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どうぞ良いお年を!

2016年の終わりにあたり、

日本は貧しくなった、と思っています。
政治家がどんなに取り繕っても、周囲も自分も貧しさを実感しています。
増大する非正規雇用の若者たちは、日々の仕事に追われて、
思考力を減退させている、とも思います。

そんな年の瀬に聞いた真珠湾での首相の演説。違和感を覚えました。

戦争という地獄は美しいポエムで表せるほど軽いものでは絶対にありません。

為政者の大義名分で人殺しの駒として自在に操られ、
戦場から遠く離れた安全地帯にいる為政者の計画で、
食料も武器も持たされずジャングルに放逐された兵隊たちは、
仲間の人肉を食べて生き延びるしかなかった、そういう狂気の世界です。

上官から「国のために喜んで死んでいきます」と遺書を書かされても、
「お母さんお母さん」と何十回も書き連ねた本当の遺書をふところに隠して、
14や15で死んでいった少年兵たち。
戦死の報より先に、
夜中、家の前でパタッと止まる足音を聞いて飛び出したと語った母親たち。
魂となった息子は神ではなく人として、故郷の母の元へ帰ってきたのです。

戦争を知らない人の美辞麗句は上滑りで虚しい。
真珠湾だけが戦場だったのでもありません。
アジアの戦場跡に何千と積まれたドクロの山を、
写真ででも見たことがあるでしょうか。

サヨクとかウヨクとかの思想としてではなく、
これは戦争という空気をわずかでも嗅いだ私の、
人間として、また一人の母親としての率直な思いです。

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もう一つ、暗い気持ちにさせられることがあります。

私の住む団地には、福島の放射能汚染の立入り禁止区域から来た方々が、
ひっそりと暮らしています。
元の行政からきた郵便物をも人に見られないよう、細心の注意を払って。

この人たちにこんな暮らしをいつまで続けさせるつもりでしょうか。

みんな幸せにならないといけないんじゃないですか。
言葉の上で、ではなく現実に、
誰もが生き生きと安心して暮らせないといけないんじゃないですか。
そしてなによりも、
次世代を担う若者が希望を持てる世の中にしていかなければ、
格差は広がるばかりで、
日本は先細りになる一方だと、私は思っているのです。

一年間、私のつたないブログをお読みくださり感謝しております。

どうぞ、良いお年をお迎えください。

来年こそ、明るい展望が開けますよう祈りつつ。
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3371名のそれぞれ

「駿遠へ移住した徳川家臣団」という本があります。
著者は静岡市の郷土史家、前田匡一郎氏。

全部で5巻。4巻までは自費出版です。
調査に費やした時間はなんと16年。その動機をこう記しています。

「江戸幕府の崩壊により世の中の移り変わりが激しかった時代に、
職を失った徳川家臣たちは何時、何処で、何をして暮らしていたのか、
地域に何をもたらしたのか、彼らの選択は時代にどう反映していったのか、
その実態を具体的に知りたいと思い、
まずその人物の足跡から歴史の1ページを掴めると認識して取材に着手した」

徳川慶喜の駿府での住まいとなった旧代官屋敷。現在は料亭「浮月楼」
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静岡市紺屋町 

幕に徳川の「葵の紋」が入っています。
慶喜公は最初、家康ゆかりの宝台院に入り、代官屋敷を経て西草深へ移転。

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前田氏が調査した家臣は旧幕臣2万3000人のうちの6割、1万3000人余り。
寺を訪ね、磨滅した墓石を読み、文献を調べ、子孫を探し当てる苦労の旅。
ミスを訂正しつつ、やっと3371名を明らかにできた。

銀行員時代の同僚だった方がふと漏らしました。
「こんなことを始めなければ、彼は早死にすることはなかったのに」

でも私は思うんです。
前田氏は誰にも思いつかなかったこの「大仕事」を、
楽しんで、夢中になってやり遂げたに違いない。
無駄に尽き果てたわけでは決してない、と。
それが証拠に、今では多くの歴史家や大学教授たちがこの本に頼っている。

この本を見て、百数十年ぶりに先祖の墓に対面した子孫たちもいる。

生前お会したときの前田氏の、
柔らかい笑顔と晴れ晴れとしたお顔を私は今でも思い出します。

これは神社に保管されている「慶喜公ゆかりの鳥居」です。
慶喜さん没後120年もたっているのに、まだこんなふうに大切にされています。

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静岡市安東・熊野神社

大御所・家康が幼少年期と晩年を過ごし、
最後の将軍が江戸を追われてたどりついた静岡市ですから、
今でも特別の思い入れを持つ人は多い。

話は飛びますが、
ここ熊野神社には「三斗地蔵」と呼ばれた「代用力石」があります。
元は庚申堂にあったもので明治初年の取り壊しで各所を転々とし、
最後にたどりついたのがこの神社のこんな片隅です。
無残にも首がありません。

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「宝暦六年二月十九日 講中同行 女中二十人」

「村の小若衆が節句の日などにこのお地蔵さんを担いでは、
「じきに一俵担げるぞ」とよく試した。米三斗と同じ目方なのでこう呼ばれた」
 =「安東十三ケ町郷土誌」より

さて、前田氏の労作「徳川家臣団」には、
移住してきた幕臣の名、年齢、家禄、移住先、墓などが淡々とつづられています。
その箇条書きの行間から、
なんともいえない哀しみや苦しみ、叫びが聞こえてきます。

著者の感情や意見で粉飾されていないからこそ、
幕臣たちの苦悩がより鮮明に伝わってきます。

「辻謡」。流浪の身となった武士が破れ筵(むしろ)に座り、
謡曲を聞かせて物乞いをしている姿です。

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「謡曲は上流の武士が習うもの。また身分高き女子が一旦不運にあい、
辻琴曲で袖乞いをしていたりする。
憐れなりける風情にこそ
 =「江戸府内絵本風俗往来」より

