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無礼な国

通詞(通訳)、福地源一郎から、
「良吏としての才もなく、その器でもない」とこき下ろされたのは、
遣米使節団の正使・新見正興と副使・村垣範正

同行した儒者の玉虫左太夫も航海日記「航米日録」でこう記す。

官費旅行の船中で、終日、ただ飲食を務め…」

まあ、今の政治家さんにはもっと凄い人がいますからねえ。

「各地への視察・訪問を勧められても消極的で、
そういうふうに容易に応じないことで尊大さを示したつもりでいる」

「アメリカの探索よりも時計、ラシャといった当時の日本人にとって
珍奇なぜいたく品の買い込みに熱中
「警戒したつもりでいて、アメリカ人の詐欺同様の取引に騙される

まあまあ、玉虫さん、そういきり立たなくても。
アメリカ人も似たり寄ったりですから。

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「日本庶民生活史料集成」より

この絵は、安政元年(1854)、アメリカのペリーが函館に就航したとき、
地元住人の小嶋又次郎が描いた「ヘロリ買物ノ図」です。
やっぱり異国のものは珍しくていろいろ買ったそうです。

玉虫左太夫に批判された正・副使ですが、
副使の村垣範正はそんな批判などどこ吹く風。「航海日記」に、

    姿見れば異なる人と思へども
             その真心はかはらざりけり


と紅毛碧眼の異国人をヨイショ。

しかしそうは言いつつも、アメリカの風習にはご立腹で、
「初対面なのに外国使節の我らに茶の一杯も出さない
「歓迎舞踏会へ招待されて行ってみたら、ただ男女数百人が抱き合って
コマネズミのように回っているだけ。なんと無礼な国なんだ」

でも、怒るなかれ。
玉虫左太夫は「ああ、みっともない」と、こんなことも書いていますよ。

「使節団の中以下の者たちは、
ホテルで出された卵やオレンジ、砂糖まで懐に入れていた」

ひと昔前のホテルのバイキングでも、そんな光景がありました。

小嶋又次郎はこんな絵も描いています。描いた男4人のうちの二人。
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「全体、アメリカ洲の者、食事は行儀が悪く見苦しく…」
「この男(左の人物)は4人のうちの毒虫なり。
下士官と聞いたけれど、あまりの礼法知らずの男であった」

と、なかなか手厳しい。
この小嶋又次郎は商人ですが、函館で名主も務めていました。

さて、「西洋見聞集」の解説者によると、
全部で5回行われた遣外使節団で共通していたのは、

ただ上から命令されて渡航した正・副使などの上官と、
身分を武士から小使いに落としてでも見聞を広めたいという
強い信念と高いを持って臨んだ若い下級武士たちとの間には、
大きな開きがあったことだそうです。

なにはともあれこの遣米使節団、目的の条約批准を終えて意気揚々と帰国。
だが日本ではその半年前、大事件が起きていました。
「桜田門外の変」です。

春まだ浅い3月の、小雨まじりの雪の朝、
自分たちをアメリカへ送り出した大老・井伊直弼が、
水戸の脱藩藩士ら18名によって暗殺されていたのです。

水戸「一橋派」の粛清からわずか2年。

福地源一郎は著書「懐往事談」の中に、こう記しています。

「帰朝したら時勢が一変していて、彼らは皆、口を閉ざし
米国で見聞したことを口外しなかった

玉虫左太夫の「航米日録」直筆
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で、遣米使節団の一員としてアメリカへ行き、「航米日録」を書いた
玉虫左太夫はその後どうなったかというと、

属していた仙台藩に会津討伐の朝令が下った時、
左太夫は朝廷に背いて、討伐ではなく、
会津藩に降伏するよう勧める平和的解決への立場をとった。
これが会津討伐派の反感を買い、明治2年、捕えられて切腹。

四十七歳であったという。


<つづく>


※参考文献・画像提供/「西洋見聞集」校註・解説 沼田次郎 松沢弘陽
               岩波書店 1974
              /「日本庶民生活史料集成 第十二巻」 三一書房 1971
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その器(うつわ)にあらず

幕末の遣外使節の話、もう少しお聞きください。

明治維新が苦手、坂本竜馬が嫌い、西郷隆盛はよくわからない、
ざっくりいうと、私の幕末観はそんな感じでした。
だって面白おかしい文化文政期から見ると、なんだか血生臭いし。

でも、いつも逃げていた幕末の歴史を「遣外使節」から見てみると、
「攘夷派」(外国の侵入を排除)であれ「開国派」であれ、
また身分の上下に関係なく、そこには「国の行く末」に真摯に取り組む
真面目な日本人の姿が浮かび上がってきます。

私はそのことを「西洋見聞集」という本から教わりました。

幕府は諸外国へ使節団を5回派遣しています。
慶応2年(1866)に、国境画定問題で、
ロシアに特使を派遣したのを加えれば6回になります。

最初の遣外使節の行先は万延元年(1860)のアメリカです。

広重が想像して描いたとされる「亜墨利加之賑図」部分 文久元年
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「錦絵 幕末明治の歴史2」より

