んだたくさんの子の養育に大変だったみたいです。

さて、駿遠の神主さんたち、
「江戸幕府による疎外感の払拭」「神道本来の復帰」という目的のために
新政府に望みを託し協力したものの、
考えてみれば、薩長土肥の藩閥以外は本流になれるはずはなく、
今度はその新政府によって、アウトサイダーとして疎外されていきました。

早い話が、
「花山院一党」や相楽総三の「赤報隊」同様、利用されて捨てられた…。

残念な話ですが、しょせん、国家権力なんてこんなものかも…。


<つづく>


※参考文献/「駿州赤心隊」若林淳之 富士山本宮浅間大社社務所
        昭和43年
        /「戊辰物語」東京日日新聞社社会部編 昭和3年
         復刻 筑摩書房 昭和39年

招魂社①

明治2年(1869)6月、
皇居となった江戸城にほど近い九段坂上に「招魂社」が創立された。
招魂社は現在の靖国神社のことです。

創立の発案者は長州藩士の大村益次郎

「駿州赤心隊」(若林淳之)によると、
「新政府軍に加担したため故郷へ帰れなくなった
静岡県の草莽隊(そうもうたい)への解決策として創立した」とあります。

草莽隊とは、幕末、尊王攘夷や倒幕運動に参加した在野・民間の兵。

静岡県の草莽隊としては、主に以下の3つがあった。
浜松の「遠州報国隊」、県中部の「駿州赤心隊」、県東部の「伊豆伊吹隊」
隊員のほとんどは国学を学ぶ神主たちでした。

駿州赤心隊の隊員たちが従軍の折り、錦旗などにつけた肩章です。
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「駿州赤心隊」より

この駿州赤心隊には、
「大宮組」「府辺組」「山西組」の3つのグループがあった。

赤心隊の総隊長は富士山本宮浅間大社の大宮司・富士亦八郎
この人は「大宮組」の代表でもありました。

富士山本宮浅間大社の本殿
富士宮本殿
静岡県富士宮市

そして私の曽祖父は、この「大宮組」の隊員の一人でした。
曽祖父は神主で、国学・平田派門人。
赤心隊へは尊皇攘夷運動のオルガナイザー、三浦秀波の紹介で入隊。
所属は、出征隊員への資金援助や留守家族への配慮などを行う留守部隊

「朝敵を征伐せよ」との号令のもと、
討幕軍が東海、東山、北陸を江戸へ目指して進軍したのが慶応4年。
その年の2月、赤心隊隊長の富士亦八郎は、
三河吉田(愛知県)にいた大総督府に護衛とお供を願い出ます。

彼らは東征軍に従い江戸へ入り、坂下門や馬場先門の守衛を仰せつかり、
11月までの9か月間を江戸で過ごします。
そして今度は京都へ帰る大総督宮の護衛のため、再び駿府を目指しました。
この間の滞在費はすべて自費

明治新政府樹立という目的を果たし、
官軍の一員として意気揚々と国へ凱旋してきた隊員たちでしたが、
まもなく神主殺傷事件が起き、
翌年には、隊長・富士亦八郎の自宅が放火され全焼してしまいます。

赤丸が大宮司・富士氏の邸宅。横矢印が浅間大社。下矢印は神田川。
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「駿河記」より 文化年間

富士氏は戦国時代、今川方の武将として、
甲斐の武田氏と勇猛果敢に闘った大宮城の城主でもありました。

神主たちへの殺傷や放火はむごいことですが、
駿遠には江戸を追われた旧幕臣たちが大勢いましたから。
それに富士氏の本拠地の富士のふもとには、
荒地の開墾に入植した無禄移住の旧幕臣たちもいましたし。

旧幕臣たちにとっても徳川家の恩顧を受けてきた町民たちにしても、
官軍に味方した報国隊、赤心隊は憎みて余りある裏切り者でしかありません。

赤心隊がまだ江戸にいた9月には、こんな事件も起きていました。

榎本武揚率いる旧幕府軍の咸臨丸が台風で難破。
清水湊へ漂着したところを、白旗をあげているにも関わらず、
新政府の軍艦・飛竜が攻撃したのです。

勝海舟が描いた咸臨丸。
img624.jpg
「しみずの昔 その2」より

咸臨丸には大砲も小銃もない。勝負はすぐついた。

しかし新政府軍はそれだけでは飽き足らず、
小舟を漕いで咸臨丸に乗り込むと、無抵抗の旧幕臣たちへ銃を乱射。
死体の首を切り落し、次々と海へ投げ捨てた。全部で7体

この残虐行為をしたのは、柳川藩士たちでした。

その一部始終を清水の民衆は見せつけられたのですから、
官軍を憎むのは当然といえば当然です。
惨殺された神主も腕を切り落とされた神主も、
共に清水の神社の神職です。

