無礼な国
柴田幸次郎を追う
通詞(通訳)、福地源一郎から、
「良吏としての才もなく、その器でもない」とこき下ろされたのは、
遣米使節団の正使・新見正興と副使・村垣範正。
同行した儒者の玉虫左太夫も航海日記「航米日録」でこう記す。
「官費旅行の船中で、終日、ただ飲食を務め…」
まあ、今の政治家さんにはもっと凄い人がいますからねえ。
「各地への視察・訪問を勧められても消極的で、
そういうふうに容易に応じないことで尊大さを示したつもりでいる」
「アメリカの探索よりも時計、ラシャといった当時の日本人にとって
珍奇なぜいたく品の買い込みに熱中」
「警戒したつもりでいて、アメリカ人の詐欺同様の取引に騙される」
まあまあ、玉虫さん、そういきり立たなくても。
アメリカ人も似たり寄ったりですから。

「日本庶民生活史料集成」より
この絵は、安政元年(1854)、アメリカのペリーが函館に就航したとき、
地元住人の小嶋又次郎が描いた「ヘロリ買物ノ図」です。
やっぱり異国のものは珍しくていろいろ買ったそうです。
玉虫左太夫に批判された正・副使ですが、
副使の村垣範正はそんな批判などどこ吹く風。「航海日記」に、
姿見れば異なる人と思へども
その真心はかはらざりけり
と紅毛碧眼の異国人をヨイショ。
しかしそうは言いつつも、アメリカの風習にはご立腹で、
「初対面なのに外国使節の我らに茶の一杯も出さない」
「歓迎舞踏会へ招待されて行ってみたら、ただ男女数百人が抱き合って
コマネズミのように回っているだけ。なんと無礼な国なんだ」
でも、怒るなかれ。
玉虫左太夫は「ああ、みっともない」と、こんなことも書いていますよ。
「使節団の中以下の者たちは、
ホテルで出された卵やオレンジ、砂糖まで懐に入れていた」
ひと昔前のホテルのバイキングでも、そんな光景がありました。
小嶋又次郎はこんな絵も描いています。描いた男4人のうちの二人。

「全体、アメリカ洲の者、食事は行儀が悪く見苦しく…」
「この男(左の人物)は4人のうちの毒虫なり。
下士官と聞いたけれど、あまりの礼法知らずの男であった」
と、なかなか手厳しい。
この小嶋又次郎は商人ですが、函館で名主も務めていました。
さて、「西洋見聞集」の解説者によると、
全部で5回行われた遣外使節団で共通していたのは、
ただ上から命令されて渡航した正・副使などの上官と、
身分を武士から小使いに落としてでも見聞を広めたいという
強い信念と高い志を持って臨んだ若い下級武士たちとの間には、
大きな開きがあったことだそうです。
なにはともあれこの遣米使節団、目的の条約批准を終えて意気揚々と帰国。
だが日本ではその半年前、大事件が起きていました。
「桜田門外の変」です。
春まだ浅い3月の、小雨まじりの雪の朝、
自分たちをアメリカへ送り出した大老・井伊直弼が、
水戸の脱藩藩士ら18名によって暗殺されていたのです。
水戸「一橋派」の粛清からわずか2年。
福地源一郎は著書「懐往事談」の中に、こう記しています。
「帰朝したら時勢が一変していて、彼らは皆、口を閉ざし、
米国で見聞したことを口外しなかった」
玉虫左太夫の「航米日録」直筆