渡米の目的は「日米通商航海条約の批准書交換のため」
アメリカ軍艦ポーハタン号と、
勝海舟が艦長として乗り込んだ咸臨丸の2艘で船出。
総勢77人という大使節団です。

この遣米使節、もとは、
「西洋世界の接近を意図した」老中・安部正弘が企画したものでしたが、
その安部が没してしまったため、あとを堀田正睦が引き継ぎます。
派遣スタッフには岩瀬忠震(ただなり)など優れた人材を網羅。

ところがここに思いがけない政変が勃発。
老中・堀田正睦が退陣させられ、井伊直弼(なおすけ)が大老に就任。
状況が一変してしまいます。

その井伊氏発祥の地、井伊谷(いいのや)の龍潭寺(りょうたんじ)庭園です。
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静岡県浜松市北区引佐町井伊谷

奥に見える建物が井伊家霊屋。井伊直弼の位牌もあります。

龍潭寺にある伝左甚五郎作の「龍」
2本の水平材の間に設けられた「かえるまた」彫刻です
蛙が足を開いた形に見えるところから、こう呼ばれています。

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実物は迫力満点だったけど、
写真に撮ったらタコの足みたいになっちゃった。
でもジッと見ていると、今にも滑るようにヌルヌルと動き出しそうです。

勢いのある龍はあちこちで見かけますが、このような、
凄みの中に生々しい柔らかさを持った龍にはあまりお目にかかりません。

こちらは白土塀の「龍」
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そのころ、次期将軍を誰にするかで、紀州徳川の家茂を押す「南紀派」
水戸の慶喜を押す「一橋派」がもめていたんですね。

大老になった「南紀派」のドン、井伊直弼はここで一橋派の粛清に出ます。
世にいう「安政の大獄」です。

吉田松蔭、橋本左内など死刑や獄死、追放された者は100名にも及びました。
そして、安部正弘、堀田正睦が選んだ「遣米使節」のスタッフたちをも
次々と失脚させて追放、新たな使節団を結成してしまいます。

遣欧使節団の通詞(通訳)として活躍した福地源一郎は、
井伊大老が選んだ新たな正使や副使を、こうこき下ろしています。

「良吏の才にあらず」「素よりその器にあらず」

話は変わりますが、
来年のNHKの大河ドラマは、この井伊谷が舞台だそうで。
主人公は女城主の井伊直虎(次郎法師)とか。

で、龍潭寺も抜かりなく、こんなものを用意してありました。
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そうそう、ウィキの「柴田剛中」の項に、剛中は外国奉行の時、
井伊直弼の屋敷の5軒隣りに住んでいたとありましたが、「江戸切絵図では、
そこは「柴田録之丞」(養父。実は甥)になっていて、
人名事典によると、その頃の当主は養子の七左衛門です。
なので、剛中とは無関係だと私は思うんですが、どうなんでしょう?

   =つけたし=

ウィキの書き手が間違っているのではないか、と私が思う理由。

この柴田七左衛門の実祖父に柴田剛中と同じ「日向守」がいます。
こちらは奈良奉行ですが、この人と混同しているのではないか、と。
七左衛門家の日向守が活躍していた時代には、
日向守・柴田剛中はまだ誕生していないんです。

その辺のところを、
ウィキの書き手の方にご教示いただけたら、ありがたいです。



<つづく>


※画像提供/「錦絵 幕末明治の歴史②」小西四郎 講談社 昭和52年
※参考文献/「西洋見聞集」校註・解説 沼田次郎、松沢弘陽
         岩波書店 1974

父に伝えたい

第二回遣欧使節団が、横浜鎖港交渉のため、
フランスの軍艦で横浜港を出港したのは、文久三年(1863)十二月のこと。

正使は若干26歳の池田長發(ながおき)、副使は河津祐邦(すけくに)42歳、
そして、28歳の河田煕(ひろむ)が目付として乗り込みました。

左から河津祐邦、池田長發、河田煕
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「維新前夜」より

「河津祐邦」と聞くと、私は途端に過剰反応を起こします。
感謝の過剰反応です。

私の父の生家は田舎の小さな神社の神主でした。
民俗学の大家・柳田国男の本を読んでいたとき、
父の家のことが出ているのに気がついた。が、そこにはこんな記述があった。

「ここは虎という歩き巫女が定着した小祠に過ぎないのに、
曽我兄弟の祠として角田浩々歌客の父の角田虎雄が撰文を書いて、
ついに本物の祠にしてしまった。古くたどればずいぶん疑わしい」

「歩き巫女」とは放浪の女宗教者のことです。

確かに、偽物と言われる「赦免状」の存在からも怪しさ充分だし、
貧乏神が住み着いたような神社だから、
たびたび江戸へ出てご開帳をしなければやっていかれなかった。

写真は出開帳の折りの箱書きです。
左は明和2年(1765)、深川八幡神社での出開帳の時のもの。
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柳田国男のこの一文は、父には内緒にしていた。