下の写真は、このときの咸臨丸の犠牲者を悼む殉難碑です。
表に榎本武揚揮毫の「食人之食死人之事」(解説は長くなるので割愛)
裏に咸臨丸事件の詳細が刻まれています。
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静岡県清水区興津  清見寺

さて、隊長の富士亦八郎ですが、
赤心隊解散後は軍務官に従い、函館戦争に従軍するなどしていました。
しかし故郷に残してきたはその留守中、病死してしまいます。

家を焼かれたのはその一週間後のことだったそうです。
富士氏は故郷への帰還を断念します。

この神主殺傷や放火事件を聞いたほかの隊員たちはみな震え上がり、
故郷を捨てる決心をします。

そこで富士亦八郎が頼ったのが、
討幕軍の上司で、新政府の軍務官副知事の大村益次郎です。
大村は、彼ら神職を東京へ移住させる方策を考え、

「本国すでに徳川氏領地と相成り候につき、帰国はなはだ難渋の趣き」
という建白書を政府に提出。

しかし、仕事がなければ移住はできないので、
「上野山内へ昨年来戦死の霊祠を相設け、
神職共を移住せしめ、春秋の祭典を掌らせ…」と職場の確保も約束しました。

このことについて、「駿州赤心隊始末記」(若竹秀信)は、
「大村にとって、中央集権的軍制を確立するには制度的な確立だけでなく、
精神面においても近代天皇制国家を支える支柱が必要であった」とし、

「駿州赤心隊」(若林淳之)は、
「その舞台としての招魂社、そこに奉仕する赤心、報国両隊の現況は、
彼の軍政改革構想(徴兵制)実現起爆剤になった」としています。

招魂社社司任命書。遠州報国隊と駿州赤心隊の62名が任命された。
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「駿州赤心隊」より

大村の建白書から半年後の6月、当初の上野山ではなく、
皇居(江戸城)に近い九段坂上で招魂社の起工式が行われました。

そのときの鎮祭に奉仕したのはすべてこの駿遠の神主たちでした。

で、私の曽祖父はどうなったかというと、
留守部隊であったがため難を免れ、東京移住もしないで済んだ。
だから、今の私がいるってわけだけれど。

ただし、
神職の世襲制が廃止されたため、
故郷にあっても家は没落してしまいました。


<つづく>


※参考資料・画像提供/「駿州赤心隊」若林淳之 富士山本宮浅間神社社務所
               昭和43年
※参考文献/「駿州赤心隊始末記」若竹秀信 私家本 平成4年
※画像提供/「駿河記」
        /「しみずの昔 その2」多喜義郎 私家本 平成5年

猫ついでに猫

こんな猫さんも来ました。
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毛艶もいいし、別にエサも欲しがらないからノラではないと思ったけど、
なんか訴えているんですね、目が…。

庭には犬もいましたが、平気。

犬はアイリッシュ・テリアとポインターの雑種。
他の兄弟たちはみんなもらわれていったのに、一匹だけ貰い手がない。
殺処分するというので我が家で貰い受けた。

貰い手がなかったのは、一番貧相で弱々しかったからだ、と。
たぶん、お母さんのおっぱいを他の子たちに取られてしまったんでしょう。
ごはんをモリモリ食べたら立派なアイリッシュ・テリアになった。
それに、すごく優しい性格で、猫にも子供にも寛容だった。

しかし山へ連れて行くと猟犬の血が騒ぐのか、尾根を駆け登り谷を下り、
たびたび行方不明になった。
でも山を下りるころになると忽然と姿を現す。そのタイミングが凄かった。

さて、毛艶のいい猫さん、毎日やってきてこんなふうにくつろいでいきます。
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でも、だんだん汚れてきて…。
ある日、ガラス戸を開けたら片手をもちあげて座っていました。
足先が化膿してパンパン。人間様の抗生物質の軟膏を塗ってあげました。
痛がって引っかかれるかと思ったけど、大人しくこちらのなすがまま。

効き目抜群でした。
次に現れたときはすっかり治っていました。
獣医さんに聞いたら、「人間のは強いけど、それでOK」ですって。

この写真は小学生のころの私と猫のチロとロロ。
「チロロ」と呼ぶと二匹一緒に飛んできました。
背後の車をご覧になったら時代がわかってしまいますね。
今どき見られないウインカーです。