で、遣米使節団の一員としてアメリカへ行き、「航米日録」を書いた
玉虫左太夫はその後どうなったかというと、
属していた仙台藩に会津討伐の朝令が下った時、
左太夫は朝廷に背いて、討伐ではなく、
会津藩に降伏するよう勧める平和的解決への立場をとった。
これが会津討伐派の反感を買い、明治2年、捕えられて切腹。
四十七歳であったという。
<つづく>
※参考文献・画像提供/「西洋見聞集」校註・解説 沼田次郎 松沢弘陽
岩波書店 1974
/「日本庶民生活史料集成 第十二巻」 三一書房 1971
「良吏としての才もなく、その器でもない」とこき下ろされたのは、
遣米使節団の正使・新見正興と副使・村垣範正。
同行した儒者の玉虫左太夫も航海日記「航米日録」でこう記す。
「官費旅行の船中で、終日、ただ飲食を務め…」
まあ、今の政治家さんにはもっと凄い人がいますからねえ。
「各地への視察・訪問を勧められても消極的で、
そういうふうに容易に応じないことで尊大さを示したつもりでいる」
「アメリカの探索よりも時計、ラシャといった当時の日本人にとって
珍奇なぜいたく品の買い込みに熱中」
「警戒したつもりでいて、アメリカ人の詐欺同様の取引に騙される」
まあまあ、玉虫さん、そういきり立たなくても。
アメリカ人も似たり寄ったりですから。

「日本庶民生活史料集成」より
この絵は、安政元年(1854)、アメリカのペリーが函館に就航したとき、
地元住人の小嶋又次郎が描いた「ヘロリ買物ノ図」です。
やっぱり異国のものは珍しくていろいろ買ったそうです。
玉虫左太夫に批判された正・副使ですが、
副使の村垣範正はそんな批判などどこ吹く風。「航海日記」に、
姿見れば異なる人と思へども
その真心はかはらざりけり
と紅毛碧眼の異国人をヨイショ。
しかしそうは言いつつも、アメリカの風習にはご立腹で、
「初対面なのに外国使節の我らに茶の一杯も出さない」
「歓迎舞踏会へ招待されて行ってみたら、ただ男女数百人が抱き合って
コマネズミのように回っているだけ。なんと無礼な国なんだ」
でも、怒るなかれ。
玉虫左太夫は「ああ、みっともない」と、こんなことも書いていますよ。
「使節団の中以下の者たちは、
ホテルで出された卵やオレンジ、砂糖まで懐に入れていた」
ひと昔前のホテルのバイキングでも、そんな光景がありました。
小嶋又次郎はこんな絵も描いています。描いた男4人のうちの二人。

「全体、アメリカ洲の者、食事は行儀が悪く見苦しく…」
「この男(左の人物)は4人のうちの毒虫なり。
下士官と聞いたけれど、あまりの礼法知らずの男であった」
と、なかなか手厳しい。
この小嶋又次郎は商人ですが、函館で名主も務めていました。
さて、「西洋見聞集」の解説者によると、
全部で5回行われた遣外使節団で共通していたのは、
ただ上から命令されて渡航した正・副使などの上官と、
身分を武士から小使いに落としてでも見聞を広めたいという
強い信念と高い志を持って臨んだ若い下級武士たちとの間には、
大きな開きがあったことだそうです。
なにはともあれこの遣米使節団、目的の条約批准を終えて意気揚々と帰国。
だが日本ではその半年前、大事件が起きていました。
「桜田門外の変」です。
春まだ浅い3月の、小雨まじりの雪の朝、
自分たちをアメリカへ送り出した大老・井伊直弼が、
水戸の脱藩藩士ら18名によって暗殺されていたのです。
水戸「一橋派」の粛清からわずか2年。
福地源一郎は著書「懐往事談」の中に、こう記しています。
「帰朝したら時勢が一変していて、彼らは皆、口を閉ざし、
米国で見聞したことを口外しなかった」
玉虫左太夫の「航米日録」直筆

で、遣米使節団の一員としてアメリカへ行き、「航米日録」を書いた
玉虫左太夫はその後どうなったかというと、
属していた仙台藩に会津討伐の朝令が下った時、
左太夫は朝廷に背いて、討伐ではなく、
会津藩に降伏するよう勧める平和的解決への立場をとった。
これが会津討伐派の反感を買い、明治2年、捕えられて切腹。
四十七歳であったという。
<つづく>
※参考文献・画像提供/「西洋見聞集」校註・解説 沼田次郎 松沢弘陽
岩波書店 1974
/「日本庶民生活史料集成 第十二巻」 三一書房 1971
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