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菊が栄えて葵が枯れる

美空ひばりの歌じゃないけれど、
♪長い旅路の航海終えて、
柴田一行が帰国したのは8か月後の翌慶応2年(1866)1月でした。

「お雇い外国人」の給料も決め、国への会計報告も万全です。

滞在中はタイムス新聞社へも足を運んだ。
フランスの国立図書館で、地図に「ジャッポン」とあるのを確認。

イギリスの博物館では、3年前、ロンドン万博へ出品した日本製品を見た。
柴田はこの開会式に列席していたので、再び目にして感無量となる。

文久二年(1862)のロンドン大博覧会
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しかし、貨幣引換所(バンク)では、名簿にライバルの長州藩士
志道聞多(井上馨)や山尾庸三伊藤俊輔(博文)らの名を見つけてしまいます。

表情には出さないものの、内心、ムカッとしたことでしょう。
後日のため、彼らの名前を写しておいた。

料理屋で遊ぶ攘夷派の浪士たち。独特の服装をしています。
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「酒簡座興酌技婦」部分 国周画 文久2年

さて、フランスでの柴田はというと、郷に入っては郷に従えというわけで、
耶蘇の大祭(クリスマス)では、ハナ(祝儀)を出す習慣があると聞き、
ホテルの従業員一同にシャンパン12本を贈った。

2年後のパリ万博の打ち合わせも済ませ、
万蔵の最後の墓参りに、もう一人の従者・久左衛門をやり、
買い付けた資材や雇った技師らと船に乗り込んだのが12月初め。
肥田浜五郎も共に乗船しました。

ネット上などに「柴田はナポレオン三世に拝謁した」とありますが、
これは間違い。予定にはあったものの実現しませんでした。

翌慶応2年の元日は、シンガポール手前の海上で迎えた。
東に向かって手を合わせ、「一同より拝年の賀詞を受く」
みんなで俳句を作った。柴田はこんな句を詠んだ。

    とうとうと うつやつゞみの 今朝の浪


柴田一行が帰国したころの江戸城です。
このわずか2年後、城の主が、
(徳川)から(天皇)に変わることなど幕臣たちは夢にも思わなかった。

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慶応2年撮影

大任を果たして帰国した柴田でしたが、休む間もなく、
翌慶応3年、外国奉行のまま、大坂・兵庫奉行として京阪へ赴きます。

かつて諸外国と約束した開市・開港延期の期限が迫っていたため、
兵庫開港の準備に抜擢されたわけです。

しかし、時代の大きなうねりは、
まもなくこの忠実な幕臣を打ちのめします。

大政奉還です。権力の座を朝廷に返したのです。

「将軍徳川慶喜が大政奉還のことを幕府有司にはかる図」
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福地源一郎は自著にこう書いています。

「兵庫開港の勅許も出て、慶喜公は大阪城にて各国公使にも会い、
今度のフランス万博への使節には弟君を遣わすことも決めた。
これですべて円滑に進むと思っていたのに、
まさか幕府の運命は衰亡に向かっているとは、
江戸にいるわれわれには知るよしもなかった」

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「今日の歴史家は、
外国局にいながら京都で何が起きているのか知らなかったはずはないと、
不審をいだくかもしれない。しかし、その当時は私だけでなく、
閣老参政のごときも知らないまま、突然の大政返上となった」

「それにつけても薩長の勢いに恐れて大政返上とは何事ぞや。
江戸城にては幕府の文武はみなことごとく激昂して、
悲憤慷慨をきわめ、上を下へと混雑」

「ひょっとして、慶喜公は奇計に出たのかもしれない。
薩長諸藩の陪審・書生どもに政治の取り扱いなどできるものか、
だから返上しても、そのうち困ってこちらに委任してくるだろう、と」

しかし、そうはなりませんでした。


<つづく>


※参考文献・画像提供/「世界ンノンフィクション全集」「懐往事談」
               福地源一郎 「戊辰物語」 
               復刻 筑摩書房 昭和39年
※参考文献/「西洋見聞集」「仏英行く」柴田剛中 復刻 岩波書店 1974
※画像提供/「錦絵 幕末明治の歴史・横浜開港」小西四郎 
         講談社 昭和52年
               

人生、夢幻の世なり

薩摩藩士から「井の中の蛙」とののしられた柴田剛中。
しかし、柴田研究者の君塚進氏によると、柴田は大変な勉強家で、
その蔵書は洋書も含め200冊以上にものぼるという。

そのほとんどが兵器・海防・港湾・地図、西洋や外国語関係書で、
かなりの博識だったことがうかがえます。
部下の福地源一郎から英字新聞を見せられて以降、
英語にも熱心に取り組んでいたといいます。

英米仏蘭露の領事たちと堂々と渡り合うなどということは、
下級武士たちには経験しようにもできなかったことでしょうから、
密航して初めてその先進性や国力を知り、攘夷思想を捨てた彼らより、
柴田のほうがずっと西洋事情には「慣れていた」はず。

薩摩藩が起こした生麦事件(英国人殺害事件)の、
賠償金支払いを協議するイギリスと日本政府(幕府)の代表たち。

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また、頑固おやじではあっても他の官僚とはちょっと違いました。
例えば、外国公使から質問されて、
「拙者は大名でござる。さようなことは存じませぬ」と逃げる「名ばかり奉行」や、
士農工商が染みついて、外国商人を下賤の者と見下す幕閣とは、
全く違う感覚の、実行力ある官僚だったと思います。

英語力に関しては、
「通じない英語」(金子堅太郎伯爵談)、
怪しげな英語を生かして出世した」(木戸孝允=桂小五郎談)
伊藤博文よりは数段優れていたんじゃないかなあ。

さて、この在仏中、柴田はもう一人の幕臣と行動を共にします。
伊豆出身の機関技師、肥田浜五郎です。

万延元年(1860)の渡米のころとその4年後のオランダでの肥田。
なで肩からいかり肩へ大変身です。

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当時肥田は、江戸湾の石川島造船所の機械類を買うためにオランダにいた。
その肥田のところへ幕府から、
「造船所は横須賀に決まったから、フランスにいる柴田と合流するように」
との連絡がきた。

「近代日本造船事始」という本があります。
肥田の生涯を描いた労作ですが、横須賀を造船所と決めた小栗上野介や、
その小栗に派遣された柴田に対して、
悪意ともとれる書き方が散見されていてちょっと悲しい…。

この著者は、福地源一郎が「懐往事談」に書いているとして、
自著にこんなふうに転載しています。

「肥田が主張していた石川島を潰した小栗は、
自分の命令でどうにでも動かせるという官僚意識の持ち主で、
柴田は小心者で政治家としての器量はなかった」

「柴田は頑固者で、パリでは部下たちが洋装するのを禁じ、
肥田に対してもすぐ洋服を脱がせた。だから袴姿の彼らを見て町の人は、
オー、ジャポネーといい、犬にも吠えつかれた」

でも「懐往事談」にはそんな記述は見当たらない。

洋装は文化的で和装は時代遅れとでも思っているのでしょうか。
シャッポかぶってヒゲつけて…。それこそ「西洋かぶれ」「猿まね」
「フランス人に笑われ、犬に吠えつかれた」などと卑屈になるこたァない。

見よ! この気高く、美わしきニッポン青年を!

