FC2ブログ

柴田、フランスへ行く

3回目の遣欧使節のリーダーとなった柴田剛中(たけなか)が、
幕臣たちや家来、親戚一同と別れの盃を交わしたのは、
慶応元年閏五月、雨模様の品川宿でのことだった。

前年、函館まで赴き、ロシア総領事との会談をこなした柴田。
休む間もなく、今度はフランス行きを命じられた。
任務は「横須賀製鉄所建設のための技術者と資材の調達」。

江戸湾に、自前の造船所を作るための旅です。

この日から約8か月間
フランスとの堅実な交渉に没頭します。

柴田は「日載」(日記)に、
この遣欧使節の出来事を「仏英行」として書き残していますが、
その几帳面さや真面目な性格、
幕府官僚としての責任感の強さが随所に見られます。

その日記の一部です。
img141 (2)
「西洋見聞集・仏英行」より  柴田なか氏蔵

この本には、当時の国内、国外の動きや人との交流、
外国の様子などが見たまま感じたまま克明に記されていますから、
まるでその場に居合わせたような気持ちになります。

こういう日記を読むと、
現代人が書いた幕末物やドラマが色あせて見えます。

そのころの横浜では、こんな光景が…。
「アメリカ人 だんご やく図」。パンを「だんご」と表現しています。

img200.jpg
「錦絵 幕末明治の歴史」より  五雲亭貞秀画  文久元年

当時の日本人は、は英語で「カメ」だと思っていたそうです。
異国人が犬を呼ぶとき「カム・オン」と言ったのが「カメ」と聞こえたからだとか。

次の写真は、時代がずっと下って明治末の「安倍川もち」の店です。
都会と違い、地方の庶民の暮らしはあまり変わってはおりません。

店の前の道が旧東海道、このすぐ先に安倍川が流れています。
東海道を下ってきた旅人たちが、川越し人足におんぶされて川を渡り、
ホッとひと息入れたのがこのもち屋。
雄大な富士山と甘い餅に、旅の疲れも吹っ飛んだことでしょう。

「安倍川もち」は現在でも、静岡みやげとして駅などで売られています。
また、このお店は今もこの場所にあります。

img193.jpg
「静岡史跡めぐり」より
 
「旧事諮問録」という本があります。
これは明治20年ごろ、東京帝国大学の「史学学会」が、
江戸幕府の役人だった人々にインタビューした記録集です。

商人などに変装して各地へ探索に行く「お庭番」「小姓頭」「評定所役人」、
江戸城「大奥にいた女性たち」
そういう徳川様に密着していた人たちの生の証言が対話形式で書かれていて、
実に興味深い内容になっています。

その中に、
目付として第2回遣欧使節に随行した河田煕(ひろむ)が出てきますが、
こんなことを言っているんです。
「水道橋のところにいた柴田定(貞)太郎=剛中=という外国奉行が出てきて、
フランスへ行き、軍艦買い入れ、そのほか私らが仕損じた跡を継いだ」

正使の池田、副使の河津、そして目付の河田たち3人は、
「横浜鎖港」の談判に出掛けたものの失敗に終わり、
その責任をとらされて、引退だの閉門だのと手ひどい処分を受けた。

この写真の女性は、
その「池田遣欧使節団」に同行した「おすみ」(17歳)といわれています。

img203 (2)

「維新前夜」の著者、鈴木明氏がおもしろいことを書いています。

「写真コレクターだった石黒敬七が、この「おすみ」は、
使節団たちの夜の務めをさせるために連れて行った女性だ、としていたが、
それは間違い。
実はこれ、男が女装したもの」

そう言われれば手もごついし、男と見えなくもない。
それに、当時の女性たちは写真撮影のとき、
袖の中に手を隠して、こんなふうにむき出しにはしなかった。

でも頭の月代に毛が生えているしなあ。
むき出しのごっつい手に指輪(赤丸)をはめているのは何なんでしょうね。

みなさんはどう思われますか?

さて、
河田が、「柴田は私らが仕損じた跡を継いだ」と、
負け犬っぽい言い方をしていますが、それはちょっと違います。

柴田の渡航目的は「造船所建設」のための技術者の調達と
資材の買い付けという具体的な用務で、
河田たちのそれは、難しい政治的交渉だっただけのこと。

むしろ池田使節団は帰国後、「国内政治の大改革」や「渡航の自由」、
「対外政策の思い切った転換」など、非常に鋭い建言をしています。

これは、明治元年の「静岡学問所」です。
建物の2階部分にごちゃごちゃ写っているのは、学問所の学生たちです。

img199.jpg
「静岡史跡めぐり」より

この学問所は、初めは幕臣の子弟のための学校として、
安政五年(1858)、現在の静岡市に発足。
3年後に「明新館」と改め、毎年、教授たちが江戸から派遣されてきた。

明治元年「静岡学問所」と改名。青年組と幼年組に編成された。
その幼年組には、
駿府(静岡市)へ移ってきた6歳の徳川亀之助(家達)も加わります。

学問所の学頭は漢学者の向山黄村と洋学者の津田真一郎
教授に「西国立志編」「自由之理」の翻訳者、中村正直(敬宇)、
アメリカからクラークを迎えるなど、一流の教授陣を揃えました。

「私らが仕損じた」といささか自虐的な発言をした河田煕もまた、
新しい時代の学問所の職員として静岡へやってきます。

しかし、
ここで人生の新たな一歩を踏み出したのもつかの間、
静岡学問所は、そのわずか4年後、廃藩置県で消滅してしまいます。

その後河田は、東京へ帰る徳川宗家の家達(亀之助)と共に上京。
徳川家の女子教育係を務め、
明治33年(1900)、65歳で激動の生涯を閉じました。


<つづく>


※参考文献・画像提供/「錦絵 幕末明治の歴史2 横浜開港」小西四郎
               講談社 昭和52年
              /「静岡史跡めぐり」安本博 静岡県地方史研究会
               吉見書店 昭和50年
              /「西洋見聞集」「仏英行」柴田剛中 
               校註者 沼田次郎 松沢弘陽 岩波書店 1974
※参考文献/「旧事諮問録」江戸幕府役人の証言 底本 市原謙吉
         岩波書店 1986
スポンサーサイト



一体、どこから?