以前、父は知人から「お宅のことがでている」と言われて、
郷土史家のその本を買った。でもそこに書かれていたのは、
「ここの神主は河津家から借りた宝物を盗んで行方をくらました」
「この神社のことはいつか暴いてやる」という過激なものだった。

「お父さんの家はドロボーをするような家じゃない」と悔しそうに言う父を見て、
その方に根拠を尋ねた手紙を出したけれど、とうとう返事は来なかった。
その後の著作にも「暴いた」記述はどこにもなかった。

その父が亡くなってから30年もたった一昨年、
私は大宮町(静岡県富士宮市)の町役人だった
「角田桜岳日記」を読んでびっくりした。

角田桜岳(佐野与市)は、地球儀を作ったり、
富士の開墾や用水事業に尽力してその名を歴史に残した人です。
その人の日記に、父の家河津祐邦が出てきたのです。

弘化四年(1847)、家督を継ぐ3年前のまだ若殿だったとき、
「祐邦は参拝のため、佐野与市と共に父の家へやってきた」と書かれていた。
その7年後には函館奉行になり、
遣欧使節使としてフランスへ行ったのは、それから16年後のことだった。

「桜岳日記」の中で、祐邦はこう言っていた。

「昔、先祖が浪人していたとき、
この家で一年ほど居候させてもらったと聞いている」と。
それはまさに「神主が盗んで逃げた」と郷土史家が言っていた年だった。

※祐邦は曽我兄弟に討たれた工藤祐経の子孫です。
  曽我兄弟のお父さんの像と力石は、伊豆の河津神社にあります。

かつて父の一族が守っていた神社の土俵
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私は引き寄せられるように、時々ここへ出掛けます。

今は公園になっている父の生家への最初の記憶は、
両親と兄とで訪れた4、5歳のころ。

鮮明に覚えているのは、
石段を上ると、家名を染めた半天姿の老人が中腰で出迎えてくれたこと。
玄関で、着物に軍艦と旭日旗を描いた日本人形を見たこと。
なんとも奇妙な思いにかられたものだった。

出迎えた伯母の「清子さん、ごきげんよう」
どこか冷たい視線と凛とした声。

その伯母のピアノ部屋を通り、
襖一面に漢詩を書きつけた部屋を抜けるとまた一つ、広い座敷があって、
そこにはすでに銘々膳が並んでいた。

出がけに母が呪文のように繰り返した言葉。
箸先は1センチ以上は汚してはいけないよ」
「音を立てない。ご飯は残さない。握り箸、迷い箸はダメ」

入口に端座していた伯母が部屋を出たすきに、
私の食べ残しを兄がサッと食べてくれたので、なんとか助かった。
「躾けがおよろしい」といわれたら、それは皮肉で、
「躾けができていない」意味だからと、母は極度に怯えていた。

伯父は東京市といった時代に私立小学校の校長をしていて、
東京で初めて臨海学校を実施した人だと他の伯母から聞いていた。

その伯父が書いた「弟とは認めない。面倒もみない」という
激しい憎悪の手紙が今も私の手元に残されている。
この弟とは私の父のこと。

身分の低い3番目の妻の子で、祖父の最晩年に生まれた父。
差別されるつらさに子供時代に家出。
村人総出で探したら、山の農機具小屋に隠れていたという。
それでも自分の「家」に対しては、父なりに誇りを持っていた。

今ここで痕跡といえるものはこれぐらいしかない。
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古宮と言われたところに大きな奥津城(墓所)があって、
小学生の頃、父と二人で墓参りにでかけたことがあった。

途中で会った農家のおばあさんがしげしげと私の顔を見てこんなことを言った。
「あんたも昔ならおひいさまなのにねえ。気の毒に。
でも私らにとっちゃ、いい時代になったもんだよ」

江戸時代も明治維新も知らないはずのおばあさんから出た恨み節
父の家の門前に子を捨てざるを得なかった先祖の貧しさが言わせたものか。
黙ってその場を後にした父の背中を今も思い出す。

晩年、故郷へ帰ってきた伯父は、電車に乗って、
「弟とは認めない」といっていた父の家へよくやってきた。
母が作った綿入れ半天を羽織ると四畳半の堀炬燵にどっかり座り、
膝に猫を乗せて終日、ニコニコとそこで過ごしていた。

小さな石を載せた「捨て子の墓」が並んでいたあの墓所も、
大勢いた一族も今は跡形もなく消え失せてしまったけれど、
叶うならば父に伝えたい

「お父さん、疑いは晴れたよ」

「角田桜岳日記」と、
その中で語ってくれていた「河津祐邦」の言葉は、
この先、消えることはない、と。

「河津祐邦」に私が過剰反応するのは、こんな理由からなのです。
そしてもう一つ
はるか昔、私の結婚式に父は花嫁の父として謝辞を用意してきたのに、
その機会を用意しなかった。その懺悔の気持ちもあって…。
「お父さんは毎晩、練習していたのに」と後から聞かされて後悔したけれど、
私は謝罪も感謝も言い出せないままの親不孝な娘で居続けた。