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文久3年の遣欧使節団の正使、池田長發(ながおき)

それにひきかえ、見よ!
日本に来て遊女遊びをする不細工なフランスのおっちゃんを!

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私がまだ乙女だったころ、兄から、
「アメリカから友人夫妻がくるから着物で来てくれ」と言われて…。
で、日本に到着したアメリカ人、私に親しげに英語でペラペラしたあと、
「妹さん、英語しゃべれないの?」
私は日本式「謎の微笑」を浮かべつつ、内心、「日本語覚えてから来い!」

思えば、あのころの私は攘夷派でした。

さて、「部下の洋服を脱がせるほど頑固冷徹」と書かれた柴田。
でも福地はその柴田について、こう書いています。
「余に対して常に特別の厚情を与えられたる人なり」

攘夷が吹き荒れ、水戸天狗党が各地で暴れまわっていた江戸では、
福地のように洋学を学んでいる人間は、特殊な卑しい人種と蔑まれ、
幕府の正式な外国局・翻訳課を「○○・非人」の「○○町」と呼び、
漢学者からは「汚れるから敷地内に入るな」と追い返された。

夜間、切りつけられて危うく難を逃れたこともあった。

そんな福地を柴田は上司として常にかばい、攘夷派に狙われないよう、
室内の仕事を与えるなど配慮したという。
しかし、攘夷派から異端視されようとも翻訳の仕事は増えるばかり。
疲れてお堀端を居眠りしながら帰ったこともあったという。

幕末とは、なんと不条理な世の中だったことか。

その福地さん、造船所を横須賀に決めたことについても、
小栗上野介のゴリ押しでもなんでもなく、
石川島造船所はいたって小さく修繕の用にも造船の用にも適さない。
それで幕府は上海に修繕を頼んでいたがそれでは不便のため横須賀に」
と記している。

そして小栗上野介は幕府三傑の一人」と讃美を贈っています。

さて、病いに倒れた柴田の従者・万蔵は、その後どうなったかというと、
8月24日、ついに亡くなってしまいます。

当時の海外渡航者を見ると、異国で亡くなったり消息不明の人が多い。
力持ちにもいるんです。
そんな一人が埼玉県宗岡(志木市)出身の荒井(清水)清次郎です。

清次郎が清国(中国)で興行したときの引き札です。
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現在、所在不明

清次郎は「江戸力持番付」「東京力持番付」に載るほどの力持ちでした。
清国での興行が好評だったため、再び海外巡業へ出かけます。
もし帰ってこなかったらこの力石を霊神として祀ってくれ」
と言い残して出発。

これがその通りになっちゃったんです。
明治8年6月、インドで死亡したらしいとの風の便りが…。
満100歳になった大正5年、裁判所の許可を得て除籍。

清次郎の遺言通り、庭に祀られた力石
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埼玉県志木市下宗岡  

「奉納 六拾貫目余 
弘化四年 正月吉日 宗岡村 荒井清次郎」


さて、万蔵がこの世を去ったその日の日記に、柴田はこう綴っています。

「ついに冥界の府に入れり。
ああ、人生、夢幻の世なり。幽魂、招けども帰らず」

奇しくも12年後の同じ日に、柴田も冥界入りをしてしまいます。
で、なぜか私の誕生日はこの同じ日。あ、全然関係ないですね。

万蔵はモンパルナスの墓地に埋葬。

でも実直を絵に描いたような柴田のことです。
涙にくれながらもちゃんと記してありました。

「葬式諸入費 五十ナポレヲン」


<つづく>


※参考文献/「西洋見聞集」「仏英行」柴田剛中 復刻 岩波書店 1974
        /「近代日本造船事初」土屋重朗 新人物往来社 昭和50年
※参考文献・画像提供/「世界ノンフィクション全集」「懐往事談」福地源一郎
               復刻 筑摩書房 昭和39年
              /「石に挑んだ男達」高島愼助  岩田書院 2009

頑固おやじ

日本を出てから約2か月、ようやく目的地のマルセイユに到着。
マルセイユはフランス第一の港町です。

当時のマルセイユの港と街並み。
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「大王石」幸次郎を追って、とうとうフランスまで来てしまいましたが、
この決着はちゃんとつけますので、ご安心を。

フランス・パリを描いた錦絵「佛蘭西把里須府」 芳虎画。文久2年。
でも解説にはこう書かれています。
「パリが海岸に面したように描いているが、どこで間違ったのだろう。
遣欧使節が見たパリとはかなり違った絵である」

マルセイユとパリを混同したのかも。

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このころになると、柴田剛中の日記に横文字が増えてきます。
ソンデー(サンデー)、蒸気車コンペニー(鉄道会社)、ヂンネル(ディナー)。

英語のほかにポルトガル語のバッテーラ(ボート)、
フランス語の「サポン」(石けん)、「カッヘル」はオランダ語で暖炉のこと。
ホテル代を「旅籠(はたご)代」と書いてあるのがほほえましい。

フランス到着早々、宿泊したグランドホテルは、
文久使節も泊まったところだったが、高級すぎて出費がかさむため、
ほどなくルーブルホテルへ移動。

息つく暇もなく、
上司・小栗上野介の期待に応えるべく柴田の奮闘が始まります。
目的は横須賀に作る予定の製鉄所(造船所)の技師や資材の調達です。
フランス公使ロッシュがすべて段取りをつけてありますから、
その通りに動けば万事うまくいくはずです。

明治のころの横須賀製鉄所(造船所)
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その柴田を補佐し、常に行動を共にしたのが、
優秀な若い海軍技師・ヴェルニーです。