埼玉在住の研究者、斎藤氏が見つけた力石。

「東男の大石持 國技を偲ぶ 江戸趣味力遊び 
 昭和二十□年 秀太郎書」

すごい新発見だと興奮していましたが、
ふと、この石はどこから来たんだろう、
喬太郎とは誰なんだろうかと思い始めました。

そこで墨田区役所へ問い合わせました。
役所では他県の見ず知らずの私にもきちんとお返事をくださった。
それが嬉しい。
ですが、その内容にはがっかり。

「その力石については文化財関係者でも道路公園課でも把握しておらず、
調査を行っていないのでわからない

斎藤氏はこの力石を発見したその足で、
「すみだ郷土文化資料館」を訪れたそうですが、資料館職員も全くわからず、
墨田区の石造物資料や地誌などを調べても何も出てこなかったそうです。

1斎藤桜もち (2)
東京都墨田区向島                           撮影/斎藤氏

これ、「石庭の隅田川」というのがどうやら正式名称のようです。

隅田川の石でその隅田川の流れを表現した庭だそうで、
この川沿いに4ヵ所あるとのことです。

斎藤氏から追加で送っていただいた写真「石庭」の一部。
自転車(赤い矢印)の左前方に、「東男」の力石が置いてあるそうです。

1斎藤石庭

車道に向けて撮るとこんな感じだそうです。
みなさん、探してみてくださいね!

2斎藤石庭

でも、不思議ですよね。

これだけきれいな、これだけはっきり刻字のある石なのに、
元はどこにあったのか、「喬太郎」はどこの誰なのか、
書家なのか、それともこの石を持った力持ちなのか、まるでわからない。

近年、誰かがどこからか持ってきたはずなんですけどね。

斎藤氏のさらなる調査に期待したい。

たまにこの「石庭」のことがネットに出ていても、
石に文字が刻んであることに気づいた人は、斎藤氏以外誰もいません。

img295 (3)

だから、墨田区役所さんには、
力石を持ち上げる男たちの心意気をお持ちいただき、
人に踏まれて文字が磨滅しない配慮と、
これが「力石」であることをアピールするなはからいを、

切に願っています。


   =追伸=
 
 四日市大学の高島愼助教授からメールをいただきました。
 
 「秀太郎については、書とあるので字を書いた人でしょう。
 かつて「東京の力石」を出版した際、「平塚弁?」「玉山厚」を調べました。
 その際、某氏から教示されました。過去には有名な書家でなくても、
 上手な字を書く人はたくさんいたということでした」
  

668個目の新発見

「力石、新発見! 今までにない異色の力石です!」

埼玉の研究者、斎藤氏から興奮したメールです。
斎藤氏はこれまで667個もの力石を発見している方です。
今年だけで(10月現在)、今回の新発見を含め24個も見つけているんです。

あんまり矢継ぎ早に見つけるので、こちらは数がわからなくなって、
しばしば、「今、何個目でしたっけ?」と問い合わせるので、
そのつど、斎藤氏を失望させています。

なにしろ、斎藤氏の新発見の力石は、
今回の石も含めて668個という大量ですから。

しかも、過去、数多の研究者が見逃してきた立派な刻字石ばかり。
その眼力、手腕、フットワークのよさは天才的。群を抜いています。(ヨイショ)

今回、新たな発見を知らされた私、思わずヒエーッ!
この新発見の記録、一体、どこまで伸ばすつもりなんだろうと思いつつ、
送られてきた写真を見て絶句。
だって、異色も異色。こんなの今まで見たことない。

これです。
1斎藤桜もち
東京都墨田区向島

どこにあったかといいますと、
隅田川河畔の土手、昔は「墨堤」(ぼくてい)といっていましたが、
その遊歩道沿いの有名な「桜もち」の店の前、首都高速の下の
「隅田川石庭」の一隅にありました。

近くに長命寺があります。

ちなみに江戸時代、ここは桜の名所として有名でしたが、
なぜ、川の土手に桜を植えるのか、
先日、古文書を読んでいて知りました。

を植えると人々が花見に来る。大勢の人が堤(つつみ)を歩くことで、
堤の土が踏み固められて強固になるから、とありました。

花を見に人が集まる、手間をかけずに堤は固まる、店は商売繁盛。
うまいことを考えたものです。

力石を、
遊歩道沿いの「隅田川」石庭」に埋めてあったことも異色ですが、
なんといってもそこに刻まれた文字、
これこそ異色の刻字、胸を打つ言葉です。

2斎藤桜もち
89×34×6余㎝

※「6余㎝」は地上に出ている高さです。
 地下に埋まっている部分は計測不可能なため。

4斎藤桜もち

 「東男の大石持 國技を偲ぶ 江戸趣味力遊び
                昭和二十□年 喬太郎書」


斎藤氏は「二十□年」を「二十九年」ではないかと推測しています。

同じ二十九年の力石は、江東区牡丹・住吉神社の「東光石」、
千代田区神田須田町・柳森神社の「勇老」「力石建立」の3個が
確認されている。「たぶん、同時代のものだろう」と斎藤氏。