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猫はいつも2、3匹いて、夜は全員私の布団へもぐってきました。
その頃の私は空を飛ぶ夢ばかり見ていて…。
でもいくら両手をはばたいても浮上しない。汗びっしょりで目を覚ますと、
足の上に猫が2匹ドデーンと伸びているんです。

顔の上に寝そべられて窒息しそうになったことも。

こちらは東京から転居してきたころです。
今はおっさんになってる次男と猫さん。

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どこからともなくやってきて、こうして毎日次男のそばにいるんです。
「あのね、ごにょごにょ」という次男のたどたどしいおしゃべりに、
目を細めて付き合っていました。

どこかの飼い猫さんだったと思います。
家が出来るまでの仮住まいでしたから、この猫さんとは一年のおつきあいでした。

でもこうして改めて見ると、ずいぶん大きな猫だったんですね。

これが、私が一緒に暮らした最後の猫です。
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中学生だった長男が拾ってきた猫。
手のひらに乗るほどの小さな体で、
雨の中を一生懸命歩いていたのを見て感動したとかで、
牛乳で湿らせたハンカチを子猫に抱かせ、
自転車のかごに入れて連れてきました。

生後8ヵ月くらいかなと思う頃、避妊手術。
獣医さんから「すべり込みセーフ。排卵が始まっていたよ」と。
はやっ!

で、なにしろこのご面相ですから、
生涯、「可愛い」などと言われたことはありません。

私への取材の打ち合わせのため(なんと、教育テレビの30分番組)
家に来られたNHKのディレクター氏が言いました。

「こ、この猫、あの、もしかして、ヤマネコ?」

まさか! 
でも確かに狩猟の腕は抜群でした。
大型の鳥や蛇を捕まえて来て閉口しました。
柄が迷彩色ですから、木の上にいても鳥は気づかず百発百中。

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寡黙。人(猫)格高潔。威風堂々。そして孤高。

私の家庭崩壊を静かに見つめ、無言で寄り添い、
ただの一度も甘えることなく、18年の生涯を閉じました。

腕の中で最期を看取ったのが、
私からのささやかな感謝のお返しとなりました。

悲しい目

猫と暮らす生活から遠ざかること10数年。
神通力が消えちゃったみたいで寂しい。

はるか昔、家に老いたカラス猫がいて、
赤ん坊の私にいつも寄り添って子守をしていたと母が言っていました。
以来、暮らしの中にいつも猫がいましたが、今は飼えない住環境。

このノラさんは、戸建てにいたころの訪問猫。
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ノラくんたちは決して声をたてません。
新興住宅地に生きる知恵でしょうか。
ガラス戸に影が映ります。開けるとこんなふうにジッと見つめてきます。

このノラさんはちょっとふてぶてしかった。
顔にはいつもケンカの傷。
けれど、決して家には入り込まなかった。ノラの領分をわきまえていました。
家の飼い猫に手をだすこともなかったですね。

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新興住宅地の新年度の自治会長は大の猫嫌い。
ある日、保健所から借り出した捕獲器を5個、住宅地に設置したそうです。
置いた場所は秘密。中にアジの干物をぶら下げたとか。

数日後に回ってきた回覧板には、こう書かれていました。
「捕獲器にかかった猫をこっそり逃がした住人がいる。
猫の被害に遭っている人の迷惑を考えろ」

自治会長は、
道に「愛ある社会を」と看板を立てて集会へ誘っていたクリスチャン。
「猫の餌やり摘発チーム」も出来て、夜間、懐中電灯で照らして歩いていた。
そういえば家の庭に懐中電灯の光が交錯するのを一度見たことがあった。

回覧板にはこんなことも書かれていた。

「首輪のない猫はすべてノラ猫とみなして殺処分します」

下の写真の猫は夜も更けたころ、私の家にやってきました。
やっぱり無言です。気配を感じて窓を開けたら痩せこけた顔が…。
エアコンの室外機に乗っかっています。
灯りを目当てにやってきたのでしょう。

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しばらくすると、もう一匹が…。
兄弟でしょうか。二匹一緒に捨てられたのでしょう。
中は暖かそうだねえとでもいうようにのぞきます。

でもこの晩限り、姿を見せなくなりました。

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で、新興住宅地の猫捕獲器はその後、どうなったかというと、
愛護団体から訴えられて、
「虐待」と判断されたとかで保健所?が撤去したと聞きました。

それにしても、
「アジの干物でおびき寄せる」「容赦なく殺処分する」という考えは、
やっぱり残酷。

ぽかぽか陽気だった今年のお正月、
団地の陽だまりで、すぐそばの住人が世話をしている地域猫が2匹、
肩寄せあって眠っていたのを見て、ふと、かつての猫騒動を思い出しました。