連日各地の製鉄所や造船所、保税倉庫などを見て回りますが、
さらに、
貨幣鋳造所、果ては乳児院や貧民街、病院まで見学。
刑務所では囚人たちが小間物や玩具などを作っていたのには驚いた。

政治家との会談や付き合いも大切な仕事です。
誘われるままにブローニュの森を遊覧。
再三断っていた劇場へも行くはめに。

それだけではない。
柴田の前には商人や怪しげな人たちが売り込みにやってきた。
フランス産業政界の大物からシーボルトのような日本マニア、
東洋語学校の講師を名乗るロニという男。

3年前、フランスへ亡命した斎藤謙次郎が、
国際的山師のモンブランの使いでやってきた。
謙次郎は断髪、長髭、洋装で、ジラルド・ケンと名前まで変えていた。

柴田のライバル、薩摩藩の密航者、新納(にいろ)や寺島五代らは
このモンブランとの危うい関係に深入りして失敗したが、
柴田は慎重にこれを退けた。

柴田のライバルたち。チョンマゲの後遺症?おでこが広過ぎ。
友厚 則寺島宗

左は五代才助(友厚)です。のちに実業家として経済界に君臨。
右は寺島宗則(松木弘安)。のちに政治家として活躍。

五代才助(友厚)は柴田を、
「かような幕府官吏は皇国にとって害」「井の中の蛙」とののしったが、
柴田は「みんな一つ穴のムジナだ」と警戒して、彼らに会おうともしなかった。

会うことは頑なに拒んだけれど、
部下たちが薩摩や長州の藩士たちと会うことは黙認していた。
しかし帰国後、幕閣の水野忠徳から、
同国人がいると知りながら知らん顔するとは何事か」と叱責された。

あれ?水野さん、そりゃおかしいよ。
相手は国禁を犯した密航者だよ。幕吏の柴田はその筋を通しただけだよと、
ここは柴田の肩を持ちたくなりますが、どうもそう単純なものでもないらしい。

幕府絶対主義と雄藩の共和政治路線が、
柴田と薩摩グループの対立として現れたのだと、
「さまざまな西洋見聞」の著者、松沢氏はいう。
しかし、こうもいう。

「彼らが悪態をつくのは柴田に、というより、
その背後にいる小栗上野介栗本鋤雲(じょうん)へのあてこすり」

なんか、大人げないよな

攘夷攘夷と騒ぎ立てて事件を起こし、今度は開国に転向。
開国はもともと幕府の方針だったのに。
そいでもって、琉球(沖縄)を利用して幕府に内緒で密貿易。
儲けたお金で武器を買い、その異人の手引きで密航。

鹿児島県南さつま市坊津に残る「十貫目石」
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坊津は遣唐使船の寄港地で、薩摩藩の密貿易の拠点だった。
その後、カツオ漁で栄えた。この十貫目石はカツオの重さを計るのに使われた。

確かに、融通がきかないお堅い幕府の役人と、
攘夷の愚かさに目覚めて西欧諸国を縦横に歩き回る若者たちの行動力。
無鉄砲ながらもそうした柔軟さが新しい時代には必要だった。

しかし、明治維新の当事者たちの手記を読むほどに、薩長藩士がいやになる。

下の写真は慶応3年、14歳で渡米した高橋是清です。
渡米してから奴隷として売られたことを知り、そこから抜け出します。
ちなみに柴田一行が帰国したあと、幕府は渡航の自由を認めたので、
高橋是清は密航者ではありません。

でもすごいですよね。たかだか14歳であのアメリカ大陸で冒険ですから。
のちに大蔵大臣、総理大臣を歴任しますが、昭和11年、暗殺されてしまいます。

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でもね、柴田みたいな頑固おやじがいてこそ
若者たちが道をあやまたずがんばれるってこともありますよね。

それはさておき
相手が山師だろうがなんだろうが、異国暮らしを謳歌し、
幕府、他藩を問わず密かに会い自由に意見交換する若者たち。
柴田はというと、異国に馴染めず、
ひたすら全身全霊で大君のため幕府のため、石橋を叩いて渡っている。

心労が重なって、夜になると一人ホテルにこもり、
鏡に向かってぼんやりと髪をくしけずり、
痩せた顔を見ては、秋まで持つだろうかと嘆息する。

になればなったで、枕辺でコウロギの鳴くのを聞きながら、
「この仮住まいはまるでの住まいのようだ」と漢詩に綴った。

そんな中、頼みの綱の従者万蔵が病気になってしまいます。


<つづく>


※参考文献/「西洋見聞集」「仏英行」柴田剛中 
         復刻 岩波書店 1974
※画像提供/「世界ノンフィクション全集」「懐往事談」福地源一郎、
         「高橋是清自伝」高橋是清。復刻 筑摩書房 昭和39年
        /「日本発見 港町」暁教育図書 昭和54年

正体不明の同国人

出帆5日目の5月10日。
「雨、ますます暴。雷気(らいき)、午前、止。なお雨、断続」

小康状態になったので、柴田は甲板に出た。見ると海面は混濁している。
「これ、江河末の水なる故なり」

つまり、中国(当時は清国)・揚子江の河口だったのです。

「午前十一時、上海投錨」

部下のたちを保養のため上陸させ、日本円をドルに換え、
上海在住の米英露蘭の領事たちとの名刺交換と、
柴田の仕事は一気に増えます。

「大清国人と大清国の婦人」
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「錦絵 幕末明治の歴史2」より部分  一恵斎芳幾画

上海のホテルでは、
マトン、牛肉、卵焼き、ハムに加菲(コーヒー)をいただきました。

「食事代五人で〆て八ドル」と日記に記す。いかにも几帳面な柴田らしい。
ハムのお味はどうだったか、加菲はいかがだったか知りたいところですが、
柴田はそういった感想は何も書いてはいません。

もっとも2度目の海外なので、慣れていたのかもしれませんが、
荷物の中には餞別にもらった
「青梅の粕漬け」や「マナガツオの味噌漬け」をひそかに入れてあります。

日本を出てから初めて降り立った外国の地、上海ですが、
13年も続いた「太平天国の乱」が昨年終息したばかりで、町は荒廃。
その破壊の跡を柴田たちは目の当たりにします。

この革命、もとはと言えば、イギリスにあります。
清国(中国)にアヘンを売りボロ儲けしていたイギリスは、
アヘン患者が増えて困り果てた清国が拒絶したので戦争を仕掛けます。
これが有名な「アヘン戦争」です。

アヘン戦争で英艦の砲撃を受けて炎上する大清国の船。
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「現代中国の歴史1」より