私は3年前、ここを通ったんです。
桜もちを食べようか迷い、
でもまだ見るところがたくさん残っているし、というわけでお餅を断念。
次の長命寺へ入り込み、三囲神社へと急ぎました。

ああ、残念! 
あのとき私は、スカイツリーなんぞに心を奪われておりました。
なんせ、おのぼりさんだもんで…。

CIMG0945 (2)

それにしても「東男の…」なんて、粋ですねえ。

もう一人、石に「東男」を彫付けた力持ちがいます。
力石をバーベルに持ち替えて優勝した神田川徳蔵です。
こういう、歌を彫付けた石を「歌石」といいます。

img184.jpg
東京都千代田区神田須田町 柳森神社  70余×52×27㎝

 「東男の力を飾る祭りかな 
   
大正十四年九月二日 神田川徳蔵 持之」 

実際の歌の文字は図の通りです。

みなさん、「墨堤」の「長命寺桜もち」店あたりへ行かれたら、
「隅田川石庭」に埋め込まれたこの「東男」(あずまおとこ)に、

ぜひ、会ってあげてくださいね!


=追伸=

斎藤氏からこんな写真が届きました。「桜もち」店前の掲示板です。
正岡子規斎藤

明治35年に34歳の若さで亡くなった俳人・正岡子規は、
21歳のころ、この桜もち屋に下宿していたそうです。

どうやらもち屋の娘さんにをしたみたい。

桜もちや隅田川を詠んだ句や歌もたくさんありますが、
私はこの句が一番好き。

25歳の子規が菅笠をかぶり、杖一本に命をあずけて箱根峠を越えた時の句。

  旅の旅そのまた旅の秋の風


人生に迷いを生じてこの峠越えを思い立ったそうですから、
ひょっとして、失恋しちゃったのかな?

でもまあ、私の旅はいつもこんな感じですけどね。

  旅の旅そのまた旅でリフレッシュ



※情報・写真提供/斎藤氏
※参考文献・作図提供/「東京の力石」高島愼助 岩田書院 2003

ええじゃないか

池田長發(ながおき)を正使とした第2回遣欧使節団が、
「横浜港の鎖港」について話し合うため、フランスへ向けて出帆したころ、
国内でも同じ目的で動き出した人物がいた。

外国奉行になったばかりの柴田剛中(たけなか)です。

柴田の相手国は魯西亜(ヲロシア)。

遣欧使節の池田、河津、河田3名のヲロシア高官宛ての書簡と、
将軍家茂の親書を胸に、柴田は陸路で函館へ向かいます。

こちらは文化10年、函館沖に現れたヲロシア船と下士官。
img175.jpg img174.jpg
「北夷談」より

江戸を出てから約1か月後の元治元年(文久4年)2月、
函館へ入った柴田は、ロシア総領事ゴシケーヴィチとの会談に臨みます。

会談の最大の目的は「横浜鎖港」問題。

「鎖港よりまずは浪士の取り締まりの強化」を主張する魯国側と、
「鎖港することで人心の鎮静化をはかりたい」とする柴田との話し合いは
平行線のまま終わってしまいます。

ほかに魯国側から「外国人殺傷事件」
長州藩が英・仏などを攻撃した「長州一件」の賠償問題。
「イギリス商人が領事になるのは好ましくない」などが出された。

一方柴田は、
「魯国が日本側から銀を借りて返さない引換銀」の問題を突きつけた。
ほかに「国境問題」「留学生の派遣」など、
実現へ向けての有意義な話し合いが行われたという。

この国境問題は今も尾をひいているんですね。なかなか難しい問題です。

このとき柴田40歳
見事な交渉。今時の40歳とは、桁も格も違います。

この人は使節団の一員、山内六三郎(27歳)です。
img098 (2)
「維新前夜」より

着物の下にYシャツを着ています。
わかるなあ、この気持ち。若者はいつの時代も新し物好きだから。
なにしろ織田信長時代には「伴天連グッズ」が飛ぶように売れたそうですから。

この人はのちに八幡製鉄の初代社長になります。

こちら(左)は尺 振八。のちに自由民権運動の闘士になります。
右は矢野次郎兵衛。のちに一橋大学の初代学長に就任します。
着物の袖からYシャツの袖がのぞいています。

img100.jpg img100 (2)
「維新前夜」より

若者たちが花のパリを満喫していたころ、池田、河津、河田らは悪戦苦闘。
「横浜鎖港」交渉は成立不可に。
最初から成功の見込みなしと予期されていたそうですから、
貧乏くじを引かされたんですね。

本来の目的は果たせず、逆に下関砲撃の賠償で不利な条件を飲まされ、
下関の自由通航を突きつけられ、税の軽減も約束させられた。

負け続きの池田らは、他国の訪問を取りやめて早々に帰国。
幕府に対して、「国論の統一」「鎖国不可」「富国強兵」「列国との締盟」
「留学生の派遣」「諸外国との通信の交換」などの建白書を提出した。

