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父に伝えたい

第二回遣欧使節団が、横浜鎖港交渉のため、
フランスの軍艦で横浜港を出港したのは、文久三年(1863)十二月のこと。

正使は若干26歳の池田長發(ながおき)、副使は河津祐邦(すけくに)42歳、
そして、28歳の河田煕(ひろむ)が目付として乗り込みました。

左から河津祐邦、池田長發、河田煕
img099.jpg
「維新前夜」より

「河津祐邦」と聞くと、私は途端に過剰反応を起こします。
感謝の過剰反応です。

私の父の生家は田舎の小さな神社の神主でした。
民俗学の大家・柳田国男の本を読んでいたとき、
父の家のことが出ているのに気がついた。が、そこにはこんな記述があった。

「ここは虎という歩き巫女が定着した小祠に過ぎないのに、
曽我兄弟の祠として角田浩々歌客の父の角田虎雄が撰文を書いて、
ついに本物の祠にしてしまった。古くたどればずいぶん疑わしい」

「歩き巫女」とは放浪の女宗教者のことです。

確かに、偽物と言われる「赦免状」の存在からも怪しさ充分だし、
貧乏神が住み着いたような神社だから、
たびたび江戸へ出てご開帳をしなければやっていかれなかった。

写真は出開帳の折りの箱書きです。
左は明和2年(1765)、深川八幡神社での出開帳の時のもの。
img351.jpg  img352.jpg

柳田国男のこの一文は、父には内緒にしていた。

以前、父は知人から「お宅のことがでている」と言われて、
郷土史家のその本を買った。でもそこに書かれていたのは、
「ここの神主は河津家から借りた宝物を盗んで行方をくらました」
「この神社のことはいつか暴いてやる」という過激なものだった。

「お父さんの家はドロボーをするような家じゃない」と悔しそうに言う父を見て、
その方に根拠を尋ねた手紙を出したけれど、とうとう返事は来なかった。
その後の著作にも「暴いた」記述はどこにもなかった。

その父が亡くなってから30年もたった一昨年、
私は大宮町(静岡県富士宮市)の町役人だった
「角田桜岳日記」を読んでびっくりした。

角田桜岳(佐野与市)は、地球儀を作ったり、
富士の開墾や用水事業に尽力してその名を歴史に残した人です。
その人の日記に、父の家河津祐邦が出てきたのです。

弘化四年(1847)、家督を継ぐ3年前のまだ若殿だったとき、
「祐邦は参拝のため、佐野与市と共に父の家へやってきた」と書かれていた。
その7年後には函館奉行になり、
遣欧使節使としてフランスへ行ったのは、それから16年後のことだった。

「桜岳日記」の中で、祐邦はこう言っていた。

「昔、先祖が浪人していたとき、
この家で一年ほど居候させてもらったと聞いている」と。
それはまさに「神主が盗んで逃げた」と郷土史家が言っていた年だった。

※祐邦は曽我兄弟に討たれた工藤祐経の子孫です。
  曽我兄弟のお父さんの像と力石は、伊豆の河津神社にあります。

かつて父の一族が守っていた神社の土俵
CIMG0840.jpg

私は引き寄せられるように、時々ここへ出掛けます。

今は公園になっている父の生家への最初の記憶は、
両親と兄とで訪れた4、5歳のころ。

鮮明に覚えているのは、
石段を上ると、家名を染めた半天姿の老人が中腰で出迎えてくれたこと。
玄関で、着物に軍艦と旭日旗を描いた日本人形を見たこと。
なんとも奇妙な思いにかられたものだった。

出迎えた伯母の「清子さん、ごきげんよう」
どこか冷たい視線と凛とした声。

その伯母のピアノ部屋を通り、
襖一面に漢詩を書きつけた部屋を抜けるとまた一つ、広い座敷があって、
そこにはすでに銘々膳が並んでいた。

出がけに母が呪文のように繰り返した言葉。
箸先は1センチ以上は汚してはいけないよ」
「音を立てない。ご飯は残さない。握り箸、迷い箸はダメ」

入口に端座していた伯母が部屋を出たすきに、
私の食べ残しを兄がサッと食べてくれたので、なんとか助かった。
「躾けがおよろしい」といわれたら、それは皮肉で、
「躾けができていない」意味だからと、母は極度に怯えていた。

伯父は東京市といった時代に私立小学校の校長をしていて、
東京で初めて臨海学校を実施した人だと他の伯母から聞いていた。

その伯父が書いた「弟とは認めない。面倒もみない」という
激しい憎悪の手紙が今も私の手元に残されている。
この弟とは私の父のこと。

身分の低い3番目の妻の子で、祖父の最晩年に生まれた父。
差別されるつらさに子供時代に家出。
村人総出で探したら、山の農機具小屋に隠れていたという。
それでも自分の「家」に対しては、父なりに誇りを持っていた。

今ここで痕跡といえるものはこれぐらいしかない。
CIMG0841.jpg

古宮と言われたところに大きな奥津城(墓所)があって、
小学生の頃、父と二人で墓参りにでかけたことがあった。

途中で会った農家のおばあさんがしげしげと私の顔を見てこんなことを言った。
「あんたも昔ならおひいさまなのにねえ。気の毒に。
でも私らにとっちゃ、いい時代になったもんだよ」

江戸時代も明治維新も知らないはずのおばあさんから出た恨み節
父の家の門前に子を捨てざるを得なかった先祖の貧しさが言わせたものか。
黙ってその場を後にした父の背中を今も思い出す。

晩年、故郷へ帰ってきた伯父は、電車に乗って、
「弟とは認めない」といっていた父の家へよくやってきた。
母が作った綿入れ半天を羽織ると四畳半の堀炬燵にどっかり座り、
膝に猫を乗せて終日、ニコニコとそこで過ごしていた。

小さな石を載せた「捨て子の墓」が並んでいたあの墓所も、
大勢いた一族も今は跡形もなく消え失せてしまったけれど、
叶うならば父に伝えたい

「お父さん、疑いは晴れたよ」

「角田桜岳日記」と、
その中で語ってくれていた「河津祐邦」の言葉は、
この先、消えることはない、と。

「河津祐邦」に私が過剰反応するのは、こんな理由からなのです。
そしてもう一つ
はるか昔、私の結婚式に父は花嫁の父として謝辞を用意してきたのに、
その機会を用意しなかった。その懺悔の気持ちもあって…。
「お父さんは毎晩、練習していたのに」と後から聞かされて後悔したけれど、
私は謝罪も感謝も言い出せないままの親不孝な娘で居続けた。

片田舎のしがない一族のお話は、これでおしまい

そうそう、角田桜岳は江戸へ出たときは、
小型の「江戸切絵図」を携帯して歩いたそうです。


<つづく>


※参考文献/「駿州富士郡大宮町 角田桜岳日記(一)~(五)」
         富士宮市教育委員会 2004~2009
※画像提供/「維新前夜」鈴木明 小学館 1988
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プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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