柴田たちが寄港する3年前の文久二年(1962)、
幕府は高杉晋作などを清国(中国)の視察へと送り出しています。
その視察員の一人、日比野輝寛は清国の実情をこう述べています。

「それ洋夷(イギリスなどの欧米)がよだれを流し、万里の波濤を来る。
邪教アヘンをもってその民の耳目をふさぎ…略…
清国すでにその術中に陥り、邪教に化し、アヘンに溺(おぼ)る」

この清国の惨状を見て、攘夷派も開国派も植民地にされる恐怖を知り、
富国強兵の必要性を痛感したという。

さて、この戦争ですっかり疲弊した清国内に、
今度はキリスト教を取り入れた宗教結社が、
「太平天国を作ろう」というスローガンのもと、革命を起こします。
これが「太平天国の乱」です。

教主はこの人、広東人の洪秀全です。
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この「太平天国」は13年で終わりますが、それにしてもイギリスって国は…。

あくどいことやってましたねえ

ちなみにこの慶応元年には、アメリカ大統領リンカーンが暗殺されています。
また、スエズ運河はちょうど掘削中で、完成はこの4年後でした。

柴田たち一行は、
香港、シンガポール、マレーシア、セイロンと入港出港を繰り返し、
その都度、船を乗り換えます。

乗り合わせた異国人たちと交流し、プレゼントを交換。
船中ではインド人の楽人の音楽を聴き、チップもはずみます。
プレゼントしたのは、高価な「八丈縞の絹織物」やら「短刀」など。
今、外国のどこかの家に価値もわからず眠っているかもしれません。

船中の人たちに気を遣い、
やりたくもないダンスパーティー仮装演芸会にも付き合い、
「マナガツオの味噌漬け」の代わりに「ハム」を食べて、異国へ乗り出した柴田。
しかしそんな柴田をハムやダンス以上に苛立たせたものがありました。

それは薩摩藩が幕府に内緒で送り出した20名の留学生たちです。
彼らは変名を使い、清国へのアヘンに関与したジャーデン・マジソン商会や
武器商人・グラバーの手引きで密かに出国。
 
幕末の薩摩藩士たちです。
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「懐往事談」より
 
薩摩藩士らは柴田一行より1か月も早く欧州へ向けて出国したため、
柴田たちはその彼らを追う形でフランスへ向かうはめになった。

この倒幕の急先鋒の薩摩藩は、忠実な幕府官僚の柴田にとっては、
最も憎むべき相手です。
攘夷(外国人排斥)の彼らが起こした生麦事件(英人殺害事件)では、
薩摩藩に代わり幕府が賠償金十万ポンドを支払った。

柴田遣外使節の通詞・福地源一郎「懐往事談」にこう記しています。

「これで彼らは心中無事を喜びながらも、口角にはわざと泡を吹いて、
英国の軍威に恐れて償金を出したるは国辱なり。
神州の大恥辱なり。幕閣の罪は不問におくべからず」
と豪傑づらをした。

「当時この輩のために開国論者は攻撃威迫を受け、現に余がごとき
身分の卑しき若輩者でさえ、かの党に脅かされたるはしばしばであった」

その攘夷論者たちがいつの間にか開国論者に変わり、よりによって、
イギリス人の援助で密航とは。
変名の薩摩藩士ら「正体不明の同国人」の風聞を
港々で耳にするたびに、柴田のいらだちは募りました。

下の写真は、幕府派遣のオランダ留学生たちです。
人物は違いますが、上の写真とほぼ同時代です。
チョンマゲ、二本差しから断髪洋装に早変わりです。

「西洋経験者は先進性を賛美する反面、遅れた同胞や近隣諸国への
同情や共生を忘れて「ののしる」に終わる態度を示した」といわれています。
はっきり言えば「西洋かぶれ」「脱亜入欧」

ま、その気持ち、わからないでもありません。
でも月代のおでこにはまだ毛が生えず…。

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それだけではない。
フランス滞在中、薩摩グループは柴田グループの周辺に出没して、
柴田たちの行く先々に行動を広げていった。

薩摩人よ、ちょっといやらしいんじゃなかと?

コレラの大流行から部下たちを守り、持参した旅費を無駄遣いしないよう
金銭の出し入れに気を使う真面目な柴田を、
彼らは最後まで悩ませ続けます。

さらに、来たるパリ万博には幕府を無視して、
薩摩藩単独で出品するという情報まで柴田の耳に届いた。

「さまざまな西洋見聞」の著者、松沢弘陽氏はこう書いています。

「薩摩藩が幕府を差し置いて、パリ万博に単独出品するという情報は、
柴田には宣戦布告のように響いたことだろう」


<つづく>


※画像提供/「錦絵 幕末明治の歴史2」小西四郎 講談社 昭和52年
※参考文献/「西洋見聞集」岩波書店 1974
※参考文献・画像提供/「現代中国の歴史1」岩村三千夫 徳間書店 1966
              /「世界ノンフィクション全集」「懐往事談」福地源一郎
               筑摩書房 昭和36年復刻

神と人と石と

横浜港を出帆してから三日目の朝、遣欧使節団の柴田剛中は、
海上はるかに浮かぶ宿敵・薩摩藩の地を見た。

昼前には左に「薩領 竹島を見る」

この「竹島」は、
韓国との領有権問題でしばしばニュースになるあの「竹島」ではありません。
あの竹島は島根県沖の日本海に浮かぶ島です。

下の写真の左端が柴田が見た竹島です。真ん中が黒島、右端が硫黄島
すべて鹿児島県鹿児島郡三島村に所属します。

この写真は三島村のHPからお借りしました。
三島村3島

竹島はその名の通り、大名竹(リュウキュウチク)の産地だそうです。

この海上の道を、どれだけの人や文物が行き交ったことでしょう。
こうした小さな島から島へと伝播してきた文化や文明が、
やがて本州へと流れ込んで、今の「私」がある。

本州からの人や文物もまた、このルートを経て世界へと拡散していった。

そうしてみると、
って人や文化を隔てるものではなく、つなげるものなんですね。

素晴らしい三島村ですが、残念なことに、
ここでは現在までまだ力石が確認されていないんです。

三島村のみなさ~ん、もしありましたらご一報くださ~い!