しかし、幕府は「使命を達成できなかった」として、
池田は免職・隠居、河津は小普請入りの降格人事の上、逼塞
河田にはやはり小普請入りの降格人事の上、閉門というきつい処罰を科した。

やってらんないよ、まったく。と思ったかどうかは知りませんが、
今も昔も中間管理職は大変です。
一方、そのころの庶民はどうしていたかというと、

「ええじゃないか」で大騒ぎです。

img176.jpg

空から伊勢神宮のありがたいお札が降ってきた、というわけで、
卑猥な歌を織り込みながら、

「ええじゃないか、ええじゃないか、ヨイヨイヨイ」

と、東海道沿いの村々、いたるところで集団乱舞。

討幕派はこれを利用したのだという。

一体誰が仕掛けたものやら。


<つづく>


※参考文献・画像提供/「日本庶民生活史料集成・第四巻」「北夷談」
               松田傳十郎 三一書房 1972
               /「維新前夜・スフィンクスと34人のサムライ」
                鈴木明 小学館 1988             
※参考文献/「柴田剛中日記・日載」神戸市文書館蔵
        /「駿遠へ移住した徳川家臣団」前田匤一郎 私家本 平成3年

13歳の少女へ

祭りの写真コンテストで優秀賞に選ばれた作品が受賞を取り消された。
理由は被写体になった女の子の自殺。

ところが昨日、ご遺族が写真と名前を公表された。
私はこの勇気と強い信念に賛同します。ご両親の大きな愛情を覚えます。

「いじめ」

私もやられました。
まあ、からかいやすい性格なんでしょうね。
母からは常々、「もっと毅然とできないのか」と言われっぱなしで…。

一番強烈だったのは、50代初めごろのいじめでした。
これって年齢、男女、学歴、職歴に全く関係なく起るものなんですね。

新興住宅地で周囲の主婦たちから執拗ないやがらせを受けました。
一つ一つはささいないやがらせです。

道にたむろしていて、そこを通ると一斉に沈黙。通り過ぎると一斉に見る。
夜間タクシーで帰宅すると、隣家のドアが細く開く。
翌日、「夕べ男と会ってきたみたいよ」とのうわさが周りに広がっていた。
郵便受けの郵便物は路上へばらまかれる。
玄関には溶けた飴。ドアノブにはご飯粒。庭には犬の糞が投げ込まれた。
外の水道をいたずらされて、いつもの2倍の料金を払うはめに。

書いたらきりがない。彼女らは一日中、暇を持て余していたから。

しまいには夫たちも加担するようになった。
夫たちは夜間の敷地への侵入やのぞき。見つかるとニヤニヤ。
みんな立派な肩書の人ばかりです。

ある日、突然耳がふさがって聞こえなくなった。
突発性難聴の発症でした。
耳鼻科へ通って2週間目、医者が意外なことを言った。
「今、あなたに処方されている薬は何かわかっていますか?
精神安定剤ですよ」

医者は何か悩みがあるのかと聞いてきた。耳鼻科の先生がです。
そのときの私の様子がよほど異様だったのでしょう。

医者の忠告は「すぐそこから引っ越しなさい」だった。

そういえば真冬なのにベッドで汗まみれになって目が覚める。
それも一晩に2度も3度も。悪夢にうなされて跳び起きる。
自覚のないまま私は、心身ともに蝕まれていたんですね。
私は医者の忠告に従って持ち家を捨てました。

でもこの歳で、なぜ自分がいじめられるのかわからなかった。
で、そこの住宅地で親しくしていた知人に聞いてみたら、
こんな言葉が返ってきた。

「あなたには悪い所なんて一つもない。
ただあなたは私たち主婦ができないことばかりしているでしょ。
記者やったり本出したりテレビに出たり。息子さんたちはいい学校へ入るし。
私たちがどんなにがんばっても所詮、医者や大学教授や役人の妻でしかない。

だからみんなずっと悔しい思いをしていたのよ。
そしたらあなたは離婚して一人になった。いじめやすくなったんでね。
他人の不幸は蜜の味っていうでしょ」

心底恐ろしかったですね。
親しいと思っていた人がそんなことを思いつつ、私と付き合っていたなんて。
心の闇を見た瞬間でした。

そういえば、「離婚したら自由に不倫ができるからいいね」と
嫌味ともなんとも言い難いことを言いに来た主婦もいた。
こちらは食い扶持を稼ぐために必死で働いているというのに。
そのとき思いました。
扶養されるということは、こういう心の貧困を生むのか、と。

でも一つだけはっきりわかったことがあった。
それは「いじめられる人はいじめる側から羨望されている」ということでした。
今まで、
自分に落ち度があるのではないかとそればかり考えていましたから。

13歳で自ら命を絶った少女は、輝くような笑顔の美しい少女ですね。
きっと周囲からの嫉妬を一身に浴びせられていたのでしょう。
私のように「生活の背景」を変えるチャンスが見いだせなかったことが
悔やまれますが、でも、13歳の少女には苛酷な選択です。

仕事でお会いしたある写真家がこんなことを言っていました。
「出る杭は打たれるから、ぼくは出過ぎた杭になるよう努力しています。
だって出過ぎた杭は高すぎて、誰も打つことができないでしょう?」

受賞の写真は、この美しい少女の生きた証しであり、
いじめの残酷さを訴える無言の強さを秘めています。

賞を取り消し、隠蔽するのは、かえって少女への冒涜のように思えます。
だって少女はカメラマンに向かって、こんなに素敵な笑顔をみせたのですから。
今にして思えば、
少女の人生最後で最高の命の輝きだったのではないでしょうか。
この永遠の輝きを安易に消さないで欲しい。