駿府へ移住してきた旧家臣たちは、糊口をしのぐ職探しに奔走します。
竹細工塗下駄職人になった人、本屋薬屋を開業した人、教員になった人。
子供を小坊主として寺へ出したり、娘を糸とりの女工さんに出した人。
駿府から遠く秋田へ移住して味噌・醤油屋になった人。
東京へ戻って人力車夫になった若者。

能楽師の観世家や楽人衆の東儀家、青木昆陽の子孫もここへやってきた。
奥医師・桂川甫周の娘で、
「名ごりの夢」の語り手・今泉みねさんの叔父は駿河で事業に失敗。
叔母は移住したあと音信不通になった。

刀を鍬に変え、水も出ない荒地の牧之原に入植して、
茶の栽培に取り組んだ人々。
新政府に頭を下げて役人にしてもらった人。
自暴自棄になって刀を振り回す人や自殺した人。

今、その人たちの墓が、
静岡の寺々に苔むしたままひっそりと残されています。

この静岡の地には、
旧幕臣たちの哀しい思いがしみ込んでいるとつくづく思いました。


<つづく>


※参考文献/「駿遠に移住した徳川家臣団」前田匡一郎 1~4巻自費出版
         5巻のみ羽衣出版 平成19年 
        /「名ごりの夢」今泉みね 東洋文庫 昭和51年
        /「安東十三ケ町郷土誌」「三斗地蔵」郷土史編纂委員会
         1981
※画像提供/「江戸府内絵本風俗往来」菊池貴一郎(四代目広重) 明治39年
        復刻 平凡社 昭和40年

人権って何だろう

年末なのに、ご近所さんが慌ただしく引っ越していきました。
受験生の中高生二人を女手一つで育てていたお母さんです。
ここへ来てまだ2年足らず。
カーテンも新調しエアコンもつけて母子3人の新生活をスタートさせたばかり。

原因は真上の最上階からの騒音。こちらは母子(高校生?)2人住まい。

私が住む家はエレベーター付きの5階建て28世帯の公営住宅です。
行き届いた設備、日光・風通し.・交通の便など申し分のない環境。
怪しげな訪問客にはうんざりしていますが、まあまあ快適に暮らしています。

そんな私の所に夏ごろ、住宅公社から一本の電話がきました。
「何軒もの家から、音がうるさくてたまらないという苦情がありますが、
お宅はどうでしょうか?」

ほとんど音が漏れない建物だから、そんなうるさいはずはない。
「神経質な人もいますから」なんてのんきに返事をしたが、
ふと、気になっていたことを思い出した。

夜中の1時から3時ごろ、通路を頻繁に歩く人がいるー。
人が通るとより明るい電気がパッとついて、それが窓に映るからすぐわかる。
それを告げると公社の方が、
「そうなんですよ。それでみなさんのドアをコンコン叩くらしいんです」

でもまあ、眠ってしまえば気にならないや、となおも私は全く他人事でした。

でもそれが、引っ越さなければならないほど大変な事態だったとは。
さらに、問題の家の直下に住むもう一組のご夫婦、80代の方ですが、
そのお二人の憔悴しきった顔を見て、その深刻さにやっと気付かされた。

「毎晩バットみたいなもので床や壁を叩くんです。一晩中です。
こんなことがもう1年も」

最上階の5階で発した音が、
隣家はもちろん、1階までの8軒の家にまで響くという。
直下の家は、壁に亀裂が入るぐらいひどいらしい。
夜中、水道管から変な音が響いて不安になるともいった。

「公社には何とかしてほしいと何度も足を運びましたが、
障害者がおられる家なので、人権問題になりますからと。
人権人権って、じゃあこっちの人権はどうなるんですか。

夜になると始まるから、もうノイローゼ。公社ではそんなにうるさいんなら
騒音を器械で計れっていうけど、裁判でもしろというのでしょうか。
夫婦最後の住まいと思ってここに来ましたが、もう限界です。
うちも引っ越しを考えています」

引っ越しともなればお金がかかる。保証人も探さなければならない。
ましてや80を過ぎての引っ越しは体調を崩して命取りになりかねません。
先日出て行ったあのお子さんたち、転校ともなれば精神的負担は甚大です。

5階にある4軒だけは階下の家の倍近い広さがありますが、
障害者が一人でもいれば最優先で入居できるという公社の方針で、
だから、たった二人でも入居ができたのでしょう。
その半分の間取りに家族4人で住んでいるという家が大半なのに。

車椅子専用の部屋は1階に設置されているし、
老人向けのバリアフリーの部屋も用意されている。
知的・精神的障害者は最上階優先ってどんな意味があるのでしょう。

やっぱりこれっておかしいよ。
だって逆に、障害者がいない家庭の方が差別されているみたいじゃない。

私の上階では、
広い間取りを希望して5人家族が入居したものの1年で出て行きました。
そんな家が2軒。

なぜか。
どんどん家賃があがって、夫婦二人で働いてもやっていけないから、と。
家のない家族が出て行かざるを得ないなんて、やっぱりおかしいよ。

だから、今ここは働き盛りの若い夫婦、中堅の家族が消えていき、
老人と障害者ばかりのコミュニィティになりつつあります。
とっても不自然です。

共に生きるって何でしょうね。弱者って誰のことでしょうか。
高騰する家賃に収入が追い付かず出て行かなければならない家族も、
弱者じゃないでしょうか。

以前から床を叩くクセがあるのなら、なぜ1階に住まなかったのか。
公社はなぜ、影響を最小限にとどめる1階を勧めなかったのか。
現に1階に住んで、うまく集団にとけ込んでいる障害者は何人もいます。

共に生きるって、
お互いが相手のことを思いつつ行動することだと私は思うんですよね。
100対0なんていう、100%相手に押し付ける関係は、
絶対おかしいと思うんですよ。どんな人だって心に重いものを抱えていますし、
それに、どんな人でも他人のためにできることってあると思うから。
障害者だって誰だって。