こちらは三島村の島々からさらに南下した平島の力石です。
十島村・オーニワ2 (3)
鹿児島県鹿児島郡十島村平島・オーニワ(広場)  35×32×25㎝

盃状穴がみられます。
「子供たちはこの穴に木の実や巻貝を入れて割ったりした」
=「トカラ列島民俗誌」より  十島村教育委員会提供
 
せっかくですから、ここでちょっと柴田一行と別れて、
青く美しい海をさらに南下して、沖縄まで行ってしまいます。

「たまぐすく祭り」での
「比嘉ウチョー杯力石(チチイシ)自慢大会」です。

石は軽そうだけど、思いっきり楽しそう~♪♪

力石写真⑥ (4)
沖縄県南城市玉城船越  南条市教育委員会提供

チチ石(力石、差し石)は琉球石灰岩で造られています。
昔、チチ石は、各集落の村屋(公民館)の広場に置かれていました。
若者たちは農作業後に集まってこの石を担ぎ体を鍛え、
どんな苦しい仕事にも耐えてきた。

ある集落では四辻などに置いた。
四辻は悪魔が通る所だといい、ここで石を持ち上げて地面に叩き付けて
悪魔を追い払ったという。

各集落にあったこのチチ石も先の大戦でほとんど消失し、
現在残っているのはごくわずかである」
 =「玉城村の文化財概要」より

「大戦で消失」
沖縄では力石も、戦争の犠牲に…。

その沖縄本島からさらに海を越えた石垣島です。

ここでの石担ぎは「豊年祭り」の神事として行われています。
「豊年祭り」は石垣市の無形文化財に指定されています。

石垣島okinawa3

この神事では、細長い大きな石「ビッチュル石」を担ぎ、
「イヤー」という掛け声をあげながら、左まわりに境内をまわります。

「見物人からは、あわてるなよと心配する声や、もう一回とヤジも飛ぶ。
なかなか終わらない奉納につらそうな表情を見せる担ぎ手もいた」
 =「八重山毎日新聞」より

石垣島 
沖縄県石垣市川平 赤イロ目宮鳥御嶽  石垣市教育員会提供
61×27×20㎝  重量102斤(61.2㎏)

「四辻の悪魔退散」や「豊年を祈る神事」に力石が使われているー。

これは、力石が鍛錬の道具になるずっと以前の古い姿を、
今に伝えている、ということだと思います。

本州各地には個人が持ち上げて自分の吉凶を占った「重軽石」がありますが、
石垣島の「豊年祭り」では、
村全体の吉凶を占う重大な儀式に力石が使われていました。

かつて、目に見えない神と人とが相撲をとるという神事がありました。
神さまを「勝たせて」豊作を約束させるのです。
現在でも愛媛県大三島の大山祇神社で行われているようです。

「豊年祭り」で石を担いで境内を左回りに廻るという神事もまた、
「石を落さず廻りますから豊年を約束してください」という祈願だと思います。

また南条市の、石を地面に落として悪魔を退散させるという風習は、
神楽の足を踏み鳴らして悪霊を鎮める「反閇」に似ていますし、
辻や村境に立てる道祖神の要素にもつながると思います。

「石」というのはどんな形であれ、古来、
神と人とをつなぐ重要な存在だったんだと改めて思いました。

沖縄にいる私の孫クンです。
そら

まだ2歳なのに、もう泳いでいます。今時の親は大胆です。
今年、弟が生まれて張り切っています。

青い空と青い海。

この平和がずっと続きますように!



<つづく>

※参考文献・画像提供/「九州・沖縄の力石」高島愼助 岩田書院 2009
               「トカラ列島民俗誌」下野敏見 第一書房 1994

里帰りした「十二神将」

私も関わっている静岡市文化財資料館の企画展のお知らせです。

「十二神将は語る」

里帰りが実現し、久々の一般公開です。

img242 (2)

場所は静岡市葵区宮ケ崎町102 静岡浅間神社境内 
静岡市文化財資料館☎054-245-3500  月曜休館 入館料・大人200円
12月11日まで開催。

ただ今、静岡浅間神社は平成の大改修を行っています。
大歳御祖神社(おおとしみおや)は完了。
現在は少彦名神社(すくなひこな)に取り掛かっています。

この神社は江戸末期までは「神宮司(寺)薬師社」でしたが、
明治の神仏分離令により、名称を「少彦名神社」とし、
薬師如来像や十二神将は近くの臨済寺に移されました。

臨済寺は、
駿府(静岡市)などを二百数十年に渡り支配した今川氏の菩提寺です。
今川氏の人質時代の竹千代(徳川家康)が、
軍師・太原雪斎に学んだ部屋も残されています。

その少彦名神社の社殿修理現場を見学してきました。

あいにく雨でしたがヘルメットを被って、いざ、出陣
うしろの白くおおわれているところが修理現場です。

CIMG3466.jpg

明治維新を見聞きした人々の話をまとめた「戊辰物語」に、
こんな談話があります。

「そのころの太政官役人の威張りようはすごかった。
なにしろ薩長土肥の田舎武士が天下を取ったのだから、滑稽なほどであった。
坊主が役人にいじめられたのもこのころで、
神信心の公卿どもが上に立ったものだから、この際坊主を叩き潰せというわけで、
神仏分離なとということを始めた」(大倉喜八郎談)

「伊勢神宮への坊主の参拝はまかりならぬというので、
宿屋では坊主用のチョンマゲかつらが準備されていた。
鳥居の前には「坊主 不浄の輩 入るを許さず」
という制札が立っておった」(永平寺管長 北野元峰禅師談)

足場を踏みしめて内部へ。
CIMG3418.jpg

かなりハゲチョロケです。

CIMG3429.jpg

「百姓あがりの若党から明治の元勲になった伊藤博文公は、
幼名を利助といい、あとで利輔と変え、次に春輔、俊介と称した。
その後は越智斧太郎、林宇一、花山春輔、吉村庄蔵など
素晴らしい変名ぶりであった」

「公はよく夜更けまで芸者をはべらせて酒を飲んだ。
公の遊蕩に、大政治家が、と意見したが新橋、柳橋と暴れまわった」

「公は英語を話すというので英国公使が条約改正のことで
公と話し合ったが、めちゃめちゃしゃべりだすだけで英語が通じない。
彼の得意の英語というものは実は度胸英語であった」(金子堅太郎談)

