鉄砲芝居
柴田幸次郎を追う
「徳川慶喜」(家近良樹著)にこんな記述があります。
大阪城から脱出して江戸へ帰った慶喜は、
自分の救済、つまり朝敵ではないことや助命をいろんな人に頼んだ。
静寛院宮(前将軍・家茂の正室。和宮)にも頼んだ。
その和宮は実家の橋本実梁(さねやな)に宛てた手紙にこう書いたという。
「慶喜一身は何様にも仰せつけられても結構だが、
徳川家だけは存続できるよう取り計らってほしい」
つまり、和宮にとっては、
慶喜の生命などどうでもよく、徳川家の存続だけが問題とされたー。
なんとも冷淡!
思わず、ドッキン、ゾゾーッ!
ありし日の駿府城「三の丸」横内御門です。
キツネやタヌキがたくさん棲んでいたそうです。熊が出たことも。

復元された駿府城「巽櫓」と「東御門」

しかし、「聞き書き・徳川慶喜残照」(遠藤幸威著)には、
慶喜の九男・誠の未亡人のこんな話が出ています。
「慶喜さまは宮様(和宮)を命の恩人といい、
毎年九月二日の宮様の御命日には、
77歳で亡くなるまで、宮様のお墓のある増上寺にお参りしていらっしゃった」
晩年の慶喜に仕えた侍女も、
「殿様は、雨が降ろうが風が吹こうが、私の命の恩人と申されて、
宮さまのお墓には欠かさずお参りに行かれました」
慶喜公の側室。お幸(左)とお信(右)。
大変な仲良しだったとか。

「慶喜の命などどうでもいい」と手紙にしたためた和宮と、
その人を「命の恩人」として感謝し続けたケーキさん。
これ、どう考えたらいいんでしょう。
また、勝海舟についても、
「徳川慶喜」の著者は、「勝は慶喜を嫌っていた」と書いていますが、
海舟は慶喜の助命嘆願に奔走。
それが西郷隆盛との会見です。
晩年の勝海舟。

静岡へ来てからは、
徳川家支援のため、かつての「安倍金山」の調査までしていますし、
さらに慶喜の十男精(くわし)と養子縁組をしています。
嫌っていたとはとうてい思えません。
何が本当なのかこんがらがってきました。
でも「徳川慶喜」の内容には、納得したり教えられるものが多いのです。
例えば、慶喜とフランスとの結びつきです。
「フランスの援助を得ての軍制改革は、
14代将軍家茂のころ、小栗上野介ら幕閣たちが始めたのであって、
一般に言われているような「慶喜主導」ではない。
そのころの慶喜は京都にいて、宗家相続すらしていなかった」
駿府城跡(現在の静岡県庁)石垣から見た旧静岡市役所。

もう一つの本「戊辰戦争論」(石井孝著)からも引用します。
この幕府とフランスの接近を警戒したのが、
薩摩藩(鹿児島県)と長州藩(山口県)です。
幕府抜きの貿易をやりたい薩長の願いは、資本主義の王者で、
諸大名との自由貿易を願うイギリス公使パークスの思惑とも一致しました。
そこへ薩摩や西南諸藩との取引で大きな収益をあげていた
長崎の武器商人グラバーや、その長崎の亀山に本拠を置いていた
「亀山社中」の坂本龍馬らのグループが加わります。
龍馬はのちに同じ土佐藩(高知県)の後藤象二郎と結びつき、
「亀山社中」を「海援隊」へと再編成していきます。
慶応3年、慶喜の大政奉還の建白書を出した後藤象二郎です。

