柴田、フランスへ行く
柴田幸次郎を追う
3回目の遣欧使節のリーダーとなった柴田剛中(たけなか)が、
幕臣たちや家来、親戚一同と別れの盃を交わしたのは、
慶応元年閏五月、雨模様の品川宿でのことだった。
前年、函館まで赴き、ロシア総領事との会談をこなした柴田。
休む間もなく、今度はフランス行きを命じられた。
任務は「横須賀製鉄所建設のための技術者と資材の調達」。
江戸湾に、自前の造船所を作るための旅です。
この日から約8か月間、
フランスとの堅実な交渉に没頭します。
柴田は「日載」(日記)に、
この遣欧使節の出来事を「仏英行」として書き残していますが、
その几帳面さや真面目な性格、
幕府官僚としての責任感の強さが随所に見られます。
その日記の一部です。

「西洋見聞集・仏英行」より 柴田なか氏蔵
この本には、当時の国内、国外の動きや人との交流、
外国の様子などが見たまま感じたまま克明に記されていますから、
まるでその場に居合わせたような気持ちになります。
こういう日記を読むと、
現代人が書いた幕末物やドラマが色あせて見えます。
そのころの横浜では、こんな光景が…。
「アメリカ人 だんご やく図」。パンを「だんご」と表現しています。

「錦絵 幕末明治の歴史」より 五雲亭貞秀画 文久元年
当時の日本人は、犬は英語で「カメ」だと思っていたそうです。
異国人が犬を呼ぶとき「カム・オン」と言ったのが「カメ」と聞こえたからだとか。
次の写真は、時代がずっと下って明治末の「安倍川もち」の店です。
都会と違い、地方の庶民の暮らしはあまり変わってはおりません。
店の前の道が旧東海道、
このすぐ先に安倍川が流れています。
東海道を下ってきた旅人たちが、川越し人足におんぶされて川を渡り、
ホッとひと息入れたのがこのもち屋。
雄大な富士山と甘い餅に、旅の疲れも吹っ飛んだことでしょう。
「安倍川もち」は現在でも、静岡みやげとして駅などで売られています。
また、このお店は今もこの場所にあります。

「静岡史跡めぐり」より
「旧事諮問録」という本があります。
これは明治20年ごろ、東京帝国大学の「史学学会」が、
江戸幕府の役人だった人々にインタビューした記録集です。
商人などに変装して各地へ探索に行く「お庭番」や、
「小姓頭」「評定所役人」、
江戸城「大奥にいた女性たち」、
そういう徳川様に密着していた人たちの生の証言が対話形式で書かれていて、
実に興味深い内容になっています。
その中に、
目付として第2回遣欧使節に随行した河田煕(ひろむ)が出てきますが、
こんなことを言っているんです。
「水道橋のところにいた柴田定(貞)太郎=剛中=という外国奉行が出てきて、
フランスへ行き、軍艦買い入れ、そのほか私らが仕損じた跡を継いだ」
正使の池田、副使の河津、そして目付の河田たち3人は、
「横浜鎖港」の談判に出掛けたものの失敗に終わり、
その責任をとらされて、引退だの閉門だのと手ひどい処分を受けた。
この写真の女性は、
その「池田遣欧使節団」に同行した「おすみ」(17歳)といわれています。

「維新前夜」の著者、鈴木明氏がおもしろいことを書いています。
「写真コレクターだった石黒敬七が、この「おすみ」は、
使節団たちの夜の務めをさせるために連れて行った女性だ、としていたが、
それは間違い。
実はこれ、男が女装したもの」
そう言われれば手もごついし、男と見えなくもない。
それに、当時の女性たちは写真撮影のとき、
袖の中に手を隠して、こんなふうにむき出しにはしなかった。
でも頭の月代に毛が生えているしなあ。
むき出しのごっつい手に指輪(赤丸)をはめているのは何なんでしょうね。
みなさんはどう思われますか?
さて、
河田が、「柴田は私らが仕損じた跡を継いだ」と、
負け犬っぽい言い方をしていますが、それはちょっと違います。
柴田の渡航目的は「造船所建設」のための技術者の調達と
資材の買い付けという具体的な用務で、
河田たちのそれは、難しい政治的交渉だっただけのこと。
むしろ池田使節団は帰国後、「国内政治の大改革」や「渡航の自由」、
「対外政策の思い切った転換」など、非常に鋭い建言をしています。
これは、明治元年の「静岡学問所」です。
建物の2階部分にごちゃごちゃ写っているのは、学問所の学生たちです。