階段を上って、屋根を見る。
CIMG3446.jpg

出来上がれば、もうこんな間近には見られない。

CIMG3428.jpg

本日の案内人は浅間神社神主の宇佐美氏。
資料館運営委員会でご一緒させていただいています。

「みなさん、頭をぶつけないよう気を付けてください。
これはみなさんを心配して言っているわけではないんです。
頭をぶつけて国宝の建物を壊されるのが心配なんです」

「わっはっは」
笑いが起り、参加者の緊張が一気にほぐれます。
この方のガイドは子供にも大人気です。

CIMG3436.jpg

あの廃仏毀釈の嵐の中、薬師さまや十二神将が無事だったのは、
山岡鉄舟や臨済寺の今川貞山師など多くの人が保護に動いたからです。

明治4年、新政府は岩倉具視を正使とした欧米使節団を送り出します。
岩倉公はサンフランシスコで束帯姿のチョンマゲに冠をかぶり、

「諸君! 日本の国旗は日の丸だ。
その日がちょうど半分だけ世界に顔を出したのが日本の現状だ。
これがやがて全部顔を出して世界を照らすのは近いうちだ。
と演説して拍手喝さいを浴びた」(金子堅太郎談)

こちらの彫刻はまだ色鮮やか。
CIMG3454.jpg

「夫の九代目団十郎と御ひいきにあずかる山内容堂様の別荘へ招かれた。
その帰り、容堂様より人力車を用意された。初めて見る珍しい乗り物です。
有難く乗ったものの乗り付けないものだから、私が目を回して大騒ぎになった」
(九代目未亡人談)

「明治は遠くなりにけり」?
いえいえ、見学を終えてますます近くなりました。

三代将軍・徳川家光奉納の狛犬です。伝・左甚五郎
文化財資料館の中に、巨大な家康像と共にあります。

CIMG3469.jpg

廃仏毀釈をまぬがれた十二神将
普段は臨済寺に安置されていますが、ここは雲水さん修行の寺なので、
年2回の一般公開の日以外は閉ざされていて、拝観はできません。

この里帰りの機会に、明るい照明にくっきり浮かび上がる
力強く、優美な姿をぜひ、ご覧ください。


   
    =お知らせ=
      本日の主役、少彦名神社にちなみ、ご紹介します。

少彦名さんという方が書かれている「音・風・水」というブログがあります。
  東京から長野へ移住し、一人で農業をされています。
  インドに造詣が深く、作曲も手がけています。きのこ図鑑は圧巻です。
  集落のジジ様ババ様との交流、インドの友人たちとの楽しいつながり、
  そんなお話と共に素敵な音楽が聞ける「音・風・水」、
  ちょっとのぞいてみてください。

  ここに貼り付けようとしましたが失敗。ですのでリンクからお願いします。


※参考文献/「世界ノンフィクション全集50」「戊辰物語」東京日日新聞社編
         昭和3年。復刻版 筑摩書房 昭和36年 

ワイド、ワイドー

鹿児島県・大隅半島から南の海上に目を転じてみると、
鉄砲伝来種子島があり、屋久杉で有名な屋久島があります。

前回載せた地図を参照してくださいね。

その屋久島をずっと南下すると、奄美大島があります。

奄美大島にも力石がたくさん残っています。
こちらもその一つ。
明治の初めごろから薩川青年団の若者たちが力比べに使った石です。

瀬戸内町
鹿児島県大島郡瀬戸内町薩川・公民館 町教育委員会提供 40×40×35㎝

15年前の町の広報紙「広報せとうち」に、こう書かれています。

「まだ各集落に青年が多くいたころは、
この石を持ち上げて力を競い合っていたとのことです。

力石は今もひっそりと土俵を見つめるように座っていますが、
その時代、時代の流れを静かに見守り続けている石の台座に、
苔が生え始めているのを見ると、
何とも言えない寂しさが込み上げてくるようです」

     
      力石人肌恋し居待月    松原利恵


奄美大島をさらに南下すると徳之島があります。
その徳之島の力石です。

徳之島町下久志・消防器具庫
大島郡徳之島町下久志・消防器具庫前    45×43×23㎝ 44×40×30㎝ 
町教育委員会・水野毅氏、町文化財保護審議委員・徳富重成氏提供

下久志集落の川上福良氏はこう話しています。

「力石は以前は集落中央にあるハンタという広場に置かれていた。
そのころはチョーダラ(正月芸能)の期間(7~16日)に青年たちが力試しをした。
石を担いで回るコースもあった。
このコースを回れるかどうかにを賭ける遊びもあった。

現在でも旧八月の十五夜祭りに、十五夜浜の土俵の上に、
この2個の力石を持ちだして力比べをしています」

こちらは十五夜祭りの時の力比べです。
持ち上げている人は川上福良氏。

   「うぎゃあああー!」

徳之島町・十五夜祭1
大島郡徳之島町下久志・十五夜浜

若者も挑戦します。

「あれ、軽くあがるかと思ったらな、なんだ、この石。ううーっ、重すぎる!
でも焦らない焦らない。腹引き締めて、息止めてッ。

ここはひとつ、徳之島名物・闘牛の牛の心意気でやるっきゃない!
   うりゃあー! ワイドー!

徳之島kagoshima3
同上

〽 ワイド、ワイドー
  吾(わ)きゃ牛、ワイドー


〽 今日(きゅう)の晴れ場所で、いさっさ気張ってんにょ

〽 ワイド、ワイドー、 吾(わ)きゃ牛、ワイドー


徳之島の闘牛、動画でみましたけど、すごい迫力でびっくり。
飼い主さんは闘志満々。勝てば歓喜の踊りで感情爆発。
それに比べて牛さんは、泰然自若

一度本物を見てみたい。


<つづく>


※参考文献・画像提供/「九州・沖縄の力石」高島愼助 岩田書院 2009
※参考文献/徳之島闘牛の折りに唄われる「ワイド節」より抜粋

西郷どんと大関霧島

前夜、船は強風にあおられて、
乗り合わせた外国人も日本人も食事どころではなかったが、
その風も翌朝にはすっかり収まった。

朝六時、柴田は海上はるかに薩州(鹿児島県)を見た。
湾外にはいろんな船が航行している。

「同所蒸気船と行きあう。何の船たるを弁ぜず」

出会うたびに船は国旗を掲げる。
柴田たちが乗っていたイギリス船も舳(へさき)へ英国旗を掲げた。

このあたりの地図です。
img210.jpg
「離島の四季」より

地図の上部に見える半島が、
九州・鹿児島県薩摩半島(左)と大隅半島(右)です。
その二つの半島の間の、湾の中ほどにポコンと突き出ているのが桜島
その桜島のさらに奥、湾の最奥部にあるのが霧島市です。

