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大物登場

ブログに寄せられたコメントから浮かび上がってきた人物。

大物です。

ゆえに「勝ちゃんが尻出して…」などと気楽に語れません。
なんだか緊張して、なかなか筆が進みませんが、
とにかくやってみるか、というわけで突き進みます。

「力持ちの柴田勝次郎とその一派につながるかもしれない人物」、
それは、

「柴田日向守剛中(たけなか)

通称 貞太郎、字 伯直、号 恬斎(てんさい)
文政六年(1823)、江戸小石川生まれ。
家は三河以来の直参。

「江戸切絵図」にでている「柴田貞太郎(剛中)」の住所地
img126.jpg

剛中が生まれた文政六年は、
柴田勝次郎が盛んに活動していた時期にあたります。

勝次郎が力持ち界の東の大関、土橋久太郎一座に加わり、
大坂・難波新地へ興行に出掛けたのが文政八年ですから、
このとき、柴田剛中はまだ二歳です。

その剛中の名を歴史に留めることになったのが、
慶応元年(1865)の「仏英行」

実は柴田はこの3年前の文久二年(1862)にも、
遣欧使節団の一員としてヨーロッパへ出かけています。
この使節団の目的は「開市延期交渉」

つまり市場開放を延期してもらえないかと、
はるばる「碧眼紅毛」の国々へ出かけて行ったわけです。

このとき、組頭として随行した柴田は、
老中・安藤対馬守と英公使オールコックとの折衝に列席します。

英語が話せたみたいですね。

この折り、オランダで撮影された写真です。
中剛
右端が柴田、その隣から順に福沢諭吉太田源太郎福田作太郎

翌文久3年(1863)、幕府は再び、遣欧使節をヨーロッパへ派遣します。
一度開港した横浜港の閉鎖を談判するためです。

このときの使節団で有名になった写真がこちら。
河津祐邦 (2)
エジプト・スフィンクスにて

一行34人。
日本刀を差したちょんまげ姿の侍が来たのですから、
スフィンクスもびっくり、でしょうね。

赤い矢印のところには侍が滑り落ちた瞬間が写っています。

柴田剛中はこのときの使節団には加わってはいませんが、
遣欧使節の話、もう少し続けます。



<つづく>
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プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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