いじめる側や、いじめなどに遭ったことがない人から見ると、
いじめは「稚拙でささいな」行為に見えますが、その本質は悪質です。

複数の平凡な人間が、自分たちより少しだけ秀でた、
あるいは自分たちとは異質の一人をターゲットにして、
「持続して害を与える」異様な犯罪です。

少女の心が弱かったわけではありません。
ましてやいじめの原因が少女にあったわけでは決してありません。

私は元の家にほど近いところに今、住んでいます。
勇気を奮って引っ越しの挨拶に行った私に、教授夫人が投げつけた。
「どちらへお引っ越しですの? 
団地? ああ、ああ、低所得者層が住むところですわね」

おかげさまで快適です。庭から覗き見する人もいないし。
団地のかあちゃんたちは、みんな忙しく働いていますから。

おもしろいことは、かつてのいじめっ子ならぬ主婦たちが、
オズオズと「お元気でしたか」と声をかけてくることです。
夫たちは気まり悪げに目をふせてお辞儀をします。

私は黙ってお辞儀を返します。


密航

イギリス公使オールコックの手引きで、
ヨーロッパ6か国へ出かけた第1回遣欧使節団

目的の「開港・開市延期交渉」を成し遂げて帰国したとき、
9か月前に自分たちを送り出した安藤信正は失脚し、
安藤体制が瓦解していたことはすでにお伝えしました。

新たに実権を握ったのはケーキさんこと一橋慶喜松平慶永でしたが、
しかし、新体制になっても国の乱れは収まりません。

あっ、危ない! ケーキさん。頭上から敵の襲撃が…」

とは、埼玉在住の研究者、斎藤氏の路上観察物件に、
私が勝手につけたセリフです。
ケーキさん、恐怖のあまり頭から冷や汗ならぬ白い湯気が…。

2斎藤路上観察

吹き荒れる攘夷派を抑える手立てはもはや「横浜鎖港」しかない。
そう考えた幕府はヨーロッパへ2回目の使節団を送り出します。

以前にもご紹介した池田長發(ながおき)を正使とし、
副使に河津祐邦(すけくに)、目付として河田煕(ひろむ)を人選。
今度はフランス公使ロッシュの手引きで、
文久三年(1863)12月、フランスへ。

それと入れ違いのように、
イギリスへ密航していた長州藩の井上聞多=馨=が帰国します。
井上聞多(馨)はのちに明治新政府の外相などを務めた人です。

これは井上馨が明治29年に、
現在の静岡市清水区に建てた5万坪の別荘「長者荘」です。

img171.jpg
「興津地区年表」より

赤丸は明治43年に建立された井上馨の銅像
観音様もどきの巨大な銅像を作るなんて、なに考えてんだか。

興津(おきつ)は気候温暖、風光明媚なため、
多くの政治家や実業家たちが競ってこの興津に別荘を建てました。
その中心的存在だったのが最後の元老と言われた西園寺公望です。

西園寺の別荘「坐漁荘」(ざぎょそう)には、
東京から政治家たちが続々とやってきます。
天皇を補佐、首相候補者の推薦など、国政の最高機関的存在だったため、
その力を頼っての来訪です。「興津詣で」といわれ、昭和初期まで続きました。

若かりし頃の西園寺公望です。
CIMG1902 (2)
静岡市清水区興津清見寺町 「坐漁荘」

さて、第2回遣欧使節一行とすれ違うように帰国した井上聞多
密航前はガチガチの尊王攘夷の過激派で、「イギリス憎し」とばかりに、
文久2年(1862)、27歳の時、高杉晋作を隊長とする一団に加わり、
品川御殿山に建設中のイギリス公使館を焼打ちします。

井上の役目は「火付け役」だったといいますから、
本来なら、八百屋お七と同じ「火あぶりの刑」です。
「放火犯がのちに政治家になる」、幕末ならではですね。

しかしそのあとすぐ、同じ火付け役だった伊藤俊輔
のちの総理大臣・伊藤博文ら総勢5人でイギリスへ密航
そこで欧州の政治、文化、軍事などを目の当たりにして、
開国派へと転向します。
正確には開国・討幕派です。

こちらは、西園寺公望の棺が坐漁荘を出発するところ。
西園寺はここで昭和15年、91歳で亡くなりました。

img172.jpg
「興津町誌」より

この西園寺の死去を境に、
興津は別荘地としての精彩を急速になくしていきます。

一方、井上馨は西園寺に先立つこと25年前の大正4年(1915)、
「長者荘」にて79歳の波乱の生涯を閉じました。

5メートルもの銅像は第二次大戦のとき、軍へ供出。
しかし没後60年を経て、
地元の人たちの手で新たに清見潟公園の片隅に座像が建立されました。

5万坪もの「長者荘」はどうなったかというと、
昭和20年の米軍による空襲で灰じんに帰し、現在はその跡地に、
静岡市埋蔵文化財センターが建っております。

その近くの清見神社力石があります。
これです。
CIMG0162 (4)

もう何度かお目に掛けたので、見覚えがあるかと思います。
井上侯も力くらべをご覧になっていたとしたら、ちょっとルンルン。

この町で見つけた珍しいものをお見せします。

古刹・清見寺の先に耀海寺という日蓮宗のお寺があります。
そこの手水鉢です。

「京都 大坂 定飛脚宰領中」とあります。

CIMG1929 (2)
静岡市清水区興津本町


<つづく>

※参考文献・画像提供/「興津地区年表」興津地区連合自治会、
                興津公民館 昭和56年
               /「興津町誌」興津町 昭和36年