福島正則の力石

ケーキさんのお話の途中ですが、
「木戸孝允日記」に思いがけなく力石が出てきましたので、ちょっと横道。

木戸孝允は桂小五郎の名で知られた長州藩士です。
激しい倒幕運動を展開して、維新後は新政府の首脳の一人になります。

西郷隆盛大久保利通とともに明治維新の三大功臣といわれていますが、
大久保よりずっと人間味のある穏やかな人柄だったそうです。
また反征韓論の立場に立ったため、のちに西郷と袂を分かちます。

明治7年(1874)、
この年の2月には江藤新平の「佐賀の乱」が起り、
この3年後に西郷隆盛の反乱、「西南戦争」が勃発します。

佐賀の乱。
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「名ごりの夢」の今泉みねさんの夫で佐賀藩士の今泉利春は、
これに加担して検挙されてしまいます。
首謀者の江藤新平は刑死のうえ、さらし首。
そのむごたらしい写真が残っていますが、
明治も7年もたっているのに、まだこんなことをやっていたんですね。

これが文明開化なの?

さて、力石です。
木戸孝允はこの年の5月30日、雨の箱根峠を越え、夕刻、三島へ。
かつてこの三島宿で本陣を営んでいた世古六太夫の家でしばし休憩。

伝え聞く力石を見て、
「この庭中に、往昔、福島正則の抱えしという石あり」と日記に記します。

この「福島正則の力石」、実は現在、2ヵ所に存在しています。

一つは沼津市我入道の浜町公民館前。
これです。
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静岡県沼津市  54×26×30㎝

   「二十貫」

碑文にはこうあります。

天正時代、豊臣秀吉の小田原征伐のおり三島世古本陣に寄宿した
武将福島正則がこの石を持ち上げたという伝承から、
『福島正則の力石』と呼ばれている。
  
      平成12年10月吉日 我入道連合町内会 浜町自治会」

しかしこの石、平成10年発行の「香貫・我入道の石仏・石神」には、
「不動堂のがけ下に馬頭観音などの石仏群と一緒に祀られている」
とありました。
力石だけ移動したということでしょうか。伝承は同じです。

そしてもう一つは、三島市塚原新田の個人宅にあります。
それがこちら。
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静岡県三島市  杉本宅

少し黄色っぽい大きな石で、瓦葺のお堂に大切に保存されています。
お訪ねしたとき、この家の奥さんがこんなことをおっしゃった。

「私が嫁にきたとき、おじいさんから、これは大切なものだから
ちゃんと守っていってくれよと、よくよく言われました」

この石について「ふるさとの街道」という本には、
「ふくしま十郎さゑもん」と刻まれているとありました。
確かに「ふくしま」の下に「十」のような文字が見えますが
でも、自信はないけど私には、
「ふくしま左ゑ門大夫」のように読めました。

福島十郎左衛門(助昌)なる人物は存在しましたが、
この人は今川家臣で、高天神城で切腹しています。

名前の右横に「大正」の年号が入っています。

大正はあり得ませんから、現在の石の刻字は、
大正時代の杉本家のご当主が、追刻したものと思われます。
福島正則は自慢の槍の先で文字を刻んだとされていますので、
元の字が消滅したため追刻したのかも。(ちょっと好意的過ぎか?)。

さてさて、この二つの石、みなさまはどちらが本物と思われますか?
どちらも、
世古氏が明治半ばごろ、
本拠地を三島から沼津へ移した際、運んできたと言っています。

そこで、もしやと思い、
幕末の世古本陣当主の懐古録「松翁六十路の夢」を読みましたが、
残念! 出てきません。

世古本陣最後のご当主・世古直道です。
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じゃあ架空の力石かというと、それがそうでもない。

「槃游余録」(ばんゆうよろく)という本があります。
江戸幕府役人の吉田百樹が書いた伊豆の旅行記ですが、
それにちゃんと出てきます

寛政4年(1792)閏2月、吉田百樹は伊豆への旅に出ます。
15日に三嶋大社に詣でたあと、世古本陣へ立ち寄り、
そこで庭の池のほとりに立つ巨石を見つけます。

駅(うまや)の長(おさ)の世古が言うには、

「60年ほど前、備前岡山藩主の池田侯がこの本陣に泊まった折、
土の中から大石が突起しているのを見つけて、戯れに石を動かした。
力自慢の藩主だったので石は動き、埋没していた石の部分に、