彼がこれほどに床や壁を叩くのは、
転居という環境の変化への不安や動揺の現れかもしれないとも思うのです。
それをうまく表現できない、わかってもらえない。
私は全くの素人ですが、
そのもどかしさが強烈な行動に走らせてしまうのかもとも考えました。

だったらなおのこと、そんな彼のためにも、お母さんは「音はウチではない」と
ご近所さんを門前払いするのではなく、理解や協力を求めなくては。
集合住宅への入居にあたっては、事前に、
支援学校の先生や専門家のアドバイスを受けるべきではなかったか、と。

かつて周囲のいじめで精根尽き果てた私は、
県弁護士会の人権擁護委員会に助けられた。
そのときの弁護士さんは根気よく当時の町内会長を説得してくれて、
そのおかげでいじめは鎮静化して、加担した住民の中には、
自分のやったことは恥ずべき行為だったと謝罪してくれた人がいた。

だから私は、
「人らしく生きる権利」や「その権利を踏みにじったらいけない」という
そういう「人権」を尊重しているつもりです。

引っ越しして行った母子3人も80代のご夫婦も、そしてここに住む誰もが、
障害者差別とか障害者の人権を踏みにじろうとするつもりなんてない。
安心して眠れる夜を、静かに勉強できる時間を、
音に脅かされない暮らしを望んでいるだけなのです。

「人権問題」に発展するのを恐れて、ひたすら被害者住民を我慢させて、
憎しみを増幅させるような公社のやり方は間違っていると思うし、
障害者にとっても不幸なことだと強く思うのです。
障害者とその家族にしても、
加害者になったり憎しみの対象になるつもりなどなかったはずです。

日々、障害者と向き合っておられる方々には、
また別の言い分があるかもしれません。
ですが、
この年の瀬に安住の住まいを出て行かざるを得なかった母子3人の無念を、
私は忘れるわけにはいきません。同じ母子家庭の母親としてなおさら。

80代のご夫婦がおっしゃっていました。
「公社では何食わぬ顔で、また新しい家族を入れるんでしょうね。
そうしてまた、同じ悲劇が繰り返される」

夢幻の世、再び

風雲急を告げる幕末。

でも江戸庶民はのんきなもので、
「近いうちに公方様(徳川幕府)と天朝様(朝廷)との戦争があるんだってなあ」
などと言いながら、
江戸名物浮世風呂の朝湯につかって、のんびり清元なんかをやっていた。
(彫刻家・高村光雲談)

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「浮世風呂」より

庶民ってヤツは困ったもんですね。
直接、自分に災難が降りかからない限りすべて他人事。今も昔も。

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西郷と勝の会見で、「慶喜の水戸への謹慎、江戸城明け渡し」などが決まり、
慶応4年(明治元年)4月4日、参謀西郷隆盛ら60名が江戸城へ入った。

このときのことを西郷は大久保利通にこう書き送っている。

「参謀は玄関から裏へ通るように聞いていたが、
すぐに刀を持って大広間へ座り込んだ。
陪臣がこのような様子をするのは初めてのことかと、あとで大笑い した」

これについて「戊辰戦争論」の著者は、こんな感想をもらしています。
「征服者として江戸城の大広間にどっかと腰を下ろした西郷の
その得意ぶりが目に見えるようだ」

下の錦絵風のものは「擬制引札」、つまり宣伝チラシを装ったアジビラです。
内容は薩長官軍を皮肉った「お品書き」で、店の名前は「うそ八百屋」

また、「江戸の水」というのもありました。
こちらは化粧水のチラシに似せた擬制引札で、

「徳川の流れを調合した江戸の水を田舎武士(薩長土肥)の
恩義知らずの欲顔に塗れば、不思議なことにの病気が治る」とし、

「偽勅を信じたる馬鹿顔に塗ってよし」

などとも書かれています。
「股の病気」は、陰部がフィラリアによる奇病に罹っていた西郷への皮肉。

チラシの結びは、薩長土肥の産物を並べて諷刺しています。

薩摩芋 萩の餅 土佐鰹節 唐津海苔 此外京師中国四国
右、産物はと知るべし」

いずれも、徳川びいきの文人が書いたものと思われます。

「擬制引札」
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「引札繪びら錦繪廣告」より

慶応4年(明治元年)4月、慶喜公、水戸へ。
同年同月、外国奉行・柴田剛中、「お役御免」を申し出て隠居。
「人材はなはだ乏し」(木戸日記)の新政府からの出仕の要請を固辞。
徳川幕臣を貫き、明治10年、55歳でこの世を去った。

慶応4年5月、柴田剛中をフランスへ派遣した小栗忠順(上野介)は、
官軍の東山道先鋒総督府により身柄を拘束され斬首された。41歳。

小栗は「慶喜公に戦意がない以上、無益な戦いはしない」として、
上野国群馬郡(群馬県高崎市)に隠棲。
しかし官軍に、「大砲など隠し持ち農兵を組織した」などと嫌疑をかけられ、
証拠もないまま惨殺された。

その後、この小栗上野介には「徳川埋蔵金」のうわさがついてまわります。

幕府再興のため莫大な軍資金を赤城山に埋めたというもので、
昭和48年出版の「埋蔵金 35兆円の謎」の著者は、
祖父、父、本人3代にわたって埋蔵金探しをしていると書いていますが、
本の刊行からすでに40数年。今はどうなっているのでしょう。

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「埋蔵金35兆円の謎」より、発掘作業をする著者親子。

徳川のお金については、
東京都公文書館がネットで公開している古文書の中にも出てきます。
こちらは千両箱を海に捨てている話です。
興味のある方はちょっと覗いてみてください。現代語の解読が載っています。

埋蔵金話が真実だとしたら、
極度の資金難の新政府が放っておかなかったと思うのですが…。
新政府が意図的に流したガセネタ?

