菊が栄えて葵が枯れる
柴田幸次郎を追う
美空ひばりの歌じゃないけれど、
♪長い旅路の航海終えて、
柴田一行が帰国したのは8か月後の翌慶応2年(1866)1月でした。
「お雇い外国人」の給料も決め、国への会計報告も万全です。
滞在中はタイムス新聞社へも足を運んだ。
フランスの国立図書館で、地図に「ジャッポン」とあるのを確認。
イギリスの博物館では、3年前、ロンドン万博へ出品した日本製品を見た。
柴田はこの開会式に列席していたので、再び目にして感無量となる。
文久二年(1862)のロンドン大博覧会

しかし、貨幣引換所(バンク)では、名簿にライバルの長州藩士、
志道聞多(井上馨)や山尾庸三、伊藤俊輔(博文)らの名を見つけてしまいます。
表情には出さないものの、内心、ムカッとしたことでしょう。
後日のため、彼らの名前を写しておいた。
料理屋で遊ぶ攘夷派の浪士たち。独特の服装をしています。

「酒簡座興酌技婦」部分 国周画 文久2年
さて、フランスでの柴田はというと、郷に入っては郷に従えというわけで、
耶蘇の大祭(クリスマス)では、
ハナ(祝儀)を出す習慣があると聞き、
ホテルの従業員一同にシャンパン12本を贈った。
2年後のパリ万博の打ち合わせも済ませ、
万蔵の最後の墓参りに、もう一人の従者・久左衛門をやり、
買い付けた資材や雇った技師らと船に乗り込んだのが12月初め。
肥田浜五郎も共に乗船しました。
ネット上などに「柴田はナポレオン三世に拝謁した」とありますが、
これは間違い。予定にはあったものの実現しませんでした。
翌慶応2年の元日は、シンガポール手前の海上で迎えた。
東に向かって手を合わせ、「一同より拝年の賀詞を受く」
みんなで俳句を作った。柴田はこんな句を詠んだ。
とうとうと うつやつゞみの 今朝の浪
柴田一行が帰国したころの江戸城です。
このわずか2年後、城の主が、
葵(徳川)から菊(天皇)に変わることなど幕臣たちは夢にも思わなかった。

慶応2年撮影
大任を果たして帰国した柴田でしたが、休む間もなく、
翌慶応3年、外国奉行のまま、大坂・兵庫奉行として京阪へ赴きます。
かつて諸外国と約束した開市・開港延期の期限が迫っていたため、
兵庫開港の準備に抜擢されたわけです。
しかし、時代の大きなうねりは、
まもなくこの忠実な幕臣を打ちのめします。
大政奉還です。権力の座を朝廷に返したのです。
「将軍徳川慶喜が大政奉還のことを幕府有司にはかる図」

福地源一郎は自著にこう書いています。
「兵庫開港の勅許も出て、慶喜公は大阪城にて各国公使にも会い、
今度のフランス万博への使節には弟君を遣わすことも決めた。
これですべて円滑に進むと思っていたのに、
まさか幕府の運命は衰亡に向かっているとは、
江戸にいるわれわれには知るよしもなかった」

「今日の歴史家は、
外国局にいながら京都で何が起きているのか知らなかったはずはないと、
不審をいだくかもしれない。しかし、その当時は私だけでなく、
閣老参政のごときも知らないまま、突然の大政返上となった」
「それにつけても薩長の勢いに恐れて大政返上とは何事ぞや。
江戸城にては幕府の文武はみなことごとく激昂して、
悲憤慷慨をきわめ、上を下へと混雑」
「ひょっとして、慶喜公は奇計に出たのかもしれない。
薩長諸藩の陪審・書生どもに政治の取り扱いなどできるものか、
だから返上しても、そのうち困ってこちらに委任してくるだろう、と」
しかし、そうはなりませんでした。
<つづく>
※参考文献・画像提供
/「世界ンノンフィクション全集」「懐往事談」 福地源一郎 「戊辰物語」
復刻 筑摩書房 昭和39年
※参考文献
/「西洋見聞集」「仏英行く」柴田剛中 復刻 岩波書店 1974
※画像提供
/「錦絵 幕末明治の歴史・横浜開港」小西四郎 講談社 昭和52年
♪長い旅路の航海終えて、
柴田一行が帰国したのは8か月後の翌慶応2年(1866)1月でした。
「お雇い外国人」の給料も決め、国への会計報告も万全です。
滞在中はタイムス新聞社へも足を運んだ。
フランスの国立図書館で、地図に「ジャッポン」とあるのを確認。
イギリスの博物館では、3年前、ロンドン万博へ出品した日本製品を見た。
柴田はこの開会式に列席していたので、再び目にして感無量となる。
文久二年(1862)のロンドン大博覧会