その霧島市にある力石をお見せします。
その名も「西郷どんの力石」


花は霧島 たば~こはァ~国分  
        燃えてあがるは オハラハー 桜島



というわけで、霧島市国分の力石です。
前回からすっかり民謡づいてしまいました。

「西郷どんの力石」です。
霧島市国分川内・町田宅1
霧島市国分川内・個人宅  42×33×43㎝  重量約80㎏

薩摩藩の西郷隆盛こと西郷どんが、
国分地方へ狩りにきたとき宿にしたのが、清涼寺の住職の家。
このご住職、身の丈六尺二寸(約188㎝)もある大男で、
西郷どんの狩りの案内人を務め、またよき話し相手だったそうです。

西郷どんが来ると村の若者たちが集まってきて、
相撲を取ったり、石を持ち上げて力比べをしたという。

そのときの石がそのご住職の子孫の家に、
今もこうして残されているというわけです。

薩摩西郷さんは 世界の偉人
      国のためなら オハラハー 死ぬというた

この西郷さん、江戸末期に駿府(静岡市)へもきたんですよ。
西郷はここで勝海舟の使いで江戸からやってきた山岡鉄舟と会い、
江戸城無血開城と徳川ケーキさんの今後を話し合ったのです。

柴田たちの船は今、この湾の入り口あたりを航行中です。

薩摩藩は柴田にとっては宿敵です。
日記に「丸に十の字」の船を見たとは書いていませんが、
薩州地を見ただけで心中ざわつき、「オハラハー」などと鼻歌がでるはずもなく、
平静を装うのに必死だったと思います。

もう一つ、霧島市ゆかりの力石をお見せします。
ここ出身の大関・霧島の力石です。

霧島市牧園町・伊邪那岐神社
霧島市牧園町下中津川後迫・伊邪那岐(いざなぎ)神社 77×43×24㎝

大相撲の霧島関は入門9年目で入幕を果たし、さらなる昇進を祈願して、
平成元年、この力石をふるさとのこの神社に奉納。
そして翌平成2年、念願かなって見事、大関になった。

平成3年には、31歳9か月で幕内初優勝。
これは当時の最年長記録だったそうですが、このスロー記録、
平成24年、旭天鵬の37歳8か月に破られました。

平成8年建立の碑文にはこう書かれています。

「平成八年春、霧島関は引退したが、
あの「鹿児島県姶良郡牧園町出身 井筒部屋大関霧島
の場内アナウンスを私たちは忘れない
当神社は、
ひたむきな努力の上の大願成就に心からの賛辞を贈るものである」

こういう何の変哲もない石が仰々しく台座に乗せられているのを見ると、
「なんだこりゃ」と笑いたくなるかもしれません。
私も力石を知らないころこれを見たら、「なんだこりゃ」になったと思います。

でもその魅力を知ってしまったら、これがハマるんです。

こちらは「大湊和七」の像です。

和七は広島県尾道市を代表する力持ちです。
和七の力石は現在、尾道市立美術館、尾道郷土館、沼名前神社、
吉備津神社、遠く福岡県の大宰府天満宮など
9ヵ所
15個残っています。

img813.jpg  
広島県尾道市長江・御袖天満宮   大湊和七は明治2年没

私、思うんですよね。
昔の人は「お金で買えないものがある」とよく言ったものですが、
現代人はなんでもお金に換算する。
お金にならないモノには価値がないと考えてしまいがちだ、と。

力石は有名無名を問わず「お金にならない」最たるモノです。
ですがどの石も「お金では買えない物語」をその内部に秘めています。
それは、
誰かが記録し保存していかなければ消える運命にある庶民の物語です。

ある過疎の村の某家で、しかる場所に力石を保存することになった。
その家では同じ集落の家に、
「お前のところの力石も一緒にどうか」と持ちかけたら、
「大学の先生(高島先生)がわざわざ調査に来るくらいだから、
よほど値打ちのあるものに違いない。
町に住む息子も手放すなというから」と断固拒否

しかし、その力石、
今は山の中の老夫婦だけが住む一軒家の片隅に、
誰にも見向きもされずに転がっています。



<つづく>


※参考文献・画像提供/「九州・沖縄の力石」高島愼助 岩田書院 2009
               /HP 「四日市大学健康科学研究室」「日本の力石」
                「石に挑んだ男達」
※画像提供/「日本発見 離島の四季」「薩南諸島」 暁教育図書 昭和55年

アラ、ヨイショ

伊豆半島の南端、下田を無事通過。
天気は晴れ、海上、波穏やか。

ところが夕方から濃霧が立ち込めて、
船がどっちへ進んでいるのかさっぱりわからなくなった。

船員に聞くと、
「紀州地大島岬あたりを過ぎた」という。

ここはァー串本 向かいは大島

大島というのは紀伊半島、和歌山県に所属する本州最南端の島です。

仲をとーりもォ~つ 巡航船
 アラヨイショ ヨーイーショ ヨイショヨーイショ ヨーイショ


今、大島と串本の仲をとりもっているのは平成11年にかけられた橋。
その橋をみなさん、「アラ、ヨイショ」と渡っているんですね。

隣りにあるのが「潮岬」。台風がくるたびに聞きました。
「しおのみさき、南南西、 風力○」というアナウンス。
 
柴田たちの航路から、ちょっとはずれますが、
こちらはその大島からぐるっと回った有田郡広川町にある力石、
「福石」(左)と「五島石」(右)です。
広川町の向かい側は、海をはさんで四国・徳島になります。

石広川町上中野・廣八幡神社5島
和歌山県有田郡広川町・廣八幡神社     60×36×24㎝(五島石) 

説明板にはこう書かれています。

五島石はわが広川町の姉妹町九州五島の奈良尾町より、
われらの先祖が出稼ぎした記念に持ち帰られたものと伝えられる」

はるばる長崎県の五島列島へ出稼ぎに行った広川の若者たちが、
力石を担いで出稼ぎの苦労を慰め合った。
そしていよいよふるさとへ帰るとき、
喜びや哀しみや思い出がいっぱいしみ込んだ石を故郷へ持ち帰った、