『天和二年閏二月 福島左衛門大夫正則之を立つ』

と刻んだ文字が見つかった。
ここで初めて石の由来を知ることができた。
石を立てるのに18人ほどでやっと、というほどの巨石だった」

ちなみに天和2年は1616年。家康が没した年です。
沼津市の説明板に書いてある秀吉の小田原攻めは天正18年(1590)。
26年もの開きがあります。

天和と天正、それに大正、うーん、ややこしい。

広島県にも福島正則の力石伝説があります。
その「大夫戻しの石」伝説のある求聞持堂です。
img509.jpgimg509 (2)
「厳島図会」より。  広島県宮島

百樹さん、石の寸法を旅行記に書き留めています。
「石の高さおよそ六尺(180㎝)、その地上に露出するもの四尺(120㎝)、
地下に二尺(60㎝)。苔鮮密封古色愛すべし」

二十貫の刻字がある沼津市我入道の石は、本物の力石ですが、
ただし54㎝しかないので、福島正則の石ではないことになります。
師匠の高島先生も、
「伝説上の力石のように保存してあるが、大きさと重量からして、
誰もがチャレンジしたことは充分考えられる」としています。

本陣の庭で、備前の池田侯が見てから60年後に吉田百樹が見て、
その82年後に木戸孝允が見た「福島正則の力石」
ここまできたら、もう真贋なんてどうでもいいですね。
どちらも力石として末永く大切に、と願っています。

さて、明治7年、三島の世古邸で力石を見た木戸孝允
さらに床の間に、自らが滅ぼした徳川慶喜の短冊を見つけます。

それにはこう記されていました。

    
   布(し)かぬ夜も草葉に風の色みへて
              露よりさきにちる蛍かな



<つづく>


 =場違いですがちょっと言いたいこと

NHK職員が解約などで生じた返金をネコババしていた事件。
10数年前、私もやられました。テレビが壊れたのを機にテレビを止めたとき。
年払いの口座引き落としの確か9か月分ほどの返金。
そのとき職員はこう言いました。
「いったん払った受信料は返さない規則になっています」
この事件って今に始まったことではないような気がします。


※参考文献・画像提供/「木戸孝允日記」日本史籍協会叢書 昭和7、8年
               復刻 筑摩書房 昭和39年
              /「香貫・我入道の石仏石神」
               市史編さん調査報告書第1集沼津市教育委員会 
               平成10年
              /「松翁六十路の夢」原本所蔵者 植松徳
               沼津市立駿河図書館 昭和59年
              /「日本名所風俗絵図」「厳島図会 巻之四」
               角川書店 昭和56年
※参考文献/「江戸時代の伊豆紀行文集」「槃游余録」吉田百樹 寛政4年
         復刻 長倉書店 昭和63年
        /「ふるさとの街道・箱根路」伊豆郷土史研究会 
         稲木久男・土屋寿山 長倉書店 昭和57年

チャン

「よそモンの薩長の田舎侍がなんでぇ。明治っていったって逆さに読みゃー、
(オサマル)(メェー)じゃねえか。べらんめぇー」(方言風土記)

と江戸っ子が毒づいても、明治の時代はピーヒャラドンドンと幕を開け、
文明開化の波は、あっという間に広がって行った。

「アメリカから帰ってきたとき、仙台藩主に会いに行ったらそばにいた侍が、
御前(ごぜん)の前だから首巻を取ったらどうじゃと。それで、
これはネクタイというもので、つけているのが礼でありますと申し上げた」
(高橋是清自伝)

ビゴーの風刺画「猿まね」。洋装をしているが鏡に映る顔は猿。
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「紅毛人さえ履くものだから日本人に履けないことはないとを履いた。
寸法などあわないものだから豆ができる。
それでもびっこひきひき血だらけになって履いて歩いた。
だが、人がいないところでは、
ふところに入れておいた草履に履き替えた、という話がある」
(元・旗本の渋谷真琴・談)

情けないけど、今の私には下駄の鼻緒の方が痛い。

さて、
最後の将軍・徳川慶喜がそんな東京を離れて静岡市へ移住してきたのは、
明治元年、32歳のとき。
それから61歳で東京へ転居するまでの30年間をこの地で過ごします。

この30年の間に二人の側室が産んだお子は23人
もう毎年のように代わる代わる出産です。

孫(のちの高松宮妃)を抱く慶喜公。
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「徳川慶喜残照」より

でも23人のお子のうち10人が夭逝。
なぜか。

昔の上流階級では、乳首におしろいを塗るのが女のたしなみで…。
でもその頃のおしろいにはが入っていたんです。
鉛中毒ってことなんでしょうかねえ。可哀そうに。

そこで慶喜さんは、生まれた子を里子に出します。

里親は農家、石屋、質屋、煮豆屋、植木屋などいろいろ。
元将軍様のお子を預るなんて、私だったら怖気づいてしまいますが、
里親のみなさんは、ちゃんと5歳まで手元で育てました。