しかし、貨幣引換所(バンク)では、名簿にライバルの長州藩士、
志道聞多(井上馨)や山尾庸三、伊藤俊輔(博文)らの名を見つけてしまいます。
表情には出さないものの、内心、ムカッとしたことでしょう。
後日のため、彼らの名前を写しておいた。
料理屋で遊ぶ攘夷派の浪士たち。独特の服装をしています。

「酒簡座興酌技婦」部分 国周画 文久2年
さて、フランスでの柴田はというと、郷に入っては郷に従えというわけで、
耶蘇の大祭(クリスマス)では、
ハナ(祝儀)を出す習慣があると聞き、
ホテルの従業員一同にシャンパン12本を贈った。
2年後のパリ万博の打ち合わせも済ませ、
万蔵の最後の墓参りに、もう一人の従者・久左衛門をやり、
買い付けた資材や雇った技師らと船に乗り込んだのが12月初め。
肥田浜五郎も共に乗船しました。
ネット上などに「柴田はナポレオン三世に拝謁した」とありますが、
これは間違い。予定にはあったものの実現しませんでした。
翌慶応2年の元日は、シンガポール手前の海上で迎えた。
東に向かって手を合わせ、「一同より拝年の賀詞を受く」
みんなで俳句を作った。柴田はこんな句を詠んだ。
とうとうと うつやつゞみの 今朝の浪
柴田一行が帰国したころの江戸城です。
このわずか2年後、城の主が、
葵(徳川)から菊(天皇)に変わることなど幕臣たちは夢にも思わなかった。

慶応2年撮影
大任を果たして帰国した柴田でしたが、休む間もなく、
翌慶応3年、外国奉行のまま、大坂・兵庫奉行として京阪へ赴きます。
かつて諸外国と約束した開市・開港延期の期限が迫っていたため、
兵庫開港の準備に抜擢されたわけです。
しかし、時代の大きなうねりは、
まもなくこの忠実な幕臣を打ちのめします。
大政奉還です。権力の座を朝廷に返したのです。
「将軍徳川慶喜が大政奉還のことを幕府有司にはかる図」

福地源一郎は自著にこう書いています。
「兵庫開港の勅許も出て、慶喜公は大阪城にて各国公使にも会い、
今度のフランス万博への使節には弟君を遣わすことも決めた。
これですべて円滑に進むと思っていたのに、
まさか幕府の運命は衰亡に向かっているとは、
江戸にいるわれわれには知るよしもなかった」

「今日の歴史家は、
外国局にいながら京都で何が起きているのか知らなかったはずはないと、
不審をいだくかもしれない。しかし、その当時は私だけでなく、
閣老参政のごときも知らないまま、突然の大政返上となった」
「それにつけても薩長の勢いに恐れて大政返上とは何事ぞや。
江戸城にては幕府の文武はみなことごとく激昂して、
悲憤慷慨をきわめ、上を下へと混雑」
「ひょっとして、慶喜公は奇計に出たのかもしれない。
薩長諸藩の陪審・書生どもに政治の取り扱いなどできるものか、
だから返上しても、そのうち困ってこちらに委任してくるだろう、と」
しかし、そうはなりませんでした。
<つづく>
※参考文献・画像提供
/「世界ンノンフィクション全集」「懐往事談」 福地源一郎 「戊辰物語」
復刻 筑摩書房 昭和39年
※参考文献
/「西洋見聞集」「仏英行く」柴田剛中 復刻 岩波書店 1974
※画像提供
/「錦絵 幕末明治の歴史・横浜開港」小西四郎 講談社 昭和52年
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