それがこの力石です。

高島教授は著書の中で、「たった一つの力石に想いを込めていた人々もいた」
と書いていますが、この「五島石」、ちょっと胸キュンの石であります。

もう一つ、「胸キュン」の石をご紹介します。
こちらも出稼ぎ先から遠く故郷を偲んで刻んだ力石です。
左端(赤い矢印)の石がそれです。

    「遠郷 成山万吉」

img206 (2)
大坂市住吉区遠里小野・極楽寺   63余×43×19㎝

    遠郷の文字刻みたる力石
             出稼ぎ人の想い潜めて    高島愼助


剛腕、柴田剛中もフランスでホームシックになったんですよ。

日中は視察やら政府高官との会談、商人との折衝、
それらに加え、若者たちへの指示や監督に明け暮れる毎日です。

心身疲れ果て、夜になるとホテルにこもって、
「娘の鍬子はどうしているだろうか、息子の太郎吉は留守を守っているか。
今日は十三夜だ。今ごろみんなで食卓を囲んでいるんだろうな」とメソメソ。
一人虚しく酒を飲みながら、趣味の漢詩を書き連ねては心を慰める。

同行の若者たちから「俺たちみたいにチッタァ、柔軟にならなくちゃ」
なんて陰口叩かれても、「武士たる者、隙を見せてはならぬ」と。

とまあ、ちょっとしんみり重くなったところで、楽しい絵馬をお見せします。

img206.jpg
大阪府岸和田市西ノ内町・兵主神社

「力競べ絵馬 明治十三年庚申年九月吉日 南座中(下松)

その岸和田市には、こんな力石もございます。
近年、このように設置されたようです。上に載っているのが力石です。

  「力石 安政未年」

img208.jpg
岸和田市上松町・地車庫横  48余×44×26cm

出港三日目。風雨。
朝になって雨は止んだものの、「風、いよいよ強し」で徹夜になった。

「船は激しく揺れて高い波が甲板にかぶさり流れていく。
食事などとてもとれる状態ではなく、
食卓につくものは半分ほどに減ってしまった」

わかるわかる。
波のエレベーターは急上昇の急降下ですもんね。
そのたびに胃袋が引っぱられて、ムカムカムカ。最悪です。


<つづく>


※参考文献・画像提供/「奈良・和歌山の力石」第2版 
               高島愼助 岩田書院 2003
               /「大阪の力石」第2版 高島愼助 岩田書院 2013 
  

船出

「幸次郎を追う」はずが「剛中を追う」になってしまいましたが、
もう少しのお付き合いを…。

江戸も終わりに近づいた慶応元年閏五月五日午前9時、
イギリス船に乗り込んだ柴田使節団の一行10人は、
「袂(たもと)を連ねて」横浜港を出港します。

「船はたちまち港口を矢のごとく走り出た」

このとき柴田は、
「この前の欧州行きは、未知の国への旅立ちで悲壮感を抱いていたが、
今回は普通の旅行と変わりない。これでようやく開国に至るんだなあ」
と感慨を覚えつつ、船で出された「パン」をいただきます。

正午ごろ、「城ケ島眉端(びたん・目の前)に見えた」

城ケ島
神奈川県三浦市・城ケ島 

ここ三浦市三崎の海南寺には、こんな方の力石もございます。
伊豆大島出身の大島伝吉です。

肖像画伝吉 (2)

伝吉さんのことは、カテゴリの「力石・力士の絵」に数回書いてありますので、
お読みいただけたら幸いです。

夜に入るころ、船は伊豆の下田あたりを通過。

その下田にあるのがこちらの力石です、=静岡県下田市下田・八幡神社 =

CIMG0160 (2)
83×38×38㎝ 68×46×27㎝ 77×42×40㎝

「三十八メ目 文化十二□□五月吉日 愛宕丸 清兵衛船」

「三□□」

「愛宕丸」「清兵衛船」と刻まれているところがいかにも港町らしい。

柴田一行の船が、
下田沖を通過した慶応元年から遡ること11年前の安政元年
その下田にやってきたのが、
プチャーチン率いるロシア軍艦「ディアナ号」です。

静岡県富士市の三四軒屋緑道公園に置かれたディアナ号の碇です。
大きいですねえ。この軍艦には550人ほど乗っていたそうです。

dhiana.jpg
富士市HPからお借りしました。

なぜロシア軍艦の碇がこんなところにあるかというと、
ディアナ号が下田に停泊中、安政の大地震が起きたからなんです。

このとき、ロシアとの交渉にあたっていた川路聖謨(としあきら)の日記を読むと、
あの東北地方を襲った大津波と全く同じ情景が書かれていました。

「大荒浪が田畑に押し寄せ、人家は崩れ、大船は帆柱を立てながら
飛ぶように田畑ドッと流された」

ロシア人の日記にも、
「津波は下田の町を全部おおいつくして、根底から洗い去った」

100人ほどが犠牲になり、無事だった家は875戸のうちたったの4軒

川路らや村人たちは「ひよどり越え」より険しい道なき山を
血だらけになって登って助かったが、さて降りようとしたら断崖絶壁。
「こんな屏風のようなところをどうして登れたか」と一同驚いたそうです。

このディアナ号も大破損。
修理のため現在の沼津市戸田へ曳航中、沈没してしまいます。
で、碇が富士市沖で引き揚げられたため、当地に残されたというわけです。

その三四軒屋にもあるんですよ、力石が…。
これです。

CIMG0864.jpg
富士市宮島三四軒屋・龍王神社  73×27×28㎝ 重量は106・2㎏

平成22年に氏子さんたちが保存しました。
余談ですが、
この三四軒屋(さんしけんや)って地名、私、気に入っているんです。
これ、三軒屋と四軒屋が合併してできた地名だとか。
三軒と四軒で三四軒、いいですね、このわかりやすさ。

思えばディアナ号やアメリカのペリー来航以来のこの11年間は、
大地震や井伊大老暗殺、桜田門外の変など世上は騒然続き。
その間に幕府は欧米に使節を3回も送り、そして今回の柴田使節団です。

日本のあるべき姿を求めて、敵も味方も命がけ。
そんな中での柴田たちの船出には、崩壊の兆しがほの見えてきた幕府の、
一か八かの勝負がかかっていました。

さて、伊豆東海岸の河津にはこんな人もいます。
大力持ちだった河津三郎です。

この三郎さん、石を持って踏んばりながら、
「柴田、俺もがんばるからお前もがんばってこいよ~!」
なあんて、声援を送ったと私は思いたい。

CIMG0083 (6)
静岡県賀茂郡河津町・河津八幡神社

翌日、晴れ。
「海路安穏」

まずまずの船出です。


<つづく>


※参考文献/「静岡の力石」高島愼助 雨宮清子 岩田書院 2011
        /「四日市大学論集」第27巻第1号「静岡県の力石2」
         高島愼助 雨宮清子
プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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