「静岡史跡めぐり」より
この学問所は、初めは幕臣の子弟のための学校として、
安政五年(1858)、現在の静岡市に発足。
3年後に「明新館」と改め、毎年、教授たちが江戸から派遣されてきた。
明治元年「静岡学問所」と改名。青年組と幼年組に編成された。
その幼年組には、
駿府(静岡市)へ移ってきた6歳の徳川亀之助(家達)も加わります。
学問所の学頭は漢学者の向山黄村と洋学者の津田真一郎。
教授に「西国立志編」「自由之理」の翻訳者、中村正直(敬宇)、
アメリカからクラークを迎えるなど、一流の教授陣を揃えました。
「私らが仕損じた」といささか自虐的な発言をした河田煕もまた、
新しい時代の学問所の職員として静岡へやってきます。
しかし、
ここで人生の新たな一歩を踏み出したのもつかの間、
静岡学問所は、そのわずか4年後、廃藩置県で消滅してしまいます。
その後河田は、東京へ帰る徳川宗家の家達(亀之助)と共に上京。
徳川家の女子教育係を務め、
明治33年(1900)、65歳で激動の生涯を閉じました。
<つづく>
※参考文献・画像提供/「錦絵 幕末明治の歴史2 横浜開港」小西四郎
講談社 昭和52年
/「静岡史跡めぐり」安本博 静岡県地方史研究会
吉見書店 昭和50年
/「西洋見聞集」「仏英行」柴田剛中
校註者 沼田次郎 松沢弘陽 岩波書店 1974
※参考文献/「旧事諮問録」江戸幕府役人の証言 底本 市原謙吉
岩波書店 1986
幕臣たちや家来、親戚一同と別れの盃を交わしたのは、
慶応元年閏五月、雨模様の品川宿でのことだった。
前年、函館まで赴き、ロシア総領事との会談をこなした柴田。
休む間もなく、今度はフランス行きを命じられた。
任務は「横須賀製鉄所建設のための技術者と資材の調達」。
江戸湾に、自前の造船所を作るための旅です。
この日から約8か月間、
フランスとの堅実な交渉に没頭します。
柴田は「日載」(日記)に、
この遣欧使節の出来事を「仏英行」として書き残していますが、
その几帳面さや真面目な性格、
幕府官僚としての責任感の強さが随所に見られます。
その日記の一部です。

「西洋見聞集・仏英行」より 柴田なか氏蔵
この本には、当時の国内、国外の動きや人との交流、
外国の様子などが見たまま感じたまま克明に記されていますから、
まるでその場に居合わせたような気持ちになります。
こういう日記を読むと、
現代人が書いた幕末物やドラマが色あせて見えます。
そのころの横浜では、こんな光景が…。
「アメリカ人 だんご やく図」。パンを「だんご」と表現しています。

「錦絵 幕末明治の歴史」より 五雲亭貞秀画 文久元年
当時の日本人は、犬は英語で「カメ」だと思っていたそうです。
異国人が犬を呼ぶとき「カム・オン」と言ったのが「カメ」と聞こえたからだとか。
次の写真は、時代がずっと下って明治末の「安倍川もち」の店です。
都会と違い、地方の庶民の暮らしはあまり変わってはおりません。
店の前の道が旧東海道、
このすぐ先に安倍川が流れています。
東海道を下ってきた旅人たちが、川越し人足におんぶされて川を渡り、
ホッとひと息入れたのがこのもち屋。
雄大な富士山と甘い餅に、旅の疲れも吹っ飛んだことでしょう。
「安倍川もち」は現在でも、静岡みやげとして駅などで売られています。
また、このお店は今もこの場所にあります。