だって和竿師「竿忠の寝言」には、隅田川河口には、
大判小判ではなくドクロが積み重なっていたという話しかないんですよね。

話を戻します。

フランスにいた柴田と合流して、
横須賀製鉄所の資材調達に協力した肥田浜五郎は、
新政府の役人になった。
しかし、明治22年、現・静岡県藤枝市の駅ホームにて事故死。

当時の列車にはトイレがなかったため、肥田は便用のため汽車を降りた。
その後、走り出した汽車に飛び乗ったが乗り損ねて惨劇になった。
汽車にトイレがつくようになったのは、この事故がきっかけだったという。

新政府がスタートする中、
彰義隊新撰組会津藩などが徹底抗戦を続けていたものの、
1年5か月後に、榎本武揚らがこもる函館・五稜郭の開城をもって、
戊辰戦争は終結、名実ともに明治政府の天下となった。

北海道が五稜郭を中心に独立国家になっていたら、歴史も変わっていたはず。

五稜郭です。
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オランダの築城法をもとに1864年に完成した。

柴田が苦労して整えた兵庫(神戸)は、新政府の手に渡され、
小栗、柴田が精魂を傾け、莫大な資金を投じた横須賀製鉄所(造船所)は、
フランス人ヴェルニー率いるフランス人技師ともども、
新政府に渡され、神奈川府裁判所の管轄となった。

皮肉なことに、その主任判事は、
フランスで柴田を悩ませた薩摩藩の密航者、寺島宗則であった。

フランスで従者、万蔵を亡くして、
「人生、夢幻の世なり」と嘆いた柴田でしたが、
その同じ思いを再び、痛感したに違いありません。


<つづく>

※画像提供/「浮世風呂」式亭三馬 復刻 日本名著全集 「滑稽本集」
         日本名著全集刊行会 昭和2年
        /「引札繪びら錦繪廣告」増田太次郎 誠文堂新光社 昭和51年
        /「埋蔵金35兆円の謎」水野智之 徳間書店 昭和48年
※参考文献/「戊辰戦争論」石井孝 吉川弘文館 2008
        /「戊辰物語」東京日日新聞社会部編 復刻 筑摩書房
         昭和38年

富士山三保子さん

作家・岡本かの子の「東海道五十三次」に、
東海道に魅せられて以来、仕事も家庭も打ち捨てて、
ひたすら東海道を上ったり下ったりする作楽井さんという人が出てきます。
その作楽井(さくらい)さんがこんなことを言った。

「東海道というところはうっかりはまり込んだら抜けられませんぜ」

うっかり幕末にはまり込んだ私は、今まさに作楽井さん状態。
これではいけないと気分転換に静岡県立美術館へ行ってきました。

目的はこれ、「富士山三保子」さん。
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説明によると、

日本から母国アメリカへ帰った神学教育者のルイス・ギューリック博士は、
国で「日本移民排斥運動」が起きていることを知り、心を痛めます。
そこで博士は、日本への偏見をなくすには民間レベルの交流が重要だと考え、
子供たちの未来に平和の希望を託すため全米から寄付を募り、
昭和2年、1万2739体の「青い目の人形」を日本へ贈ってきました。

そのときの「青い目の人形」です。
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そのお礼に実業家の渋沢栄一の主導で、
「答礼人形」として市松人形58体がアメリカへ贈られました。

青い目の人形は、その後勃発した太平洋戦争でほとんどを焼失。
でも向うへ渡った日本人形は47体も残っているそうです。

そのうちの一体がこのほど修繕のため、日本へ里帰りしました。
それが「富士山三保子」さんです。
人間国宝・2代目平田郷陽作。アメリカでの名前は「ミス静岡」
いつもはミズーリー州カンザスシティ博物館に保管されています。

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当初の着物は失われてしまったため、
「ミス神戸」の着物を拝借していたそうです。
今回は新たに、富士山三保の松原茶の実をあしらった着物と、
みかんをイメージした(たちばな)の帯を作りました。

きれいになったので、あちらへ帰る前にお披露目です。

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左は最初の着物。真ん中が「ミス神戸」から借りた着物。右が今回の着物。

人形は偉いなあ。物は言わないけれど、
100年たってもちゃんと親善外交を果たしているんだもの。

卑屈な国際意識

官軍の西郷隆盛と幕臣・山岡鉄舟が駿府で対面したのが、
慶応4年(1868)3月9日。

山岡鉄舟が再建した「鉄舟禅寺」(元・久能寺)です。
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静岡市清水区

鉄舟禅寺に建つ鉄舟座像
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その4日後、
今度は江戸・芝高輪の薩摩藩邸で西郷は勝海舟との会談に臨んだ。
この会見について、花園大学の松田隆行先生はこういいます。

「勝は巧妙な駆け引きを展開した」

何が巧妙だったかというと、
イギリス公使パークスを巧みに利用したんです。
つまりパークスの圧力を背景に西郷との会見に臨んだということです。

従来「薩摩屋敷」とされてきた写真。
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オランダ人ベアトの撮影。

余談ですが、
港区・芝大神宮の力石にその名を残した明治の力持ち・金杉藤吉の家は、
代々、この薩摩屋敷出入りの船頭でした。

さて、パークスと西郷は同じ天皇政府側のはず。
なのに、その西郷にとって圧力となったのは何だったかというと、
パークスのこんな発言だったそうです。

「慶喜を死罪にするなんていう苛酷な処分は、万国公法に合致しない。
そんなことをしたら欧州諸国から非難されます。
そしてそれは、新政府の名声をも傷つけることになります」