薩長ではかねてから上海との密貿易が盛んで、
下関はその基地だった。
長州藩は龍馬の斡旋で薩摩を隠れ蓑にグラバーから、
軍艦や銃7300丁(九万二千両)を購入したりしています。
イギリスと結びつく薩長、フランスと結びつく幕府という構図。
土佐の龍馬や長州の桂小五郎(木戸孝允)らは、
「大政奉還は難しいかもしれないが、
七、八分通り進めば十段目には鉄砲芝居(戦争)をするほかはない」
と話し合ったという。
そんな状況だった慶応元年四月、
イギリスの代理公使ウインチェスターは、外国奉行の柴田剛中に会い、
「下関開港を幕府が妨げている。諸大名を外国貿易に参加させるべきだ」
と非難。それに対して柴田は憤然とこう言い放ったという。
「日本全国の統治権は将軍の手中にある。
幕府の許可なく勝手に外国と協定を結ぶような大名であれば、
ただちに討伐しなければならない」
ここで柴田が言った将軍とは、慶喜ではなく家茂のことです。
柴田が横須賀製鉄所建設の機材調達にフランスへ渡ったのは
この1か月後のことでした。
何事にも筋を通す柴田さん、がんばっています。
柴田剛中をフランスへ派遣した小栗上野介。
「うまくいくといいんだけどなあ」

攘夷だ開国だ、佐幕だ倒幕だとなんとも複雑な幕末。
中でも江戸城の幕府首脳たちと慶喜の関係は、
なかなか飲み込めませんでした。それが、おぼろげながら理解できたのは、
開国して徳川政権を維持しようとする小栗らの幕閣と、
天皇との結びつきを強めて政権を維持したい攘夷派の慶喜とは、
対立関係にあったということです。
なにしろ新しもの好きで行動派のケーキさんのことですから、
バリバリの開国派で、
率先してフランスへコンタクトをとっていたと思い込んでいましたので。
その慶喜が開国派に転じたのは、
柴田がフランスから帰国した慶応2年も暮れのことでした。
<つづく>
※参考文献/「徳川慶喜」家近良樹 日本歴史学会編集
吉川弘文館 2014
/「戊辰戦争論」石井孝 吉川弘文館 2008
/花園大学講座資料「鳥羽・伏見の戦い」松田隆行
※画像提供/「静岡史跡めぐり」安本博 静岡県地方史研究会
吉見書店 昭和50年
※参考文献・画像提供/「聞き書き 徳川慶喜残照」遠藤幸威
朝日新聞社 1982
大阪城から脱出して江戸へ帰った慶喜は、
自分の救済、つまり朝敵ではないことや助命をいろんな人に頼んだ。
静寛院宮(前将軍・家茂の正室。和宮)にも頼んだ。
その和宮は実家の橋本実梁(さねやな)に宛てた手紙にこう書いたという。
「慶喜一身は何様にも仰せつけられても結構だが、
徳川家だけは存続できるよう取り計らってほしい」
つまり、和宮にとっては、
慶喜の生命などどうでもよく、徳川家の存続だけが問題とされたー。
なんとも冷淡!
思わず、ドッキン、ゾゾーッ!
ありし日の駿府城「三の丸」横内御門です。
キツネやタヌキがたくさん棲んでいたそうです。熊が出たことも。

復元された駿府城「巽櫓」と「東御門」

しかし、「聞き書き・徳川慶喜残照」(遠藤幸威著)には、
慶喜の九男・誠の未亡人のこんな話が出ています。
「慶喜さまは宮様(和宮)を命の恩人といい、
毎年九月二日の宮様の御命日には、
77歳で亡くなるまで、宮様のお墓のある増上寺にお参りしていらっしゃった」
晩年の慶喜に仕えた侍女も、
「殿様は、雨が降ろうが風が吹こうが、私の命の恩人と申されて、
宮さまのお墓には欠かさずお参りに行かれました」
慶喜公の側室。お幸(左)とお信(右)。
大変な仲良しだったとか。

「慶喜の命などどうでもいい」と手紙にしたためた和宮と、
その人を「命の恩人」として感謝し続けたケーキさん。
これ、どう考えたらいいんでしょう。
また、勝海舟についても、
「徳川慶喜」の著者は、「勝は慶喜を嫌っていた」と書いていますが、
海舟は慶喜の助命嘆願に奔走。
それが西郷隆盛との会見です。
晩年の勝海舟。