「サアルトヲワタ」

幕末の遣外使節団にはまり込んでしまい、
大王石の柴田幸次郎はすっかり影が薄くなってしまいましたが、
でもまあ、
庶民のこんな目線で幕末動乱をちょいと覗くのも面白いから、
寄り道まわり道も「許してね」というのが、私の気持ちです。

これは文政五年(1822)、房総沖に現れた異国船の船長と乗組員です。
img162.jpg
「甲子夜話」より

異国船が現れたと浦賀へ注進があって、役人も住民たちも騒然となります。
早速、役人が通弁(通訳)を連れて船に乗り込み、
「お前たちはどこから来たか」と聞くと、
ヱウローパ、インギリスから来た」
と諳厄利亜(アンゲリア)語=英語=で言った。

井上ひさしの小説「おれたちと大砲」に、幕末英語というのが出てきます。
たとえば、「チンクレ チンクレ トンクレスタ」
なんだこれ、と思ったら、
「キラキラ星」の「トィンクル トィンクル リトゥルスター」のことだった。

井上ひさしの造語だろうとは思いますが、
アメリカへ行った玉虫左太夫は、ピアノをビヤアーン、キャベツをカエーツペ
と「航米日録」に書いていたから似たようなものですね。
でも耳で覚えた英語の方が、案外、通じたんじゃないでしょうか。

その「インギリス人」がこう言ったんです。
「自分たちはクジラを獲るためにやってきた」
「でも何か月も船上で塩肉ばかり食っていたのでみんな足腐れになった」
野菜燃料をくれ」

そのほかに「土もくれ」という。
不審に思いつつも要求通り、山の土を入れた四斗樽をあげたら、
病気の船員を樽に入れて腰まで土に埋めた。

インギリス人が言うには、
「何か月も野菜を食べず土も踏まずにいると壊血病になる。
そういう病人を土に埋めておくと全快する」と。

そういえば、
侠客・清水次郎長と子分たちがフグの毒にあたった時、
庭に穴を掘ってみんなで首まで埋まって助かったという話がありました。
この「土治療」、案外、効果があるのかも。
超高層マンションは健康によくないという説もあるし。

「横浜交易西洋人荷物運送之図」部分
img165.jpg
「錦絵 幕末明治の歴史②」より

アンゲリア語しか話せないインギリス人を相手に、
オランダ語と手振り身振りでがんばった通詞二人。
こんなことも語っています。

「彼らは一口飲むと目鼻にしみるほど強烈な酒を飲み、タバコは食う
大根の葉や茎は生で食い、白根は一口食っては吐きだして手足に塗る」

極めつけはトイレの始末。
「紙の代わりに打ち藁(わら)の如きもので肛門をぬぐい、
その藁は捨てず、股引きのボタンをはずして入れて置き、
再び用いてあとは洗って日に干して、何度も使用する」

よく観察しております。

「人物いずれも野卑で粗猛」というあまりいい印象ではなかったけれど、
食料や薪などはすべて無料で与え、
初めに押収しておいた武器や火薬は、出帆の時、すべて返したそうです。

日本人というのはつくづく親切な人種ですねえ。

日本の通詞は彼らの話すアンゲリア語をこんなふうに書き留めています。

水は「ヲワタ」、飲み水は「ソライミヲワタ」
湖水のことは「サアルトヲワタ」

「ヲワタ」はウオーターのことだよな。でも「ソライミ」って何だろう。
「サアルトヲワタ」ってのは、「さわると終わった」? 

う~む…。


<つづく>

※参考文献・画像提供/「甲子夜話2」松浦静山 文政5年
               校訂 中村幸彦、中野三敏 平凡社 1987
              /「錦絵 幕末明治の歴史2」横浜開港
               小西四郎 講談社 昭和52年

現代の力持ち

本日は現代の力持ちをご紹介します。

このブログにもご登場いただいている岐阜在住の大江誉志さんです。
極真空手の有段者。
現在はNPO法人日本ロシアンケトルベル協会
インストラクターとして活動しています。

私、大江さんのファンなんです。



石川県小松市 菟橋神社「西瓜祭り」の盤持ち大会。  提供/大江誉志氏
北陸などでは力石のことを盤持石といいます

庶民はお気楽?

海千山千の外国勢を相手に、
なんとか「開港・開市」を5年先へ延ばすことに成功した遣欧使節団。
しかし帰国してみると、この9か月の間に時勢は再び一変

自分たちを見送った老中・安藤信正久世広周(ひろちか)は失脚し、
一橋慶喜(よしのぶ)と松平慶永(よしなが)の新体制になっていた。

なんとも目まぐるしい。

将軍後見人となった徳川慶喜さん、この方は幕府崩壊後、
あの新門辰五郎を護衛係にして、静岡市へやってきます。
30年ほどこの地で過ごしましたから、今でも静岡市民から、
「ケーキさん」と親しみを込めて呼ばれています。

でも以前、私は会津の人から、
「ケーキは会津を置き去りにして逃げた卑怯者」と言われてしまいました。
確かに、大阪城から逃げました。そのケーキ公に成り代わって謝ったら、
「でも長州よりはいい。今でも長州人には宿を貸さない人がいるくらいです」と。