預っている最中に病死した子や川で溺れた子もいましたが、
お咎めは一切なし。ちゃんと養育料も支払われています。
川で溺れた子は助かったそうですが、
それにしてもケーキさん、すごい度量です。

子供たちは月に一度、実父の慶喜公に会いに来たそうですが、

叔父(慶喜九男。のちに男爵)は、早く里親の家に帰りたがったとか。
おとと様(慶喜公)に向かってチャン(父ちゃんの下町言葉)って言ったので、
(生みの親の)幸は慌てたそうです」(大河内富士子・談)

里親の大勢の子供たちと一緒に育ち、慶喜公を「チャン」と呼んだ誠氏。
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前田匡一郎氏所蔵

里親たちは預ったお子たちをお返ししたあとも、
里子の入学、上京、結婚などの節目節目には必ず挨拶に訪れたそうです。

おかげで逞しく育ちます。
清水の海へ水泳に、ケーキさんと釣り狩猟自転車の遠乗りに。
花火見物や曲馬団見物。みかん狩りは年中行事になった。

私は10年ほど前、
持舟(用宗)落城の折り、
逃れてきたという城主についてお聞きするため、ある農家を訪ねました。

その時見せていただいたのがこの刀です。銘は「長船」とのこと。
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いろいろ見せていただいた中に、
慶喜公の側室から頂戴したという刺繍(ししゅう)がありました。

その時はあまり気に止めなかったのですが、
今回、この家に慶喜さんご一家がみかん狩りに来たことや、
多趣味な慶喜公は刺繍もよくされたということを知り、
もしかしたら、あれは慶喜さんご自身の作品だったのでは、と。

それで撮ったはずの刺繍の写真を探しましたが見つからず。
ぼう大なネガを前に、探すのを諦めました。ホントに残念。

そのお宅へは、
最初の訪問から3、4年後に今度は力石採集のためお尋ねしたら、
なんと、無人の空き家になっていました。
あの刺繍のことを知る人がいなくなれば、刺繍はただのゴミ。

こうしていろんなものが消えていくんですねえ。

さて、無事育ったお子たち、「遊歩」と称して静岡浅間神社を始め、
遠く久能山東照宮まで徒歩で行ったというのですから驚きです。

明治22年4月には宝生九郎を招き、
静岡浅間神社の稚児拝殿のあたりへござを敷いて能観賞

こちらは同神社・楼門横にある能の始祖「観阿弥」の碑です。
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刻まれているのは、世阿弥「風姿花伝」の一節、

    するがの国 浅間の御まえにて 法楽仕り 
   その日の申楽ことに花やかに
   見物の上下一同にほうびせしなり


で、末尾に「二十六世観世宗家清和」と記されています。
また、
「この碑文は生駒宝山寺蔵旧伝本より転写した」との説明があります。
碑の奉納者はNHKアナウンサーだった山川静夫氏です。

観阿弥が今川氏の招きで能を催したのは、至徳元年5月4日のこと。
しかしその15日後(新暦1384年6月8日)、ここで病死してしまいます。

能については、
ブログ「戦国時代を追いかけて 日本の歴史つまみ食い紀行」に詳しいです。
ブログ主のつねまるさんご自身も能をたしなんでおり、
大変わかりやすく面白くお書きになっています。ぜひ、覗いてみてください。

慶喜さんは建穂(たきょう)の観音へも参詣に行っています。
下の絵図はかつての建穂寺です。

「瑞祥山建穂寺之図」 
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国立公文書館内閣文庫蔵

慶喜さんはここで狂歌を詠み、境内の桜の枝へ結びつけたそうです。
絵図右下の参道沿いに桜並木が続いていたそうですから、
そのどこかの枝に結んだのでしょう。
左上、山上の建物が観音堂です。

この里は服織(はとり)といって、古代豪族・秦氏ゆかりの地といわれています。
清少納言の「枕草子」にも出てきます。

この里から毎年、
稚児舞の稚児たちが安倍川を越えて浅間神社へやってきます。
能のルーツは秦河勝に遡るとの説がありますから、
稚児舞もちょっと関係があるのかしら。つねまるさんに聞いてみようっと。

稚児舞です。
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服織の里、建穂の観音で詠んだ慶喜公の狂歌はこちら。
静岡の方言を織り込んでいます。

    おとなしく花見る人はごせっぽし
             花折る人は実におとまし


みなさん、この方言、わかりますか?