片田舎のしがない一族のお話は、これでおしまい

そうそう、角田桜岳は江戸へ出たときは、
小型の「江戸切絵図」を携帯して歩いたそうです。


<つづく>


※参考文献/「駿州富士郡大宮町 角田桜岳日記(一)~(五)」
         富士宮市教育委員会 2004~2009
※画像提供/「維新前夜」鈴木明 小学館 1988

大物登場

ブログに寄せられたコメントから浮かび上がってきた人物。

大物です。

ゆえに「勝ちゃんが尻出して…」などと気楽に語れません。
なんだか緊張して、なかなか筆が進みませんが、
とにかくやってみるか、というわけで突き進みます。

「力持ちの柴田勝次郎とその一派につながるかもしれない人物」、
それは、

「柴田日向守剛中(たけなか)

通称 貞太郎、字 伯直、号 恬斎(てんさい)
文政六年(1823)、江戸小石川生まれ。
家は三河以来の直参。

「江戸切絵図」にでている「柴田貞太郎(剛中)」の住所地
img126.jpg

剛中が生まれた文政六年は、
柴田勝次郎が盛んに活動していた時期にあたります。

勝次郎が力持ち界の東の大関、土橋久太郎一座に加わり、
大坂・難波新地へ興行に出掛けたのが文政八年ですから、
このとき、柴田剛中はまだ二歳です。

その剛中の名を歴史に留めることになったのが、
慶応元年(1865)の「仏英行」

実は柴田はこの3年前の文久二年(1862)にも、
遣欧使節団の一員としてヨーロッパへ出かけています。
この使節団の目的は「開市延期交渉」

つまり市場開放を延期してもらえないかと、
はるばる「碧眼紅毛」の国々へ出かけて行ったわけです。

このとき、組頭として随行した柴田は、
老中・安藤対馬守と英公使オールコックとの折衝に列席します。

英語が話せたみたいですね。

この折り、オランダで撮影された写真です。
中剛
右端が柴田、その隣から順に福沢諭吉太田源太郎福田作太郎

翌文久3年(1863)、幕府は再び、遣欧使節をヨーロッパへ派遣します。
一度開港した横浜港の閉鎖を談判するためです。

このときの使節団で有名になった写真がこちら。
河津祐邦 (2)
エジプト・スフィンクスにて

一行34人。
日本刀を差したちょんまげ姿の侍が来たのですから、
スフィンクスもびっくり、でしょうね。

赤い矢印のところには侍が滑り落ちた瞬間が写っています。

柴田剛中はこのときの使節団には加わってはいませんが、
遣欧使節の話、もう少し続けます。



<つづく>

意外な展開

隅田川河畔、元柳橋たもとの柳の木。
その根元にどっかり座っていた「大王石」
それは図書館で偶然手にしたフランス士官の写真集の中にあった。

その後、この石を持った人物が、鬼柴田とも鬼幸とも呼ばれた
柴田幸次郎なる人物であることを、
和竿師・中根忠吉の一代記「竿忠の寝言」で知りました。

しかし、幸次郎の消息はそこでぷっつり途絶えます。

元柳橋に近い神田に、同じ柴田姓の力持ちがいることを知り、
今度はその柴田勝次郎なる人物とその一門を追いかけたものの、
またまた行き詰った。

あられもない姿、今再び。柴田勝次郎です。
勝次郎15065487-s (3)

「大王石」と「幸次郎」探しを始めてから1年後の昨年5月
藁にもすがりたい思いで、ブログをお読みいただいている方々に、
「どなたか知りませんかあー!」と呼びかけたところ、

こんなコメントが…。

「この柴田勝次郎やその一派ですが、神戸文書館に所蔵されている
柴田剛中文書の中に出てくる「神田の親戚」にあたるのではないでしょうか?
ちなみに柴田剛中は外国奉行で、
そのフランス士官を日本に招いた人物です」

うわあ! 
思いがけない展開です。

あの「大王石」の写真を撮ったフランス士官、ルイ・クレットマンが、
この柴田剛中(たけなか)という人物につながったのですから、
もう胸が高鳴りました。

img188 (13)
ルイ・クレットマンが明治初年に撮影した「隅田川にかかる橋」

コメントを下さった方は、
「神戸文書館」「柴田剛中」「外国奉行」という貴重なヒントを下さいましたが、
しかしそれを残したまま、
こちらの消息もぷっつり

とにもかくにも、その日から、
新たなる「柴田」を追いかけるべく資料を漁りまくる日々が始まりました。

しかし、この柴田剛中勝次郎をつなぐ糸がなかなか見つかりません。
自棄(やけ)になってエイッと投げ出したのが昨年の夏のこと。

それから1年たった今年の夏、
野望の残り火が燃えあがり、再び、探索の日々に(ちょっと、オーバーか)。
思えば、写真集の中に未確認の「大王石」を見つけてから早や、3年目