西郷さんは「万国公法に合致しない。天皇を傷つけることになる」と聞いて、
これは大変だと慌てます。

薩摩藩の西郷隆盛
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「万国公法」だとか「苛酷な処分」だなんて、
権力闘争で血みどろの英王室のお役人に言われたくはないけど、
これ自体は正論で、
パークスのこの言葉で、慶喜が命拾いしたのは確かです。

「万国公法」について、「戊辰戦争論」の著者はこう述べています。

「万国公法とは国際法のことではなく、単に国際世論のこと。
このように、パークスによって伝えられる外国の意見を
世界的規範と見ていたところに、
当時の政府首脳部の卑屈な国際意識がうかがえる」

長州藩の木戸孝允もまた、
アメリカ訪問の時見た同胞たちの「卑屈」な印象を日記にこう記しています。

「米人はかえってよくわが国情を解し、わが国の風俗を知る。
しかし日本の留学生たちは自分の国の本来の所以を深く理解せず、
米人の風俗を軽々しく慕い、いまだ己れの自立する所以を知らず

でもねえ、日本は今もそれを引きずっているような気がするんですよ。

ヒラリーが次期大統領だと思って握手しに行ったら、そのヒラリーがコケて、
そしたら今度はゴルフクラブ持参で敵対していたトランプに会いにいって、
現職大統領を怒らせただれかさんー。

誤解だったらごめんなさい。

勝海舟は利口ですね。
そうした西郷の「卑屈な国際意識」を巧みに利用して、
江戸開城や慶喜の処分を死罪から水戸への隠居にするなど有利に運びます。

しかし本当は、慶喜さんに大政奉還されちゃった時点で、
西郷や大久保ら倒幕派の攻撃材料は消滅し、
朝敵・死罪などということは成り立たなくなったはずだと思うのですが…。

勝海舟です。
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それよりなにより面白いのは、
実は勝も西郷も別々のルートで、パークスと通じていたという事実です。
ただ勝の方が西郷より一枚上手だった。

しかしその上をいっていたのがパークスで、
万国公法などときれいごとをいっていますが、要は、
「戦争になれば外国人居留区は危険にさらされ、貿易に支障をきたす」
ただそれだけ。ことさら日本人を心配していたわけではない。

それが証拠に「横浜全域は外国軍隊のもとに置かれ、
旧神奈川奉行の権力は、外国の手先として利用されていった」(戊辰戦争論)

なにしろ、あっちこっちを植民地にしていたお国柄ですから。

イギリス公使パークスです。
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このパークス、慶喜を「時代の落伍者」と決めつけ、
「ヴィクトリア女王の信任状を天皇に提出し、
イギリスが天皇政府を日本の正統政府として承認した」と誇らしげに言ったけど、


「承認した」とか「時代の落伍者」などと
植民地支配国家・イギリス国のアンタに言われたかァないよ。

慶喜の大政奉還真意は、
「天皇のもとに挙国一致体制を構築しなければ、
欧米諸国に伍して、独立を保てない」とした
「植民地化させない防衛策」だったのだから。


<つづき>


  =追記=

「薩摩藩邸」として載せた写真の件です。
最初、文献等を鵜呑みに「薩摩藩邸」としてご紹介してしまいましたが、
ヨリックさまのコメントを契機に調べ直したところ、
近年、この写真は薩摩藩邸ではないことが判明したそうです。
お詫びして訂正いたします。

なお西郷・勝会見の場については
一回目は下屋敷で、2回目は蔵屋敷とのことです。


※参考文献/「徳川慶喜」家近良樹 日本歴史学会編集 
         吉川弘文館 2014
        /「戊辰戦争論」石井孝 吉川弘文館 2008
        /「世界ノンフィクション全集」「木戸孝允日記」 
         復刻 筑摩書房 昭和39年
        /花園大学講座資料 松沢隆行

西郷ドンって案外…

江戸へ帰った慶喜公は今後の方針について、家臣たちに意見を求めた。
その答えは圧倒的に「薩長との徹底抗戦」。
通詞の福地源一郎も「徹底抗戦」を主張する一人だった。

しかし、慶喜さんは朝廷への恭順の道を選び、
「せめて外交事務だけは外国に関係あるをもって整頓し、
もって新政府に交付すべし」(懐往事談)と政務引き渡しを指示し、
上野・寛永寺に隠居してしまいます。

このように政権を放棄した慶喜さんでしたが、西郷隆盛、大久保利通らは、
「息の根を止めなくては安心できない」とばかりに慶喜を執拗に責めます。

「朝敵の慶喜は斬首。土地は没収。冠位剥奪」

命も財産もみんないただき、ってわけです。

西郷南洲筆「敬天愛人」
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「しみずの昔 その2」より

朝敵・朝敵といったって、これ、ずいぶん怪しい。

「徳川慶喜」(家近良樹)によると、
「(薩摩が)戦争は幕府側からの発砲で始まり、慶喜自らが幕兵を率いて、
京都に向かって進軍したと主張し、このことを理由に朝敵とし、
これが薩摩藩の正史となったが、これは事実ではない

まあ、現在の紛争地でも同じような工作があるみたいですから…。

「慶喜の首を切れ!死罪だ!」との薩長の、特に大久保利通の厳しい要求に
勝海舟が「助命と江戸攻撃の中止」の嘆願に動きます。

勝は腹心の山岡鉄舟に駿府にいる西郷隆盛への手紙を託します。

こちらは山岡が残していったとされるピストルです。
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由比・薩埵(さった)峠の登り口にある茶店「望嶽亭」の御主人が、

「官軍に追われた山岡がこの茶店に逃げ込んできた。
そこで隠し階段から清水次郎長が手配した船で駿府に送り届けた。
ピストルはそのお礼に置いていった」

とおっしゃっていましたが、この説は学者さんたちからは否定されています。

歴史学者はときとして、残酷な結果を出してしまいますが、
史実はもちろんですが、ロマンはロマンとして生かしておきたいですね。

花園大学の松田隆行先生によると、こんな状況だったみたいです。

「山岡は品川の先、
六郷川(多摩川下流)まで到着していた東征軍の先方隊をかきわけながら、
「朝敵・徳川慶喜家来、山岡鉄太郎、大総督府へ通る
敵の陣営の中を進んでいった」

山岡さん、カッコいい!