「ごせっぽい」は、
咽喉がいがらっぽくてムズムズするという言葉だとお思いではないでしょうか。
私も静岡市へ来た当初はそう思いました。

でも、実はその反対。「ごせっぽい」は、
「清々しい」「清々する」「すっきりする」という意味なんです。
一説には「御所っぽい」「大御所(家康)っぽい」からきているとか。

「おとましい」は「うっとうしい」「危なっかしい」などの意。

こうした方言を慶喜公がご存知だったとは、静岡市民としてはとっても嬉しい。

「おかんじゃけ」が並ぶ今年のお正月の商店街です。
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「おかんじゃけ」は、
服織の大字の一つ、羽鳥洞慶院に伝わる厄除け、祝い棒です。
材料は真竹。竹の上部を叩いて繊維状にします。

神さまの大麻(おおぬさ)でもあり、子供の玩具にもなります。
姉さま人形の島田髷も作れます。

さて、白鳳時代の草創と伝えられる古刹・建穂寺は、
明治維新で寺領取り上げとなり、翌年焼失して廃寺となりました。
こんな大寺がこんなに簡単に消えていくとは、なんとも痛ましい。

おびただしい仏像は、村人たちが自費で建立した小さなお堂に移されて、
今もこの里の方々がお守りしています。
十二所権現と馬鳴大明神建穂神社として独立し今も存在しています。

明治22年、慶喜公が訪れた時、桜の木はまだ残っていたんですねえ。


<つづく>


※参考文献・画像提供/「聞き書き・徳川慶喜残照」遠藤幸威 朝日新聞社 1982
              /「慶喜邸を訪れた人々・徳川慶喜家扶日記」より
               前田匡一郎編著 平成15年 羽衣出版
※参考文献/「戊辰物語」東京日日新聞社会部編 昭和3年
         「高橋是清自伝」高橋是清 千倉書房 昭和11年
         復刻 昭和39年 筑摩書房
        /「方言風土記」すぎもとつとむ 雄山閣出版 昭和53年

♪人のやれないことをやれ~

昨年のうちに終了するはずだった「柴田幸次郎」「大王石」話。
外国奉行・柴田剛中から幕末へと話が飛び、思わぬ長話になりました。

幕府崩壊後の徳川家臣団を続けます。

「駿遠に移住した徳川家臣団」の著者、前田匡一郎氏が、
家臣団に興味を抱いたのは蓮永寺に眠る墓塔群だったという。

蓮永寺です。
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静岡市葵区三松

没年は明治初期に集中している。
これはいったい、どのようなお人たちなんだ?」と。

調査に着手したものの、ローカルの文献では限りがある。
そこで東京の公文書館や青山墓地へと通い始めた。

世界でたった一つの資料を作り上げてみよう。
風が吹けば飛んでなくなるような年金暮らしの私の寿命など知れている。
だが、筆跡は五十年、百年も生きる」

前田氏は当時の意気込みをそう記しています。

静岡県への移住者は家族も含めると3万人以上といわれています。

駿府へ移住した旧幕臣たちです。
左から松岡万30歳、山岡鉄太郎(鉄舟)32歳、村越蠖堂(かくどう)27歳。
驚くほど若い。
こういう若い人たちが命がけで、歴史の表舞台で動いたんですね。

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「駿遠へ移住した徳川家臣団」より

旧・浪士組取締役だった松岡万は、
大茶園・牧之原開拓や新門辰五郎との製塩事業などに着手。
人望があったためか、静岡県磐田市には、この人を祀った神社があります。

村越蠖堂は元・黒鍬の者。
移住後は松岡万に付属して製塩方記録係や静岡新聞縦覧場社員に。
駿府城堀端の教導石にその名を残しています。

話を戻します。
さて、路頭に迷った旧幕臣は、なにも静岡県ばかりではなかった。

「武士の家計簿」(磯田道史)という本があります。
映画にもなったのでご記憶の方もおいでかと思いますが、
この本には、静岡の移住者に負けず劣らずの、   
加賀藩士たちのさまざまな実情が記されています。

興味深いのは、維新後の混乱を乗り切れた家臣と、
没落していった家臣のその差について考察されていることです。

平成13年の酷暑の中、磯田先生は銀行で下したばかりの16万円を持って、
神田神保町の古書店へ駆け込みます。
そこで興奮しつつ購入したのがこの「金沢藩士猪山家文書」です。

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「武士の家計簿」より

探し求めていた「武士の家計簿」は37年間という完璧な記録だったそうです。

著者は藩の御算用者(会計係)だった猪山家に焦点をあて、
その成功の鍵をこう分析しています。

それはこの家が、由緒だけに頼ってきた士族と違い、
藩という組織以外でも通用する「ソロバン役」という実務家で、
その有益な学識才能を持っていた。
そのことが新政府の目指す近代化に合致したー。