「静岡史跡めぐり」より
「旧事諮問録」という本があります。
これは明治20年ごろ、東京帝国大学の「史学学会」が、
江戸幕府の役人だった人々にインタビューした記録集です。
商人などに変装して各地へ探索に行く「お庭番」や、
「小姓頭」「評定所役人」、
江戸城「大奥にいた女性たち」、
そういう徳川様に密着していた人たちの生の証言が対話形式で書かれていて、
実に興味深い内容になっています。
その中に、
目付として第2回遣欧使節に随行した河田煕(ひろむ)が出てきますが、
こんなことを言っているんです。
「水道橋のところにいた柴田定(貞)太郎=剛中=という外国奉行が出てきて、
フランスへ行き、軍艦買い入れ、そのほか私らが仕損じた跡を継いだ」
正使の池田、副使の河津、そして目付の河田たち3人は、
「横浜鎖港」の談判に出掛けたものの失敗に終わり、
その責任をとらされて、引退だの閉門だのと手ひどい処分を受けた。
この写真の女性は、
その「池田遣欧使節団」に同行した「おすみ」(17歳)といわれています。

「維新前夜」の著者、鈴木明氏がおもしろいことを書いています。
「写真コレクターだった石黒敬七が、この「おすみ」は、
使節団たちの夜の務めをさせるために連れて行った女性だ、としていたが、
それは間違い。
実はこれ、男が女装したもの」
そう言われれば手もごついし、男と見えなくもない。
それに、当時の女性たちは写真撮影のとき、
袖の中に手を隠して、こんなふうにむき出しにはしなかった。
でも頭の月代に毛が生えているしなあ。
むき出しのごっつい手に指輪(赤丸)をはめているのは何なんでしょうね。
みなさんはどう思われますか?
さて、
河田が、「柴田は私らが仕損じた跡を継いだ」と、
負け犬っぽい言い方をしていますが、それはちょっと違います。
柴田の渡航目的は「造船所建設」のための技術者の調達と
資材の買い付けという具体的な用務で、
河田たちのそれは、難しい政治的交渉だっただけのこと。
むしろ池田使節団は帰国後、「国内政治の大改革」や「渡航の自由」、
「対外政策の思い切った転換」など、非常に鋭い建言をしています。
これは、明治元年の「静岡学問所」です。
建物の2階部分にごちゃごちゃ写っているのは、学問所の学生たちです。

「静岡史跡めぐり」より
この学問所は、初めは幕臣の子弟のための学校として、
安政五年(1858)、現在の静岡市に発足。
3年後に「明新館」と改め、毎年、教授たちが江戸から派遣されてきた。
明治元年「静岡学問所」と改名。青年組と幼年組に編成された。
その幼年組には、
駿府(静岡市)へ移ってきた6歳の徳川亀之助(家達)も加わります。
学問所の学頭は漢学者の向山黄村と洋学者の津田真一郎。
教授に「西国立志編」「自由之理」の翻訳者、中村正直(敬宇)、
アメリカからクラークを迎えるなど、一流の教授陣を揃えました。
「私らが仕損じた」といささか自虐的な発言をした河田煕もまた、
新しい時代の学問所の職員として静岡へやってきます。
しかし、
ここで人生の新たな一歩を踏み出したのもつかの間、
静岡学問所は、そのわずか4年後、廃藩置県で消滅してしまいます。
その後河田は、東京へ帰る徳川宗家の家達(亀之助)と共に上京。
徳川家の女子教育係を務め、
明治33年(1900)、65歳で激動の生涯を閉じました。
<つづく>
※参考文献・画像提供/「錦絵 幕末明治の歴史2 横浜開港」小西四郎
講談社 昭和52年
/「静岡史跡めぐり」安本博 静岡県地方史研究会
吉見書店 昭和50年
/「西洋見聞集」「仏英行」柴田剛中
校註者 沼田次郎 松沢弘陽 岩波書店 1974
※参考文献/「旧事諮問録」江戸幕府役人の証言 底本 市原謙吉
岩波書店 1986
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