「戊辰戦争論」の石井先生はもっとすごい。

「家臣山岡が主家の用によって西郷参謀と面会しようとするもので、
いくさを欲するものではない。首を討ちたければ討て!

「西郷・山岡会見の地」です。
CIMG3486 (2)
静岡市伝馬町 会見はこの場所にあった「松崎屋源兵衛」宅で行われた。

「朝敵といわばいえ」とばかりに自ら名乗り、
「首を討ちたければ討て」と言い放って単身、敵陣に乗り込んだ山岡。
それに対して、西郷ドン、
両脇に大砲をかまえ、
山岡の背後に抜刀者をひかえさせての対応だったそうで…。

西郷ドンって、デカイずうたいの割には案外××だったのね。

それはさておき、
「会見の場」にどなたか「忘れ物ですよ~」

CIMG3487 (2)


<つづく>

※参考文献/「徳川慶喜」家近良樹 日本歴史会編集 吉川弘文館 2014
        /「戊辰戦争論」石井孝 吉川弘文館 2008
        /花園大学・松田隆行講座資料
        /「懐往事談」福地源一郎
※画像提供/「しみずの昔 その2」多喜義郎 私家本 平成5年
        

異常な憎しみ

慶応三年(1867)10月、慶喜、二条城にて大政奉還

この大政奉還について、学者によって意見がわかれます。
一つは、福地源一郎が「懐往事談」に書いているような
「いったん受け入れておいて、再び委任されるのを期待した」という説。

もう一つは、「徳川慶喜」の著者、家近氏が主張する
「欧米諸国に伍していくには、これまでのような朝幕二重政権ではなく、
天皇の元に挙国一致体制を構築しなければならないと慶喜自身が考えた」
という説です。

十五代将軍当時の慶喜公。京都にて。
img338.jpg

かつてその聡明さを買われて、14代将軍の候補にあげられたとき、
慶喜は父親の斉昭にこんな手紙を出した。

「天下を取るほど気骨が折れることはない。天下を取って仕損じるより、
始めから天下を取らぬほうがよい。だから擁立運動を制止してほしい」

明治の元勲・田中光顕は日記に、
「雨露をしのぐだけの貧しい家に生まれたから、
いつかは王侯貴族のような御殿に住みたいと思っていた」と書いていたが、
薩長(鹿児島県・山口県)などの明治維新の功労者の中には、
そうした本音を持つ者も結構いたのではないかと思うのです。

すでにその環境にいるケーキさんにしてみれば、
底辺から這い上がるような、ドロドロした野望を持つ必要はないわけで…。

慶喜の九男・誠氏の夫人がこんな回顧談を残しています。

「慶喜公という方は不思議な人で、ご自分の人生の大半を
他人が創っているんですね。
公を見たこともない人たちがいろんな(悪意の)逸話を創って…」

慶喜公の孫の富士子さん、17歳の花嫁。まるでお人形さんみたい。
img348.jpg

14代将軍家茂と結婚した和宮について、誠氏夫人のちょっと面白い話

「徳川家が宮さまの思う方(熾仁親王)から宮さまを取りあげたように
言われますが、親王と婚約したとき宮さまはまだ6歳ですよ。
愛も恋も起きるひまがありませんでしょ。

川口松太郎さんの「皇女和宮」や有吉佐和子さんの「和宮御留」となると、
ウソ、オッシャイという気がしますよ」

ま、それはさておき、当時の状況をざっくりいうと、
会津藩、桑名藩を始め江戸の幕閣、新撰組などの
徳川政権存続を熱望する身内と、今や「ケーキ」と呼び捨てにする
反幕府勢力、加えて「貿易で儲けることしか頭にない」外国勢力

四面楚歌。ケーキさんでなくても、政権など投げ出したくもなります。

土佐藩の後藤象二郎は、
大政奉還をもって武力衝突を回避しようと薩摩藩に働きかけますが、
西郷隆盛大久保利通らは全く応じず、
長州藩と呼応して武力討伐に突っ走ります。
薩摩藩内にも倒幕反対の声はあったものの、それも押し切ります。

「王政復古のクーデター」です。

こちらは薩摩藩主父子に下った倒幕の密勅です。
このような天皇の許可が出て初めて倒幕を正当化できるのですが、
「戊辰戦争論」の石井氏は長州藩主への密勅共々ニセモノとしています。

img314.jpg

クーデターが起きる10日ほど前の11月下旬、
通詞の福地源一郎は「大坂へまかり越すように」との命令を受け、
軍艦に乗り込み、2日後、「兵庫の浜辺」へ到着。

その数日後、大坂の旅宿にいた福地のもとへ京都から、
「落雷の耳を貫くがごとき」クーデター勃発の知らせが届きます。
翌12日夜半、
京都を追われ「ご疲労の体」の慶喜将軍を大阪城へ迎えました。

その後大阪城には英蘭米仏四国の公使が集まり、
「さてさて、日本国の君主は京都の禁裏か在阪の将軍か」と大激論。
イギリス公使は「内政干渉は一切しない」といいつつ、
「天皇を君主に」と立派に内政干渉。

江戸では薩摩の浪人たちが大暴れ。
怒った親幕府勢力が薩摩藩邸を焼打ちします。
それを聞いた大久保利通はいきり立ち、さらに幕府への攻撃を強めます。

薩摩藩の大久保利通です。
img332.jpg

この人はのちに榎本武揚の鎮圧に慶喜をあたらせるよう主張するなど、
冷酷な提案をする人で、「徳川慶喜」の著者は、
「大久保は慶喜に対して異常な憎しみを持っていた」と書いています。