落ちぶれて犀川の橋詰めで、
ドジョウやトウモロコシを焼いて売っている元士族を尻目に、
実務官僚がいない新政府からヘッドハンティングされた猪山家当主は、
最重要組織の日本海軍の会計を担当するまでになり、
年収3600万円(2003年換算)もの支配エリートになります。

質素な下級武士から新政府の官僚となった猪山家当主です。
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「武士の家計簿」より

この本によると、
明治7年の猪山家の年俸は当時のお金で1235円
これに対して金沢製紙株式会社の雑務係りに採用された元士族の親戚は、
日雇いにしかなれず、年俸はたったの48円であったという。

著者はいう。
「これが士族にとっての明治維新の現実であった。
新政府を樹立した人々は、お手盛りで超高給をもらう仕組みをつくって、
さんざんに利を得たのである」

官僚が税金から自分の利益を得るため、好き勝手に制度をつくり、
それに対して国民がチェックできないというこの国の病理は、
すでにこの頃にはじまっている」

あれ? それって平成の今もいえますよね~。
高級官僚と非正規雇用…。う~ん、官僚ってやつは…。

著者はこんなことも言っています。

「幕末は政治の季節であり、有能な者はみな政治に走った。
しかし猪山親子には全く政治的な動きをした形跡はない。
機械的な官僚としてひたすら業務をこなす。意見はいわない
これが藩に受け、新政府にも受けた」

「家臣団」の著者、前田匡一郎氏は調査がつらくなると、
水前寺清子が歌った「いっぽんどっこの唄」の
「♪人のやれないことをやれ~」のメロディに、
励まされつつがんばったという。

レコードの発売は1966年。ってことはうわわ、半世紀も昔の唄なんだ。
水前寺さんも年とっだだろうなあ…。

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さて、この著者は「武士の家計簿」をこんな言葉で締めくくっています。

武士のその後を追いかけなければ、
維新後の士族の本当の姿はわからない。
これから解明していかなければならない課題です」

まさに前田氏はその解明のため、
武士のその後16年も追い続けたのです。

こういう「人のやれないこと」をやった人たちはほかにもいます。

それは、消えゆく庶民遺産の力石を残そうと全国行脚を続けた
四日市大学の高島愼助先生と、
その先生を支えてきた過去現在の調査・研究者たちと、
岐阜の大江さんや兵庫の浪速の長州力さんに代表される現役の力持ち、
そして、今なお伝統を守り、
石や俵や鏡餅による力持ち大会を続ける全国各地のみなさまたちです。

「幕末から今度は力石かい?」なあんてお笑いくださいますな。

力石担ぎ挑戦の最年長者の浪速の長州力氏(左)と、
若手の実力者・大江誉志氏。

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こちらは毎年「播州秋祭り」に行なわれる姫路市大津区の天満力持ち
果敢に挑む若者と指導する高校教師の三輪光先生です。

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こちらも毎年恒例の「力石総社」
子供からお年寄りまで楽しんでいます。

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岡山県総社市・総社宮

調査中の高島先生です。
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静岡県御殿場市柴怒田(しばんた)・古道道端

「阿吽の呼吸という言葉がある。力石という重い石を担ぐときの思いは、
この「吽字義」の世界であると思う。
著者がそこに感じるのは、
農耕民としての日本人の、精神的生活の原型である」
=「力石ちからいし」「高島愼助・考察」より

長年の調査研究の集大成「力石「ちからいし」です。
しょっちゅう手にしているのでボロボロになりました。

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表紙に書かれている言葉は、
兵庫県姫路市網干区津市場「稲荷神社」の力石の碑文です。

    
    朝は朝星 夜は夜星を頂く迄働き
   粗食に耐え乍ら鍛えた往時の人の
   旺盛なる体力と気力を此の石は語る



高島先生は今月、長い教員生活に別れを告げ退官されます。

お疲れさまでした。
今後は在野の研究者としてなお一層がんばってください」

頼りない自称弟子は心からそう願っています。


フーッ。長い文章になっちゃって…。
新年早々、ちょいと頑張り過ぎました。


<つづく>


※参考文献・画像提供/「駿遠へ移住した徳川家臣団」前田匡一郎 
               1~4巻自費出版 5巻 羽衣出版 平成19年
               /「武士の家計簿」磯田道史 新潮社 2003
※参考文献/「力石 「ちからいし」」高島愼助 岩田書院 2011

幸多き年に

謹んで新年のおよろこびを申し上げます


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幸多き年になりますよう…。
本年もよろしくお願いいたします。

プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。今、「力石からバーベルへの道」を書いています。

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