改めて向き合った外国奉行「柴田剛中」

この方、知れば知るほど魅力的な人物ございます。



<つづく>


   =私のひとりごと= 

 世間では「ポケモンGO」というゲームが流行っているそうですね。
 私はゲーム音痴のボケモンですから、昔ながらの人探しをしていますが、
 でも、ゲームのポケモンさんが力石のあるお堂なんかに現れて、
 力石をヒョイヒョイ担いでくれたなら、
 たくさんの若者たちに力石を知っていただくいい機会になるのになあ。


※画像提供/「フランス士官が見た近世日本のあけぼの」
        ルイ・クレットマン アイアールディー企画 2005

なさけねぇ~

文政八年(1825)三月、
柴田勝次郎は、力持ち界の東の大関、土橋久太郎一座に加わり、
他国へ力持ち興行に出掛けます。

この文化文政期というのは、江戸時代の爛熟期といわれ、
特に庶民文化の華が開いた時代で、力持ちたちの活動も隆盛を極めます。

葛飾北斎が「富嶽三十六景」を完成させたのもこのころですが、
一方で、イギリス、アメリカ、ロシアなどの異国船が、
日本近海にウロチョロ出没し始めた時期でもありました。

土橋久太郎(左)です。酒樽3個に米俵の足差し。右は木村与五郎
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歌川国安画      トレース/高島教授

関西の力持ちは、プロとして江戸へ興行にやってきましたが、
江戸では素人力持ちが全盛で、寺社などで奉納力持ちを行っていました。
彼らは別に職業を持っていたため、木戸銭を取りません。
それがまた江戸っ子の人気を博した。

土橋久太郎も芝の魚店の従業員。
しかし、ちょいと色気が出て旅興行へ出かけることになります。

一行七人が向かった先は大坂・難波新地

その興行目録を見ると、久太郎一座の「江戸力持」のほかに、
「大坂力持」「大坂北蔵中 安治川連中」「大坂女力持」「子ども力持」、
それに「猿力持」とあります。
猿も両手で米俵を持ったんでしょうかねえ。気の毒に。

この力持ち興行では、
久太郎一座の「江戸力持」だけが大当たりします。
この時の絵が残っています。

こちらがリーダーの久太郎です。
15065487-s (2)

勝次郎はというと、こちらです。
勝次郎15065487-s (2)

埼玉の研究者、斎藤氏が嘆いていました。

なさけねぇ~。我らが勝ちゃんが出して臼を足差ししている。
よりにもよって、こんな図柄にしなくてもよかったのに」

スター、木村与五郎はこんな感じ。
15065487-s (3)

なにしろこの与五さん、歌舞伎役者も顔負けの男ぶり。
美男で力持ちとくれば、そりゃあ、もう…。

よし国の大判錦絵にも描かれています。

与五郎木村
甲南女子大学図書館蔵  ブログ「見世物興行年表」(蹉跎庵主人)

でも美男薄命です。木村与五郎、行年24歳

さて、土橋久太郎はこの大当たりに気をよくして、翌年再び大阪へ。

「昨年、御ひいきにしてくださった御方からもう一度と乞われ、
不調法なる私ども、辞退したのですが、ぜひぜひ興行致せ」

と言われたとかで、久太郎、昨年と同じ三月、意気揚々と大坂入り。

「口上高うはござりますれど御免蒙り、是より口上をもって申し上げまする」
とご披露に及んだものの、今度は「格別に不入り」

不入りになったのは、「勝ちゃんが尻出して…」というわけではありません。
このときのメンバーは全員新顔で、名の知られていない二流どころばかり。
浪花人を見くびっちゃいけねえよ」というわけで、早々に退散。

それから四か月後の七月、
江戸力持ちのメンツにかけて、尾州(名古屋)大須で巻き返しをはかります。

「大石百五十貫目米三俵乗せた足差し。
米十五俵を腹に乗せ、その上で俵の曲差し」などなど強力を発揮。

がんばった甲斐あって拍手喝采のロングラン。
江戸力持ちの名誉を挽回して、
意気揚々と江戸へ帰ったのでありました。


<つづく>

力石研究の歩み

前回はとんだ泣き言を…。.