ウヘッ、いやなヤツ。男の嫉妬丸だし。

翌慶応四年(明治元年)1月3日、旧幕府側と新政府側がついに開戦。
これが戊辰戦争の発端となった「鳥羽・伏見の戦い」です。

開戦からわずか3日後の6日夜半、
福地らのもとへ組頭の松平太郎がやってきて、
「将軍はすでに大阪城を退去して江戸へ向かっている。
もうここには誰もいない。君らも早く立ち退け」という。

半信半疑で御用部屋へ行ってみると「内閣は寂として一個だに人影はなし」
詰所にきてみると、よほど慌てていたのだろう、
公用書類は散乱し、護身用の拳銃も置きっぱなし。
奉行が正月用に用意した鴨鍋の材料までそっくり残してあった。

ここで大阪城へ行ったときの写真を載せようとしましたが、探せど見つからず。
急きょ、井原西鶴の「一目玉鉾・巻四」から拝借。

img349.jpg

置いてけぼりを食った福地ら一同は集まって、
その鴨鍋を「かつ煮、かつ食らい」つつ、今後を話し合った。

福地はその後、敗残兵でごった返す城を抜け、
兵庫奉行・柴田剛中の商船「オーサカ」に拾われて、一路、江戸を目指した。

午後5時ごろ、福地は海上から、
はるか大阪の方角に黒煙があがるのを見た。

「火焔すこぶる盛んなるを見て、
さてこそ大阪の御城はもはや官軍のために、
一炬(いっきょ)にふせられたり(いっぺんに焼かれてしまった)」

そう思いつつ、
ただ首をうなだれて見つめているほかはなかった。


<つづく>


※参考文献・画像提供/「徳川慶喜」家近良樹 日本歴史学会編集
               吉川弘文館 2014
              /「戊辰戦争論」石井孝 吉川弘文館 2008
              /「聞き書き 徳川慶喜残照」遠藤幸威 朝日新聞社
               1982
※画像提供/「日本名著全集 西鶴名作集下」「一目玉鉾 巻四」
        復刻 日本名著全集刊行会 昭和4年
※参考文献/「世界ノンフィクション全集」「懐往事談」福地源一郎
        復刻 筑摩書房 昭和39年

兵庫(神戸)開港

明治の新時代まであと2年という慶応二年(1866)は、
大久保利通らの薩長が仕掛ける「鉄砲芝居」の序章となりました。

7月、和宮の夫で14代将軍家茂が二十歳の若さで大阪城にて病死。
さらに12月になると、孝明天皇が急死します。
「御九穴より御脱血」(中山忠能日記)が示すように、
体中の穴という穴から血を流しての変死。そのため毒殺とうわさされた。

孝明天皇
孝明 (2)

母が公卿の娘で朝廷とはつながりの深い慶喜は、
ここに、「政治向きのことは苦手だからそれは幕府に任せる」とした
佐幕派で攘夷強硬論者の孝明天皇を失います。

「徳川慶喜」の著者、家近氏は、このことについてこう記しています。

「天皇の崩御が慶喜にもたらしたものは二つある。
そのマイナス面は薩長などの反幕府勢力の台頭。
プラス面は強力な攘夷思想がなくなり、全国的開国がやりやすくなった」

第15代将軍となった慶喜は開国派に転じ、即座に「プラス面」を実行。
翌慶応三年、懸案だった兵庫開港を幕府単独で着手します。
その重要な任務にあたったのが、我が柴田剛中です。

下図は「徳川道」です。
兵庫(神戸)開港を前に、外国人とのトラブルを回避するため、
幕府はこのような「バイパス」を作りました。

img330.jpg

慶喜が江戸を離れ、なぜ京都に固執し居続けたかというと、
「江戸は一大消費地にすぎないが京阪は日本経済の中心地。
その全国的商品流通の「上方」を失うことは全国的政権でなくなるということ」
=「戊辰戦争論」石井孝

つまり幕府政治の存続はこの上方(かみがた。京阪)を掌握することにあり、
その経済圏を幕府の意のままにするには、
まずは外国貿易の拠点としての港を幕府直轄にしなければならない。

京都に居続けたのはこんな理由。

そこで兵庫開港が重要になってきたわけです。
加えて、諸外国と約束した開港期限は本年12月。

期限を守ることは幕府の権威を示すまたとないチャンスです。
大阪・兵庫奉行になった柴田は外国人居留地などの整備を
急ピッチで進めます。

勝海舟の建言をいれて幕府が建造した和田岬砲台
img317 (2)

しかし藩の自立化をめざす薩長は、今さら幕府もクソもあるものかと反発。
さまざまな挑発を仕掛けます。

そういう薩摩を幕府側で、
「二賊(大久保利通・西郷隆盛)」「薩賊」と批難すれば、
薩摩の側では「賊臣・慶喜を討て」といきり立つ。

新たに即位した15歳の天皇の争奪戦となりました。

その両勢力の間にいる公家たちの政治能力は「風にそよぐ葦(無能)
その間をイギリス公使パークスが、「内政干渉はしない」「あくまでも中立」
と言いながら狡猾に動き回ります。

日本人の外国依存という悪癖の始まりです。


<つづく>

※参考文献/「徳川慶喜」家近良樹 日本歴史学会編集 吉川弘文館
         2014
        /「戊辰戦争論」石井孝 吉川弘文館 2008
※画像提供/「日本発見 港町」「神戸」小西四郎 暁教育図書 昭和54年

鉄砲芝居

「徳川慶喜」(家近良樹著)にこんな記述があります。

大阪城から脱出して江戸へ帰った慶喜は、
自分の救済、つまり朝敵ではないことや助命をいろんな人に頼んだ。
静寛院宮(前将軍・家茂の正室。和宮)にも頼んだ。

その和宮は実家の橋本実梁(さねやな)に宛てた手紙にこう書いたという。

「慶喜一身は何様にも仰せつけられても結構だが、
徳川家だけは存続できるよう取り計らってほしい」

つまり、和宮にとっては、
慶喜の生命などどうでもよく、徳川家の存続だけが問題とされたー。

なんとも冷淡!
思わず、ドッキン、ゾゾーッ!