下の絵は「金ちゃんとケーキさん」を描いた風刺画の一部です。

左の矢印の「金」と書いた着物の男の子がのちの明治天皇
右の矢印の男が「ケーキさん」。「金ちゃん」を抱いているのが長州です。
ちなみに「金」とは将棋の金将を現わしているそうです。

img022 (2)
「絵解き 幕末諷刺画と天皇」より

長州に抱かれた金ちゃんが、
「早くあそこ(江戸城)へ連れていっておくれよ」と言い、
ケーキさんはというと、もう戦意も消え失せてふて寝しています。

この風刺画の登場人物には、
着物などにどこの藩かどういう人物かなどの符号が描かれています。

その符号一覧表が売り出されていて、
江戸庶民はそれと錦絵とを照らし合わせて、
これはどこの藩だとか誰それだなんて当てながら楽しんだそうです。

武士たちが攘夷だ開国だと命がけの闘争をしているというのに、
庶民というのはいつも「他人事」で…。
と、思いましたが、
いや、そうではない。むしろ非常に関心を持って政治の動きを追っていた。
不敬にならぬよう諷刺という形に細工してシャレのめして…。

こういう知的ゲームを立案製作した人も、その謎解きを楽しむ人々も、
洗練されていて、江戸庶民のレベルの高さを感じました。

さて、この安藤信正は、
桜田門外で暗殺された井伊直弼の開国路線を継承した人ですが、
遣欧使節団が日本を離れて間もなく、
その上司と同じように刺客に襲われ重傷を負ってしまいます。

世にいう「坂下門外の変」です。

でもですね、こんなご時世でも両国広小路浅草奥山などでは、
見世物興行をやってたっていうんですから、オヨヨ~です。
大碇兼吉の力持ちだとか、あやつり人形だとか。
「干物の人魚とカッパの見世物」なんてのも。

異人さんにしても、攘夷なんて「関係ねー」とばかりに華々しくやっています。

左は、「アメリカ人一座の曲馬」。元治元年、横浜。芳員画。
右は「象の見世物」。文久3年、両国広小路。一龍齋芳豊画。
曲馬団 img164.jpg
神奈川県立歴史博物館蔵       「錦絵 幕末明治の歴史」より

老中・安藤がなぜ襲われたかというと、
公武合体政策というのがありまして…。
これは井伊大老が推し進めていた政策で、
(朝廷)と(幕府)が合体することで幕藩体制の強化を図ろうとした思想です。
安藤はこれをも継承します。

そこで、将軍・家茂の正室として皇女和宮を江戸城へ迎え入れます。
そのことが尊王攘夷派の人たちの反発を招き、
ついに水戸藩浪士ら6人に襲撃されてしまったのです。

幕府の権威失墜を招いたということで、安藤は蟄居させられますが、
なんだか気の毒ですね。一生懸命やったのに大ケガした上にお役御免とは。

この時期、攘夷を藩論と決めた長州藩(山口県)が暴れまくります。
なんと、下関で英、仏、蘭の船をドカンドカン砲撃。
薩摩藩も神奈川県でイギリス人を殺傷する生麦事件を起こします。

外国勢はもちろん黙ってはいません。
英、仏が下関を報復。鹿児島では薩摩藩とイギリスとの戦争が勃発します。
とうとう長州藩は京都から追放され、あげくに新撰組に襲われますが、
逆に京都御所を襲って、会津・薩摩と合戦に及びます。

もう、ひっちゃかめっちゃか。

庶民同士はこんなに仲が良いのに。

義太夫を語る金髪男と日本人。それにしても日本人の顔、不細工すぎ。
img163 (3)
「幕末・明治の絵双六」より

こちらは「首引き」という力比べをする異国人と日本人。
img163 (2)
同上

英国公使館は攘夷派の暴徒に2度も焼打ちされ、
生麦事件やら長州藩からの砲撃やらで、英国との関係は急速に悪化。
これらのことから、遣欧使節の仲介の労をとったオールコックは、
幕府崩壊を予感して距離を置き始めます。

そのイギリスに替わり、
日本の主導権をとろうと近づいてきたのがフランスです。

先の遣欧使節は、吹き荒れる攘夷運動の鎮静化のために、
「開港・開市の延期」に出掛けて行ったはずでしたが、
鎮静化するどころか、事態はますます悪化の一途。

実は文久の遣欧使節が開港・開市の延期協定を結んできたのは、
どこの港と市場かというと、新潟・兵庫の港と江戸・大坂の市場。
一番重要な横浜は双方とも避けたのです。

政治も石担ぎもバランスが大事! アラ、ヨット!
百貫目の石を持ち上げる「洋人の力持ち」
img334 (3)
同上

そこで幕府は今度こそ、
横浜を鎖港し、貿易は函館と長崎に限定する」ことに踏み切りますが、
諸外国との交渉は難航。
横浜を閉鎖して、長崎や函館という遠隔地のみでの貿易なんて、
賛成するわけがありません。

そのとき助け舟を出したのがフランスです。
「フランス皇帝に直談判したらどうかね」と勧めます。

こうして元治元年(1864)の第2回遣欧使節団33人は、
フランス軍艦「ル・モンジュ」で横浜を出港したのでありました。


<つづく>


※参考文献・画像提供/「絵解き 幕末諷刺画と天皇」
               名倉哲三編著 柏書房 2007
※画像提供/「錦絵 幕末・明治の歴史2 横浜開港」小西四郎
         講談社 昭和52年
        /「幕末・明治の絵双六」「内地雑居ポンチ寿語録」
         長谷川常治郎版 明治32年 
         東京学芸大学附属図書館双六コレクション。
         加藤康子・松村倫子編著  国書刊行会 2002