医者の暴言以来、眠れなくなり、昼夜逆転が続いていました。
ブログに集中することでいやなことは忘れようとしてきましたが、
ちょっとした隙に、ふと、よみがえり
なんでかなあ、悔しいなあという思いがつのり、吐露してしまいました。
でもおかげさまで、みなさまに励まされて一歩前進です。

気を取り直して、「柴田幸次郎」へ戻ります。

前々回まで、
神田に住み、文政年間に活躍した「柴田一門」をご紹介してまいりました。
一門のリーダー、柴田勝次郎は都内と群馬県に力石を残していますが、
遠く、大阪・難波新地へも足跡を残しております。

これがそのときの「引札(広告チラシ)です。(文政八年三月)
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三重県総合博物館所蔵

昨年、四日市大学の高島愼助教授は力石の資料のすべてを、
三重県総合博物館に寄贈しました。

これらの資料は長年に渡り、多くの方々の協力で集められたものです。
ここでちょっと、「力石研究の歩み」を…。

力石の大学での研究は、昭和27年の第3回日本体育学会における
太田義一(東京教育大学)の発表に始まり、その後、

伊東明・浮田剛・今井辰巳(上智大学)、岸井守一・今西正敏(神戸商船大学)
神吉賢一(神戸大学)、表孟宏(松蔭女子学院大学)

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伊東明上智大学教授

木村昭光・山科忠彦・上田文夫・田村暢煕(金沢医科大学)
松沢平一(信州大学)、秋庭盛夫・小沢誠・小林克明・田島侃光・中間和男・
依田熊三郎(大東文化大学)、油野利博(鳥取大学)、清原泰治(高知学園短大)

岡田守方(高知大学)、栗山史郎(長崎女子短大)
そして、高島愼助(四日市大学)へとつながってきました。

民間人の研究者としては、
平原直(物流という言葉の生みの親)、鷹野虎四(東京)、木村博(静岡)、
濱岡きみ子(淡路)、高崎力・酒井正・斎藤保夫(埼玉)や、
ここに上げきれないほどたくさんの郷土史家が関わってきました。

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平原直氏。没後、資料と力石は流通経済大学へ収蔵

また、北海道から沖縄、離島に至るまでの各教育委員会、自治会・町内会、
老人会などが長年にわたり、この調査に協力してきました。

下の写真は、
濱岡きみ子著「淡路の力石」(1982)、高崎力氏と三ノ宮卯之助の「大盤石」です。

こうして見ると、卯之助が差した石、信じられないくらい大きいですね。
正真正銘610㎏もあるんです。

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力石に関わったみんなの願いはただ一つ、
「力石という庶民文化を風化させてはならない」

その思いがずっしり詰まった資料が、三重県総合博物館に収蔵されたのです。
高島先生、
この大任を果たしたことで力が抜けたのか、体調を崩してしばし静養。

しょうがない人ですねえ。極真空手三段・師範だったってのに。

そんな凄い方と並べるのはなんですが、
右は私の長男、幼稚園児のころの雄姿?です。身体が弱くて1年ほどで退会。
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まあ、卯之助の「大盤石」餅を食べて、芋焼酎「力石」でも飲んで、
                    これからも元気にがんばってくださいよ~!
img123.jpg img792 (2) 

なあんて

昨日まで泣き言いっていた私がいうことじゃないんですけどね。
  


<つづく>

※参考文献・画像提供/「力石ちからいし」高島愼助 岩田書院 2011

二次被害・医者を許せない

4月下旬、私、事故に遭いまして…。
ウオーキング中、うしろから中学生の自転車に激突されたんです。
私、右側通行。目撃者あり。

事故はともかく、
受診した医者の言動がすごくて、それがいつまでもモヤモヤと。

背中の痛みで眠られず、事故の翌朝、医者へ。初めて行く整形外科。
受付で保険証と問診票を渡すと「交通事故では保険証は使えません」と。
慌てて中学校へ電話。電話に出た教頭先生が「すぐ生徒を探します」。
で、「自転車保険が使えますから」とのことで、それならと受診を許された。

ところが、呼ばれて診察室へ入った途端、医者から、
「あんたは中学生を警察へ突き出すつもりか!
善良な中学生を犯罪者にするつもりか!」と罵声が飛んできた。

意味が解らずオロオロする私に、さらに怒鳴った。
「深呼吸して痛いか! 痛くないだろう!」

しかしレントゲンを撮ったら肋骨が折れていた。素人目にもくっきり。
今度は怒鳴らなかったものの、こんなことを言いだした。
「こんなものは何もしなくても治る。治療は今日一日でおしまいだから
自分の保険証で払え。安いもんだ。自分ならそうする」
言われるままに国民健康保険証で払った。

確かに、孫ほどの少年の人生に汚点を残すのは忍びない。
だから自費も仕方がないと思った。
だが、受診一日目で医者から突き放されたら、あとどうしたらよいのか。

背中の痛みに加えて頭痛、耳鳴り、胸のムカつき、めまい、
おまけに首がこわばってうまく動かない。
安静が一番だと思い、防災用保存食で食いつないで10日目、
「来るな」と言われたけど、不安がつのるので件の医者の元へ。

診察室の椅子へ座らないうちに、
「何! めまい? めまいはここじゃない。耳鼻科へ行け。はい、次」
湿布も出ないのでお願いするとやっと二袋。これでは二日しかもたない。
「もう少しいただけませんか」とお願いすると、
保険で出せるのは二袋までと決まっているという。
仕方なく、薬局で市販の湿布を買った。