静岡へ来てからは、
徳川家支援のため、かつての「安倍金山」の調査までしていますし、
さらに慶喜の十男精(くわし)と養子縁組をしています。
嫌っていたとはとうてい思えません。
何が本当なのかこんがらがってきました。
でも「徳川慶喜」の内容には、納得したり教えられるものが多いのです。
例えば、慶喜とフランスとの結びつきです。
「フランスの援助を得ての軍制改革は、
14代将軍家茂のころ、小栗上野介ら幕閣たちが始めたのであって、
一般に言われているような「慶喜主導」ではない。
そのころの慶喜は京都にいて、宗家相続すらしていなかった」
駿府城跡(現在の静岡県庁)石垣から見た旧静岡市役所。

もう一つの本「戊辰戦争論」(石井孝著)からも引用します。
この幕府とフランスの接近を警戒したのが、
薩摩藩(鹿児島県)と長州藩(山口県)です。
幕府抜きの貿易をやりたい薩長の願いは、資本主義の王者で、
諸大名との自由貿易を願うイギリス公使パークスの思惑とも一致しました。
そこへ薩摩や西南諸藩との取引で大きな収益をあげていた
長崎の武器商人グラバーや、その長崎の亀山に本拠を置いていた
「亀山社中」の坂本龍馬らのグループが加わります。
龍馬はのちに同じ土佐藩(高知県)の後藤象二郎と結びつき、
「亀山社中」を「海援隊」へと再編成していきます。
慶応3年、慶喜の大政奉還の建白書を出した後藤象二郎です。

薩長ではかねてから上海との密貿易が盛んで、
下関はその基地だった。
長州藩は龍馬の斡旋で薩摩を隠れ蓑にグラバーから、
軍艦や銃7300丁(九万二千両)を購入したりしています。
イギリスと結びつく薩長、フランスと結びつく幕府という構図。
土佐の龍馬や長州の桂小五郎(木戸孝允)らは、
「大政奉還は難しいかもしれないが、
七、八分通り進めば十段目には鉄砲芝居(戦争)をするほかはない」
と話し合ったという。
そんな状況だった慶応元年四月、
イギリスの代理公使ウインチェスターは、外国奉行の柴田剛中に会い、
「下関開港を幕府が妨げている。諸大名を外国貿易に参加させるべきだ」
と非難。それに対して柴田は憤然とこう言い放ったという。
「日本全国の統治権は将軍の手中にある。
幕府の許可なく勝手に外国と協定を結ぶような大名であれば、
ただちに討伐しなければならない」
ここで柴田が言った将軍とは、慶喜ではなく家茂のことです。
柴田が横須賀製鉄所建設の機材調達にフランスへ渡ったのは
この1か月後のことでした。
何事にも筋を通す柴田さん、がんばっています。
柴田剛中をフランスへ派遣した小栗上野介。
「うまくいくといいんだけどなあ」

攘夷だ開国だ、佐幕だ倒幕だとなんとも複雑な幕末。
中でも江戸城の幕府首脳たちと慶喜の関係は、
なかなか飲み込めませんでした。それが、おぼろげながら理解できたのは、
開国して徳川政権を維持しようとする小栗らの幕閣と、
天皇との結びつきを強めて政権を維持したい攘夷派の慶喜とは、
対立関係にあったということです。
なにしろ新しもの好きで行動派のケーキさんのことですから、
バリバリの開国派で、
率先してフランスへコンタクトをとっていたと思い込んでいましたので。
その慶喜が開国派に転じたのは、
柴田がフランスから帰国した慶応2年も暮れのことでした。
<つづく>
※参考文献/「徳川慶喜」家近良樹 日本歴史学会編集
吉川弘文館 2014
/「戊辰戦争論」石井孝 吉川弘文館 2008
/花園大学講座資料「鳥羽・伏見の戦い」松田隆行
※画像提供/「静岡史跡めぐり」安本博 静岡県地方史研究会
吉見書店 昭和50年
※参考文献・画像提供/「聞き書き 徳川慶喜残照」遠藤幸威
朝日新聞社 1982
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