国際社会へ

のちに外国奉行となった柴田剛中(たけなか)という人は、
10歳で父親を失い、以降、頭領として一族を率いる立場になります。

そういう境遇もあってか、この人の日記を読むと、
責任感の強さや謹厳実直さがヒシヒシと伝わってきます。
剛中研究者の君塚 進も、
「昌平黌(しょうへいこう)に学び成績優秀、両度賞賜を受けている」と、
努力家で真面目な剛中の人柄に触れています。

昌平黌というのは幕府直轄の学問所のことです。
明治4年に閉鎖されますが、その流れをくむのが高等師範学校で、
これが東京教育大学、さらに筑波大学へとつながっていきます。

この昌平黌に対して開成所という学問所がありましたが、
こちらは洋学・西洋医学を学ぶ教育機関で、東京大学につながっていきます。

さて、第一回目の遣外使節団をアメリカへ送った幕府は、
その2年後、今度はヨーロッパへ使節を派遣します。
これが竹内保徳を正使とした文久二年(1982)の遣欧使節です。

この主な目的は、「開港・開市延期交渉」です。
これに柴田剛中は組頭として加わります。

img153.jpg
「御開港横浜之全図」 作者不詳 安政6年

なにしろ井伊大老暗殺で国内はますます混乱。
外国勢力を排除する「攘夷論」が激しさを増し、
外国人殺傷事件もひんぱんに起きている。

下の絵は、遊女・喜遊です。
15歳の時アメリカ人に見初められたが、これを拒んで自殺。

喜遊・辞世の歌

    露をだにいとふ倭の女郎花
           降るあめりかに袖はぬらさじ


遊女とて、大和の女。アメリカさんに汚されてなるものか。

img134.jpg
芳年画  明治11年

そこで幕府はこう考えました。

長い鎖国状態にあった国だったのに急激な条約締結をしてしまったため、
人々は混乱し、うまく折り合いをつけられないでいる。
だからいったん港を閉鎖して外国人の受け入れを中止することで、
国内の鎮静化を図りたい、と。

使節団の訪問先は、
イギリス、フランス、オランダ、プロシャ、ロシア、ポルトガルの六か国

目的の「開港・開市の延期交渉」は、無事成立したものの、
相手は「他人の領土も自分のもの」という知恵も力もある先進的異国人です。
代わりにいろいろ要求されて、
「相当高い利子を払うはめに」なった。

しかし、そういう外国勢にしても一致団結していたわけではありません。
それぞれの国が日本の利権を狙ってそれぞれの思惑で動いています。

アメリカのハリスが最初にツバをつけたニッポンという国。
そのアメリカに取って代わろうとしたのがイギリスで、
今度の使節団のシナリオはすべて英公使のオールコックが書いた。

イギリスはさらにロシアをもけん制します。

ちなみに、オールコックの次に英公使になったのがパークスで、
そのパークスの随行員として来日したのが、医師のウィリスです。
この人は薩摩藩のお雇い教師になったとき、薩摩藩士の娘・八重と結ばれます。

袖を濡らす人、濡らさない人。当時はどちらも勇気がいりました。

八重(左)。右は八重とウィリスとの間に生まれたアルベルト
9歳の時父と共に帰国。その後20数年を経て母子は東京で再会したという。

img152 (2) img152.jpg

日本より狭い国土のイギリスは、軍事力を持って七つの海を制覇。
中国に阿片戦争を仕掛けたり、その野望は留まるところを知りません。
だから使節団の日本人の誰もがこの渡航中、
「西洋列強の植民地主義が日本に迫ってくる」危機感を持った。

「西洋見聞集」の解説者、松沢弘陽は、通詞として同行した福沢諭吉が、
その危機に対してどのような解決策を持ったかをこう記しています。

福沢諭吉は、ヨーロッパの弱小国ポルトガルが、
なぜ大国の権力政治の渦中にあって独立を全うしえているのかに着目し、
それは「世界普通の道理」が支配しているからではないかと考えた。

世界普通の道理とは、国家の平等と国際法の支配。
福沢は、弱肉強食の権力政治と、ヨーロッパの公法に従がうという
平等・友好の両面の対立をはらんだ国際社会の構造や、
世論の批判が政府の対外政策の誤りを修正する役割をしている
という現実を実感」

それらを踏まえて、今後の日本の行くべき道を福沢はこう主張した。

「国民統一と富国強兵という実力の裏付けを築きつつ、
「世界普通の道理」を信頼して開国に踏み切るべき」

福沢諭吉、このとき27歳。柴田剛中39歳

この若さが日本を変えていった。



<つづく>


※画像提供/「明治幕末の歴史②」小西四郎 講談社 昭和52年
        /「朝日新聞100年の歴史に見る④外国人の軌跡」
         朝日新聞社編 1979
※参考文献/「西洋見聞集」日本思想大系 沼田次郎、松沢弘陽校註
         岩波書店 1974
プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

フリーエリア
お願い
このブログに掲載されている 写真・記事等には著作権があります。 無断使用はご遠慮ください。
カレンダー
09 | 2016/10 | 11
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -
最新記事
最新コメント
訪問者数
ブログランキング
ブログランキング
ランキングに参加しています
カテゴリ
月別アーカイブ
最新トラックバック
リンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
QRコード
QR