事故から3週間目。少し体が落ち着いてきたころ、
なんかおかしいよなあと思い始めて事故相談所と弁護士へ相談に行った。
二人とも言うことが同じだった。

「情けは人のためならずっていうでしょ。
第一、情けをかけるべきは加害者であってあなたじゃないよ。あべこべだよ。
そんなことしていちゃダメだ。
きちんと警察に届けないと後遺症がでたとき大変だよ。

それに、保険証を使った治療は市へ届けなければならない義務があるし、
それをするには、医者の診断書が必要だよ。

自分の保険証使えって、そんな医者、初めて聞いたよ。
加害者とは顔見知りかなあ」

児童生徒相手の仕事をしている知人にも聞いてみた。
「少年だからといって遠慮してはいけないよ。
そうして周りの大人たちが逃げ道を作ってやるから子供がダメになるんだ。
自分が犯した罪は必ず自分で償うこと。
きちんと警察へ届けてください」

真面目そうな少年だったし。
謝罪に来てくれた時、「命にかかわるようなケガではなかったし、
大丈夫だから、お互いいやなことは早く忘れようね」と声をかけたら、
ポロポロ涙を流したほどだったから、正直、警察沙汰にするのはいやだった。

でも相談した3人に背中を押されて思い直し、
あのドクハラ医者の元へ診断書をもらいに行った。ボイスレコーダーを買って。
案の定、またいやみたっぷりに、
「警察ですかあー! 善良な中学生を突き出すんですかあー!」
と、抑揚のない声でカラスみたいに「かあーかあー」わめいた。

診断書はすぐ書いた。「全治2か月!」。大声で読み上げながら書いた。
「どこへ出してもいいのを書いたから、警察へ行くのはよく考えることだな」
まあ、いいさ。書いてもらえばこっちのもんだ。

警察へ行ってまた驚いた。
事故直後加害少年の親が言っていた
「届はこちらで出しますからあなたはしなくていいです」はウソだった。
そういえば、私は先方の親の名前も住所も電話番号も知らされていない。
あとからわかったことだが、私に伝えてきた少年の名前も違っていた。

事実を知った警察官が驚いて保険会社へ電話。
保険会社でも驚いて「加害者には今晩中に電話をさせる」といったが、
とうとう来なかった。

翌週の現場検証に親子が遅れて到着。少年は大きなマスク姿。
私はつい少年に「こんなことになってごめんね」なんて言っちゃって。
バカだね、私って。
でも付添いの母親は最後までそっぽ。警察官が話しかけても無視。

転院先の医者は気さくな人で、丁寧に診てくれた。
鈍痛はあるものの無理をしなければ日常生活は大丈夫になったので、
2か月足らずで治療を打ち切り、示談もサッサと済ませた。
石の調査や力石の資料を収蔵した三重県総合博物館にも行きたかったし。

でもその直後から足首が痛み出して、歩き回ることができなくなった。
アキレス腱の周りの筋が炎症を起こしていた。
聴力も落ちたが、もとから難聴があったから、
これも事故との因果関係は証明できない。それはそれで納得済み。

で、納得がいかないのは、医者の態度です。
立派な経歴。リハビリの老人たちで混み合う院内。
でもなぜ、私はこんな目に遭わされたのか。
事故の傷より医者から受けた傷の方がダメージが大きすぎた。

今日は治ったはずの背中がズーンズーンと鈍く痛む。
痛むとまた事故を思い出す。
少年にも少年の親にも恨みはない。ちょっとずるいことしてもね。親だもの。
でもあの医者はね、許せないんです。
私を交通事故をエサにする悪徳被害者とでも思ったのなら、もっと許せない。

あの医者のHPに書いてあった。
「患者さまの心に寄り添って」「どんな些細な相談にものります」
あれはウソだったね。

今度の事故でいろいろ学んだ。

被害に遭ったら規則通りにやること。
加害者には決して情をかけてはならないこと。
医者はよくよく選ぶこと。

この医者については必ずしも悪くいう人ばかりではない。
むしろ「あの先生がそんなことを」と驚く人もいたから、
私への非常識なあの対応は特別だったのでしょう。

なにしろ「中学生」という言葉に、過剰反応していましたから、
そのあたりに真相がありそうだとは思っています。
加害者が「中学生」でなかったら、
案外、親切にしていただけたのではないか、と。

いいこともありました。、警察官の言葉です。
警察官は現場検証で少年にこう言ったんです。

「骨折は重傷事故なんだよ。車も自転車も罪は同じなんだよ。
君もあと4、5年もすれば運転免許を取るだろ?
そのとき、今度のことを教訓にして欲しいんだ」

いい言葉でした。私はこの言葉にすごく救われました。

もう一人の柴田

柴田勝次郎率いる「柴田連中」とは別に、柴田姓を名乗る力持ちがいました。

「柴田四郎右衛門」です。

四郎右衛門の名の入った石は1個しか確認されておらず、
また、柴田連中の力石に四郎右衛門の名は見い出せませんが、
住まいは同じ神田、活動時期も同じ文政期であることから、
柴田連中とは何らかの関係があった可能性も捨てきれません。