ありし日の駿府城「三の丸」横内御門です。
キツネやタヌキがたくさん棲んでいたそうです。熊が出たことも。
img312.jpg

復元された駿府城「巽櫓」「東御門」
CIMG3490.jpg

しかし、「聞き書き・徳川慶喜残照」(遠藤幸威著)には、
慶喜の九男・誠の未亡人のこんな話が出ています。

「慶喜さまは宮様(和宮)を命の恩人といい、毎年九月二日の宮様の御命日には、
77歳で亡くなるまで、宮様のお墓のある増上寺にお参りしていらっしゃった」

晩年の慶喜に仕えた侍女も、
「殿様は、雨が降ろうが風が吹こうが、私の命の恩人と申されて、
宮さまのお墓には欠かさずお参りに行かれました」

慶喜公の側室。お幸(左)とお信(右)。大変な仲良しだったとか。
img309.jpg

「慶喜の命などどうでもいい」と手紙にしたためた和宮と、
その人を「命の恩人」として感謝し続けたケーキさん。
これ、どう考えたらいいんでしょう。

また、勝海舟についても、
「徳川慶喜」の著者は、「勝は慶喜を嫌っていた」と書いていますが、
海舟は慶喜の助命嘆願に奔走。それが西郷隆盛との会見です。

晩年の勝海舟。
img311.jpg

静岡へ来てからは、
徳川家支援のため、かつての「安倍金山」の調査までしていますし、
さらに慶喜の十男精(くわし)と養子縁組をしています。
嫌っていたとはとうてい思えません。

何が本当なのかこんがらがってきました。

でも「徳川慶喜」の内容には、納得したり教えられるものが多いのです。
例えば、慶喜とフランスとの結びつきです。

フランスの援助を得ての軍制改革は、
14代将軍家茂のころ、小栗上野介ら幕閣たちが始めたのであって、
一般に言われているような「慶喜主導」ではない。
そのころの慶喜は京都にいて、宗家相続すらしていなかった」

駿府城跡(現在の静岡県庁)石垣から見た旧静岡市役所
CIMG3494.jpg

もう一つの本「戊辰戦争論」(石井孝著)からも引用します。

この幕府とフランスの接近を警戒したのが、
薩摩藩(鹿児島県)と長州藩(山口県)です。
幕府抜きの貿易をやりたい薩長の願いは、資本主義の王者で、
諸大名との自由貿易を願うイギリス公使パークスの思惑とも一致しました。

そこへ薩摩や西南諸藩との取引で大きな収益をあげていた
長崎の武器商人グラバーや、その長崎の亀山に本拠を置いていた
「亀山社中」の坂本龍馬らのグループが加わります。

龍馬はのちに同じ土佐藩(高知県)の後藤象二郎と結びつき、
「亀山社中」を「海援隊」へと再編成していきます。

慶応3年、慶喜の大政奉還の建白書を出した後藤象二郎です。
img310.jpg

薩長ではかねてから上海との密貿易が盛んで、下関はその基地だった。
長州藩は龍馬の斡旋で薩摩を隠れ蓑にグラバーから、
軍艦7300丁(九万二千両)を購入したりしています。

イギリスと結びつく薩長、フランスと結びつく幕府という構図。

土佐の龍馬や長州の桂小五郎(木戸孝允)らは、
「大政奉還は難しいかもしれないが、
七、八分通り進めば十段目には鉄砲芝居(戦争)をするほかはない」
と話し合ったという。

そんな状況だった慶応元年四月、
イギリスの代理公使ウインチェスターは、外国奉行の柴田剛中に会い、
「下関開港を幕府が妨げている。諸大名を外国貿易に参加させるべきだ」
と非難。それに対して柴田は憤然とこう言い放ったという。

「日本全国の統治権は将軍の手中にある。
幕府の許可なく勝手に外国と協定を結ぶような大名であれば、
ただちに討伐しなければならない」

ここで柴田が言った将軍とは、慶喜ではなく家茂のことです。

柴田が横須賀製鉄所建設の機材調達にフランスへ渡ったのは
この1か月後のことでした。

何事にも筋を通す柴田さん、がんばっています。

柴田剛中をフランスへ派遣した小栗上野介
「うまくいくといいんだけどなあ」
上野介小栗 (2)

攘夷だ開国だ、佐幕だ倒幕だとなんとも複雑な幕末。
中でも江戸城の幕府首脳たちと慶喜の関係は、
なかなか飲み込めませんでした。それが、おぼろげながら理解できたのは、

開国して徳川政権を維持しようとする小栗らの幕閣と、
天皇との結びつきを強めて政権を維持したい攘夷派の慶喜とは、
対立関係にあったということです。

なにしろ新しもの好きで行動派のケーキさんのことですから、
バリバリの開国派で、
率先してフランスへコンタクトをとっていたと思い込んでいましたので。

その慶喜が開国派に転じたのは、
柴田がフランスから帰国した慶応2年も暮れのことでした。



<つづく>


※参考文献/「徳川慶喜」家近良樹 日本歴史学会編集 
         吉川弘文館 2014
        /「戊辰戦争論」石井孝 吉川弘文館 2008
        /花園大学講座資料「鳥羽・伏見の戦い」松田隆行
※画像提供/「静岡史跡めぐり」安本博 静岡県地方史研究会 
         吉見書店 昭和50年
※参考文献・画像提供/「聞き書き 徳川慶喜残照」遠藤幸威 
               朝日新聞社 1982
プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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