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ええじゃないか

柴田幸次郎を追う
10 /22 2016
池田長發(ながおき)を正使とした第2回遣欧使節団が、
「横浜港の鎖港」について話し合うため、フランスへ向けて出帆したころ、
国内でも同じ目的で動き出した人物がいた。

外国奉行になったばかりの柴田剛中(たけなか)です。

柴田の相手国は魯西亜(ヲロシア)。

遣欧使節の池田、河津、河田3名のヲロシア高官宛ての書簡と、
将軍家茂の親書を胸に、柴田は陸路で函館へ向かいます。


こちらは文化10年、函館沖に現れたヲロシア船と下士官。
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「北夷談」より

江戸を出てから約1か月後の元治元年(文久4年)2月、
函館へ入った柴田は、
ロシア総領事ゴシケーヴィチとの会談に臨みます。

会談の最大の目的は「横浜鎖港」問題。

「鎖港よりまずは浪士の取り締まりの強化」を主張する魯国側と、
「鎖港することで人心の鎮静化をはかりたい」とする柴田との話し合いは
平行線のまま終わってしまいます。

ほかに魯国側から「外国人殺傷事件」
長州藩が英・仏などを攻撃した「長州一件」の賠償問題。
「イギリス商人が領事になるのは好ましくない」などが出された。

一方柴田は、
「魯国が日本側から銀を借りて返さない引換銀」の問題を突きつけた。
ほかに「国境問題」「留学生の派遣」など、
実現へ向けての有意義な話し合いが行われたという。

この国境問題は今も尾をひいているんですね。なかなか難しい問題です。

このとき柴田40歳。
見事な交渉。今時の40歳とは、桁も格も違います。

この人は使節団の一員、山内六三郎(27歳)です。
img098 (2)
「維新前夜」より

着物の下にYシャツを着ています。
わかるなあ、この気持ち。若者はいつの時代も新し物好きだから。
なにしろ織田信長時代には、
「伴天連グッズ」が飛ぶように売れたそうですから。

この人はのちに八幡製鉄の初代社長になります。

こちら(左)は尺 振八。のちに自由民権運動の闘士になります。
右は矢野次郎兵衛。のちに一橋大学の初代学長に就任します。
着物の袖からYシャツの袖がのぞいています。

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「維新前夜」より

若者たちが花のパリを満喫していたころ、池田、河津、河田らは悪戦苦闘。
「横浜鎖港」交渉は成立不可に。
最初から成功の見込みなしと予期されていたそうですから、
貧乏くじを引かされたんですね。

本来の目的は果たせず、逆に下関砲撃の賠償で不利な条件を飲まされ、
下関の自由通航を突きつけられ、税の軽減も約束させられた。

負け続きの池田らは、他国の訪問を取りやめて早々に帰国。
幕府に対して、「国論の統一」「鎖国不可」「富国強兵」「列国との締盟」
「留学生の派遣」「諸外国との通信の交換」などの建白書を提出した。

しかし、幕府は「使命を達成できなかった」として、
池田は免職・隠居、河津は小普請入りの降格人事の上、逼塞
河田にはやはり小普請入りの降格人事の上、閉門というきつい処罰を科した。

やってらんないよ、まったく。と思ったかどうかは知りませんが、
今も昔も中間管理職は大変です。
一方、そのころの庶民はどうしていたかというと、

「ええじゃないか」で大騒ぎです。

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空から伊勢神宮のありがたいお札が降ってきた、というわけで、
卑猥な歌を織り込みながら、

「ええじゃないか、ええじゃないか、ヨイヨイヨイ」

と、東海道沿いの村々、いたるところで集団乱舞。

討幕派はこれを利用したのだという。

一体誰が仕掛けたものやら。

<つづく>

※参考文献・画像提供/「日本庶民生活史料集成・第四巻」「北夷談」
           松田傳十郎 三一書房 1972
           /「維新前夜・スフィンクスと34人のサムライ」
           鈴木明 小学館 1988             
※参考文献/「柴田剛中日記・日載」神戸市文書館蔵
     /「駿遠へ移住した徳川家臣団」前田匤一郎 私家本 平成3年
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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