石の刻字の筆跡も、両者とも似ているんですね。

なので、ここでは四郎右衛門の持った石も「柴田連中」
5個目の力石としてカウントしました。

四郎右衛門の力石です。(千代田区指定有形民俗文化財)
CIMG0812 (3)
110余×73×32㎝    東京都千代田区外神田・神田神社

「奉納 大磐石 神田仲町二丁目 
 柴田四郎右衛門持之 文政五年壬午三月吉日」


この神田神社(神田明神)の祭りの様子が、
斎藤月岑「東都歳時記 2」九月に載っています。

「産子の町数六十町 番敷三十六番 各山車ねり物に善美をつくし、
壮麗鄙人の目を驚かしむ」

神田明神の祭礼は山王(千代田区・山王日枝神社)の祭りと共に、
御用祭り、天下祭り といわれ、大江戸の二大祭礼だったそうです。

御用祭りとは、徳川将軍のご上覧がある祭りのことです。
将軍様が見るとなれば、いやが上にも盛り上がります。
年番に当った町内の者は、

「力の限り、魂の限り見栄を張り
祭りのためなら妻子を売りとばしてでも衣装に贅をこらした」

ご上覧ゆえ、山車は牛車に牽かせたそうです。

img119 (2) img120 (2)

右の山車は「岩に松竹梅」でしょうか。こんなのもあったんですね。
ほかに「弁慶」「龍神」「乙姫」など36もの豪華な山車が道を連ねたそうですから、
その華やかさや人々の熱気が目に浮かぶようです。

現在の神田明神の祭りの写真を埼玉の斎藤氏が送ってくれました。
「妻子を売りとばしてでも」はもうないでしょうが、
今も変わらぬ「人、人、人」

DSCF7477.jpg

先日、知人から電話をいただきました。
なんだか興奮しています。

力石、見ました! 神田で。神田神社にありました。
 あんな大きな石だとは思わなかった。
 あんなのを担いだなんて信じられない!

今まで、全く興味を示さなかった方ですが、

まあ、「百聞は一見にしかず」ってことですね。


<つづく>

※参考文献・画像提供/「東都歳時記」斉藤月岑 天保9年 
         復刻 朝倉治彦・校注 平凡社 1970

力持ちの千社札

以前、力持ちの「千社札」をご紹介しました。

は東京の力持ち神田川徳蔵大阪の力持ちの千社札です。
「もう何度も見たよ~」なんて言わずに、まあ、もう一度見てやってください。

   img293 (3)    img290 (3)

神田川徳蔵(本名・飯田)は、明治から昭和初期まで活躍した力持ちで、
世田谷区・幸龍寺の「本町東助碑」にその名を残しています。

徳蔵の甥・飯田一郎は日本で初めてバーベルを作った人で、
徳蔵とその一派は力石をこのバーベルに持ち替えてトレーニングを始めます。
そして、昭和7年、
徳蔵は「全朝鮮力道大会」のプレスで195ポンドを挙げて優勝します。

また徳蔵の子息は明治大学ウエイトリフティング部の創立者の一人で、
オリンピックで活躍した重量挙げの三宅選手は親戚筋にあたります。

まさに、
日本のウエイトリフティングの原点「力石」にあったのです。

とまあ、ちょっと力石の「自慢話」を披露したところで、
次に大坂の千社札を見ていただきます。これにはこう書かれています。

「明治維新永代濱力競」 「うつぼ 荒いせ」

これは大坂・靭にあった海産物の問屋街「永代浜」での力くらべの千社札で、
河岸で働く力自慢の仲士を描いたものと思われます。

で、実は、こんな札もあるのです。

   img297 (2)    img297 (3)

どうでしょう、これ。
左は「鬼遊」
「鬼」と「熊」の違いがあるけど、
あの浅草寺の鬼熊の碑、「熊遊」に共通しているような…。
右は「神田 柴田」と書かれています。

これは「鬼熊」「柴田一門」の千社札だ!
と叫びたくなりますが、確証は全くありません。
師匠の高島教授なら、あっさりひと言、
「証拠がなければ認められません」で終わりです。

鬼遊熊遊と同じにしてしまうなんて、
こじつけもいいところだってのは解ってます。
第一、力持ち界には「鬼」がいっぱいいますし…。

ですが私は、無理を承知で、

「そうだ」と思いたい!


  「うつぼ 荒いせ」の千社札について

この「荒いせ」が問屋の名前なのか何なのかを、
大阪(なにわ)歴史博物館さまに調べていただいております。

でも、ちょっと月日が立ったような…。
まだかな、まだかな。



<つづく>


※画像提供/「千社札 二代目銭屋又兵衛コレクション」青幻舎 2004
        /「千社札 弓岡勝美コレクション」ピエ・ブックス 2006
※参考資料/HP「明治大学体育会ウエイトリフティング部」 

プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。今、「力石からバーベルへの道」を書いています。

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