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そうだったんだ!

柴田幸次郎を追う
12 /03 2016
ここ二日ほどはちょっと脱力して、ブログを書く気が萎えていました。
自分の歴史に対する「浅さ」を思い知らされたんです。

今までのイメージからほど遠い徳川ケーキさんを見つけてしまって、
足がすくんじゃったんです。

イギリス人が写した徳川慶喜(よしのぶ)
img304.jpg

「徳川慶喜」という本があります。
著者は家近良樹・大阪経済大学教授です。
本のはじめにこう書かれていました。

「慶喜は幕末史において、極めて重要な役割を果たした割には、
国民(大衆的人気はいま一つといった観がぬぐえない。
それどころか彼にはヒール(悪役)のイメージすら抱く者が少なくない。

これはなんといっても鳥羽伏見戦争勃発直後に彼のとった
大阪城脱出という行為が大きく関わっていよう。
旧幕臣らを見捨てての敵前逃亡はとうてい許されるものではないと、
広く受け止められたからである」


このことは私も知っていました。

以前、会津を旅したとき、
飯盛山の白虎隊の墓前で地元ガイドさんから、「卑怯者ケーキ」と言われて、
その怒りに戸惑いつつ、思わず「すいません」と謝ったことがあった。
でも、会津の方のそんな怒りも、理解できました。

幕府崩壊で謹慎を命じられた将軍慶喜は、静岡で約30年も過ごしたから、
静岡市民は今でも親しみを込めて「ケーキさん」と呼びます。

のちに朝敵となり、
薩長から「死罪」を要求された慶喜公の助命嘆願をしたのが勝海舟です。
こちらは、その勝海舟の母と妹の墓。

妹の志ゅんは松代藩(長野県)の思想家・佐久間象山の妻でした。

CIMG1978.jpg
静岡市三松・蓮永寺 母・信子は明治3年没。
志ゅんは明治41年没

家康の側室・お万の方の供養塔を囲むように並ぶのは、
幕府崩壊で静岡へ移住してきた旧幕臣たちのお墓です。

CIMG1980 (2)
蓮永寺

ケーキさんは、ざっくばらんな気さくな方で、
当時はまだ珍しかった自転車でどこへでも出かけ、
カメラ油絵に凝り、
清水次郎長のところへ足しげく通って投網を教わったりしていた。

二人いた側室や毎年のように生まれる大勢のお子たちは、
自由にあちこちへ遊びに出掛けたから、
今でも彼らがお土産に置いて行った品々を農家などで見かけたりします。

こちらは慶喜公の孫・慶光氏の子供たちの落書き
慶光氏は昭和25年まで静岡市瀬名に居住。
子供たちは村の子供たちと一緒に地元の小学校へ通ったそうです。
そのお子さんの一人は、のちに政治家の平沼赳夫氏夫人になりました。

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孫子までも庶民的な慶喜一族。

でも「徳川慶喜」の本の中の慶喜さんは、
私の町で流布している人とは全くの別人でした。

徳川慶喜は水戸徳川家九代目・斉昭(なりあき)と、
有栖川宮織仁親王の娘・吉子の間に生まれた七男です。
慶喜さんには幕府と朝廷の血が流れています。

生母・吉子さん。優しそうな方です。
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父親の斉昭はコチコチの勤王攘夷派です。
あの井伊直弼は、遣外使節を派遣したため開国派とされ、
桜田門外で過激な攘夷派の水戸浪士に暗殺されました。

でもケーキさんの温厚なイメージとテロリストとは重なりません。

幕末、みんなが止めるのも聞かず洋装で写真を撮ったり、
食事にはスプーンを使い、外国人女性をはべらせていたそうですし、
フランス大好きのハイカラさんでしたから、
私はうかつにも、開国派の先頭にいた人かと思い込んでいました。

そしたら、父親に劣らず攘夷派だったというではありませんか。

おまけに父親同様、幕臣たちの評判も最悪で、
大奥の女性たちからも嫌悪されていたのというのですから、
もうびっくり。

慶喜さんが大阪城脱出後、江戸へ逃げ帰ったとき乗り込んだ開陽丸
img303.jpg
オランダ製

「徳川慶喜」の著者はこうも書いています。

「彼には対民衆の視点が著しく欠落している」
「ひたすら自分の関心と論理でことを進めようとした」


こんなことも書かれていました。

慶応2年七月下旬に、長州征伐にいざ出陣と思ったら、
八月には突然中止する。そんなことがたびたび。
薩摩藩関係者から、「とかく珍しく幕(府)の変わる芝居」と嘲られ、
世間から「変説者」と批判された。

知らなかった。
これではまるで人格に問題があったみたいじゃないですか。

さらに私が驚愕したことは、第十五代将軍になっても、
江戸ではなく京都に居続けたということです。
京都在住は6年にも及んだそうです。

そういえば「大政奉還」を幕閣たちに宣言したのは、
江戸城ではなく、京都の二条城だった。

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天下の将軍さまは江戸にはいなかった。
攘夷強硬派の孝明天皇にべったり取り入って、
開国派の幕閣や諸藩を追放していた。

しかし、頼みの天皇が急死したあと「朝敵」になって江戸へ逃げ帰り、
「宮さん宮さん、お馬の前にヒラヒラするのはなんじゃいな」と、
江戸へ向けて進軍してきた親戚の有栖川宮熾仁親王の追撃を受けた。

知らなかったことばかりです。

それにしても、この人、なんとも理解しにくい。

<つづく>

※参考文献・画像提供/「徳川慶喜」家近良樹 日本歴史学会編集
         吉川弘文館 2014
※画像提供/「長尾川流域のふるさと昔ばなし」代表・中川順一郎
     静岡市立西奈図書館友の会けやき 2006
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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